第188話 託された白銀の鍵
北の氷山から立ち上った青白い光が消えたあとも、誰一人すぐには動けなかった。
空には何も残っていない。雪雲は変わらず山々の上へ垂れ込め、細かな雪も降り続けている。それなのに、ほんの一瞬だけ見えた光が目の奥へ焼き付いていた。
あの方角に《氷鏡の地下迷宮》がある。
だからといって、今の光まで迷宮が原因だと決めることはできない。
それでも、大教会から盗み出された保管品がほぼ同時に冷気を放ち、その一つが風に逆らって北へ冷気を流し始めた直後に、迷宮のある方角で青白い光が立ち上った。
偶然だと言い切るにも、重なりすぎている。
「北門へ行きましょう」
司祭が最初に動いた。
「ただし、あの箱へ不用意に近づいてはいけません。街で回収した品より反応が強い可能性があります」
オラクルもすぐに頷いた。
「ここにある二つは?」
「封印したまま大教会へ戻します。兵士を付けますので、我々が全員残る必要はありません」
「なら急ぐぞ。ただし、フール」
「走らない」
先に答えた。
オラクルが一瞬だけ黙る。
「……分かってんならいい」
「最近ずっと言われてるからね!」
雪道を走って転んだら、北門へ着く前に自分が救助される側になってしまう。
私たちは騎兵の案内を受け、北門へ向かった。
道中、司祭は兵士から詳しい状況を聞き取っていた。
最後の木箱を運んでいた男は、北門の少し手前で買い手と合流する予定だったらしい。しかし警戒鐘が鳴ったことで門が閉鎖され、外へ出られなくなった。男は箱を雪原の端へ隠そうとしたものの、その途中で急激な冷気が発生し、荷物を放置して逃げたところを兵士に確保されたという。
「買い手は?」
オラクルが尋ねる。
「まだ確認できていません。警戒鐘が鳴った時点で引き返した可能性があります」
「なら今は追わなくていい」
「よいのですか?」
司祭が少し驚いた。
「そいつを捕まえるのは兵士の仕事だろ。こっちは街が凍るのを止めるほうが先だ」
その判断に私も異論はなかった。
誰が買おうとしていたのかは気になる。
でも、それを追いかけている間にも冷気は広がる。
今何を優先するべきなのかは、もう迷わなかった。
北門へ近づくにつれ、道の様子が変わり始めた。
最初は石畳の端に薄い霜があるだけだった。それが少しずつ中央へ広がり、やがて靴底が滑るほど厚い氷へ変わっていく。
「ここから慎重に」
リリィが先に注意した。
私は歩幅を小さくし、足を真上から置く。
以前なら早く行きたい気持ちに負けていたかもしれないけれど、転んで遅くなるほうが嫌だった。
「フール、普通に歩けてるね」
フランが隣で言う。
「リリィに教えてもらったから」
「成長したな」
オラクルが後ろから言った。
「それ禁止!」
こんな状況なのに、少しだけ笑いが起きる。
そのおかげで張り詰めすぎていた身体から余計な力が抜けた。
北門へ到着すると、笑っていられる空気ではなくなった。
大きな門は完全に閉じられ、その内側には何人もの兵士が集まっている。門そのものに異常はないものの、下の隙間から白い冷気が細く流れ込み、石畳へ霜を作っていた。
「箱は外です!」
兵士が説明する。
「門からおよそ五十歩。周囲の凍結が広がり続けています!」
「人は近くに?」
「全員退避済みです。ただ、北街道の途中にある見張り小屋から二名が戻っていません!」
