第184話 氷鏡の地下迷宮
「《氷鏡の地下迷宮》について、お尋ねになりたいそうですね」
初老の司祭はそう言うと、私たちの向かい側へゆっくり腰を下ろした。
近くで見ると、年齢はメロウより少し若いくらいだろうか。白銀の法衣には派手な宝石や装飾品はほとんどなく、胸元に雪の結晶と十字を重ねた教会の紋章が下がっている。穏やかな目をした人だったけれど、《氷鏡の地下迷宮》という言葉を口にしたときだけ、その表情に僅かな硬さが混じった。
案内してくれた女性が扉を閉める。
外から聞こえていた礼拝堂の音が遠ざかり、部屋には私たちだけが残った。
「はい」
私は膝の上に置いた《キジトラウサギ》の帽子から手を離し、司祭を見た。
「まず、知りたいんです。どうして地下迷宮へ入っちゃいけないんですか?」
司祭はすぐには答えなかった。
「ロロットからは、《神の怒りを買った禁忌の場所》だと聞きました。でも、それだけだと何があったのか分からなくて……。私たちは迷宮を荒らしたいわけじゃありません。火山の奥へ進むために、強い氷の力を探しているんです」
「先ほど、その事情については彼女から聞きました」
司祭が案内役の女性を見る。
「だからこそ、お会いすることにしたのです。もし単なる宝探しを目的としていたなら、ここへお通しすることもなかったでしょう」
やっぱり、それほど厳しい場所なのだ。
オラクルが昨日から何度も《最初に鍵を要求するな》と言っていた理由が、今になってよく分かった。
「では、《神の怒り》とは何じゃ?」
メロウが尋ねた。
さっきまで本棚を気にしていたときとは違う。考古学者として聞いているのだろう。
「宗教上の伝承なのか、それとも実際に何らかの災害が発生し、その記録が後世で《神の怒り》と呼ばれるようになったのか。そこは大きな違いじゃ」
司祭はメロウをしばらく見つめた。
「正直に申し上げましょう。我々にも、すべては分かりません」
メロウの片目が僅かに細くなる。
「分からん?」
「はい。《神の怒り》という言葉は非常に古い記録にも残されています。しかし、迷宮が造られた正確な年代も、誰が造ったのかも、なぜ地下深くまで続いているのかも、教会は確かな答えを持っていません」
私は少し驚いた。
教会なら全部知っていると思っていた。
「じゃあ、何で入っちゃ駄目なんですか?」
「分からないからこそです」
静かな答えだった。
「何も知らず恐れている、という意味ではありません。分かっている範囲だけでも、あの場所は人が安易に踏み込むには危険すぎるのです」
司祭は立ち上がった。
壁際にある本棚へ向かう。
メロウの目も一緒に動いた。
司祭は上から二段目に収められていた一冊の分厚い本を取り出し、机へ戻ってきた。
表紙は白ではなく、長い年月で色褪せた灰色だった。角は擦り切れ、背表紙には何度も補修された跡がある。
机へ置かれた瞬間、メロウが身体を乗り出した。
「これは?」
「迷宮から帰還した者たちの証言と、教会側の調査記録をまとめた写本です。原本ではありません。原本の一部は劣化が進んでいるため、現在は別の場所で保管しています」
「見ても?」
メロウが尋ねる。
今度はちゃんと許可を取った。
司祭が頷いた。
「ここにある範囲でしたら」
メロウは嬉しそうだったけれど、すぐ本へ飛びつくことはしなかった。
司祭自身がページを開く。
そこには細かな文字と、何枚もの図が描かれていた。
最初に見えたのは、大きな扉。
その奥から階段が地下へ続いている。
「現在、我々が確認している限り、《氷鏡の地下迷宮》は地下三階まで存在します」
「三階……」
思っていたより具体的な数字が出てきた。
メリーも机へ近づく。
『三つだけ?』
「《三つだけ》と呼べる場所ではありません」
司祭の返答に、メリーが首を傾げた。
司祭は次のページを開く。
そこに描かれていたのは、通路だった。
ただし普通の通路ではない。
左右の壁に、何枚もの長方形が並んでいる。
「地下第一階。帰還者の証言が最も多く残されている場所です」
司祭の指が、図に描かれた長方形をなぞった。
