第170話 追跡不能を追った男
曲がり角の向こうから、紙をめくる音が聞こえていた。
黄色い魔法灯の光が岩壁を揺らし、その手前には大きな荷物と古い測量図が置かれている。ここまで追ってきた靴跡も杖の跡も、すべてその場所へ続いていた。
私たちは何日もメロウを探してきた。
大図書館の利用記録から専門書店へ進み、地図工房、旅道具屋、北門、古道、採石場跡へ辿り着いた。崩落した坑道では一度引き返し、別の坑道から迂回して、ようやくここまで来た。
もう声を掛ければ届く。
それでも私は、曲がり角から勢いよく飛び出すことはしなかった。
フランが周囲の安全を確認し、リリィも地面に残る最後の痕跡を見ている。オラクルは来た道を一度振り返り、メリーは私の肩で息を潜めていた。
全員の視線が戻ったところで、私は小さく頷く。
そして、曲がり角を抜けた。
「あの――」
声を掛けた瞬間だった。
「動くでない!」
老人の鋭い声が坑道へ響いた。
私は反射的に足を止めた。
フランの右手が腰の短剣へ動き、リリィもすぐ周囲を見る。メリーは私の髪を掴み、オラクルだけが老人ではなく天井へ視線を向けていた。
「そこじゃ、その右足! 一歩も動かすでないぞ!」
言われて初めて、自分の足元を見る。
右足のすぐ先。
床から細い石の板のようなものが僅かに突き出していた。
自然の岩ではない。
四角く削られ、その表面に細かな線が刻まれている。
老人は岩壁の前からゆっくり立ち上がった。
そして、ようやくその姿が全部見えた。
「……本当にタヌキだ」
思わず口から出た。
『鳥もいる!』
メリーまで声を上げる。
目の前にいた老人は、聞いていた以上に派手だった。
頭から被っている大きなフードには、丸い耳と鼻まで付いたタヌキの顔がそのまま縫い付けられている。ローブには赤、紫、金色の布が何枚も重なり、暗い坑道の中なのに一人だけ祭りへ来たみたいだった。
岩壁へ立て掛けられた杖の先端には、こちらを睨んでいるような鳥の顔まで付いている。
「初対面の老人を見て最初に言うことがそれか!」
老人が怒鳴った。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
『でもタヌキだよ?』
「メリー!」
「精霊までおるのか……」
老人は額へ手を当てたあと、私の足元を指した。
「それより足を退けるなら後ろへじゃ。前へ出すな。そこにあるのは古い測量標じゃぞ」
「測量標?」
「この採石場が使われるより前のものかもしれん。お前さんが踏めば、何十年どころか何百年分の手掛かりが一歩で終わる」
私は慌てて右足を後ろへ戻した。
今度は踏む場所を確認してから動く。
老人はそれを見届けると、ようやく大きく息を吐いた。
「まったく……足音が聞こえたから何者かと思えば、子供まで連れて何をしに来たんじゃ」
「あなたを探しに来ました」
「わしを?」
「メロウさんですよね?」
老人の眉が動いた。
さっきまでの騒がしさが少しだけ消える。
「そうじゃが。お前さんら、誰じゃ?」
見つけた。
何日も追っていた名前の本人が、ようやく目の前にいる。
嬉しくなって一気に説明しそうになったけれど、横からオラクルの声が飛んできた。
「順番に話せ。ここまで追ってきた説明だけで日が暮れるぞ」
「分かってるよ」
まず私たちは名乗った。
私。
オラクル。
メリー。
フラン。
リリィ。
メロウは一人ずつ顔を見たあと、オラクルのところで少し長く止まった。
「タバコを咥えた猫とは珍しいのう」
「タヌキ被った爺さんに言われたくねえな」
「これは調査装束じゃ!」
「どういう調査したらタヌキが必要になるんだよ」
「山では目立つ!」
「目立ったら駄目だろ」
「遭難したとき見つけてもらいやすいじゃろ!」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
『ちゃんと理由あった』
メリーだけが感心している。
私は笑いそうになるのを堪えながら、ようやく本題へ戻した。
