第195話 届かない癒やし
白蛇の青い目が、ゆっくりと開いた。
さっきまでとは違って、私たちを警戒しているようには見えなかった。細い瞳はシャイニーさんを真っ直ぐ見つめ、身体を丸めたまま動こうとしない。
それでも、鱗の隙間に走る黒い亀裂だけは消えていなかった。
むしろ目を開いたことで身体へ力が入ったせいか、黒い筋の一部が脈打つように僅かに明滅している。そのたびに周囲の冷気が強まり、台座を囲む床の溝へ青白い光が流れていた。
私は思わず一歩進みかけたけれど、自分で止まった。
今は近づくことが助けになるとは限らない。
「シャイニーさん」
「ええ。始めましょう。ただし、慎重に」
シャイニーさんの声には、いつもの落ち着きが戻っていた。
でも、完全に同じではない。
白蛇を見るたび、瞳の奥に悲しみが浮かぶ。大昔に共に海を守った聖獣。その血を受け継ぐ最後の子孫が、誰にも助けを求められないまま、この地下でどれほど長く苦しんでいたのか。
シャイニーさん自身にも分からないのだと思う。
だからこそ、今度は間違えたくない。
そんな気持ちが、言葉にしなくても伝わってきた。
メロウが鳥の顔付きの杖を握り直す。
「まずは弱くじゃな。いきなり傷を治そうとはせず、どの程度まで癒やしの力を受け入れられるか確かめる」
「お願いします」
シャイニーさんが白蛇へ向き直る。
両手を胸の前で重ねると、周囲へ漂っていた水滴が静かに集まり始めた。
地下第一階でアクア・リヴァイアスを呼んだときとは、まるで違う。
勢いもない。
轟音もない。
透明な水が細い帯となり、円形の足場の外側から白蛇を包むようにゆっくり広がっていく。
水が中央の円へ近づいた瞬間、床の溝が淡く光った。
私は身体を強張らせた。
「シャイニーさん……」
「まだ大丈夫です」
シャイニーさんは白蛇だけを見ている。
「床ではなく、あの子を見てください。我が主」
言われて、私は台座へ視線を戻した。
白蛇の身体に変化はない。
暴れない。
黒い傷も強く光っていない。
むしろシャイニーさんの水が近づくにつれ、張り詰めていた身体から僅かに力が抜けたように見えた。
「嫌がってない?」
『うん』
メリーも私の肩からじっと見ている。
『さっきより少しだけ、苦しいの弱くなった』
「よし」
メロウが杖を構えた。
「なら次じゃ。治すのではなく、まず触れる程度の力から試すぞい」
「メロウさん」
私は呼び止めた。
「何じゃ?」
「絶対、無理しないでね。この子が苦しそうになったらすぐやめて」
メロウは少しだけ目を丸くしてから、真剣に頷いた。
「分かっとる。わしだって、研究のために生き物を苦しめたいわけではない」
いつもの軽い調子ではなかった。
「知らんものを知りたい気持ちと、目の前の命を雑に扱うことは別じゃ」
「うん」
「それに――」
メロウは白蛇を見る。
「ここまで生き延びた小さな命じゃ。できることなら助けたい」
シャイニーさんがメロウへ僅かに頭を下げた。
「感謝します」
メロウは照れたように鼻の下を擦り、それから表情を引き締めた。
鳥の杖の先端へ、淡い緑色の光が集まる。
「大地の慈悲よ、傷つきし命へ安らぎを――《アース・ヒール》」
緑色の光は、いつものように真っ直ぐ白蛇へ飛んではいかなかった。
シャイニーさんの水へ触れる。
水が光を受け止め、それを薄く広げながら白蛇の周囲へ運んでいく。
最初は何も起きなかった。
白蛇も動かない。
黒い傷にも変化はない。
メロウが少しだけ魔力を強める。
緑の光が濃くなる。
シャイニーさんの水を通り、白蛇の身体へ近づいていく。
あと少し。
鱗へ届く。
私は息を止めた。
治って。
ほんの少しでもいい。
黒い線が一本だけでも消えてくれれば、それで方法が間違っていないと分かる。
緑の光が、白い鱗へ触れた。
キィィン――!
