第187話 凍り始めた街
傷ついた白い生き物を教会の人たちへ任せたあとも、私たちはすぐに倉庫を離れなかった。
司祭たちが持ち込んだ魔法陣付きの板によって冷気の広がりは抑えられ、白い生き物の呼吸も少しずつ落ち着いている。まだ身体へ巻き付いた布を外すことはできないものの、少なくとも今すぐ命が危ない状態ではないらしい。
「治療できそうです」
教会から来た女性がそう教えてくれたとき、ようやく胸の奥に入っていた力が抜けた。
「本当?」
「はい。ただ、通常の治療を始める前に、この布の影響を調べる必要があります。傷口へ食い込んでいる部分もありますので、無理に剥がすほうが危険でしょう」
「じゃあ、お願いします」
私は頭を下げた。
白い生き物を振り返ると、淡い青色の目が僅かに開いていた。
「ちゃんと治してもらってね」
言葉が通じたのかは分からない。
それでも、生き物はもう怯えて冷気を強めることはなかった。
その様子を確認してから、リリィが倉庫の前へ戻る。
「まだ終わってないよ」
その通りだった。
この倉庫へ続いていた不審な足跡。
大教会から許可なく持ち出された保管品。
そして、街で落下した木箱。
白い生き物を助けられそうだからといって、何が起きているのか分かったわけではない。
リリィは倉庫の正面で消えていた足跡を改めて確認し、今度は建物の側面へ回った。
私たちも一定の距離を空けて続く。
「正面で終わってるんじゃなかったの?」
私が尋ねると、リリィは雪の積もり方を見ながら答えた。
「正面では一回消えてる。でも、この人が倉庫へ入ったなら出ていった場所があるはずでしょ。中にずっといるなら別だけど」
「裏口?」
「それを探してる」
倉庫の右側には、メリーが覗いた小さな窓しかない。
そのまま壁沿いを進んで裏側へ回ると、雪に半分埋もれた小さな扉が見つかった。
「あるじゃん!」
私が言う。
「待って」
リリィが手で制した。
扉の前まで近づかず、雪面を見る。
「ここにも足跡がある」
「同じ?」
「たぶん」
リリィはしゃがみ、右足側の跡を確認する。
「靴底の外側が欠けてる。正面まで追ってきた人と同じ特徴」
つまり、その人物は正面へ来たあと倉庫へ入り、裏口から出た可能性がある。
「どっちへ行ってる?」
「北西」
ロロットがその方向を見る。
住宅区の向こう。
さらに倉庫が並ぶ地域だ。
「この先は古い備蓄区画だな。今も使ってる建物はあるけど、空いてる倉庫も多い」
オラクルが嫌そうに顔をしかめた。
「隠れるには都合いいってわけか」
リリィは立ち上がった。
「追えると思う。ただ、雪が降ってるから急いだほうがいい。積もったら消える」
オラクルが司祭を見る。
「白い奴は任せていいか?」
「もちろんです。こちらで責任を持って保護します」
「なら行くぞ。ただし、見つけてもいきなり捕まえようとすんな。相手が何者かも、何持ってるかも分からねえ」
「分かってる」
今度は私より先にロロットが答えた。
「何で俺を見る?」
「さっき大剣抜こうとしてたから」
「扉壊れたんだから仕方ないだろ!」
「私も止められてないよ」
「フールは普段からだろ」
「どういう意味!」
緊張しているはずなのに、少しだけいつもの調子が戻った。
私たちは司祭たちを倉庫へ残し、再び足跡を追い始めた。
雪は少しずつ強くなっている。
さっきまで一粒ずつ見えていた雪が風に流され、地面へ残った跡の輪郭を薄くしていた。
リリィの歩く速度も少し速くなる。
それでも走らない。
数歩進むたびに立ち止まり、足跡を確認してから次へ進む。
「焦ったら見失う」
リリィが自分へ言い聞かせるように呟いた。
「急がなくて大丈夫?」
「急いでるよ。でも速く歩くことと、早く見つけることは同じじゃないから」
オラクルが少し笑った。
「お前は誰かさんと違って分かってるな」
「私を見ないで!」
「名前言ってねえだろ」
「絶対私だった!」
足跡は古い倉庫の間を抜け、さらに北西へ続いていた。
途中で何度も他の跡と重なる。
荷物を運んだ人。
兵士。
獣。
それでも、右足の外側だけ僅かに欠けた特徴を頼りに、リリィは追跡を続ける。
