第189話 永久凍土の氷門
翌朝、まだ空に夜の色が薄く残っているうちに、私たちは宿を出た。
スノーリアの街は眠りから覚め始めたばかりで、大通りには夜のあいだに積もった新しい雪が残っている。遠くでは店の主人が入口の雪を幅広い板で押し退け、別の通りからは朝一番の橇が雪を擦る音が聞こえてきた。
昨日まで街中へ響いていた警戒鐘は、もう鳴っていない。
大教会から持ち出された保管品はすべて回収され、北門周辺を覆った異常な凍結も、それ以上は広がっていなかった。傷ついた白い生き物も教会で治療を受けており、まだ経過を見る必要はあるものの、命に関わる状態ではないと聞いている。
完全に元どおりになったわけではない。それでも閉じられていた店の扉が開き、朝食を作る匂いが漂い、道端で雪かきをする人たちの声が聞こえるだけで、この街が少しずつ普段の暮らしを取り戻していることが分かった。
そんな街を離れる私の鞄には、昨日までなかったものが一つ入っている。
《聖なる白銀の鍵》。
宿を出る前に一度確認した。朝食を食べたあとにも確認し、荷物を背負う直前にも、青い布に包んだ白い箱が鞄の奥にきちんと固定されていることを確かめた。
「フール」
車椅子に雪上用の板を取り付けていたオラクルが、呆れた顔でこちらを見る。
「あるか?」
「あるよ」
「なら何回確認すんだ。さっきから鞄ばっかり開けてるぞ」
「だって大事なんだよ。教会がずっと守ってきた鍵なんだから、なくしたら大変じゃん」
「三分前にも聞いた」
「三分あれば何か起きるかもしれないでしょ」
「鞄の中で何が起きんだよ」
『鍵が逃げる!』
肩に乗ったメリーが両腕を広げた。
「ほら!」
「精霊の適当な援護を採用すんな」
朝から怒られた。
でも、昨日司祭から鍵を託されたときの重さを思い出すと、どうしても気になってしまう。
《永久凍土の氷門》を開くことのできる唯一の鍵。それだけでも十分すぎるほど大切なのに、古い記録には《氷門を開きし後も、その役目は終わらず》という意味不明な一文まで残されている。
何のために作られたのか。
なぜ氷門を開いたあとも役目が残るのか。
それは教会にも分からない。
今の私にできるのは、なくさず持っていることだけだった。
「鍵ばっかり気にしてねえで、他の荷物も見ろ」
オラクルに言われ、今度は全員で装備を確認した。
厚手の外套と手袋、雪道用の靴、保存食、水、縄、携帯用の魔法灯、治療用品、予備の布。それから教会が用意してくれた地下第一階の記録の写し。
メロウだけは、その荷物へさらに本を追加しようとしていた。
「何冊持ってく気だ」
オラクルが尋ねる。
「必要な資料だけじゃ」
「一冊、二冊……三冊目置け」
「何でじゃ!?」
「昨日、宿へ置いてく本を決めただろ」
「これは別の資料じゃ! 迷宮内部で古代文字を見つけた場合に備えて――」
「雪山と地下迷宮へ図書館背負ってく気か」
メロウは本とオラクルを何度も見比べ、最後には大事そうに三冊目を宿の机へ戻した。
「帰ってきたら絶対読むからのう……」
「本に別れの挨拶しなくていいよ」
「資料への敬意じゃ!」
朝からいつもどおりだった。
私は笑いながら雪道用の靴を締め直し、《キジトラウサギ》の帽子を深く被った。
最初は恥ずかしかった二本の長い耳も、スノーリアへ来てからは気にならなくなった。むしろ耳の周囲までしっかり覆われるので、北へ向かう今日にはありがたい。
フランは厚い外套の下でも短剣を問題なく抜けることを確認し、リリィは雪靴の紐だけでなく、腰へ付けた細い縄や追跡用の道具まで一つずつ確かめている。
ロロットだけは慣れたもので、私たちよりかなり軽装に見えた。
「寒くないの?」
「地元だぞ?」
「地元でも寒いものは寒いでしょ」
「そりゃ寒いけど、着込みすぎると動けなくなる。雪の中じゃ暖かさだけじゃなく、動けることも大事なんだよ」
「さすがキジトラウサギ」
「だから俺を種類で呼ぶな!」
本物の長い耳がぴんと立った。
私の帽子とは違い、ロロットの耳は感情まで分かるから面白い。
準備を終えた私たちは北門へ向かった。
昨日は異常な氷に覆われていた街道も、兵士と教会の人たちによってかなり片づけられている。まだ一般の通行は制限されていたものの、私たちが《氷鏡の地下迷宮》へ向かうことは大教会から伝えられており、門の前では二人の兵士が待っていた。
