第186話 雪に残された足跡
大教会から正式に協力を頼まれたあと、私たちはすぐに二手へ分かれることはしなかった。
街へ流出した保管品を追うことも、教会地下の第三保管区画で起きている異常を調べることも重要だけれど、何が起きているのか分からない状態で人数まで分ければ、かえって危険が増える。まずは全員で、街に落ちていた木箱のところへ戻ることになった。
「最初に足跡を確認する。そのあと、必要なら教会へ戻って保管区画の記録を見る。これでいいな?」
オラクルが確認すると、リリィもメロウも異論はなかった。
司祭から同行を命じられた二人の兵士と一緒に大教会を出る。
警戒鐘はすでに止まっていた。
それでも、街の様子は少し前とはまるで違う。
店の扉は閉じられ、窓の向こうから外を見ている人がいる。雪を退ける音も、屋台から聞こえていた商人の声も消え、白い大通りには私たちと巡回する兵士の姿しかほとんどなかった。
「静かだね……」
思わず声を落とす。
『朝はいっぱい人いたのに』
メリーも私の肩で小さくなっていた。
怖がっているというより、いつもと違う街の空気に戸惑っているように見える。
ロロットはもっと複雑そうだった。
昨日まで久しぶりに帰ってきた故郷を嬉しそうに眺めていたのに、今日は誰もいない大通りを見回している。
「こんなスノーリア、あんまり見たことない」
「警戒鐘って滅多に鳴らないんだよね?」
「ああ。雪崩とか猛吹雪なら理由が分かるけど、今日は天気もそこまで悪くない。だから余計に変な感じがする」
ロロットの長い耳が周囲の小さな音を拾うように動いていた。
地元だからこそ、私たちより違和感が大きいのかもしれない。
交差点へ戻ると、木箱の周囲はすでに広く封鎖されていた。
箱そのものにも厚い布が何重にも掛けられ、四隅には見たことのない金属製の杭が打ち込まれている。杭と杭の間には細い銀色の紐が張られ、その内側だけ空気が僅かに白く霞んでいた。
「さっきより厳重になってる」
私が言うと、同行していた兵士が頷いた。
「冷気の拡大は止まっています。ただ、原因が分かるまでは誰も直接触れないよう指示されています」
「箱の中身は?」
メロウが尋ねる。
「まだ確認していません。教会の保管記録と照合してから開封する予定です」
それを聞いて少し安心した。
分からないから開けてみる、ではない。
まず記録を調べる。
私たちが迷宮についてしていることと同じだった。
「リリィ」
オラクルが呼ぶ。
「どこから見る?」
リリィはすぐには雪へ近づかなかった。
交差点全体を一度見渡し、建物の位置、橇が進んできた方向、木箱が落ちた場所を順番に確認してから、兵士へ尋ねる。
「封鎖する前に、この辺を歩いた人は多かったですか?」
「住民を下がらせるまで何人かは。ただ、箱の周囲へ近づいた者はいません」
「兵士は?」
「最初に二名。その後、応援が六名です」
「その人たちの靴底って確認できます?」
兵士が少し驚いた。
「必要ですか?」
「誰の足跡か全部当てたいわけじゃありません。最初からここにあった足跡と、あとから兵士が付けたものを分けたいんです」
なるほど。
私には雪の上に大量の足跡があるようにしか見えない。
でもリリィにとっては、全部が同じではないらしい。
兵士は頷き、応援に来た者たちへ確認を取るため一度離れた。
「すごいね」
私が言うと、リリィはしゃがみながら首を傾げた。
「まだ何も分かってないよ」
「でも私、足跡全部同じに見える」
「フールはもう少し足元見る癖つけたほうがいいと思う」
「それ、追跡と関係なくない?」
「転ぶから」
そっちだった。
リリィは封鎖線の外側から雪面を観察し始めた。
私たちは邪魔にならないよう少し離れる。
しばらく誰も話さなかった。
リリィの目が雪の上を少しずつ移動していく。
箱の近く。
橇の跡。
獣の足跡。
人の靴跡。
時折立ち上がって位置を変えるものの、封鎖線の中には入らない。
やがて兵士が戻ってきた。
何人かの靴底の特徴を紙へ簡単に写している。
リリィはそれを受け取り、雪に残された跡と照らし合わせた。
「さっき見たときより分かりやすい」
「何が?」
私が聞く。
リリィは橇の進行方向を指した。