私は何度見ても違いが分からなかった。
「本当にある?」
「あるよ」
「私には全部靴の跡」
「それで正解。全部靴の跡だから」
「そうじゃなくて!」
リリィが少し笑った。
その直後、表情が変わる。
「止まって」
全員が足を止めた。
前方には小さな広場があった。
中央には凍結防止のためなのか、細い水路が何本か通っている。普段なら水が流れているはずなのだろう。
でも今は、音がしない。
「水……止まってる?」
フランが言った。
ロロットが首を横へ振る。
「違う。凍ってる」
近づかなくても分かった。
水路の表面が白く凍結している。
それだけなら、スノーリアでは珍しくないのかもしれない。
しかし、ロロットの顔は明らかにおかしいものを見る表情だった。
「この水路は簡単には凍らない。地下から温度の高い水を流して、街の雪を溶かすために使ってるんだ」
「温かい水なの?」
「熱湯じゃない。でも、この天気で全部凍ることはない」
私は水路を目で追った。
広場の端。
そこだけ白さが違う。
雪が積もっているのではない。
石畳そのものが、厚い氷に覆われている。
「リリィ」
オラクルが呼ぶ。
「足跡は?」
リリィは答えず、凍結した場所の手前を確認した。
「続いてる」
「どこへ?」
指が広場の向こうへ向く。
そこには一棟の建物があった。
倉庫より大きい。
低い石造りで、屋根には雪が積もっている。
入口の上には古い文字で何か書かれていた。
ロロットが読む。
「旧北部備蓄庫……」
「今は使ってない?」
「ほとんど。災害用の古い道具とか、使わなくなった橇を置いてるくらいだと思う」
リリィが首を横へ振った。
「誰か使ってる」
建物へ続く雪の上に、何本もの跡があった。
私たちが追ってきた靴跡だけではない。
橇。
複数の人間。
そして、何か重いものを引きずった跡。
「一人じゃない……?」
私が呟く。
「少なくとも、ここには複数の人が出入りした形跡がある」
リリィは足跡の上へ視線を走らせた。
「全部今日とは限らない。でも新しいものが混じってる」
メロウが建物を見つめる。
「そして、あそこじゃな」
入口の下。
白い冷気が僅かに漏れている。
最初の倉庫より弱い。
でも同じように、扉の周囲へ霜が広がっていた。
オラクルが全員を止める。
「ここから先は勝手に近づくな」
誰も反対しなかった。
今度は中に傷ついた生き物がいるだけとは限らない。
人がいる可能性もある。
それも、教会から保管品を勝手に持ち出した誰かが。
ロロットが声を落とした。
「兵士呼ぶか?」
「呼ぶ。だが、その前に逃げ道だけ確認する」
オラクルは建物の左右を見る。
「リリィ。足跡だけでいい。裏へ回ってる跡あるか?」
「ここから見える範囲だと左側にある。でも近づかないと確定できない」
「なら行かなくていい。兵士来てからだ」
フランも周囲を見回す。
「中にいる人が俺たちに気づいて逃げたら?」
「追わねえ」
オラクルは即答した。
「正体不明の冷気出す物を持ってる可能性がある奴を、土地勘もねえ街で追い回すほうが危険だ。顔と方向だけ覚えろ」
「分かった」
私も頷いた。
以前なら《逃がしたくない》と思ったかもしれない。
でも今は、捕まえることより街の人を危険に巻き込まないことのほうが大切だと分かる。
同行していた兵士の一人が、大教会へ知らせるため来た道を戻っていった。
残った一人は通りの入口へ立ち、住民が近づかないよう周囲を警戒する。
私たちは建物から距離を取り、雪の中で待った。
何も起きない。
冷気だけが、扉の下からゆっくり流れている。
「誰かいるのかな」
私は小声で言った。
リリィが建物を見る。
「いると思う」
「何で?」
「煙」
言われて屋根を見る。
煙突から、ごく細い煙が出ていた。
「使ってない建物なんだよね?」
「そのはずだ」
ロロットの声が低くなる。
誰かいる。
しかも暖を取っている。
「じゃあ、あの冷気と暖炉が同時にあるの?」
「変じゃな」
メロウが呟く。
「中で保管品の冷気を抑えるために火を使っとる可能性もある」
なるほど。
