第35話 助けを求める絵
「……この中だな」
オラクルの言葉に、私は頷いた。
声が聞こえたのは倉庫の左奥。ガレオさんから港へ運ぶよう頼まれた十五個の荷物とは別の商品が保管されている場所だった。
私たちは中央通路から外れ、声がした方向へゆっくり近づいていった。背の高い棚と積み上げられた木箱に挟まれた狭い場所を進むにつれて外からの光が届きにくくなり、昼間なのに足元まで薄暗い。
赤は新しい剣の柄を握り、緑は本を胸の前で抱えている。黄色も珍しくお金の話をせず、私のすぐ後ろから周囲を警戒していた。
「本当に人がいるでぷ?」
「分からない。でも、この辺から聞こえたと思う」
人が閉じ込められているなら大きな木箱か何かだと思ったけれど、それらしいものは見当たらない。
代わりに目に入ったのは、左奥の壁へ立て掛けられた大きな物だった。
私の背丈よりも大きな長方形で、全体を厚い布ですっぽり覆われている。下からは木製の枠が僅かに覗き、形だけを見るなら大きな額縁のようだった。
「これ……絵かな?」
緑も布の下から覗いている枠に気づいたらしい。
「額縁みたいでぷね」
私たちは少し離れた場所から、それを見つめた。声がこの辺りから聞こえたのは間違いないのに、目の前にあるのは布を被せられた何かだけで、人が隠れているようには見えなかった。
赤が私の服を引く。
「フールちゃん、触らないほうがいいでぷ」
「私もそう思う」
「じゃあ見るか」
オラクルが言った。
「え?」
止める間もなかった。
オラクルは大股で前へ出ると、覆い被さっていた布の端を掴み、そのまま一気に引き下ろした。
「ちょっと、オラクル!」
厚い布が床へ落ち、溜まっていた埃がふわりと舞い上がる。
私は慌てて一歩下がったけれど、すぐに布の向こうから現れたものへ目を奪われた。
やっぱり絵だった。
古びた大きな額縁の中には、山々と森、川が描かれている。遠くには霧に霞む峰が重なり、その間を細い川が縫うように流れていて、一見しただけなら昔の風景を描いた山水図のようにも見えた。
でも、普通の風景画ではない。
「……何これ」
山にも、森にも、川辺にも、たくさんの生き物が描かれていた。動物のように見えるものもいれば、魔物なのか何なのか分からない奇妙な姿のものまでいる。そのすべてが大きく口を開け、何かを叫んでいるように見えた。
綺麗な風景の中にいるのに、楽しそうな生き物は一匹もいない。
「怖いでぷ……」
赤が私の横へ寄ってきた。
緑は絵へ近づきすぎないようにしながら、じっと中を観察している。
「みんな苦しそうな顔してるでぷ」
「何でこんな絵を描いたでぷ?」
黄色も首を傾げた。
私にも分からなかった。ただ、さっき聞いた声を思い出すと、偶然この絵が置かれていたとは思えない。
「これが喋ったのかな?」
私が言うと、オラクルはすぐに額縁の裏側へ回った。
「絵が喋るわけねえだろ。裏に誰かいるか、何か仕掛けがあるんじゃねえか?」
それなら確かめるしかない。
私たちは手分けして周囲を調べ始めた。オラクルは額縁を壁から少し離して裏側や壁に仕掛けがないか確認し、緑は絵の周囲に魔法らしいものがないか調べる。黄色は額縁や床を念入りに観察し、赤は壁の向こうに誰かいるのではないかと何度も耳を当てていた。
けれど、人が隠れているような場所は見つからなかった。額縁の裏は普通の板張りで、壁との間にも人が入れるほどの隙間はない。周囲に積まれていた木箱まで確認したものの、中から声がする様子もなかった。
「変でぷ……本当にこの辺から聞こえたでぷよね?」
「うん。私だけじゃなくて、みんなも聞いたよね」
全員が頷いた。
確かに誰かが「助けて」と言った。だったら、その誰かはどこにいるのだろう。
