第174話 灼熱の山に残された道
翌朝、集落を出た瞬間から、昨日までとは空気が違っていた。
太陽はまだ山の稜線から完全には昇りきっていない。それなのに、火山へ続く東側の道には夜の冷たさがほとんど残っておらず、地面からじわじわと熱が上がってくる。
集落の家々を振り返れば、黒や赤茶色の石壁に朝日が当たり、屋根へ積もった灰を住民たちが長い木べらで落としていた。
その日常のすぐ向こうに、巨大な火山がそびえている。
麓から見上げる山は、昨日まで遠くから眺めていたものとはまるで違った。黒い岩肌が空へ向かって何重にもせり上がり、ところどころから白い噴気が細く立ち上っている。さらに上では灰色の噴煙がゆっくり形を変えながら空へ広がり、風に流された灰が朝日を薄く曇らせていた。
草木も、集落から少し離れただけで急に減っている。
「ここから先、暑くなる一方?」
私は口元の布をまだ首に掛けたまま、メロウへ尋ねた。
「基本的にはな。ただし場所による。標高が上がれば気温そのものは下がるが、火山では地面から来る熱がある。噴気孔の近くなど、気温だけ見ても意味がない場所も多い」
「じゃあ暑くないと思って近づいたら危ないこともある?」
「ある。だから足元を見ろ。臭いも気にせい。地面の色が急に変わる場所へ、考えなしに入るな」
「分かった」
「返事はよい」
「昨日からちゃんとやってるよ!」
「知っておる。念押しじゃ」
少し前ではオラクルとリリィが地図を確認している。
昨日、集落で聞いた現在使われている道と、メロウが持っている古地図。二枚を重ねるように見比べ、最初に目指す場所を決めていた。
目的は、昨日聞いた《古い石道》だ。
黒い岩が二つ並ぶ場所から分岐し、今はほとんど使われていない道。その先がどこへ続くのかは、集落の人にも分からない。
ただ、近年確認された加工石や切削跡と同じ方向にある。
まずそこを調べる。
「今日は山頂を目指すわけじゃねえからな」
歩き始める前に、オラクルが全員を見る。
「石道を見つける。安全に追えるところまで追う。夕方になる前に戻る。欲張って奥まで行くな」
「分かってるって」
私が答える。
オラクルの視線はそのままメロウへ移った。
「爺さんもだぞ」
「なぜわしまで!」
「一番心配だからだよ」
リリィが真顔で言った。
フランも頷く。
「昨日まで三日間一人で坑道にいた人だから」
「研究者を何だと思っとる!」
「止めないと帰ってこない人」
私が答えると、メリーまで『うん』と頷いた。
メロウは何か言い返そうとしていたけれど、四人に見られて諦めたらしい。
「……夕方までじゃな」
「よし」
「なぜお前さんに許可されたみたいになっとるんじゃ」
朝から騒がしい。
でも、緊張が少し和らいだ。
六人で火山へ向かう。
最初のうちは道と呼べるものが残っていた。
黒い石を砕いて固めた細い道が斜面を縫うように伸び、荷車の車輪が通ったらしい二本の跡もある。集落の人たちが今も石を運ぶために使っているらしく、ところどころに目印の杭まで立っていた。
ただ、歩き始めて一時間ほど経つと、景色は大きく変わった。
灰が深くなる。
一歩踏み込むたびに靴が少し沈み、細かな粉が舞い上がった。
風が吹けば灰が横から叩きつけられ、布で口と鼻を覆っていても、目を細めなければ歩けない。
「メリー、大丈夫?」
『まだ大丈夫!』
今日は私の肩ではなく、少し高いところを飛んでいたメリーが答える。
でも、いつもより低い。
風が強くなるたび、私の近くへ戻ってくる。
「無理して飛ばなくていいよ」
『歩いたら灰に埋まるもん』
確かにメリーの大きさでは、地面へ降りたほうが大変そうだった。
「疲れたら鞄ね」
『まだ平気!』
そのやり取りを聞いていたメロウが、空ではなくメリーを見た。