司祭の表情が変わった。
「連絡は?」
「取れません。街道が凍結してから、伝令も近づけない状態です」
人がいる。
その一言で、箱のことより先にそちらが気になった。
「助けに行かないと」
私が言うと、オラクルは否定しなかった。
「そのためにも、まず外の状況を見る。門を全部開けるなよ。人が一人通れる幅だけだ」
兵士たちが門の片側を慎重に動かした。
僅かな隙間が生まれた瞬間、冷気が吹き込んでくる。
「うっ……!」
思わず顔を腕で覆った。
普通の冬の風とは違う。
皮膚の表面ではなく、身体の奥へ冷たさが入り込んでくるようだった。
メリーもすぐ私の外套へ潜り込む。
『寒い!』
「大丈夫?」
『うん。でも嫌な冷たいの!』
門の隙間から外を見る。
私は息を呑んだ。
白い。
雪があるからではない。
街道そのものが氷に覆われている。
門から北へ延びる道の中央に、一つの木箱が倒れていた。
その周囲を中心として青白い氷が円状に広がり、街道脇の雪まで硬く凍結している。
さらに異様なのは、その先だった。
冷気が風に流されて広がっているのではない。
細い白い筋となって、街道を北へ向かって這っている。
まるで何かに引かれているように。
「メリー」
『うん』
私が聞く前に返事が来た。
『さっきより分かる。あっち』
メリーが北を指す。
『冷たい力が、あっちと繋がってる』
メロウが門の隙間から外を観察する。
「箱から迷宮へ流れとるのか、迷宮側から箱を引っ張っとるのか……そこまでは分からんな」
「どっちでも今は同じだ」
オラクルが言う。
「箱を止めて、見張りの二人を助ける。原因考えるのはそのあとだ」
司祭も頷いた。
「教会の封印板を運びます」
兵士たちが準備を始める。
私は街道の先を見た。
見張り小屋はここから見えない。
凍結した道を進まなければならない。
「どうやって行く?」
ロロットが尋ねる。
「普通に歩けば滑る。しかも箱へ近づくほど冷気が強くなるぞ」
リリィが氷の広がり方を確認する。
「街道の右側より、左側のほうが凍結が薄い。箱から少し離れて通れるかもしれない」
「理由は?」
「地面が少し高いからだと思う。冷気が低いほうへ流れてる」
メロウが頷いた。
「なら、さらに高くすればよい」
「道作れる?」
私が聞く。
「できる。ただし長距離は無理じゃ。魔力を使いすぎれば帰りが困る」
「見張り小屋まで全部作らなくていい」
リリィが街道を見ながら言った。
「一番凍ってる場所だけ越えられれば、その先はまだ歩けると思う」
少しずつ方法が見えてきた。
「じゃあ、メロウさんが高い道を作る。リリィが安全な場所を見る。ロロットとフランが先に行く?」
私が言うと、オラクルが首を横へ振った。
「全員で行く必要はねえ」
「でも――」
「救助だぞ。人数増やせば安全になるとは限らねえ。冷気の中に入る人数は少ないほうがいい」
正しい。
「なら誰が?」
オラクルはロロットとフランを見る。
「二人。リリィは門から経路を指示。爺さんは道を作る。俺とフール、メリーはここ。教会は箱の封印準備」
「私も行けるよ」
言ってから、少しだけ迷った。
行きたいから言ったのか。
本当に行く必要があるから言ったのか。
考える。
見張り二人を運ぶなら、ロロットとフランがいる。
道を見つけるのはリリィ。
道を作るのはメロウ。
私が行く理由は?
