第181話 大剣を背負ったキジトラウサギ
北方街道の宿場で一晩休んだ翌朝、外へ出た瞬間、私は昨日より明らかに冷たくなった空気を吸い込んだ。
まだ雪は積もっていないけれど、宿場の屋根には薄く霜が降り、吐いた息もわずかに白くなっている。昨日まで鞄へ括り付けていた厚い外套を今日は最初から着込み、手袋まで付けると、いよいよ本当に雪国へ向かっているのだという実感が湧いてきた。
そして私は、昨日買った《キジトラウサギ》の防寒帽子も被っていた。
灰色と茶色の縞模様に、頭から伸びた二本の長い耳。昨日の街では少し恥ずかしかったけれど、今朝の寒さなら立派な防寒具だ。耳の周りまで暖かく、思っていた以上に使い心地もいい。
ただし、一つだけ問題があった。
『フール、耳曲がってる』
「え?」
メリーが私の頭上へ回り込み、右側の長い耳を両手で持ち上げる。
『こっちだけ変。待って、直す』
「自分じゃ見えないからお願い……って、メリー、帽子じゃなくて私が曲がってる!」
小さな身体で耳を引っ張るものだから、帽子と一緒に私の頭まで右へ傾いていく。メリーは『動かないで!』と真剣だけれど、動かしているのは完全にメリーのほうだった。
宿の前で何をしているのだろうと思いながら耐えていると、後ろから出てきたフランが笑った。
「朝から何してるの?」
「帽子の耳を直してる」
『フールが動くから難しいの!』
「私は動いてないよ!」
リリィまで宿から出てきて、私の頭を見た瞬間に吹き出した。
「昨日より曲がってるよ」
「メリー!」
『もうちょっと!』
結局、最後はリリィに直してもらった。
少し離れた場所では、オラクルが車椅子に荷物を固定しながら呆れた顔をしている。その隣ではメロウが鳥の顔が付いた派手な杖を片手に、自分のタヌキ顔付きフードを整えていた。
「朝から騒がしいのう。帽子とは自然に着こなすものじゃぞ」
「メロウさんにだけは言われたくないよ」
「なぜじゃ!」
「タヌキの顔付いてるから」
「そこがよいんじゃろうが!」
昨日から、動物の顔や耳について話している時間が妙に長い気がする。
そんなやり取りをしながら宿場を出ると、北方街道は昨日より静かだった。南へ向かう荷馬車とは何台かすれ違ったものの、私たちと同じ方向へ進む旅人は少ない。道の両側には針葉樹の森が広がり、日陰には白い霜が残っている。
歩き始めて一時間ほど経つと、その白さは少しずつ増えていった。
最初は草の先だけだった。次は石の隙間。そのうち街道脇の窪みに薄い氷が張り、私が足を止めて覗き込むと、表面に空と木々が映っている。
「凍ってる」
『氷!』
メリーがすぐ飛んできた。
「触ってみる?」
『触る!』
氷へ降りようとしたメリーを、リリィが後ろから掴んだ。
『何で!?』
「薄いから割れるよ」
『私軽いよ?』
「それでも駄目。下が泥だったら汚れる」
その一言で、メリーは大人しくなった。
『見るだけにする』
「切り替え早いね」
『泥嫌い』
理由はそこらしい。
私はしゃがんだまま薄い氷を眺めた。
火山では、水が近くにあるだけでありがたかった。地面の割れ目から熱気が吹き出し、少し立ち止まるだけで汗が流れたのに、今度は道端の水が自然に凍っている。
これなら、もっと北へ進めば本当に雪がある。
その先には、氷鏡の地下迷宮があるかもしれない。
期待が膨らむ一方で、昨日から残っている不安も消えてはいなかった。大規模凍結と巨大な蛇状生物の記録があるからといって、それが私たちの探す幻獣種だとは限らない。
私が氷を見たまま考え込んでいると、隣へメロウがしゃがんだ。
「また難しい顔をしとるのう」
「そんな顔してた?」
「しておる。十歳が道端の氷を見てする顔ではない」
「じゃあ、どんな顔ならいいの?」
「滑って転ばんか心配する顔じゃ」
「それはリリィがしてる」
後ろを見ると、リリィは本当に私の靴を確認していた。
「雪道用に替えるほどじゃないけど、日陰は気をつけてね」
「ほら」
メロウが笑う。
私は立ち上がり、服に付いた土を払った。
「昨日言ってたこと考えてたの。スノーリアまで行って、本当に何か見つかるのかなって」
「その答えは昨日と変わらん。行かねば分からん」
メロウは立ち上がると、鳥の顔が付いた杖で北を指した。