「この一つ一つが、氷でできた鏡だとされています」
「鏡……」
ロロットからも聞いていた。
でも、私はてっきり迷宮の一部に鏡の罠がある程度だと思っていた。
「どれくらいあるんですか?」
「数え切れない、と」
司祭は答えた。
「右を見ても、左を見ても、鏡。場所によっては天井や床まで鏡面になっているという証言もあります。同じ景色が幾重にも反射するため、方向感覚を失い、入口からさほど離れていないにもかかわらず帰路を見失った者もいます」
リリィが図を覗き込んだ。
「目印を付ければ?」
「試されています」
司祭が別の記録を示す。
「縄、塗料、壁への傷、魔法による印。その多くが、いつの間にか別の鏡へ移ったように見えたという証言が残っています。実際に移動しているのか、反射による錯覚なのかまでは確認されていません」
「嫌な場所だね……」
リリィが呟く。
追跡を得意とするリリィがそう言うのだから、相当なのだろう。
でも司祭の表情は変わらなかった。
「第一階が危険とされる最大の理由は、道に迷うことではありません」
来る。
何となく分かった。
ロロットから聞いた話。
《鏡の呪い》。
「鏡に映った自分が出てくるんですよね」
私が言うと、司祭がこちらを見る。
「ロロットから?」
「少しだけ」
「なら、話は早いでしょう」
司祭は一枚のページを私たちのほうへ向けた。
そこには、人が二人描かれていた。
同じ顔。
同じ身体。
片方だけが鏡の中にいる。
次の絵では、その二人が戦っていた。
「鏡へ姿を映した者の前に、鏡像が現れることがあります」
フランの表情が変わった。
「《ことがあります》?」
「必ずではないのです。どの鏡が反応するのか、何を条件として現れるのか、現在まで特定されていません」
「出てきた鏡像は?」
フランが聞く。
司祭は少しだけ間を置いた。
「本人を攻撃します」
部屋が静かになった。
「武器は?」
「同じものを持っていたという記録があります」
フランの手が腰の短剣へ触れた。
「技も?」
「同じ剣技を使われたという証言も」
私は自分が鏡の前に立っているところを想像した。
赤いツインテール。
同じ服。
同じ顔。
その私が鏡から出てきて、こちらへ向かってくる。
気味が悪い。
でも、それだけではない。
「魔法も同じ?」
メリーが不安そうに私へ寄ってきた。
司祭は首を横へ振った。
「そこまでは断定できません。帰還者の証言には食い違いがあります。ただ、少なくとも武器の扱い、身体能力、本人が普段使用する戦い方を模倣したという記録は複数残っています」
オラクルが初めて口を開いた。
「なるほどな。強い奴ほど面倒ってことか」
「その可能性があります」
司祭が答える。
ロロットが腕を組んだ。
「自分の大剣を自分に振り回されるのか……」
「ロロットなら勝てる?」
私が聞く。
「知らねぇよ。俺が俺と戦ったことなんかない」
それもそうだった。
フランも自分の短剣を見ている。
リリィは何も言わず、鏡の図をじっと見つめていた。
私は少し考えた。
「でも、鏡を見なければいいんじゃない?」
司祭は否定しなかった。
「同じことを考えた冒険者もいます」
「成功した?」
「少なくとも、無傷で第一階を越えたという記録はありません」
胸の奥が冷えた。
司祭が次のページを開く。
そこには怪我をした人々の記録が並んでいた。
腕の裂傷。
脚の骨折。
凍傷。
魔力の枯渇。
その横には《撤退》という文字が何度も記されている。
「これまで迷宮へ挑んだ者のほとんどが、第一階で負傷し、引き返しています。教会が立ち入りを禁じている最大の理由の一つです」
「ほとんど……」
私はページを見つめた。
第一階。
まだ三階のうち一つ目だ。
それなのに、大半がそこで帰ってくる。
「じゃあ、地下二階は?」
聞いた瞬間、司祭の手が止まった。
ほんの少しだった。
でも分かった。
第一階の話をしていたときとは違う。
「記録はあります」
司祭は答えた。
「ですが、第一階とは比べものにならないほど少ない」
