第183話 雪の教会
次の日、目を覚まして窓を開けた私は、昨日とはまるで違う街を見ているような気がした。
夜のあいだに雪が降ったらしく、向かいの建物も、道沿いに並ぶ低い石塀も、昨日より一段厚い白に覆われている。まだ朝早いというのに大通りでは何人もの住民が動き始めており、店先に積もった雪を幅の広い木板で押し退ける人もいれば、屋根から垂れた長い氷柱を棒で落としている人もいた。
雪を退けたばかりの道を、一台の橇が滑っていく。
荷台には木箱が積まれ、それを白い毛に覆われた大きな獣が引いていた。家々の煙突からは細い煙が空へ伸び、どこかで朝食を作っているのか、冷たい空気の中へ焼いたパンとスープの匂いが微かに混じっている。
昨日は初めて見るものばかりで気づかなかった。
この国では、雪は綺麗な景色というだけではない。
毎朝退かさなければ道を塞ぎ、荷車の形を変え、服や靴を変え、それでも人々は当たり前のように暮らしている。
「本当に雪の国なんだ……」
小さく呟いてから顔を上げる。
白い街並みの向こうには、昨日国境の外からも見えていた巨大な教会の尖塔がそびえていた。
朝日を受けた白い壁は周囲の雪と溶け合い、尖塔の先端に掲げられた銀色の十字だけが、青い空の中で強く輝いている。
今日、あそこへ行く。
そう思った瞬間、昨日までは綺麗だとしか感じなかった建物が、少しだけ遠い場所に見えた。
「フール、窓開けっぱなしにしないで。寒いよ」
後ろからリリィに言われ、慌てて窓を閉める。
「ごめん。教会見てた」
「緊張してる?」
「……ちょっと」
正直に答えると、リリィは笑わなかった。
「私も少ししてるよ」
「リリィも?」
「知らない国で、その国の人たちがずっと守ってきた場所について聞くんだから、普通でしょ」
言われてみればそうだった。
私たちにとって《氷鏡の地下迷宮》は、火山の奥へ進むための手掛かりがあるかもしれない場所だ。でも、スノーリアで暮らしている人たちにとっては違う。
ロロットから聞いた《神の怒りを買った禁忌の場所》という言葉を思い出す。
その理由を、私たちはまだ知らない。
「だから最初から鍵の話しちゃ駄目なんだよね」
「そう。昨日みんなで決めたでしょ」
「覚えてるよ」
「本当に?」
「……たぶん」
リリィが少しだけ笑った。
「もし危なくなったら止めるから大丈夫」
「ありがとう」
私はベッドの上に置いていた《キジトラウサギ》の防寒帽子を被り、鏡を見ながら二本の長い耳を整えた。
昨日までは少し恥ずかしかったけれど、スノーリアまで来てしまえば似た意匠は珍しくない。むしろ朝の寒さを経験すると、耳まで覆ってくれるこの帽子がありがたかった。
その横では、メリーが自分用の防寒着と格闘している。
『フール、入らない』
「そこ袖だよ」
『昨日は入った!』
「昨日とは反対から着ようとしてるからだよ」
『じゃあこっち?』
「それも袖」
『袖いっぱいある!』
「二つしかないよ!」
私が手伝おうとすると、先にフランが笑いながらメリーを持ち上げた。
「メリー、こっちが頭だよ」
『分かってる!』
「分かってたら顔が袖から出ないと思う」
『これは途中なの!』
朝から騒がしい。
でも、そのくらいがちょうどよかった。
教会のことだけを考えていたら、宿を出る前から緊張で疲れてしまいそうだった。
一階へ下りると、オラクルとメロウ、ロロットはすでに朝食の席についていた。
テーブルには温かいスープと黒いパン、それに焼いた肉と根菜が並んでいる。その隣には一枚の紙が広げられ、《氷鏡の地下迷宮》《永久凍土の氷門》《聖なる白銀の鍵》《教会》《禁忌》という言葉が書かれていた。
嫌な予感がする。
「食いながら最後の確認するぞ」
オラクルが紙を指で叩いた。
「朝から?」
「昨日分かったって言った直後に忘れる奴がいるからな」
「誰?」
「お前」
即答だった。
「今日は忘れてないよ!」