冷たい物があるから暖炉を焚いている。
そう考えればおかしくない。
でも、それならなぜ教会へ戻さないのだろう。
そこまで考えた瞬間だった。
建物の中から怒鳴り声が聞こえた。
「だから言っただろ! こんなに冷えるなんて聞いてねえ!」
全員の表情が変わった。
人だ。
しかも一人ではない。
別の声が返ってくる。
「知るか! 昨日までは何ともなかったんだ! さっさと次を運べ!」
次。
その一言が胸へ刺さった。
まだある。
教会から持ち出された物が、あの木箱だけではない。
オラクルが口元へ指を当てる。
誰も声を出さなかった。
中の会話が続く。
「無理だ! 触れねえよ! 布を三重にしても手が凍りそうなんだぞ!」
「だったら橇ごと運べ! 買い手は今日中に北門の外へ来る!」
買い手。
盗んで売ろうとしている。
少なくとも、その部分は分かった。
ロロットの顔に怒りが浮かぶ。
自分の故郷の教会から盗まれた物だから当然なのかもしれない。
大剣の柄へ手が動きかける。
私は反射的に腕を掴んだ。
「まだ」
ロロットが私を見る。
「分かってる」
手を離した。
そのとき、中から三人目の声がした。
今までより小さい。
震えている。
「待て……。箱が……」
会話が止まる。
「何だ?」
「光ってる」
私たちは顔を見合わせた。
箱。
光。
胸の奥に、石橋で見た黒い欠片が一瞬浮かんだ。
でも、すぐ消す。
同じとは限らない。
中の男が叫んだ。
「離れろ!」
直後、建物の内部から鈍い衝撃音が響いた。
窓が震える。
煙突から出ていた煙が途切れた。
そして扉の下から漏れていた白い冷気が、一気に量を増した。
「下がれ!」
オラクルの声と同時に、私たちは距離を取った。
冷気が広場へ流れ込む。
温かいはずの水路が、目の前で白く凍っていった。
水の流れる音が消え、氷が広がる乾いた音が代わりに響く。
パキッ。
パキパキッ。
石畳まで白く変わっていく。
「まずいぞ!」
ロロットが叫ぶ。
「この水路、街の中央まで繋がってる!」
その言葉の意味を理解した瞬間、背筋が冷えた。
冷気が水路を伝えば、ここだけで終わらない。
「止められる!?」
私はメロウを見る。
「やってみる!」
メロウが杖を地面へ突き立てた。
「水路そのものを塞ぐ! 冷気が水を伝って広がるなら、一度流れを切る!」
地面が大きく震えた。
水路の先、住宅区へ向かう場所で石と土が持ち上がり、分厚い壁が水路を横切るように形成される。
凍結がそこへ到達する。
白い氷が壁を這い上がった。
止まらない。
「メロウさん!」
「まだじゃ!」
さらに地面が隆起する。
一枚目の壁の後ろに二枚目。
その間に雪と土を詰め、冷気が直接先へ抜けないよう厚みを作る。
氷が一枚目を覆う。
二枚目の手前で、速度が僅かに落ちた。
「止まって……!」
私は祈るように見つめた。
白い霜が二枚目の壁へ触れる。
少し上がる。
でも、さっきまでの勢いはない。
やがて動きが止まった。
「止まった……?」
フランが呟く。
メロウは杖を握ったまま、まだ動かなかった。
数秒待つ。
氷はそれ以上進まない。
「今は、じゃ」
メロウが大きく息を吐いた。
「冷気そのものが弱まったわけではない。水路を通る道を一時的に塞いだだけじゃ」
それでも十分だった。
街の中心へ一気に広がることは防げた。
その直後、建物の扉が開いた。
「出てきた!」
リリィの声。
三人の男が飛び出してきた。
全員が厚手の防寒着を着ていたけれど、まともに歩けている者は一人もいない。先頭の男は両腕で自分の身体を抱え、二人目は右手を胸元へ押しつけたまま顔を歪めている。最後に出てきた男に至っては、数歩進んだところで雪の上へ膝をつき、激しく咳き込んだ。
逃げようとしているというより、倉庫の中から必死に逃げ出してきたように見えた。
ロロットが大剣を構えたまま前へ出ようとしたけれど、オラクルがすぐに止める。
「追うな。まず建物から離れさせろ」
「でも、こいつらが盗んだんだろ!」
「その可能性は高い。だからって今ここで斬る必要はねえだろ。中の冷気がもっと強くなったら全員まとめて凍るぞ」