「じゃが、わしは期待しておるぞ。《氷鏡の地下迷宮》ほど長期間にわたって異常な凍結記録が残っとる場所は珍しい。しかも複数の時代に巨大な蛇状生物の目撃が重なっとる。偶然で片づけるには材料が多い」
「幻獣種だと思う?」
「思うことと、確かめたことは別じゃ」
即答だった。
少し前の私なら、そこでがっかりしたかもしれない。
今は違う。
「じゃあ、確かめに行こう」
「それでよい」
メロウが満足そうに頷いた。
再び歩き始めると、昼前には森の中へ入った。木々が風を遮ってくれるため寒さは少し和らいだものの、道には落ち葉が積もり、ところどころ凍った土が硬くなっている。
オラクルは車椅子の前輪が取られないよう慎重に道を選び、フランが段差の大きい場所だけ後ろから補助する。私は少し先を歩きながら道の状態を見ていたけれど、リリィから「自分の足元も見て」と言われてしまった。
「見てるよ」
「さっき二回つまずいた」
「転んでないから大丈夫」
「転ぶ前に言ってるの」
正論だった。
少し歩いたところで、前方から変な音が聞こえてきた。
最初は木を叩いているのかと思った。
ゴン。
少し間が空いて、またゴン。
規則正しくはない。それでも同じ方向から何度も響いてくる。
全員の会話が自然に止まった。
フランの手が腰の短剣へ移り、リリィは街道の先だけでなく森の左右にも視線を走らせる。メリーも私の肩近くまで高度を下げた。
「何の音?」
「分からん」
オラクルが答える。
「近づく前に様子見るぞ」
私たちは歩調を落とした。
音は止まらない。
ゴン。
ゴッ。
今度は何か重いものが地面を擦る音まで混じった。
メロウが眉を寄せる。
「木を切っとる音ではないな」
「戦ってる?」
フランが呟いた。
その可能性を考えた瞬間、森の奥から甲高い声が響いた。
「だぁぁぁから! そこをどけって言ってるだろーっ!」
全員が止まった。
私はオラクルを見る。
オラクルも私を見る。
「……喋ったね」
「ああ」
『元気そう』
メリーの感想が一番正しかった。
助けを求める悲鳴には聞こえない。
むしろ、ものすごく怒っている。
続いて、何かが激しく地面へ叩きつけられる音がした。
ドンッ、と足元まで震える。
「元気すぎない?」
リリィが言う。
「とりあえず確認するぞ。ただし飛び込むなよ」
オラクルを先頭に、私たちは音のする方向へ進んだ。
街道が緩く曲がった先で、最初に見えたのは倒木だった。
かなり太い。
根元から折れた木が街道を横切るように倒れ、道の半分以上を塞いでいる。その向こう側に誰かがいた。
私は最初、その人が何をしているのか分からなかった。
小柄な身体。
灰色と茶色が入り混じった毛並み。
頭から伸びた二本の長い耳。
背中には、その身体には明らかに大きすぎる大剣。
その姿を見た瞬間、私は無意識に自分の帽子へ手を伸ばした。
同じだった。
完全に同じではない。
でも、昨日から頭に載せている《キジトラウサギ》の帽子と、目の前にいる人物の耳と毛並みがあまりにも似ている。
向こうも私に気づいた。
動きが止まる。
私を見る。
正確には、私の顔ではなく頭を見ていた。
長い耳がぴんと立った。
私は何となく嫌な予感がした。
「……何?」
相手は答えない。
私の帽子を見る。
自分の耳へ触れる。
また私の帽子を見る。
そして、大剣を背負ったままこちらへ歩いてきた。
一歩。
二歩。
近くで見ると、思っていたより小さい。私より少し大きいくらいに見えるのに、背中の大剣だけは冗談みたいに巨大だった。柄だけでも肩から大きく飛び出し、刃は身体の横まで伸びている。
フランが警戒して一歩前へ出ようとしたけれど、相手に敵意はなさそうだった。
ただし、ものすごく私の帽子を見ている。
とうとう目の前まで来た。
長い耳が一度だけ動く。
「お前」
「はい」
「その頭、何だ?」
「帽子」
「それは見れば分かる!」
怒られた。
私は慌てて帽子を押さえた。
「昨日買ったの。《キジトラウサギ》っていう魔物を模した防寒帽子で――」
「知ってる!」
また怒られた。
メリーが私の肩へ隠れながら小声で言う。
『同じだね』
聞こえたらしい。
相手の耳がぴくりと動いた。
「同じじゃない!」
『違うの?』
「こっちは本物だ!」
