第190話 鏡の中の私
鏡の中の私は、こちらを見ていた。
私も鏡を見ている。それだけなら何もおかしくないはずなのに、胸の奥を冷たい指で撫でられたような感覚が消えなかった。
私が足を止めたあと、ほんの一歩だけ遅れて止まった。左右には背丈を遥かに超える氷鏡が隙間なく並び、向かい合った鏡同士が互いを映しているせいで、私たちの姿は通路の奥へ何十人、何百人と続いている。遠くの像ほど小さく歪んで見えるから、ただの見間違いだと言われれば、それでも納得できそうだった。
けれど、一番奥に見える私は笑っていた。
私は笑っていない。
「みんな、動かないで」
声を抑えて言うと、すぐ後ろにいたフランたちの足音が止まった。
オラクルも理由を聞くより先に車椅子を止め、リリィは床へ視線を落としたまま周囲を確認する。ロロットだけが背中の大剣へ手を伸ばしかけたものの、抜く前に止めていた。
「何があった?」
フランの声が近くから聞こえる。
私は正面から目を離さず答えた。
「一番奥の鏡にいる私が、少し遅れて止まった。それに……笑ってる」
言葉にしたことで、余計に気味が悪くなった。
正面の鏡には普通の私がいる。その奥にも私、そのさらに奥にも、赤いツインテールと《キジトラウサギ》の帽子を被った同じ私が並んでいる。
でも、ずっと奥。
何枚目の反射なのかも分からない場所にいる一人だけが、口元を僅かに持ち上げていた。
「本当だ」
フランの声から柔らかさが消えた。
「フールは笑ってない」
『私もいっぱいいる……』
肩にいたメリーが、周囲の鏡へ映った無数の自分を見て私の襟元へ身体を寄せる。
「メリーは見なくていいよ」
『でも、見てない間に動いたらもっと怖いよ』
「それは……そうだけど」
怖がっているのに目を逸らさない。その小さな身体を感じるだけで、私も少しだけ落ち着けた。
「全員、その場から動くな」
オラクルが低い声で言った。
「教会の記録どおりなら、ここは鏡だけ警戒してりゃいい場所じゃねえ。床にも罠がある。鏡がおかしいからって、そっちに気を取られて一歩踏み出すなよ」
私は無意識に出しかけていた右足を戻した。
「……見てた?」
「見てなくても分かる」
「まだ踏んでないよ」
「だからそのままでいろ」
反論できなかった。
メロウは鏡より先に、私たちの足元から通路の奥へ続く床を調べていた。
地下第一階の通路はかなり広く、ロロットが大剣を振るだけの幅もある。天井も高いけれど、床まで磨き上げたような氷で覆われ、青白い光を反射しているため、どこに継ぎ目や仕掛けがあるのか見ただけでは分からない。
「教会の記録にあった感圧式の罠、ここから始まっておる可能性があるのう」
メロウが鳥の顔付きの杖を前へ向ける。
「踏めば天井から巨大なつらら。場所によっては別の仕掛けもあると考えたほうがよい」
「でも、どこを踏んだら動くか見えないよ?」
「なら、わしらが踏む前に踏ませればよい」
「誰に?」
メロウが少し得意そうに髭を揺らした。
「誰にもじゃ」
杖の先が淡く光った。
数歩先の空気が僅かに歪み、何も乗っていない氷床へ見えない重さが加わっていく。
最初は何も起きなかった。
メロウが杖を少し右へ動かし、重力を掛ける位置を半歩ほどずらした瞬間だった。
カチッ。
小さな音がした。
「上!」
ロロットの長い耳が跳ねる。
次の瞬間、轟音とともに天井から巨大なつららが落下した。
一本ではない。
何本もの鋭い氷柱が雨のように降り注ぎ、メロウが重力を掛けた場所へ次々と突き刺さる。私の身体より太いものまであり、先端は氷床を砕いて深く食い込んでいた。
砕けた氷片が足元まで滑ってくる。
メリーが私の帽子の耳へしがみついた。
『あそこ歩いてたら……』
「考えたくない」
私も同じだった。
フランが天井と床を交互に確認する。
「一度作動したら止まるのかな」
「確かめるぞい」
メロウが同じ場所へ再び重力を掛けた。
何も起きない。
少し強めても、天井は動かなかった。
「少なくとも今の罠は一度きりのようじゃ。ただし、隣も同じとは限らん。床の境界が見えん以上、一つずつ調べるしかないのう」
「時間掛かりそうだな」
ロロットが言う。
「急ぐ理由はねえ」
オラクルは後ろを確認した。
階段の向こうには、《永久凍土の氷門》から差し込んでくる白い光がまだ僅かに見えている。
「帰り道は残ってる。時間制限があるとも分かってねえんだ。安全な場所を作りながら進むぞ」
