第196話 傷を癒すために必要な事
「もしかしたら……これ、使えるかもしれない」
私は《合成の聖杯》を両手で抱えたまま、もう一度白蛇を見た。
けれど、そう口にした直後、胸の中に浮かんだ期待へ自分で待ったを掛けた。
この聖杯があれば何でも作れるわけではない。
ゴブリン王国で手に入れてから何度か確認してきたけれど、必要な素材も、作りたいものの性質も分からないまま放り込めば、都合よく欲しいものが完成するような道具ではなかった。
まして今回は、傷薬を一つ作れば済むような話ではない。
メロウの《アース・ヒール》さえ拒絶した、正体の分からない黒い傷。
何を作ればいいのかすら、まだ分かっていない。
「使えるかもしれねえが、今じゃねえな」
オラクルも同じことを考えたらしい。
「材料も分からねえ、必要な効果も分からねえ。それで適当に混ぜたら、助けるどころか何ができるか分からん」
「うん。私も今そう思った」
「珍しく早かったな」
「一言多い!」
いつもなら言い返して終わるところだったけれど、今日はそれ以上続けなかった。
聖杯を布の上へ戻す。
使えないと決まったわけではない。
ただ、使うなら順番がある。
まず、何が必要なのかを知る。
シャイニーさんは白蛇を見つめたまま、静かに口を開いた。
「我が主。先ほどメロウ殿の癒やしが弾かれたとき、私にも一つ分かったことがあります」
「何?」
「傷を覆う闇そのものが、癒やしを拒んでいます。あれを残したまま外から傷だけを治そうとしても、おそらく同じことが起きるでしょう」
メロウも頷いた。
「わしもそう見た。普通の怪我なら、癒やしの力が傷口へ入れば少なからず反応がある。じゃが今回は、傷へ届く前に弾かれた。先に邪魔しとるものをどうにかせんと話にならん」
「じゃあ、黒いのを取ればいい?」
「言葉だけなら簡単じゃがのう」
メロウは苦い顔をした。
「あれが呪いなのか、毒なのか、魔力そのものなのか、それすらまだ分からん。無理に剥がして白蛇の命まで削ったら取り返しがつかんぞい」
私は黙って白蛇を見た。
青い目は、まだこちらを向いている。
逃げない。
襲わない。
ただ、小さな身体を丸めて痛みに耐えている。
助けたいから何かをする。
その気持ちは間違っていないと思う。
でも、何をすればいいか分からないまま手を出すのは、さっきまでティアラを取ろうとしていたのと変わらないのかもしれない。
「シャイニーさん」
「はい」
「リリアスさんは、こういう傷を治せる力を持ってなかったの?」
シャイニーさんは少し驚いたように目を見開いた。
それから、遠い記憶を探るように視線を伏せる。
「リリアスは極めて強い再生力を持つ聖獣でした。傷を負っても、清らかな水と十分な時間があれば、その白き身体は自ら元へ戻っていったものです」
「じゃあ、この子も?」
「本来なら、その性質を多少は受け継いでいるはずです」
シャイニーさんの表情が曇る。
「だからこそ、おかしいのです。傷が治らないだけではありません。再生しようとする力そのものを、あの闇が内側から食い潰しているように感じます」
「自分で治ろうとしてるのに、それを邪魔されてる……」
「ええ」
それを聞いて、さらに苦しくなった。
この子は何もしていないわけではない。
ずっと自分で治ろうとしている。
でも、そのたびに黒い何かが邪魔をする。
どれくらいの間、そうしていたのだろう。
数日。
数か月。
それとも、もっと長い時間。
私は考えかけてやめた。
今知るべきなのは、苦しんだ時間の長さではない。
どうすれば終わらせられるかだ。
「一回、教会へ戻る?」
フランが提案した。
「記録を調べ直すのもありだと思う。地下三階まで来た人の記録はほとんどないけど、リリアスとか、黒い傷について別の資料があるかもしれない」
「賛成」
リリィも頷く。
「ここで手持ちだけ眺め続けるより、一度情報を増やしたほうがいい」
ロロットは台座を見た。
「この子をここに置いていくことになるけど、大丈夫なのか?」
その言葉に、私は答えられなかった。
白蛇を連れて帰ることはできない。
そもそも近づけない。
でも、助ける方法を探すためとはいえ、このまま離れるのも嫌だった。
シャイニーさんがそんな私の顔を見て、優しく言った。
「我が主。ここを離れることは、見捨てることではありません」
「でも……」
「何も分からぬまま傍に留まり続けても、あの子の傷は癒えません。助けるために必要なものを探し、必ず戻ってくる。それもまた、あの子のためにできることです」
分かっている。
それでも私は白蛇を見た。
青い目。
苦しそうなのに、こちらを見続けている。
「待っててくれるかな」
誰に聞いたわけでもなかった。
そのとき、白蛇が僅かに頭を動かした。
ほんの少し。
見間違いかもしれないほどの動きだった。
でも私には、頷いたように見えた。
「……戻ってくるからね」
私は白蛇へ言った。
「絶対、方法見つけてくるから」
返事はない。