ロロットは奥歯を噛んだものの、それ以上前には出なかった。
男たちも私たちの姿に気づいた。
先頭の男が一瞬だけ逃げようと身体の向きを変えたけれど、足元の雪へ踏み込んだ途端、大きくよろめいた。よく見ると、靴から膝近くまで白い霜が張り付いている。
「動くな!」
兵士が声を上げる。
「その場で手を見せろ!」
「ふざけんな……! 俺たちは何も――」
男が言い返そうとした瞬間、背後の備蓄庫から凄まじい破裂音が響いた。
全員が振り返る。
閉じたばかりの扉の隙間から白い冷気が噴き出し、入口の木材が見る間に霜で覆われていく。さらに建物の内部から、何か硬いものが次々と割れる音まで聞こえてきた。
男の顔から血の気が引いた。
「箱が……」
「中に何があるの?」
私が尋ねると、男はこちらを見た。
「知らねえよ!」
声が震えていた。
「本当に知らねえんだ! ただ古い品を運び出せば金になるって聞いただけだ! 昨日までは何ともなかった。冷たくもなかったし、変な光も出てなかった! なのに今日になって急に――」
「何個持ち出した?」
オラクルが遮った。
男が黙る。
オラクルの目が鋭くなる。
「街を凍らせかけてんだぞ。今は自分の罪を軽くするために黙ってる場合じゃねえ。何個だ」
「……四つ」
私たちは顔を見合わせた。
街で落ちていた木箱が一つ。
傷ついた白い生き物がいた倉庫に、教会から持ち出された白い布。
そして目の前の備蓄庫。
数が合わない。
リリィがすぐに尋ねる。
「四つとも箱?」
「違う。箱が三つと、布を巻いた細長い包みが一つだ」
「今ここにあるのは?」
「箱が二つ……いや、一つはさっき割れた。もう一つと、細長い包みがある」
男はそこまで答えてから、何かを思い出したように顔を上げた。
「待て……最初の箱は途中で落とした。だったら――」
「もう一箱は?」
私が聞く。
男は答えなかった。
その沈黙だけで嫌な予感がした。
「どこ?」
「……運び屋に渡した」
「どこへ運ぶ予定だった?」
「北門だ。街の外で買い手に渡す予定だった。でも俺たちはこっちの荷物を隠すために途中で別れたから、そのあとどうなったかは知らねえ」
ロロットの長い耳が立った。
「北門の外って、この先は氷山側だぞ」
胸の奥がざわついた。
でも今は、そちらへ走るわけにはいかない。
目の前の備蓄庫から冷気が漏れ続けている。
「リリィ、北門の箱は兵士に任せる」
オラクルが言った。
「足跡を追う必要があるならあとだ。まずこいつを止める」
リリィもすぐ頷いた。
「うん。今ここを放っておくほうが危ない」
男たちを兵士へ任せ、私たちは備蓄庫へ視線を戻した。
扉の周囲は、さっきより明らかに白くなっている。
メロウが作った二重の土壁によって住宅区へ続く水路の凍結は止まっているものの、広場側では氷が少しずつ範囲を広げていた。
メリーが私の肩で小さく震える。
『中、さっきより嫌』
「冷たい力?」
『うん。いっぱいになってる』
メロウも同じように感じているのか、難しい顔で備蓄庫を見つめていた。
「中にある物を外へ出さねば、根本的には止まらんかもしれん。じゃが、扉を開ければ冷気が一気に解放される可能性がある」
「壊すのは?」
ロロットが尋ねる。
「論外じゃ。何が入っとるか分からん箱を大剣で叩き割ってどうする」
「じゃあどうすんだよ」
「考えとる!」
二人の声が少し強くなる。
私は備蓄庫を見る。
壊せない。
そのままにもできない。
触るのも危険。
何か方法はないのだろうか。
そのとき、フランが入口ではなく建物の上を見ていることに気づいた。
「フラン?」
「煙突」
「煙突?」
さっきまで煙が出ていた場所だ。
今は何も出ていない。
「暖炉の火が消えたんだと思う。でも、煙突は中と繋がってるよね」
メロウが顔を上げる。
「なるほど。入口を開けず、上から中の状態を確認する気か」
「メリーを行かせるのは駄目だよ」
私は先に言った。
フランも頷く。
「分かってる。見るんじゃなくて、冷気を逃がせないかなって」
「逃がす?」
「扉を開けて横へ広げるより、煙突から上へ抜いたほうが街への影響は小さくできない?」
