音の消える氷洞
地下第二階へ近づくほど、少しずつ世界から音だけが消え始めていた。
最初は声が遠くなっただけだと思った。
私が話せば自分の声は聞こえるし、隣を歩くフランの返事も聞き取れる。ただ、何枚もの厚い布を間に挟んで話しているように輪郭がぼやけ、少し離れた場所にいるリリィたちの声は、何を言っているのか分からないほど小さくなっていた。
ところが階段をあと数段下りたところで、それさえ変わった。
「みんな、止まって!」
声を張ったつもりだった。
喉には確かに力が入り、冷たい空気が口から出ていく。それなのに自分の耳へ届いたのは、誰かが遠くで囁いたような頼りない音だけだった。
すぐ隣にいるフランがこちらを向く。
「――――」
口が動いた。
何か言っている。
でも聞こえない。
「フラン?」
もう一度呼んでも、自分の声さえほとんど聞こえなかった。
肩にいたメリーが慌てて私の頬へ近づく。
『――――!』
聞こえない。
ほんの指一本ほどしか離れていないのに、メリーの声まで消えていた。
その瞬間、胸の奥が強く縮んだ。
敵が現れたわけではない。
怪我をしたわけでもない。
みんなも目の前にいる。
それなのに、声が聞こえないというだけで、急に一人になったような感覚が押し寄せてきた。
私は反射的にフランへ近づこうとして、足を止めた。
勝手に動かない。
地下へ入る前に何度も決めたことだった。
フランも同じことを考えたらしい。私へ手を伸ばす代わりに、その場で大きく手のひらを向けた。
止まれ。
たぶん、そういう意味だ。
私は何度も頷いた。
後ろを見る。
リリィもロロットも、メロウもオラクルも止まっている。
全員いる。
誰も消えていない。
それを確認しただけで、少しだけ呼吸が楽になった。
オラクルが自分の目を二本の指で示し、それから全員を順番に指した。最後に、互いの距離を狭めるよう両手を動かす。
見える範囲から離れるな。
そう言っているのだと思う。
全員がゆっくり集まった。
今までなら数秒で済む確認なのに、声が使えないだけで何倍も時間が掛かる。
メロウが鳥の顔付きの杖を階段へ軽く当てた。
何も聞こえない。
今度は少し強く叩く。
それでも音はしなかった。
ただ、杖を握っているメロウの手には振動が伝わったらしい。何度か試したあと、鞄から紙と筆記具を取り出した。
《音そのものが消えたとは限らん。振動はある》
大きな文字で書き、私たちへ見せる。
その下へ続けた。
《空間が音を吸収している可能性》
リリィが紙を受け取り、さらに書く。
《全員同じ?》
一人ずつ頷いた。
ロロットは長い耳を触りながら首を横へ振る。耳そのものが痛いわけではないらしい。
私も耳を塞いだり離したりしてみた。
変わらない。
聞こえないのではなく、聞くための音そのものが途中で消えているような、不思議な感覚だった。
私は紙を借りた。
《戻る?》
オラクルへ見せる。
オラクルは少し考えたあと、すぐには首を横へ振らなかった。
まず上の階段を見る。
次に下。
最後に指を二本立て、その指同士をほんの少しだけ離した。
少し進んで確認する。
そういう意味だと思う。
リリィも理解したらしく、紙へ新しい一文を書いた。
《全員が見える距離を維持。別の異常が出たら即停止》
私はその下へ、
《聖なるマップも使う》
と書いた。
鞄から《聖なるマップ》を取り出す。
地下第一階で進んだ道が、新しく地図へ刻まれていた。
鏡の通路。
罠を避けた場所。
地下第二階へ続く階段。
そして、私たち全員の位置。
今は七人とも同じ場所に固まっている。
私は地図を全員へ見せ、自分たちを示す印を指した。
リリィが親指を立てる。
声がなくても、これなら仲間がどこにいるのか確認できる。
今まで何度も使ってきた《聖なるマップ》なのに、この場所ではいつも以上に心強く感じた。
私たちは再び階段を下り始めた。
今度は互いの姿が必ず見えるよう、距離を縮めて進む。ロロットが先頭に立ち、その後ろをリリィ、私とメリー、フラン、メロウ、最後尾をオラクルが進んだ。
何も聞こえない。
ロロットの重い雪靴が氷へ着いても無音。
メロウの杖が段差へ触れても無音。
オラクルの車椅子が一段ずつ下りても、車輪も金具も一切音を立てない。
自分の足音まで消えているせいで、ちゃんと歩いているのか不安になる。
私は何度も足元を見そうになった。
でも前も見る。
仲間も見る。
地図も見る。
一つに集中しすぎない。
やがて最後の段へ着いた。
ロロットが先に降り、周囲を確認してからこちらへ手を振る。
私たちも続いた。
そこで初めて、地下第二階の全体が見えた。
地下第一階とは、まるで別の場所だった。
鏡は一枚もない。
人工的に削られた通路でもない。
目の前に広がっていたのは、巨大な天然の氷洞だった。
天井は高く、場所によっては青白い暗闇へ溶け込んで上端が見えない。何百年、何千年とかけて凍ったような巨大な氷柱が床と天井を繋ぎ、その間を縫うように複数の道が奥へ伸びている。
壁も平らではなかった。
透明に近い氷。
白く濁った氷。
青黒く見えるほど厚い氷。
それらが何層にも重なり、ところどころで巨大な波が凍りついたような形を作っている。
美しい。
そう思った。
同時に、怖かった。
広すぎる。
地下第一階では、鏡に挟まれていることが怖かった。
ここは逆だった。
どこまで続いているのか分からない空間が、音もなく広がっている。
叫んでも誰にも届かない。
もし氷柱の向こうへ一人だけ入り込んだら、それだけで仲間を見失うかもしれない。
リリィが床へしゃがみ込んだ。
何かを探している。
少しして、首を横へ振った。
足跡はないらしい。
以前ここまで来た冒険者はいたはずだけれど、古い痕跡は氷と雪に消されているのだろう。
メロウが壁を指した。
全員が見る。
氷壁の向こうに、何かが動いたように見えた。
私は息を呑んだ。
人影。
フランに似ている。
「フラン?」
声は届かない。
でも、本物のフランは私のすぐ後ろにいた。
では、向こうにいるのは何?