自分の耳を掴んで見せる。
そこでようやく私は理解した。
帽子に似ているのではない。
帽子のほうが、この人たちに似せて作られているのだ。
「本物のキジトラウサギ……?」
思わず呟く。
相手の目が細くなった。
「正確にはキジトラウサギ族だ。魔物扱いすんな」
「ご、ごめんなさい!」
昨日の店員から《北方に生息する小型の魔物》と聞いて、そのまま信じていた。
横を見る。
メロウが目を逸らした。
「メロウさん?」
「昔、遠目で見たと言ったじゃろ」
「知ってた?」
「……細かい分類は土地によって違う」
「知ってたんだ!」
「わしにも知らんことはある!」
何となく怪しい。
目の前のキジトラウサギ族は、今度はメロウのタヌキ顔付きフードを見た。
長い沈黙。
「そっちも何かの種族か?」
「これは帽子じゃ!」
「紛らわしいな」
「フールに言われるならともかく、お主には言われたくない!」
どういう意味だろう。
緊張していたはずなのに、少しずつ変な空気になってきた。
フランが笑いを堪えながら尋ねる。
「さっきから聞こえてた音、あなた?」
「ああ」
キジトラウサギ族は倒木を振り返った。
「こいつが邪魔で通れないから退かしてた」
「大剣で?」
「他に何で退かすんだ?」
普通に返された。
見ると倒木の幹には何本もの深い傷が入っている。さっき聞こえていた重い音は、大剣を叩き込んでいた音らしい。
私は背中の大剣と小柄な身体を交互に見る。
どう考えても釣り合わない。
相手は私の視線に気づいた。
「何だ?」
「重くない?」
「慣れてる」
「持てるの?」
「背負ってるだろ」
確かに。
リリィが倒木の向こうを確認する。
「この道、北へ続いてる?」
「ああ。スノーリアへ行くならこのまま北だ」
その名前が出た瞬間、私たちは顔を見合わせた。
オラクルが相手を見る。
「お前、スノーリアから来たのか?」
「来たっていうか、あっちが地元だ」
今度は私が一歩近づいた。
「スノーリアの人なの!?」
「近い近い! 何だ急に!」
「聞きたいことがあるの!」
「まず名前くらい聞け!」
それもそうだった。
私は姿勢を正す。
「私はフール。こっちはメリーで、オラクル、フラン、リリィ、それからメロウさん」
一人ずつ紹介すると、最後にメロウだけが杖を掲げて妙に格好をつけた。
相手は私たちを順番に見てから、自分の胸を軽く叩いた。
「ロロット。冒険家だ」
「冒険家?」
「そう。スノーリアを出て、色んな場所を見て回ってる」
ロロット。
私はその名前を覚えた。
背中には身体より大きな大剣。
灰色と茶色の縞模様。
本物の長い耳。
そして私の頭には、その種族を模した帽子。
ものすごく変な出会い方をしてしまった気がする。
ロロットはまだ私の帽子が気になるらしく、じっと見ている。
「それ、本当に昨日買ったのか?」
「うん。北方では普通って聞いたから」
「普通じゃない。観光客向けだ」
「えっ」
「地元の奴がそんなの被って歩いてたら、かなり目立つぞ」
私は固まった。
後ろから、フランが小さく吹き出す。
リリィも顔を逸らした。
「昨日みんな似合うって言ったじゃん!」
「似合うとは言ったよ」
「普通とは言ってない」
「リリィ!」
『私は好き!』
「メリーだけだよ味方!」
ロロットまで笑い始めた。
最初は少し怖そうに見えたけれど、笑うと印象がかなり変わった。
長い耳まで楽しそうに揺れている。
「そんなに笑わなくてもいいじゃん」
「悪い悪い。でも、スノーリアへ向かう途中で自分たちの耳を付けた子供に会うとは思わなかった」
「防寒具だから!」
「それなら役には立つ。北へ行けば今よりずっと寒くなるからな」
ロロットはそう言うと、私の帽子へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触っていいか?」
「いいよ」
許可すると、長い耳の根元や内側を指先で確かめる。さっきまで笑っていたのに、今度は妙に真剣だった。
「作りは悪くない。耳は飾りだけど、こっちはちゃんと風を防げるようになってる。スノーリアまで行くなら使えるぞ」
「よかった……」
少なくとも無駄遣いではなかった。
少し離れたところでオラクルが小さく頷いている。
