第26話 真実の誓い
「待ってください!」
私たちの声と、付き人たちの制止が重なった。
それでも王子は止まらなかった。
伸ばした右手が、《真実のカード》の中央に描かれた目へ触れる。その瞬間、部屋から音が消えたように感じた。
「殿下!」
年配の付き人が手を伸ばしたものの、王子はカードへ手を置いたまま首を横へ振った。
「止めないでくれ」
「しかし、もし誓約に僅かでも――」
「分かっている」
王子の声に迷いはなかった。
マリーさんは青ざめた顔で立ち尽くし、その左右では弟と妹が姉の服を強く握っている。私も王子の手元から目を離せなかった。
白いカードの中央に描かれた、大きな一つの目。ただの絵のはずなのに、今は王子の心の奥まで覗き込んでいるように見える。
もし少しでも嘘があれば、光る。
王子自身さえ気づいていない矛盾があっても、光るかもしれない。
そして光れば、王子は一生、日の光を浴びられなくなる。
「王子様……お願いです」
マリーさんが震える声で言った。
「まだ間に合うなら、手を離してください。私はそこまでしてほしくありません」
王子はマリーさんを見た。
「マリー」
初めて、彼女の名前を真っ直ぐ呼ぶ。
「君が私を信じるために命を懸けろと言ったわけではない。それは分かっている」
「だったら――」
「それでも、これは私が決めた」
王子は一度、マリーさんの左右にいる弟と妹へ目を向けた。二人は不安そうに王子を見ている。
やがて王子は大きく息を吸った。
付き人たちが動きを止める。
私も無意識に赤の手を握った。赤も何も言わず、強く握り返してくる。
王子は《真実のカード》へ手を置いたまま、部屋中に届く声で高々と誓った。
「私は、貴女――マリーを。そして、貴女の最愛なる妹と弟を、生涯大切にすると、ここに誓う」
言い切った。
その瞬間、全員の視線が《真実のカード》へ集まった。
誰一人、王子を見ていない。
光るのか。
光らないのか。
一秒が過ぎる。
何も起こらない。
でも、まだ安心できない。
王子も手を離さなかった。
二秒。
三秒。
カードの中央に描かれた目は、何の変化もなく王子の手の下にある。誰も喋らず、付き人の一人が息を呑む音だけが妙に大きく聞こえた。
私は窓を見た。
昼の光がステンドグラスを通り、床へ赤や青の模様を落としている。
もしカードが光れば、王子はあの光の中へ二度と立てなくなる。
そう思った途端、心臓がさらに速く鳴った。
「もう……大丈夫なんじゃ……」
黄色が囁きかけると、緑が小さな声で止めた。
「まだ分からないでぷ」
王子は動かない。
額には僅かに汗が浮かんでいた。
どれだけ自信があっても、怖くないはずがない。本人にも気づいていない矛盾まで見抜くと伝えられているカードに、自分の心のすべてを委ねているのだから。
さらに数秒が過ぎる。
何も起こらない。
私は少しだけ息を吐きかけた。
そのときだった。
カードの表面が、一瞬揺らいだように見えた。
「……っ!」
身体が固まった。
マリーさんも息を呑み、付き人の一人が反射的に王子へ駆け寄ろうとする。
「殿下!」
それでも王子は手を離さない。
私も目を逸らさず見つめた。
光った?
