第192話 見えているのに、そこにいない
目の前のフランと、《聖なるマップ》が示すフランの位置が違っていた。
私はすぐには動かなかった。
さっきまでなら、地図がおかしくなったと思ったかもしれない。でも地下第二階へ入ってから、私たちはすでに一度、自分の目を騙されている。巨大な氷柱に姿を屈折させられたロロットが三人に見えたばかりだ。
なら、疑う順番を間違えてはいけない。
私は目の前のフランを指し、それから《聖なるマップ》をリリィへ見せた。
地図の上では、フランを示す印が私たちから右へ離れ続けている。もう数歩という距離ではない。厚い氷壁を挟んだ向こう側、別の通路らしい場所まで移動していた。
リリィの表情が変わった。
すぐ後ろを見る。
そこにはフランがいる。
リリィも地図と見比べ、何かを確かめるように目の前のフランへ手を伸ばしかけた。
私は慌てて腕を掴んだ。
音は聞こえない。
それでも首を横へ振る。
触るのも待って。
何が起こるか分からない。
リリィはすぐ理解し、手を戻した。
フランらしき姿は、そんな私たちを不思議そうに見ている。
口を動かしている。
何か言っている。
でも聞こえない。
私は背中へ冷たい汗が流れるのを感じた。
見た目はフランそのものだった。
服も同じ。
腰には光る短剣。
火山で傷めた右腕を無意識に庇う癖まで似ている。
鏡像?
そう考えかけて、違和感があった。
地下第一階の鏡像なら、こちらへ攻撃してきた。
でも目の前のフランは何もしていない。ただ、私たちが急に警戒し始めた理由が分からないような顔をしている。
それに――。
私は少しだけ横へ移動した。
目の前のフランの輪郭が揺れた。
もう一歩。
顔が細長く歪む。
さらに一歩動くと、身体の半分が氷柱の中へ沈んだように見えた。
「……やっぱり」
自分の声は聞こえない。
でも、もう分かった。
あれは偽物ではない。
本物のフランだ。
ただし、そこにはいない。
厚い氷が遠くにいるフランの姿を曲げ、まるですぐ後ろに立っているように見せている。
私は《聖なるマップ》を見た。
右側の別通路にいるフランの印は、まだ動いている。
つまり本物は、いつの間にか私たちから離れてしまった。
いつ?
考える。
巨大な氷柱の間を抜けたとき。
ロロットが三人に見えた。
みんなの注意がそちらへ向いた。
そのあと中央の道を進んだ。
音がないから、フランが違う方向へ進んでも足音は聞こえない。
そして私たちは、氷に映ったフランを本人だと思い込んでいた。
胸が苦しくなった。
すぐ探さないと。
私は地図の右側を指し、全員へ見せた。
ロロットがすぐ動こうとする。
オラクルが腕を伸ばして止めた。
そして地面を指し、次に私たち全員を指す。
一緒に行く。
たぶんそういう意味だ。
私は頷いた。
ここでフランを探すために、さらに別の誰かが一人で動けば同じことが起きる。
リリィが紙を取り出した。
《全員、身体を繋ぐ》
なるほど。
荷物から細い縄を取り出す。
腰へ直接きつく結ぶのではなく、外套の上から互いの間に余裕を持たせて繋いでいく。ロロット、リリィ、私、メロウ、オラクル。メリーは私の肩から離れない。
フランの分だけ、一本余った。
その縄を見ると、急に怖くなった。
さっきまでいたのに。
声が聞こえないだけで、こんなに簡単に離れてしまう。
私は余った縄を鞄へ戻し、《聖なるマップ》を両手で持った。
フランの印は止まっていた。
右側。
今いる場所から直線なら近い。
でも、その間には分厚い氷壁がある。
オラクルが地図を指し、迂回路を探すよう手を動かす。
私たちは来た道を少し戻った。
縄があることで、誰かが氷柱の陰へ入っても位置が分かる。姿が三つに増えても、縄が繋がっている方向を見れば本物を判断できた。