「性能はちゃんとしてるって言っただろ」
「でも観光客向けなんでしょ?」
「そこは知らねえ」
「昨日教えてよ!」
「俺はキジトラウサギ族の服飾文化まで知らん」
それもそうだった。
ロロットが私から手を離したところで、フランが倒木へ目を向ける。
「ところで、これどうする?」
話している間も、街道を塞いだ倒木は当然そのままだ。
幹は太く、私が両腕を回しても半分まで届かなそうだった。根元側は森へ入り込み、枝も何本か道へ広がっている。
ロロットが大剣の柄へ手を掛ける。
「今から退かす」
「一人で?」
「そのつもりだった」
「手伝うよ」
フランが自然に言った。
ロロットは少し驚いたようにフランを見る。
「剣士?」
「たぶん」
「何で疑問形なんだ?」
「最近、周りが色々できるから自信なくなってきた」
フランがメロウを見る。
メロウは胸を張った。
「わしの重力魔法のことじゃな!」
「今その話してないよ」
私が止める。
ロロットは意味が分からないようだったけれど、すぐに大剣を背中から外した。
近くで見ると、本当に大きい。
刃は幅も厚みもあり、フランの短剣とは同じ《剣》と呼んでいいのか迷うほど違う。ロロットが両手で柄を握っているとはいえ、その身体で持ち上げていること自体が不思議だった。
「フラン」
私は少し不安になって呼んだ。
「大丈夫。倒木を退かすだけだから」
フランは腰の短剣を抜かず、まず倒木の状態を確認した。
幹そのものを細かく切るより、道側へ張り出している太い枝を落とし、それから幹を動かしたほうがいいらしい。
ロロットも同じ考えだったようで、枝の付け根を大剣の先で示した。
「ここと、こっちを落とす。そうすれば転がせる」
「俺が細いほうやるよ」
「なら頼む」
二人がすぐに役割を決める。
私たちは邪魔にならないよう街道の端へ移動した。
ロロットが大剣を構えた瞬間、さっきまでの親しみやすい雰囲気が変わった。
小柄な身体が沈む。
長い耳がわずかに後ろへ倒れ、両足が地面をしっかり捉える。
そして大剣が動いた。
速い。
あれだけ大きな剣なのに、重そうに持ち上げた感じがまったくなかった。肩の高さまで引き上げられた刃が斜めに振り下ろされ、太い枝の付け根へ正確に食い込む。
ゴンッ、とさっき聞いたのと同じ音が森へ響いた。
一撃では切れない。
けれど刃はかなり深く入っている。
ロロットは無理やり引き抜かず、一度角度を変えて大剣を抜くと、今度は最初の傷へ重ねるようにもう一撃を叩き込んだ。
枝が大きく軋む。
三撃目。
太い枝が折れ、地面へ落ちた。
「すごい……」
思わず声が出た。
単に力任せに振っているわけではない。最初の一撃で傷を作り、二撃目を同じ場所へ重ね、最後に自重を利用して折っている。
フランも反対側で細い枝を処理しながら、ロロットの動きを見ていた。
戦いではない。
それでも剣を扱う人同士だから分かるものがあるのかもしれない。
残った枝を二人で落としたあと、問題は太い幹だった。
「私たちも押す?」
聞くと、ロロットが首を横へ振る。
「足元滑るぞ。端にいてくれ」
「でも一人じゃ――」
言い終わる前に、ロロットは大剣を幹の下へ差し込んだ。
「何するの?」
「持ち上げる」
「それで!?」
大剣を梃子にするらしい。
刃が欠けないのか心配になったけれど、本人は気にしていない。
フランもすぐ意図を理解し、幹の反対側へ回った。
「俺はこっち押す」
「合図したら頼む」
二人が位置につく。
ロロットは大剣の柄へ体重を掛け、フランが幹を押した。
最初は動かなかった。
地面へ食い込んでいた幹が少しだけ軋み、土が崩れる。
「もう一回!」
ロロットの声に合わせ、フランがさらに力を込める。
今度は幹が浮いた。
ほんの少し。
でも、その隙間へ大剣の刃がさらに深く入る。
ロロットが足の位置を変えた。
「いくぞ!」
大剣の柄を一気に押し下げる。
幹が持ち上がった。
フランが横から押す。
巨大な倒木がゆっくりと回転し、枝を地面へ擦りながら街道の外側へ転がっていった。
最後に大きな音を立てて止まる。
道が開いた。
『おおー!』
メリーが一番大きな拍手をした。
私も思わず手を叩く。
「すごい!」
ロロットは大剣を肩へ担ぎ直した。
「これくらいなら普通だ」