「この橇は北側から来てる。二本の溝と、その間に荷物の重さで沈んだ跡があるから間違いないと思う。ここまでは普通」
指が少し手前へ動く。
「問題はここ。橇が一度右へ大きく曲がって、そのあと左へ戻ってる」
「滑ったんじゃなくて?」
「可能性はある。でも、獣の足跡を見ると急に方向を変えた形になってる。自然に滑ったというより、何かを避けたようにも見える」
「何かって?」
「分からない」
リリィはすぐ答えた。
「だから、そこはまだ考えない。今確実なのは《橇が急に進路を変えた》ってことだけ」
私は頷いた。
リリィはさらに少し先を示す。
「それと、昨日見つけた別の靴跡。やっぱり運搬してた人たちとは違う」
兵士から受け取った紙と比べる。
「最初に対応した兵士のものでもない。応援で来た人たちとも違う」
「じゃあ誰の?」
「それを今から見る」
リリィは立ち上がり、足跡の続く方向へ視線を向けた。
その跡は北から橇へ近づき、しばらく並走している。
そして橇が蛇行した場所で、一度だけ距離が極端に近くなっていた。
「ここ」
リリィが指差す。
「この人、橇のすぐ横まで行ってる」
フランが目を凝らした。
「本当だ」
「足跡の深さも変わってる。ここだけ右足が深いから、身体を橇側へ寄せたか、何かに手を伸ばした可能性はあると思う」
「箱に?」
私が聞く。
「そこまでは言えない。でも、ただ横を歩いてたよりは近い」
オラクルがタバコを取り出しかけ、教会の兵士がいることに気づいてしまい直した。
「その足跡、どこまで続いてる?」
「見る」
リリィは足跡を追って歩き始めた。
私たちも続く。
ただし、足跡そのものを踏まないよう距離を取った。
雪の上の跡は大通りから細い道へ入っていく。
周囲は住宅が多く、店は少ない。
警戒鐘のため、外を歩いている人もいなかった。
「ねえ」
私は小声でロロットを呼んだ。
「この先、何があるの?」
「住宅区。その向こうは古い倉庫が多い。北門へ荷物を運ぶときに使う道でもある」
「教会の倉庫?」
「教会だけじゃない。商人も使うし、街の備蓄倉庫もある」
まだ絞れない。
足跡は細い道を進み、途中で何度か別の足跡と重なった。
それでもリリィは止まらない。
「見失わないの?」
「完全には追えてない。でも靴底の外側が少し欠けてるみたいで、右足だけ跡が歪んでる。それを探してる」
私は雪を見る。
やっぱり分からない。
「リリィってすごいね」
「今さら?」
「ちょっと格好いい」
「ちょっとなの?」
「すごく格好いい」
「ならよし」
少しだけ笑った。
でも、その直後だった。
リリィが急に立ち止まった。
前を歩いていたので、危うく背中へぶつかりそうになる。
「どうしたの?」
リリィは答えず、道の先を見ていた。
私も視線を向ける。
そこには一棟の古い倉庫があった。
周囲の建物より少し大きく、石造りの壁には雪が張り付いている。扉は閉まっていた。
一見すると、それだけだった。
でも何かがおかしい。
「白い……」
フランが先に気づいた。
倉庫の扉の周囲だけ、霜が異常に厚い。
隣の建物にも雪は積もっている。
でも倉庫の扉は、雪が乗っているというより、内側から凍りついたように白くなっていた。
蝶番からも細い氷が伸びている。
メリーが私の肩へ身体を寄せた。
『フール』
「うん」
『さっきの箱と似てる』
今度は誰も近づかなかった。
オラクルがすぐ兵士を見る。
「住民は?」
兵士も倉庫を見て顔色を変えていた。
「ここは現在使われていないはずです」
「《はず》じゃなく確認しろ。中に人がいる可能性を最初に潰せ」
兵士は頷き、もう一人と手分けして近隣の建物へ確認に向かった。
ロロットが大剣へ手を掛ける。
「扉、開けるか?」
「まだ」
オラクルが止めた。
「中に何があるか分からねえ。開けて冷気が一気に出てきたらどうする」
ロロットはすぐ手を離した。
「確かに」
メロウは倉庫から十分な距離を取りながら、目を凝らしている。
「扉だけではないぞ」
「何?」
「壁の下を見てみい」
言われた場所を見る。
倉庫の壁と地面の境目。
そこから細い霜の筋が外へ伸びていた。
まるで建物の中から冷気が漏れ、雪の下を這っているように見える。
その先は、まだ数歩分。
でも確実に外へ広がっている。
「街の箱と同じ……?」
私は呟きかけて止めた。