ページをめくる。
今まで文字で埋まっていた紙が、急に白くなった。
数行。
それだけだった。
「これだけ?」
思わず聞いてしまった。
「はい」
司祭は静かに頷く。
「地下第二階へ到達したと考えられる記録は存在します。しかし、内部がどのような場所なのかを信頼できる形で記したものは、教会にも残されていません」
「帰ってきた人は?」
「います」
少し安心した。
でも、司祭の次の言葉で、その気持ちは消えた。
「ただし、証言が一致しないのです」
「どういうこと?」
リリィが尋ねる。
「ある者は《何もない氷の洞窟だった》と言い、別の者は《声を聞いた》と記録し、また別の者は第二階について尋ねられることそのものを拒んだと残されています。負傷や衰弱によって記憶が混乱していた可能性もあるため、教会ではどの証言も事実として扱っていません」
分からない。
第一階には鏡がある。
鏡像が襲ってくる。
そこまでは分かっている。
でも地下二階へ降りた瞬間、情報がほとんどなくなる。
「じゃあ……地下三階は?」
自分でも、声が少し小さくなったのが分かった。
司祭は本を閉じなかった。
でもページもめくらなかった。
「存在するとされています」
「それだけ?」
「それだけです」
メロウの顔から、さっきまでの興奮が消えていた。
「教会にも記録がないのか?」
「地下第三階へ到達したと、我々が確実に確認できる帰還記録はありません」
部屋の空気が変わった。
私は机の上にある本を見た。
三階まである。
でも一階で、ほとんどの人が負傷して戻る。
二階からは、何があるのかさえ分からない。
そして三階へ行って帰ってきたと確実に言える人は、一人もいない。
《神の怒りを買った禁忌の場所》。
今までは少し大げさな呼び方にも聞こえていた。
でも、もうそうは思えなかった。
メリーが私の服を掴む。
『フール』
「うん」
『行くの?』
すぐには答えられなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
むしろ、話を聞く前よりずっと怖い。
でも同時に、別のことも考えていた。
地下二階から情報がほとんどない。
地下三階から帰還した記録もない。
だからこそ、グライツの記録に残っていた巨大な蛇状生物の正体について、教会にも答えがないのかもしれない。
私は司祭を見る。
「大規模凍結の記録は?」
司祭の目が僅かに動いた。
「あります」
「巨大な蛇みたいな生き物は?」
今度は、すぐに答えが返ってこなかった。
その沈黙だけで分かった。
何かある。
メロウも気づいたらしく、姿勢を正した。
「司祭殿。その記録を見せてもらえんか?」
司祭は閉じかけていた本へ手を置いたまま、しばらく考えていた。
やがて静かに立ち上がる。
「少々、お待ちください」
「あるんですか?」
私が尋ねる。
司祭は私を見た。
「断片的なものですが」
その答えに、胸が高鳴った。
でも司祭は続けた。
「ただし、その前に一つ確認させてください」
部屋の空気が再び張り詰める。
「ここまで聞いてなお、あなた方は《氷鏡の地下迷宮》へ入ることを望まれますか?」
すぐに「はい」と言いそうになった。
でも、止めた。
これは勢いで答えていい質問ではない。
私は仲間たちを見る。
フラン。
リリィ。
メリー。
オラクル。
メロウ。
ロロット。
誰も、私へ答えを押しつけなかった。
だから自分で考えた。
怖い。
一階ですら危険だ。
二階からは何があるのか分からない。
三階へ到達した人の確かな帰還記録さえない。
それでも、火山の向こう側へ進みたい。
そのためだけではない。
そこに何かがいて、本当に大規模な凍結と関係しているのなら、自分の目で確かめたい。
ただし、もう何も知らずに飛び込むつもりはなかった。
「今すぐ行くとは言いません」
私は答えた。
司祭が僅かに目を見開く。
「もっと話を聞きたいです。危ないことも、昔何があったのかも、知れることは全部知ってから決めたい。でも……」
膝の上に置いた帽子の耳を握る。