一人が地図を広げる。
「北の山域は昼前から風が強くなる予報です。迷宮へ向かわれるのでしたら、この街道を途中まで進み、三つ目の標柱から北東へ外れてください。その先は通常の街道ではありません」
「標柱はどれくらいの間隔?」
リリィがすぐ尋ねる。
「晴れていれば、一本から次の一本が見える程度です。ただし吹雪が強くなれば、ほんの数十歩先でも見失います。必ず現在の標柱を確認してから次へ進み、見えない場合は無理に前進しないでください」
リリィは地図を見たあと、ロロットへ顔を向けた。
「昔と地形変わってない?」
「大きくは変わってない。ただ、雪の積もり方で小さな谷が埋まることはある。標柱だけじゃなく俺も見るよ」
一つだけを信用しない。
地図、標柱、ロロットの土地勘、リリィの観察、そして私の《聖なるマップ》。
使えるものを全部使い、食い違ったら止まる。
地下迷宮へ入る前から、もう攻略は始まっているような気がした。
「では、お気をつけて」
兵士たちが北門を開く。
冷たい風が吹き込み、私は反射的に帽子の耳を押さえた。
その向こうには、昨日とはまるで違う北街道が伸びていた。
異常な冷気はない。
朝日を受けた雪原が白く輝き、遠くには幾重にも重なる山々が見えている。
それでも私は、門を越える直前に一度だけ足を止めた。
昨日、封印した木箱があった場所。
そこだけ石畳が青白く変色し、周囲より厚い氷が残っている。縄で囲われ、教会の人たちが今も調査を続けていた。
何十年も何も起こさなかった保管品が、突然反応した場所。
冷気は風に逆らって北へ向かい、その直後には遠い氷山から青白い光が立ち上った。
今日、私たちはその先へ行く。
胸の奥に、昨日とは違う緊張があった。
《何かあるかもしれない》ではない。
何かが起きたことだけは、もう知っている。
「フール?」
フランに呼ばれる。
「大丈夫?」
「うん」
私は門の向こうへ一歩踏み出した。
「行こう」
街道を進むにつれ、スノーリアの城壁は少しずつ遠ざかっていった。
最初のうちは道幅も広く、橇が通った跡や旅人の足跡が雪の上に残っている。途中で何台かの橇ともすれ違い、まだ人の生活圏の中を歩いていることが分かった。
ところが三つ目の銀色の標柱を越え、兵士から教えられたとおり北東へ進路を変えたところで、景色が一変した。
道が消えた。
正確には、道と呼べるものが雪の下へ完全に埋もれていた。
低い丘も、凍りついた岩も、遠くの山裾もすべて白く覆われ、地面と空の境界さえ曖昧に見える。人の足跡も橇の跡もなく、振り返らなければ、自分たちがどこから来たのかさえ分からなくなりそうだった。
「ここからが本番だ」
ロロットが先頭へ出る。
「俺より前へ行くなよ。雪の下に岩や割れ目が隠れてる場所もある。見た目が平らでも信用するな」
「分かった」
「特にフール」
「何で私だけ!」
「走りそうだから」
「今日は走らないよ!」
『昨日も言ってた!』
「メリーはどっちの味方なの?」
『安全の味方!』
言い返せなかった。
私たちは互いの姿をすぐ確認できる距離を保ちながら進んだ。
先頭はロロット。その少し後ろでリリィが地面と標柱を確認し、私はメリーと中央を歩く。後ろにはフランとメロウが続き、最後尾をオラクルが進んだ。
オラクルの車椅子には、雪へ沈みにくい幅広の板が取り付けられている。昨日ロロットが地元の職人から借りてきたものだった。
一時間ほど進んだころ、風が変わった。
最初は帽子の長い耳を揺らす程度だったのに、少しずつ横殴りの雪が混じり始める。遠くの山々は白い霞へ溶け、さっきまで見えていた標柱まで見つけにくくなってきた。
ロロットが立ち止まる。
「次、見えるか?」
リリィが目を凝らした。
すぐには答えない。
数秒。
「……右前。半分埋まってる」
私も同じ方向を見る。
何もない。
少し進んで、ようやく雪の中から銀色の先端だけが突き出していることに気づいた。
「よく見えたね」
「フールも探して」
「探してたよ」
「帽子の耳しか動いてなかった」
「耳は私の意思じゃ動かないよ!」
本物の耳を持つロロットが笑った。
まだ笑える。
でも、さらに二本の標柱を越えたところで、その余裕もなくなった。
風が一段強くなった。