甲高い音がドーム全体へ響いた。
「っ!」
メロウの杖が大きく弾かれる。
同時にシャイニーさんの水が飛び散り、白蛇を覆っていた緑色の光が一瞬で霧散した。
「メロウさん!」
私は駆け寄ろうとして、円の外側にいることを確認してから近づいた。
メロウは倒れていない。
鳥の杖を両手で握り、数歩後退しただけだった。
「大丈夫!?」
「わしは平気じゃ!」
それより、とメロウが白蛇を見る。
私も振り返った。
白蛇の身体が震えていた。
黒い亀裂がさっきより濃くなり、鱗の隙間から細い黒煙が立ち上っている。
「止めて!」
言うまでもなかった。
メロウはすでに魔法を解除している。
シャイニーさんも残った水をすぐ引き戻し、白蛇へ余計な力が触れないよう距離を取った。
床の溝が強く光る。
ミシッ、と円形の足場から嫌な音がした。
「全員下がれ!」
オラクルの声で、私たちはさらに後退した。
でも床は崩れなかった。
数秒。
十秒。
白蛇の身体から少しずつ力が抜け、黒い亀裂の光も弱まっていく。
それに合わせて床の溝も暗くなった。
やがて最初と同じ静けさが戻った。
私は息を吐いた。
「……よかった」
また床が崩れるかと思った。
でも、安心している場合ではない。
治らなかった。
メロウの《アース・ヒール》は、傷へ届く前に弾かれた。
「どうして?」
メロウも信じられないように杖を見ていた。
「わしの治癒が効かんというより……届いておらん。癒やしの力そのものを、あの黒い何かが外側で拒絶しおった」
シャイニーさんは何も言わなかった。
白蛇を見つめたまま、唇を僅かに噛んでいる。
「シャイニーさん?」
呼びかけると、ようやくこちらを向いた。
「……申し訳ありません。我が主」
「何で謝るの?」
「私がもっと早く、この傷の深さを見抜いていれば、あの子へ余計な痛みを与えずに済みました」
声は静かだった。
でも、自分を責めている。
「シャイニーさんのせいじゃないよ」
「ですが――」
「私たちだって分からなかった」
私は白蛇を見る。
「三回もティアラ取ろうとした。あの子が苦しいって知らなかったから。でも、今は分かった。だったら次は、苦しくない方法を探せばいいんだよ」
シャイニーさんが私を見る。
私は自分でも少し驚いていた。
さっきシャイニーさんに言われたことを、そのまま返している。
知らなかったことを悔やんでいるだけでは助けられない。
気づいたなら、ここから選べる。
「だから一緒に考えて」
少しの沈黙のあと、シャイニーさんの表情が柔らかくなった。
「……ええ」
ほんの少しだけ笑う。
「我が主は、ときどき私よりも強いことを仰いますね」
「私のほうが強い?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ何?」
「今は秘密です」
こんなときなのに、少しだけいつものシャイニーさんへ戻った。
それが嬉しかった。
メロウはすでに考え始めている。
「問題は、普通の傷ではないということじゃ。肉体を治すだけなら《アース・ヒール》は届く。しかし今のは、傷そのものが癒やしの力を拒絶しおった」
「闇の力が邪魔してる?」
フランが尋ねる。
「そう考えるのが自然じゃな。ただし、闇を消せば治るとまでは言えん。原因が分からん以上、下手に強い魔法をぶつけるのは危険じゃ」
「もっと強い回復魔法なら?」
私が聞く。
メロウはすぐには頷かなかった。
「必要になる可能性はある。しかし単純に出力を上げればよいとは限らんぞい。今のように拒絶されるなら、強い癒やしほど反発も大きくなるかもしれん」
シャイニーさんも同意した。
「ええ。あの子へ無理に力を流し込むことは避けるべきでしょう」
また行き止まり。
でも、ティアラを取れなかったときとは少し違う。
あのときは、どうやって罠を破るか考えていた。
今は、どうやって一つの命を助けるか考えている。
私は白蛇を見つめた。
「何があれば治せるんだろう」
誰に聞いたわけでもなかった。
メリーが私の肩で考えるように首を傾げる。
フランも、リリィも、ロロットも黙っている。
オラクルは荷物へ視線を落とした。
「一回、持ってる物を全部整理するぞ」
「全部?」
「ああ。こういうときに、使える物を持ってるのに忘れてましたじゃ笑えねえ。回復に使えそうな物だけじゃなく、効果が分からねえ物も含めて確認する」
「それいい」
私たちは円形の足場から十分に離れた場所へ移動し、鞄を開いた。
《聖なるマップ》。
《幻獣種召喚の本》。
《聖なる白銀の鍵》。
旅の途中で手に入れた道具。
治療用品。
保存食。
そして、ゴブリン王国からずっと持ってきたもの。
一つずつ確認していく。
その中で、私の手がある物の上で止まった。
見覚えのある聖杯。
ゴブリン王国で王様から受け取った、《合成の聖杯》。
「これ……」
オラクルも気づいた。
「《合成の聖杯》か」
私は両手で持ち上げた。
複数の素材を合わせ、別の物を作り出すための聖杯。
今までとは違う考えが頭へ浮かびかける。
治す力そのものがないのなら。
必要なものを――作ることはできないだろうか。
でも、まだ材料も方法も分からない。
勝手に答えを作ってはいけない。
私は聖杯を抱えたまま、白蛇を見た。
「もしかしたら……これ、使えるかもしれない」
シャイニーさんも《合成の聖杯》へ視線を落とす。
メロウは顎へ手を当て、考え込んだ。
今度は誰もすぐに答えを出さなかった。
白蛇を救うために必要なものが何なのか。
それを見つけることから、次の攻略は始まるのだと思った。