「ここまで来たから、怖いっていう理由だけで何も調べずに帰りたくはありません」
静かな部屋の中で、自分の声だけが聞こえた。
司祭はしばらく私を見ていた。
やがて、その表情からほんの少しだけ硬さが抜ける。
「分かりました。少なくとも、あなたが危険を知らずに迷宮へ入りたがっているわけではないことは理解しました」
司祭は机に置かれていた分厚い写本を閉じた。しかし席へ戻るのではなく、そのまま部屋の奥にある本棚へ向かう。
今度は上段ではなく、一番下だった。
そこには本ではなく、細長い木箱が三つ並んでいる。
司祭は中央の箱を両手で取り出し、机の空いている場所へ慎重に置いた。表面には教会の紋章が焼き付けられ、蓋の左右には細い金具が付いている。
メロウが身を乗り出した。
「それが?」
「大規模凍結に関する記録の写しです。原本ではありませんが、教会が各地から集めた報告を年代順に整理したものです」
司祭が蓋を開く。
中に入っていたのは一冊の本ではなかった。
何十枚もの紙。
薄い木板。
古い地図。
紙の大きさも色も揃っておらず、端が欠けたものまである。それらが何本もの紐で年代ごとに束ねられていた。
「全部、迷宮について?」
私が尋ねると、司祭は首を横へ振った。
「いいえ。むしろ《迷宮について書かれていない記録》のほうが多いのです」
「どういうこと?」
「当時の人々が、異常な現象の原因を迷宮だと知っていたとは限らないからです」
その言葉にメロウが大きく頷いた。
「なるほどのう。後世の人間が関連づけたわけか」
「はい。そのため教会では、原因が確定していない記録まで《迷宮で起きた出来事》として扱わないようにしています」
司祭は一つ目の束から、薄い紙を取り出した。
古い文字を写したものらしく、余白には現在の言葉による説明が書き加えられている。
「現在確認できる中で、比較的古い凍結記録の一つです。北方の集落から届けられた報告を後世に写したものとされています」
紙の端に簡単な地図が描かれていた。
スノーリアの街。
北へ延びる道。
そのさらに先に山がいくつも並んでいる。
司祭の指が、一つの印で止まった。
「この地域です」
「氷鏡の地下迷宮があるところ?」
「正確には、その周辺と考えられています。当時の地名と現在の地名が一致しないため、完全に同じ地点とは断定できません」
私は紙に目を近づけた。
「何があったんですか?」
「湖が凍結しました」
それだけなら雪国では珍しくない気がした。
でも司祭は続ける。
「夏に、です」
私は顔を上げた。
「夏?」
「はい。前日まで凍結の兆候はなく、翌朝には湖面から湖底付近まで広範囲が凍結していた、と記されています」
メロウの顔つきが変わった。
「一晩で?」
「記録を信用するならば」
「気温は?」
「周囲の川は凍っていません。作物への霜害についても記録されていないため、地域全体の急激な気温低下だったとは考えにくい、と後世の調査者は記しています」
局地的に、湖だけが凍った。
グライツで見た記録と似ている。
私がそう思ったのと同時に、リリィが口を開いた。
「その湖、今もあるんですか?」
「小さくなっていますが存在します。現在は教会が定期的に状態を確認しています」
「同じことは?」
「少なくとも近年には起きていません」
司祭はその紙を戻し、今度は別の束を開いた。
「そして、こちらはそれより後の時代です。場所はさらに北。迷宮の入口があるとされる氷山から、それほど離れていません」
今度の記録には絵があった。
上手な絵ではない。
雪山。
人。
そして、その奥に細長い何か。
私は無意識に身体を前へ寄せた。
「これ……」
巨大な蛇のように見える。
ただ、輪郭は曖昧で、頭も尻尾も雪に隠れていた。
「目撃者は三名」
司祭が説明する。
「吹雪が一時的に止んだ直後、山の斜面を《白く長いもの》が移動したと証言しています。三名は同じ隊に所属していましたので、完全に独立した三件の証言とは扱えません」
メロウが絵へ顔を近づける。
「大きさは?」
