第165話 最後に箱を見た人
大図書館へ戻った私たちは、そのまま記録管理区へ向かった。
午前中に調べた第三箱について、最後にその存在を確認した職員が午後から来館する予定になっている。専門書店や旅道具店を回っている間も気にはなっていたけれど、実際に記録管理区の受付が見えてくると、自然と歩く速度が上がった。
「来てるかな」
「走るなよ」
後ろからオラクルに言われ、私は前へ出かけた足を止めた。車椅子の横まで戻ると、肩に乗っているメリーが得意そうに頷いた。
『今のはちゃんと止まれたね』
「私を何だと思ってるの?」
『すぐ走るフール』
「否定しづらい……」
フランが小さく笑った。
午前中まで追っていたのは、何十年も前に消えた第三箱だった。そのあと街へ出て、今度はメロウが残した新しい痕跡を追った。
メロウが五日前、専門書店で《空に関する古い記録》を探していたことは、グライツへ来てからすでに確認している。その翌日には同じ店で北部山岳方面の地図を用意させており、今日の調査ではさらに、縄や岩場用の装備、数日分の保存食と水まで準備していたことが分かった。
ただし、それだけでメロウが街を出たとは決められない。山へ向かうつもりだったのかもしれないし、準備だけして別の調査を続けた可能性だってある。
次に確認するべきなのは、門の通行記録。
でも、その前に第三箱だ。
受付へ着くと、午前中に対応してくれた司書が私たちへ気づいた。
「お待ちしていました。先ほど、顧問の方が来館されています」
「話、聞けますか?」
「事情はお伝えしました。ご本人も了承されています。ただし、かなり以前のことですので、どこまで覚えているかは分からないとのことです」
「それでも大丈夫です」
覚えていなければ、それも一つの結果になる。
私たちは司書に案内され、記録管理区の奥にある小さな応接室へ入った。
窓際の椅子に、一人の老人が座っている。白い髪を短く整え、細い眼鏡を掛けた老人の前には、午前中に確認した職員名簿の複製と、第三箱の管理番号を書き写した紙が置かれていた。
老人は私たちを順番に見たあと、オラクルの車椅子が入りやすいよう椅子を少しずらしてくれた。
「ずいぶん昔の箱を探しているそうだね」
「はい」
リリィが答えた。
「《古代召喚媒体・未整理記録》に分類されていた第三箱です。保管記録では、あなたが最後に確認した人物になっています」
老人は机の紙へ視線を落とした。
「この番号そのものを覚えているわけではないよ。あのころは一日に何十という資料を確認していたからね」
少し残念だったけれど、リリィは表情を変えなかった。
「当時、旧研究棟の第二資料保管室を担当されていたんですか?」
「担当の一人だった。寄贈された研究資料を仮置きし、分類担当へ渡すまでの確認が主な仕事だ」
「第三箱について、何か覚えていることはありませんか?」
老人はすぐには答えず、私たちが午前中に写した三つの管理番号をしばらく見比べていた。第一箱、第二箱、第三箱と順番に指を動かしていた老人の手が、最後の番号で止まる。
「この研究者の資料か……」
声が少し変わった。
私は思わず身を乗り出しかけたけれど、今度は我慢した。
「研究者本人を覚えてるんですか?」
「もちろん。変わった人物だったからね。研究熱心ではあったが、自分の資料を他人に触られるのをひどく嫌っていた」
オラクルが尋ねる。
「寄贈した三箱もか?」
「いや。それが少し妙だった」
老人は眼鏡を外し、布でゆっくり拭いた。
「退職時に寄贈した以上、図書館側で整理されることは本人も理解していたはずだ。第一箱と第二箱には比較的きちんとした分類札が付いていた。ところが第三箱だけは、《未整理》としか書かれていなかった」
「中は見ましたか?」
「確認のために一度だけ」
その答えで、部屋の空気が変わった。
帳簿に書かれた第三箱を見たのではない。実際に箱を開け、中身を確認した人が目の前にいる。
「何が入ってたんですか?」
私が聞くと、老人は少し考えた。
「正確には覚えていない。古い紙束、薄い冊子、写し取った図版……そういうものが混在していた。整理前の研究資料としては珍しくない。綴じられたものも何冊かあったと思うが、それが図書館の蔵書だったのか、本人の研究ノートだったのかまでは覚えていないよ」
《虹光現象に関する旧記録》が入っていた、と簡単にはいかなかった。
でも、それでいい。欲しい答えを先に決めてしまえば、そこへ都合のいいものだけを繋げることになる。
老人は記録へ目を戻したあと、何かを思い出したように眉を寄せた。
「ただ、一つだけ覚えているものがある」
リリィの手が止まった。
「何ですか?」
「封筒だよ。第三箱の中に、他の紙束とは別に、封をされた厚い封筒が入っていた」
