第185話 白い街の異変
大教会を出た私たちは、すぐ宿へ戻らず、雪の降る大通りをゆっくり歩いていた。
明日までに考えておかなければならないことが、教会へ入る前よりずっと増えていたからだ。
地下第一階に広がる無数の氷鏡。そこから現れ、本人と似た戦い方で襲ってくるという鏡像。そして地下第二階へ降りたところから急激に少なくなる記録と、確実な帰還記録さえ残っていない地下第三階。
朝までは《聖なる白銀の鍵》を借りられるかどうかばかり気にしていたのに、今は仮に鍵を託してもらえたとして、その先をどう進むのかという問題のほうがずっと大きく感じられる。
雪を退けられた大通りには橇が行き交い、屋台からは温かなスープの湯気が立っている。子供たちは積み上げられた雪へ飛び込み、大人たちは慣れた手つきで屋根や店先の雪を片づけていた。
そんな普通の暮らしの中を歩いていると、さっき聞いた地下迷宮の話だけが別の世界の出来事だったようにも思える。
「ねえ、リリィ。地下第一階で目印が信用できないなら、どうする?」
隣を歩いていたリリィは、少し考えてから答えた。
「目で見る印だけには頼らないほうがいいと思う。教会の記録だと、縄も塗料も壁に付けた傷も、別の場所へ移ったように見えたことがあるんでしょ? だったら足音や歩いた距離、曲がった回数みたいな情報も一緒に使う。何が信用できて何が信用できないのか、最初から一つずつ確かめたほうがいいよ」
「みんなで手を繋いで歩くのは?」
「戦えなくなるよ」
「あ、そっか」
「でも、離れないって考え方自体は合ってると思う。鏡像まで出てくるなら、途中から誰が本物なのか分からなくなる可能性もあるし」
言われた途端、頭の中へ嫌な光景が浮かんだ。
右を見てもフラン。左にもフラン。正面にも、その後ろにも鏡へ映った同じ仲間がいる。その中から本当に鏡像が出てきたら、誰が本物なのか一瞬で判断できる自信はない。
「……やっぱり嫌な場所だね」
「だから教会も閉じたんでしょ。でも、嫌な場所だって分かっただけでも昨日よりはいいよ。何も知らずに入るより準備できるから」
リリィの言葉に私は頷いた。
怖くないわけではない。
でも《怖い》だけで全部を一つにしてしまうより、何が危険なのかを分けて考えれば、できることも見つかるかもしれない。
少し前では、ロロットとフランも地下第一階について話していた。
「自分と同じ相手が出てくるなら、やっぱり自分で戦うのが一番分かりやすくないか?」
ロロットがそう言うと、フランはしばらく考えてから首を横へ振った。
「逆かもしれない。自分が得意なことは鏡像も得意なんでしょ? だったら俺の鏡像をロロットが相手して、ロロットの鏡像を俺が相手したほうがいい場合もあると思う」
「なるほど。相手を交換するのか」
「実際に鏡像を見ないと決められないけどね。同じ戦い方をする相手同士で正面からぶつかるより、弱点を突ける可能性はある」
ロロットは背中の大剣を一度揺らし、自分と同じ姿の相手がそれを振り回すところを想像したらしい。
「俺の偽物が出たら、あの大剣まで持ってるんだろうな」
「教会の記録どおりなら、たぶん」
「……嫌だな。自分で言うのも何だけど、あれで殴られたくない」
「俺もロロットの大剣では殴られたくないよ」
「じゃあ俺の影はフラン担当な」
「まだ決めてないからね」
二人とも、いつの間にか本当に迷宮へ入る前提で話している。
私も人のことは言えないけれど。
その後ろでは、メロウが鳥の顔付きの杖を片手に、歩きながら紙へ何かを書き込んでいた。
覗いてみると、《鏡像発生条件――不明》《模倣範囲――身体能力、武器技術について複数証言あり》《魔法その他――要確認》《視覚的目印――単独では信用しない》と、教会で聞いた情報が細かく整理されている。
「メロウさん、歩きながら書いたら転ぶよ」
「心配無用じゃ。忘れんうちに整理しておるだけで――おっと!」
雪の下に隠れていた小さな段差へ杖が引っ掛かり、身体が前へ傾く。
すぐ横にいたフランが腕を掴んだ。
「ほら」
「転んどらん!」
「フランが止めたからでしょ」
リリィにまで言われ、メロウは不満そうに紙を畳んだ。
「未知の遺跡へ入る前に既知の情報を整理するのは、考古学者として当然のことなんじゃぞ」
