第175話地図のない道の果て
次の日、火山へ向かう私たちの足取りは、昨日より少しだけ慎重になっていた。怖くなったからではない。昨日、自分たちが立っていた場所へ岩が落ち、朝には存在しなかった亀裂が、帰りには地面を割っていたからだ。
火山では、一度通った場所だから安全だとは限らない。それを実際に見たことで、今日は知っている道でも初めて歩くつもりで確認することにした。
「昨日の噴気孔までは同じ道を使う。ただし、変化があったら止まるぞ」
集落を出る前、オラクルが地図を広げる。
目的地は昨日発見した岩壁。その横から、古い石道が火山のさらに奥へ続いている。メロウの持っていた測量図には載っていない道だ。
岩壁には、炎を纏った獅子にも見える四本脚の存在が刻まれ、その下から《赤き雫》と《獅子》という文字が読み取れた。さらに《聖なるマップ》にも、あの場所を調べたあとで新しい印が現れている。
ただし、それが《炎の獅子ラルメリオン》や☆2《紅蓮の雫》を示すと決まったわけではない。だから今日、その先を確かめる。
「メロウさん。今日は勝手に一人で先へ行かないでね」
「わしは子供か!」
「昨日、壁画を見つけたとき周りが見えなくなってたじゃん」
「研究者なら当然じゃ!」
「当然じゃねえ」
オラクルにまで言われ、メロウは不満そうに鳥の顔が付いた杖を地面へ突いた。私の肩にいるメリーまで『私も見てたよ』と追い打ちを掛けると、さすがのメロウも言葉に詰まった。
「六人で行くんだから、六人で帰るよ」
私がそう言うと、メロウは少しだけ黙ったあと、タヌキの顔が付いたフードを被り直した。
「……分かっておる。調査結果を持ち帰れなければ意味がないからな」
理由は相変わらず考古学者らしかったけれど、それでいい。
六人で火山へ入った。
昨日と同じ東側の道を使ったものの、最初の一時間だけでも小さな変化がいくつか見つかった。灰が昨日より厚く積もっている場所、新しく崩れた岩、斜面から転がってきたらしい石。そして、昨日見つけた噴気孔。
「止まって」
先頭のフランが足を止めた。
昨日、黄色く変色した地面から白い噴気が吹き出した場所だ。今日は噴気そのものが昨日より弱い。しかし、だから安全だとは誰も言わなかった。
メロウが長い金属棒を使い、離れた場所から地面を確認する。
「昨日より範囲が広がっとる」
よく見ると、黄色く変色した部分が僅かに外側へ伸びていた。
「一日で?」
「昨日の地震が影響した可能性はある。ただし、前から変化しておったものに昨日気づいただけかもしれん」
メロウは断定せず、リリィも帰りに分かるよう十分離れた安全な岩へ新しい目印を残した。私は《聖なるマップ》で位置を確認しながら、昨日と同じ場所なのに同じではないという奇妙な感覚を覚える。
火山が動いている。
そのことを今日はずっと忘れないようにしなければならない。
昨日見つけた二つの黒い岩へ到着したころには、太陽がかなり高くなっていた。そこから現在使われている道を外れ、灰の下に埋もれた古い石道へ入る。
昨日自分たちで灰を払った部分はまだ見えていたものの、その先は再び灰色の斜面へ紛れていた。
「ここからだね」
私が言うと、リリィが先へ進み、石道の位置を一つずつ確かめる。フランは周囲の地面や岩の状態を調べ、メロウは加工方法を確認しながら歩く。オラクルは昨日と同じように時間を管理し、私は《聖なるマップ》と実際の地形を見比べた。
メリーは今日は私の肩にいることが多い。
風が強いからだ。
『昨日より灰多くない?』
「私もそう思う」
『髪ざらざらする。フールも赤い髪が灰色になってるよ』
「えっ?」
思わず髪へ触れそうになり、途中でやめた。今触ったら余計に灰を広げそうだ。
フランが振り返り、私の髪を確認する。
「大丈夫。まだ赤いよ」
「まだって何!」
「全部灰色になったら教える」