ない。
「……やっぱり残る」
オラクルが少し驚いた顔をした。
「何?」
「いや。何でもねえ」
絶対また成長したと思っている。
でも今は言わせなかった。
作戦が決まると、動きは早かった。
メロウが門の外へ杖を向け、街道左側の雪と土を持ち上げる。氷に覆われた地面より一段高い細い道が作られ、その上へ兵士が滑り止め用の砂を撒いた。
リリィは門の上にある見張り台へ移動し、街道全体を上から確認する。
「最初の二十歩は真っ直ぐ! その先で左へ寄って! 箱から最低でも十五歩離れて!」
ロロットとフランが外へ出る。
二人の身体には教会から借りた厚い外套が追加され、腰には命綱が結ばれていた。
ロロットが振り返る。
「行ってくる!」
「無理しないで!」
「お前に言われたくない!」
「今それ言う!?」
フランが笑いながらロロットを押す。
「行くよ」
二人が進み始めた。
最初は問題ない。
メロウが作った道を慎重に歩いていく。
箱へ近づくにつれ、外套へ白い霜が付き始めた。
「左!」
リリィの声が上から飛ぶ。
二人が進路を変える。
箱から距離を取ると、霜の増え方が少し弱くなった。
「そのまま!」
やがて二人は箱の横を通過した。
私はようやく息を吐く。
「見張り小屋まであとどれくらい?」
「ここから百歩ちょっと!」
遠い。
でも一番危険な場所は越えた。
「教会側、今だ」
オラクルが言う。
ロロットとフランが箱を通過したことで、今度は封印作業へ移れる。
司祭たちは門の外へ封印板を一枚ずつ滑らせるように送り出した。
直接箱へ近づくのではなく、長い金属製の器具を使い、十分な距離を保ったまま配置していく。一枚目は箱の南側。二枚目と三枚目は左右へ広げ、四枚目まで置いたところで、銀色の鎖を板同士へ繋いだ。
板に刻まれた魔法陣が淡い光を帯びる。
箱から流れ出していた冷気が僅かに揺らいだ。
「効いてる?」
私が尋ねると、司祭は箱から目を離さず答えた。
「まだです。六枚すべてを接続して初めて封印が閉じます」
残り二枚。
教会の男性が五枚目を器具で押し出していく。
箱まで十歩。
九歩。
八歩。
そのときだった。
箱の隙間から漏れていた青白い光が、突然強くなった。
「止まって!」
私が叫ぶのと、メリーが『来る!』と声を上げるのはほとんど同時だった。
箱を中心として、氷が一気に広がった。
雪の下にあった石畳が白く染まり、乾いた音を立てながら凍結していく。五枚目の封印板を動かしていた金属器具にも霜が走り、持っていた男性が慌てて手を離した。
「全員、門の内側へ!」
司祭の指示で教会の人たちが後退する。
直後、四枚の封印板を繋いでいた銀色の鎖が大きく軋んだ。
一枚目の板が揺れる。
二枚目も傾く。
「司祭様!」
「まだ切れていません! 近づかないでください!」
誰かが板を直そうとするのを、司祭自身が止めた。
冷気がさらに強くなる。
銀色だった鎖まで白く凍りつき、接続部分から嫌な音が聞こえ始めた。
ピシッ。
小さな亀裂。
もう一度。
今度はさっきより大きい。
「これ、持たないんじゃ……」
私は箱を見つめた。
壊せない。
近づけない。
封印しようとしても、その封印そのものが凍らされている。
しかも街道の向こうでは、ロロットとフランが二人の見張りを助けに向かっている。
今ここで封印が破れ、冷気が一気に広がれば、戻ってくる道まで失われるかもしれない。
「リリィ!」
見張り台へ向かって声を上げる。
「二人は!?」
「まだ見張り小屋! 動いてるのは見える!」
無事。
でも戻ってきていない。
焦る。
早く止めたい。
何かしなければ。
そう思った瞬間、肩にいたメリーが私の外套を強く引いた。
『フール、箱じゃない!』
「え?」
『冷たいの、箱だけから出てない!』
メリーは門の外、凍結した地面を指差していた。
『下にもある。ずっと向こうまで繋がってる!』
私は街道を見る。