私はもう一度、絵へ近づいた。
遠くから見たときは、たくさんの生き物が叫んでいるだけだと思っていた。でも近くで見ると、それだけではないことに気づいた。
「ねえ……これ」
私が指差した小さな生き物は、こちらへ向かって両手を伸ばしているように見えた。その隣にも、少し離れた森の中にも、何かから逃げようとしているものや、絵の外にいる誰かへ助けを求めるように手を伸ばしているものが描かれている。
赤も私の横から覗き込んだ。
「苦しそうでぷ……」
「うん」
その姿を見ていると、さっき聞いた声が頭から離れなくなった。
――助けて。
もし本当に誰かが助けを求めているのだとしたら、仕事があるからといって、このまま放っておいていいのだろうか。
「もう少し調べよう」
私がそう言うと、オラクルも今回は止めなかった。
「まあ、声の正体くらいは確認しねえと気持ち悪いな」
そこから私たちは、完全に絵へ意識を奪われていった。
額縁を壁から離して空洞がないか確かめ、周囲の箱を動かして壁まで調べる。緑は本を開いて、似たような絵や不思議な道具について何か書かれていないか探し始め、黄色も「高価な魔法道具かもしれないでぷ」と別の意味で興味を持ち始めた。
赤だけは絵の前へ座り込み、描かれた生き物を一匹ずつ眺めていた。
「フールちゃん、これも助けてって言ってるみたいでぷ」
言われるたび、私も赤の隣へ行って確かめる。見れば見るほど、普通の絵とは思えなかった。
そんな中、黄色が急に絵へ顔を近づけた。
「……この生き物、さっきここにいたでぷ?」
「え?」
黄色が指差したのは、川の近くに描かれた小さな生き物だった。
「俺の勘違いかもしれないでぷ。でも、もっと右にいた気がするでぷ」
「絵が動いたってこと?」
「分からないでぷ」
全員で絵を見る。
今この瞬間に動いている生き物はいない。それでも黄色にそう言われると、さっきまでとは違って見えてくる。
今度は緑が別の場所を指差した。
「この森のところも、さっきこんなに暗かったでぷ?」
「どうだったかな……」
誰も覚えていない。
だからもう一度見る。しばらく待ち、また誰かが気になる場所を見つける。本当に変化しているのか、それとも不気味な絵を見続けているせいでそう思い込んでいるだけなのか、確かめれば確かめるほど分からなくなっていった。
何より、もしこの絵の中にいる誰かが本当に「助けて」と呼んでいるのなら、簡単に放っておく気にはなれなかった。
気づけば、港へ運ぶはずだった荷物のことは完全に頭から抜け落ちていた。
どれくらいそうしていただろう。
突然、倉庫の入口側から扉が開く音が響いた。
「おーい、進んでるか?」
ガレオさんの声だった。
私たちは揃って振り返った。
用事を済ませて戻ってきたガレオさんは、まず搬出口の外にある台車を見た。ほとんど空のままだ。
次に右奥に残された十五個の荷物を確認し、最後に左奥で一枚の絵を囲んでいる私たちへ目を向けると、眉間にゆっくり皺が寄った。
「……お前さんたち、何をしてるんだ? もう一往復どころか、二往復目に入ってると思って戻ってきたんだぞ。船が出る時間もあるのに、荷物がほとんど動いてないじゃないか!」
「ご、ごめんなさい!」
完全に仕事を忘れていた。
でも、遊んでいたわけではない。
私が事情を説明しようとしたところで、オラクルが先に口を開いた。
「待て、おっさん。これには理由がある」
「どんな理由だ?」
「この絵の辺りから、人の声がしたんだよ。『助けて』ってな。最初はフールだけだったが、俺たちも聞いた。それで声の出所を探してた」
「絵?」
ガレオさんの表情が変わった。
私たちは少し横へ退き、布を外したままになっている大きな絵を見せた。
ガレオさんは絵を見るなり足を止める。