誰も反対しなかった。
そこから私たちは、想像していたよりずっと遅い速度で地下第一階を進み始めた。
メロウが数歩先へ重力を掛ける。反応がなければ位置を少しずらし、もう一度確認する。安全だと判断できた場所だけをリリィが覚え、全員が同じ足跡を辿るように進んでいく。
二つ目の罠は左側にあった。
メロウが力を加えた瞬間、今度は天井ではなく壁の一部が開き、細長い氷の杭が通路を横切った。反対側の鏡へ激突して止まった高さは、ちょうど私の胸の辺りだった。
「記録にない種類だね」
リリィが床を見ながら言う。
「ああ。帰れたら教会に伝えといたほうがいい」
オラクルも罠の位置を記録している。
三つ目は何も起こらない。
四つ目では再びつららが落ち、五つ目は安全だった。
床が滑ること自体も厄介だった。雪道用の靴を履いていても、力を入れる方向を間違えると足が僅かに流れる。ロロットは慣れているのか比較的安定していたけれど、私は何度かリリィに腕を支えてもらった。
「ゆっくり足を置いて。蹴って進もうとしないほうがいいよ」
「こう?」
「そう。歩幅も小さく」
「雪の上より難しい……」
「転んで罠の床まで滑ったら洒落にならないからね」
その言葉で急に怖くなり、さらに歩幅を小さくした。
「小さすぎ」
「だって今怖いこと言ったじゃん!」
フランが少し笑った。
緊張しているはずなのに、こうして誰かがいつもの声を出してくれるだけで助かる。
しかし、地下第一階は足元だけを見ていれば進める場所ではなかった。
少し先まで来たところで、リリィが突然片手を上げた。
「止まって」
全員が動きを止める。
「床?」
私が聞く。
「違う。前」
リリィが指した場所には何もない。
青白い氷の通路が続いているだけだった。
「何があるの?」
「分からない。でも、ここから先だけ床の見え方が少し違う。色が濃いというか……光り方がおかしい」
言われても私には分からなかった。
メロウが杖を伸ばしかけ、途中で止める。
「触れんほうがよさそうじゃな」
「重力で調べられる?」
「やってみよう」
前方の床へ力を加える。
何も起きない。
場所を変えても反応はなかった。
「感圧式じゃない?」
私が言った、そのときだった。
肩にいたメリーが身体を起こした。
『待って。何かある』
「見える?」
『見えない。でも、魔法みたいなのがすごく薄くあるよ』
メロウの表情が変わった。
「どの辺りじゃ?」
『リリィが言ったところから先。細いのがいっぱい』
リリィの観察とメリーの感覚が一致した。
でも、肉眼では何も見えない。
フランが短剣の先を僅かに伸ばそうとしたので、私はすぐ止めた。
「触らないほうがいいよ」
「そうだね。何が起きるか分からない」
フランは素直に刃を戻した。
私は前方を見つめた。
何もない。
でも何かある。
どうすれば見えるのだろう。
視線を動かしたとき、左側の鏡へ青白い一本の線が映っていることに気づいた。
「ねえ、鏡」
「何じゃ?」
「前じゃなくて、鏡見て」
左側の鏡には私たちの姿と通路が映っている。
その中だけに、細い青白い線が斜めに走っていた。
反対側を見る。
そちらにもある。
さらに向かいの鏡へ反射し、何本もの光が通路を網の目のように横切っている。
「直接見ると消えるのに……鏡の中だと見える」
メロウが目を見開いた。
「反射光か!」
「これが教会の記録にあったやつ?」
リリィが尋ねる。
「可能性は高い。鏡の反射を利用した不可視の凍結結界じゃ。肉眼ではほとんど見えんよう光を調整し、鏡へ映したときだけ位置を確認できるようになっとる」
「触ったら?」
私が聞く。
メロウは鏡に映る光を見たまま答えた。
「記録どおりなら、触れた場所から肉体を凍結させる。試さんほうがよいじゃろうな」
「試さないよ!」
私はすぐ答えた。
光と光の間には隙間がある。
でも狭い。
身体を横にすれば抜けられそうな場所もあるけれど、オラクルの車椅子では通れない場所も多い。
ロロットが鏡を見ながら言う。
「俺なら飛び越えられる場所もあるぞ」
「お前一人ならな」
オラクルが返した。
「全員で抜けられる方法を探せ。誰か一人だけ通れても意味ねえ」
「鏡を壊したら?」
私が尋ねると、メロウは首を横へ振った。
「この光が鏡の反射を利用しとるなら、適当に鏡を割れば反射角が変わる可能性がある。消える保証はないどころか、今まで安全だった場所へ光が飛ぶかもしれん」