「精霊は火山灰をどう感じる?」
『どうって?』
「人間と同じように息苦しいだけか、それとも魔力に違和感があるか」
メリーは飛びながら少し考えた。
『今は普通の灰だと思う。グライツへ行く前に見た黒い欠片の近くみたいな感じはしないよ』
私は思わずメリーを見る。
あのとき。
山腹の巨大な傷。
内部から青白く光る黒い欠片。
メリーは《普通の魔法とは違う》と感じていた。
今は違う。
「それも記録じゃ」
メロウが紙へ書き込もうとして、歩きながらなのを思い出したらしい。
一度手を止める。
「あとで書く」
「今書き始めたら転ぶよ」
「分かっておる!」
少しは学んでいる。
さらに進むと、フランが突然足を止めた。
「待って」
全員が止まる。
フランは前方ではなく、地面を見ていた。
「何?」
「ここから色が違う」
言われて初めて気づいた。
灰色だった地面が、数歩先から黄色っぽく変色している。そこだけ岩の隙間から白いものが細く立ち上っていた。
メロウが前へ出ようとする。
「待って」
今度はリリィが止めた。
「近づかないで確認できない?」
「できる」
メロウは素直に止まり、長い金属棒を荷物から取り出した。
朝、私が用途を聞いた道具だ。
離れた場所から地面へ伸ばし、黄色く変色した部分の手前を軽く突く。
何も起きない。
もう少し先。
その瞬間、岩の隙間から白い噴気が勢いよく吹き出した。
「うわっ!」
私は反射的に一歩下がった。
メリーも私の後ろへ隠れる。
噴気は数秒で弱くなったものの、鼻の奥へ刺さるような臭いが漂ってきた。
「これが噴気孔?」
「そうじゃ。小さいがな」
メロウは嬉しそうだった。
「嬉しそうにするところ?」
「実物を見れば嬉しいじゃろ!」
「近づいたら危ないんでしょ!」
「危険と興味は両立する!」
この人、本当に考古学者なのだと思う。
オラクルは地図へ印を付けた。
「帰りもここ通るなら忘れんな。風向き変わって見えにくくなるかもしれねえ」
私も《聖なるマップ》を開く。
現在地を確認する。
道そのものはまだ進んでいる。
特別な変化はない。
メロウがすぐ覗き込んできた。
「今の噴気孔は?」
「何も出てない」
「記録しておけ。《反応なし》じゃ」
「はいはい」
でも、少し面白くなってきた。
今まで私は《聖なるマップ》に何かが現れれば喜んでいた。
メロウは、何も起きなかったことまで調査結果として扱う。
同じ道具なのに、使い方が増えた気がする。
噴気孔を大きく迂回し、さらに斜面を登る。
昼が近づくころには、集落がかなり小さく見えるようになっていた。
そこでようやく、昨日聞いた目印を見つけた。
「黒い岩が二つ」
リリィが指す。
斜面の少し上。
人の背丈より大きな黒い岩が、門のように並んでいる。
現在使われている道は、その右側を通ってさらに上へ続いていた。
私たちが探しているのは左。
最初は何もないように見えた。
灰。
岩。
ところどころに固まった黒い地面。
でもリリィはすぐ歩き出さなかった。
しゃがんで地面を見ている。
「どうしたの?」
「灰の下」
手袋を付けた指で表面を少し払う。
灰の下から、平たい石の角が現れた。
自然の岩とは違う。
真っ直ぐだ。
リリィは少し離れた場所でも灰を払う。
また石。
その次にも。
一定の間隔で並んでいる。
「道……」
私は声を落とした。
メロウが隣へ来る。
さっきまでの騒がしさが消えていた。
「もっと見せてくれ」
今度は全員で慎重に灰を払った。
全部を掘り出す必要はない。
位置だけ確認する。
一つ。
二つ。
三つ。
平たい石が斜面の奥へ続いている。
現在の道とは明らかに方向が違った。
「人工物?」
私が聞く。
メロウはすぐ頷かなかった。
石の縁。
間隔。
表面。
周囲の岩。