違う。
窓から差し込んだ光が、カードの表面へ反射しただけだった。
けれど誰も笑わなかった。それほど全員が張り詰めていた。
十秒。
さらに時間が過ぎても、《真実のカード》は沈黙したままだった。王子の手に異変が起きることも、中央に描かれた目が光を放つこともない。
「……光らない」
私が恐る恐る呟くと、年配の付き人がカードを凝視したまま、長く息を吐いた。
「反応がありません。殿下の誓約は……真実と認められたようです」
その言葉を境に、部屋を覆っていた緊張が一気に崩れた。
付き人たちは胸を押さえたり壁へ手をついたりしながら安堵の息を漏らし、緑も抱えていた本から力を抜いた。黄色は膝から力が抜けたように椅子へ腰を落とし、赤に至ってはその場へぺたんと座り込んでしまった。
「よかったでぷ……。もう王子がお昼に外でご飯食べられなくなるかと思ったでぷ」
「最後まで心配するところはそこなんだね……」
そう返した私自身も、ようやくまともに息ができた。気づけば手のひらは汗で濡れ、さっきまで握っていた赤の手の感触が指先に残っている。
王子もすぐには動かなかった。
しばらくカードを見つめたあと、ようやく右手を離す。呪いが現れることもなく、その身体には何の変化も起きていない。
本当に終わったのだ。
王子の誓いには、一つの偽りもなかった。
私はほっとしながらマリーさんを見た。
彼女だけは、周囲が安堵する中でも動いていなかった。王子を見つめたまま立ち尽くし、やがて頬を一筋の涙が伝う。続いてもう一筋が零れても、それを拭おうとはしなかった。
「マリーさん……」
私が呼びかけるより先に、マリーさんは王子へ歩き出した。
一歩ずつ距離を縮め、王子の目の前まで来る。
王子はさっきまで命を懸けた誓いをしていた人とは思えないほど緊張した顔になった。
「……これで、信じてもらえただろうか」
マリーさんは言葉では答えず、涙を流したまま何度も頷いた。
そして、そのまま王子の胸へ飛び込んだ。
突然のことに王子は目を見開いたものの、マリーさんが服を強く掴んで「信じます……あなたを信じます」と震える声で伝えると、その表情がゆっくりと緩んでいった。
王子は何も言わず、マリーさんの背中へ静かに腕を回した。
それを見た途端、今度は私の目からも涙が零れた。
「……よかった」
隣では赤が私以上に泣きながら何度も「よかったでぷ」と繰り返し、緑も笑いながら袖で目元を拭っている。黄色だけは鼻をすすりながら「泣いてないでぷ。目から水が出ただけでぷ」と言い張っていたけれど、誰が見ても泣いていた。
付き人たちも同じだった。
王子を必死に止めていた年配の付き人は目元を押さえながら深く頷き、やがて誰かが小さく拍手を始める。それにつられるように拍手が増え、安堵の声と祝福の言葉が部屋へ広がっていった。
幼い弟と妹だけは、何が起きたのか完全には分かっていないようだった。二人は泣いている姉を心配して近づき、男の子が「お姉ちゃん、どうして泣いてるの?」と尋ねる。
マリーさんは王子から少し離れると、二人をまとめて抱き寄せた。
「大丈夫よ。嬉しいから泣いてるの」
「嬉しくても泣くの?」
「大人になると、そういうこともあるのよ」
二人はまだ不思議そうだったけれど、姉が笑っていると分かると安心したらしい。マリーさんへ抱きつき、その三人を王子が穏やかな表情で見つめていた。
私はその光景を見ながら、ようやく胸の奥に残っていた緊張まで消えていくのを感じた。
《真実のカード》を使うなんて無茶だったし、本当に怖かった。それでも王子は自分の言葉が偽りではないことを証明し、マリーさんもその覚悟を受け取った。
今度こそ大丈夫なのかもしれない。
――そう思った、そのときだった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「何の騒ぎだ!」
大きな声とともに部屋の扉が開き、ついさっきまで祝福していた付き人たちが一斉に姿勢を正した。
「陛下!」
入ってきた人物を見て、緩んだばかりだった部屋の空気が再び引き締まった。
王子より年上の立派な男性。その後ろには上品なドレスを着た女性が立ち、さらに数人の護衛が続いている。
私は二人を見て、すぐに誰なのか分かった。
アデューの王様と、王子のお母様だ。
王様は部屋へ入るなり、机の上に置かれた《真実のカード》へ目を止めた。
表情が変わる。
「……なぜ、それがここにある」
王子は逃げることなく父親を見る。
「父上。私が使いました」
「何?」
王様の声が低くなった。
付き人の一人が慌てて前へ出る。
「陛下、お待ちください。事情がございます」
付き人は、これまでの経緯を説明した。
王子がマリーさんを王宮へ迎えたいと望んでいたこと。マリーさんが幼い弟妹の将来を心配し、簡単にはその言葉を信じきれなかったこと。そして王子が、自分の誓いを証明するため《真実のカード》へ手を置いたこと。
王様は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「結果は?」
「……何も起こりませんでした。殿下の誓約は、真実と認められました」
王様は何も言わなかった。
王子のお母様も黙っている。
王子はマリーさんたちを庇うように一歩前へ出た。
「父上。私はマリーと一緒にいたいと思っています」
王様が息子を見る。
「王宮の者たちが反対していることも、身分が違うことも理解しています。それでも私は、マリーと、その弟と妹を生涯大切にすると誓いました。この誓いに偽りがないことも証明しました」
王子は一度だけマリーさんを見た。
「たとえ反対されても、私はマリーと一生を共にしたいと思っています」
「王子様……」
マリーさんが不安そうに王子を見る。
私は息を呑んだ。
王様は怖い顔のまま、何も言わない。
長い沈黙が続いた。
王家の大切なカードを使ったことも、平民の女性を王宮へ迎えようとしていることも、簡単に認められる話ではないのかもしれない。
赤まで私の服を掴んだ。
「怒ってるでぷ?」
「分からない……」
そのときだった。
「……ふっ」
王様の口元が動いた。
私は目を瞬いた。
王様は俯き、肩を小さく震わせている。
「……ははっ」
笑ってる?