「なら言ってみろ。教会へ行ったら最初に何を聞く?」
私はスープを一口飲み、指を一本立てた。
「《氷鏡の地下迷宮》が、どうして禁忌になってるのか」
二本目。
「教会に昔の記録が残ってるか。大規模凍結と、巨大な蛇みたいな生き物についても聞く」
三本目。
「それから、私たちが火山へ行ったことを話す。奥で溶岩の川に道を塞がれて、向こう側へ進むにはものすごく強い氷の力が必要だって分かったことも説明する」
「その次は?」
「必要なら、私たちが何を探してるのかもう少し詳しく話す。でも《幻獣種召喚の本》は最初から見せない」
オラクルが頷く。
「最後は?」
「話を聞いて、それでも地下迷宮へ行く必要があるってなったら、《聖なる白銀の鍵》を貸してもらえないかお願いする」
「よし」
合格したらしい。
ロロットがパンを食べながら感心したように私を見る。
「昨日よりちゃんとしてるな」
「昨日もちゃんとしてたよ!」
「昨日は『教会へ行って鍵借りればいいんだね』って言ってたぞ」
「最初だけ!」
「十分だろ」
反論できなかった。
その横でメロウが紙へ顔を近づける。
「わしは教会に残っとる古文書を調べたいのう。迷宮がいつから封じられたのか、白銀の鍵がいつ作られたのか、それに――」
「勝手に見ないでね」
リリィが先に言った。
「まだ何もしておらん!」
「する前に言ったの」
「わしは考古学者じゃぞ!」
「だから心配なんだよ」
私が言うと、メロウがものすごく不満そうな顔をした。
ロロットまで笑っている。
「教会の保管庫へ勝手に入ったら、本当に捕まるぞ」
「入らんわ!」
「鍵も勝手に触らないでね」
「フールまで!」
「だってメロウさん、珍しい物見るとすぐ近づくじゃん」
「観察じゃ!」
「近いんだよ、観察が」
オラクルの一言で、みんなが笑った。
朝食を終えて宿を出ると、街はすでに本格的に動き始めていた。
雪を退けられた大通りには何台もの橇が行き交い、店先には厚い毛皮、雪靴、氷を削る金具、小型の暖炉などが並んでいる。乾燥させた魚を吊るした店の隣では湯気を上げるスープが売られ、そのさらに先にはキジトラウサギを模した人形や飾りが何十個も並べられていた。
「本当にいっぱいある」
思わず立ち止まる。
私の頭にも同じような長い耳が二本付いている。
ロロットが嫌そうな顔をした。
「だから観光客向けだって言っただろ」
「かわいいじゃん」
「自分と同じ耳の人形が何十個も吊られてるところ想像してみろ」
想像してみた。
赤いツインテールの人形が、店先にずらりと吊られている。
「……ちょっと嫌かも」
「だろ?」
ようやくロロットの気持ちが分かった。
『私は欲しい!』
メリーが人形へ近づこうとする。
オラクルがすぐ止めた。
「買わねえぞ」
『まだ値段見てない!』
「見るな」
『見るだけ!』
「その言葉、昨日何回聞いたと思ってんだ」
私は黙って前を向いた。
「フール、お前もだぞ」
「何も言ってないよ!」
「顔が買う側だった」
どうして分かるのだろう。
教会へ向かって歩き始めると、ロロットは何度も住民から声を掛けられた。
「ロロットじゃないか!」
「いつ帰ってきたんだ!」
「随分見なかったな!」
そして四人目くらいで、とうとう恐れていた言葉が飛んできた。
「お前の母ちゃん、昨日から探してたぞ!」
ロロットの長い耳が、ゆっくりと伏せられた。
「……昨日から?」
「外門から連絡が行ったんじゃない?」
リリィが言う。
私はロロットを見る。
「昨日、家帰らなかったの?」
「遅かったし、お前らと今日のことも話したかったから……」
「家、遠い?」
「近い」
「帰ればよかったじゃん!」
「分かってる!」
昨日、倒木を大剣で退かした人と同じとは思えない。
メリーが心配そうにロロットの横へ飛ぶ。
『怒られる?』
「たぶん」
『私も行こうか?』
「何で?」
『一緒に謝る』
「お前は何も悪くないだろ!」
「じゃあ私も――」