「その前に教えて!」
こんな場所でも笑える余裕は、まだあった。
やがて昨日の岩壁が見えてくると、全員の足が自然に遅くなった。
最初に見るのは壁画ではない。上にある岩、落石の痕跡、足元の亀裂。昨日の地震で周囲が変化していないか確認する。
壁画の近くには新しく落ちた小石がいくつかあったものの、大きな崩落は確認できなかった。
「長居はしない。今日は先を見る日だ」
オラクルに言われ、メロウも素直に頷く。
それでも通り過ぎる前に、一度だけ壁画を見た。
炎のような線を纏った四本脚と、《赤き雫》《獅子》という文字。昨日と何も変わっていない。
違うのは私たちのほうだ。
今日は、その右側に続く道があることを知っている。
岩壁を越えた先では、古い石道の状態が急激に悪くなった。
斜面を削って作られたらしい道は何か所も崩れ、平たい石が谷側へ滑り落ちている。山側の岩壁からは細い噴気が立ち上り、場所によっては足元の灰が熱によって僅かに揺れていた。
「ここ、俺が通ってから来て」
フランが先へ出る。
もともとは人が二人並べるほどの幅があったらしい道も、崩落によって半分近く失われていた。右側には岩壁が迫り、左側は急な斜面になっている。足を滑らせれば簡単には戻れない。
メリーには鞄へ入ってもらい、私は壁側へ身体を寄せて進んだ。
『フール、大丈夫?』
鞄の中から声がする。
「大丈夫。メリーは出ないでね」
『分かってる』
フランが足場を確かめ、そのあとをリリィ、私の順番で進む。一歩ずつ、足を置く場所を決めてから体重を移す。
真ん中まで来たところで、右足の下にあった石が僅かに動いた。
身体が固まる。
「動かないで」
フランの声がすぐ届いた。
「右足、戻せる?」
「うん」
ゆっくり戻した直後、石が斜面を滑り落ちていった。途中で別の石を巻き込み、何個もの岩が音を立てながら下へ消えていく。
その音が聞こえなくなるまで、思っていたより長かった。
「……高いね」
自分で言ってから、声が少し震えていることに気づいた。
「下を見ないほうがいいよ」
リリィが言う。
「もう見た」
「じゃあ前だけ見よう」
「うん」
怖い。
でも、戻りたいとは思わなかった。
フランが確認した場所へ足を置き、今度は動かないことを確かめてから次へ進む。ようやく崩れた場所を越えたときには、身体から力が抜けそうになった。
「怖かった……」
「よく渡れたね」
「フランが先に見てくれたから」
一人だったら無理だったと思う。
全員が渡り終えると、オラクルが今越えた場所を振り返った。
「帰りもここ通るぞ」
その一言で、安心した気持ちが半分くらい消えた。
「……別の道ないかな」
「探して見つかればな」
現実は厳しい。
さらに奥へ進むほど、地面の熱は強くなった。靴越しでも感じるほどで、同じ場所へ長く立っていたくない。空気も乾き、汗をかいているのに喉が渇いた感覚が遅れてやってくる。
私は意識して水を飲んだ。
「メリーも飲む?」
鞄を開けると、『飲む』とすぐ返ってくる。少しだけ外へ出して水を渡している間、メロウは岩壁に残る縦の溝を調べていた。
「何かあった?」
「加工跡じゃ」
自然の岩肌の途中に、真っ直ぐ縦へ走る溝がある。一つだけではなく、少し先にも、そのさらに先にも残っていた。
「柱でもあったのかな」
「可能性はある。あるいは壁へ何かを固定しておったかもしれん」
メロウが位置を記録し、リリィは地面を確認する。
「石道も広くなってます」
崩れていない部分を見ると確かに道幅が広い。
ただの移動路ではなく、何か大きな場所へ近づいているようにも感じられた。
胸が高鳴った、そのときだった。
《聖なるマップ》に変化が起きた。
昨日現れた印から、細い線が伸びている。
「待って」
私は足を止め、全員を呼んだ。
「昨日の印から道が出てる」