次の瞬間、王様は堪えきれなくなったように大声で笑い始めた。
「はははははっ!」
部屋中が固まった。
王子も驚いている。
「父上?」
王様の隣にいたお母様まで口元へ手を当て、楽しそうに笑い始めた。
「ふふっ……本当に、あなたの息子ね」
「母上まで……?」
誰も状況についていけない。
私も赤たちと顔を見合わせた。
王様はしばらく笑ったあと、目元を拭いながら王子へ近づき、息子の肩を力強く叩いた。
「流石、私の息子だ!」
「……え?」
王子まで間の抜けた声を出した。
王様は机の上にある《真実のカード》を、どこか懐かしそうに見つめた。
「まさか、お前までこれを使うとはな」
「お前まで……?」
王子が聞き返す。
王様は隣に立つ妻を見た。
お母様も笑いながら頷いている。
「私も昔、使ったのだよ。そのカードを」
「父上が!?」
今度は王子の声が大きくなった。
「そうだ。お前の母を妻に迎えると決めたときにな」
私は思わず王子のお母様を見る。
彼女は少し懐かしそうに微笑んだ。
「この人も昔は無茶をしたのよ。周りがどれだけ止めても聞かなかったわ」
「必要だったのだ」
「あなたも同じことを言っていたわね」
王様は少し気まずそうに咳払いをした。
そのやり取りを見ていると、王子がなぜあそこまで頑固だったのか、少し分かった気がした。
王様は改めて息子を見る。
「自分の一生を懸けても守りたい相手を見つけ、その覚悟を《真実のカード》へ示した。ならば私から言うことはない」
王子の表情が変わった。
「父上……」
「ただし、王家のカードを勝手に持ち出したことについては、あとで話がある」
「……はい」
そこは怒られるらしい。
赤が小さな声で「やっぱり怒られるでぷ」と言い、私は笑いそうになるのを堪えた。
その間に、王子のお母様はマリーさんの前へ歩いていった。
マリーさんは緊張したように姿勢を正し、弟と妹も姉の後ろへ隠れようとする。
「は、初めまして」
マリーさんが頭を下げようとした。
でも、お母様はそれより先に三人の前へしゃがみ、弟と妹にも目線を合わせた。
それから立ち上がり、マリーさんの両手を優しく取る。
「そんなに緊張しないで」
マリーさんが顔を上げた。
お母様は穏やかに笑った。
「息子がこれほど大切にしたいと思った人なのでしょう?」
「……はい」
「それなら、私から言うことは一つだけです」
お母様はマリーさんだけでなく、左右にいる弟と妹にも笑顔を向けた。
「これから、よろしくお願いします」
マリーさんの目から、また涙が溢れた。
「……ありがとうございます」
震える声でそう答えたものの、涙は止まらなかった。
王子のお母様はマリーさんの手を握ったまま、今度はその後ろに隠れていた弟と妹へ視線を向けた。
「二人も、そんなところに隠れていないで顔を見せてくれる?」
姉の服を掴んでいた二人は、おそるおそる顔を出した。
女の子は王妃の綺麗なドレスを見つめ、男の子はその頭から足元まで興味深そうに眺めている。
「お姫様?」
突然の質問に、王妃は目を丸くした。
「昔はそう呼ばれることもあったわね」
「じゃあ今は?」
「この人のお嫁さん」
王妃が王様を指差すと、男の子は今度は王様をじっと見た。
「王様のお嫁さん?」
「そうよ」
「じゃあ、お姉ちゃんも王子様のお嫁さんになるの?」
部屋の空気が止まった。
「えっ!?」
マリーさんの顔が一気に赤くなる。
王子まで咳き込み、付き人たちはどう反応すればいいのか困ったように視線を逸らした。
王様だけが楽しそうに笑っている。
「はははっ! 子供は話が早いな!」
「父上!」