「普通じゃないと思う」
フランが息を整えながら笑った。
「俺、一人だったらあれ動かせないよ」
「俺も大剣がなきゃ無理だ」
ロロットはそう言ってから、フランの腰にある短剣を見る。
「そっちはずいぶん小さい剣だな」
「元はもう少し違ったみたいだけど、今はこれが使いやすいから」
フランはそれ以上説明しなかった。
私も口を挟まない。
あの短剣の元になった剣について、フラン自身がまだ知らないことが多い。グライツで調べたリザーメイトの記録も、全部の答えをくれたわけではなかった。
ロロットも深く追及せず、自分の大剣を背中へ戻した。
「これで通れる。お前ら、スノーリアまで行くんだろ?」
「うん」
「だったら途中まで同じ道だ。俺も北へ戻るところだから、一緒に行くか?」
願ってもない話だった。
私はすぐに頷きそうになったけれど、その前にオラクルを見た。
オラクルもこちらを見ている。
「何だ」
「勝手に決めないほうがいいかなって」
「……本当に成長したな」
「またそれ!」
ロロットが不思議そうに私たちを見る。
「何の話だ?」
「気にしなくていいよ」
「いや、気になるだろ」
オラクルはロロットへいくつか質問した。
どこまで一緒なのか。
スノーリアへ入るのか。
何のために戻るのか。
ロロットは嫌がる様子もなく答えた。
各地を回っていた冒険家で、しばらく故郷へ戻っていなかったこと。北方街道を通ってスノーリア方面へ戻る途中で、昨夜の風によって倒れたらしい木に道を塞がれていたこと。
少なくとも話に不自然なところはない。
リリィもロロットの装備や荷物をさりげなく見ていた。
「旅慣れてるね」
「そりゃ冒険家だからな」
「一人で?」
「基本は。途中で誰かと組むこともあるけど」
私には格好よく聞こえた。
一人で色々な土地を歩いている冒険家。
私も旅をしているけれど、仲間がいない状態で知らない土地へ行くことを想像すると、少し怖い。
「寂しくない?」
思ったことをそのまま聞くと、ロロットが目を丸くした。
「いきなりそこ聞く?」
「駄目だった?」
「駄目じゃないけど……」
少し考えたあと、ロロットは肩を竦めた。
「寂しいときはある。でも、一人だから話しかけてもらえることもある。知らない土地で知らない奴と飯食ったり、困ってる奴を手伝ったり、逆に助けてもらったりな。ずっと一人ってわけじゃない」
その答えが、何となく好きだった。
一人で旅をしている。
でも、一人きりではない。
私たちの旅とは違うけれど、ロロットにもロロットの冒険があるのだろう。
「じゃあ一緒に行こう」
今度はオラクルも止めなかった。
ロロットが頷く。
「よろしくな、フール」
「よろしく、ロロット!」
メリーも私の肩から飛び上がる。
『私も!』
「メリーだったな。よろしく」
『大剣触っていい?』
「いきなりそれか」
『駄目?』
「歩きながらは駄目。休憩したらな」
『やった!』
もう仲良くなっている。
倒木を越え、今度は七人で北方街道を進み始めた。
ロロットが加わったことで、今まで地図とメロウの知識だけを頼りにしていたスノーリアが急に近くなった気がした。
私は早速、聞きたかったことを口にする。
「ロロット、《氷鏡の地下迷宮》って知ってる?」
その瞬間だった。
少し前を歩いていたロロットの長い耳が、ぴたりと止まった。
さっきまで軽かった足取りもわずかに遅くなる。
私はその変化を見逃さなかった。
「知ってるの?」
ロロットはすぐには答えなかった。
一度、私たち全員を見回す。
さっきまでの明るい表情が少しだけ消えていた。
「……何でそこへ行きたい?」
声まで変わった。
オラクルも気づいたらしく、タバコを咥えたままロロットを見る。
私は迷った。
どこまで話すべきなのか。
幻獣種召喚の本のことまで、会ったばかりの相手へ全部話していいのかは分からない。
その迷いを察したのか、オラクルが先に口を開いた。
「探し物だ。あの迷宮に、俺たちが必要としてる手掛かりがある可能性が高い」
「何の手掛かり?」
「そこまで話すかは、もう少し互いを知ってからだ」
ロロットはオラクルを見た。
怒った様子はない。
むしろ、その答えに少し納得したようだった。
「まあ、会ったばかりだしな」
私は少し安心した。