「正確には分かりません。距離も測定されていません。ただ、記録者は《人間より遥かに長い》と残しています」
「魔物の可能性は?」
「当然あります」
司祭は即答した。
「吹雪の中で見た別の生物を誤認した可能性もあります。だから教会も、この記録だけを根拠に巨大な蛇が実在すると断定してはいません」
私は少しだけ驚いた。
もっと《神の使い》とか《呪われた怪物》のように説明されると思っていた。
でも司祭は、分からないものを分からないまま話している。
オラクルが私のほうを見た。
たぶん同じことを感じたのだと思う。
「他にもあるんですか?」
「あります」
三つ目の記録。
今度は凍結だった。
迷宮のある山域から流れ出す水が、ある地点を境に突然凍り、その状態が数日間続いたというもの。
四つ目。
夜間、氷山の一部が青白く発光したという旅人の証言。
五つ目。
雪崩のあとに巨大な蛇が這ったような痕跡が見つかったという記録。ただし翌日の吹雪で痕跡は失われ、確認できなかった。
一つだけなら、偶然かもしれない。
見間違いかもしれない。
昔の人が大げさに書いたのかもしれない。
でも、年代の違う記録が何枚もある。
場所も完全には同じではない。
それでも全部が、迷宮のある北方の氷山周辺へ集まっている。
「グライツと同じだ……」
思わず呟いた。
司祭が私を見る。
「何がです?」
「私たちが大図書館で見つけた記録です。書いてあることが全部同じだったわけじゃない。でも、違う年代に大きな凍結が起きてて、巨大な蛇みたいな生き物を見たっていう話もあった」
メロウも頷いた。
「出所の違う記録が、同じ地域と似た現象を示しとる。これで何かの存在を断定することはできんが、調べる価値はさらに高くなったのう」
胸が高鳴る。
やっぱり何かある。
そう言いたくなった。
でも、私は一度口を閉じた。
《似ている》と《同じ》は違う。
石橋の異変を調べたときにも学んだことだった。
「巨大な蛇がいるって決まったわけじゃないんですよね」
自分から言う。
司祭は静かに頷いた。
「その通りです」
少し嬉しかった。
前なら、ここまで記録が揃った時点で「絶対いる!」と言っていたかもしれない。
「でも、もっと調べたいです」
「それも理解できます」
司祭は資料を一枚ずつ木箱へ戻していった。
最後の紙を収めると、蓋を閉じる。
「だからこそ、教会は迷宮を封じています」
私は意味が分からず、司祭を見た。
「危険だから?」
「それもあります。しかし、それだけではありません」
司祭は最初に見せた迷宮帰還者の写本へ手を置いた。
「我々が恐れているのは、未知のものが存在することではありません。未知であるにもかかわらず、《価値ある何かがある》と考えた人々が、何度も命を危険に晒してきたことです」
地下第一階。
鏡に映る自分。
自分と同じように戦う鏡像。
そこで負傷して帰ってきた冒険者たち。
地下第二階から急激に途絶える記録。
そして、地下第三階から戻ったと確実に確認できる者はいない。
「過去には?」
フランが尋ねた。
「教会が止めても入った人がいるんですか?」
「います。迷宮が現在のように厳重に封じられる以前の話ですが」
司祭の声に、僅かな重さが加わった。
「名誉を求めた者。財宝を求めた者。未知を研究したかった者。家族を救う力があると信じた者……理由は様々でした。しかし、第一階で傷ついて戻った者の中にも、その後再び迷宮へ向かった者がいます」
「その人たちは?」
誰も答えを急かさなかった。
司祭の沈黙そのものが、答えの一部だったからだ。
「帰還が確認されなかった者も少なくありません」
メリーが私の肩へ寄った。
私は小さな身体へ手を添える。
司祭は続けた。
「それが、《神の怒り》という言葉だけでは説明できない、我々が迷宮を閉ざしている現実的な理由です」
やっと分かった。
昔の伝承だけで閉じているわけではない。
実際に人が傷ついた。
戻らなかった人もいる。
だから鍵を守っている。
私は机の上へ視線を落とした。
まだ《聖なる白銀の鍵》そのものは見ていない。