全員が備蓄庫を見上げた。
メロウの片目が大きくなる。
「できるかもしれん」
鳥の顔付きの杖で建物の構造を確認する。
「煙突そのものを壊すのではない。中に残っとる暖炉の通気口を利用して、上向きに空気を引っ張れば……冷気を一か所へ集められる可能性がある」
「そんなことできるの?」
「重力を何だと思っとる!」
「便利な魔法」
「だから便利で片づけるでない!」
でも、メロウの顔には少しだけ自信が戻っていた。
オラクルはすぐに作戦を組み始める。
「仮に上へ逃がせたとして、その間に中の物をどうする?」
「教会が使ってた封印板」
私は思い出した。
傷ついた白い生き物の周囲へ並べていた、魔法陣の刻まれた板。
「あれで冷気の流れを調べてたよね。箱の周りに置いたら駄目かな」
メロウが顎へ手を当てる。
「封印そのものができるかは分からん。じゃが、冷気の流れを抑える補助にはなるかもしれん」
「教会の人が来るまで待つ?」
フランが尋ねる。
オラクルは備蓄庫と水路を見た。
「待てるなら待ちてえ。だが、このまま冷気が強くなるなら時間がねえ」
まるでその言葉を聞いていたように、土壁の向こうから氷の割れる音がした。
メロウが振り返る。
一枚目の壁を覆っていた氷が、二枚目へ僅かに伸びている。
「また進み始めたぞい」
もう長くは待てない。
そのとき、大通り側から複数の足音が聞こえてきた。
兵士。
その後ろに、教会の人たちがいる。
司祭も一緒だった。
「間に合った!」
私が声を上げる。
司祭たちは大きな橇を引いていた。その上には、さっき見た魔法陣付きの板だけではなく、銀色の鎖や厚い布、大きな空の箱まで積まれている。
「状況は?」
司祭が到着するなり尋ねた。
オラクルが簡潔に説明した。
盗み出された保管品は四つ。
一つは街で落下。
白い布は傷ついた生き物に巻き付けられていた。
この備蓄庫には少なくとも二つ。
そして残る一箱は、北門の外へ運ばれた可能性がある。
司祭の表情が険しくなる。
「北門にも兵を向かわせます」
「先にこっちだ」
オラクルが備蓄庫を指す。
「水路が街の中央まで繋がってる。今は爺さんが止めてるが、長くは持たねえ」
司祭は迷わなかった。
「封印板を使います」
教会の人々がすぐ動き始める。
メロウも作戦を説明した。
煙突から冷気を上へ逃がし、その間に扉を最小限だけ開く。教会の封印板で入口周辺の冷気を抑え、内部にある品を一つずつ専用の箱へ移す。
「誰が中へ入る?」
ロロットが尋ねる。
司祭は答えようとした。
でも私は、その前に盗みを働いた男たちを見た。
「中の場所、分かるよね?」
三人がこちらを見る。
「自分たちで置いたんでしょ?」
先頭の男が目を逸らす。
「……分かる」
「どこ?」
「入口から奥へ真っ直ぐ。左側の棚の前だ。箱は床に置いた。細長い包みは、その横」
それだけ分かれば、長く中を探す必要はない。
ロロットが大剣を背負い直した。
「俺が行く」
「俺も」
フランも続く。
「二人とも待って」
私は止めた。
「何だ?」
「箱に触れないで。教会の人が運ぶ道具持ってるから、どうやって動かすか決めてから」
ロロットが少し驚いたように私を見る。
「……分かってるよ」
「ならいい」
「フールに注意される日が来るとはな」
「どういう意味!」
オラクルが小さく笑った。
「いいから始めるぞ」
そこからは全員が動いた。
メロウが備蓄庫の側面へ移動し、煙突へ向けて杖を構える。
教会の人たちは入口の前へ封印板を半円状に並べ、銀色の鎖を板同士へ繋いでいく。
ロロットとフランは扉の横で待機。
リリィは広場の外側へ回り、住民や別の人間が近づかないか確認する。
オラクルは全体を見渡せる位置へ車椅子を移動させた。
私はメリーと一緒にその少し前へ立つ。
戦うわけではない。
それでも、黒龍王の洞窟へ入ったときとは違う緊張があった。
失敗すれば、街へ冷気が流れる。
「メロウ!」
オラクルの声。
「いつでもよい!」
「教会側は?」
「準備完了です!」
「ロロット、扉を少しだけ開けろ。フランは横から中確認。危険なら即閉める」