「フールも来なくていい!」
断られた。
フランが笑う。
「教会のあと、ちゃんと帰ったほうがいいね」
「分かってるって……」
ロロットの耳はしばらく戻らなかった。
そんなやり取りをしながら大通りを抜けると、街の雰囲気が少しずつ変わっていった。
商店が減り、代わりに雪を被った背の高い木々が増える。建物同士の間隔も広くなり、その中央を真っ直ぐ伸びる石段の上に、巨大な教会が姿を現した。
私は自然と足を止めた。
遠くから見ていたものとは、全然違う。
白い石造りの建物は中央の礼拝堂を中心に左右へ大きく広がり、何本もの細い柱が高い屋根を支えている。尖塔は空へ突き刺さるほど高く、その先端では銀色の十字が朝日を反射していた。
石段の両側には、翼を広げた人の像が一定の間隔で並んでいる。
不思議なのは、その足元だった。
そこだけ雪が積もっていない。
青白い小さな花が、凍りついたような大地から何輪も咲いている。
「花……?」
こんな寒い場所なのに。
私が近づこうとした瞬間、メロウが先にしゃがみ込んだ。
「ほう……これは興味深い」
「メロウさん」
「触らん!」
「まだ何も言ってないよ」
「どうせ言うじゃろ!」
その通りだった。
ロロットが花を見下ろす。
「《聖雪花》だ。教会の周りでは一年中咲いてる」
「他の場所には?」
「ほとんどない」
「なぜじゃ!?」
メロウの目が一気に輝く。
「知らないって。俺は花の研究者じゃない」
「土壌か? 地下水か? それとも教会から流れる魔力が――」
「今日は花調べに来たんじゃねえぞ」
オラクルに言われ、メロウが名残惜しそうに立ち上がった。
私たちは石段を上り始めた。
一段。
また一段。
教会へ近づくほど、街の音が遠くなる。
雪を踏む靴の音と、どこか高い場所で鳴っている鐘の音だけが聞こえていた。
さっきまで笑っていたのに、自然と会話が減っていく。
私は歩きながら、頭の中でもう一度順番を確認した。
禁忌の理由。
昔の記録。
大規模凍結。
巨大な蛇。
火山。
白銀の鍵は最後。
「フール」
隣を歩くフランに呼ばれた。
「何?」
「口動いてるよ」
「えっ」
無意識に声へ出していたらしい。
フランが少し笑う。
「緊張してる?」
「……うん」
今度は隠さなかった。
「もし最初から話を聞いてくれなかったらどうしようって考えてた」
「そのとき考えればいいよ」
フランは迷わず答えた。
「火山でも同じだったでしょ。溶岩の川を越えられないって分かったから、別の方法を探してここまで来た。教会で断られたら、そこでまた次を考えればいい」
「フランも緊張してる?」
「してるよ。知らない国で、その国の禁忌へ行きたいって話をするんだから」
その言葉で少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ一緒だね」
「うん」
石段を上り切った。
目の前には、私の何倍もの高さがある白い両開きの扉が立っていた。中央には雪の結晶を囲む銀色の十字が刻まれ、その前には白と銀の法衣を身にまとった若い女性がいる。
女性はロロットを見つけた瞬間、驚いたように目を見開いた。
「ロロット?」
「久しぶり」
「本当に帰ってきたのですね。昨日、外門から連絡がありました」
「情報回るの早すぎない?」
「あなたの場合は特にです」
またロロットの耳が伏せた。
女性は少しだけ笑ったあと、私たちへ視線を移す。
「こちらの方々は?」
「北方街道で会った冒険者たちだ。教会に聞きたいことがあるらしい」
女性の表情がわずかに引き締まった。
「どのようなご用件でしょう?」
来た。
私はオラクルを見る。
オラクルは何も言わず、小さく顎を動かした。
自分で話せということだ。
私は帽子の耳を一度だけ押さえ、女性を見上げた。
「私、フールです。聞きたいことがあって来ました」
「どのようなことでしょう?」
鍵ではない。
順番。