力ずくでは駄目。
なら仕組みを使うしかない。
私は鏡の中に映る青白い線を目で追った。
一本が右の鏡へ当たり、角度を変えて左へ飛ぶ。そこからさらに奥の鏡へ反射し、何本もの光へ分かれているように見える。
「元はどこ?」
「何がじゃ?」
「反射してるなら、一番最初の光があるんじゃない? 全部が別々に出てるんじゃなくて、一個の光を鏡で何回も反射させてるなら、その最初を止めれば……」
メロウが鏡へ顔を向けた。
「全部消せるかもしれん」
そこからは全員で光を逆に追った。
右。
左。
上。
また右。
向かい合う鏡へ自分たちまで何重にも映り込むため、途中でどの線を見ていたのか分からなくなる。
「こっちじゃない?」
フランが右側を指す。
「いや、その光は左から来とる」
メロウが否定する。
リリィは少し離れた鏡を見ていた。
「上じゃない? あの線だけ角度が違う」
「上?」
見上げる。
天井近く。
氷壁へ埋め込まれるように、小さな青い結晶があった。
普通に見れば周囲の氷とほとんど区別できない。でも鏡の中では、その結晶から一本目の光が伸びている。
「見つけた!」
『本当だ!』
メリーも嬉しそうに指差す。
メロウが鳥の杖を構えた。
「結晶そのものは壊さん。前を塞いで光だけ遮るぞい」
「できる?」
「誰に聞いとる」
杖の先が光る。
結晶の少し手前にある氷へ力が加わり、薄い一片だけがゆっくり剥がれた。
その氷片を結晶の前へ滑り込ませる。
光が遮られた。
鏡の中を走っていた青白い線が、一斉に消える。
「消えた!」
私は前へ出そうになり、オラクルに止められた。
「まだ動くな」
「分かってる!」
メロウが再度確認し、メリーも目を閉じて感覚を探る。
『もう変なのないよ』
「よし。一人ずつ通るぞ」
最初にロロット。
次にリリィ。
安全を確認してから私とメリー、フラン、メロウ、最後にオラクルが通過する。
何も起きなかった。
全員が結界を越えたところで、ようやく息を吐く。
「地下第一階だけで、もうこんなにあるの?」
私が言うと、ロロットが大剣の位置を直しながら苦笑した。
「まだ大して進んでないぞ」
「言わないでよ」
「帰りたくなったか?」
少し考えた。
「怖い。でも進みたい」
「俺も同じだ」
ロロットが笑う。
怖さと進みたい気持ちは、一緒にあっていい。
そう思えるようになっただけでも、以前の私とは少し違うのかもしれない。
「油断すんな」
オラクルがすぐ釘を刺した。
「はい」
「返事だけはいいな」
「ちゃんと聞いてるよ!」
私たちはさらに奥へ進んだ。
床の罠はメロウが先に作動させ、リリィが僅かな違いを見つける。不可視の光がないか鏡も確認し、誰か一人でも違和感を覚えたら全員が止まった。
最初より進む速度は上がった。
だからこそ、いつの間にか私は《鏡そのもの》への警戒を少し薄くしていた。
床を見る。
天井を見る。
光を探す。
必要な場所だけ鏡へ視線を向ける。
最初に見た、笑う私のことも、いつの間にか頭の隅へ追いやっていた。
異変。
影の私は、《幻獣種召喚の本》を開いたまま動かなかった。
私がシャイニーさんを呼び出したのと同じページ。足元には同じ形の召喚陣が浮かび、白い光まで本物と見分けがつかないほど正確に再現されている。それなのに、光の中心には何も現れない。
一度、召喚陣が消える。
影の私はもう一度ページへ手を置いた。
また光る。
それでも何も出なかった。
「やっぱり……」
私は自分の《幻獣種召喚の本》を抱え直した。
偶然ではない。
鏡は私の姿も、本も、召喚するときの動作も再現できる。でも、その先にいるシャイニーさんまでは作れない。
「我が主」
すぐ隣から、落ち着いた声が聞こえた。
シャイニーさんは鏡の私を見たあと、静かにこちらへ視線を戻した。
「どうやら、あちらが写し取れるものには限界があるようですね。姿や技を似せることはできても、あなたが旅の中で結んだ縁まで奪うことはできないのでしょう」
「縁……」
「はい。私はあなたの魔法によって生み出された存在ではありません。あなたが呼び、私がそれに応じてここへ参ったのです」
その言葉が胸の中へすっと入ってきた。
鏡の私は、私と同じ顔をしている。
同じ帽子を被り、同じ鞄を持ち、《幻獣種召喚の本》まで持っている。
それでも同じではない。
私が旅の途中で誰と出会ったのか。
誰に助けてもらったのか。