一つずつ確認する。
「可能性は高い。少なくとも自然に割れた石が偶然ここまで等間隔に並んだ、と考えるよりはな」
リリィが灰の深さを見る。
「最近使われた跡はないですね」
「ああ」
メロウが立ち上がる。
その顔は嬉しそうだった。
でも興奮だけではない。
何年も紙で追ってきたものを、初めて自分の目で確かめている顔だった。
「これが、昨日聞いた古い石道……」
私は灰の下から現れた道を見る。
どこへ続いているのかは分からない。
ただ、確かに人の手が入った可能性のあるものが、火山の奥へ向かっている。
「追う?」
聞くまでもなかった。
それでも、みんなを見る。
オラクルは空と時間を確認する。
「昼前だ。予定どおりなら、まだ進める。ただし帰りの時間は変えねえぞ」
フランは石道の先を見る。
「地面を確認しながらなら行ける。熱い場所が増えたら止まろう」
リリィはすでに石の並びを見ている。
「途中で埋まってても、向きは追えるかもしれない」
メリーは私の肩へ戻ってきた。
『行く』
最後にメロウ。
聞く必要すらなかった。
鳥の杖を握る手に力が入っている。
「行くぞ」
私たちは現在使われている道を離れた。
そこから先は、急に歩きにくくなった。
石道が残っているといっても、昔の姿そのままではない。灰に埋まった部分もあれば、地割れでずれた場所もある。溶岩が固まった黒い岩に覆われ、完全に消えているところさえあった。
それでも、少し先でまた石が現れる。
リリィが方向を読む。
メロウが加工の痕跡を確認する。
フランが先の地面を確かめる。
オラクルが時間と帰路を管理する。
メリーは周囲の違和感を探す。
私は《聖なるマップ》と実際の景色を見比べながら、その全部についていった。
一人なら、とっくに道を見失っていたと思う。
六人だから進める。
そのことが、少し嬉しかった。
しばらく進んだところで、石道が大きな黒い岩壁へぶつかった。
「行き止まり?」
私は見上げる。
岩壁は左右へ長く続いている。
でもリリィは首を横へ振った。
「道がここへ向かってるなら、何かあるはず」
メロウも岩壁へ近づく。
表面を調べる。
鳥の杖ではなく、手袋をした指で灰を払った。
「フール。魔法灯」
「明るいのに?」
「影を横から当てたい」
言われたとおり魔法灯を取り出し、岩壁の横から光を当てる。
昼の光では見えなかった浅い凹凸が浮かび上がった。
直線。
その下に、もう一本。
さらに横へ続く細い溝。
「削ってある……?」
「そう見える」
メロウは興奮を抑えるようにゆっくり答えた。
全員で灰を払う。
少しずつ形が現れてくる。
ただの切削跡ではなかった。
何かを描いている。
大きな四本脚。
身体から外側へ伸びる何本もの線。
頭部らしき部分の周囲には、炎のように波打つ模様。
私は息を止めた。
獅子に見える。
炎を纏った、大きな獅子。
でも、口にはしなかった。
隣のメロウも同じだった。
しばらく誰も答えを決めず、岩壁に残されたものを見つめていた。
やがてリリィが、絵の下を指した。
「文字があります」
メロウがすぐしゃがむ。
古い文字らしい。
かなり削れている。
全部は読めない。
メロウは指でなぞらず、光の角度を変えながら一文字ずつ確認していった。
「……炎……ではない。これは《赤》か」
「何て書いてあるの?」
「待て。欠けておる」
メロウの声が低くなる。
私たちは黙って待った。
何度も光を変え、別の角度から見る。
そしてメロウが、ようやく読める部分だけを口にした。
「《赤き雫……獅子の……》」
そこから先は欠けていた。
完全な文章ではない。
意味もまだ分からない。
でも、《赤き雫》と《獅子》が同じ岩壁に刻まれている。
私は昨日聞いた二つの名前を思い出した。
☆2《紅蓮の雫》。