「違うの?」
妹まで姉を見上げる。
「そ、それは……まだ……!」
さっきまで涙を流していたマリーさんが、今度は真っ赤になって慌てている。
私は思わず笑ってしまった。
赤たちも同じだった。
張り詰めていた空気は、いつの間にかすっかり消えていた。
王妃はそんな三人を見て楽しそうに微笑んだあと、マリーさんへ改めて向き直った。
「急いで何かを決める必要はありません。あなたにも、この子たちにも、王宮での暮らしに慣れる時間が必要でしょう。分からないことや嫌なことがあれば、遠慮せず私に言ってください」
「でも……私、本当に何も知らなくて。王宮での作法も、王族のことも……」
「最初から知っている人なんていませんよ」
王妃は優しく答えた。
「覚えなければならないことは、少しずつ覚えればいいのです。それよりも、この子が《真実のカード》にまで誓った相手を、最初から身分だけで遠ざけるほうが私は嫌です」
マリーさんは王妃の言葉を聞き、また涙ぐみそうになった。
王子がその隣へ立つ。
今度はカードも、危険な誓いも必要なかった。
「マリー。これから一緒に考えていこう」
マリーさんは王子を見つめ、ゆっくり頷いた。
「……はい」
その返事を聞いた王子の顔に、ようやく心から安心したような笑みが浮かんだ。
◇
「……終わった?」
少し離れたところから見ていた私は、小声で赤たちへ尋ねた。
緑が頷く。
「たぶん、終わったでぷ」
黄色は腕を組み、今回の出来事を確認するように言った。
「王子のお願いは、お姉さんにもう一度話してもらうことだったでぷ。お姉さんは王子と話したでぷ。だからQUEST達成でぷね」
「そういう数え方なの?」
「QUESTは達成したかどうかが大事でぷ」
赤は難しいことを考えていなかった。
「みんな幸せそうだから成功でぷ!」
その言葉が、一番しっくりきた。
私は王子とマリーさん、そのそばにいる弟と妹を見た。
昨日まで、お姉さんは小さな家で二人を守りながら暮らしていた。
それが不幸だったわけではない。
あの家には笑い声があったし、三人はとても仲が良かった。
だからこそ、王宮へ来れば幸せになれると私たちが勝手に決めることはできなかった。
でも今は違う。
マリーさん自身が王子の言葉を聞き、その覚悟を見て、自分で信じることを選んだ。
それなら、きっとこれでいい。
「よかったね」
私がそう言うと、三匹も笑った。
そのとき、王様がこちらを見た。
「ところで、お前たちは何者なのだ?」
「え?」
そういえば、王様には何も説明していない。
王様から見れば、王子の部屋に十歳の私と三匹のゴブリンがいるという、かなり変な状況だ。
「えっと……旅をしてます」
「それは見れば何となく分かる」
「王子様のQUESTを受けました」
「QUEST?」
王様が首を傾げる。
王子が苦笑しながら事情を説明した。
私たちがマリーさんからカードを買ったこと。偶然王宮へ忍び込んだこと。仲間を助ける条件として、マリーさんと話してほしいと頼んだこと。
説明が進むにつれて、王様の眉が少しずつ上がっていった。
「待て。王宮へ忍び込んだ?」
「あっ」
そこは言わなくてもよかった気がする。
王子も気づいたらしい。
「……結果的には何も問題ありませんでした」
「問題しかないように聞こえるが?」
私は赤たちと顔を見合わせた。
「《透明化》のカードを使いました」
「正直に言うな!」
王子が珍しく慌てた。
王様は額へ手を当てたものの、しばらくすると諦めたように息を吐いた。
「まあいい。今日はこれ以上、頭の痛くなる話を増やしたくない」
助かった。