誰と一緒に笑ったのか。
そういうものまで、鏡の表面へ写すことはできない。
「フール!」
フランの声で意識を戦いへ戻した。
影のフランと短剣を打ち合わせながら、少しずつこちらへ押されている。ロロットも大剣同士の激突から抜け出せず、リリィは自分の影と互いに動きを読み合っていた。
さらに危険なのはメロウだった。
本物と鏡像がほぼ同じ重力魔法を使うせいで、二つの力が不規則にぶつかり、厚い氷床へ細かな亀裂が走っている。
このまま戦い続ければ、鏡像を倒す前に足場が壊れるかもしれない。
「シャイニーさん、みんなを巻き込まずに影だけ攻撃できる?」
シャイニーさんはすぐに答えず、通路全体を見渡した。
フランとその鏡像。
ロロットとその鏡像。
リリィ。
メロウ。
オラクル。
どの組も本物と影の距離が近い。
「今のままでは危険です」
シャイニーさんははっきり答えた。
「水流の方向を絞ることはできます。しかし、この狭い空間で皆様と敵が入り乱れたまま大きな力を放てば、完全に巻き込まない保証はできません」
「じゃあ、離せばいいんだね」
「それができるのであれば」
問題はそこだった。
「みんな、一回影から離れて!」
私が声を張ると、ロロットが大剣で影の一撃を受け止めながら顔をしかめた。
「簡単に言うな! 俺が下がったら、こいつも同じだけ詰めてくるんだよ!」
フランも似た状態だった。
「こっちも! 距離を取ろうとするとすぐ追ってくる!」
本人と同じ能力。
本人と同じ技。
戦い方まで似ている。
なら、単純に後ろへ逃げるだけでは駄目だ。
どうすればいい。
その答えを最初に見つけたのは、リリィだった。
「待って。こいつ……全部分かってるわけじゃない」
自分の鏡像と向き合いながら、リリィが急に右へ身体を傾けた。
鏡像も右へ動こうとする。
しかし本物のリリィは踏み込まなかった。足を着く直前で身体を沈め、そのまま反対方向へ跳ぶ。
鏡像が一瞬だけ遅れた。
本当に僅かな差だった。
それでも、さっきまでほとんど重なっていた二人の間に数歩分の距離が生まれた。
「離れた!」
私が叫ぶ。
「やっぱり!」
リリィは鏡像から目を離さず答えた。
「私が次に何をするか最初から知ってるんじゃない。こっちを見て、それに合わせてる!」
「でもほとんど同時だったよ?」
「完全な同時じゃない。急に動きを変えれば、ほんの少し遅れる!」
フランがすぐ試した。
右から短剣を振るように肩を動かす。
影のフランも同じ構えへ入った。
その瞬間、本物は刃を振らず後方へ跳ぶ。
影が追う。
でも、遅い。
「いける!」
ロロットも大剣を頭上へ振り上げた。
鏡像が同じ動きを始めた瞬間、本物は大剣を振り下ろさず、氷床を強く蹴って後ろへ下がる。
「悪いな。それ、振らねえよ!」
「ロロットさん、床!」
私が叫ぶ。
着地した足が僅かに滑った。
「うおっ!」
大剣を床へ突き立てて何とか止まる。
「危ねえ……鏡像より床のほうが怖えじゃねえか」
「だから走らないで!」
「お前に言われたくねえ!」
こんな状況でも言い返してくる。
でも、方法は分かった。
メロウも魔法を放つように杖を掲げ、鏡像が同じ構えを取った瞬間に発動をやめて後退した。
一人ずつ。
少しずつ。
本物が手前へ集まり、鏡像だけが通路の奥へ残っていく。
オラクルは自分の鏡像を警戒しながら、全体の位置を見ていた。
「あと少しだ! 影を倒そうとすんな! 今は距離を作ることだけ考えろ!」
フランが再びフェイントを入れる。
リリィも逆方向へ身体を振る。
ロロットは大剣を使って攻撃するように見せ、実際には後退する。
鏡像たちは一瞬遅れて追いかける。
その僅かな遅れが何度も積み重なり、ついに本物と影の間へ大きな空間が生まれた。
「シャイニーさん!」
私は振り返った。
「ここなら?」
シャイニーさんは鏡像と私たちの位置を確認し、静かに頷いた。
「十分でしょう。皆様、我が主より後ろへ。決して前へ出ないでください」
「聞こえた!?」
「大丈夫!」
フランたちがさらに下がる。
私もシャイニーさんの少し後ろへ移動した。
影の私は、まだ《幻獣種召喚の本》を開いている。
召喚陣が光る。
消える。
また光る。
何度繰り返しても、そこには誰も現れない。
シャイニーさんが右手を上げた。
周囲の空気が一変した。