同じとはまだ決まっていない。
けれど、似ている。
そこへ兵士が戻ってきた。
「倉庫は三日前から使用記録がありません。管理人にも確認しました。中へ入る予定だった者はいないとのことです」
「鍵は?」
リリィが尋ねる。
「管理人が持っています」
「じゃあ、誰も入れない?」
「本来なら」
本来なら。
嫌な言葉だった。
リリィは足元へ視線を戻した。
私たちが追ってきた、右足だけ僅かに歪んだ靴跡。
それは倉庫の前まで続いていた。
そして、扉の前で消えている。
「ここに入ったんだ」
私が言う。
リリィは少し考えてから答えた。
「少なくとも、この扉の前まで来たのは確か。でも、中へ入ったかはまだ分からない」
「足跡が戻ってないよ?」
「裏口があるかもしれない。壁沿いを回った可能性もある。雪があとから積もって消えたところがあるかもしれない」
やっぱり断定しない。
でも、偶然だと思うには気になるものが増えていた。
教会から許可なく運び出された箱。
橇の横まで近づいた正体不明の人物。
その人物らしい足跡。
そして、その足跡が辿り着いた先にある、異常に凍りついた倉庫。
私は帽子の長い耳を握った。
「どうする?」
誰に聞いたわけでもなかった。
オラクルが答える。
「教会へ連絡。中はまだ開けねえ」
「でも、人がいたら?」
「だから兵士に確認させた。使用記録はない。もちろん絶対じゃねえが、だからって正体不明の冷気が漏れてる扉をいきなり開ける理由にはならん」
正しい。
分かっている。
それでも、扉の向こうが気になった。
そのときだった。
倉庫の中から音がした。
ゴトッ。
重いものが倒れたような音。
全員が黙った。
ロロットが今度こそ大剣の柄へ手を掛け、フランも腰の短剣へ左手を添える。
メリーは私の肩へぴったり身体を寄せた。
「誰かいる?」
私は倉庫を見つめた。
返事はない。
兵士の一人が声を張る。
「中に誰かいるのか! スノーリア聖国警備隊だ! 返事をしろ!」
静かだった。
雪が降る音しか聞こえない。
しばらく待つ。
何もない。
「物が凍って崩れただけかもしれん」
メロウが言う。
その可能性もある。
でも次の瞬間、今度はもっとはっきりした音が響いた。
ガリッ。
何か硬いものが、扉の内側を引っ掻いたような音。
私は息を止めた。
一度。
そして、もう一度。
ガリッ。
今度は誰も《物が倒れただけ》とは言わなかった。
扉の周囲を覆っていた霜に、細い亀裂が走った。
リリィが一歩下がる。
「みんな、少し離れて」
その声とほとんど同時だった。
扉の下の隙間から、白い冷気が一気に噴き出した。
「下がれ!」
オラクルの声が飛ぶ。
私たちは全員、倉庫から距離を取った。
冷気が雪の上を走り、さっきまで数歩分しかなかった霜の筋が一気に広がっていく。
兵士たちも後退する。
ロロットは大剣を抜かず、いつでも動けるよう私たちと倉庫の間へ位置を変えた。
フランも同じだった。
戦う相手がいるのかすら分からない。
それでも二人とも、私たちより前へ出ている。
倉庫の中から三度目の音がした。
今度は引っ掻く音ではなかった。
ドンッ。
扉そのものが、内側から僅かに膨らんだ。
蝶番から細かな氷が落ちる。
「何かいる……」
自分の声が震えた。
メリーの小さな手が、私の帽子の耳ではなく頬へ触れた。
『フール、近づいちゃ駄目』
メリーの小さな手が頬に触れた。
「うん。分かってる」
今度は本当に分かっていた。
倉庫の中に誰かいるかもしれない。だからといって、何が起きているのか分からない扉を勢いだけで開ければ、その人まで危険に巻き込む可能性がある。
私はその場から動かず、白い冷気がどこまで広がっているのかを見た。
倉庫の正面には幅の狭い道があり、私たちは扉から十歩以上離れた場所まで下がっている。左右には別の倉庫が一棟ずつ並んでいるものの、どちらにも今のところ霜は届いていない。
問題は正面だった。
扉の下から流れ出した冷気が雪の上を薄く這い、私たちの方向へ少しずつ広がっている。
「兵士さん、近くの建物に人は?」
オラクルが尋ねた。
「確認します」
「一人はここに残れ。もう一人だけ行け。中に何かいるなら、人手が減りすぎるほうが危ねえ」
兵士たちは一瞬だけ顔を見合わせたあと、その指示に従った。
