第23話 絶対なんてない
家の中へ入ると、外から見たときよりもさらに小さく感じた。
玄関を入ってすぐの場所に食卓があり、その奥が料理をする場所になっている。壁際には三人分の食器や生活道具がきちんと並べられ、古くなった椅子や棚も壊れたところを何度も直しながら使っているようだった。
豪華な物は何一つない。
それでも部屋は綺麗に片づけられ、窓辺には小さな花まで飾られている。貧しいから暗い家なのだと勝手に想像していたけれど、実際に入ってみるとそんな感じはしなかった。
「狭くてごめんなさいね。適当に座って」
「お邪魔します」
私たちは荷物を壁際へ置き、空いている椅子や小さな台を使って食卓を囲んだ。
お姉さんが鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に野菜の甘い匂いが広がった。昨日買ったという野菜がたっぷり入ったスープにパン、それから赤が渡した骨付き肉まで料理されている。
赤の目が一瞬で輝いた。
「俺のお肉でぷ!」
「そうよ。せっかくだから、みんなで食べようと思って」
お姉さんが笑いながら皿へ分けていく。
その隣で男の子が、肉の載った皿をじっと見つめていた。
「これ、ぼく食べていいの?」
「もちろんでぷ!」
赤が胸を張った。
「お肉はいっぱい食べると幸せになるでぷよ!」
「ほんと?」
「本当でぷ!」
何を根拠に断言しているのかは分からないけれど、男の子は完全に信じたらしい。
食事が始まると、男の子は骨付き肉を両手で持ち、赤の食べ方を真似し始めた。
「こう?」
「もっと豪快にいくでぷ!」
「こう!?」
「いい感じでぷ!」
「赤、変な食べ方教えないでよ」
私が止めても二人は聞いていなかった。
赤が肉へかぶりつけば男の子も真似をし、男の子が口の周りを汚せば赤が「一人前でぷ」となぜか褒める。向かいに座っていた女の子は二人を見て笑い、お姉さんも最初は注意しようとしていたものの、最後には諦めたように一緒に笑っていた。
黄色は自分のパンを取られないよう警戒していたけれど、女の子から「ゴブリンって毎日お金数えるの?」と聞かれると、急に得意げになってお金の大切さを語り始めた。
緑はその横で静かにスープを飲んでいる。
狭い食卓に七人。
椅子も足りず、赤と男の子は小さな箱へ並んで座っていた。
それでも、楽しい食事だった。
昨日、赤が骨付き肉を渡したときは、お姉さんと弟妹に食べてもらえればそれでいいと思っていた。でも結局、私たちまで一緒に食べている。
赤の言っていた通り、たくさんの人で食べるほうが美味しいのかもしれない。
◇
食事が終わると、お姉さんは食器を片づけ始めた。
私も手伝おうとしたけれど、「お客さんなんだから座ってて」と止められてしまった。
その間に緑が本を開くと、幼い二人がすぐに寄ってきた。
「それ何?」
「本でぷよ」
「読んで!」
緑は少し戸惑ったものの、すぐに二人が楽しめそうな話を選んだ。
黄色もなぜか隣へ座り、絵があるページを見せる係になっている。
「ここにドラゴンがいるでぷ」
「でっかい!」
「このドラゴン、高そうでぷね」
「黄色、子供に変なこと教えないで」
「値段は大事でぷ」
弟と妹は意味も分からず笑っていた。
二人が緑と黄色の本へ夢中になっているのを確認してから、私は食器を片づけ終えたお姉さんへ声を掛けた。
「お姉さん。さっき言ってた話なんですけど……」
お姉さんの表情が少しだけ変わった。
「うん。何か私に話があるって言ってたわね」
私は隣の椅子を示した。
お姉さんが腰を下ろす。
どう話せばいいのか、ここへ来るまでずっと考えていた。
でも、上手い言葉は思いつかなかった。
だから、そのまま伝えることにした。
「私たち、王子様に頼まれて来たんです」
お姉さんの目が大きくなった。
「……王子様に?」
「はい」
さっきまでの柔らかな表情に、驚きと警戒が混じる。
「王子様に会ったの?」
「いろいろあって……」
王宮へ忍び込み、オラクルを助ける代わりに頼まれたところまで全部説明すると、とても長くなりそうだったので、そこは簡単に話した。
「王子様、お姉さんのことをすごく心配してました。それで、もう一度王宮へ来ることを考えてもらえないか、私たちから話してほしいって」
お姉さんはすぐには答えなかった。