今度は誰も口を挟まなかった。
老人は記憶を確かめるように、ゆっくり続ける。
「普通の研究資料なら、その場で枚数や状態を確認する。しかし、その封筒には研究者本人の署名と、《分類前開封不可》という注意書きがあった。だから開けずに第三箱へ戻した」
私は昨日見つけた閲覧延長申請を思い出した。
研究者は《虹光現象に関する旧記録》を、《既知の召喚媒体との照合のため》に通常より長時間閲覧している。照合対象が書かれていた部分だけ紙が欠け、その裏面には《第三箱へ移す》という追記が残されていた。
その追記と、今聞いた封筒を繋げたくなる。
けれど、それが同じものだという証拠はない。
「その封筒が、《第三箱へ移す》って書かれてたものだった可能性はある?」
私が尋ねると、オラクルがすぐ答えた。
「ある。だが今はそれだけだ。その封筒が虹光記録に関係するものだったとは決められねえ」
「分かってるよ」
それでも、第三箱の意味は少し変わった。ただ雑多な未整理資料が詰め込まれていた箱ではなく、その中には研究者本人がわざわざ《分類前開封不可》と指定した資料が少なくとも一つ存在していた。そして、その箱そのものが現在は所在不明になっている。
リリィは老人の話を記録用紙へ書き留めてから、次の質問へ移った。
「その封筒について、他の職員も知っていましたか?」
「受領担当と、私を含む保管担当の何人かは見ているはずだ。ただし、中身を知っていた者がいたかは分からない」
「研究者本人が寄贈後に戻ってきたことは?」
今度はオラクルが聞く。
老人は首を横へ振った。
「私の知る限りでは一度も。ただ、私は受付担当ではないから、そこは断言できない」
一人の証言ですべては分からない。それでも午前中まで第三箱は、《記録から突然消えた箱》だった。
今は違う。
実物を確認した人がいるだけでなく、中には封をされた資料があり、最後に確認された時点では箱そのものも確かに保管室に存在していた。
「第三箱を最後に確認した日のことは覚えていますか?」
リリィが尋ねる。
「日付までは覚えていないが、記録があるならその日に確認したのだろう。ただ……第三箱が消えたという話を、私は今日初めて聞いた」
「え?」
「私が担当を外れたあとも、箱は保管室にあるものだと思っていた。少なくとも、私が最後に確認した日に持ち出されたわけではない」
「その日は、確認したあとどうしたんですか?」
「いつも通りだよ。中身と状態を確認し、箱を閉じて棚へ戻した。それから確認票へ署名した」
「棚の場所は覚えてます?」
「大体なら」
老人は紙を借りると、旧研究棟第二資料保管室の簡単な配置を描き始めた。入口の右側に作業机、その奥に小型資料の棚が並び、反対側の壁には大型資料用の頑丈な棚が置かれている。
老人が鉛筆で、一番奥の下段を示した。
「第三箱はここだ。第一箱と第二箱より整理が遅れていたから、長くこの場所に残っていた」
フランが図を覗き込む。
「箱、大きかったんですか?」
「大きいというより重かった。一人で持ち上げられないことはないだろうが、長い距離を運ぶならまず台車を使う。紙というのは、まとまると想像以上に重いからね」
リリィの視線が上がった。
「専用の台車があったんですか?」
「ああ。旧研究棟には大型資料を運ぶための台車が何台かあった」
オラクルがすぐに聞く。
「誰でも勝手に使えたのか?」
「いや。貸出簿があった」
今度こそ、全員の動きが止まった。
「貸出簿?」
「台車ごとに番号が振られていて、使用する職員の名前、時刻、運搬する資料の管理番号、移動先を書く。返却時にも確認印が必要だった。大型資料を勝手に動かされると所在管理ができなくなるからね」
私は机の上にある第三箱の管理番号を見た。
箱そのものの保管記録は、ある時点から消えている。でも本当に第三箱が第二資料保管室から運び出されたのなら、別の記録へ同じ番号が残っている可能性がある。
「それを調べれば……」
「第三箱がどこへ動いたのか分かるかもしれない」
リリィが続けた。
今までで一番具体的な手掛かりだった。
第三箱が確かに存在していたことは確認できたうえ、中身を見た人物もいて、封をされた資料もあった。最後に確認されたときには棚へ戻されており、しかも箱は重く、正式に移動させるなら使用者・時刻・管理番号・移動先を記録した専用台車を使う決まりだった。
つまり第三箱そのものの記録が途切れていても、《第三箱を運んだ記録》は別に残っている可能性がある。
「その貸出簿、今も残ってますか?」
私が担当司書へ尋ねる。
「旧研究棟の運搬記録は、通常の資料管理簿とは別系統で保管されています。年代が古いため、現存しているかどうかから確認する必要があります」