床に残っていた水滴が震え、氷壁の表面を覆っていた薄い水分がゆっくり浮かび上がる。それらはシャイニーさんの前へ集まりながら量を増し、やがて人の身体より太い水流となって渦を巻き始めた。
さらに水が集まる。
水流が頭を作り、長い首となり、巨大な胴体へ変わっていく。
青白い氷の迷宮に、美しい水の竜が姿を現した。
アクア・リヴァイアス。
鏡像のメロウがすぐ杖を向ける。
ロロットの影も大剣を構えた。
フランの影は低く身体を沈め、リリィの影は逃げ道を探すように周囲へ視線を走らせている。
本人たちなら、どう戦うのか。
鏡像はそれをそのまま見せている。
でも、今度の相手は本人ではない。
シャイニーさんは水竜の頭へ優しく手を触れた。
「畏まりました。我が主の敵に、深海の裁きを。――往きなさい、アクア・リヴァイアス!」
水竜が動いた。
巨体が通路を駆け抜けた瞬間、床に残っていた水がすべて引き寄せられ、巨大な流れとなって鏡像へ押し寄せる。
影のフランが短剣を振り抜いた。
水竜の一部が刃によって裂ける。
けれど、切れたのはほんの一瞬だった。後ろから流れ込んだ大量の水がすぐに形を埋め、勢いをほとんど失わないまま影のフランを呑み込んだ。
影のリリィも避けようとする。
しかし、狭い通路そのものを埋めるほどの水流から逃げ切る場所がない。
次にロロットの影。
大剣を床へ突き立て、真正面から水流を受け止めた。
一瞬だけ耐えた。
「俺、あれ耐えるのかよ……!」
本物のロロットが思わず呟く。
「感心してる場合じゃないよ!」
「いや、でも結構すげえぞ!」
次の波が影へぶつかる。
大剣ごと身体が浮き、そのまま奥へ押し流された。
鏡像のメロウは重力魔法を使った。
水竜の頭部が僅かに下へ沈み、流れが歪む。
「ほう……わしもなかなか――」
「メロウさんまで自分に感心しないで!」
「よいではないか!」
こんなときまで二人とも何を言っているのだろう。
でも、それだけ鏡像が本人の能力を正確に再現しているということでもあった。
本人の技。
本人の力。
本人の判断。
そこまでは写せる。
それでも、アクア・リヴァイアスを止めることはできない。
鏡像たちが次々と水流へ呑み込まれていく。
最後に残ったのは、影の私だった。
《幻獣種召喚の本》を開いている。
私と同じページ。
同じ光。
同じ召喚陣。
それなのに、隣には誰もいない。
私は自分の本を胸へ抱いた。
少し前まで、あの姿が怖かった。
自分と同じ顔で笑い、自分と同じ物を持ち、勝手に動く存在が気持ち悪くて仕方なかった。
今は違う。
似ているだけだ。
私ではない。
「シャイニーさんは、私の力じゃないよ」
影に届くかは分からなかった。
それでも言葉が出た。
「私が作ったわけでもない。私が命令したから何でもしてくれるわけでもない。出会って、助けてもらって、一緒に旅して……だから来てくれるんだよ」
シャイニーさんが僅かに振り返った。
その表情は、いつもの穏やかなものだった。
「ええ。我が主。その通りです」
アクア・リヴァイアスが影の私へ迫る。
影はもう一度だけ召喚を試みた。
光が生まれる。
しかし、最後まで何も現れなかった。
水竜が影を呑み込む。
その瞬間、影の腕へ一本の亀裂が走った。
透明なガラスへ傷が入るような細い線だった。
それが肩へ伸び、胸へ広がり、身体全体を覆っていく。
同じ変化は、ほかの鏡像にも起きていた。
影のフラン。
リリィ。
ロロット。
メロウ。
オラクル。
そして影のメリー。
水流の中で、全員の身体へ亀裂が広がっていく。
「何か起きる!」
フランが短剣を構え直した。
次の瞬間、影の一体が砕けた。
破片は床へ落ちなかった。
小さな光の粒へ変わり、青白い空間へ溶けるように消えていく。
一体。
また一体。
鏡像が光へ変わっていく。
最後に残った影の私は、水流の中からこちらを見ていた。
もう笑っていなかった。
何かを言ったようにも見えた。
でも、水の音に消されて聞こえない。
そして身体全体が砕け、無数の光の粒へ変わった。
「シャイニーさん!」
私が呼ぶ。
シャイニーさんはアクア・リヴァイアスへ手を向けた。
「戻りなさい。もう十分です」
水竜が動きを止める。
巨大な身体がゆっくり崩れ、ただの水へ戻っていった。
激しく渦巻いていた水流も勢いを失い、氷床の低い場所を選ぶように奥へ流れていく。
静かになった。
でも誰もすぐには武器を下ろさなかった。
オラクルも周囲の鏡を見ている。
「まだ終わったと決めるな」
「うん」