オラクルは教会の人間ではない。
それでも、こういうときに何を優先するべきなのか迷わない。
残った兵士が倉庫へ向かって、もう一度声を張った。
「中に誰かいるなら返事をしろ! 扉から離れろ! こちらで開ける準備をする!」
返事はなかった。
代わりに、内側からまた音が響く。
今度は扉ではない。
少し右。
壁の奥。
何かが動いている。
ロロットの長い耳がそちらへ向いた。
「一匹……いや、一人かどうかも分からない。でも動いてる音は一か所だけだと思う」
「分かるの?」
「耳は飾りじゃないからな」
ロロットは私の帽子を一瞬見る。
こんなときなのに言わなくていい。
でも、その一言のおかげで身体に入りすぎていた力が少しだけ抜けた。
リリィは倉庫の正面ではなく、建物全体を見ている。
「窓は?」
「正面にはないね」
フランが答える。
「横は?」
「右側に一つ。ただ、かなり高い」
私たちは距離を保ったまま少し位置を変えた。
倉庫の右側、高さは私の身長の倍以上ある場所に小さな窓があった。木製の板で閉じられており、外側まで厚い霜に覆われている。
「中を見るだけなら、あそこからできない?」
私が言う。
オラクルが窓と倉庫周辺を確認した。
「誰が見る」
『私!』
メリーが即答した。
「駄目」
私とオラクルの声が重なった。
『何で!? 私飛べるよ!』
「だからって一人で窓まで行かせられないよ。さっき嫌な感じするって言ってたじゃん」
『でも中に誰かいるかもしれない』
「それはそうだけど……」
迷った。
メリーなら地面を這う冷気へ近づかず、窓の高さまで飛べる。
でも、窓の向こうに何があるか分からない。
私が決めきれずにいると、メリーが珍しく真剣な顔で私を見た。
『近づきすぎない。見るだけ。変だったらすぐ戻る』
その言葉は、私たちが石橋で何度も決めたことと同じだった。
オラクルも少し考えている。
「メリー。窓には触るな。板も開けるな。中を覗けなかったら、それで終わりだ」
『うん』
「冷気が強くなったら?」
『戻る』
「何か動いたら?」
『戻る』
「フールが来いって言ったら?」
『すぐ戻る!』
オラクルが頷いた。
「なら行け。ただしフールの真上を通れ。最短で戻れる位置から離れるな」
メリーが私を見る。
私も最後には頷いた。
「絶対、無理しないでね」
『約束』
メリーは地面へ近づかず、その場からゆっくり高度を上げた。
いつものように楽しそうに飛ばない。
倉庫から距離を取りながら、斜め上へ上がっていく。
私たちは全員、その小さな姿を見ていた。
窓と同じ高さまで上がる。
そこから少しだけ近づく。
『見えない!』
「なら戻って!」
『待って。隙間ある』
「無理しなくていいよ!」
『触らない!』
メリーは板の端から少し離れた場所で止まり、僅かな隙間へ顔を近づけた。
数秒。
それだけなのに長く感じる。
『……暗い』
「何かいる?」
『待って』
メリーの身体が動かなくなる。
嫌な予感がした。
「メリー?」
『いた』
胸が強く鳴った。
「人?」
『分かんない』
メリーは窓から目を離さない。
『白いのが動いてる。でも……』
言葉が止まった。
「戻って!」
今度は考えなかった。
メリーも約束を守った。
すぐ窓から離れ、私のところまで一直線に戻ってくる。
両手で受け止めると、小さな身体がいつもより冷たかった。
「大丈夫?」
『うん。窓の近くだけすごく寒かった』
私はメリーを外套の内側へ少し入れた。
「何が見えた?」
『よく分からなかった。中、暗いし白い煙いっぱいだった。でも奥に何かいた。人より低かったと思う』
「動物?」
『分かんない。でも四つ足みたいに見えた』
全員の視線が倉庫へ向いた。
少なくとも、人が閉じ込められて助けを求めて扉を叩いている可能性は少し下がった。
でも、中に生き物がいる可能性は高くなった。
「この倉庫、動物を入れる場所なのか?」
ロロットが兵士へ聞く。
「違います。備品や街道整備用の道具を置く倉庫です。少なくとも動物を収容する場所ではありません」
「じゃあ、何でいるんだ?」
答えられる人はいなかった。
そこへ、周辺の確認へ向かっていた兵士が戻ってきた。
「隣接する建物は無人です! 住民にも屋内から離れないよう伝えました!」