「それはいいけど、宿に戻ってからやれ」
少し前を進んでいたオラクルが呆れたように振り返る。
「そもそも、まだ鍵を借りられるって決まってねえんだからな」
「準備して損はないじゃろう」
「それは否定してねえ。道の真ん中で紙見ながら歩くなって言ってんだ」
メロウが渋々紙をしまう。
そんなやり取りをしているうちに、さっきまで教会の話で固くなっていた空気も少しずついつものものへ戻ってきた。
そのときだった。
前方の交差点に、妙に多くの人が集まっていることに気づいた。
最初は屋台でも出ているのかと思った。でも近づくにつれ、そこにいる人たちが誰も楽しそうではないことが分かる。住民たちは一定の距離を空けて立ち止まり、その中心には白い外套を着た兵士が二人いた。
「何だろう」
私が足を緩めると、リリィはすでに人だかりの向こうを観察していた。
「何かが道に落ちてる。でも、人が邪魔で全部は見えない」
「箱じゃないか?」
フランが言った。
ちょうど人が動き、中心が見えた。
大きな木箱が道の中央で横倒しになっている。運搬中に橇から落ちたらしく、角の一部が割れ、蓋の隙間から白い布がはみ出していた。
それだけなら、ただの事故に見える。
けれど兵士たちは箱を起こそうとしない。
それどころか、周囲にいる人々へ何度も下がるよう指示していた。
「近づかないでください! 道を空けて!」
ロロットの長い耳が立つ。
「変だな」
「何が?」
「荷物が落ちただけなら、普通はさっさと道から退かす。あんなに人を離す必要ないだろ」
確かにそうだった。
オラクルもすぐには近づかず、人だかりから十分に距離を取った場所で車椅子を止める。
「ここから見ろ。何か分かるまでは近づくな」
今回は誰も反対しなかった。
しばらくすると、別の兵士が厚い革手袋と長い金属製の器具を持って走ってきた。
その姿を見た瞬間、胸の奥に引っ掛かるものがあった。
石橋。
あの異常区域で、黒い欠片を回収していた兵士たちも直接手では触れず、長い器具を使っていた。
「オラクル」
「ああ、見えてる」
私が言いたいことを察したらしい。
「だが石橋の欠片と同じだと決めるな。似てんのは《素手で触らねえ》って一点だけだ」
「分かってる」
以前なら、すぐに二つを結びつけていたかもしれない。
でも今は、同じに見えることと、本当に同じものであることが違うと分かっている。
兵士が金属の棒を蓋の隙間へ差し込み、ゆっくり持ち上げた。
中に入っていたのは白い布だった。
何枚も重ねられ、その中央に何かが包まれているらしい。
兵士がもう一人へ短く何かを伝える。
直後、周囲の住民から小さなどよめきが起こった。
箱から白いものが流れ出している。
最初は煙かと思った。
でも違った。
冷気だった。
地面へ落ちた白い靄が箱の縁から静かに溢れ、石畳を這うように広がっていく。その冷気が触れた場所から、濡れていた石の表面が薄く白く変わった。
「凍ってる……?」
フランが声を落とした。
冷気の広がりは速くない。
それでも、箱を中心として石畳に霜が増えていくのが目で分かる。
肩の近くにいたメリーが、私の外套へ身体を寄せた。
『フール、あれ嫌』
「何か分かる?」
『少しだけ変なのがある。雪の冷たいのとは違う感じ。でも、すごく薄くてよく分からない』
メロウの表情が変わった。
「魔力か?」
『たぶん。でも近くで見たくない』
その言葉を聞いた瞬間、私は迷わなかった。
「じゃあ、このまま離れてよう」
オラクルがこちらを見る。
「珍しいな」
「何が?」
「お前なら《もう少し近くで見たい》って言うと思った」
「私だって学ぶよ!」
石橋で十分学んだ。
分からないものを調べるために、必ず触ったり近づいたりする必要はない。
今見えるものを覚えておけばいい。
兵士たちはさらに周囲の人々を遠ざけ、箱を中心に広い空間を作った。
そのうち一人が近くの建物へ向かって声を張る。
「大教会へ連絡を! 保管庫の担当者を呼んでくれ!」
その言葉で、私たちは同時に大教会の方向を見た。
「教会?」
リリィが呟く。
ロロットも眉を寄せた。
「箱が教会の物かどうかは分からない。でも《保管庫の担当者》を呼ぶなら、少なくとも教会が何か知ってる可能性はあるな」
ついさっきまで、私たちはその大教会で地下迷宮について話を聞いていた。