私は正面の鏡を見た。
そこに映っているのは私。
肩にはメリー。
今度は笑っていない。
私が右手を上げる。
鏡も同時に上げる。
下ろす。
同時に下ろす。
「戻った……?」
そう思った直後だった。
パキッ――。
右側の鏡へ亀裂が走った。
リリィが反射的に身構える。
「また出る?」
誰も答えられない。
亀裂が広がる。
でも、新しい鏡像は現れなかった。
代わりに、隣の鏡へも亀裂が走る。
その隣。
さらに向かい側。
通路に並んでいた氷鏡が、奥から順番にひび割れ始めた。
「下がって!」
全員が距離を取る。
一枚目の鏡が砕けた。
私は顔を腕で守った。
しかし破片は飛んでこない。
鏡の欠片は空中で光の粒へ変わり、鏡像と同じように消えていった。
その奥に現れたのは、何の変哲もない青白い氷壁だった。
二枚目。
三枚目。
次々と鏡が消えていく。
今まで私たちを何十人、何百人にも増やしていた景色が、一枚消えるたびに普通の氷洞へ戻っていった。
『フール』
メリーが私の頬へ身体を寄せる。
『私、一人になった』
「うん」
『よかった……』
「私も」
本当にそう思った。
最後の鏡が砕ける。
光の粒が天井へ昇り、やがて完全に消えた。
その瞬間、通路の奥から低い音が響いた。
ゴゴゴゴゴ……。
「まだ何かある!」
ロロットが大剣を構える。
でも、襲ってくるものはなかった。
鏡が消えたことで露出した一番奥の氷壁。
その中央へ、縦に一本の亀裂が走る。
違う。
亀裂ではない。
継ぎ目だ。
左右の氷壁がゆっくり開き始め、その奥から今まで隠されていた細い通路が姿を現した。
私は思わず一歩進みかけた。
「待て」
オラクルの声で、出しかけた足を止めた。
「鏡像が消えたからって、罠まで全部消えたとは限らねえ。さっきまで何を見て進んできたか忘れんな」
「あ……」
床を見る。
鏡の呪いを突破したことで気が緩みかけていたけれど、地下第一階には鏡像以外にも感圧式の罠がある。実際、ここへ来るまで何本もの巨大なつららを落とし、鏡の反射を利用した凍結結界まで越えてきた。
「ごめん。止まる」
「それでいい」
オラクルはそれ以上責めなかった。
メロウが鳥の顔付きの杖を構え、開いた氷壁の向こうへ視線を凝らす。
「最後まで同じ手順で確認するぞい。鏡の呪いを越えた直後に罠へ掛かったなど、笑い話にもならんからのう」
「それ、メロウさんが言う?」
「何じゃ!」
「さっき文字見つけたらすぐ近づきそうだったし」
「まだ何も見つけとらんわ!」
少しだけ笑いが起きた。
戦いが終わった直後だからこそ、その程度の会話でも身体へ入っていた力が抜ける。
それでもメロウは手を抜かなかった。
開いた壁から数歩先へ重力を掛ける。
何も起きない。
少し右。
反応なし。
左。
やはり何もない。
さらに奥へ重力を移した瞬間だった。
カチッ。
聞き覚えのある音がした。
「下がって!」
私たちはすぐ距離を取った。
次の瞬間、開いた通路の天井から三本の巨大なつららが落下した。
一本目が床へ突き刺さり、その衝撃で細かな氷片が飛び散る。二本目、三本目もほとんど同時に落ち、さっきまで何もなかった場所が鋭い氷柱で塞がれた。
「まだあるじゃん……」
私はつららを見つめた。
もしオラクルに止められず、そのまま歩いていたら。
考えたくなかった。
「だから言っただろ」
「分かってるよ。ありがとう」
素直に言うと、オラクルが少しだけ意外そうな顔をした。
「何?」
「いや。今日はやけに聞き分けいいなと思って」
「それ褒めてないよね?」
「半分くらいは」
「残り半分何!」
フランが笑いながら、落ちたつららを確認する。
「でも、これでここは通れなくなったね」
確かに三本の氷柱が斜めに重なり、細い通路を塞いでいる。
ロロットが大剣へ手を掛けた。
「これは壊していいだろ?」
全員がメロウを見る。
「何でわしを見るんじゃ」
「さっき鏡を壊すなって言ったから」
「これは鏡ではないし、罠もすでに作動しとる。周囲に別の仕掛けがないことを確認してからなら構わん」
ロロットがすぐには剣を抜かなかった。
メロウが重力で周辺をもう一度確認し、リリィも床と壁を調べる。
「大丈夫そう」
その言葉を聞いてから、ロロットが大剣を抜いた。
「じゃあ行くぞ。破片飛ぶから離れてろ」
大剣を横へ構える。
一撃。
刃がつららの根元へ食い込み、大きな亀裂が走った。
二撃目で一本が折れる。