箱から北へ伸びている細い白の筋。
さっきから冷気が風に逆らって流れていた場所だ。
封印板は箱だけを囲もうとしている。
でも、もし箱が北の何かと繋がっているのなら。
「メロウさん!」
「聞こえた!」
メロウはすでに杖を構えていた。
「箱へ入ってくる力を止めん限り、上から蓋をし続けても押し返されるということか!」
「切れる!?」
「分からん!」
また《分からない》。
でも今は、それで止まっていられない。
メロウは箱から北へ続く冷気の筋を目で追い、その途中へ杖の先を向けた。
「直接魔力を消すことはできん。じゃが、地面ごと流れを分断する!」
オラクルが即座に反応した。
「やれ。ただし箱には近づくな!」
「分かっとる!」
メロウが両手で杖を握る。
その瞬間、地面が大きく震えた。
今度は遠くの異変ではない。
メロウの魔法だ。
箱から北へ十歩ほど離れた場所で、凍りついた街道へ一本の亀裂が走る。
石畳が割れ、その下にある土が左右へ押し分けられていく。
しかし、青白い冷気の筋は消えない。
むしろ亀裂を越えるように光が伸びた。
「切れてない!」
私が叫ぶ。
「まだ浅いんじゃ!」
メロウの額へ汗が浮かぶ。
杖を握る両腕が震えている。
さらに地面が割れた。
一段。
もう一段。
街道の表面だけではなく、その下まで土が持ち上げられ、深い溝が作られていく。
冷気の筋が揺らいだ。
封印板を繋いでいた鎖が、また軋む。
ピシッ。
接続金具の一つに亀裂が走った。
「メロウさん、急いで!」
「分かっとるわ!」
怒鳴り返された。
でも、声に余裕がない。
「フール!」
上からリリィの声。
「ロロットたち戻ってくる!」
振り返る。
遠くの街道に四人の姿が見えた。
ロロットが一人を背負い、フランがもう一人の肩を支えている。
助かった。
そう思ったのと同時に、封印板の一枚が大きく傾いた。
「まずい!」
司祭が声を上げる。
一枚外れれば、まだ閉じていない封印が完全に崩れる。
私は反射的に外へ出ようとした。
でも、一歩目で止まった。
私が行って何をする?
凍りついた板を手で押さえる?
そんなことをすれば、私まで動けなくなる。
必要なのは勢いではない。
今できること。
「司祭様! 板が外れたらどうなるの!?」
「もう一度最初から配置し直す必要があります!」
「今の位置で固定するだけなら!?」
司祭が一瞬考えた。
「地面へ押さえつけられれば!」
「メロウさん!」
「今そっちまで無理じゃ!」
分かってる。
メロウは冷気の流れを切ろうとしている。
なら別の人。
私はロロットを見る。
遠い。
フランも見張りを支えている。
「オラクル!」
「兵士!」
私より先にオラクルが叫んだ。
「長い器具二本使え! 板そのものに近づくな! 左右から押さえろ!」
兵士たちが動く。
二本の金属器具を門の内側から伸ばし、傾いた封印板を左右から支える。
冷気が器具を伝ってくる。
白い霜が先端から少しずつ伸びてきた。
「手まで来る前に離せよ!」
オラクルの指示が飛ぶ。
「無理なら捨てろ! 板より人間優先だ!」
兵士たちは頷きながら板を支え続ける。
もう少し。
あと少しだけ持って。
私はメロウを見る。
「まだ!?」
「あと……少しじゃ!」
地面の亀裂がさらに深くなる。
冷気の筋が細くなった。
一度消えかけ、また繋がる。
メロウが歯を食いしばる。
「切れろッ!」
杖が強く光った。
亀裂の底から土が一気に盛り上がり、冷気の筋を下から押し上げる。
青白い光が大きく揺れた。
そして――途切れた。
箱の光が弱くなる。
同時に、封印板へ押し寄せていた冷気も目に見えて減った。
「今です!」
司祭が叫ぶ。
五枚目。
六枚目。
教会の人々が器具を使って一気に配置する。
六枚の封印板が箱を囲んだ。
銀色の鎖が最後の接続部へ掛けられる。
「離れて!」
全員が器具から手を放し、門の内側へ下がった。
一瞬だけ、何も起こらなかった。
失敗?