「……こんな物、ここにあったのか?」
今度は私たちが驚いた。
「ガレオさんの物じゃないんですか?」
「私の倉庫にある以上、どこかで買い取った品か、ほかの商品と一緒に入ってきた物だとは思うが……正直、覚えてないな」
「覚えてないんですか?」
「見ただろう、この倉庫の量を。骨董品や美術品だけじゃなく、不用品をまとめて買い取ることもある。箱ごと仕入れた物を後で整理することもあるから、一つ一つ全部覚えてるわけじゃないんだ」
それなら、この絵がどこから来たのかも分からないということになる。
「じゃあ、この絵が何なのかも?」
「分からん。少なくとも私は、こいつから声を聞いたことはないな」
ガレオさん自身も不思議そうに絵を眺めていた。
もう少し調べたかったけれど、ガレオさんは外の明るさを確認すると、すぐに表情を引き締めた。
「まずい。船が出るまで、あと二時間くらいしかない。この絵は逃げやしないんだから、気になるなら仕事が終わってから調べればいい。今は荷物を運んでくれ」
「あっ……」
完全に忘れていた。
港まで台車を押して片道二十分ほど掛かることを考えると、もうのんびりしている余裕はない。
「急ぐぞ。三回も往復してたら間に合わねえ。できるだけ二回で運ぶ」
オラクルの一言で、全員が一斉に動き出した。
黄色が十五個の荷物を見比べ、台車へ積む順番を決める。下には大きくて重い木箱を置き、その上へ軽い荷物を載せ、崩れそうな場所は縄で固定することになった。
赤とオラクルが重い箱を二人で持ち、緑と私は比較的軽い荷物を運ぶ。
「フールちゃん、それ持てるでぷ?」
「これくらいなら大丈夫!」
さっきまで絵の前で時間を忘れていた分、誰も手を止めなかった。
十分ほど掛けて一回目の積み込みを終えるころには、台車には八個の荷物が載っていた。
「これ以上は危ないでぷ」
黄色が荷物の傾きを確認する。
「じゃあ一回行くぞ」
オラクルが台車の前へ回り、赤が反対側を押す。私と緑と黄色は荷物が崩れないよう左右につき、そのまま倉庫を出た。
港までは普通に歩けば二十分ほどだったけれど、荷物を満載した台車では思うように進まなかった。道の小さな窪みに車輪を取られるたび全員で押し直し、坂ではオラクルと赤だけでは足りず、私たちも後ろから力を貸した。
結局、港へ着いたころには三十分近く経っていた。
「つ、疲れた……」
「まだ残ってるでぷ……」
「八個運んだんだから、半分以上は終わっただろ」
オラクルに言われ、少しだけ救われた。
港ではガレオさんから聞いていた船をすぐに見つけることができ、船員たちにも手伝ってもらって十分ほどで八個の荷物を降ろした。
本当なら少しくらい休みたかったけれど、船が出る時間は待ってくれない。
「戻るぞ」
「もうでぷ!?」
「嫌ならここで待ってろ」
「報酬減るのは嫌でぷ!」
黄色の一言で、結局全員が倉庫へ戻ることになった。
荷物がなくなった台車は驚くほど軽く、帰りは十五分ほどで倉庫まで戻ることができた。
残っている荷物は七個。ただ、その中には一回目では後回しにした大きな木箱が二つあった。
「これ重いでぷ……!」
赤とオラクルが一つを持ち上げる。
私ももう一つの箱へ手を掛けようとしたけれど、オラクルに止められた。
「それは無理だ。お前は小さいの持て」
「やってみないと分からないよ」
「落として壊したら五銀Bどころじゃねえぞ」
それを言われると反論できない。
私は緑と一緒に小さな荷物を運ぶことにした。
二回目の積み込みには十五分ほど掛かり、七個すべてを載せると台車は一回目以上に重そうに沈み込んだ。
黄色が何度も左右から確認する。
「これなら落ちないでぷ。でも急に曲がったら危ないでぷよ」
「分かった。行くぞ」