雪が顔へ叩きつけられ、少し離れただけで仲間の輪郭が白く霞む。空も地面も同じ色になり、目を開けているのに何も見えていないような感覚に襲われる。
「止まろう」
今度はリリィだった。
誰も反対しない。
「次の標柱が見えない。このまま進むのは危ない」
ロロットも周囲を確認し、少し離れた場所にある大きな岩を指した。
「風を避ける。全員あそこまで。前の奴から離れるな」
私たちは岩陰へ移動した。
風が遮られるだけで、身体に当たる雪の量が大きく減った。
私は鞄から《聖なるマップ》を取り出す。
現在地と、ここまで進んできた道は分かる。仲間の位置も確認できる。
でも、この先にある標柱までは表示されていない。
「方向は分かる。でも標柱は載ってない」
「なら補助だ」
オラクルが答える。
「マップが示す方向とロロットの記憶、標柱。この三つのうち一つでも変なら進まねえ。目的地が逃げるわけじゃないからな」
「うん」
目的地は逃げない。
分かっているのに、その言葉を聞くと少し安心した。
岩陰で十分ほど待った。
やがて風が一瞬だけ弱まり、リリィが外を確認する。
「あった」
次の標柱が見えた。
そこから先は、さらに慎重に進んだ。
一本を見つける。
全員がそこへ着く。
次を探す。
見えなければ止まる。
少しずつ。
確実に。
そうしてどれほど歩いたころだろう。
ロロットが突然、右手を上げた。
全員が止まる。
「ここから先、標柱はない」
「迷った?」
私が聞くと、ロロットは首を横へ振った。
「逆だ。着いたんだよ。この先が氷山の谷だ」
風に流されていた雪が、ほんの一瞬だけ途切れた。
その向こうに巨大な影が見えた。
最初は山だと思った。
でも、近づくほど左右に二つの巨大な氷壁がそびえていることが分かる。
青白い氷山。
その間に、人一人なら十分通れるものの、外の雪原と比べれば異様に狭く感じる谷が口を開けていた。
「ここ……?」
「入るぞ」
ロロットの声も、さっきまでより小さい。
谷へ一歩踏み込む。
その瞬間、音が変わった。
外で吹き荒れていた風が、急に遠くなる。
雪が顔へ当たらない。
代わりに、自分たちの靴が雪と氷を踏む音だけが、左右の壁へ何度も反響した。
ザクッ。
少し遅れて、別の方向から同じ音が返ってくる。
ザクッ。
ザクッ。
まるで、自分たちとは別の誰かが後ろから歩いてきているように聞こえた。
私は一度だけ振り返った。
誰もいない。
「反響だよ」
フランが小声で言った。
「分かってる」
分かっている。
それでも、さっきまで広すぎる雪原を歩いていたせいか、今度は左右から巨大な氷に挟まれていることが妙に怖かった。
谷の壁には何層もの氷が重なっていた。
透明に近い部分もあれば、雪を閉じ込めたように白く濁った層もあり、さらに奥には光さえ届かないほど濃い青色が沈んでいる。場所によっては巨大な亀裂が何十メートルも上まで走り、その向こう側に岩とも木とも判別できない黒いものが閉じ込められていた。
どれほど昔から凍っているのだろう。
考えながら歩いていると、谷の入口が少しずつ遠ざかっていった。振り返ればまだ外の白い雪原が見えるものの、そこから吹き込んでくるはずの風はほとんど届かない。
静かだった。
完全に無音ではない。
私たちの靴が氷を踏む音、オラクルの車椅子に取り付けた雪上板が地面を擦る音、メロウの杖がときどき硬い氷へ触れる音。その一つ一つが左右の氷壁へぶつかり、少し遅れて別の方向から返ってくる。
最初はただの反響だと思っていた。
ところが奥へ進むにつれ、返ってくる音が増えたように感じ始めた。
私たちが一歩進む。
ザクッ。
左右から音が返る。
ザクッ、ザクッ。
さらに奥から、もう一つ。
ザクッ。
私は思わず足を止めた。
すると、少し遅れて最後の一音だけが谷の奥へ消えていった。
「……今、私が止まったあとも聞こえなかった?」
「聞こえた」
フランも後ろを確認していた。
ロロットは長い耳を立て、しばらく動かなかった。
「誰か歩いてるわけじゃない。たぶん谷が曲がってるせいで、奥まで行った音が遅れて返ってきてる」
「たぶん?」
私が聞き返す。
「こんな奥まで来たことないんだよ。迷宮の場所は知ってても、氷門まで行ったことはない」
そうだった。
ロロットも《氷鏡の地下迷宮》には入ったことがない。
ここから先は地元のロロットにとっても未知なのだ。
その事実を意識した途端、左右の氷壁がさっきより高く感じられた。