ロロットは前を向き直ると、しばらく黙って歩いた。
やがて森の隙間から冷たい風が吹き込み、長い耳が揺れる。
「氷鏡の地下迷宮は、本当にある」
その一言で、私は思わずロロットの横へ近づいた。
「行ったことある?」
「中にはない」
「入口までは?」
「ああ」
ロロットは頷いた。
「北の巨大な氷山の谷間に、《永久凍土の氷門》って呼ばれてる場所がある。その向こうが氷鏡の地下迷宮だ」
メロウの目が変わった。
研究者の顔だ。
「永久凍土の氷門……わしが調べた記録では名称しか残っとらんかった。実在するのじゃな?」
「する。俺も見た」
「開けたことは?」
「ない」
「なぜじゃ?」
メロウが一歩近づく。
ロロットは少し嫌そうな顔をした。
「近いって。爺さん」
「すまん」
メロウが一歩下がった。
ロロットは前方へ視線を戻す。
「氷門は普通には開かない。押しても、叩いても、大剣でどうにかなるようなものじゃない」
「壊そうとしたの?」
私が聞く。
「してない! たとえだ!」
ちょっと怪しい。
でも今はそこではない。
「じゃあ、どうやって開けるの?」
私が尋ねると、ロロットは少しだけ表情を曇らせた。
「鍵がいる」
「鍵?」
「ああ。《聖なる白銀の鍵》」
聞いたことのない名前だった。
メロウも知らないのか、すぐには口を挟まない。
「どこにあるの?」
私が尋ねる。
ロロットは答える前に、遠く北の空を見た。
「スノーリアの教会だ」
教会。
思ってもいなかった場所が出てきた。
私はメリーと顔を見合わせる。
「じゃあ、教会へ行って借りればいいの?」
私がそう言った途端、ロロットの表情が何とも言えないものになった。
困ったような、呆れたような、それでいて少し心配そうな顔。
「それができるなら、誰も苦労しない」
「え?」
「教会は、氷鏡の地下迷宮へ人を入れたがらない。むしろ逆だ」
ロロットは少し声を落とした。
「スノーリアじゃ、あそこは《神の怒りを買った禁忌の場所》って呼ばれてる」
冷たい風が街道を抜けた。
さっきまで帽子の耳で笑っていた時間が、急に遠く感じられる。
私は頭の長い耳を押さえながら、ロロットを見た。
「禁忌……?」
「ああ。だから白銀の鍵も、教会の奥で厳重に管理されてる。知らない旅人が行って『迷宮へ入りたいから貸してくれ』って言ったところで、まず渡してもらえない」
「じゃあ、どうすればいいの?」
ロロットは少し考えてから首を横へ振った。
「それは俺にも分からない。ただ、迷宮へ行くつもりなら、まず教会を避けては通れない」
ロロットの言葉を聞きながら、私はさっきまでより重くなったように感じる帽子の耳を片手で押さえた。
氷鏡の地下迷宮へ行けばいい。
グライツで調べていたころは、もっと単純に考えていた。火山で強い氷の力が必要だと分かり、メロウと記録を調べ直した結果、複数の年代にわたって大規模な凍結が発生し、巨大な蛇状生物まで目撃されている場所へ辿り着いた。
だから、そこへ行って確かめる。
もちろん簡単ではないと思っていたけれど、まさか迷宮へ入る前に、入口を開けるための鍵まで必要になるとは思わなかった。
しかも、その鍵を持っている教会が迷宮への立ち入りそのものを認めていない。
「ねえ、ロロット」
「何だ?」
「その《聖なる白銀の鍵》って、一個しかないの?」
「俺が知ってる限りでは一つだけだ。少なくとも、氷門を開けるために教会が管理してる鍵はそれしか聞いたことがない」
「同じものを作ったりは?」
「できるなら、とっくに誰かが作ってるだろ」
確かにそうだった。
私は少し考えてから、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「教会は、どうして地下迷宮をそんなに嫌がるの? 危ないから?」
ロロットはすぐには答えず、冷たい風に揺れる木々を見ながら歩いていた。
「俺も教会の人間じゃないから、全部知ってるわけじゃない。ただ、小さいころから言われてた。《氷鏡の地下迷宮には近づくな》《あそこは神の怒りが残った場所だ》ってな。昔、迷宮へ入ろうとして戻らなかった奴もいるって話だった」
「戻らなかった……」
メリーが私の肩へ少し近づいた。
ロロットはそれを見てから続ける。