二度目の港への道は、一回目よりさらに時間が掛かった。
重い荷物を載せた台車は少しの坂でも止まりそうになり、道の窪みに車輪が嵌まるたび全員で力を合わせて抜け出さなければならない。途中で一度だけ台車を止めて水を飲んだけれど、長く休んでいる余裕はなく、息が整う前にまた歩き始めた。
空を見上げると、倉庫へ来たときより太陽がかなり傾いている。
「間に合うかな……」
私が台車を押しながら呟くと、前にいたオラクルが振り返った。
「間に合わせるんだよ。絵に夢中になって仕事忘れてた奴らが、今さら弱音吐くな」
「オラクルも一緒に調べてたじゃん!」
「俺は調査してたんだ」
「私たちもだよ!」
赤が横から「みんな同罪でぷ」と言い、緑と黄色も疲れた顔で頷いた。
そこは全員同じだった。
やがて最後の坂へ差しかかると、荷物を満載した台車の速度が目に見えて落ちた。オラクルと赤が前から引き、私たち三人が後ろへ回って押しても、車輪は石の多い坂道を少しずつしか進んでくれない。
「せーのでいくぞ!」
「分かった!」
「せーの!」
五人で一斉に力を込めると、車輪がぎしぎしと悲鳴を上げながら回り始めた。
腕が痛い。
足も重い。
台車を押し続けている手のひらまで、じんじんしてきた。
それでも、ここまで運んだ荷物を途中で置いていくわけにはいかない。
「もう少しでぷ! 押すでぷ!」
赤の掛け声に合わせ、私も残っている力を込めた。
一歩ずつ坂を上り、ようやく頂上を越えたところで視界が開ける。
その先には海が広がっていた。
「港!」
思わず声が出た。
桟橋には、ガレオさんから聞いていた船がまだ停まっている。
「船、まだいる!」
「当たり前だ! いなかったら全部無駄になるだろ!」
オラクルに言い返されたけれど、今はその声さえ少し嬉しかった。
二回目に倉庫を出てから、港へ着くまで三十五分ほど掛かっていた。
船の周りではすでに何人もの船員が慌ただしく動き、縄を確認したり、積み荷を固定したりしている。帆を広げる準備まで始まっていて、出航が近いことは私にもすぐ分かった。
「ガレオさんの荷物です!」
私が声を掛けると、一人の男がこちらへ振り返った。
日に焼けた顔に短い髭を生やした、がっしりした身体の男性だった。周囲の船員たちへ次々と指示を出していたので、この人が船長なのだろう。
「やっと来たか! もう来なかったら置いていくところだったぞ!」
「ご、ごめんなさい!」
本当のことなので何も言い返せない。
船長が手を上げると、近くにいた船員たちが台車へ集まってきた。私たちも一緒になって荷物を降ろし、船員へ一つずつ渡していく。
最後の大きな木箱が台車から降ろされた瞬間、赤がその場へ座り込みそうになった。
「終わったでぷ……」
「待って。まだ鍵がある」
私も危うく忘れそうになっていた。
鞄を開き、ガレオさんから預かっていた古い鉄製の鍵を取り出す。
「これもガレオさんから、船長さんに渡すように言われました」
船長は鍵を見ると、すぐに「ああ、それか」と頷いた。
「荷物も全部揃ってるな。なら、こっちへ来な」
鍵を渡せば終わりだと思っていたので、私たちは顔を見合わせながら船長の後についていった。
向かったのは、船へ積み込む荷物の近くに置かれた小さな金庫だった。
「その鍵、これを開けるためのものだ」
「金庫?」
私が聞き返した瞬間、それまで疲れ切っていた黄色の顔が変わった。
「金庫でぷ!?」
「急に元気になったね」
「金庫は別でぷ!」
何が別なのかは分からない。
船長は鍵穴へ鉄製の鍵を差し込み、ゆっくり回した。
カチリ、と小さな音がする。
蓋を開けると、中にはいくつかの袋が入っていた。船長はそのうち一つを取り出し、私たちへ差し出す。
