第36話 絵の中の声
港を出た私たちは、来た道を引き返してガレオさんの倉庫へ向かった。
行きと違って台車を押す必要はなかったけれど、二往復の荷物運びで疲れ切った身体には、倉庫までの道がずいぶん長く感じられる。赤は「足が重いでぷ……宿に帰ったらいっぱい食べるでぷ」と、とぼとぼ歩きながら呟いていた。
「赤は疲れててもそれなんだね」
「疲れたから食べるでぷ」
妙に説得力があった。
黄色は五銀Bの入った袋を何度も確認し、緑は歩きながら本へ今日の出来事を書き込んでいる。オラクルだけはいつもと変わらず煙草を吸っていたけれど、その歩く速度は普段より少し遅かった。
私も足が痛かった。
それでも倉庫へ近づくにつれて、疲れより気になることのほうが大きくなっていく。
――助けて。
あの声の主は、まだあそこにいるのだろうか。
◇
倉庫へ戻ったころには、辺りは夕方の色に染まり始めていた。
古びた建物は昼間よりさらに不気味に見えたけれど、もう最初に来たときほど怖くはない。扉を開けるとガレオさんが中にいて、私たちを見るなり「おお、戻ったか。間に合ったか?」と声を掛けてきた。
「ぎりぎりでした。荷物は全部渡して、鍵も船長さんに渡しました」
「ちゃんと五銀Bもあったでぷ!」
黄色が大切そうに報酬の袋を掲げると、ガレオさんは苦笑した。
「そこは私を信用してくれ。それより、今度は何をしに戻ってきたんだ?」
聞かれるまでもなかった。
私たちの視線は、自然と倉庫の左奥へ向いていた。
「……あの絵を、もう一度調べたいんです」
ガレオさんも理由は分かっていたらしく、止めようとはしなかった。
私たちは左奥へ進み、布を外したままになっている大きな絵の前へ集まった。薄暗い倉庫の中には、山と森と川を描いた風景が昼間と変わらない姿で残っている。その中では、たくさんの生き物が苦しそうに口を開け、絵の外へ向かって手を伸ばしていた。
「……やっぱり変だよ」
私が呟くと、赤も隣から絵を覗き込んだ。
「まだ見られてる感じがするでぷ」
ガレオさんも私たちの後ろから絵を眺めていたけれど、何度考えても入手した記憶はないらしい。
「本当に何も覚えてないんですか?」
「悪いがな。買い取った品をまとめて運ばせることもあるし、倉庫に入る物すべてを私自身が確認しているわけじゃない。いつここへ来たのかも分からん」
それなら、ガレオさんからこれ以上の情報を得るのは難しそうだった。
オラクルは額縁の裏側をもう一度確認し、緑も本を開いたものの、昼間と同じように仕掛けらしいものは見つからない。
どうすればいいのか考えているうちに、一つだけ試していないことに気づいた。
「……聞いてみたらどうかな」
「誰に?」
オラクルが尋ねる。
「絵に」
「絵と会話する気か?」
「だって、向こうから喋ったんだよ?」
そう言うと、オラクルも否定できなかったらしく、「それは……まあ、そうだな」と煙草を口から外した。
私は絵へ一歩近づいた。
「聞こえますか? 私たち、さっき『助けて』って声を聞きました。誰かいるなら、返事してください」
全員が黙って待った。
すぐには何も起こらず、倉庫の中には古い建物が軋む音だけが小さく響いている。
やっぱり駄目なのかと思いかけた、そのときだった。
『――……いる……』
私は息を呑んだ。
赤たちも同時に反応し、ガレオさんまで目を見開いている。昼間は声を聞いていなかった彼にも、今度ははっきり届いたらしい。
「本当に……声がしたな」
私はすぐに絵へ向き直った。
「どこにいるの?」
少し間を置いて、途切れ途切れの声が返ってくる。
『……ここ……なか……』
「ここって……絵の中?」
『……そう……』
赤が私の腕を掴んだ。
怖がってはいるものの、今度は逃げようとはしなかった。
緑が絵に描かれた無数の生き物を見ながら尋ねる。
「何人いるでぷ?」
返事が届くまでには少し時間が掛かった。
『……たくさん……』
その言葉を聞いた瞬間、私は絵の見え方が変わったような気がした。
山にも森にも川辺にもいる、苦しそうな生き物たち。ただ描かれているのではなく、本当にこの中にいるのだとしたら。
「この絵に描かれてるみんなが……?」
『……閉じ込め……られた……』
倉庫の空気が一気に重くなった。
私は絵へ少し近づき、できるだけ落ち着いた声で尋ねる。
「誰に閉じ込められたの?」
長い沈黙が続いた。
声が消えてしまったのかと思ったころ、ようやく弱々しい返事が届いた。
『……時計……の……服……』
「時計の服?」