《炎の獅子ラルメリオン》。
「偶然かな」
私が聞く。
メロウは壁から目を離さなかった。
「それを調べるために、ここまで来たんじゃ」
その答えが、今は一番嬉しかった。
昔話だけではなくなった。
まだ答えではない。
でも火山の中に、確かに次の手掛かりが残っていた。
メロウが岩壁の模様を紙へ写し始める。
リリィは石道がさらにどちらへ続くかを探し、フランは周囲の安全を確認している。
私は《聖なるマップ》を開いた。
さっきまでと同じように見えた。
でも、しばらく待つと、岩壁のある位置に小さな印が浮かび上がった。
「……出た」
私の声に、岩壁を調べていた全員が振り返った。
《聖なるマップ》には、ついさっきまで存在しなかった小さな印が浮かんでいる。
カードではない。
文字も表示されていない。
だから、これだけで壁画が幻獣種に関係すると決めることはできない。それでも、集落からここまで歩いてきた間、火山岩にも噴気孔にも反応しなかった《聖なるマップ》が、この岩壁を調べたあとで初めて変化した。
メロウがすぐ隣まで来た。
「触るな。そのままじゃ」
「触らないよ」
「消える可能性は?」
「分かんない。今まで登録されたものは残ってるけど、これが同じものなのかもまだ分からない」
「なら、まず位置を記録する」
メロウは自分の紙へ現在地を書き込もうとして、途中でリリィを見る。
「この石道の分岐から、ここまでどのくらい進んだ?」
「待ってください。歩数と方向を確認します」
リリィは来た道を振り返り、途中で記録していた目印と地図を照らし合わせる。オラクルも時刻を確認し、私は《聖なるマップ》に現れた印の形を別の紙へ写した。
嬉しい。
それは隠せなかった。
でも、だからこそ雑に扱いたくなかった。
大図書館で何度も学んだ。
《何かがある》と、《自分たちが考えている答えが正しい》は違う。
「フール」
フランが呼ぶ。
「うん?」
「今、何が分かった?」
試されているような気がして、私はもう一度マップと岩壁を見比べた。
「この岩壁を調べたあと、《聖なるマップ》に新しい印が出た。壁画には獅子みたいな四本脚のものと、炎みたいな模様がある。それからメロウさんが読めた範囲では、《赤き雫》と《獅子》って文字が同じ場所に残ってる」
「ラルメリオンがここにいた?」
私は首を横へ振った。
「まだ分からない」
フランが笑った。
「うん。それでいいと思う」
「何その確認」
「言いたくなってそうだったから」
「ちょっとだけね」
正直に答えると、オラクルが鼻で笑った。
「ちょっとで済んでるなら上出来だ」
その横で、メロウは岩壁から離れようとしなかった。
壁画の形を写し、残っている文字の位置を記録し、岩そのものの色まで紙へ書き込んでいる。さらに採取用の小槌を取り出したので、オラクルがすぐ止めた。
「何する気だ」
「周辺に落ちている石片を少量――」
「壁を削るなよ」
「削らん! わしを何だと思っとる!」
「放っといたら一晩ここにいる爺さん」
「否定できんのが腹立つのう……」
私は笑いながら《聖なるマップ》を閉じた。
そのときだった。
足の裏に、かすかな違和感があった。
最初は誰かが近くを歩いたのだと思った。
でも違う。
地面そのものが震えている。
「……今、揺れた?」
私が尋ねるより早く、フランの表情が変わった。
「全員、壁から離れて」
声の調子だけで身体が動いた。
私はメリーを肩から抱き寄せ、岩壁から数歩離れる。リリィもすぐ荷物を持ち、メロウは写していた紙を掴んだまま後退した。
次の瞬間、地面の奥から低い音が響いた。
腹の底へ直接届くような音だった。
揺れは最初より強くなり、足元に積もっていた灰が細かく震える。岩壁の上から小石がぱらぱらと落ち始め、フランが私たちと崖の間へ入った。