大丈夫。
私は一度だけ深く息を吸った。
「《氷鏡の地下迷宮》についてです」
その名前を口にした瞬間、女性の穏やかな表情から笑みが消えた。
怒ったわけではない。
でも、《氷鏡の地下迷宮》という名前を聞いた瞬間、それまでロロットとの再会を穏やかに受け止めていた女性の目から、はっきりと柔らかさが消えた。
私だけではなく、後ろにいる全員を確かめるように視線を動かしたあと、女性はロロットを見た。
「あなたが、この方々に話したのですか?」
「入口と鍵のことだけだ。迷宮の中については俺も知らないし、知ってるふりもしてない」
ロロットもふざけなかった。
さっきまで母親に怒られることを気にしていた人と同じとは思えないくらい、真剣な声だった。
女性はしばらくロロットを見つめ、それから私へ向き直った。
「フール様、とおっしゃいましたね」
「はい」
「どなたから《氷鏡の地下迷宮》の存在を知ったのかは、今のロロットの言葉で理解しました。ただ、最初にお伝えしておかなければならないことがあります」
女性は言葉を選ぶように一度間を置いた。
「《氷鏡の地下迷宮》への立ち入りは、スノーリア聖国の教会によって固く禁じられています。冒険者による探索はもちろん、研究や宝物の回収を目的とする場合であっても、原則として許可されません」
隣でメロウが僅かに反応した。
たぶん《研究》という言葉に引っ掛かったのだろう。
でも、何も言わなかった。
私もすぐに《白銀の鍵》の話をしそうになって、昨日から何度も確認した順番を思い出した。
まだだ。
まず、話を聞く。
「観光とか、宝物が欲しくて行きたいわけじゃないんです」
「では、なぜ迷宮を?」
私は一度オラクルを見た。
オラクルは止めなかった。
だから、火山で起きたことを最初から説明した。
幻獣種についてはまだ伏せる。
メロウと一緒に火山地帯へ向かったこと。危険な道を進み、地下へ続く場所を調査したこと。その奥で、巨大な溶岩の川に行く手を塞がれたこと。
「向こう側に、まだ道があったんです」
話しているうちに、あの光景が頭へ戻ってきた。
赤く煮えたぎる溶岩。
熱で揺らぐ空気。
確かに見えているのに、どうしても届かなかった向こう岸。
「渡ろうとしたのですか?」
女性の声が少し強くなった。
「してません」
私はすぐ答えた。
「危ないって分かったから、一度戻りました。それから、どうすれば安全に向こうへ行けるか考えたんです」
女性の表情がほんの少しだけ和らいだ。
「それで、氷なのですね」
「はい。あの溶岩を凍らせられるくらい強い氷の力があれば、進めるかもしれないって」
そこでメロウが初めて会話へ入った。
「グライツで確認できた古い記録も調べ直した。複数の年代において、このスノーリア北方で通常では説明のつかん大規模凍結が発生しておる。さらに、その周辺では巨大な蛇状生物を見たという記録が複数残されておった」
さっきまで《聖雪花》へ夢中だった人とは思えないほど落ち着いた声だった。
「記録が集中しとるのが、《氷鏡の地下迷宮》周辺じゃ」
女性はメロウを見る。
「あなたは研究者なのですか?」
「考古学者のメロウじゃ」
鳥の顔が付いた杖を少し持ち上げる。
今回は格好をつけるだけで、勝手に何かへ触ろうとはしなかった。
「わしらも、古い噂だけを頼りに禁足地へ踏み込もうというつもりはない。だからこそ、まず現地で長く記録を守ってきた教会の話を聞きたい」
女性は黙った。
私たちの話を疑っているのか、それとも何を答えるべきか考えているのかは分からない。
ただ、《迷宮へ入れてください》と言ったときよりは、こちらの話を聞いてくれているように感じた。
私は勇気を出して、もう一つ尋ねた。
「ロロットから、あそこは《神の怒りを買った禁忌の場所》だって聞きました」
ロロットの耳が僅かに動く。
「でも、それだけじゃ分からないんです。昔、本当に何かあったんですか? 教会には、そのときの記録が残ってるんですか?」