少し安心できる。
ただ、進むほど地下第二階の異常さが分かってきた。
氷壁へ映る仲間の姿は、単純な反射ではない。
真横にいるはずのロロットが遠くの氷壁へ小さく映り、逆に何十歩も先にいるはずのリリィが目の前にいるように大きく見える場所まであった。
曲がった氷の層が、光を複雑に屈折させている。
しかも音がない。
呼んで確かめることもできない。
目だけで追えば、簡単に迷わされる。
リリィが突然止まった。
縄が張り、全員も止まる。
床を指している。
見ると、雪ではなく薄い霜の上に僅かな跡があった。
靴。
新しい。
フランのものかもしれない。
リリィはしゃがみ込み、跡の形を確かめると大きく頷いた。
そこからはリリィの追跡と《聖なるマップ》を両方使った。
足跡は右へ。
地図のフランも右。
一致している。
少し進むと足跡が消えた。
でも地図には位置が残る。
今度は《聖なるマップ》を頼る。
一つだけに任せない。
二つ使えるなら二つ。
途中で氷壁に映るフランの姿を何度も見た。
一度は左。
次は正面。
でも地図は右を示している。
もう騙されない。
私は右へ進んだ。
やがて通路が二つに分かれた。
地図を見る。
フランは右。
リリィも右側の床を調べる。
足跡があった。
全員で進む。
そして巨大な氷柱を回り込んだところで、本物のフランを見つけた。
壁際に立ち、こちらを見ている。
今度はすぐに近づかなかった。
地図を見る。
印は目の前。
縄を繋いだ私たちの位置とも一致している。
リリィが床を見る。
フランの足跡が、本人の足元まで続いている。
本物。
私は一気に駆け寄りそうになった。
でも床は氷。
走らない。
早歩きで近づく。
フランも私たちを見つけたらしく、明らかにほっとした顔をした。
「――――!」
何か言っている。
聞こえない。
私はフランの腕を掴んだ。
今度は触れた。
ちゃんといる。
「よかった……」
自分の声さえ聞こえないけれど、それでも言った。
フランも私の肩へ手を置き、何度も頷いた。
リリィが紙を渡す。
《どうして離れた?》
フランが書く。
《ずっと一緒にいたつもりだった》
全員が紙を見る。
続き。
《氷柱を曲がったあとも、前にフールたちが見えていた》
背筋が冷えた。
私たちだけではない。
フランも騙されていた。
《追いかけたら、急に全員消えた》
その下へ、
《戻ろうとしたけど、どこから来たか分からなくなった》
と書いた。
もし《聖なるマップ》がなかったら。
そう考えると怖かった。
フランは地図を見る。
そして私を見た。
口が動く。
音は聞こえない。
でも何となく分かった。
ありがとう。
私は首を横へ振った。
一人で見つけたわけではない。
リリィが足跡を見つけた。
オラクルが全員をまとめた。
みんなで来た。
私は余っていた縄を取り出し、フランにも繋いだ。
これで六人。
メリーは私の肩。
もう離れない。
オラクルが紙へ大きく書いた。
《この階では視界を信用しすぎるな》
その下に、
《縄・地図・足跡。最低二つで確認》
全員が頷いた。
地下第二階の攻略方法が、少しずつ分かってきた。
敵を倒す場所ではない。
自分の目と耳を信用しすぎた者から、仲間とはぐれていく場所。
私たちは縄を繋いだまま探索を再開した。
今度は《聖なるマップ》を開いた状態で進む。
歩いた道が少しずつ地図へ刻まれていく。
中央の通路。
右へ分かれた道。
フランを見つけた場所。
そこからさらに奥。
途中で何度か行き止まりに当たった。
戻る。
別の道。
また行き止まり。
地図に線が増えていく。
それはまるで、真っ白だった紙へ自分たちで迷路を書いているようだった。
どれくらい歩いただろう。
やがて地図の形に変化が出始めた。