「もっと離れて!」
全員で石道側へ戻る。
その直後、さっきまでメロウが立っていた場所へ拳ほどの岩が落ちた。
乾いた音とともに砕け、灰が舞い上がる。
『メロウ、今いたところ!』
メリーが私の腕の中で叫んだ。
「分かっとる!」
メロウの顔から、さっきまでの興奮が消えていた。
揺れは十秒ほどで弱くなった。
でも誰もすぐには動かなかった。
火山の斜面に再び静けさが戻るまで待ち、フランが周囲を確認する。私は腕の中のメリーを見る。
「大丈夫?」
『うん。フールは?』
「平気」
フラン、リリィ、オラクル、メロウも怪我はない。
そこでようやく息を吐けた。
「小規模な地震じゃな」
メロウが岩壁の上を見る。
「この地域では珍しくないと聞いたが……」
「珍しくなくても、岩は落ちる」
オラクルが言った。
「これで分かっただろ。資料が面白いからって壁に張り付いてたら死ぬぞ」
メロウは反論しなかった。
さっき落ちた岩を見ている。
「……ああ。今のはお前さんが正しい」
珍しく素直だった。
私は少し驚いたけれど、今は笑うところではなかった。
揺れが止まっても、すぐ調査を再開する気にはなれない。
火山へ入る前から危険だとは聞いていた。
噴気孔。
火山灰。
熱。
崩落。
小さな地震。
全部知識としては聞いていた。
でも、実際に自分がいた場所へ岩が落ちると意味が変わる。
ここでは、何も襲ってこなくても怪我をする。
強い魔物と戦えるフランがいても、地面が崩れれば関係ない。
「フール」
オラクルがこちらを見る。
「今の時間は?」
空を見る。
それから持っている時計を確認した。
「……戻る時間に近い」
「どうする?」
少しだけ迷った。
壁画の先を見たい。
古い石道は、ここで終わっているようには思えない。
《聖なるマップ》にも初めて印が出た。
あと少しだけ進めば、もっと大きな手掛かりが見つかるかもしれない。
でも、その《あと少し》を昨日までの私は何度も言っていた。
私は石道の先を一度だけ見てから答えた。
「今日は戻る」
メロウがこちらを見る。
反対されるかと思った。
でも何も言わない。
「壁画の記録は取れた。《聖なるマップ》にも印が残った。それに、今の地震のあとで奥へ行くのは危ないと思う」
「俺も賛成」
フランがすぐ答えた。
「少なくとも落石が落ち着いたか分からない状態で、知らない道へ入るのはやめたほうがいい」
リリィも地面を確認しながら頷く。
「帰り道も確認しないと。さっきの揺れで変わった場所があるかもしれないから」
全員が同じ判断だった。
それでもメロウだけは、もう一度岩壁を見た。
「一つだけ確認させてくれ」
オラクルの目が細くなる。
「何だ」
「道じゃ。触らん。奥へも進まん。この石道が壁画で終わっておるのか、それとも続いておるのかだけ見たい」
オラクルは少し考えたあと、条件を付けた。
「五分。壁から離れて確認するだけだ」
「十分――」
「五分」
「……五分じゃな」
そこは負けた。
私たちは岩壁から距離を取りながら、石道の続きを探した。
最初は、壁画の前で終わっているように見えた。
でもリリィが違和感に気づいた。
「こっち」
岩壁の右側。
灰に覆われた斜面へ移動し、靴先ではなく手袋をした手で表面を少し払う。
下から平たい石の端が現れた。
もう少し先。
また一つ。
石道は岩壁の前で終わっていなかった。
壁画の横を通り、火山のさらに奥へ続いている。
「方向は?」
オラクルが聞く。
リリィは地図と方角を確認した。
「南西寄り。山の内側へ回り込んでる」
メロウが古地図を開く。
しかし、その先に道は描かれていなかった。
「地図にない?」
私が覗き込む。
「ああ」
メロウの目が細くなる。
