第2話 三匹の可愛いゴブリン
波の音が聞こえる。
寄せては返す水音と、頬を撫でていく潮風。鼻をくすぐる少し塩辛い匂いまであまりに鮮明で、私は夢の中にいるとは思えなかった。
ゆっくり目を開けると、最初に飛び込んできたのは、どこまでも広がる青空だった。
「……ここ、どこ?」
身体を起こして周囲を見回し、私はしばらく言葉を失った。
目の前には透き通った海が広がり、陽の光を受けた水面が宝石を散らしたようにきらめいている。私が座っているのは真っ白な砂浜で、その先には見たこともないほど大きな木々が生い茂っていた。
振り返っても、おばあちゃんの家はない。
窓も、机も、いつものベッドもない。
代わりに聞こえてくるのは波と風、それから遠くで鳴いている聞き覚えのない鳥の声だけだった。
「本当に……来ちゃったんだ」
自分で口にして、ようやく実感が追いついてきた。
本の世界。
お父さんとお母さんがいたという場所。
胸の奥から込み上げてきたのは、怖さよりも先に好奇心だった。
立ち上がって砂を払うと、私は水平線を眺めながら大きく息を吸い込んだ。潮の匂いも、足の裏から伝わる砂の感触も本物だ。ここが本の中だと言われても信じられないくらい、世界のすべてが生きている。
「すごい……」
思わず笑みがこぼれた。
もしかしたら、この世界のどこかに二人がいるかもしれない。
そう考えただけで、じっとしていられなくなる。
「よーし。まずは、お父さんとお母さんを――」
探そう。
そう続けようとして、私は固まった。
「…………どうやって?」
海しかない。
道も分からない。
そもそも私は、この世界の国の名前すら一つも知らない。
お父さんとお母さんの名前も知らなければ、顔も知らない。どこにいたのかも分からないし、生まれてから今まで、二人について知っていることなんてほとんど何もない。
勢いだけでとんでもないところへ来てしまったのではないだろうか。
「私……もしかして、すっごく無計画だった?」
今さら気づいてしまった。
おばあちゃんに、もっといろいろ聞いておけばよかった。
そんなことを考えながら鞄を下ろしたところで、中に入れていた羊皮紙のことを思い出した。
「あ、そうだ!」
慌てて取り出して広げてみる。
本の世界へ吸い込まれる直前、この紙には確かに文字が浮かんでいた。
【MAIN QUEST】
『両親を探せ』
それだけは覚えている。
ところが、今はまた何も書かれていなかった。
「なんで消えちゃうのよ……」
紙を裏返しても白い。
光へ透かしても白い。
軽く振ってみても当然ながら何も起こらない。
「両親を探せって言われても、探し方くらい教えてくれてもいいのに……」
頬を膨らませながら羊皮紙を鞄へ戻す。
そのとき、背後で砂を踏む小さな音がした。
さくっ。
さくっ。
さくっ。
一つではない。
私は動きを止めた。
おばあちゃんは言っていた。
この世界は危険だ、と。
急に心臓が速くなる。
さっきまで美しいとしか思わなかった森まで、何かが潜んでいるように見えてきた。
私は恐る恐る振り返った。
「――あれ?」
そこにいたのは、三匹の小さな生き物だった。
私の背丈の半分ほどしかなく、三匹とも緑色の肌に尖った耳をしている。
絵本で見たことがある。
たしか、こういう生き物は――。
「ゴブリン……?」
呟いた途端、三匹の肩がぴくりと動いた。
私は慌てて口を押さえる。
しまった。
聞こえた。
しかも、よく考えたらゴブリンって怖い魔物じゃなかったっけ?
武器を持って人間を襲ったり、洞窟に住んでいたりするような……。
私は逃げたほうがいいのか迷った。
ところが、目の前の三匹を見れば見るほど、想像していたゴブリンとは違っている。
三匹とも丸く大きな目で、こちらをじーっと見上げていた。鼻も耳も少し大きいけれど、凶暴そうというより、どこか愛嬌がある。
しかも格好がおかしい。
一匹目は赤い服を着ていて、両腕で自分の顔ほどもある骨付き肉を抱えている。
二匹目は緑色の服を着て、分厚い本を大事そうに小脇へ抱えていた。
三匹目は黄色い服で、手には金貨らしきものがぎっしり詰まった袋を持っている。袋を動かすたびに、じゃらじゃらと景気のいい音が鳴った。
怖い。
……というより、可愛い。
私はしばらく三匹と見つめ合ったあと、とりあえず敵意がないことを伝えようと頭を下げた。
「あ、あの……こんにちは」
知らない世界で初めて交わす挨拶。
三匹は顔を見合わせた。
次の瞬間だった。
「女の子でぷー!」
「人間の女の子でぷ!」
「可愛いでぷー!」
「えっ!? ちょ、ちょっと待って!」
三匹が一斉に駆けてきた。
赤い子は骨付き肉を抱えたまま私の足へしがみつき、緑の子は目を輝かせながら私の周りをぐるぐる回り、黄色の子はなぜか私の服を摘まんで生地を確認している。
「名前はなんていうのでぷ?」
「どこから来たのでぷ?」
「そんな格好で旅をしたら危ないでぷよ!」
「いっぺんに聞かないでよぉ!」
さっきまでの緊張はどこへやら。