「でも、どこまで本当なのかは分からない。昔話と教会の教えが混ざってる部分もあると思う。俺自身、中へ入ったことはないからな」
その言い方に少し安心した。
教会がそう言っている。
昔からそう伝わっている。
でも、ロロット自身が迷宮を《神の怒りが残る場所》だと断定しているわけではない。
オラクルも同じところに気づいたらしい。
「つまり、分かってるのは氷門が実在することと、白銀の鍵を教会が持ってること。迷宮の中身については伝承が中心ってことだな」
「そういうこと」
「なら今はそれで十分だ」
オラクルはあっさり言った。
私は少し驚いて横を見る。
「十分なの?」
「十分だろ。スノーリアまで行ってから『入口を開けるには知らねえ鍵が必要でした』って分かるより百倍マシだ。先に教会へ行く理由もできた」
「でも、貸してくれないんでしょ?」
「まだ頼んですらいねえ」
「あ」
「断られてから考えろ」
確かに。
私はまだスノーリアへ着いてすらいないのに、頭の中ではもう教会から断られたところまで進んでいた。
「フール、また先まで考えすぎたね」
リリィに言われる。
「ちょっとだけ」
『いっぱい』
「メリーはどっちの味方なの?」
『フール。でも今のはいっぱい』
味方だからこそ正直らしい。
フランが笑いながら私の隣へ来た。
「まず行ってみようよ。教会がどんなところかも分からないし、鍵を管理してる人がどんな人なのかも知らないんだから」
「うん」
今できることは、それしかない。
火山でも同じだった。
遠くから考えていたときには分からなかったことが、実際に現地へ行ったことで見えた。今度も、スノーリアへ行かなければ始まらない。
少し前まで黙っていたメロウが、急に鳥の顔が付いた杖を持ち上げた。
「しかし、《聖なる白銀の鍵》か……」
目が完全に研究者のものへ変わっている。
嫌な予感がした。
「メロウさん」
「何じゃ」
「鍵を調べたいとか考えてる?」
「当然じゃろう!」
やっぱり。
「地下迷宮そのものが複数年代にわたる凍結記録と結びついとるのじゃぞ。その入口を開ける唯一の鍵となれば、材質、年代、製法、刻印、魔力構造――」
「待って」
リリィが止める。
「借りられるかも分からないんだよ」
「見るだけでも!」
「教会の人の前で勝手に触らないでね」
「わしを何だと思っとる!」
全員が少し黙った。
メロウが私たちを見る。
「なぜ誰も答えん!」
ロロットが吹き出した。
「面白い爺さんだな」
「考古学者じゃ!」
「それは見れば分かる」
「この格好だけで分かるのか!?」
「タヌキは分からないけど、その杖と荷物から紙がはみ出してる」
言われて見ると、メロウの外套の内側から本当に紙の端が出ていた。
オラクルが無言で引き抜く。
「あっ!」
「昨日七冊持っていこうとしてただろ」
「必要な資料じゃ!」
「宿に置けって言ったよな?」
「厳選して四冊にした!」
「三冊しか減ってねえじゃねえか!」
ロロットが腹を抱えて笑い始めた。
初めて会ってからまだそれほど時間は経っていないのに、ずいぶん馴染むのが早い。
私も笑いながら、少し不思議な気持ちになった。
今朝まで六人だった。
それが倒木の向こうで、大剣を背負ったキジトラウサギ族の冒険家と出会った。
帽子を笑われて、倒木を一緒に退かして、少し話しただけ。
それなのに今は、そのロロットが私たちと同じ道を歩いている。
旅をしていると、こういうことがある。
昨日までは名前さえ知らなかった相手が、今日は隣を歩いている。
三匹のゴブリンとも、オラクルとも、メリーとも、フランとも、リリィとも、最初はそうだった。
メロウだって、少し前までは探していた相手だった。
「何だ?」
ロロットがこちらを見た。
「ずっと見てるけど」
「ごめん。旅って変だなって思ってた」
「何だそれ」
「昨日まで知らなかった人と、今日は一緒に歩いてるから」
ロロットは一瞬だけ目を丸くしたあと、笑った。
「そんなの冒険してれば普通だろ」
「普通なの?」
「俺はそう思う。旅先で会って、その日だけ一緒に歩く奴もいるし、何日か組む奴もいる。次の街で別れて、何年か後に全然違う国で会うことだってある」
「何年もあとに?」
「ああ。だから面白いんだよ」
その言葉が妙に心へ残った。