これで、もし扉を開けて冷気が広がっても、すぐ近くの住民を巻き込む可能性は減った。
オラクルが倉庫を見る。
「次は中身だな」
「開けるの?」
私は尋ねた。
「開けなきゃ中に何がいるか分からねえ。ただし普通には開けない」
オラクルは兵士へ向き直る。
「教会に連絡できるか?」
「伝令を走らせます」
「異常冷気が出てる倉庫を見つけた。中に生き物らしきものがいる。封印用の道具と、できれば保管区画の担当者を寄越してくれ。扉開けるのはそれからだ」
兵士が走っていく。
ロロットが少し意外そうにオラクルを見る。
「待つのか?」
「当たり前だろ」
「いや、もっとすぐ開けると思った」
「中の奴が苦しんでるなら、一分でも早く助けたい。だが扉開けた瞬間に街一帯が凍ったら、助けるどころじゃねえ」
オラクルは冷気の広がりを見た。
「急ぐのと焦るのは別だ」
その言葉が胸へ残った。
私も同じことを何度も間違えてきた。
早く助けたい。
早く知りたい。
早く進みたい。
その気持ちだけで動いて、仲間に止められたこともある。
今なら少し分かる。
立ち止まることも、助けるための行動なのだ。
「分かった。待つ」
私が言うと、オラクルがこちらを見る。
「何?」
「いや」
「また成長したって言うつもり?」
「先に言われた」
「最近そればっかりだから!」
ロロットが笑いかけた、その瞬間だった。
倉庫の中から、これまでで一番大きな音が響いた。
ドンッ!
扉全体が内側から押される。
木材が軋み、蝶番を覆っていた氷が一斉に砕け落ちた。
「下がれ!」
全員が距離を取る。
二度目。
ドンッ!
今度は扉の中央に亀裂が入った。
待てない。
そう思った。
私たちが開けなくても、中にいる何かが出てくる。
フランが短剣を抜いた。
ロロットも背中の大剣を降ろす。
二人とも倉庫へ突っ込まず、私たちの前へ出る。
リリィは左右を確認し、逃げ道を確保している。
メロウは鳥の顔付きの杖を構えた。
オラクルが素早く指示を出す。
「ロロットとフランは前。ただし攻撃は相手見てからだ。メロウは冷気がこっちまで来たら防げるか?」
「完全に止められる保証はないが、土壁で流れを逸らすくらいならできる!」
「リリィは後ろ確認。兵士は住民が近づかねえよう道塞げ。フールとメリーは――」
「勝手に前行かない」
私から言った。
オラクルが一瞬だけ黙る。
「……そうしろ」
三度目の衝撃。
扉の亀裂が縦へ伸びる。
そこから白い冷気が噴き出した。
私は《聖なるマップ》の入った鞄へ手を置きながら、扉を見つめた。
敵なのか。
助けを求めているのか。
それすらまだ分からない。
だから、出てきた瞬間に攻撃してはいけない。
「フラン、ロロット!」
私が二人へ声を掛ける。
「最初から倒さないで! 何か確認してから!」
「分かってる!」
「任せろ!」
二人から返事が来る。
次の瞬間、扉が内側から大きく弾けた。
冷気と細かな氷が通りへ噴き出し、視界が一瞬真っ白になる。
私は腕で顔を守った。
頬へ冷たい粒が当たる。
風が収まる。
ゆっくり腕を下ろした。
壊れた扉の向こう。
白い冷気が満ちた暗い倉庫の中に、何かが立っていた。
小さい。
メリーが見たとおり、人間よりずっと低い。
四本の脚。
全身を覆う白い毛。
身体には何かが絡みついている。
最初は鎖だと思った。
でも違う。
白い布だった。
街で落ちた木箱の中に入っていたものと同じような布が、その生き物の胴体へ何重にも巻き付いている。
「魔物……?」
ロロットが呟いた。
生き物が一歩だけ前へ出る。
その瞬間、私は異変に気づいた。
襲ってこない。
立っていることさえ辛そうだった。
前脚が震え、身体が大きく傾く。
フランも気づいたらしく、短剣の切っ先を少し下げた。
「怪我してる?」
白い毛の隙間から、赤いものが見えた。
血だ。
しかも傷は一つではない。
身体の何か所にも擦れたような傷があり、巻き付いた布の一部には赤黒い染みが広がっている。
その生き物は私たちを見た。
淡い青色の目。
怖がっているように見えた。
次の瞬間、背後の倉庫から何かが崩れる音がした。
生き物が怯えたように身体を震わせる。
同時に、周囲の冷気が一気に強くなった。
「待って!」
ロロットが大剣を構え直そうとしたのを、私は声で止めた。