でも、その鍵が急に重いものに感じられた。
「それでも」
司祭の声がした。
顔を上げる。
「あなた方は、迷宮へ行く可能性を捨てないのでしょう?」
私は仲間たちを見た。
フランは静かにこちらを見返している。
リリィも同じだった。
メロウの顔から、いつもの軽い笑みは消えている。
ロロットは腕を組みながらも何も言わず、オラクルは私が自分で答えるのを待っている。
私だけで決めることではない。
でも、私の気持ちは決まっていた。
「はい」
今度は、勢いではなかった。
「怖いです。地下一階の話を聞いただけでも怖いし、地下二階から何があるか分からないのはもっと怖いです」
言葉にすると、本当に怖くなった。
それでも続ける。
「でも、私たちは火山で一回止まりました。無理に進んだら危ないって分かったから戻って、どうすれば進めるのかを調べて、ここまで来たんです。だから今度も、何も考えずに地下へ飛び込むつもりはありません」
私は司祭を真っ直ぐ見た。
「教えてもらえることを全部聞いて、準備できることをして、それでも無理だと思ったら戻ります。でも、まだ何も確かめてないのに諦めたくはないです」
司祭は長いあいだ何も言わなかった。
暖炉の中で薪が小さく弾ける。
窓の外では細かな雪が降り始め、中庭に立つ大きな木の枝へ白いものが積もっていく。
やがて司祭は、小さく息を吐いた。
「あなたは、思っていたより慎重な方なのですね」
「最近よく言われます」
オラクルが鼻で笑った。
「昔を知らねえから言えるんだ」
「今いいところだったのに!」
ロロットが吹き出し、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
司祭の口元にも僅かな笑みが浮かぶ。
しかし、それはすぐに消えた。
「分かりました」
司祭が立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう」
「え?」
思わず声が出た。
「鍵は?」
言ったあとで固まった。
全員の視線が集まる。
しまった。
オラクルが額を押さえた。
「最後まで我慢できねえのか、お前は」
「だって今終わるって!」
「だからって一番最初に戻るな!」
ロロットまで笑っている。
私は恥ずかしくなって帽子の長い耳で顔を隠した。
「ごめんなさい……」
司祭は怒らなかった。
むしろ、初めて少し楽しそうに笑った。
「《聖なる白銀の鍵》については、明日改めてお話ししましょう」
私は帽子の隙間から顔を出した。
「明日?」
「はい。あなた方の事情は理解しました。しかし、あの鍵をお渡しするかどうかを、私一人の判断で今すぐ決めることはできません」
当然だった。
この国が長いあいだ守ってきたものなのだから。
「明日までに、教会側でも確認すべきことがあります。それまではスノーリアで身体を休め、迷宮へ入ることになった場合に必要な準備について考えておいてください」
「分かりました」
今度は素直に頷いた。
司祭が木箱を抱え、本棚へ戻していく。
私はその背中を見ながら、今日聞いたことをもう一度頭の中で整理した。
地下三階まで存在する《氷鏡の地下迷宮》。
地下第一階は、無数の氷鏡に囲まれた場所。
鏡に映った自分自身が現れ、本人と似た戦い方で襲ってくる。
これまで挑んだ者のほとんどが、そこで傷を負って引き返している。
地下第二階からは、記録そのものがほとんどない。
証言も一致せず、何があるのか教会にも分からない。
そして地下第三階へ到達し、無事に帰ってきたと確実に確認できる記録は一つもない。
その一方で、年代の違う大規模凍結と、巨大な蛇状生物らしきものの目撃記録は確かに存在している。
答えへ近づいたはずなのに、分からないことは前より増えていた。
でも、それでいい。
知らないことが分かった。
それだけでも、昨日までとは違う。
部屋を出る直前、私は司祭を振り返った。
「今日はありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、きちんと話を聞いてくださってありがとうございます」