旅をしていれば、別れることもある。
三匹のゴブリンのように、その土地へ残る仲間もいる。
でも別れたから、そこで全部終わるとは限らない。
いつか別の場所でまた会えるかもしれない。
そう考えると、少しだけ嬉しくなった。
『フール、笑ってる』
「うん」
『何で?』
「秘密」
『気になる!』
「教えない」
『フール!』
メリーが頬を引っ張ろうとしてくるので逃げると、雪道用の靴が普段より重いことを忘れて危うく足を取られた。
リリィに腕を掴まれる。
「ほら」
「転んでない!」
「私が掴んだからでしょ」
「ありがとう」
「どういたしまして。走らない」
「走ってないよ」
『逃げた!』
「メリーから!」
「同じだよ」
また怒られた。
北方街道を進むにつれて、道端の白さはさらに増していった。
昼を過ぎるころには、日陰だけではなく森の奥にも薄い雪が残り始めている。まだ地面を覆うほどではないものの、枝の上に白いものが積もっているのを見つけるたび、メリーが飛んでいこうとするので、そのたびにリリィが止めていた。
ロロットによれば、この先でもう一つ宿場を越えるころには、雪が珍しくなくなるらしい。
「スノーリアはもっと?」
私が聞く。
「もっと。冬場は朝起きたら扉が雪で開かないこともある」
「帰ろうかな」
「また言ってる」
フランが笑う。
ロロットは私の頭を見る。
「その帽子あるなら頭は大丈夫だろ」
「観光客向けなんでしょ?」
「観光客向けでも暖かいものは暖かい」
「じゃあ買って正解だった」
「見た目は面白いけどな」
「余計な一言!」
私が帽子の耳を押さえると、本物の長い耳を持つロロットがまた笑った。
でも、今度はさっきほど恥ずかしくなかった。
むしろ少しだけ、この帽子を買ってよかったと思っている。
もし昨日これを買っていなかったら、ロロットと出会ったときの最初の会話は全然違うものになっていたかもしれない。
帽子一つで何かが大きく変わったわけではない。
それでも、旅の途中で選んだ小さなものが次の出会いへ繋がることもある。
そう考えると、《聖なるマップ》が旅の中の小さな出来事まで記録していく理由が、ほんの少し分かったような気がした。
夕方が近づいたころ、街道の先に小さな宿場が見え始めた。
その向こうには、朝よりはっきりと白い山並みが連なっている。
頂上付近は雲に隠れ、山肌の大部分が雪に覆われていた。
私は自然と足を止めた。
「白い……」
火山とは正反対だった。
あそこでは山そのものが赤黒く、空へ噴煙が上がっていた。
今見えている山々は白と青に包まれ、遠くから眺めているだけでも冷たさが伝わってきそうだった。
ロロットも足を止める。
「見えてきたな」
「スノーリア?」
「まだ国境まではある。でも、あの山を越えた先がスノーリアの領域だ」
胸が高鳴った。
同時に、少しだけ緊張する。
あの向こうに教会がある。
《聖なる白銀の鍵》がある。
さらに北の巨大な氷山の谷間には《永久凍土の氷門》があり、その向こうには《氷鏡の地下迷宮》が存在する。
そして、その迷宮には複数の時代にわたる大規模凍結と、巨大な蛇状生物の記録が残されている。
そこまで考えたところで、私は自分から止めた。
まだ遠い。
今は目の前の宿場へ行けばいい。
「今日はあそこ?」
私が尋ねると、オラクルが地図を確認して頷いた。
「ああ。ロロットも泊まるんだろ?」
「そのつもり。明日から道がもっと悪くなるから、今日はちゃんと休んどいたほうがいい」
「じゃあ決まりだね」
私は再び歩き始めた。
七人分の足音と、オラクルの車椅子が街道を進む音が重なる。
今朝までは知らなかった声も、その中に一つ増えていた。
目の前に見える白い山の向こうには、まだ知らない国がある。
そこへ入るために何が起きるのかも、教会で誰と会うのかも、白銀の鍵を本当に借りられるのかも分からない。
でも、火山の奥で道が途切れたときとは違う。
今はまた、次へ進むための道が見えている。
私は冷たい風に揺れる《キジトラウサギ》の帽子の耳を押さえながら、ロロットたちと一緒に北方街道を歩き続けた。
その先にあるスノーリア聖国が、私たちを簡単には《氷鏡の地下迷宮》へ通してくれないことを、このときはまだ知らなかった。