「この子が攻撃してるんじゃないかもしれない!」
「何で分かる?」
「分からない!」
自分でも変な答えだと思った。
でも、分からないからこそ攻撃したくなかった。
「でも、怖がったときに冷たくなった!」
メリーが私の肩から生き物を見つめる。
『フール、この子……怖いんだと思う』
やっぱり。
少なくともメリーにはそう感じるらしい。
私は一歩進みそうになって止まった。
勝手に近づかない。
さっき自分で言ったばかりだ。
「メリー。あの子から変な魔力する?」
『する。でも、さっきの箱と同じ冷たいのが身体にいっぱい付いてる。どっちがこの子のなのか分からない』
巻き付いている白い布。
私はそこを見る。
「メロウさん」
「分かっとる」
メロウも布を見ていた。
「生き物そのものではなく、巻き付いとる物が冷気の発生源という可能性もある。まだ近づくでないぞ」
「うん」
そのとき、倉庫から出てきた生き物の脚が崩れた。
雪の上へ倒れる。
「危ない!」
反射的に動きそうになる。
でもフランのほうが早かった。
短剣を鞘へ戻し、冷気の広がるぎりぎり手前まで近づく。
「フラン!」
「触らない! 状態見るだけ!」
私たちの約束を守っている。
フランは数歩離れた場所からしゃがんだ。
「呼吸してる。かなり速い」
ロロットも大剣を下ろした。
「暴れる感じじゃないな」
「むしろ弱ってる」
リリィが言う。
生き物は逃げようともしない。
ただ身体を丸め、苦しそうに息をしている。
私は胸の奥が痛くなった。
誰かがこの子を倉庫へ入れたのだろうか。
それとも自分で入ったのか。
身体へ巻き付いた白い布は何なのか。
さっき追ってきた足跡の人物と関係しているのか。
まだ何も分からない。
でも一つだけは分かる。
今、目の前にいるこの子は苦しんでいる。
「助けたい」
私が言うと、誰も反対しなかった。
オラクルだけが念を押す。
「助ける。だが方法を考えてからだ。布に触るな。生き物にもまだ直接触るな。教会の奴らが来るまで、まず冷気をこれ以上広げねえ方法を考える」
「うん」
今度は素直に頷けた。
私は倒れた白い生き物を見つめた。
火山の先へ進む方法を探すために来たスノーリアで、地下迷宮へ入るより先に出会ったのは、私たちが探していた答えでも、強力な氷の力でもなかった。
傷だらけになり、正体不明の白い布を身体へ巻き付けられたまま、凍りついた倉庫からようやく外へ出てきた小さな生き物だった。
「助けたい」
もう一度そう言うと、オラクルは反対しなかった。ただし、すぐ駆け寄ることも許さなかった。
「助けるために触って、そいつもお前も悪化したら意味ねえ。まず冷気の出どころを確認する。それまでは距離を保て」
「うん」
以前の私なら、苦しんでいる姿を見た瞬間に走っていたかもしれない。
今だって、本当はすぐそばへ行きたい。傷を見て、身体へ巻き付いた布を外して、水を飲ませてあげたい。
でも、その布が街で見つかった木箱に入っていたものと同じなら、何が起きるか分からない。
助けたいという気持ちと、すぐ触っていいという判断は同じではなかった。
「メリー、このままでも何か分かる?」
私が尋ねると、メリーは私の肩から少しだけ身体を浮かせた。ただし、さっき窓へ向かったときのように近づこうとはせず、その場で目を閉じる。
『やってみる』
周囲が静かになった。
白い生き物の荒い呼吸だけが、雪の降る道へ微かに響いている。
しばらくして、メリーが目を開いた。
『やっぱり変』
「何が?」
『冷たいのが二つある感じ』
「二つ?」
メロウがすぐ反応した。
「生き物と布か?」
『たぶん。でも、くっつきすぎてて分かりにくいの。この子の中にも冷たい力はある。でも身体に巻いてある白いのは、もっと嫌な感じがする』
メロウは鳥の顔付きの杖を雪へ突き、そこから先へ近づかないまま白い生き物を観察した。
「なら、この生き物が自分から周囲を凍らせとると決めつけるのは早いのう。むしろ布の影響を受けとる可能性も考えたほうがよい」
「外したら治る?」
「それも分からん」
メロウは即答した。
「分からんから、今は外さん。あれ自体が封印の役目をしとる可能性もある。見た目だけで《悪そうだから取る》のは危険じゃ」
私は頷いた。