「ガレオから預かってる。荷物が全部届いたら渡せってな」
袋を受け取った黄色が、すぐに中を確認した。
「五銀Bでぷ!」
QUESTの依頼書に書かれていた通りの報酬だった。
「ちゃんと貰えたでぷ!」
「そこずっと心配してたもんね」
「働いたのに貰えなかったら大事件でぷ」
黄色にとっては、倉庫で見つけた不思議な絵より大事件なのかもしれない。
私は黄色が抱えている五銀Bの袋を眺めた。
自分たちで荷物を積み、重い台車を押して、時間ぎりぎりまで歩いてここへ運んだ。その仕事に対して貰ったお金なのだと思うと、今まで見てきた銀Bとは少し違って見える。
船長は金庫を閉めると、船へ視線を向けた。
「ご苦労だったな。もう少し遅かったら本当に危なかったぞ」
その言葉とほとんど同時に、船員の一人が出航準備が整ったことを船長へ伝えた。
本当にぎりぎりだったらしい。
私たちは邪魔にならないよう桟橋から少し離れた。
そこまで来た途端、張り詰めていた力が一気に抜けた。
「つ、疲れた……」
私はその場にしゃがみ込み、自分の腕をさすった。
木箱を何度も抱えたせいで腕は重く、台車を押し続けた足にもほとんど力が残っていない。手のひらまで少し痛くて、明日になったらもっと身体が痛くなっているかもしれなかった。
簡単な荷物運びだと思っていたのに、実際にやってみればそんなに楽な仕事ではなかった。
「仕事って大変なんだね……」
「今さらでぷ?」
黄色も疲れているはずなのに、五銀Bを受け取ったせいか妙に元気だった。
私は自分の手を見る。
小さな手だった。
ガレオさんのように硬くもなければ、赤やオラクルほど力があるわけでもない。大きな木箱は一人では持てなかったし、坂道では何度もみんなに助けてもらった。
それでも今日は、ただ後ろからついていったわけではない。
自分で箱を持ち、台車を押し、疲れても最後までみんなと一緒に歩いた。
前にオラクルから「お前は何が得意なんだ」と聞かれたとき、私は何も答えられなかった。
今だって、その答えはまだ分からない。
剣が得意なわけでも、魔法が使えるわけでもない。今日の荷物運びだって、私一人では絶対にできなかった。
それでも、最初から何もできないわけじゃない。
「私も、ちゃんと仕事できたんだね」
気づけば、小さく口にしていた。
隣で座り込んでいた赤が、すぐにこちらを見る。
「当たり前でぷ。フールちゃんもいっぱい運んだでぷよ」
「うん」
たったそれだけの言葉なのに、少し嬉しかった。
腕も足も痛いし、今すぐ横になりたいくらい疲れている。それでも、この疲れは嫌いではなかった。
自分もみんなと一緒に最後までやったからこそ疲れているのだと思うと、手のひらの痛みまで少しだけ誇らしく感じられる。
私は膝へ手を置き、立ち上がろうとした。
ところが、足にうまく力が入らない。
「……やっぱり、もうちょっと休んでからでいい?」
オラクルが吹き出した。
「格好つけて立とうとすんな」
「格好つけてないよ!」
三匹まで笑い始め、私もつられて笑ってしまった。
しばらくその場で身体を休ませていると、桟橋に停まっていた船がゆっくりと動き始めた。
船員たちが縄を引き上げ、大きな帆が風を受けて膨らんでいく。
私たちが運んだ十五個の荷物も、あの船に積まれている。
最初はただ運ぶだけだと思っていたのに、途中で不思議な絵を見つけて仕事を忘れ、最後は時間ぎりぎりになって、みんなで必死に台車を押した。
大変だったけれど、荷物は全部届けた。
鍵も船長へ渡した。
報酬の五銀Bも受け取った。
少しずつ遠ざかっていく船を見ていると、ようやく仕事が終わったのだと実感できた。
「行っちゃったでぷね」
赤が呟く。
「間に合ってよかった……」
私も大きく息を吐いた。