探索した道が少しずつ繋がり、一つの大きな輪郭を作っている。
その中で、一か所だけ妙な場所があった。
私は足を止めた。
みんなも縄に気づいて止まる。
《聖なるマップ》を見る。
今いる通路の先。
地図では、そのまま前へ道が続いている。
でも。
顔を上げる。
目の前には巨大な氷壁があった。
左右へ何十歩も続き、天井まで完全に塞いでいる。
道なんてない。
私は地図を見る。
もう一度、壁を見る。
やっぱり道がある。
地図にははっきりと、氷壁の向こうへ細い線が続いていた。
リリィも気づいた。
地図を覗き込み、壁を見る。
首を傾げる。
メロウも来る。
全員で同じものを見る。
《聖なるマップ》では道。
現実では壁。
さっきのフランと同じだった。
また地図と目が違う答えを示している。
でも今度は、私はすぐに地図を疑わなかった。
フランのとき、正しかったのは《聖なるマップ》だった。
間違っていたのは、自分の目だった。
私は紙を取った。
《地図じゃなくて、壁のほうが嘘だったら?》
みんなへ見せる。
オラクルの目が細くなった。
リリィが壁へ近づく。
触れる寸前で止まり、横へ移動しながら表面を観察する。
メロウも杖を向ける。
ただし触らない。
少し調べたあと、メロウが紙へ書いた。
《魔法の壁には見えん》
その下へ続ける。
《だが氷の厚さがおかしい》
私は首を傾げた。
メロウは壁の右端と左端を指し、次に中央を示す。
《両端より中央だけ薄い》
リリィも何か見つけた。
壁の下。
床との境目。
そこへ指を向ける。
よく見ると、ほんの僅かな隙間があった。
空気が動いている。
音は聞こえない。
でも、床に落ちていた細かな氷の粉が僅かに揺れていた。
壁の向こうから風が来ている。
なら、向こうには空間がある。
私は胸が高鳴るのを感じた。
「道、あるんだ」
聞こえない声で呟く。
ロロットが大剣へ手を伸ばした。
私はすぐ腕を掴んだ。
ロロットが不満そうな顔をする。
私は紙へ書いた。
《まだ壊さない》
ロロットが肩を落とした。
その顔がおかしくて少し笑った。
まず調べる。
メロウが壁へ弱い重力を掛けた。
何も起きない。
少し強くする。
中央部分だけ、表面が僅かに震えた。
自然の氷壁なら、こんなふうに一枚だけ揺れるだろうか。
リリィが壁の端を調べ、細い線を見つけた。
継ぎ目。
巨大な壁に見えていたものは、一枚の薄い氷板だった。
「扉?」
声は聞こえない。
でもみんな同じことを考えたらしい。
ロロットが今度は勝手に大剣を抜かず、メロウを見る。
メロウが頷く。
リリィも安全を確認する。
オラクルが最後に親指を立てた。
ようやく許可が出た。
ロロットが嬉しそうに大剣を抜く。
音はしない。
それが逆に不気味だった。
巨大な刃を振りかぶる。
一撃。
衝撃は足元から伝わった。
氷板へ大きな亀裂が走る。
二撃目。
中央が崩れた。
音もなく、大量の氷が床へ落ちる。
向こう側から冷たい空気が流れ込んできた。
穴の先には、細い通路が続いていた。
《聖なるマップ》に描かれているとおり。
私は地図と現実を見比べた。
今度は一致している。
道がある。
地下第二階は、目に見える道を探す場所ではなかった。
見えているものを疑い、それでも仲間と確かめながら進む場所だったのだ。
私たちは氷板の残りを安全に崩し、一人ずつ隠されていた通路へ入った。
不思議なことに、十歩ほど進んだところで最初の変化が起きた。
コツ。
小さな音。
私は足を止めた。
今、聞こえた。
メロウが杖を床へ当てる。
コツン。
今度ははっきり聞こえる。
「音……!」
自分の声が戻っていた。
『フール!』
「メリー!」
肩から飛び上がったメリーの声も聞こえる。
『聞こえる! 聞こえるよ!』
「私も聞こえる!」
「急に大声出すな!」