「固まって進もう」
リリィが言った。
「広い場所じゃないから迷う可能性は低いと思うけど、前後が離れる必要もない。何か見つけても一人で近づかないようにしよう」
全員が頷き、今までより距離を縮めて進んだ。
谷は真っ直ぐではなかった。
大きく右へ曲がり、その先で少し狭くなる。左右の氷壁が近づき、場所によっては両手を広げれば届きそうなほどだった。
私はなるべく壁へ触れないよう中央を歩いた。
氷の中が見える。
何層もの白い筋。
小さな気泡。
黒い石。
そして、ときどき不自然なほど真っ直ぐな線。
最初は亀裂だと思った。
でも、同じ高さに何本も並んでいる。
「メロウさん」
私が呼ぶと、メロウもすでに気づいていた。
「自然にできた線じゃない?」
「断定はできんが……妙じゃな」
鳥の顔付きの杖を近づけるものの、氷へは触れない。
「間隔が揃いすぎとる。しかも一か所ではない」
少し先にも同じものがあった。
三本の横線。
その下に縦線。
さらに進むと、今度は曲線まである。
氷そのものに刻まれているというより、もっと奥にある何かが氷越しに見えているようだった。
「文字?」
私が尋ねる。
「分からん。模様かもしれんし、建造物の一部かもしれん。氷が厚すぎて全体が見えんのじゃ」
メロウの声には、いつもの興奮と警戒が半分ずつ混ざっていた。
「削ったら見える?」
「駄目」
リリィとオラクルが同時に言った。
メロウが振り返る。
「まだ何もしておらん!」
「聞いただけだよ」
「フールも余計なこと言うでない!」
私は笑いかけた。
でも、すぐに笑えなくなった。
少し先の氷壁に、これまでとは違う模様が見えたからだ。
「待って」
今度は私が全員を止めた。
右側の壁。
青く透き通った氷の奥に、細長いものが見える。
何度か角度を変えて、ようやく形が分かった。
「蛇……?」
一本の長い身体が、大きく弧を描いている。
本物ではない。
彫刻か、壁画の一部だ。
厚い氷のさらに奥へ刻まれているため全体は見えないけれど、細長い胴体と、先端にある頭らしい形だけは分かる。
メロウが今度こそ目を輝かせた。
「これは人工物の可能性が高いぞい」
「蛇なの?」
「そう見える。じゃが、この一部分だけでは何とも言えん」
私は昨日、大教会で見せてもらった記録を思い出した。
雪山で目撃された《白く長いもの》。
巨大な蛇のような痕跡。
そして、グライツで見つけた古い記録。
「同じものかな」
思わず呟く。
オラクルがすぐ答えた。
「まだ繋げんな」
「分かってるよ」
ただ覚えておく。
氷の奥に、蛇のような模様があった。
それだけ。
私たちは再び歩き始めた。
谷はさらに深くなる。
外の光が届きにくくなり、青白い氷そのものが周囲を淡く照らしているように見えた。昼間のはずなのに、時間の感覚まで少しずつ薄れていく。
「魔法灯、出す?」
フランが尋ねる。
「まだいい」
ロロットが前を見る。
「この明るさなら歩ける。暗くなってから使おう」
余計な魔力や道具を使わない。
これから地下へ入ることを考えれば、その判断も正しい。
さらに十分ほど進んだところで、メリーが突然私の肩から身体を起こした。
『フール』
声が小さい。
「どうしたの?」
『冷たいの』
「寒い?」
『違う』
その言葉で全員の足が止まった。
昨日も聞いた。
普通の雪や氷とは違う《冷たい力》。
「どこ?」
メリーはすぐには答えなかった。
目を閉じ、身体を少し浮かせる。
『前。すごく遠くじゃない』
メロウが杖を構えた。
「昨日の保管品と似とるか?」
『ちょっと似てる。でも、もっと大きい』
「大きい?」
『箱みたいに一個じゃないの。前のほう全部が冷たい感じ』
私は谷の奥を見る。
青白い氷。
曲がった道。
その先は見えない。
「戻る?」
フランが聞いた。
オラクルはすぐには答えなかった。
「メリー。嫌な感じはするか?」
『……分かんない』
「昨日みたいに近づきたくない?」
メリーは少し考えた。
『昨日とは違う。怖いけど、痛い感じじゃない』
「なら少し進む。ただし何か変わったら止まる」
全員が頷いた。
歩く速度が自然と遅くなった。
一歩進むたび、谷の奥から流れてくる空気が冷たくなる。
防寒具を着ているのに、指先が少しずつ冷えていく。
そして気づいた。
壁だ。
左右の氷壁に、ごく淡い青白い筋が浮かんでいる。