そう思った直後、六枚の魔法陣が同時に光った。
青白い光ではない。
銀色。
雪の上を走った銀の光が板から板へ繋がり、箱を中心として大きな輪を作る。
箱が激しく震えた。
一度。
二度。
三度。
内側から何かが封印を押し破ろうとしているようだった。
「持って……」
無意識に呟いた。
銀の輪が歪む。
でも消えない。
北へ伸びていた冷気の筋も復活しない。
箱から漏れていた白い靄が少しずつ薄くなる。
そして最後に、箱の奥で青白い光が一度だけ強く輝いた。
それを境に、震えが止まった。
静かになった。
誰もすぐには動かなかった。
司祭も、メロウも、オラクルも、封印された箱を見ている。
「……終わった?」
私が尋ねる。
司祭は慎重に魔法陣を確認した。
一枚ずつ。
鎖。
地面。
箱。
最後に小さく頷いた。
「封印は安定しています」
その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けた。
『やった!』
メリーが飛び上がる。
でも、まだ終わっていない。
「ロロットたち!」
私は街道を見る。
四人はもう近くまで戻ってきていた。
ロロットの耳も髪も霜で白くなり、背負われた兵士はぐったりしている。それでも意識はあるらしく、門を越えた瞬間に自分の足で立とうとしていた。
「無理するな」
ロロットがゆっくり下ろす。
教会の治療役がすぐ駆け寄った。
フランが支えていたもう一人も、唇は青くなっていたものの自分で歩けている。
「二人とも大丈夫?」
私が尋ねる。
フランは白くなった前髪を手で払いながら頷いた。
「凍傷はあると思う。でも小屋の中で火を焚いてたから、思ったより状態は悪くない」
「よかった……」
本当に、それしか言えなかった。
冷気の拡大は止まった。
見張りの二人も助かった。
持ち出された四つの保管品も、これですべて場所が判明した。
その日の夕方、街の警戒鐘は正式に解除された。
兵士たちが各区画を回って安全を伝えると、閉じられていた店の扉が一つずつ開き始めた。窓から外を見ていた子供たちが雪の上へ出てきて、止まっていた橇も再び大通りを走り始める。
完全にいつもどおりではない。
北門はまだ閉鎖され、凍結した街道の調査も続いている。
それでも、朝から張り詰めていた街が少しずつ息を吹き返していくようだった。
私たちは大教会へ戻った。
傷ついた白い生き物も運び込まれていた。
身体へ巻き付いていた布は、安全を確認しながら少しずつ外されたらしい。傷の治療も始まっていて、今は暖かな部屋で眠っていると聞いた。
「会える?」
私が尋ねると、治療を担当していた女性は笑った。
「今日は休ませてあげてください」
「分かりました」
生きている。
それだけで十分だった。
盗みを働いた男たちについては兵士へ任せることになった。北門の外で待っていたという買い手についても捜索が続いている。
そして最大の謎。
なぜ、何十年も変化しなかった保管品が今日になって一斉に反応したのか。
その答えだけは見つからなかった。
北の氷山で上がった青白い光。
保管品を北へ引くように流れていた冷気。
メリーが感じた《呼ばれているような感覚》。
どれも《氷鏡の地下迷宮》との関係を疑わせる。
でも、証拠はない。
だから今は、答えにしない。
翌朝。
私たちは再び、大教会の同じ部屋へ呼ばれた。
昨日とは違い、警戒鐘は鳴っていない。
窓の外には穏やかな雪が降り、中庭の大きな木にも新しい雪が積もっている。
司祭は私たちが席へ着くのを待ってから口を開いた。
「昨日は、本当にありがとうございました」
「私たちだけじゃないです」
私はすぐ答えた。
「教会の人も兵士さんもいたし、メロウさんが道を止めて、リリィが足跡を見つけて、フランとロロットが見張りの人を助けて……」
途中で気づく。
「オラクルも指示してた」
「俺だけ後付けかよ」
「忘れてないよ!」
『私も!』
メリーが両手を上げる。
「メリーも冷たい力を見つけた!」