「明日、また来ます」
「お待ちしています」
扉が開く。
廊下の向こうから、礼拝堂を満たす淡い光が差し込んできた。
私は《キジトラウサギ》の帽子を被り直し、仲間たちと一緒に歩き出した。
教会へ来る前の私は、《聖なる白銀の鍵》さえ借りられれば地下迷宮へ行けると思っていた。
今は違う。
鍵は、ただ扉を開けるための道具ではない。
あの扉の向こうへ入っていった人たちの多くが地下第一階で傷つき、それでも先へ進んだ人たちの記録は、地下第二階から急激に少なくなる。そして地下第三階まで辿り着き、無事に戻ってきたと確実に確認できる記録は一つもない。
教会は、それを知っているから扉を閉ざした。
何も知らないから怖がっているのではなく、戻ってこなかった人たちを知っているから、次の誰かを簡単には送り出さない。
そのための鍵なのだ。
私は歩きながら、さっき司祭に見せてもらった記録を思い返していた。
夏にもかかわらず、一晩で凍りついた湖。
迷宮のある氷山付近で目撃された《白く長いもの》。
突然凍結した水。
吹雪の合間に見えた巨大な蛇のような影。
どれも、それだけでは何かを証明できない。
それでも、グライツで見つけた記録と、この土地で何百年も保管されてきた記録が、まったく違う場所から同じ北の氷山を指している。
そこには何かがある。
そう思う気持ちは、教会へ入る前より強くなっていた。
同時に、怖さもずっと大きくなっている。
不思議だった。
「フール」
隣を歩いていたフランに呼ばれた。
「何?」
「静かだから」
「考えてた」
「迷宮のこと?」
私は頷いた。
「行きたいっていう気持ちは変わってない。でも、さっきより怖くなった」
自分で口にすると、少し情けない気もした。
ところがフランは笑わなかった。
「俺もだよ」
「フランも?」
「地下二階から何があるか分からないんでしょ? 怖くないほうがおかしいよ」
その少し前を歩いていたリリィも振り返った。
「私は地下第一階から嫌だけどね。自分と同じ動きをする相手より、目印が信用できないって話のほうが嫌」
「そこなんだ」
「追跡する側からしたら大問題だよ。付けた目印まで信用できないなら、普通の迷宮とは考え方を変えないといけない」
もう攻略するつもりで考え始めている。
私は少し笑った。
「リリィも行く気?」
「フールたちだけで行かせるほうが心配」
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味」
後ろからオラクルの声が飛んできた。
「お前が先頭で突っ込む前提なんだろ」
「突っ込まないよ!」
「今日、司祭の前で最後まで鍵の話我慢できなかった奴が何言ってんだ」
「それとこれとは別!」
『フール、我慢できなかった!』
肩にいたメリーまで楽しそうに言う。
「メリーは私の味方でしょ!」
『味方だけど、本当のこと!』
反論できない。
さっきまで胸の中に残っていた重さが、少しだけ軽くなった。
でも、メロウだけは会話へ入ってこなかった。
珍しい。
振り返ると、鳥の顔が付いた杖を突きながら、何か考えるように歩いている。
「メロウさん?」
「……地下二階じゃ」
「え?」
メロウは足を止めなかった。
「第一階については記録がある。危険ではあるが、何が起きるか分かっとる。だが第二階から記録の性質そのものが変わった。証言が少ないだけではなく、内容まで一致せん」
「何もない氷の洞窟だったって人と、声を聞いたって人がいたんだよね」
「そうじゃ。そして地下三階からは、確実な帰還記録そのものがない」
メロウはそこで初めて私を見た。
いつものように珍しいものを見つけて喜んでいる顔ではなかった。
「面白い。じゃが、面白いからこそ慎重に行かねばならん。分からんものを、分かったつもりで進むのが一番危険じゃ」
その言葉は、ずっと私たちが旅の中で覚えてきたことと同じだった。
私は頷いた。
「じゃあ、明日までに考えよう」
「何をじゃ?」