私は三匹に囲まれたまま、思わず笑ってしまった。
ゴブリンは怖い魔物だと思っていたのに、この子たちからは怖さなんて少しも感じない。
それどころか、三匹とも私のことが気になって仕方ないらしい。
「私はフール。よろしくね」
「フールでぷ!」
「フールちゃんでぷ!」
「覚えたでぷ!」
三匹が嬉しそうに飛び跳ねる。
どうやら語尾には必ず「でぷ」が付くらしい。
赤い子は飛び跳ねた拍子に骨付き肉を落としかけ、「お肉ぅ!」と慌てて抱き直した。緑の子はその横で呆れたように本を開き、黄色の子は落ちていた小さな貝殻を拾うと、なぜか値踏みするように眺めている。
見た目はそっくりなのに、性格はまるで違いそうだった。
「三人って、兄弟なの?」
「そうでぷ!」
「三兄弟でぷ!」
「ずっと一緒でぷ!」
三匹がほとんど同時に答える。
「へえ……兄弟なんだ」
その言葉が、少しだけ胸に残った。
ずっと一緒。
なんだか羨ましい。
私にも、お父さんとお母さんがいる。
いるはずなのに、私は二人と一緒にいた記憶が一つもない。
そのことを考えた途端、さっきまで浮かれていた気持ちが少しだけ沈んだ。
緑の子が私の顔を覗き込む。
「フールちゃん、どうしたのでぷ?」
「……私ね」
言うべきか少し迷った。
出会ったばかりの相手だ。
それでも、この世界で初めて話した相手がこの三匹だったからなのか、不思議と隠す気にはならなかった。
私は砂浜へ腰を下ろし、三匹と目線を合わせた。
「私、お父さんとお母さんを探すために、この世界へ来たの」
三匹の表情が変わった。
「パパとママをでぷっ?」
「うん。でもね……二人の名前も知らないし、顔も知らないの。どこにいるのかも分からない」
自分で説明しているうちに、とんでもなく難しいことをしようとしているのだと改めて思い知らされた。
「おばあちゃんから、この世界に両親の手がかりがあるって教えてもらったんだけど、それだけなの。だから、まず何をしたらいいのかも分からなくて……」
最後のほうは、声が小さくなってしまった。
けれど三匹は笑わなかった。
赤い子は大事な骨付き肉を砂の上へ置き、緑の子は本を閉じ、黄色の子も金貨の袋から手を離した。
三匹だけで顔を寄せ合う。
何かを相談しているらしく、「どうするでぷ?」「決まってるでぷ」「そうするでぷ」と小声が聞こえてくる。
やがて三匹は同時に私へ向き直った。
赤い子が胸を張る。
「それなら、俺たちも一緒に探すでぷ!」
「……え?」
今度は緑の子が本を抱え直した。
「俺は本をいっぱい読んでるでぷ。この世界のことなら、フールちゃんより知ってるでぷ!」
黄色の子は金貨の袋を掲げ、得意げにじゃらりと鳴らした。
「旅にはお金も必要でぷ。俺に任せるでぷ!」
最後に赤い子が骨付き肉を高く掲げた。
「そして腹が減ったら、お肉を食べるでぷ!」
「それ、全部あなたが食べたいだけじゃない?」
「ばれたでぷ!?」
思わず吹き出した。
三匹も笑う。
本の世界へ来てから、初めて心の底から笑った気がした。
知らない場所に一人で放り出されたと思っていた。
何から始めればいいのかも分からず、本当は少し心細かった。
なのに、最初に出会った三匹が、何の迷いもなく「一緒に探す」と言ってくれた。
「でも……本当にいいの? いつ見つかるか分からないよ?」
「いいでぷ!」
「困ってるなら助けるでぷ!」
「三匹いればなんとかなるでぷ!」
「そこ、私を入れて四人じゃないの?」
三匹がそろって固まった。
それから指を一本ずつ立てて数え始める。
「いち、に、さん……」
三匹の視線が私へ集まった。
「……四人でぷ!」
「今気づいたの!?」
また笑ってしまった。
この子たちと一緒なら、本当に何とかなるような気がしてくるから不思議だ。
私は立ち上がり、服についた砂を払った。
「じゃあ、よろしくね。赤、緑、黄!」
「任せるでぷ!」
「まずはこの世界のことを教えるでぷ!」
「それからお金でぷ!」
「その前にお肉でぷ!」
「もう、お肉は後!」
「そんなぁ……でぷ」
赤い子が耳まで垂らしたので、緑と黄が笑い出す。
私も笑った。
お父さんとお母さんを探す旅。
どこへ行けばいいのか、まだ分からない。
何が待っているのかも知らない。
それでも、一人ではなくなった。
そう思っただけで、目の前に広がる知らない世界が、さっきよりずっと楽しそうに見えた。
そのとき、鞄の中から微かな光が漏れた。
「……ん?」
取り出したのは、あの真っ白な羊皮紙だった。
さっきまで何もなかった紙面に、今度は細い線が浮かび上がっている。
海岸。
森。
一本の道。
そして、遠く離れた場所に小さな印があった。
「これって……地図?」
緑の子が身を乗り出し、大きな目をさらに丸くした。
「フールちゃん。それ――」
風が吹き、羊皮紙が私の手の中でぱたぱたと揺れる。
印のそばには、見覚えのない文字が一つだけ浮かび上がっていた。
私はその文字を、なぜか読むことができた。