二人が頷く。
「始めろ!」
メロウの杖が光った。
空気が変わる。
目には見えない力が備蓄庫の上へ向かって流れ、煙突の周囲に積もっていた雪が一気に舞い上がった。
次の瞬間、煙突から白い冷気が噴き出す。
空へ向かって真っ直ぐ。
「今じゃ!」
ロロットが扉へ手を掛ける。
ほんの少しだけ開く。
隙間から冷気が漏れた。
でも、さっきのように地面へ広がらない。
入口に並べられた封印板が青白く光り、冷気を内側へ押し返している。
「見える!」
フランが隙間から中を確認する。
「左奥! 箱と細長い包みがある!」
「他には?」
「人はいない!」
「よし。もう少し開けろ!」
ロロットが扉を広げる。
フランと、厚い防寒装備を着た教会の男性二人が中へ入った。
私は息を止めた。
数秒。
長い。
「一個目!」
中から声がする。
教会の男性が、長い器具で箱を専用の容器へ移す。
外へ運び出された瞬間、周囲の封印板が強く光った。
箱そのものから、白い冷気が溢れている。
「閉めて!」
大きな容器の蓋が閉じられる。
銀色の鎖が巻かれた。
冷気が少し弱くなる。
「あと一つ!」
細長い包み。
それを見た瞬間、メリーが私の肩で震えた。
『フール』
「どうしたの?」
『あれ……』
声が小さい。
『さっきの白い子に巻いてあったのと、同じ感じ』
私も気づいた。
白い布。
何重にも巻かれた細長い何か。
「司祭様!」
私が呼ぶ。
「あれ、さっきの子に巻き付いてた布と同じかもしれない!」
司祭の顔が変わった。
「中身には触れないでください!」
すぐ指示が飛ぶ。
教会の男性たちは包みを開かず、そのまま二つ目の容器へ移した。
蓋が閉じる。
銀色の鎖。
封印板の光。
そして――。
備蓄庫から吹き出していた冷気が、目に見えて弱くなった。
煙突から上がっていた白い柱も少しずつ細くなる。
メロウが杖を下ろさず叫ぶ。
「まだじゃ! 完全に消えるまで維持する!」
誰も気を抜かなかった。
一分。
二分。
やがて水路を覆っていた氷の広がりが止まり、土壁の向こうへ伸びかけていた霜も動かなくなった。
「止まった……」
私はようやく息を吐いた。
ロロットとフランも備蓄庫から出てくる。
無事だ。
それを確認した瞬間、張り詰めていた身体から力が抜けた。
『やった?』
メリーが聞く。
「たぶん」
「《たぶん》で正解じゃ」
メロウが汗を拭いながら戻ってくる。
「原因らしき物は封じた。じゃが、なぜ突然あれほど冷気を放ち始めたのかは何一つ分かっとらん」
そうだった。
盗んだ人間は分かった。
品を持ち出した理由も、売るためだった。
でも一番大きな謎は残っている。
何十年も何も起こさなかった物が、どうして今日になって一斉に反応したのか。
その答えを、盗みを働いた男たちも持っていなかった。
教会の人々が二つの保管品を封印容器へ収め、備蓄庫から漏れ出していた冷気が十分に弱まったことを確認すると、兵士たちは三人の男を一か所へ集めた。
逃げようとする者はいなかった。
一人は右手の感覚が戻らないらしく、教会の治療を受けながら顔を歪めている。残りの二人も、さっきまで自分たちが隠していた備蓄庫を何度も振り返っていた。
あれほどの異常は、本人たちにとっても予想外だったのだろう。
オラクルが車椅子を進め、三人の前で止まった。
「確認するぞ。お前らが大教会から持ち出したのは四つ。木箱が三つと、白い布で巻かれた細長い包みが一つ。それで間違いねえな?」
先頭にいた男が頷いた。
「……ああ」
「街で落とした箱が一つ。ここの箱が二つ目。白い包みもここにある。残る一箱は北門へ向かった運び屋に渡した」
「そうだ」
「白い生き物に巻き付いてた布は?」
男の顔に困惑が浮かんだ。
「知らねえ。本当に知らない。俺たちは包みを開けてないし、動物なんか運んでない」
「嘘じゃない?」
私が尋ねると、男はこちらを見た。
「こんな状況で隠してどうするんだよ。倉庫に動物を入れた奴がいるなら、そいつは俺たちじゃねえ」
リリィが男たちの靴へ目を向けた。
三人のうち一人。