そして今、教会の人間を呼ばなければならない何かが、街の真ん中で冷気を放っている。
偶然かもしれない。
私はそう考えたところで、自分から思考を止めた。
まだ繋げない。
情報が足りない。
そのとき、リリィが私の袖を軽く引いた。
「フール、あっち見て」
示されたのは木箱ではなく、北へ延びる道だった。
雪の上には二本の細長い溝が続いている。おそらく箱を運んでいた橇の跡だ。その横には橇を引いていた獣の足跡と、人間の靴跡が並んでいる。
リリィはその跡を目で追い、途中で僅かに眉を寄せた。
「橇の跡が一回大きく蛇行してる。その少しあとで箱が落ちてるみたい」
「滑ったんじゃない?」
「その可能性もある。でも、変なのはこっち」
リリィの指が、橇とは少し離れた場所を示した。
「運んでた人たちとは違う靴跡が、途中から増えてる」
私は雪の上へ目を凝らした。
自分には、いくつもの足跡が重なっているようにしか見えない。
「分かるの?」
「靴底の幅と歩幅が違う。ずっと続いてるわけじゃなくて、橇が蛇行する少し前から並んで、そのあと人の足跡に紛れてる」
「誰かが箱に近づいた?」
「そこまでは分からないよ。同じ道を歩いていただけかもしれないし、荷物を運んでいた人の仲間が途中から合流した可能性もある」
リリィは自分から可能性を狭めなかった。
オラクルが低い声で言う。
「追うなよ」
「分かってる。兵士もいるし、今は覚えておくだけ」
リリィも迷わず答えた。
私たちはそのまま少し離れた場所に残った。
やがて、大教会の方向から一人の男性が走ってきた。
白と銀の法衣。
今朝礼拝堂ですれ違った人とは違うけれど、教会の人間であることはすぐ分かった。
男性は人だかりを抜け、木箱を見るなり足を止めた。
「……なぜ、これがここに?」
声は小さかった。
それでも、周囲が静かだったため私たちのところまで届いた。
兵士が事情を説明する。
男性は割れた木箱から覗く白い布を確認し、顔色を変えた。
「触れてはいけません。周囲をさらに封鎖してください」
迷いのない声だった。
「大教会へ至急報告を。本来、これは街へ運び込まれる予定のものではありません」
胸の奥がざわついた。
本来は街へ来ないもの。
では、どこへ向かうはずだったのだろう。
メロウも同じことを考えているらしく、何か言いたそうにしている。
でも今ここで教会の人へ詰め寄る者はいなかった。
私たちは部外者だ。
まず兵士と教会に任せるべきだった。
そのとき、大教会の方向から鐘が鳴った。
一度。
少し間を置き、もう一度。
続けて三度目。
朝に聞いた祈りの鐘とは、明らかに間隔が違う。
ロロットの長い耳が一気に立った。
その表情から、ただの鐘ではないと分かった。
「ロロット?」
「あれ、警戒鐘だ」
私が聞き返すより早く、四度目の鐘が白い街へ響き渡った。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
さっきまで人だかりを作っていた住民たちは、互いに声を掛け合いながら建物へ戻り始めた。店の主人たちは外へ出していた商品を急いで中へ運び、子供を連れていた女性は小さな手を強く握って足早に通りを離れていく。
混乱して逃げ惑っているわけではない。
むしろ逆だった。
誰もが《警戒鐘が鳴ったら何をするのか》を知っているように動いている。その慣れた様子が、私はかえって怖かった。
「ロロット、この鐘って何があったときに鳴るの?」
「俺がいたころは、大規模な雪崩とか吹雪で街道を閉鎖するとき、それから街の中で住民を避難させる必要があるときに使ってた。ただ、今みたいに天気が落ち着いてる状態で鳴るのは珍しい」
ロロットは話しながら空を見上げた。
細かな雪は降っているけれど、吹雪と呼べるほどではない。遠くの建物も見えているし、風も先ほどから大きく変わっていなかった。
「じゃあ、天気じゃない?」
「少なくとも今見えてる範囲じゃな。でも、山側で何かあった可能性はある」
ロロットも原因までは決めなかった。
私はもう一度、横倒しになった木箱へ目を向けた。
白い冷気。
直接触れようとしない兵士。
《本来、街へ運び込まれる予定のものではない》と言った教会の男性。
そして直後に鳴り始めた警戒鐘。