「私たち、グライツの大図書館で幻獣種を調べてるんです。それで、メロウさんがずっと研究してるって知って……」
「幻獣種?」
空気が少し変わった。
メロウの視線が私へ戻る。
「どこでわしの研究を知った?」
「大図書館です。メロウさんが残した記録も読みました」
「どれじゃ」
「六体についてまとめたものです」
メロウの表情から、さっきまでの怒りが消えた。
私は続ける。
「人魚、雷鳥、氷蛇、炎獅子。それから、光を纏う剣士と……虹色の光を操る人型の存在」
最後の一つを口にした瞬間、メロウの目が細くなった。
「第六種まで読んだのか」
「はい」
「なら、その先に何と書いてあった?」
質問の意味は分かった。
私は覚えている言葉をそのまま答えた。
「《第六種――追跡不能》」
坑道が静かになった。
メロウはしばらく私を見たあと、岩壁の前に置いていた紙を拾い上げた。
「それで、わしなら続きを知っておると思って山まで追ってきたわけか」
「それだけじゃありません」
今度はリリィが答えた。
「大図書館であなたの最終利用日を確認しました。そのあと専門書店、地図工房、旅道具屋、北門の記録を追って、古道まで来ました」
「ほう」
「古道の入口で装飾品らしいものも見つけました。鳥の形をした木の飾りと、金色の金具です」
メロウの顔色が変わった。
自分の杖を見る。
鳥の顔の横。
よく見ると、片側だけ小さな飾りが欠けていた。
次にタヌキのフードを両手で触り始める。
「……ない」
『やっぱりタヌキ!』
メリーが嬉しそうに言う。
「昨日からないと思っておったんじゃ! どこで落としたか分からんかった!」
「じゃあ、あれメロウさんの?」
「おそらくな。鳥のほうもじゃ。帰りに探そうと思っておった」
リリィがようやく小さく息を吐いた。
ここまで追ってきた痕跡が、本人の口から繋がった。
赤紫色の繊維も、紫と金の組紐も、あの派手なローブや装飾から落ちた可能性が高い。
「追跡成功だね」
私が言うと、リリィは少し笑った。
「うん。これで本人だって確認できた」
「そこを疑っておったのか!?」
「会うまでは」
「慎重な娘じゃな……」
「褒め言葉にしとけ」
オラクルが言う。
重かった大図書館での調査から何日ぶりだろう。
こんなふうに笑いながら手掛かりが答えへ変わるのは。
でも、ここへ来た本当の目的はまだ残っている。
「メロウさんは、何でこの採石場に?」
尋ねると、メロウは少し迷ったあと、岩壁へ向き直った。
「古い道を調べておった」
「幻獣種と関係あるんですか?」
「それを調べるために来たんじゃ」
即答ではなかった。
そのことが、逆に少し嬉しかった。
何でも知っている人ではない。
メロウも私たちと同じように、分からないから調べている。
「昔の記録には、この山を越えてさらに西へ向かう道があった形跡が残っとる。しかし今の地図にはない。採石場が作られるより古い時代の道じゃ」
メロウは足元の測量標を示した。
「これもその一つかもしれん。採石場のために作られたものなら、向きがおかしい。もっと古い何かを再利用した可能性がある」
「西……」
第五体について残っていた手掛かりを思い出す。
西方の伝承。
古い写本。
壁画。
でも、私はすぐに結びつけなかった。
メロウも第五体だとは言っていない。
「それが何に繋がるかは、まだ分からん」
メロウ自身がそう言った。
「じゃが、分からんから来た。机の上で古地図を百枚眺めても、道そのものが残っとるなら一度歩いたほうが早いこともある」
その言葉は、少し好きだった。
大図書館で何日も調べたあとだから余計に分かる。
本に残るものもある。
現地にしか残らないものもある。
「それで岩を叩いてたんですか?」
「ああ。壁の向こうに空洞がないか確かめとった。お前さんらが来たせいで途中になったがな」
「ごめんなさい」
「まあよい。わしもそろそろ戻るつもりじゃった」
「戻る?」
「食料を見てみろ」
メロウの荷物の脇には、保存食が残っている。