「これ……」
昨日見た光に似ている。
北の空へ立ち上った青白い光。
でも、同じだとは決められない。
筋は脈打つように一度だけ明るくなり、すぐ元へ戻った。
その数歩先では、反対側の壁が光る。
さらに奥。
また一つ。
まるで、私たちが進む方向へ何かが順番に目を覚ましているようだった。
『増えてる』
メリーが私の帽子の耳へしがみつく。
「私たちに反応してる?」
『分かんない』
メロウも壁を観察しながら歩く。
「昨日の保管品が反応した現象と、何らかの関係がある可能性はある。じゃが、今は観察だけじゃ」
誰も氷へ触れなかった。
青白い筋は、私たちが近づくたびに現れ、通り過ぎるとゆっくり消えていく。
やがて谷が大きく左へ曲がった。
ロロットが先頭で角を越える。
その身体が止まった。
「……おい」
普段よりずっと低い声だった。
「どうしたの?」
返事がない。
リリィが続く。
同じように止まった。
フラン。
メロウ。
私も角を曲がる。
そして、ようやく二人が止まった理由を理解した。
谷が終わっていた。
正確には、その先を巨大な何かが完全に塞いでいる。
最初は、それが扉だと分からなかった。
氷山そのものだと思った。
左右の氷壁と同じ青白い色。
同じ亀裂。
同じように何層もの氷が重なっている。
でも、よく見ると中央に一本の真っ直ぐな境目がある。
その左右には、自然にはできない巨大な曲線が何本も刻まれていた。
「これ……」
声が勝手に小さくなる。
ロロットが答えた。
「《永久凍土の氷門》だ」
私は何も言えなかった。
大きい。
そんな言葉だけでは足りなかった。
氷山を削って扉を作ったのか。
それとも、巨大な扉が先にあり、その周囲を何百年、何千年という時間をかけて氷が覆い、今の氷山になったのか。
見ただけでは分からない。
扉の上端は、見上げても雪混じりの薄暗い空間へ溶け込んでいた。左右の端も氷壁へ完全に埋まり、どこまでが扉で、どこからが山なのか境界さえ判別できない。
表面には無数の傷があった。
亀裂とは違う。
斧。
剣。
何か巨大な道具。
過去にこの扉を力ずくで開けようとした人たちが残したのかもしれない。
浅い傷。
深い傷。
黒く焦げたような跡まである。
それでも扉そのものは壊れていなかった。
「これ全部……誰かが開けようとした跡?」
フランが呟く。
メロウが傷へ近づきすぎない距離から観察する。
「可能性はあるのう。少なくとも自然の亀裂ではないものが混じっとる。しかし、これだけ傷つけられてなお、構造そのものにはほとんど影響がないようじゃ」
ロロットが鼻を鳴らした。
「だから鍵が必要なんだろうな」
私は扉の中央を見る。
そこには巨大な雪の結晶が彫られていた。
その周囲を、一匹の長い蛇のような模様が円を描いて取り囲んでいる。
さっき氷壁の奥で見た模様と似ている。
でも、今度は全体が見えた。
蛇は雪の結晶を守っているようにも、締めつけているようにも見える。
「メロウさん」
「分かっとる」
「まだ何も言ってない」
「蛇じゃろ」
「うん」
メロウは模様を見上げる。
「偶然とは考えにくくなってきたのう。じゃが、何を意味するかはまだ分からん」
大規模凍結。
巨大な蛇状生物の目撃。
氷壁の奥の蛇。
そして、氷門そのものに刻まれた蛇。
同じものなのか。
違うものなのか。
答えは扉の向こうにあるのかもしれない。
そのとき、メリーが私の肩で身体を強張らせた。
『フール』
「今度は何?」
『ここ』
「ここ?」
『さっき前からしてた冷たいの、この扉の向こうから来てる』
全員が黙った。
メリーは扉へ近づこうとはせず、私の肩から巨大な氷門を見上げている。
『すっごく遠くにも感じる。でも、扉の向こうに続いてる』
昨日、保管品が北へ向かって反応した。
北の氷山で青白い光が上がった。
そして今、ここまで来る途中の氷壁が青白く脈打ち、メリーは冷たい力が扉の向こうへ続いていると言う。
まだ断定はできない。
でも、ここまで来た理由が間違っていなかったことだけは、少しずつ確かになっている気がした。
私は鞄へ手を置いた。
《聖なる白銀の鍵》。
その瞬間だった。
カチッ。
小さな音がした。
全員が動きを止める。
「今の何?」
リリィが周囲を見る。
誰も何もしていない。
もう一度。
カチッ。
今度は分かった。