どうしても繋がって見える。
でも、本当に関係しているのかは分からない。
「フール」
オラクルの声で我に返った。
「勝手に答え作るなよ」
「……まだ作ってない」
「ならいい。箱と鐘が同じ原因だって証拠はねえ。まず自分たちの安全を確保する」
オラクルは周囲を見回し、大通りの人の流れを確認した。
「宿へ戻る?」
私が尋ねると、すぐには答えなかった。
その間にも鐘は鳴り続けている。
五度目。
六度目。
低い音が白い街を渡るたび、通りから人が減っていった。
店の扉が閉じられ、窓の外へ出されていた看板まで片づけられていく。少し前までスープの匂いや商人たちの声で賑わっていた大通りが、ほんの数分で別の場所になったようだった。
リリィは大教会へ向かう人と、そこから離れていく人を交互に見ていた。
「兵士は教会へ集まってる」
言われて気づいた。
住民たちは大通りから離れているのに、白い外套を着た兵士だけは反対方向へ走っている。その先には、私たちがついさっきまでいた大教会の尖塔が見えていた。
ロロットの表情がさらに険しくなる。
「教会で何かあったのかもしれない」
「さっきまで普通だったよね?」
「ああ。少なくとも俺たちが出たときは」
メロウは横倒しになった木箱と大教会を交互に見ながら、鳥の顔付きの杖を握り直した。
「この箱も教会と無関係ではなさそうじゃが、今ここで調べるわけにもいかんのう」
「珍しくまともだな」
オラクルが言う。
「わしはいつでもまともじゃ!」
いつもなら笑えたと思う。
でも今は、誰も大きく笑わなかった。
そのとき、木箱のそばにいた教会の男性が兵士へ何かを告げた。
一人の兵士がこちらを見る。
最初は私たちを見ているとは思わなかった。
ところが兵士は周囲を確認したあと、真っ直ぐこちらへ走ってくる。
「ロロット殿!」
呼ばれたのはロロットだった。
「俺?」
「はい。それと、今朝大教会へ来られていた冒険者の方々ですね?」
兵士は息を整えながら私たちを確認した。
私はオラクルを見る。
オラクルが小さく頷いたので答える。
「そうです」
「大教会から、皆様をお連れするよう指示が出ています」
予想していなかった言葉だった。
「私たちを?」
「はい。至急とのことです」
胸が大きく鳴った。
今朝、司祭とは《明日》もう一度話す約束をした。
《聖なる白銀の鍵》を渡すかどうか、教会側でも確認する必要があると言われたばかりだ。
それなのに、まだ数時間も経っていない。
「司祭様が呼んでるんですか?」
私が尋ねると、兵士は一瞬だけ答えを迷った。
「司祭様からの指示でもあります。ただ……」
言葉が止まる。
ロロットが低い声で促した。
「ただ?」
兵士は大教会を見た。
「教会内で、保管物の確認が行われています」
保管物。
私は反射的に木箱を見た。
兵士もその視線に気づいたらしい。
しかし、それ以上の説明はしなかった。
「詳しいことは、私から申し上げることができません。大教会で直接お聞きください」
オラクルが質問する。
「街の住民は?」
「現在、屋内待機をお願いしています。危険が確認されたわけではありませんが、状況が判明するまでは念のためです」
「襲撃か?」
「現時点では確認されていません」
答え方が慎重だった。
分からないことを、分かったようには言わない。
さっきの司祭と似ている。
「分かった」
オラクルが答えた。
「行くぞ」
「宿じゃなくていいの?」
私が確認すると、オラクルは大教会のほうを見た。
「向こうから呼ばれてんだ。今は話聞いたほうが早い。ただし、全員勝手に動くな。何が起きてるか分かるまでは教会の指示に従う」
「うん」
今度は全員がすぐ頷いた。
私たちは兵士に続き、来た道を引き返した。
さっきまでとは、同じ街を歩いているとは思えなかった。
大通りから住民の姿はほとんど消え、閉じられた窓の向こうから不安そうに外を窺う人たちがいる。屋台の火も消され、湯気を上げていた鍋には蓋がされていた。
雪だけが変わらず降り続けている。
その白さの中を、兵士たちが何人も走っていく。
私は自然と歩幅を速めそうになったけれど、雪道であることを思い出して抑えた。
リリィも周囲を観察しながら進んでいる。
「さっきの足跡、追わなくてよかったね」
小さな声だった。