でも、王様はすぐに王子を見る。
「それで、こいつらの仲間というのは?」
「守衛を買収しようとして捕まった男です」
「……やはり頭が痛いな」
私もそう思う。
その瞬間、オラクルのことを完全に忘れかけていたことに気づいた。
「そうだ! オラクル!」
赤も「あっ」と声を上げる。
黄色まで「まだ捕まってたでぷ!」と驚いている。
「みんな忘れてたの!?」
「フールちゃんも忘れてたでぷ」
「……うん」
そこは否定できなかった。
王子は苦笑しながら付き人へ顔を向けた。
「約束だからな。オラクルという男を解放してやってくれ。ただし、守衛への買収については十分反省させてからだ」
「承知いたしました」
これでようやく、本来の目的まで解決した。
オラクルを助けるために王宮へ忍び込み、王子の恋の相談を受け、村までお姉さんを訪ね、最後には王家の秘蔵カードまで出てきた。
最初からこんなことになると分かっていたら、王宮へ忍び込む前にもう少し考えたかもしれない。
でも、結果だけを見れば悪くなかった。
◇
話が落ち着いたところで、私は机の上へ視線を向けた。
《真実のカード》は、まだそこに置かれている。
中央に描かれた一つの目。
さっきまで王子の人生を変えるかもしれない誓いを見届けていたのに、今は何事もなかったように静かだった。
私は鞄へ手を添えた。
中には《聖なるマップ》がある。
アデューへ近づいたとき、突然地図から道が消えた。
代わりに現れた、一枚のカード。
その印を追って辿り着いたのが、この王宮だった。
そしてようやく、その正体を見つけた。
《真実のカード》。
「フールちゃん?」
緑が私の視線に気づいた。
「ううん。なんでもない」
私はまだ王子たちに《聖なるマップ》のことを話さなかった。
でも、一つだけ気になっている。
地図は、このカードがここにあることを私へ知らせた。
どうして?
王子とマリーさんを会わせるためだったのか。
それとも、《真実のカード》そのものに、まだ何か意味があるのか。
今は分からない。
ただ、アデューへ来る前には名前すら知らなかったカードが、今は目の前にある。
その事実だけは変わらなかった。
「フール!」
声を掛けられて顔を上げる。
マリーさんだった。
弟と妹を連れ、王子と一緒にこちらへ歩いてくる。
「本当にありがとう。あなたたちが家まで来てくれなかったら、私は今日ここに来てなかったと思う」
「私は話しただけですよ」
「それでもよ」
マリーさんは笑った。
昨日、小さな家で見たのと同じ笑顔だった。
王宮へ来たからといって、急に別の人になったわけではない。
それが少し嬉しかった。
赤がマリーさんの弟へ声を掛ける。
「今度は王宮でお肉いっぱい食べるでぷ!」
「食べる!」
男の子が即答する。
王子が苦笑した。
「ほどほどにな」
「いっぱい食べるのが幸せでぷ!」
赤は最後までそこだけは譲らなかった。
私たちは笑った。
王子も。
マリーさんも。
弟と妹も。
王様と王妃まで笑っていた。
その笑い声を聞きながら、私は机の上の《真実のカード》をもう一度だけ見た。
アデューへ来るまで、何のカードなのかさえ分からなかった。
でも、このカードが証明したものは難しくない。
王子が、マリーさんと二人の弟妹を本気で大切にしたいと思っていること。
そしてマリーさんが最後に信じると決めたのは、カードそのものではなく、その覚悟を見せた王子だったのだと思う。
私は鞄の上から《聖なるマップ》へそっと触れた。
この地図が次に何を見せるのかは分からない。
それでも――今回、この場所まで来てよかった。
そう思えた。