「今歩いてきた石道と同じ方向?」
リリィに聞かれ、方角を比べる。
「たぶん」
「《たぶん》では駄目じゃ。確認するぞ」
メロウが地図を出し、リリィが方角を測る。私もマップを動かしながら見比べた。
完全に同じとまでは言えない。
でも、大きく外れてもいなかった。
「少なくとも、この先へ何かが続いてる」
私が言うと、メロウも頷いた。
「昨日は印だけじゃった。今日はそこから線が伸びた。何を示しているかは分からんが、一段進んだのは確かじゃな」
《聖なるマップ》が何を示しているのかは分からない。
それでも反応は続いている。
そこからさらに一時間ほど進むと、石道は徐々に斜面を下り始めた。火山を登っているはずなのに、途中から山の内側へ潜り込むような地形へ変わっていく。
両側の岩壁が高くなったことで風は弱まったものの、その代わり熱が逃げなくなった。
「暑い……」
額から汗が流れ、口元を覆う布の内側まで湿っている。
メリーも鞄から出てこない。
『フール、水』
「うん。一回休もう」
大きな岩の陰へ入り、全員で少しずつ水を飲んだ。
日陰と呼べる場所はほとんどなく、座っていても地面から熱が伝わってくる。
オラクルが残量を確認した。
「予定より減りが早いな」
「戻る分は?」
「十分残す。ただし、ここから先で無駄遣いはできねえ」
メロウも自分の水筒を確認している。
「水が減ったら戻る」
私が言うと、オラクルがこちらを見る。
「言われる前に言えたな」
「もうそれ毎回言わなくていいから!」
少し笑ったことで、張り詰めていた空気が和らいだ。
休憩を終えて再び進み始め、それほど経たないうちに、景色が突然開けた。
先頭のフランが足を止める。
「……これは」
私たちも追いついた。
その先には、火山の内部を巨大な何かで抉ったような窪地が広がっていた。
底のあちこちで赤い光が動いている。
岩が光っているのではない。
溶岩だ。
何本もの溶岩流が窪地の底をゆっくりと進み、黒く固まり始めた表面の隙間から赤い光が脈打つように漏れている。ときどき表面が大きく膨らみ、破裂すると火の粉が宙へ舞った。
ここまで離れているのに、下から吹き上がる熱気が頬を焼くように熱い。
でも、私が見ていたのは溶岩だけではなかった。
窪地の向こう側。
赤黒い岩壁の途中に、明らかに自然のものではない形がある。
四角く整えられた石。
何本も並ぶ柱のようなもの。
そして、その奥へ続いている暗い入口。
「遺跡……?」
声が漏れた。
メロウは答えず、鳥の杖を握ったまま向こう側を見つめている。
リリィも目を細めた。
「石道、あそこへ続いてる」
途中で崩れ、灰に埋もれ、それでも途切れず残っていた古い石道は、窪地の向こう側へ向かっている。
そこには何かがある。
今度こそ、はっきり見える。
「行ける?」
私はフランを見る。
フランはすぐには答えず、現在地から窪地へ下りる斜面、底を流れる複数の溶岩、向こう岸までの距離を順番に確認した。
しばらくして首を横へ振る。
「ここから真っ直ぐは無理。下へ降りられたとしても、溶岩を越える方法がない」
「別の道は?」
リリィが地形を見る。
「探す価値はある。でも今日は時間が足りない」
オラクルも時計を確認する。
帰る時間が近い。
目の前に目的地らしい場所が見えているのに、そこへ行けない。
昨日よりずっと悔しかった。
「向こうにあるのに……」
思わず漏れた言葉に、メロウが反応した。
「だから面白いんじゃ」
「え?」
「見えたから終わりではない。見えたのに届かんのなら、次はどうやって行くかを調べればよい。古い道がここまで残っておる以上、昔の人間が向こうへ渡る方法を持っていた可能性もある」
メロウの目は悔しそうなのに、同時に楽しそうだった。
その感覚が少しだけ分かった。
ここまで追ってきた道は間違っていなかった。
何もなかったわけではない。