「どうして?」
「まだ何が起きてるか分からないけど、教会側が動いてる。私たちだけで追ってたら、必要な情報から離れてたかもしれない」
「そっか」
何でも自分たちだけで調べればいいわけではない。
現地には現地の人がいて、その人たちが持っている情報がある。
それも今回の旅で何度も学んだことだった。
「でも、あの箱は気になるね」
「うん。ただし今は覚えておくだけ」
リリィはそう言ったあと、少し考えて付け加えた。
「橇が蛇行する直前に増えた足跡も」
私も忘れないよう頭へ刻んだ。
後ろからフランが追いつく。
「フール」
「何?」
「さっきから帽子の耳握りすぎ」
言われて初めて気づいた。
私は歩きながら、右手でずっと《キジトラウサギ》の帽子の耳を掴んでいた。
「緊張すると触ってるみたい」
「破らないようにね」
「そんな強く握ってないよ」
「昨日買ったばかりで壊したらオラクルが怒りそうだから」
「そこ?」
少しだけ笑えた。
肩にいたメリーも私の手へ自分の小さな手を重ねる。
『大丈夫?』
「うん。何が起きたか分からないのが、ちょっと怖いだけ」
『私も』
「じゃあ一緒だね」
『うん』
メリーの身体は暖かかった。
冷たい街の中で、その小さな温度が妙に安心する。
大教会へ近づくにつれ、兵士の数はさらに増えていった。
朝に上った石段の下には簡単な柵が置かれ、一般の人が入れないようになっている。青白い《聖雪花》は変わらず雪の中で咲いていたけれど、その周囲を何人もの兵士が行き交っていた。
「朝と全然違う……」
私が呟く。
ロロットも教会を見上げている。
「こんなの、俺もほとんど見たことない」
地元のロロットまで知らない。
その事実が、さらに不安を大きくした。
兵士が柵を開ける。
私たちは石段を上った。
今朝は教会の歴史や《聖雪花》を眺めながらゆっくり上った道を、今度は誰も立ち止まらず進んでいく。
巨大な白い扉も開いたままだった。
中へ入る。
礼拝堂には祈りに来ていた人の姿がなく、代わりに白銀の法衣を着た聖職者と兵士が何度も行き来している。
朝は静かで美しいと思った場所が、今は張り詰めた空気に包まれていた。
「こちらです」
案内される。
向かう方向は、朝と同じだった。
司祭と話した部屋。
でも、その手前で違う。
廊下のさらに奥へ続く通路に、二人の兵士が立っている。
そこには朝、誰もいなかった。
メロウが目を細めた。
リリィも気づいている。
私も何となく分かった。
あの先に、何かある。
案内の兵士が扉を叩いた。
「お連れしました」
「入ってください」
聞き覚えのある声。
司祭だ。
扉が開く。
今朝と同じ部屋だった。
机も、本棚も、中庭が見える窓も変わっていない。
でも司祭の顔だけは、朝とは明らかに違っていた。
机の上には、今朝見せてもらった地下迷宮の記録ではなく、一枚の新しい紙が置かれている。
その隣には、白い布。
私は足を止めた。
さっき木箱から覗いていたものと似ている。
司祭は私たち全員が入ったことを確認してから、扉を閉めるよう兵士へ頼んだ。
「突然お呼び立てして申し訳ありません」
「何があったんですか?」
私が尋ねる。
司祭はすぐには答えなかった。
まずロロットを見る。
次にメロウ。
オラクル。
最後に私。
「今朝、あなた方とお話しした際、私は《聖なる白銀の鍵》について、明日改めてお話しすると申し上げました」
「はい」
「そのために、教会の保管物と古い記録を再確認するよう指示を出しました」
胸の奥で何かが引っ掛かった。
保管物。
さっき兵士も同じ言葉を使った。
司祭は机の上に置かれた紙へ手を置く。
「その確認の最中に、問題が見つかりました」
部屋が静まり返った。
私は膝の横で拳を握る。
「白銀の鍵に?」
思わず聞いた。
今度はオラクルも止めなかった。
司祭は首を横へ振った。
「鍵そのものは、無事です」
少しだけ息が戻った。
しかし司祭の表情は変わらない。
「問題は、その鍵とともに長年保管されていた記録と、迷宮周辺から過去に回収された品の一部です」
メロウの顔つきが変わる。
「回収品?」
「はい。地下迷宮の内部からではありません。永久凍土の氷門周辺、そして北の氷山付近で過去に発見され、危険性が不明なため教会が保管していたものです」