床へ落ちた巨大な氷が砕け、細かな破片が滑っていく。
残り二本も同じように壊し、ようやく人が通れるだけの隙間ができた。
「力ってこういうとき便利だね」
私が言うと、ロロットが得意そうに笑った。
「だろ?」
「でも最初から全部壊そうとするのは駄目だよ」
「一言多い!」
さっきシャイニーさんから聞いた言葉を思い出した。
力は大きければいいわけではない。
使う場所と使い方が大切。
ロロットの大剣も同じなのだと思う。
「我が主」
シャイニーさんに呼ばれて振り返る。
まだ戻っていなかった。
「私は一度、本へ戻りましょう」
「もう?」
「この先に何が待つか分からないのでしょう。ならば、必要のない場面で力を留め続けるより、次に備えるべきです」
確かにそうだった。
アクア・リヴァイアスまで使ってもらった。
この先でまた力が必要になるかもしれない。
「分かった。ありがとう、シャイニーさん。本当に助かった」
「礼には及びません。あなたが私を必要とするなら、再びお呼びください」
シャイニーさんは一度、私たち全員へ視線を向けた。
「ただし、先ほど皆様で決められたことをお忘れなきよう。未知へ進む勇気と、危険から退く判断は相反するものではありません」
「うん。忘れない」
「よろしい」
シャイニーさんが穏やかに微笑む。
その身体が淡い水色の光へ包まれ、少しずつ輪郭を失っていく。光は《幻獣種召喚の本》の開かれたページへ吸い込まれ、最後には何も残らなかった。
私はページを一度見てから本を閉じた。
鞄へ戻し、留め具を確認する。
今度は一回だけ。
「行こう」
「だから待て」
オラクルにまた止められた。
「何で!?」
「今度は休憩だ」
「まだ歩けるよ?」
「お前だけの話じゃねえ」
言われて周囲を見る。
ロロットは大丈夫そうだけれど、大剣を何度も振ったうえ鏡像とも力比べをしている。フランも呼吸を整えながら短剣の刃を確認していた。
メロウはもっと分かりやすい。
何度も重力魔法を使い、鏡像との戦いでも魔法を使ったせいか、鳥の杖へ身体を預ける時間が増えている。
「メロウさん、疲れてる?」
「まだ動けるぞい」
「聞き方が悪かったな」
オラクルが割り込む。
「魔力はどれくらい残ってる?」
メロウが黙った。
「爺さん」
「……半分よりはある」
「最初からそう言え」
私はメロウを見る。
「休もう」
「お前さんまで……」
「地下二階から何があるか分からないんでしょ? だったら今休んだほうがいいよ」
メロウは何か言い返そうとして、結局やめた。
「分かった。少しだけじゃぞ」
「何でメロウさんのほうが進みたがってるの?」
「未知の遺跡が目の前にあるんじゃぞ!」
やっぱりこの人は考古学者だった。
私たちは鏡が消えた広い場所まで少し戻り、そこで休むことにした。
氷床は濡れていたので、乾いた場所へ厚い布を敷く。全員が座れるほどではないけれど、交代で身体を休めるには十分だった。
私は水を飲みながら、自分の靴を確認した。
滑り止めに大きな損傷はない。
帽子もある。
鞄の中には《聖なる白銀の鍵》。
《聖なるマップ》。
《幻獣種召喚の本》。
どれもなくしていない。
「フール」
リリィが隣へ来た。
「右足は?」
「あ」
忘れていた。
黒龍王の洞窟で痛めてから、かなり時間が経っている。今は普通に歩けるけれど、長時間の移動と戦闘が続いたあとだから確認したほうがいい。
靴を少し緩め、足首を動かす。
痛くない。
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。違和感もないよ」
リリィは私の歩き方も少し確認してから頷いた。
「ならよし」
「リリィってお姉ちゃんみたい」
「フールよりはお姉ちゃんでしょ」
「それはそうだけど」
メリーが飛んでくる。
『私は?』
「メリーはメリー」
『何それ!』
少し笑った。
こうして話していると、さっきまで自分自身と戦っていたことが嘘みたいだった。
でも、鏡のなくなった壁を見ると、確かにここで起きたことだったと分かる。
「ねえ、オラクル」
「何だ?」
「鏡像って、私たちがもっと強くなってから来てたら、その分強かったのかな」
オラクルは少し考えた。
「たぶんな。少なくとも今日見た限りじゃ、あいつらは今の俺たちを写してた」
「じゃあ弱いときに来たほうが楽だった?」
「そうとも限らねえだろ」
「何で?」