本当に向こう側に何かがある。
問題は、どうやってそこへ行くか。
私は《聖なるマップ》を開いた。
細い線は現在地で止まっていなかった。
窪地の向こう。
柱のようなものが見える場所へ向かって、さらに伸びている。
「マップも向こうだ」
私の声に、全員が《聖なるマップ》を覗き込んだ。
昨日、壁画を調べたあとで現れた小さな印。そこから今日になって伸び始めた細い線は、私たちが追ってきた石道とほとんど同じ方向へ進み、巨大な窪地を越えた先まで続いている。
終点らしき場所は、向こう岸に見える石造物と重なっていた。
胸が大きく鳴った。
やっぱり、あそこだ。
そう言いそうになって、飲み込む。
《聖なるマップ》が示しているからといって、向こうにラルメリオンがいると決まったわけではない。《紅蓮の雫》があるとも限らない。
それでも、何日も追ってきたものが目の前に見えている。
大図書館で読んだ記録。
火山の麓で聞いた昔話。
《炎の獅子ラルメリオン》。
☆2《紅蓮の雫》。
岩壁に刻まれていた獅子のような四本脚と、《赤き雫》《獅子》という古い文字。
そして、地図にも載っていない石道。
別々だったものが少しずつ同じ方向へ重なり、その先にあるものが今、肉眼で見えている。
行きたい。
その気持ちが強くなるほど、目の前を流れる溶岩が邪魔に思えた。
「ここから降りられないかな」
私は窪地の斜面を見る。
すぐ横からフランの声がした。
「フール、近づきすぎないで」
言われて、自分がいつの間にか縁へ一歩近づいていたことに気づいた。
足を止める。
「ごめん」
一歩戻った直後、窪地の底で溶岩が弾けた。
赤い飛沫が高く舞い、少し遅れて熱気が吹き上がってくる。距離はある。それなのに頬が熱くなり、私は反射的に腕で顔を覆った。
怖い。
その感覚が、ようやく興奮へ追いついた。
向こう側が見えたせいで、少しだけ忘れかけていた。
ここは火山だ。
私たちの都合で道を開けてくれる場所ではない。
「今のであの熱なら、下はもっとすごいよね」
私が言うと、フランは窪地を見たまま頷いた。
「うん。それに下へ降りることだけ考えたら駄目だと思う。向こうへ渡って、帰ってこられる道まで必要だから」
帰る。
その言葉で、昨日メロウへ言ったことを思い出した。
六人で行って、六人で帰る。
向こうへ着くだけなら、危険を無視して何か方法を試せるかもしれない。
でも、それでは駄目だ。
私はもう一度窪地を見る。
底では何本もの溶岩が流れ、その間に黒く固まった場所が点々と残っている。一見すれば、そこを繋げて歩けそうにも見えた。
でも見ている間にも、一つの黒い場所の縁が赤く変わった。
溶岩が流れ込んだのだ。
さっきまで地面に見えていたものが、ゆっくり呑み込まれていく。
「……あそこ、今消えた」
リリィも見ていた。
「うん。だから底を歩くのは危ない。通れたとしても、帰りまで同じ足場が残る保証がないよ」
私たちが考えている間にも、火山は形を変えている。
その事実が急に怖くなった。
大図書館の資料なら、机の上で何時間考えても紙が突然燃え上がることはない。
でもここでは違う。
考えている時間さえ、安全とは限らない。
「風も止まってきたな」
オラクルが言った。
さっきまで頬へ当たっていた風が、ほとんど感じられなくなっている。
両側を高い岩壁に囲まれた窪地だからなのか、空気が重く感じた。
メロウが布を鼻まで上げる。
「長居はせんほうがよい。窪地は噴気が溜まることもある」
「臭いで分かる?」
「種類による。分からんものもある」
その答えが一番怖かった。
見えない。
臭わない。
それでも危険かもしれない。
私は無意識にメリーのいる鞄へ手を添えた。
「メリー、大丈夫?」
『うん。でも……』
「何?」
鞄の隙間から顔を出したメリーが、窪地の向こう側を見る。