白い布は身体へ何重にも絡みつき、一部が傷口へ食い込んでいるようにも見える。それだけ見れば今すぐ切ってあげたくなる。
でも、それが何なのかはまだ分からない。
「じゃあ、何ならできる?」
フランが尋ねた。
メロウは少し考え、倉庫と倒れている生き物、冷気が広がった範囲を順番に確認した。
「少なくとも風は避けられるようにしたほうがよい。ただし普通の毛布を直接掛けるのもまだ危険じゃ。地面から伝わる冷気を遮りつつ、こちら側へ冷気が流れんよう壁を作る」
「できるの?」
「誰に聞いとる」
メロウは少しだけいつもの顔に戻った。
鳥の顔付きの杖を持ち上げ、白い生き物から十分な距離を空けた場所へ先端を向ける。
「生き物には触れん。冷気の流れだけ変えるぞい」
低い声で何かを唱えると、雪の下から鈍い音が響いた。
地面がゆっくり盛り上がり、倉庫の左右から半円を描くように低い土壁が現れる。完全に囲むのではなく、風上側だけを塞いで冷気が住宅区へ流れにくい形になっていた。
「おお……」
ロロットが感心する。
「便利だな、その魔法」
「便利とは何じゃ! 重力と大地の性質を理解した高度な――」
「メロウさん、今は説明いいよ」
「フールまで!」
でも、白い生き物の周囲から流れていた冷気は、確かに土壁へぶつかって横へ逸れるようになった。
その様子を確認してから、オラクルが兵士へ指示する。
「この道の両側をもっと広く塞いどけ。教会の奴らが来るまで誰も近づけんな。それと、さっき追ってきた足跡を踏むなよ。まだ使うかもしれねえ」
兵士が頷き、封鎖範囲を広げるため動き始めた。
リリィはその間も、白い生き物そのものより雪の上を見ていた。
「どうしたの?」
私が尋ねる。
「この子の足跡を探してる」
言われて初めて気づいた。
倉庫から出てきたのなら、今できた足跡はある。
でも、倉庫へ入ったときの足跡はどこにあるのだろう。
リリィは建物の周囲を目だけで追った。
「少なくとも正面から自分で入った跡は見つからない。雪が降る前なら消えてる可能性もあるけど……」
「じゃあ誰かが連れてきた?」
「それもまだ分からない。でも、この子がいつから中にいたのかは調べたほうがいい」
「白い布も巻かれてるしね」
「うん」
私たちが追ってきた正体不明の靴跡は、この倉庫の前で途切れている。
倉庫の中には、傷ついた白い生き物がいた。
その身体には、教会の保管品らしい白い布が巻き付いている。
全部が繋がっているように見える。
でも、見えるだけだ。
まだ答えにはしない。
「フール」
フランに呼ばれて、生き物のほうを見る。
「少し呼吸が落ち着いたかも」
本当だった。
さっきまで身体全体を使うように息をしていたのが、ほんの少しだけゆっくりになっている。
風を遮ったからなのか。
外へ出たからなのか。
それとも、ただ疲れ切って動けなくなっているだけなのか。
理由は分からない。
それでも、苦しそうな様子が僅かに弱まったことだけは嬉しかった。
私は距離を保ったまま、雪の上へしゃがんだ。
「聞こえる?」
返事はない。
淡い青色の目だけが、ゆっくりこちらへ動いた。
「何もしないからね。今、助けられる人を呼んでるから」
言葉が通じるのかも分からない。
それでも話したかった。
「だから、もうちょっとだけ待ってて」
白い生き物は動かなかった。
でも、私から目を逸らしもしなかった。
しばらく見つめ合ったあと、その目がゆっくり閉じる。
「寝た?」
『違うと思う』
メリーが小さく答えた。
『疲れてる』
「そっか」
私は立ち上がらず、その場にいた。
触れない。
近づかない。
でも、一人にはしない。
今できるのはそれくらいだった。
やがて遠くから、雪を踏み締める複数の足音が聞こえてきた。
ロロットの耳が先に反応する。
「来た」
大通り側から何人もの兵士が現れ、その後ろには白銀の法衣を着た教会の人々が続いている。厚い革手袋や金属製の器具だけでなく、大きな白い箱や、魔法陣らしい模様が刻まれた板まで運んでいた。
その先頭にいたのは、今朝私たちと話した司祭だった。
「司祭様?」
思わず立ち上がる。
司祭は私たちの無事を確認したあと、壊れた倉庫の扉と、雪の上で身体を丸めている白い生き物を見た。
その表情が変わった。
驚き。
それから、困惑。