聞き返しても、それ以上の説明はなかった。
そこで今度は、どこで起きたことなのかを尋ねてみる。
しばらく待って返ってきたのは、『……雪……山……』という短い言葉だった。
雪山と聞いて、私たちはほとんど同時に顔を見合わせた。
私たち自身が歩いた場所で、真っ先に思い浮かぶのは一つしかない。
「もしかして……グラティス?」
今度の返事は、さらに小さかった。
『……グラ……ティス……』
間違いなかった。
グラティスの山の途中で、時計を思わせる服を着た何者かによって、この生き物たちは絵の中へ閉じ込められた。
「時計の服……TIMEでぷ?」
緑が小声で呟いた。
私も同じことを考えていた。
でも、オラクルはすぐに首を横へ振った。
「まだ決めつけるな。時計って言葉が出ただけだ。どんな服だったのかも、誰だったのかも分かってねえ。TIMEと関係ある可能性はあるが、今の情報だけじゃ何とも言えねえよ」
その通りだった。
《1》の手配書を見たときにも、オラクルは「分からないことを勝手に決めつけるな」と言っていた。
今は犯人が誰なのかより、もっと大切なことがある。
「どうしたら出られるの?」
私は絵へ尋ねた。
「私たちにできることはある? どうすればみんなを助けられるの?」
今度はいくら待っても返事がなかった。
もう一度呼び掛けても、絵の中から声は聞こえてこない。
赤が不安そうに絵へ近づく。
「声、出せなくなったでぷ?」
「分からない。疲れたのかもしれないし……」
何も分からなかった。
声がどうやって届いているのかさえ分からないのだから、絵の中に閉じ込められた存在をどうやって外へ出せばいいのかなんて、今の私たちに分かるはずもなかった。
オラクルも今回は冗談を言わず、絵を見ながら腕を組んだ。
「今ここで適当に触るのはやめといたほうがいいな。下手に壊して、中にいる奴らまでどうにかなったら洒落にならねえ」
「でも、このままにはできないよ」
「だったら方法を探すしかねえ」
その言葉を聞いた瞬間、私は迷わなかった。
「探すよ」
みんなが私を見る。
「この絵から出す方法。今分からないなら、知ってる人を探せばいい。私たちだけで分からないなら、ほかの街でも聞いてみる」
赤がすぐに頷いた。
「助けるでぷ」
緑も本を開き、今まで聞いたことを書き始めた。
「グラティスの山の途中、時計みたいな服を着た人、絵の中にたくさん閉じ込められてる……全部残しておくでぷ」
黄色も絵を見ながら、「いろんな場所で聞けば、こういう物に詳しい人が見つかるかもしれないでぷ」と言った。
その言葉で、私は両親を探すことについてガレオさんやオラクルから言われたことを思い出した。
何も分からないなら、分かることを一つずつ増やすしかない。
それは、この絵も同じなのかもしれない。
今すぐ助けられないことは悔しい。でも、分からないからといって諦める理由にはならない。
私は絵の中でこちらへ手を伸ばしている生き物たちを見つめた。
「必ず方法を見つけるから、待ってて。絶対に助けるから」
返事はなかった。
それでも、今度は言葉にするだけで終わらせるつもりはなかった。
そのとき、肩に掛けていた鞄の中から淡い光が漏れた。
「え?」
慌てて鞄を開くと、《聖なるマップ》の表面に光が走っていた。
私が地図を取り出すと、その光はゆっくり形を変え、新しい文字を浮かび上がらせていく。
そこに現れた名前を見て、私は息を止めた。
《精霊の叫び》
「これ……この絵の名前?」
緑が私の手元を覗き込み、すぐに絵へ視線を戻した。
「精霊って書いてあるでぷ」
「じゃあ、この絵の中にいるみんなって……」
私はもう一度、山や森の中に描かれた生き物たちを見る。
《精霊の叫び》。
その名前が何を意味するのかまでは、まだ分からない。
ただ、少なくとも一つだけ新しいことが分かった。
この絵の中に閉じ込められているのは、精霊たちなのかもしれない。
グラティスの山中。
時計を思わせる服を着た謎の人物。
絵の中に閉じ込められた、たくさんの精霊。
そして、今の私たちには分からない救出方法。
手掛かりは少ないけれど、ゼロではなくなった。
私は《聖なるマップ》を大切に鞄へ戻し、改めて《精霊の叫び》と呼ばれる絵を見上げた。
両親を探す旅の途中で、また一つ、どうしても放っておけないことが増えてしまった。
それでも後悔はなかった。
「絶対、戻ってくるから」
今度も声は返ってこなかった。
けれど私には、絵の中を流れている細い川の水面が――ほんの一瞬だけ、小さく揺れたように見えた。