オラクルの声まで戻った。
「オラクルも聞こえる!」
「俺は最初からここにいる!」
ロロットが笑う。
フランも笑っていた。
ほんの少し前まで、声が聞こえることなんて当たり前だった。
今は、仲間の声が一つずつ聞こえるだけで嬉しかった。
リリィが縄を見下ろす。
「これ、まだ外さないほうがいいよね」
「そうだな」
オラクルが答える。
「音が戻ったからって、この先もずっと聞こえる保証はねえ。しばらくそのまま行くぞ」
誰も反対しなかった。
隠し通路は緩やかに下っていた。
しばらく進むと、壁の形が少しずつ変わっていく。
自然の凹凸が減り、代わりに人の手で削ったような平らな面が増えてきた。
「人工的になってきたね」
フランが壁を見る。
メロウも嬉しそうに頷く。
「うむ。地下第一階とも第二階とも造りが違う。何か意図があって、ここから先だけ人の手が入っとる可能性は高いのう」
メロウはそう言いながらも、壁へ触ろうとはしなかった。
その様子を見ていると、私が注意しなくても本当に分かっているらしい。
「メロウさん、ちゃんと我慢してるね」
「当たり前じゃ! わしを何だと思っとる!」
「珍しい文字を見つけたら走っていく人」
「走らんわ!」
「近づくのは否定しないんだ」
リリィにまで言われ、メロウが言葉に詰まった。
地下第二階で長いあいだ声を使えなかったせいか、こんな普通の会話まで妙に楽しい。フランも笑っていたけれど、オラクルだけは周囲への警戒を緩めていなかった。
「喋れるようになった途端うるせえな。声が戻ったのはありがてえが、ここが安全になったわけじゃねえぞ」
「分かってるよ」
私も返事をしながら、もう一度《聖なるマップ》を確認した。
地図には、地下第二階で私たちが歩いた道が複雑な線となって残っている。何度も行き止まりへ入り、フランを探すために戻った場所も、巨大な氷壁の向こうへ隠されていた通路も全部記録されていた。
その線が、今いる場所から細く下へ伸び始めている。
まだ先は白い。
でも、地下第二階で何も分からないまま歩き始めたときとは違う。自分たちがどこを通り、どこへ戻ればいいのかが残っている。
「この階、マップがなかったらかなり危なかったね」
フランが地図を覗き込む。
「俺、本当にみんなと同じ道を歩いてると思ってたから」
「私もフランが後ろにいると思ってた」
「見えてたんだよね?」
「うん。すぐそこに」
思い出すだけで変な感じがした。
手を伸ばせば届きそうな場所にフランがいるように見えていたのに、本物は氷壁の向こうにいた。
「目で見えるものまで信用できないって、嫌だね」
「でも最後は見つけてくれた」
フランが笑った。
「ありがとう」
「私だけじゃないよ。リリィが足跡見つけたし、オラクルがみんなをまとめてくれたし」
「それでも、マップを見て最初に気づいたのはフールでしょ」
「……じゃあ、ちょっとだけ私のおかげ」
「ちょっとだけなんだ」
二人で笑う。
オラクルが前から振り返った。
「そのくらいにしとけ。そろそろ地形が変わるぞ」
顔を上げる。
確かに通路の先が広くなっていた。
これまでの隠し通路は二人が並べばいっぱいになるほど狭かったのに、その先では左右の壁が大きく離れ、天井も一段高くなっている。
ただ、地下第二階の巨大な天然氷洞とは違った。
壁が平らだ。
左右の幅もほぼ一定。
床まで綺麗に削られている。
「完全に作られた通路だね」
リリィが言う。
「じゃな」
メロウの目が壁を追う。
「しかも古い。かなり古いぞい。氷を掘ったあとから再凍結を繰り返しとる。造られた年代を調べるだけでも――」
「今は調べない」
私が言う。
「分かっとるわ!」
ちゃんと分かっていた。
通路の途中には、ところどころ古い模様が刻まれていた。