鞄の中だ。
「鍵……?」
急いでは開けない。
まず全員で少し下がり、安全を確認してから鞄を地面へ置いた。
留め具を外し、奥から白い箱を取り出す。
箱そのものは変わっていない。
でも、蓋を開けた瞬間、息を呑んだ。
青い布に包まれた《聖なる白銀の鍵》が、淡く光っていた。
昨日、受け取ったときよりはっきりと。
白い結晶の奥から光が生まれ、一定の間隔で強くなっている。
そして目の前の《永久凍土の氷門》にも、同じ間隔で青白い筋が走った。
鍵。
氷門。
鍵。
氷門。
まるで互いの存在を確かめ合っているようだった。
「反応してる……」
フランが呟く。
今度はオラクルも否定しなかった。
「少なくとも、この二つが反応し合ってんのは間違いなさそうだな」
私は鍵を見た。
これを使えば、開く。
今まで閉ざされていた場所が。
何人もの冒険者が傷つき、帰ってこなかった人もいる場所が。
「フール」
オラクルに呼ばれる。
「怖いなら、ここで一回止まってもいいぞ」
少し考えた。
怖い。
目の前まで来ると、教会で話を聞いていたときとは全然違う。
でも、だからこそ、勢いだけでは開けたくなかった。
私は全員を見た。
「最後に確認していい?」
誰も笑わなかった。
私は白い箱の中で淡く光っている《聖なる白銀の鍵》を見ながら、教会で聞いた話を頭の中でもう一度思い返した。
地下第一階には無数の氷鏡があり、そこに映った自分自身の影が実体を持って襲ってくる。鏡だけではなく、滑る床や仕掛けられた罠もあるらしく、これまで迷宮へ入った冒険者のほとんどが第一階で傷を負い、引き返している。
地下第二階から先については、教会にも確かな情報がほとんどない。
地下第三階まで辿り着き、無事に帰ってきたと確認できる記録に至っては、一つも残っていなかった。
鍵を回せば、その場所へ自分たちの意思で入ることになる。
「入ったあと、危ないって分かったら戻ろう」
私はみんなの顔を順番に見た。
「目的のものが見えてても、あと少しで届きそうでも、誰か一人でも続けるのが無理だと思ったら戻る。それと、地下第一階で鏡の影が出ても、最初から一人で何とかしようとしない。昨日までに決めたこと、ちゃんと守ろう」
自分で言いながら、少し不思議な気持ちになった。
以前なら「絶対に行こう」と言っていたかもしれない。
でも今は、進むことだけを約束したくなかった。
戻ることまで含めて、みんなで決めておきたかった。
フランが最初に頷いた。
「俺はそれでいいよ。ここまで来たからって、絶対に最深部まで行かなきゃいけないわけじゃないからね」
「私も」
リリィは巨大な氷門を見上げた。
「地下第一階は教会の記録があるけど、それでも分かってないことが多い。記録と違うことが一つでもあったら、そこで一度止まって考えよう。特に地下第二階からは、知ってるつもりで進まないほうがいいと思う」
「俺も異論はねぇ」
ロロットは背中の大剣へ手を触れた。
いつもの不敵な笑い方ではなかった。
「正直に言えば、ここまで来ても怖いよ。昔から話だけは何度も聞いてた場所だからな。でも、一人じゃない。それに怖いって分かってるほうが、何も考えず突っ込むよりましだろ」
メロウも珍しく真面目な顔で頷く。
「未知の遺跡へ入る以上、撤退も立派な調査判断じゃ。新しい物を見つけても、勝手に触らん。文字や仕掛けを見つけても、まず全員へ知らせる。わしも守るぞい」
全員の視線がメロウへ集まった。
「何じゃ、その目は」
「本当に?」
「フールにだけは疑われたくないわ!」
「私は昨日ちゃんとしてたよ!」
「わしもちゃんとしておった!」
少しだけ笑いが起きた。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
最後にオラクルが口を開いた。
「俺からは一つだ。今決めたことを、状況が変わったからって都合よく変えんな」
私を見る。
メロウを見る。
また私を見る。
「何で二回見たの?」
「大事だからだ」
「一回で分かるよ!」
「なら覚えとけ。迷宮ってのは、進めそうに見えるときが一番危ねえこともある。目の前に欲しいもんがあっても、それを取ったら帰れなくなるなら取るな。誰かが怪我したら、そいつが『大丈夫』って言っても状態を見て判断する。地下二階から先は情報がねえんだ。分からねえことが起きたら、まず止まれ」