『向こう、ちょっと変』
全員の空気が変わった。
「何が?」
私はすぐ尋ねた。
メリーは困ったように首を傾げる。
『分かんない。グライツへ行く前の黒い欠片のときとは違うよ。あんな嫌な感じじゃない。でも……何かある気がする』
「魔法?」
『それも分かんない』
メロウが食いつきかけて、一歩目で止まった。
私たち全員の視線を受けたからだ。
「……ここで質問攻めにはせん」
「成長したね」
「お前さんに言われたくない!」
いつもの言い返しだったけれど、声は少し低かった。
メリーにも分からない。
でも、何かを感じている。
そして《聖なるマップ》も向こう側を示している。
私はもう一度マップへ視線を落とした。
その瞬間だった。
「……え?」
細い線が揺れた。
本当に一瞬だった。
目の錯覚かと思った。
私はマップを両手で持ち直す。
「どうした?」
リリィが覗き込む。
「今、線が動いた気がした」
「動いた?」
「うん。光ったっていうか……揺れたっていうか」
全員で見る。
何も起こらない。
昨日現れた印から向こう岸へ伸びる線は、静かに残っているだけだった。
「もう一回起きない?」
メロウが聞く。
「分かんない」
私はマップを傾けないよう、そのまま待った。
五秒。
十秒。
変化はない。
「気のせいかな」
言いながらも、自信がなかった。
確かに見えた気がする。
でも、見たいものが目の前にある。
向こうへ行きたいと思っている。
だから、自分の期待でそう見えただけかもしれない。
リリィが私の横からマップを見る。
「今は《一度そう見えた》までにしよう」
「うん」
それが一番正しい。
メロウも珍しく急かさなかった。
「記録だけ残せ。次に来たとき同じことが起きれば、比較できる」
私は紙を取り出し、《窪地到着後、向こう岸へ伸びた線が一度だけ揺れたように見えた》と書いた。
断定しない。
でも忘れない。
それでいい。
紙をしまった直後、地面の奥から低い音が響いた。
身体で感じる音だった。
「また地震?」
私が言い終わるより早く、足元が僅かに揺れた。
フランが周囲を見る。
「壁から離れて!」
私たちは窪地の縁から離れ、少し開けた場所へ移動した。
揺れは昨日ほど強くない。
それでも岩壁の上から小石が落ち、灰の表面が細かく震えている。
そして窪地の底では、別の変化が起きた。
一つの溶岩流が大きく膨らむ。
表面が裂け、真っ赤な中身が溢れた。
それまで黒く固まっていた岩を押し退けるように流れが広がり、別の細い溶岩と繋がっていく。
「あ……」
さっき私が《歩けるかもしれない》と思った場所だった。
赤い流れが完全に覆っていく。
もし下へ降りていたら。
もし黒い地面を安全だと思って渡っていたら。
喉が詰まった。
「戻ろう」
今度はオラクルではなく、私が言った。
誰も反対しなかった。
でも撤退を始めようとした、そのときだった。
メリーが鞄の中から叫ぶ。
『フール、音!』
パキッ、と乾いた音がした。
来た道の方向。
振り返る。
石道の端にある黒い岩へ、細い亀裂が走った。
「離れろ!」
フランに肩を掴まれ、山側へ引かれる。
次の瞬間、岩の一部が崩れた。
何個もの石が石道を横切り、そのまま斜面へ落ちていく。大きな崩落ではない。それでも、ほんの少し前まで私たちが歩いていた場所だった。
心臓が痛いほど鳴っている。
熱いはずなのに、背中だけが冷たかった。
「全員いる?」
リリィがすぐ確認する。
私。
メリー。
フラン。
リリィ。
オラクル。
メロウ。
六人。
誰も怪我をしていない。
「道は?」
オラクルの問いに、フランが崩れた箇所を確認した。
「通れる。でも灰と石が増えてる。一人ずつ行こう」
急ぐ。
でも走らない。
その判断が、言われなくても全員に伝わっていた。
フランが先へ進み、足を置ける場所を確認する。
リリィ。
次が私。