右足の靴底の外側が欠けている。
私たちが追ってきた足跡と同じ特徴だった。
「あなたが、最初の木箱を運んでた橇へ途中から近づいた人?」
リリィが聞く。
男は一瞬黙ったあと、頷いた。
「俺だ。箱が一つずれかけてたから直そうとした。その直後、引いてた獣が急に暴れたんだ」
「だから橇が蛇行した?」
「ああ。何かに驚いたみたいに急に右へ跳ねた。そのとき一箱落ちた。でも警戒の兵士が近くにいたから、拾うのは諦めて逃げた」
リリィが私を見る。
街で見つけた痕跡と話が繋がった。
橇が突然蛇行したこと。
別の靴跡が荷台のすぐ横まで近づいていたこと。
その直後に木箱が落ちたこと。
少なくとも、そこまでは説明できる。
「獣が何に驚いたかは?」
リリィが続ける。
「知らねえよ。俺が箱へ手を掛けた途端だったから、最初は俺に驚いたのかと思った。でも……」
男はそこで言葉を止めた。
「でも?」
「箱の中から音がした」
胸の奥がざわついた。
「どんな?」
「一回だけだ。何かが内側を叩いたみたいな……いや、割れた音だったかもしれない。とにかく、そのあと荷台の下まで急に冷たくなった」
男は自分の両腕を擦った。
「それでも、ここまで酷くなかったんだ。だからそのまま運んだ。備蓄庫へ着いて箱を置いて、火を焚いて……少ししたら、二つとも一気に冷え始めた」
メロウが眉を寄せた。
「二つとも同時に?」
「ああ。先に箱。それから細長い包みだ。どっちかが先だったとしても、ほとんど同時だ」
「お前たちは何かしたのか? 開けた、叩いた、魔力を流した、火へ近づけた――何でもよい」
「何もしてない!」
男の声が強くなった。
「売り物だぞ。壊すわけないだろ! 暖炉だって離れた場所にあった。俺たちは買い手を待ってただけだ!」
メロウはそれ以上追及しなかった。
私も考える。
何十年も教会で保管されていた物。
盗み出された。
街へ運ばれた。
その途中までは異常がなかった。
ところが今日になって、一つだけではなく複数が冷気を放ち始めた。
盗まれたことが原因なのだろうか。
教会の保管庫から出したから?
それとも、たまたま今日だっただけ?
「司祭様」
私は振り返った。
「教会に残ってる物も、同じころに冷たくなったんですよね?」
司祭は頷いた。
「はい。第三保管区画で最初の異常が確認された時刻と、街で回収された箱が冷気を放ち始めた時刻には多少のずれがあります。しかし、大きく離れてはいません」
「じゃあ、盗んだから冷たくなったわけじゃない?」
「少なくとも、それだけでは説明できません」
司祭の答えを聞き、メロウも頷く。
「大教会に残っとった品まで同時に反応しとるからのう。盗難が直接の原因なら、保管区画に残った物まで変化する理由がない」
「じゃあ何で?」
私が聞いても、誰も答えられなかった。
それが一番怖かった。
盗んだ人は見つかった。
どうやって運んだのかも分かった。
何のために盗んだのかも、《売るため》という単純な理由だった。
でも、事件の一番大きな部分だけが残っている。
どうして今日なのか。
どうして複数の保管品が、離れた場所でほぼ同時に動き始めたのか。
そのとき、大教会から来た聖職者の一人が声を上げた。
「司祭様!」
全員が振り返る。
男性は封印した細長い包みの前に立っていた。
容器の表面に付けられた小さな透明板を見ている。
「魔力値が下がっていません」
司祭が近づく。
「冷気は?」
「外部への流出は抑えられています。しかし内部では、むしろ先ほどより強くなっています」
メロウも距離を保ったまま透明板を見る。
中に収められた細長い包みは白い布で何重にも覆われていて、何が入っているのか分からない。
でも、さっきまでなかった変化があった。
布の奥。
ごく淡い青白い光が、一定の間隔で明滅している。
一度。
消える。
少し間を置いて、もう一度。
「光ってる……」
私は思わず呟いた。
石橋で見た黒い欠片が頭に浮かんだ。
暗い場所でも、内部から青白く光っていた黒い欠片。
でも、形も場所も何もかも違う。
同じものだと決める理由はない。
オラクルも私を見た。