『うん!』
司祭が小さく笑った。
「だからこそです。昨日、私は皆様の行動を見て、一つのことを確認できました」
表情が少しだけ真剣になる。
「あなた方は、危険な力を求めてスノーリアへ来た。しかし、街に異変が起きたとき、その力へ近づくことより、人を助けることを優先された」
私は何も言わず話を聞いた。
「傷ついた生き物を発見した際にも、正体が分からないからと攻撃せず、まず救う方法を考えたと報告を受けています。そして昨日の北門でも、箱を破壊するという最も単純な方法を選ばず、周囲への被害を避けながら封じる方法を探した」
司祭はそこで一度言葉を切った。
「《氷鏡の地下迷宮》には、我々にも理解できていないものが存在します。そこで何を見るのか、何と出会うのか、私には分かりません」
地下第二階。
地下第三階。
誰も確かな答えを持っていない場所。
「だからこそ、力だけを求める者へ扉を開くことはできないのです」
司祭が立ち上がった。
部屋の奥へ向かう。
昨日まで何度も見ていた本棚ではない。
その横の壁。
雪の結晶と十字が刻まれた小さな装飾へ手を触れる。
低い音がした。
壁の一部が僅かに動き、その奥から細い収納棚が現れる。
私は思わず立ち上がりそうになった。
でも我慢した。
司祭は棚から、細長い白い箱を取り出した。
両手で持つほどの長さ。
装飾のほとんどない、細長い白い箱だった。
司祭はそれを両手で抱えたまま机へ戻ると、すぐには蓋を開けなかった。
「この中に収められているものは、長いあいだ大教会が守り続けてきました。いつ作られ、誰が最初に教会へ託したのか、それさえ完全な記録は残っていません。しかし、ただ一つだけ確かなことがあります」
司祭の指が、箱の中央にある銀色の留め具へ触れる。
「《永久凍土の氷門》を開くことができる、我々が知る唯一の鍵です」
部屋の空気が変わった。
何度も名前を聞いた。
昨日からずっと欲しいと思っていた。
でも実物が目の前にあると思うと、思っていたほど嬉しさだけは湧いてこなかった。
地下第一階で傷ついて帰ってきた人たち。
地下第二階から急激に減った記録。
地下第三階から戻ったと確実に確認できる者がいないこと。
昨日まで知らなかったものまで知ってしまったからだと思う。
司祭が留め具を外した。
蓋がゆっくり開く。
内側には濃い青色の布が敷かれていた。
その中央に、一本の鍵が収められている。
「これが……」
思わず身体が前へ出た。
銀色。
でも、普通の銀とは少し違って見えた。
手のひらより長い鍵の表面には、細かな雪の結晶のような模様が刻まれている。持ち手の部分は円形になっており、その中央には透明に近い白い結晶が嵌め込まれていた。
魔法灯の光を受けているはずなのに、反射の仕方まで普通の金属とは違う。
まるで鍵そのものの内側に、ごく淡い光が残っているようだった。
メリーも机へ顔を近づける。
『きれい……』
「うん」
今度はメロウまで黙っていた。
いつもなら材質や年代についてすぐ質問しそうなのに、今日は司祭が話し終えるのを待っている。
司祭は箱を私たちの中央へ置いた。
「《聖なる白銀の鍵》です」
その名前を聞いた瞬間、今まで別々だったものが一本の道として繋がった気がした。
火山の奥。
渡れなかった溶岩の川。
グライツで調べた大規模凍結の記録。
スノーリア。
教会。
三つの地下階層。
《永久凍土の氷門》。
そして今、その扉を開けるための鍵が目の前にある。
「これを……貸してもらえるんですか?」
私が尋ねると、司祭は少しだけ首を横へ振った。
胸が沈みかける。
しかし、続いた言葉は予想と違った。
「いいえ。お貸しするのではありません」
「え?」
「あなた方へ託します」
しばらく意味が分からなかった。
「……返さなくていいってこと?」
思わずそのまま聞いてしまう。
司祭は少し笑った。
「少なくとも、《氷鏡の地下迷宮》から戻った直後に返却する必要はありません」
「何で?」
今度はオラクルも止めなかった。