「うん」
今度は素直に頷いた。
そして、肩にいるメリーを見る。
「メリーは?」
『私も行く!』
「それは知ってる」
『フールが変なことしそうになったら止める!』
「そっち!?」
『大事!』
みんなが笑った。
私も笑う。
その笑いが消えてから、もう一度《永久凍土の氷門》を見上げた。
不思議と、さっきより怖くなかった。
怖さが消えたわけではない。
ただ、一人で扉の前に立っているわけではないと改めて分かった。
「じゃあ、開けるね」
今度は誰も止めなかった。
私は青い布ごと鍵を持ち上げ、白い箱を閉じた。布を外すと、冷たい銀色が手の中へ直接触れる。
鍵は、昨日教会で持ったときより冷たかった。
痛いほどではない。
でも、この場所へ来たことで何かが変わったことは分かる。
持ち手の中央に嵌め込まれた白い結晶も、一定の間隔で光を強めていた。
そのたびに、目の前の氷門へ刻まれた線が同じように青白く脈打つ。
鍵が氷門を呼んでいるのか。
氷門が鍵を呼んでいるのか。
それは分からない。
私は扉へ近づいた。
近くまで来ると、その大きさがさらに異様だった。
表面を覆う傷の一つ一つが、遠くから見ていたときより遥かに深い。中には私の腕が入りそうな傷まであるのに、その奥から別の氷が覗いているだけで、扉そのものが壊れた様子はなかった。
どれほど多くの人が、ここを力ずくで開こうとしたのだろう。
剣。
斧。
魔法。
それでも開かなかった。
その中央にある鍵穴だけが、不自然なほど傷ついていなかった。
私は《聖なる白銀の鍵》を差し込んだ。
抵抗はない。
まるで最初からここへ戻ることを待っていたように、鍵は奥まで滑り込んだ。
「入った……」
『回す?』
メリーが私の肩から覗き込む。
「回す」
両手で持ち手を握る。
力を込めた。
動かない。
「固い……」
「無理にやんな」
後ろからオラクルの声が飛ぶ。
「鍵折ったら終わりだぞ」
「分かってる!」
一度力を抜いた。
鍵を見る。
扉を見る。
何か別の仕掛けがあるのだろうか。
そう思った瞬間、持ち手の白い結晶が強く光った。
同時に、鍵穴の周囲へ刻まれていた小さな雪の模様が一つずつ輝き始める。
カチッ。
鍵が、自分から僅かに動いた。
「今……」
もう一度触れる。
今度はほとんど力を入れなかった。
ゆっくり右へ回す。
カチッ。
乾いた音が、巨大な谷へ響いた。
あまりにも小さい。
目の前の扉の大きさと釣り合わないほど、小さな音だった。
でも、それだけで十分だった。
鍵穴から白銀の光が走った。
一本の細い筋となって扉の表面を進み、途中で二つ、四つ、八つへ枝分かれしていく。
雪の結晶。
その周囲を囲む蛇。
さらに外側へ刻まれた無数の古い模様。
今まで氷と同じ色に埋もれていたものが、一つずつ光によって浮かび上がった。
「下がって!」
私は鍵から手を離し、みんなのところまで戻った。
次の瞬間、足元が震えた。
ゴゴゴゴゴゴ……。
腹の奥まで響く低い音。
氷山そのものが目を覚ましたようだった。
左右の壁から細かな氷が落ち、地面を跳ねる。フランが私の肩を支え、ロロットは大剣ではなく近くの氷壁へ片手をついて身体を安定させた。
メリーは私の帽子へしがみついている。
『フール! 本当に開いてる!?』
「分かんない!」
まだ扉は動いていない。
ただ、表面を走る白銀の光だけが増えていく。
やがて雪の結晶を取り囲んでいた蛇の目に当たる部分が、二つ同時に光った。
ギィィィィィ……。
今までとは違う音がした。
氷と氷。
あるいは、もっと巨大な何かが長い年月を経て動き始める音。
扉の中央にあった一本の境目が、ゆっくりと太くなった。
「開いてる……」
リリィの声が聞こえた。
誰も近づかない。
全員が、その光景を見ていた。
何百年、あるいはもっと長い時間閉ざされていたのかもしれない二枚の氷が、左右へ少しずつ離れていく。
最初は指一本分。
やがて手が入るほど。
その隙間から、白い冷気が細く流れ出した。
外の雪山より冷たい。
なのに、昨日の保管品から感じたような荒々しい冷気ではなかった。
静かだった。
深い場所に閉じ込められていた空気が、ようやく外へ出てきたような冷たさ。
扉がさらに動く。
隙間の向こうに、暗闇が見えた。
魔法灯の光も、外の日差しも届かない。
ただ、ずっと奥。