今度こそ、女性は長く黙った。
風が石段を吹き抜け、私の帽子の長い耳を揺らす。
教会の鐘が一度だけ鳴った。
低く澄んだ音が白い街へ広がり、やがて雪の中へ消えていく。
女性はその音が完全に聞こえなくなってから、静かに口を開いた。
「……ここでお話しできる内容ではありません」
胸の奥が沈んだ。
やっぱり駄目なのか。
そう思った私の前で、女性は巨大な扉へ手を掛けた。
「中へどうぞ」
「え?」
思わず顔を上げる。
「入っていいんですか?」
「迷宮へ、ではありません」
女性の口元に、ほんの少しだけ笑みが戻った。
「大教会へです。あなた方が単なる好奇心で禁忌へ近づこうとしているのではないことは分かりました。ですが、私の判断だけでお話しできる内容でもありません」
「じゃあ……」
「司祭様へお話を通します」
よかった。
まだ何も解決していないのに、身体から少しだけ力が抜けた。
「ありがとうございます!」
思わず頭を下げる。
女性は私の反応に少し驚いたようだった。
「まだ、許可が出たわけではありませんよ」
「分かってます。でも、話を聞いてもらえるから」
女性は何も言わなかったけれど、今度ははっきりと微笑んだ。
巨大な扉が、ゆっくりと開き始める。
低く重い音とともに左右へ動く白い扉の隙間から、外とはまるで違う暖かな空気が流れてきた。
その向こうに現れた光景を見て、私は思わず息を呑んだ。
「……すごい」
まず目に入ったのは、高さだった。
礼拝堂の天井は、外から想像していたより遥かに高い。何本もの白い柱が真っ直ぐ上へ伸び、頭上で複雑な弧を描きながら繋がっている。その表面には雪の結晶や植物を思わせる銀細工が刻まれ、壁際に並んだ青白い魔法灯の光を受けて静かに輝いていた。
床も白い石だった。
外の雪より僅かに青みがあり、磨き上げられた表面には柱や魔法灯が淡く映り込んでいる。
正面の奥には大きな祭壇があり、その背後には巨大な色硝子の窓が壁一面を埋めていた。
描かれているのは、一面の雪山。
その上空から白銀の光を注ぐ、長い衣をまとった人物。
朝日が色硝子を通り抜け、青や金、淡い赤となって礼拝堂の床へ降り注いでいる。
外から入ったばかりだからか、暖かさが余計に強く感じられた。
『フール……』
メリーが私の肩へ近づく。
『きれい』
「うん」
私もそれしか言えなかった。
教会という場所は今までにも見たことがある。
でも、ここは違う。
大きいからでも、豪華だからでもない。
何百年もの時間が、そのまま建物の中へ積み重なっているような感じがした。
人々が祈り、記録を残し、何かを守り続けてきた場所。
そう考えたとき、ふと背筋が冷えた。
この教会のどこかに、《聖なる白銀の鍵》がある。
北の氷山にある《永久凍土の氷門》を開ける、たった一つの鍵。
それを、この人たちは何百年も守ってきたのかもしれない。
だったら、私たちが来てすぐに「貸してください」と頼んだところで、簡単に渡してくれるはずがない。
ようやく、その重さが少しだけ分かった気がした。
「フール」
オラクルに呼ばれた。
「何?」
「突っ立ってると邪魔になるぞ」
「あ、ごめん」
慌てて進む。
そのとき、隣からメロウの声が聞こえた。
「……これは古いのう」
振り返ると、メロウは一本の柱を見上げていた。
「何が?」
「建築様式じゃ。外壁は何度か修復されとるようじゃが、内部の柱は相当に古い。全部ではないが、少なくとも――」
「触らないでね」
「触っとらん!」
両手を上げた。
本当に何も触っていない。
「ごめん」
「信用がなさすぎるぞ!」
ロロットが笑う。
「今まで何したんだ、爺さん」
「研究しただけじゃ!」
「それが怖いんだよ」
リリィまで加わる。
さっきまで緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