鏡像?
地下第一階の呪いが残っている?
私はすぐに身構えた。
ところが、リリィが首を横へ振った。
氷壁へ近づかず、角度だけを変える。
向こうのフランも動いた。
リリィがさらに横へ移動すると、その姿は細長く歪み、やがて消えた。
反射だ。
鏡ではない。
半透明の氷壁が、離れた場所にいる本物のフランを曲げて映している。
私は胸を撫で下ろした。
でも、すぐ別の問題に気づいた。
これでは仲間が《見えている》ことさえ信用できない。
目の前の氷壁越しに見える人が、本当にそこにいるとは限らない。
私は《聖なるマップ》を見る。
本物のフランは、ちゃんと私の後ろにいる。
地図と現実を交互に確認する。
リリィも同じことに気づいたらしく、地図を指し、それから氷壁に映る偽物の位置を示した。
全員の表情が変わった。
地下第二階の危険が、少しだけ見えてきた。
ここでは音が信用できない。
それどころか、目に見える仲間の位置まで信用できない。
オラクルが紙へ書いた。
《ここから全員、勝手に氷柱の裏へ入るな》
さらに続ける。
《目で見た位置と地図が違ったら、地図を優先。ただし地図も絶対とは決めない》
私は大きく頷いた。
一つだけを信用しない。
雪原を歩いたときと同じだった。
でも今度は、標柱さえない。
私たちは氷洞の最初の分岐へ向かった。
三方向。
左は狭く、奥で下っている。
中央は広いけれど、巨大な氷柱が何本も並んでいて先が見えない。
右は緩やかに上っている。
どれが正しい道なのか、目印はない。
私は《聖なるマップ》を開いた。
地図には、私たちがここまで歩いた道だけが刻まれている。
その先はまだ白い。
「……自分で進まないと分からないんだ」
声に出したけれど、誰にも届かない。
それでも意味は伝わったらしい。
オラクルが三方向を見てから、中央を指した。
まず一番広い道。
戻りやすい。
それが理由だと思う。
私たちは中央へ進んだ。
ロロットが先頭で足場を確認し、リリィが氷の状態を見る。メロウは罠がないか杖で振動を確かめながら進み、私は数歩ごとに《聖なるマップ》へ目を落とした。
進んだ部分だけ、地図へ細い線が伸びていく。
十歩。
二十歩。
巨大な氷柱の間へ入る。
そこで異変が起きた。
先頭のロロットが氷柱の向こうへ回った。
ほんの一瞬だけ姿が消える。
次の瞬間。
右側にロロットが見えた。
左側にもいた。
正面にもいる。
三人。
私は足を止めた。
でも、地下第一階の鏡像とは違う。
三人とも私たちへ向かってくるわけではない。
一人は右へ。
一人は左へ。
もう一人は正面。
巨大な氷柱がロロットの姿を何度も屈折させている。
どれが本物?
《聖なるマップ》を見る。
本物の印は――。
私たちの左前。
私は左を指した。
リリィも地図を確認し、同じ方向を示す。
数秒後、本物のロロットが氷柱の陰から出てきた。
こちらの慌てた顔を見て首を傾げている。
本人には、自分が三人に増えていたことなど分からないらしい。
私は紙へ大きく書いた。
《ロロットが三人に見えた》
見せる。
ロロットの顔がものすごく嫌そうになった。
その下へ、
《本物はマップで確認できた》
と追加する。
ロロットは私の《聖なるマップ》を見て、今度は大きく頷いた。
やっぱり使える。
地下第二階では、これが私たちの目になる。
そう思った。
そのときだった。
《聖なるマップ》の上で、仲間を示す印の一つが動いた。
「え?」
私は地図へ顔を近づけた。
フラン。
私のすぐ後ろにいるはずの印が、少しずつ右へ移動している。
慌てて振り返る。
フランはいる。
すぐ後ろ。
こちらを見ている。
でも地図のフランは、さらに右へ進んでいく。
氷壁の向こう。
私たちとは別の通路へ。
私は背中が冷たくなった。
目の前のフランを見る。
地図を見る。
もう一度、フランを見る。
どちらが本物なのか。
さっきまで頼りにしていた《聖なるマップ》と、自分の目。
その二つが初めて、違う答えを示していた。