「繋げんなよ」
「分かってる」
今度は言われる前から分かっていた。
ただ、覚えておく。
それでいい。
メリーが私の肩から、封印容器をじっと見つめていた。
『これ……さっきと違う』
「何が?」
『冷たい力が増えてる。でも、ここから出ようとしてる感じじゃない』
「じゃあ?」
メリーは答えを探すように首を傾げた。
『どこかから呼ばれてるみたい』
司祭もメロウも同時にメリーを見た。
「呼ばれとる?」
『うまく言えない。でも、この中だけで大きくなってるんじゃなくて、遠くの何かと繋がってるみたいな感じ』
メロウの表情が変わった。
「共鳴……?」
「何それ?」
「離れた二つの物が、互いの魔力へ反応する現象じゃ。同じ性質を持つ魔道具や、元々一つだった物などで起きることがある。じゃが……」
メロウは北を見た。
「もしそれなら、反応させとる《もう一方》がある」
その瞬間だった。
遠くから、鐘の音が響いた。
警戒鐘ではない。
もっと高く、短い。
一度。
二度。
ロロットの耳が北へ向く。
「北門だ」
「分かるの?」
「あの鐘は門の連絡鐘だ。何かあった」
嫌な予感がした。
残る一箱。
北門へ運ばれた箱。
全員が同じことを考えたらしい。
司祭がすぐ兵士へ命じる。
「北門へ連絡を!」
しかし、兵士が走り出すより早く、向こうから一人の騎兵が雪を蹴り上げながら現れた。
馬が止まりきる前に兵士が飛び降りる。
「司祭様!」
息を切らしている。
「北門外で、教会の保管番号が付いた木箱を発見しました!」
やっぱり。
「人は?」
「運搬していた男を一名確保しました。ただし問題は箱です!」
兵士の顔が青ざめていた。
「急激な凍結が始まっています。周囲の雪原だけではありません。北へ続く街道そのものが凍りつき始めました!」
ロロットが息を呑む。
「北街道が?」
「はい! さらに――」
兵士は一度呼吸を整えた。
「箱から漏れている冷気が、北へ向かって流れています」
「風じゃなく?」
メロウが尋ねる。
「違います。風向きは南東です。それなのに冷気だけが、地面を這って北へ進んでいます!」
全員が黙った。
風に逆らって。
北へ。
その先に何があるのか、私たちはもう知っている。
巨大な氷山。
《永久凍土の氷門》。
そして、その向こうにある《氷鏡の地下迷宮》。
メリーの言葉が頭へ戻ってきた。
《どこかから呼ばれてるみたい》。
「まさか……」
声が漏れた。
でも、その先は言わなかった。
まだ分からない。
司祭も同じだった。
「迷宮が原因だと断定してはいけません」
そう言いながらも、その目は北を向いていた。
「しかし、確認する必要があります」
その直後だった。
足元が僅かに震えた。
地震と呼ぶには小さい。
でも、確かに地面が動いた。
一度だけ。
雪を被った屋根から細かな雪が落ち、封印容器の中で青白い光が強くなる。
メリーが息を呑む。
『今!』
「何?」
『遠くの冷たいの、すごく大きくなった!』
次の瞬間、北の空が淡く青白く染まった。
昼間なのに分かる。
遠い山々の向こう。
雲の下から、一瞬だけ青白い光が立ち上った。
それはすぐに消えた。
でも誰も見間違いとは言わなかった。
ロロットが呆然と北を見つめる。
「……あっちは」
言葉が続かない。
司祭が代わりに答えた。
「《氷鏡の地下迷宮》のある方角です」
胸の奥が大きく鳴った。
教会から保管品が盗まれた。
街へ運ばれた品々が、何十年もの沈黙を破って冷気を放ち始めた。
その一つは北門へ運ばれ、風に逆らうように冷気を北へ流している。
そして今、その先にある氷山の方角で、青白い光が上がった。
盗難事件そのものは、もう終わりに近づいている。
犯人も、持ち出された品の場所も分かった。
けれど、それによって私たちはようやく気づいた。
本当に動き始めたものは、街の中にはなかったのかもしれない。
私は遠くの白い山々を見つめた。
明日、《聖なる白銀の鍵》を貸してもらえるか聞くはずだった。
それなのに、私たちが扉を開けるより先に――その向こう側にある何かが、長い眠りから目を覚まそうとしていた。