でも、その笑い声も礼拝堂では自然と小さくなる。
何人かの人が長椅子へ座り、祭壇へ向かって静かに祈っていたからだ。
小さな子供もいる。
老人もいる。
仕事へ向かう途中なのか、厚い外套を着たまま座っている人もいた。
私はその光景を見ながら、もう一度考えた。
この人たちにとって、この教会は《鍵がある場所》ではない。
毎日の暮らしの中にある、大切な場所なのだ。
私たちの目的だけを押しつけてはいけない。
案内してくれた女性は礼拝堂を横切り、祭壇の右側にある通路へ入った。
私たちも続く。
通路は礼拝堂より暗く、窓も小さい。壁には歴代の聖職者らしい人物の肖像画や、古い雪景色を描いた絵が並んでいた。
途中ですれ違う人の中には、ロロットを知っている人も多かった。
「あら、ロロット?」
「帰ってきていたのですか?」
「お母様にはもう?」
三人目で、ロロットの耳が完全に伏せた。
「まだ……」
「早くお顔を見せてあげなさい」
「はい……」
さっきまで私たちを案内していた冒険家が、どんどん小さくなっていく。
私は笑わないよう我慢した。
ロロットがこちらを見る。
「笑いたいなら笑え」
「我慢してる」
「余計腹立つ!」
メリーが肩の上で小さく震えていた。
絶対に笑っている。
やがて女性は、一つの木製の扉の前で止まった。
礼拝堂の巨大な扉とは違い、飾りの少ない落ち着いた扉だった。
「こちらでお待ちください。司祭様をお呼びいたします」
「ありがとうございます」
中へ入る。
部屋の中央には長い木製の机と椅子が並び、壁際には本棚があった。窓からは教会の中庭が見え、その中央には雪を被った一本の大きな木が立っている。
メロウの目が本棚へ向いた。
一歩。
リリィが無言でローブを掴んだ。
「まだ何もしておらん!」
「先に止めたの」
「背表紙を見るだけじゃ!」
「許可もらってから」
「本棚があるのに見るなというほうが酷じゃ!」
オラクルが椅子へ座りながら呆れたように言う。
「爺さん、今から大事な話すんだぞ。追い出されたいのか?」
メロウが止まった。
「……座る」
素直だった。
私も椅子へ腰掛け、《キジトラウサギ》の帽子を脱いで膝へ置いた。
二本の長い耳が机の端から垂れる。
ここまで来た。
でも、本当に重要なのはここからだ。
私たちは《氷鏡の地下迷宮》について、ほとんど何も知らない。
教会はなぜ迷宮を閉ざしたのか。
《神の怒り》とは何なのか。
過去に誰が入り、何が起きたのか。
地下には何があるのか。
そして、なぜ《聖なる白銀の鍵》を今も守り続けているのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
でも、全部一度に聞く必要はない。
まず相手の話を聞く。
私は膝の上で帽子の長い耳を握った。
しばらくして、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
一人ではない。
案内してくれた女性のものとは違う、ゆっくりとした足音が近づいてくる。
ロロットが姿勢を正し、メロウも本棚から視線を外した。フランの表情からも笑みが消え、リリィは部屋の扉へ目を向ける。
オラクルだけは普段と変わらない顔をしていたけれど、咥えていたタバコをいつの間にかしまっていた。
やがて足音が扉の前で止まった。
私は無意識に背筋を伸ばした。
扉が開く。
白銀の法衣をまとった初老の男性が、案内の女性とともに部屋へ入ってきた。
胸元には、教会の入口にも刻まれていた雪の結晶と十字の紋章。
男性は私たちを一人ずつ静かに見渡し、最後に私の前で視線を止めた。
「お待たせいたしました」
穏やかな声だった。
それでも私は、膝の上の帽子を握る手へ少しだけ力を込めた。
「《氷鏡の地下迷宮》について、お尋ねになりたいそうですね」
ついに、この国が長いあいだ閉ざしてきた場所についての話が始まろうとしていた。