司祭は箱の中にある鍵へ視線を落とした。
「教会に残る古い記録には、《聖なる白銀の鍵》について不可解な記述があります。《氷門を開きし後も、その役目は終わらず》――それ以上の部分は失われています」
私は鍵を見る。
氷門を開いたあとも役目が終わらない。
「どういう意味ですか?」
「分かりません」
司祭は正直に答えた。
「だからこそ、我々は長年この鍵を保管してきました。氷門を開くためだけの道具である可能性もあります。しかし、古い記録がわざわざそのような一文を残した以上、迷宮から帰還したあとに鍵そのものへ何らかの変化が起こる可能性も否定できません」
メロウが初めて口を開いた。
「帰還後に調べさせてもらってもよいか?」
「もちろんです。ただし、所有者の許可を得てください」
「所有者?」
私は聞き返した。
司祭の視線がこちらへ向いた。
嫌な予感というより、今度は意味が分からなかった。
「フール様」
「はい」
「あなたに持っていていただきたいのです」
「私!?」
思わず声が大きくなった。
「何で私?」
「代表者だから、という理由だけではありません」
司祭は穏やかに答えた。
「昨日、あなたは鍵を求めてこの教会へ来ました。しかし街に異変が起きてから、鍵の話をほとんどされなかった」
そうだっただろうか。
自分では意識していなかった。
「傷ついた生き物を見つけたときも、その存在が冷気の原因かもしれない状況で、あなたは攻撃ではなく救助を求めた。北門では、自分が向かう必要がないと判断したとき、仲間へ任せて残ることを選ばれたと聞いています」
ちょっと恥ずかしくなった。
以前の私を知っているオラクルたちがいるから余計に。
「私だけじゃないです」
「承知しています」
司祭はすぐに答えた。
「だから、この鍵はあなた一人へ力を与えるために託すものではありません。あなた方全員へ託します。その中で、実際に保管する者としてあなたを選びたいのです」
私は仲間たちを見る。
「いいの?」
「フールが持つのが自然だと思うよ」
フランが最初に答えた。
リリィも頷く。
「《聖なるマップ》とか大事な物も管理してるしね」
「たまに鞄ごと放り出しそうになるけどな」
オラクルが余計なことを言う。
「しないよ!」
『私も見てる!』
「メリーが見張ってくれるなら安心じゃな」
メロウが言った。
「何で私だけじゃ不安なの!」
ロロットまで笑っている。
「大丈夫だろ。少なくとも昨日見てた感じじゃ、勝手に鍵持って迷宮へ走っていくことはなさそうだし」
「私を何だと思ってたの?」
「昨日まではちょっと心配だった」
ひどい。
でも、みんな反対しなかった。
私はもう一度、白い箱を見る。
《聖なる白銀の鍵》。
欲しかった。
これがなければ地下迷宮へ入れないから。
でも、いざ受け取るとなると怖かった。
この鍵を持つということは、扉を開けられるということだ。
そして扉を開けるかどうかを、自分たちで決めなければならなくなる。
「怖いです」
気づけば口にしていた。
司祭は驚かなかった。
「何がでしょう?」
「鍵を持つのが」
自分でも少し変な答えだと思った。
「昨日までは欲しかったんです。でも地下迷宮の話を聞いて、戻らなかった人がいるって知って……今は、持ったら本当に行けるんだって思うと怖い」
司祭は静かに聞いていた。
「それでも受け取りますか?」
私はすぐには答えなかった。
仲間を見る。
誰も急かさない。
そのことが嬉しかった。
私は鍵を見た。
怖い。
でも、怖いことを知らなかった昨日とは違う。
危険だと知った。
無理なら戻ると決めた。
一人で行かない。
分からないものを勝手に答えにしない。
それでも、確かめたい。
「受け取ります」
今度は、迷わなかった。
司祭が白い箱を私の前へ移した。
「では、両手を」
言われたとおり手を出す。
司祭は鍵を直接掴まず、下に敷かれていた青い布ごと持ち上げた。
そして、私の手の上へそっと置く。
思っていたより重かった。