青白い何かが僅かに輝いている。
「……あれが地下迷宮?」
フランが呟いた。
ロロットも答えなかった。
知っている者はいない。
やがて扉は、人が十分に通れるほど開いたところで止まった。
地面の振動も収まる。
谷に再び静寂が戻った。
でも、さっきまでとは違う。
目の前にはもう、閉ざされた扉ではなく入口がある。
私はしばらくその暗闇を見ていた。
本当に開いた。
「フール」
オラクルが呼ぶ。
「鍵」
「あっ!」
忘れていた。
慌てて扉へ近づきかけ、途中で速度を落とす。
「走るな」
「分かってる!」
鍵穴を見る。
《聖なる白銀の鍵》は残っていた。
消えていない。
溶けてもいない。
私は慎重に持ち手を掴み、少し力を入れた。
今度は簡単に抜けた。
手の中へ戻った鍵は、使用前とほとんど変わらない。
ただ一つ。
持ち手に嵌め込まれた白い結晶の奥に、細い青色の線が一本だけ増えていた。
「これ……前からあった?」
メリーが覗き込む。
『なかったと思う』
「私も」
メロウが近づこうとする。
「見せ――」
「触らないでね」
「分かっとる!」
私は布の上へ鍵を置いた。
メロウも今度は距離を保って観察する。
「変化した可能性はあるのう。じゃが、今ここで調べる必要はない。司祭殿が言っておった《氷門を開いたあとも役目が終わらない》という記録と関係するかもしれん。なくさんよう持っとけ」
「うん」
私は鍵を青い布で包み、白い箱へ戻した。
箱を閉じる。
鞄の奥へ入れる。
留め具を確認する。
さらにもう一度。
オラクルがこちらを見ている。
「今は確認していいでしょ!」
「何も言ってねえよ」
「顔が言ってる!」
少しだけ笑いが起きた。
でも、その笑いも入口へ視線を戻すと自然に消えた。
巨大な氷門の向こうには、下へ続く緩やかな階段があった。
階段も氷でできている。
左右の壁には淡い青白い光があり、魔法灯を使わなくても足元だけは見えた。
そして、そのさらに奥。
光を反射する何かがある。
一枚ではない。
右。
左。
もっと奥にも。
私は目を凝らした。
「鏡……」
教会で聞いた話を思い出す。
地下第一階。
無数の氷鏡。
そこへ映った自分自身が、実体を持って襲ってくる。
ここから先が、本当の《氷鏡の地下迷宮》だ。
フランが短剣の位置を確認し、ロロットも背中の大剣へ手を伸ばす。リリィは足元と壁を交互に観察し、メロウは鳥の顔付きの杖を構えた。
メリーは私の肩へ戻ってくる。
『フール』
「何?」
『さっき約束したこと、忘れないでね』
私は少し笑った。
「メリーもね」
『私は忘れないよ!』
「私だって忘れないよ」
オラクルが最後に全員を見る。
「入口の位置を覚えとけ。入った瞬間から、戻る道も攻略の一部だ。第一階は罠があるって分かってる。見た目が安全でも勝手に踏むな。鏡に何が映っても、一人で動くな」
全員が頷いた。
私は一度だけ後ろを振り返った。
谷の向こう。
そのさらに先には、もう見えないスノーリアの街がある。
帰る場所がある。
それを確認してから、前を向いた。
「行こう」
今度は誰も急がなかった。
私たちは互いの距離を確かめながら、《永久凍土の氷門》の向こうへ一人ずつ足を踏み入れた。
最後の一人が境界を越えても、巨大な扉は閉じなかった。
外から差し込む白い光が、しばらく背中を照らしている。
私はその光を少しだけ心強く感じながら、氷の階段を下りていった。
一段。
また一段。
下へ進むほど外の光は弱くなり、代わりに左右の氷壁から青白い光が浮かび上がる。
やがて階段が終わった。
その先には、広い通路が伸びていた。
床も、天井も、壁も氷。
そして左右には、背丈より遥かに大きな鏡が隙間なく並んでいる。
一歩も入っていないのに、そこにはもう何十人もの私たちがいた。
右の鏡にも。
左の鏡にも。
さらにその鏡へ映り込んだ鏡の奥にも。
赤い髪の私。
フラン。
リリィ。
ロロット。
メロウ。
オラクル。
そして肩の上のメリー。
同じ七人が、どこまでも奥へ増殖している。
私は無意識に足を止めた。
すると、すべての鏡の中にいる私も同時に止まった。
まだ普通だ。
まだ、ただの鏡。
そう思った。
そのとき。
一番奥に見える鏡の中で。
私だけが――ほんの一歩、遅れて足を止めた。
「……え?」
鏡の中の私は、こちらを見ていた。
私も鏡を見ている。