雪の結晶。
波のような線。
そして、長く曲がった何か。
私は歩きながら目で追った。
「これ、蛇?」
壁の一部に、細長い生き物のような彫刻がある。
頭らしい部分は削れていて、はっきりとは分からない。それでも身体と思われる線は長く、壁の端まで続いていた。
「氷門にも似た模様あったよね」
フランが言う。
「うん」
《永久凍土の氷門》。
巨大な雪の結晶を取り囲むように刻まれていた、蛇のような模様。
氷山の谷でも似たものを見た。
ここにもある。
偶然とは思いにくくなってきた。
でも、何を意味するのかは分からない。
「記録だけしとけ」
オラクルが言う。
「答え作るのはまだ早え」
「分かってる」
メロウも紙を取り出し、歩きながらではなく一度止まって模様を簡単に写した。
それからまた進む。
少しずつ下へ。
途中から床の傾斜が強くなった。
私たちは縄を繋いだまま、滑らないよう慎重に歩いた。
音はもう普通に聞こえている。
足音。
服が擦れる音。
メリーが飛ぶときの小さな音。
それらが聞こえるだけで、さっきまでよりずっと安心できた。
「ねえ」
私は歩きながら言った。
「地下第二階って、何で教会の記録がバラバラだったんだろう」
「迷ったからじゃない?」
リリィが答える。
「同じ場所へ入ったつもりでも、氷の屈折で違う道へ誘導された可能性がある。声も届かないなら、複数人で入っても途中から別々のものを見たかもしれないし」
「なるほど」
教会で聞いた話を思い出す。
何もない氷洞だった。
変な声を聞いた。
仲間を見失った。
戻ってきた人によって証言が違う。
もし地下第二階そのものが、見る位置によって景色を変えていたのなら。
全部が嘘だったとは限らない。
「わしらも《聖なるマップ》がなければ、違う記録を残しとったかもしれんのう」
メロウが言った。
「《仲間が突然三人に増えた》とか?」
「それは本当に見たよ」
「俺の記録だけ変になるだろ!」
ロロットが嫌そうな顔をした。
「《地下二階にてキジトラウサギ三体を確認》」
「勝手に魔物の記録にするな!」
笑い声が通路へ響く。
今度はちゃんと聞こえた。
それが嬉しくて、私は少しだけ笑い続けた。
でも、その声はすぐに小さくなった。
前方に扉が見えたからだ。
「止まって」
リリィが先に言った。
全員が止まる。
通路の終わり。
そこに一枚の扉があった。
《永久凍土の氷門》ほど巨大ではない。人が数人並んで通れる程度の大きさで、表面は白く濁った氷に覆われている。
中央には大きな円形の彫刻。
その中に、三本の縦線が刻まれていた。
メロウの顔から笑みが消える。
「……三、かもしれん」
「地下三階?」
「可能性は高い。ただし、開ける前に周囲を調べるぞい」
今度は誰にも言われる前に、自分からそう言った。
メロウが重力で床を確認する。
反応なし。
リリィが扉の周囲を見る。
細い隙間。
罠らしいものは見つからない。
ロロットも耳を澄ませる。
「向こうから音はしない」
フランが扉を見る。
「鍵穴もないね」
私も確認した。
《聖なる白銀の鍵》を使う場所ではなさそうだった。
扉の中央にあるのは、三本の線と、その周囲を囲む細長い模様だけ。
蛇。
ここにもいる。
「どうやって開けるの?」
私は尋ねた。
メロウが調べる。
押す。
引く。
もちろん直接ではなく、まず重力で僅かな力を掛ける。
反応しない。
「壊す?」
ロロットが嬉しそうに言う。
「何でちょっと嬉しそうなの?」
「やっと俺の出番かと思って」
「待て」
オラクルが止めた。
「地下二階の最後まで来て、出口を壊したせいで戻れなくなったら笑えねえ。別の仕掛け探せ」
私たちは扉の周囲を調べた。
壁。
床。
天井。
何もない。
少し戻る。
そこにも目立ったものはない。