私はさっきの木箱を思い出した。
「もしかして、街で落ちてた箱……」
司祭は静かに頷いた。
「あれも、その一つです」
全員の表情が変わった。
やっぱり関係していた。
でも、まだ何と関係しているのかは分からない。
「何で街に?」
ロロットが尋ねる。
「それを調べています。本来、あの品は大教会の保管区画から外へ出される予定はありませんでした」
リリィが僅かに身体を前へ出した。
「誰かが運び出した?」
「その可能性を含めて確認中です。ただし、現時点で盗難や侵入と断定できる証拠はありません」
まただ。
分からないことを決めつけない。
でも、それだけで十分怖かった。
大教会で厳重に保管されていたものが、理由も分からないまま街の中へ出ていた。
そして箱からは、雪とは違う異常な冷気が漏れていた。
司祭は白い布へ手を置いた。
「さらに、もう一つ問題があります」
「まだあるんですか?」
自分でも声が低くなった。
司祭は頷いた。
「保管区画を確認したところ、一部の品に異常が発生していました。これまで何十年も変化のなかったものが、今朝になって急激に冷気を放ち始めています」
メロウが立ち上がりかける。
「見せてもらえるか?」
「安全が確認できれば」
司祭はすぐに答えた。
「現在は区画そのものを封鎖しています」
メロウも無理には言わなかった。
私は司祭の言葉を頭の中で並べる。
北の氷山周辺で回収されたもの。
長年変化しなかった。
それが今朝になって冷気を放ち始めた。
《氷鏡の地下迷宮》。
大規模凍結。
巨大な蛇状生物。
そこまで考えて、また止める。
まだ同じ原因とは限らない。
「だから警戒鐘を?」
オラクルが尋ねた。
「はい。現時点で住民への直接的な危険は確認されていません。しかし、原因不明の品が一つ街へ流出していた以上、他にも同じことが起きていないとは断定できません。念のため、住民には屋内待機をお願いしています」
正しい判断だと思った。
怖がらせすぎず、でも何も分からないまま放置もしない。
「私たちに何をしてほしいんですか?」
今度は私から尋ねた。
司祭はすぐには答えず、机の上に置かれていた白い布をゆっくり広げた。
布の中央には、薄い青色の染みのようなものが残っている。
濡れているようにも見えたけれど、よく見ると違った。布の繊維そのものが硬くなり、細かな氷の粒が張り付いている。
「これは?」
「異常が発生した保管品を包んでいた布の一部です。今朝、保管区画の確認に入った者が交換しました」
司祭は素手では触れず、布の端だけを細い木製の棒で持ち上げた。
「取り外してからかなり時間が経っていますが、まだ完全には解けていません」
メロウが椅子から身体を乗り出したものの、今度は自分から一定の距離を保っていた。
「冷気の発生源は、その布ではないのじゃな?」
「はい。布は包んでいただけです」
「では、中身は?」
「正体は分かっていません」
司祭はそう答えると、机に置かれていた紙を私たちのほうへ向けた。
そこには保管区画の簡単な見取り図が描かれている。
地下らしい。
四角い部屋がいくつも並び、そのうち一室だけが丸で囲まれていた。
「異常が確認されたのは、ここです。大教会地下の第三保管区画。迷宮周辺や北部氷山で発見され、用途も危険性も判明していない物を保管している場所です」
「第三……」
地下迷宮とは関係ない。
教会の地下だ。
私は混同しないよう頭の中で分けた。
司祭の指が、丸で囲まれた部屋の中央へ移る。
「今朝、あなた方とお話ししたあと、《聖なる白銀の鍵》と迷宮関係資料の確認を命じました。鍵そのものは別区画で保管されており、異常はありませんでした。しかし担当者が第三保管区画へ入った際、室温が通常より大幅に低下していることに気づいたのです」
「どれくらい?」
フランが尋ねる。
「吐いた息が瞬時に白くなり、壁に付着していた水分が凍結する程度です。保管区画は地下にありますが、本来そこまで冷える場所ではありません」
司祭の説明を聞いているだけで、街で見た木箱を思い出した。
地面を這った白い冷気。
その冷気が触れた石畳へ広がった霜。
「最初は、保管されていた一つの品だけに異常が起きていると考えました。しかし確認を進めている途中で、床の一部まで凍結し始めました。さらに、その品を囲っていた封印用の金具に亀裂が見つかったのです」