「少なくとも、わしが持っているこの測量図にはな」
古い地図にも載っていない石道。
その道が、獅子と《赤き雫》の文字が刻まれた岩壁を通り、火山の奥へ続いている。
胸が高鳴る。
今度は誰も止めなかった。
ただし、進みもしなかった。
今日はここまで。
その線を、全員が守った。
「位置を記録しよう」
私は《聖なるマップ》をもう一度開いた。
壁画の印。
現在地。
石道が伸びている方向。
リリィの記録と合わせる。
メロウも古地図へ新しい線を書き込んだ。
地図に存在しなかった道が、一本増える。
「明日はここからだね」
私が言うと、メロウが頷いた。
「そうなるな。ただし今日の地震で状態が変わっておる可能性もある。来たときと同じ道だと思うな」
「うん」
それも覚えた。
私たちは帰路についた。
下り始めてすぐ、火山の怖さをもう一度思い知らされた。
朝に通った噴気孔の周囲で新しい亀裂が一本増えていたのだ。幅は指二本ほどしかない。それでも、朝にはなかった。
フランが先に気づかなければ、私は普通に近づいていたと思う。
「本当に変わるんだ……」
私は少し離れた場所から亀裂を見る。
メロウが隣で頷く。
「だから昨日の安全は、今日の安全を保証せん」
大げさな話だと思っていたわけではない。
それでも実際に見ると、重みが違った。
私たちは往路より時間を掛けて下った。
一人が先へ行きすぎないよう距離を保ち、灰で足場が分からない場所ではフランが先に確認する。リリィは朝の目印と現在の地形を比べ、メロウは危険な地面の特徴を教えてくれた。
オラクルは何度も時間を確認し、予定より遅れそうになると休憩時間まで調整する。
メリーも疲れてからは無理に飛ばず、私の鞄から顔だけ出して周囲を見ていた。
六人のうち、誰か一人だけでは今日の場所まで行けなかったと思う。
夕方になる前には、無事に麓の集落まで戻れた。
宿へ向かう途中、昨日見た子供たちがまた遊んでいた。
赤い布を被せた木の枝。
火獅子。
昨日なら、ただ昔話が遊びに残っているのだと思った。
今日は少し違って見えた。
山の中には、本当に獅子のようなものが刻まれた古い壁画があった。
その下には、完全ではないものの《赤き雫》と《獅子》という文字まで残っていた。
それでも、子供たちの遊びがその壁画から直接伝わったものなのかは分からない。
分からないことは、まだたくさんある。
だから明日も行く。
宿へ戻ると、私たちは休む前に今日の記録を広げた。
メロウが写した壁画。
リリィが記録した石道。
火山内で確認した危険箇所。
そして《聖なるマップ》へ新しく現れた印。
「明日は、石道の続き」
私は地図を指した。
「ただし、今日と同じ場所が安全だと思わない。地震のあとだから、最初から確認し直す」
オラクルが満足そうに頷いた。
「それならいい」
メロウは自分の古地図へ、今日見つけた石道を一本の線として書き加えていた。
その線は壁画を越え、何も描かれていない場所へ伸びたところで止まっている。
「この先、何があるんだろう」
私が呟くと、メロウは筆を置いた。
「分からん」
以前なら少し物足りなく感じたかもしれないその答えが、今は違って聞こえる。
分からない。
だから、明日確かめに行ける。
壁画に残された《赤き雫》と《獅子》は、本当に《紅蓮の雫》とラルメリオンを示しているのか。
古い石道は、なぜ今の地図にもメロウの古地図にも残っていないのか。
そして、道は火山のどこへ続いているのか。
今日、私たちは答えを見つけたわけではない。
その代わり、火山の奥へ続く道を見つけた。
私は《聖なるマップ》に浮かんだ新しい印を見つめる。
明日は、この印の先へ行く。
ただし今度は、今日より火山の奥へ。
地図にも載っていない、古い石道の続きを追って。