「地下第一階で分かってることを全部整理するの。鏡を見ない方法とか、影が出たときどうするかとか、帰る道をどう残すかとか」
リリィがすぐに頷いた。
「それはやったほうがいいね。教会に、過去の挑戦者が試した方法をもう少し聞けるかもしれない」
フランも腰の短剣へ手を添える。
「鏡像が武器まで真似するなら、戦うことになったときの役割も考えたい。自分の影と自分で戦う必要があるとも限らないし」
「なるほど」
自分と同じ相手なら、別の仲間が戦ったほうが相性がいい可能性もある。
少しずつ、怖いだけだった地下第一階が《考えなければならない場所》へ変わっていく。
オラクルがため息をついた。
「お前ら、まだ鍵借りられるって決まってねえからな」
全員が止まった。
忘れていた。
「そうだった……」
「完全に行く気になってたね」
リリィが苦笑する。
「準備するだけならいいだろ。ただし、明日断られても勝手な真似はするなよ」
オラクルの視線が私へ向く。
「何で私だけ見るの?」
「爺さんと二択だ」
今度はメロウを見る。
「わしも!?」
「二人とも《ちょっと見るだけ》が信用できねえ」
「私は言ってないよ!」
「顔が言う」
昨日も聞いた気がする。
ロロットが隣で声を上げて笑った。
そのまま私たちは礼拝堂へ戻った。
朝とは違い、色硝子から差し込む光の角度が少し変わっている。青と金の光が長い床を横切り、その中を雪のような細かな埃がゆっくり舞っていた。
出口へ向かう途中、私は一度だけ祭壇の奥を振り返った。
《聖なる白銀の鍵》がどこにあるのかは分からない。
今日、実物を見ることもなかった。
それでよかったのだと思う。
もし最初から鍵だけ見せられていたら、私はきっと《あれさえあれば迷宮へ行ける》としか考えなかった。
でも今は違う。
あの鍵を使うということは、地下第一階の鏡を越え、その先にある何も分からない場所へ自分たちの意思で足を踏み入れるということだ。
「フール?」
メリーに呼ばれ、前を見る。
仲間たちはもう扉の近くまで進んでいた。
「今行く!」
私は駆け出しかけて、すぐ歩く速度へ戻した。
リリィがこちらを見ている。
「走ってないよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
「それオラクルのやつでしょ」
二人で笑いながら、大教会の外へ出た。
扉が開いた瞬間、冷たい空気が頬へ触れる。
朝から降り始めた雪は少し強くなっていた。
石段の向こうに広がる白い街は、来たときより輪郭が柔らかくなり、遠くの建物は薄い雪の幕へ霞み始めている。
私は帽子を被り直した。
二本の長い耳にも、すぐ小さな雪が積もった。
明日。
もう一度、この教会へ来る。
そこで《聖なる白銀の鍵》を託してもらえるのか、それとも断られるのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ、教会へ来る前とは違うことがある。
私はもう、《氷鏡の地下迷宮》をただの目的地だとは思っていなかった。
地下第一階には、自分自身を映して襲いかかる無数の鏡。
地下第二階からは、記録さえ頼りにならない未知の領域。
そして地下第三階には、戻った者の確かな記録すらない。
そのさらに奥に、本当に私たちが探しているものがあるのかも分からない。
それでも、年代も場所も違う記録の中で、何度も同じ北の氷山が指し示されていた。
異常な凍結。
白く長い影。
巨大な蛇を思わせる痕跡。
偶然なのかもしれない。
だからこそ、自分たちの目で確かめたい。
ただし、今度は何も知らずに飛び込まない。
怖さも、危険も、帰ってこなかった人たちがいることも知ったうえで、それでも進める方法を探す。
私は降り続ける雪の向こうにそびえる大教会を振り返った。
明日、あの扉の向こうで何を告げられるのかは分からない。
そしてこのときの私はまだ知らなかった。
《聖なる白銀の鍵》を借りられるかどうかという問題より先に、この白い街そのものを巻き込む異変が、すでに静かに動き始めていたことを。