「これは……」
司祭が数歩進みかける。
「待ってください!」
今度は私が止めた。
司祭がこちらを見る。
「身体に巻き付いてる布から、変な冷たい力が出てるかもしれません。メリーにも、この子自身の力と布の力が混ざってるみたいで、まだどっちが原因か分からないって」
司祭は足を止めた。
「そうですか。ありがとうございます」
すぐに教会の人々へ指示を出し、まず離れた位置から冷気を測るよう命じる。
誰も生き物へ触れなかった。
少し安心した。
教会の人たちが持ってきた板を雪へ並べると、表面に刻まれた魔法陣が淡く光り始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
生き物を直接囲まず、少し離れた場所に半円状に置いていく。
「何してるの?」
私は近くにいた司祭へ尋ねた。
「冷気の流れと魔力の濃度を測っています。安全な範囲が分かれば、治療できる者を近づけます」
「治せる?」
「それをこれから確かめます」
絶対治せるとは言わなかった。
でも、その答えのほうが信じられた。
私はもう一度、白い生き物を見る。
今度は少しだけ安心できた。
助けるための人が来た。
ここからは、一人で何とかしようとしなくていい。
そのとき、リリィが司祭へ近づいた。
「一つ、見てもらいたいものがあります」
「何でしょう?」
リリィは雪の上に残された足跡を指した。
「街で落ちた箱の近くから、ここまで続いていました。運搬していた人たちとも、あとから来た兵士とも違う足跡です。途中で箱のすぐ横まで近づいて、そのあとこの倉庫まで来ています」
司祭の顔から、僅かに血の気が引いた。
「この倉庫まで?」
「はい。ただ、中へ入ったかは分かりません。ここで跡が途切れています」
司祭は足跡を見つめた。
そして壊れた倉庫。
白い生き物。
身体へ巻き付いた布。
順番に確認する。
「この布は……」
小さな声だった。
「知ってるんですか?」
私が尋ねる。
司祭はすぐには答えなかった。
教会の担当者を呼び、一人が持っていた記録用の紙を確認する。
何かを照合している。
その間、誰も話さなかった。
やがて司祭が顔を上げる。
「間違いありません」
胸が鳴った。
「この生き物へ巻き付いている布は、大教会の第三保管区画に収められていたものと同じです」
予想していた。
それでも、実際に言われると重かった。
「じゃあ、誰かが教会から持ち出して、この子に巻いたってこと?」
私は尋ねた。
司祭は首を横へ振った。
「そこまでは断定できません。ですが、少なくともこの布が、本来ここに存在するはずのない物であることは確かです」
リリィも頷いた。
「なら、まだ調べる必要があります」
「はい」
司祭は足跡の続いてきた方向を見る。
「そして、おそらく問題はこの倉庫だけでは終わっていません」
その言葉に、全員の表情が引き締まった。
私は白い生き物を見た。
この子が何なのか。
誰がここへ連れてきたのか。
なぜ教会の保管品が身体へ巻き付いているのか。
分からないことばかりだった。
それでも、追ってきた足跡が無駄ではなかったことだけは分かる。
街で落ちた一つの箱から始まった跡は、確かにここまで続いていた。
そして、その先で私たちは、物ではなく一つの命を見つけた。
地下迷宮へ入るための鍵を求めて来たはずなのに、今は《聖なる白銀の鍵》のことをほとんど考えていなかった。
目の前で苦しんでいるこの子を助けること。
街のどこかに、まだ危険な保管品が残されていないか確かめること。
誰が、何のためにこんなことをしたのかを知ること。
今はそちらのほうが大切だった。
雪は静かに降り続けていた。
白い生き物の傷口へ落ちそうになった一片の雪が、身体へ触れる寸前で冷気に巻き込まれ、小さな氷の粒へ変わる。
私はその光景を見ながら、胸の奥に残る嫌な感覚を消せなかった。
これは偶然ではない。
そう決めつけることはまだできない。
けれど、大教会から消えた保管品と、正体不明の足跡、凍りついた倉庫、そして傷ついた生き物。
一つずつだったものが、少しずつ同じ場所へ集まり始めている。
私たちは地下迷宮へ辿り着く前に、スノーリアの白い街で起きている異変の奥へ、もう一歩踏み込んでいた。