「弱かった頃のお前らに、鏡像の仕組みを見抜いてシャイニーを使う判断ができたか?」
言われて黙った。
昔の私だったら。
鏡像が出た瞬間、怖がるか、逆に何も考えず突っ込んでいたかもしれない。
「強くなるって、戦えるようになるだけじゃねえよ」
オラクルはそう言ってから、煙草を取り出した。
火を付けようとして周囲の氷を見る。
少し考え、戻した。
「吸わないの?」
「空気がどう流れてるか分からねえ地下で煙出すほど馬鹿じゃねえ」
「オラクルも成長したね」
「元からだ」
即答された。
休憩を終えるころには、メロウの顔色も少し戻っていた。
全員で装備を確認し直す。
そして、さっき開いた細い通路へ戻った。
今度は誰も急がない。
メロウが前方へ重力を掛け、リリィが床を確認する。ロロットも大剣をすぐ振れる位置へ置きながら、勝手には進まなかった。
数十歩進んだところで、通路の形が変わった。
左右の氷壁が少しずつ狭まり、その先で急に開ける。
そこに階段があった。
下へ続いている。
「今度こそ地下二階?」
私が聞くと、オラクルはまだ答えなかった。
「表示か何か探せ」
「はいはい」
「返事が軽い」
階段の入口には、文字のようなものが刻まれていた。
かなり古い。
表面が削れ、一部は読めなくなっている。
メロウが目を輝かせた。
でも、近づく前に私を見る。
「触らんぞ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてあった!」
今度は私が笑った。
メロウは一定の距離を保ったまま、文字を観察する。
しばらくして鳥の杖の先で空中をなぞった。
「ここじゃ」
「読める?」
「完全には無理じゃ。ただ、教会で見た古い資料と同じ系統の文字が使われとる。そして、これは数字を示しとる可能性が高い」
メロウが二本の指を立てた。
「《二》じゃ」
全員が階段を見る。
今度こそ。
地下第二階。
教会にも確かな情報がほとんど残っていない場所。
第一階には罠の記録があった。
鏡の呪いも知っていた。
それでもあれほど危険だった。
ここから先は、その事前情報さえない。
私は階段の前へ立った。
冷たい空気が下から流れてくる。
でも、昨日の異常冷気とは違う。
普通の地下の寒さに近い。
「行く?」
フランが聞く。
私はみんなを見る。
誰も怪我をしていない。
休憩もした。
戻る道も覚えている。
《聖なるマップ》を開く。
ここまで進んだ地下第一階の道が、新しく刻まれていた。
鏡があった場所。
罠を避けた道。
そして今いる階段。
その先は、まだ白い。
何も描かれていない。
「行こう」
私は地図を閉じた。
「でも、今までよりゆっくりね」
「それをフールから聞けるとはな」
ロロットが笑う。
「もうそれ禁止!」
メリーも笑った。
『ゆっくり行こう!』
「うん」
オラクルが全員の位置を確認する。
「ここから先は、誰か一人だけ何か見えたり聞こえたりしても、勝手に追うな。まず全員へ伝えろ。記録がねえ以上、何が普通で何が異常かも分からねえ」
「了解」
「分かった」
全員が答える。
私は階段へ一歩踏み出した。
氷の段差。
次の一段。
さらに下へ。
最初のうちは、何も起こらなかった。
足音が階段へ響く。
ロロットの雪靴。
メロウの杖。
オラクルの車椅子。
メリーの声。
全部聞こえている。
十段ほど下りる。
まだ普通。
二十段。
そのあたりで、私は妙なことに気づいた。
「ねえ」
自分の声が少し遠い。
「何?」
隣を歩いていたフランが答える。
聞こえる。
でも、さっきより小さい。
「フラン、今普通に喋った?」
「普通だけど?」
「声、小さくない?」
フランが首を傾げる。
後ろのリリィが何か言った。
聞き取れなかった。
「リリィ、もう一回!」
「――――」
口は動いている。
でも言葉がぼやける。
まるで遠くから話しているようだった。
「止まって!」
今度は私が言った。
みんなが足を止める。
その瞬間、違和感がもっとはっきりした。
いつもなら止まったあとにも聞こえるはずの、服が擦れる音や呼吸音。
それがほとんどない。
メロウが鳥の杖で階段を軽く叩いた。
コン。
小さい。
もう一度。
今度は少し強く。
それでも、遠くで鳴ったようにしか聞こえない。
「音が……」
私が言う。
自分の声まで、薄くなっていた。
地下第二階へ近づくほど。
少しずつ。
世界から音だけが消え始めていた。