ロロットの表情が変わる。
「封印が壊れたのか?」
「完全には壊れていません。しかし、これまで一度も変化しなかった金具です」
司祭の声が僅かに低くなった。
「そして、その確認中に《保管品が一箱足りない》ことが判明しました」
部屋が静まり返った。
今度は、さっきの木箱を思い出さないほうが無理だった。
「それが、街に落ちてた箱?」
私が尋ねる。
「保管番号は一致しています」
司祭は頷いた。
「本来なら、第三保管区画から移動させる際には司祭二名と保管担当者の立ち会いが必要です。しかし今朝、あの箱を運び出す許可は誰にも出されていませんでした」
「なのに外にあった」
リリィが呟く。
「はい」
「運んでいた人は?」
「現在確認しています。教会関係者の名前を使った運搬指示書が見つかっていますが、その指示を出したとされる者には心当たりがないと聞いています」
リリィの目が細くなった。
街で見つけた足跡のことを考えているのだと思う。
私も同じだった。
橇が大きく蛇行する直前から増えていた、別の靴跡。
でも、それだけで誰かが盗んだとは言えない。
「じゃあ警戒鐘を鳴らしたのは、箱が一個なくなったから?」
私が尋ねると、司祭は首を横へ振った。
「それだけなら、まず教会内と周辺を封鎖したでしょう」
司祭は凍りついた布へ視線を落とした。
「警戒鐘を鳴らした決定的な理由は、街で回収された箱の状態です」
私は息を止めるようにして話を聞いた。
「あの箱は保管区画から出た時点では、少なくとも記録上、異常を示していませんでした。しかし街で発見された際には、内部から冷気が漏れ、石畳を凍結させ始めていた。もし同じ性質を持つ品がほかにも外へ運び出されていた場合、それが民家や商店の中で同じ変化を起こす可能性があります」
ようやく全部が繋がった。
大教会の保管庫で、長年変化のなかった物が突然冷気を放ち始めた。
確認すると、封印用の金具に亀裂まで入っていた。
さらに一箱が、誰の許可もないまま保管庫から消えている。
その箱は街の中央で発見され、実際に周囲の石畳を凍らせ始めていた。
もし一箱だけではなかったら。
もし、別の家の中に同じ物が置かれていたら。
「だから、みんなを家に帰したの?」
「正確には、屋外から退避していただきました」
司祭は頷いた。
「何が起きているか分からない状態で住民を街中に留め、正体不明の保管品へ偶然近づかせるほうが危険だと判断しました。同時に各区画の兵士へ、異常な冷気、見覚えのない木箱、教会の保管番号が付いた荷物を発見した場合は触れずに報告するよう指示しています」
それなら、警戒鐘を鳴らした理由も分かる。
まだ誰かが襲われたわけではない。
街が凍り始めたわけでもない。
でも、実際に一つは外へ出て、異常を起こした。
何も起きてからでは遅い。
オラクルが低い声で尋ねた。
「それで、俺たちに頼みたいことは何だ?」
司祭は一度、全員を見回した。
「二つあります」
その言葉に、自然と姿勢が正された。
「一つ目は、街へ流出した保管品が本当にあの一箱だけなのか、確認するための協力です。兵士たちは街の主要な通りと建物を調べていますが、雪の上に残された痕跡を追うことに長けた者は多くありません」
司祭の視線がリリィへ向いた。
「先ほど兵士から、あなたが箱の周囲に残された足跡について気づいたと報告を受けました」
リリィが少し驚いた。
「聞いてたんですか?」
「兵士が見ていたそうです。あなたが雪面を調べていたと」
リリィは少し考えてから答える。
「確かに、橇が蛇行する少し前から別の靴跡が増えていました。でも、それが今回のことに関係しているかはまだ分かりません」
「それで構いません」
司祭は即答した。
「分からないものを無理に犯人へ結びつける必要はありません。我々が必要としているのは、兵士たちが見落としている可能性のある痕跡を見つけることです」
リリィがオラクルを見る。
オラクルはまだ答えなかった。
「二つ目は?」
メロウが尋ねた。
司祭の表情がさらに重くなった。
「第三保管区画の異常について、外から確認していただきたいのです」
「外から?」