四日分買ったと聞いていたけれど、もうかなり減っていた。
「三日前に入ったんですよね?」
「そうじゃ。古道を調べながら来たから時間が掛かった。ここで一晩、別の場所でも一晩。今日中には山を下りる予定じゃった」
間に合った。
もし明日来ていたら、帰る途中ですれ違っていたかもしれない。
リリィも同じことを考えたらしく、少しだけ表情を緩めた。
「見つけられてよかった」
「わしは別に行方不明になったつもりはないぞ」
「私たちから見たら行方不明だったんです」
「勝手な話じゃのう」
メロウは笑った。
それから、私の鞄へ視線を向ける。
「ところで」
さっきまでとは違う声だった。
「お前さん、先ほどからその鞄を妙に気にしとるな」
私は動きを止めた。
見られていた。
確かに何度か意識していた。
この中には、メロウへ会ったら必ず見せようと思っていたものがある。
「見てほしいものがあります」
「わしに?」
「はい」
鞄を下ろす。
フランたちも黙って見ていた。
ここへ来るまで何度も考えていた。
幻獣種を長年調べてきたメロウなら、この本について何か知っているかもしれない。
でも同時に、期待しすぎないようにもしていた。
メロウ自身が第六体を《追跡不能》と書いている。
専門家だからといって、全部の答えを持っているわけではない。
私は鞄を開き、布で包んでいた一冊の本を取り出した。
☆5《幻獣種召喚の本》。
「これです」
メロウの動きが止まった。
本当に、止まった。
さっきまで忙しなく動いていた手も、鳥の杖を直していた指も動かない。
視線だけが、本へ向いている。
「……お前さん」
声が低くなった。
私は本を両手で持ったまま待った。
メロウが一歩近づく。
いつもの派手な表情は消えていた。
「それを、どこで手に入れた?」
「ゴブリン王国です」
「見せてもらえるか」
今度は冗談も大声もなかった。
私は本を渡す前に、一度だけオラクルを見る。
オラクルは小さく頷いた。
それを確認してから、メロウへ差し出す。
メロウは両手で受け取った。
すぐには開かない。
表紙を見る。
背を見る。
指先で縁を確かめる。
それから、まるで壊れ物へ触れるように最初のページを開いた。
一枚。
もう一枚。
ページを進めるほど、メロウの表情から色が消えていく。
「メロウさん?」
返事がない。
メリーまで黙っている。
長い沈黙のあと、メロウがようやく顔を上げた。
「わしは長いこと幻獣種を追ってきた」
その声は、坑道で最初に聞いた老人と同じ人物とは思えないほど静かだった。
「伝承を集め、壁画を見て、失われた記録を追った。それでも六体が本当に同じ何かへ繋がっておるのか、最後まで確証が持てなかった」
メロウの視線が、再び本へ落ちる。
「じゃが……」
そこで言葉が止まった。
私は答えを急かさなかった。
メロウは本を閉じると、今度は私を真っ直ぐ見た。
「山を下りよう」
「え?」
「ここで話すことではない。お前さんらが大図書館で何を見つけたのか、最初から聞かせてくれ」
メロウは☆5《幻獣種召喚の本》を私へ返した。
「わしの調べてきたものも全部見せる。ただし、一つだけ先に言っておく」
派手なタヌキのフードの下で、その目だけは真剣だった。
「この本を見ても、第六種が何者なのか、わしにはまだ分からん」
その言葉に、私は落胆しなかった。
むしろ逆だった。
長年追ってきたメロウでさえ分からない。
それなら第六体が《追跡不能》だった理由は、私たちが調べ方を間違えただけではないのかもしれない。
そして今は、一人で追う必要もない。
私たちが大図書館で見つけたもの。
メロウが長年集めてきたもの。
その二つを初めて並べることができる。
私は本を鞄へ戻し、しっかり留めた。
何日も追い続けたメロウの足跡は、ここで終わった。
でも幻獣種を追う道は、ここからようやく一緒に歩ける。
次に探すのは、人ではない。
この世界のどこかへ続いている、幻獣種の痕跡だった。