冷たい。
でも、昨日街で感じた嫌な冷たさではない。
冬の朝に触れた金属のような、静かな冷たさだった。
私は布の上から《聖なる白銀の鍵》を見つめた。
持ち手に嵌め込まれた白い結晶の奥で、ごく淡い光が一度だけ揺れたように見えた。
「今、光った?」
メリーがすぐ反応する。
『光った!』
「やっぱり?」
司祭も鍵を見ていた。
でも、驚いてはいない。
「古い記録にも、持ち主が変わった際に微かな光を放ったという記述があります。危険な反応ではないと考えられています」
「よかった……」
受け取った瞬間に何か起こしたのかと思った。
オラクルが鍵を見る。
「保管方法は?」
「通常は布に包み、箱へ入れてください。魔法による特別な封印は必要ありません。ただし、紛失だけは絶対に避けてください」
「それは俺からも言っとく」
「私も分かってるよ!」
大事な物なのだから当然だ。
私は鍵を青い布で丁寧に包み直し、白い箱へ戻した。
そして《聖なるマップ》や《幻獣種召喚の本》とは別に、鞄の内側でもっとも深い収納へ入れる。
何度も留め具を確認した。
「そんな確認する?」
リリィが笑う。
「だって絶対なくせないもん」
「それなら大丈夫そうだね」
司祭は私が鞄を閉じるまで待ってから、最後に一つだけ念を押した。
「フール様。そして皆様」
全員が司祭を見る。
「鍵を託したからといって、我々が《必ず最深部まで進んでください》と願っているわけではありません」
声は穏やかだった。
「危険だと判断したなら、戻ってきてください。地下第一階でも、入口でも構いません。未知を知るために命を捨てる必要はありません」
昨日見せてもらった記録を思い出した。
何度も迷宮へ戻り、帰らなかった人たち。
「はい」
私は答えた。
「絶対に無理はしない、とは言えないかもしれないけど……無理だって分かったのに、そのまま進むことはしません」
オラクルがこちらを見る。
「今のは覚えとくぞ」
「うん」
今回は言われても嫌ではなかった。
司祭が小さく頷く。
「それで十分です」
話が終わり、私たちは席を立った。
部屋を出て礼拝堂へ戻ると、色硝子から朝の光が差し込んでいた。
昨日と同じ場所。
でも、私の鞄には昨日までなかった重さが加わっている。
外へ出る。
雪は止んでいた。
白い街の向こうには、北の山々が見えている。
あのさらに先。
巨大な氷山の谷間に、《永久凍土の氷門》がある。
そして、その扉の向こうには三つの地下階層が待っている。
地下第一階には無数の鏡。
地下第二階から先は、ほとんど何も分からない。
地下第三階から無事に戻ったと確認できる者はいない。
怖さは消えなかった。
鍵を手に入れたからといって、自信が湧いてきたわけでもない。
それでも、次へ進むための道は開いた。
私は鞄の上から、《聖なる白銀の鍵》が入った場所へ手を当てた。
「行こう」
『氷の迷宮!』
メリーが元気よく飛び上がる。
「今日はまだ行かないよ」
『えっ!?』
「準備するに決まってるだろ」
オラクルが呆れたように言った。
「第一階の情報整理、防寒具の再確認、食料、縄、灯り。昨日あれだけ危険だって聞いて、鍵もらった瞬間そのまま出発する馬鹿がいるか」
メリーが私を見る。
私は首を横へ振った。
「私も今日は行かないよ」
オラクルが珍しく驚いた。
「何?」
「いや。本当に成長したな」
「だから最近そればっかり!」
みんなが笑った。
私も笑う。
そのまま北を見る。
明日から、また新しい道を進む。
今度は雪の上だけではない。
鏡の中にいる自分自身と向き合い、その先に何があるのかさえ分からない地下へ降りていく。
そして私はまだ知らなかった。
大教会で長いあいだ守られてきた《聖なる白銀の鍵》が、氷鏡の地下迷宮を開いたあとも私の旅から消えず、遥か先でもう一度、大きな意味を持つことになるなんて。
今の私に分かっているのは一つだけだった。
火山で一度途切れた道が、ようやくもう一度、前へ繋がったのだ。