それでも言っておきたかった。
オラクルが荷物をまとめ始める。
「なら決まりだ。戻るぞ。地下二階の道はマップに残ってる。来たときよりは早く戻れるはずだ」
「その前に」
メロウが言った。
全員が見る。
「記録を取らせてくれ。傷の位置、色、白蛇の反応、床との関係。教会へ戻って資料を探すなら、できるだけ正確な情報が必要じゃ」
「近づかないならいいよ」
「分かっとる!」
メロウは円の外側から観察を始めた。
黒い亀裂が最も濃い場所。
身体の側面。
鱗の下へ入り込むように広がっている線。
白蛇が動いたときの変化。
シャイニーさんも、自分に分かる範囲でリリアスの特徴を伝えていく。
「リリアスの血を引く者の鱗は、本来なら傷が癒える過程で古い表層が剥がれ、新しい白鱗へ生まれ変わります」
メロウの筆が止まった。
「待て」
「どうされました?」
「今、古い表層が剥がれると言ったか?」
「ええ。少なくとも、私が知るリリアスはそうでした」
メロウの顔が変わる。
私も何となく引っ掛かった。
「皮が剥がれるってこと?」
「蛇の脱皮とまったく同じとは言えませんが、近い現象です。大きな傷を再生したあとは、傷んだ表層が薄い膜となって剥がれ落ちることがありました」
私は白蛇を見る。
純白の鱗。
その隙間にある黒い傷。
もし、この子を治すことができたら。
傷んだ皮膚が剥がれる。
その言葉が、どこかで聞いた何かと繋がりそうな気がした。
「メロウさん?」
メロウは紙を見つめている。
「いや……まだじゃ。まだ材料が足りん」
「何か思いついた?」
「思いつきだけで口にすると、お前さんが走り出すからのう」
「走らないよ!」
「本当か?」
「……たぶん」
「ほれ見ろ!」
少しだけ空気が緩んだ。
でも、メロウはすぐ真剣な顔へ戻った。
「教会で調べよう。リリアスの系譜、白蛇の再生、それから《氷結のティアラ》そのものについてじゃ。あれがどう作られた物なのか分かれば、この皮膚の話とも繋がるかもしれん」
「ティアラの作り方?」
「今あるティアラを奪う方法ばかり考えておったが、そもそもあれが何なのか、わしらはほとんど知らん。名前と、強い氷の力を持つらしいことだけじゃ」
確かにそうだった。
取ることばかり考えていた。
でも、作られた物なら材料がある。
もし同じ物を作れるなら。
私は《合成の聖杯》を見る。
今度はさっきより意味のある道筋が見えた。
それでも、まだ答えではない。
必要な材料も、方法も分からない。
「じゃあ戻ろう」
私は聖杯を鞄へしまった。
「教会で全部調べる。それから決めよう」
「それがよい」
メロウも記録を片づける。
フランとリリィが装備を確認し、ロロットは置いていた大剣を背負い直した。
シャイニーさんだけが、まだ白蛇を見ていた。
「シャイニーさん?」
「もう少しだけ」
声が静かだった。
私は待った。
シャイニーさんは円の境界より外側に立ったまま、白蛇へ向かってゆっくり片手を胸へ当てた。
「あなたの祖先に、私は幾度となく助けられました。荒れた海で傷ついた眷属を守ってくれたことも、凍える命へ道を開いてくれたことも、今でも覚えています」
白蛇が青い目を向ける。
「長い時を越え、その血を継ぐあなたと出会えたことを、私は嬉しく思います。だからこそ、今度は私たちが返す番です」
シャイニーさんの声が、僅かに震えた。
「どうか、もう少しだけ待っていてください。次にここへ来るときは、あなたを苦しませるためではありません」
白蛇は動かなかった。
でも、その青い目が一度だけゆっくり閉じ、また開いた。
シャイニーさんはそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
悲しそうで、それでも温かい笑顔だった。
「ありがとう」
小さく呟く。
そして私のほうへ戻ってきた。
「参りましょう、我が主」
「うん」
私は最後にもう一度、台座を見た。
《氷結のティアラ》はそこにある。
少し前まで、あれしか見えていなかった。
どうやって取るか。
どうすれば火山へ持っていけるか。
そればかり考えていた。
今は、その隣にいる小さな白蛇のほうがずっと気になる。
たぶん、ここへ来た意味はティアラを見つけることだけではなかった。
私たちは来た道を戻り始めた。
《聖なるマップ》には、地下三階まで進んだ道がしっかり残っている。
迷わず帰れる。
そして、また戻ってこられる。
私は歩きながら鞄へ手を当てた。
中には《合成の聖杯》。
まだ何を作るのかは分からない。
必要な材料も分からない。
それでも、さっきまでとは違う。
探すべきものが少しだけ見えてきた。
白蛇を治す方法。
リリアスの再生についての記録。
《氷結のティアラ》が何から作られたのか。
その三つを調べる。
そして必ず、ここへ戻ってくる。
私は一度だけ振り返った。
遠くなった氷のドームの中央で、小さな白蛇の青い目だけが、まだこちらを見ていた。