「マップは?」
フランに聞かれ、私は《聖なるマップ》を開いた。
現在地。
扉。
その向こう。
「あれ?」
線がある。
扉の向こうへ、道が続いている。
「やっぱり開くんだ」
私はみんなへ地図を見せた。
リリィが扉へ近づく。
今度は表面ではなく、床との境目を見た。
「ここ」
細い溝がある。
扉の下。
そこから左右へ伸びている。
メロウもしゃがむ。
「横へ開くのではないか?」
「横?」
「扉そのものが壁へ入る構造じゃ」
ロロットが押そうとする。
「待って」
リリィが止める。
「中央じゃなくて、こっち」
扉の右側。
氷の中に、小さな窪みがあった。
手のひらほどの大きさ。
その中には、雪の結晶の模様。
「押す?」
私が聞く。
全員が少し考えた。
メロウがまず重力で押した。
カチッ。
音がした。
すぐ全員が下がる。
何も落ちてこない。
床も動かない。
代わりに、扉の中央へ刻まれた三本の線が淡く光った。
ゴゴゴ……。
扉がゆっくり横へ動き始める。
「開いた……」
冷たい空気が流れてきた。
でも、地下第二階のように音を奪う冷気ではない。
もっと澄んでいる。
そして少しだけ、甘い匂いがした。
「匂い?」
リリィも気づいた。
地下へ入ってから、ほとんど何の匂いもしなかった。
氷。
冷たい空気。
それだけだった。
なのに扉の向こうから、何か植物のような、ほんの僅かな香りが流れてくる。
「地下三階に植物?」
フランが不思議そうに言う。
「まだ三階と決まったわけじゃないよ」
私が言うと、オラクルがこちらを見る。
「学習したな」
「だからそれ禁止!」
扉が完全に開いた。
向こうには、また下へ続く階段がある。
でも今までとは違う。
階段の左右に、小さな青白い花のようなものが生えていた。
氷でできているのか、本物なのか分からない。
淡い光を放っている。
メリーが私の肩から身を乗り出した。
『きれい……』
「触らないでね」
『分かってるよ!』
先に言っておいた。
階段の先は暗い。
でも、ところどころに同じ青白い光が見える。
私は《聖なるマップ》を見る。
道は下へ続いている。
そして、今まで白かった地図の端に、新しい線がほんの少しだけ現れ始めていた。
「行こうか」
今度は誰もすぐには動かなかった。
オラクルが全員を見る。
「確認するぞ。怪我は?」
全員問題なし。
「メロウ、魔力」
「休憩したからのう。まだ余裕はある」
「フール、足」
「大丈夫」
「フラン」
「腕も平気」
ロロットもリリィも問題ない。
メリーも元気。
「なら進む。ただし、ここからまた何があるか分からねえ。二階を抜けたと思って気を抜くな」
全員が頷いた。
私たちは縄を外さなかった。
必要なくなったと決める理由がないからだ。
一人ずつ扉を越える。
私も境界を跨いだ。
その瞬間だった。
肩にいたメリーが、小さく身体を震わせた。
『フール』
「どうしたの?」
メリーは階段の下を見ている。
さっきまで綺麗だと言っていた顔から、笑みが消えていた。
『下に……何かいる』
全員が止まった。
「どんな感じ?」
『分からない。でも、生きてる』
メリーは私の服を掴んだ。
『すごく小さいのに、ずっとずっと奥まで冷たい感じがする』
私は暗い階段の先を見た。
何も見えない。
青白い花のような光だけが、下へ向かって点々と続いている。
そのさらに奥。
まだ姿の見えない何かがいる。
教会にも記録のほとんど残っていない地下第三階。
私たちはまだ知らなかった。
この先で待っている小さな命が、火山へ戻るために探してきた《氷の力》だけではなく、もっと大きなものへ繋がっていることを。
私は《聖なるマップ》を閉じた。
そして、メリーが見つめる暗闇へ向かって、みんなと一緒に最初の一段を下りた。