「区画そのものへ入っていただくつもりはありません。現在は封鎖しています。ただ、あなた方は《氷鏡の地下迷宮》を調べるため、グライツの記録を調査してきた。そしてメロウ様は考古学者だと伺っています」
メロウの片目が鋭くなる。
「保管品が、迷宮に関係するものか確認してほしいということか?」
「正確には、《我々の記録と照合して何か共通点がないか見ていただきたい》のです」
司祭はそこで一度言葉を切った。
「教会も、これらの品が地下迷宮そのものから持ち出された物だとは考えていません。発見地点は氷門の外側です。しかし、何十年も変化しなかった複数の品が、同じ朝に異常な冷気を発し始めた。偶然と断定するには、あまりに時期が重なっています」
メロウはすぐには返事をしなかった。
興味があるのは明らかだ。
それでも、珍しい物を見たいという顔ではなかった。
「危険は?」
「あります」
司祭は隠さなかった。
「封鎖区画の外側でも気温が下がり続けています。先ほど、扉の蝶番の一部が凍結したとの報告が入りました。さらに冷却が進めば、封印区画そのものが破損する可能性があります。その場合、中にある品がどのような反応を示すかは我々にも分かりません」
メリーが私の服を掴んだ。
怖い。
私だって怖かった。
でも、依頼の意味は分かった。
街に他の箱が出ていないか調べる。
そして教会の保管庫では、何が異常を起こしているのか、危険な区画へ直接入らずに記録と照合する。
「一つ確認していいですか?」
私は司祭を見た。
「もちろんです」
「これを手伝ったら、白銀の鍵をくれるんですか?」
オラクルが頭を押さえた。
「お前は……」
「違うよ! 今回は大事だから聞いてるの!」
本当にそうだった。
助けたら鍵をもらえる。
そんな取引なら嫌だった。
司祭も、私が何を聞きたいのか理解したらしい。
「いいえ」
はっきり答えた。
私は少しだけ安心した。
「《聖なる白銀の鍵》を託すかどうかと、今回の協力は別の問題です。危険な迷宮へ入る資格を、街への貢献と交換するつもりはありません」
「よかった」
今度は司祭が驚いた。
「よかった、のですか?」
「はい。街の人が危ないなら助けたい。でも、それで鍵をくださいっていうのは違うと思うから」
司祭は何も言わなかった。
ただ、さっきまでより少しだけ柔らかい目で私を見た。
オラクルが私の横で小さく息を吐く。
「で、どうする?」
それは私だけに聞いたのではない。
全員へ向けた質問だった。
リリィは最初に答えた。
「足跡を見るくらいならできる。ただし、危ない物を見つけても触らない。追跡先が危険そうなら止まる。それでいいなら」
「もちろんです」
メロウも鳥の顔付きの杖を握り直した。
「保管品も、封鎖の外から記録を確認するだけなら協力しよう。分からん物へ不用意に触るつもりはない」
オラクルが一瞬メロウを見る。
「何じゃ」
「いや、成長したなと思って」
「フールと同じ扱いをするでない!」
こんな状況なのに少し笑ってしまった。
フランも頷き、ロロットは「地元のことだからな」と迷わなかった。メリーは私の肩で小さな拳を握っている。
最後に、みんなが私を見る。
私は迷わなかった。
「やります」
司祭が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
警戒鐘は、もう鳴っていなかった。
でも街が安全になったわけではない。
鐘を鳴らした理由が分かった今のほうが、むしろ危険は具体的に見えていた。
大教会の地下では、何十年も変化しなかった保管品が冷気を放ち、封印を凍らせ始めている。
そのうち一箱は、誰の許可もないまま街へ運び出されていた。
そして箱が落ちる直前には、運搬していた者とは違う足跡が雪の上へ増えていた。
まだ何一つ、答えは出ていない。
誰かが意図的に運び出したのか。
ただの手違いなのか。
保管品の異常と《氷鏡の地下迷宮》に関係があるのか。
全部、これから確かめなければならない。
私は机の上に置かれた、まだ氷の粒が残る白い布を見つめた。
火山を越える方法を探すために来たスノーリアで、私たちは地下迷宮へ入るより先に、この街そのものに起き始めた異変を調べることになった。
そして、その異変がどこへ続いているのかを示す最初の手掛かりは、すでに雪の上に残されていた。