弟と妹の笑い声だけが、部屋の反対側から聞こえてくる。
やがて、お姉さんは困ったように笑った。
「そう……王子様が」
「嫌ですか?」
「嫌というより……困ってるの」
お姉さんは膝の上で両手を重ねた。
「王子様の気持ちは嬉しいわ。本当に。私みたいな人を気に掛けてくれて、何度も助けたいって言ってくれた。王宮へ行けば、今よりずっといい暮らしができることも分かってる」
その視線が、弟と妹へ向いた。
男の子は緑の本を覗き込み、女の子は黄色が指差した絵を見て笑っている。
お姉さんの目が優しくなる。
「でも、この子たちのことが心配なの」
「王子様は、弟さんと妹さんも一緒に王宮で暮らせるって言ってました」
「それも聞いたわ」
「ちゃんと二人も大切にするって言ってましたよ」
お姉さんは私へ視線を戻した。
「王子様がそう言ってくれたことは嬉しい。でもね、人は嘘をつくこともあるでしょう?」
私は言葉を止めた。
お姉さんは王子が嘘つきだと言っているわけではなかった。
静かな声のまま続ける。
「今はそう思ってくれていても、ずっと同じとは限らない。王子様の気持ちが変わるかもしれないし、王宮の人たちに嫌われるかもしれない。私だけなら、自分で選んだことだから我慢できる。でも、この子たちまで巻き込んでしまったら……」
お姉さんは小さく息を吐いた。
「絶対に大丈夫なんて、ないと思うの」
私は何も言えなかった。
王子は本気だった。
それは話していて分かった。
でも、「絶対に気持ちは変わらない」と私が約束することはできない。
王宮の人たちが反対していることも聞いている。
王子の言葉を信じて、と簡単に言うこともできなかった。
部屋の中に、少しだけ沈黙が落ちた。
緑が本を読む声と、子供たちの笑い声だけが聞こえる。
そのときだった。
「お腹いっぱい食べられることが、一番の幸せでぷ」
突然、赤の声がした。
いつの間にか男の子の隣から離れ、私たちの話を聞いていたらしい。
お姉さんも赤を見る。
赤は難しいことを言おうとはしなかった。
「俺は王子のこと、まだよく知らないでぷ。ずっと約束を守るかも分からないでぷ。でも今日、みんなでいっぱい食べられて楽しかったでぷ」
赤は食卓に残った空の皿を見た。
「弟と妹もいっぱい食べられて、お姉さんもいっぱい食べられるなら、それは幸せだと思うでぷよ」
すごく単純な言葉だった。
でも、赤は本気だった。
昨日、自分の大好きな骨付き肉を渡したのも同じ理由だった。
お姉さんは赤を見つめ、少しだけ笑った。
「あなたは本当に食べることが好きなのね」
「大好きでぷ!」
「見てれば分かるわ」
空気が少しだけ柔らかくなった。
私はそこで、説得しようとするのをやめた。
私がお姉さんの代わりに決めることではない。
王子が正しいのか、お姉さんが正しいのかを選ぶことでもない。
ただ、一つだけなら言える。
「お姉さん」
「なに?」
「一回だけ、王子様と会って話してみませんか?」
お姉さんが黙った。
「王宮へ行くって決めなくていいと思います。王子様も、嫌なら無理に連れてくるつもりはないって言ってました。だから一回だけ会って、お姉さんが今心配してることを、全部王子様に言えばいいと思うんです」
私は弟と妹を見る。
「この二人のことも。王宮の人たちのことも。王子様の気持ちが変わったら怖いってことも」
お姉さんは何も答えない。
私は続けた。
「それを聞いた王子様が何て言うか、自分で聞いてから決めても遅くないんじゃないですか?」
長い沈黙が続いた。
お姉さんは弟と妹を見つめている。
二人はまだ、緑と黄色の本に夢中だった。
やがて、お姉さんは膝の上で組んでいた手をゆっくり解いた。
「……一回だけなら」
私は顔を上げた。
お姉さんはまだ迷っていた。
それでも、はっきりと言った。
「一度だけ、王子様と会って話してみる」
「本当ですか?」
「うん。でも、それで王宮へ行くと決めたわけじゃないわよ」
「もちろんです!」
私は思わず笑った。
赤も嬉しそうに笑い、少し離れたところで話を聞いていた緑と黄色もこちらを見る。
説得できたわけではない。
お姉さんの不安も、何一つなくなっていない。
それでも、閉じていた扉がほんの少しだけ開いた。
王子様が何度話しても動かなかった答えが――「一度だけ会ってみる」に変わった。