船は港を離れ、夕方の光を受けた海の上をゆっくり進んでいく。さっきまであれほど慌ただしかった船員たちの姿も次第に小さくなり、やがて声も聞こえなくなった。
これで終わり。
あとはアデューへ戻って、何か食べて、宿でゆっくり休めばいい。
「宿に戻ったら休みたいでぷ……」
赤が疲れ切った声で言うと、緑もすぐに頷いた。
「俺もでぷ。今日はもういっぱい歩いたでぷ」
私も同じ気持ちだった。
腕も足も痛いし、身体はもう十分働いたと言っている。
遠ざかる船を眺めながら、このまま港を離れようとした。
そのとき、風に乗って帆が大きく膨らみ、私たちが運んだ荷物を載せた船がさらに沖へ進んでいった。
その姿を見た瞬間、ふと思った。
私たちが運んだ荷物は、もうここにはない。
仕事は終わった。
船も行ってしまった。
でも――一つだけ、置いてきたものがある。
『助けて』
倉庫で聞いた声が、頭の中に蘇った。
私は遠ざかる船から、ゆっくり視線を外した。
荷物を運ぶために離れた、あの倉庫。
その左奥には今も、布を外したままの大きな絵が残っている。
山と川の中で、たくさんの生き物が苦しそうに口を開き、こちらへ手を伸ばしていた。
あの声を最初に聞いたのは私だった。
でも最後には、みんなも聞いた。
聞き間違いではない。
誰かが確かに「助けて」と言った。
さっきまでは船の時間があったし、ガレオさんから頼まれた仕事を途中で放り出すわけにもいかなかった。だから絵を残して港へ来た。
でも、もう違う。
私はもう一度、海を見る。
船はさらに小さくなり、夕方の海の向こうへ溶け込もうとしていた。
その船を最後まで見送りながら、私は思った。
もう仕事を理由に、あの声から離れる必要はない。
「……戻ろう」
自然と声が出た。
「どこにでぷ?」
赤が私を見る。
私は海ではなく、今度は倉庫がある方向へ身体を向けた。
「あの絵のところ」
みんなの表情が変わった。
オラクルが煙草を咥えながら眉を上げる。
「お前、さっき立てねえくらい疲れてただろ」
「疲れてるよ。すごく」
足はまだ重いし、腕も痛い。正直に言えば、このまま宿へ帰って休みたい気持ちだってある。
「でも、あの声を聞いたのに、このまま帰ったら絶対後悔すると思う」
私は倉庫で見た絵を思い出した。
絵の外へ手を伸ばしていた生き物たち。
『助けて』と呼んだ、誰かの声。
「あれが本当に助けを求めてる声なら、明日まで待って大丈夫なのかも分からない。戻っても何もできないかもしれないし、ただの変な絵かもしれない。でも……確かめないまま帰りたくない」
少しの沈黙があった。
やがて赤が、疲れた身体を起こした。
「俺も行くでぷ。助けてって言ってたなら、放っておけないでぷ」
緑も本を抱え直して立ち上がる。
「俺も行くでぷ。あの絵が何なのか気になるでぷ」
黄色は五銀Bの入った袋を大事そうにしまってから、少し名残惜しそうに宿がある方向を見た。
「……もう仕事は終わったでぷからね。俺も行くでぷ」
最後に全員でオラクルを見る。
「なんだよ」
「オラクルは?」
「四人だけで戻らせたら、また何するか分からねえだろ」
「オラクルにだけは言われたくない」
「うるせえ」
文句を言いながらも、オラクルは帰ろうとはしなかった。
私はもう一度だけ海を振り返った。
私たちが運んだ荷物を載せた船は、もう遠くに小さく見えるだけだった。
あの船を見送ったことで、私たちの仕事は終わった。
ここから先はQUESTじゃない。
報酬もないし、誰かに頼まれたわけでもない。
それでも――行きたいと思った。
私はまだ疲れの残る足に力を入れ、みんなと一緒に倉庫へ向かって歩き始めた。
あの「助けて」という声を、聞かなかったことにしないために。