メリーには鞄の奥へ入ってもらった。
「絶対出ないでね」
『うん』
崩れた場所へ足を置く。
さっきまで通った道なのに、まるで知らない場所に見えた。灰が厚くなり、石道の輪郭も分かりにくい。
右足を置く。
動かない。
左足を前へ。
地面の奥で、また低い音がした。
身体が固まりそうになる。
「フール、俺を見て」
前からフランの声がした。
顔を上げる。
「次は右の黒い石。そのあと左。ゆっくりでいい」
「うん」
言われた場所へ足を運ぶ。
一歩ずつ。
怖い。
さっきまで私は、どうすれば向こう側へ行けるのかばかり考えていた。
今は、どうすれば全員で帰れるのかしか考えられない。
それでいい。
今はそれが一番大事だ。
最後の一歩を越え、フランのところへ辿り着いた。
「大丈夫?」
「……うん。怖かった」
「俺も」
フランは簡単に答えた。
「だから帰ろう」
私は頷いた。
全員が崩落箇所を越えたあとも、誰も足を速めすぎなかった。
来るときに確認した危険箇所を、一つずつ逆に辿る。
熱い地面。
細い噴気。
崩れた石道。
壁画。
そこまで戻ったところで、ようやく短い休憩を取った。
メリーも鞄から出てくる。
『暑かった……』
「ごめんね」
『でも出たら危なかったから平気』
私は小さな頭を撫でた。
その横で、メロウは窪地の方向を見ている。
オラクルが声を掛ける。
「爺さん」
「分かっておる。今日は戻る」
メロウは悔しそうだった。
でも、戻りたいと言った私に反対しなかった。
「向こうに何かあることは分かった。石道も《聖なるマップ》も向こうを示しておる。それなら、今日無理をする必要はない。次は《どうやって安全に行くか》を調べればよい」
私は少し笑った。
「メロウさんも成長したね」
「お前さんにだけは言われたくないわ!」
いつもの大声が戻ったことで、少しだけ安心した。
集落まで下山したころには、空が夕方の色へ変わり始めていた。
宿へ戻ると、休む前に今日の記録を広げた。
リリィが窪地の地形を描く。
「ここが私たちの到達地点。向こう側に石造物。間に複数の溶岩流。今日見ただけでも流れが変わった」
フランが斜面の位置を書き加える。
「直接下りるのも危険。底へ行けても、同じ道で帰れる保証がない」
「なら明日は迂回路探しだ」
オラクルが窪地の左右を指した。
「北と南。両方確認する。石道以外に回り込める場所があるかもしれねえ」
メロウも頷いた。
「昔の人間が向こう側へ行っておったなら、何らかの方法が存在した可能性はある。まずそれを探すべきじゃ」
私は今日の《聖なるマップ》を開いた。
昨日の印。
そこから伸びた線。
そして、窪地の向こう側。
線は今も消えていない。
「これも明日、同じ場所で確認したい」
私は言った。
「今日、一回だけ線が揺れたように見えたから。もし同じことが起きたら、今度はみんなにも見てほしい」
「時間と場所も合わせよう」
リリィが答える。
「何か条件があるなら比較できるかもしれない」
メロウがすぐ紙へ書き込む。
「《聖なるマップ》の反応確認も調査項目へ追加じゃな」
次の目的が一つ増えた。
窪地を回り込める道があるか。
昔の人々はどうやって向こう岸へ行ったのか。
そして、なぜ《聖なるマップ》の線があの場所で一度だけ揺れたのか。
窓の外には火山が見えていた。
夜が近づき、山肌の一部が赤くぼんやりと光っている。
今日、私は向こう側へ行きたいという気持ちだけでは進めないことを知った。
見えているのに届かない。
進みたいのに進めない。
でも、それは終わりではない。
明日は北と南の迂回路を調べる。
それでも道がなければ、別の方法を探す。
私は《聖なるマップ》に残る細い線へ指を置いた。
線は確かに、溶岩の向こうへ続いている。
そして一度だけ。
私には、それがこちらを呼ぶように揺れたように見えた。