「お願いします」
リリィが頼むと、司書は頷いてすぐ応接室を出ていった。
老人はその背中を見送ったあと、机に残された第三箱の管理番号へ目を落とした。
「もし見つかったら、私にも教えてくれるかい。何十年も、どこかの保管庫へ移されただけだと思っていた。なくなっていたと知ると、私も気になる」
「はい。絶対見つけるとは、まだ言えないですけど……追います」
「それで十分だよ」
話を聞き終え、私たちは老人へ礼を言って応接室を出た。
廊下へ出た途端、メリーが私の肩で大きく伸びをする。
『箱が歩いた跡も残るんだね』
「箱は歩いてないよ」
『台車で歩いた』
「それも歩いてない」
「でも考え方は近いよ」
リリィが笑いながら記録用紙を開いた。
「箱そのものの記録が途切れたなら、箱を動かすために使ったものを追う。貸出簿が残っていれば、第三箱の管理番号が出てくる可能性があるし、そこには移動先まで記録されているかもしれない」
午前中に見つけた《最後に第三箱を確認した人物》は、行き止まりではなかった。その人の記憶から、《封をされた資料》と《運搬台車の貸出簿》という二つの新しい痕跡が出てきた。
特に貸出簿が残っていれば大きい。第三箱がいつ、誰によって、どこへ動かされたのか、今まで完全に抜け落ちていた部分へ初めて手が届くかもしれない。
「確認には時間掛かりそうだな」
オラクルが言った。
「なら待ってる間に、もう一人を追うぞ」
「メロウだね」
午前中に街で集めた情報がある。
五日前、メロウは専門書店で《空に関する古い記録》を探していた。その翌日には北部山岳方面の地図を用意させ、さらに山へ入るための縄や靴底金具、小型のつるはし、雨除けの厚布を買い、数日分の保存食と水まで準備していたことが分かった。
そこまでなら、北部山岳へ向かう準備をしていた可能性は高い。
でも実際にいつ街を出たのかは、まだ分からない。
「次は門の記録」
リリィが言った。
「ただし、最初から北門を通ったとは決めない。通行記録がどこで管理されてるか確認して、メロウ本人の記録を探す」
大図書館を出ると、午後の日差しが白い石畳へ斜めに伸びていた。
私たちはグライツの北側へ向かった。大図書館周辺の整った白い建物が少しずつ減り、代わりに旅人向けの宿や道具屋、荷車を扱う店が増えていく。大きな鞄を背負った旅人や商品を積んだ商人の姿も多くなり、街の外へ近づいていることが景色からも分かった。
やがて巨大な城壁と、その一部を開くグライツ北門が見えてきた。
門の周辺は、大図書館とはまるで違う騒がしさだった。街へ入る荷馬車が車輪を軋ませ、反対側では旅人が兵士へ通行証を見せている。門の脇には出発前の荷物を確認する商人たちが集まり、馬の鳴き声と人の呼び声が絶えず重なっていた。
オラクルの車椅子が人の流れへ巻き込まれないよう、フランが少し前へ出て道を作る。私たちは門を通り抜ける旅人の邪魔にならないよう詰所の脇へ移動し、リリィが近くにいた兵士へ声を掛けた。
「少し前にグライツを出た可能性のある人を探してるんですけど、通行記録を確認できますか?」
「どういう人物だ?」
「老人です。タヌキの顔が付いたフードに派手なローブ、鳥の顔が付いた杖を持っています」
兵士は一度瞬きをしてから、何とも言えない顔で私たちを見た。
「……何だ、その格好」
「だから見た人がいたら覚えてると思います」
「そりゃ覚えてそうだな」
メロウの派手すぎる格好が、ここへ来てものすごく役に立っている。
兵士によれば、グライツでは街へ出入りする全員の名前を残しているわけではないらしい。近隣へ出る住民や短距離を往復する人まで記録していたら、とても管理しきれない。
ただし、遠方へ向かう旅人や商人、調査者などが街道利用証を申請した場合には、氏名、人数、出発日、利用した門、目的方面などが記録されるという。
「メロウが申請してなかったら?」
私が尋ねると、兵士は少し考えてから門のほうを見た。
「記録だけじゃ分からない。ただ、その格好なら当日の門番が覚えている可能性はあるな」
リリィが頷いた。
「まず記録を確認させてください。見つからなかったら、その日の担当者を追います」
「いつごろだ?」
そこで私たちは、これまでに確認したメロウの足取りを伝えた。
五日前、専門書店で《空に関する古い記録》を探している。その翌日には北部山岳方面の地図を用意させ、その後の追跡で山へ入るための道具と数日分の保存食を準備していたことも分かった。
兵士はそれを聞くと、詰所の奥から数冊の記録簿を持ってきた。
「遠方用の街道利用証なら、どの門を使ったかもここで分かる。五日前から今日まで見れば足りるだろ」
机の上へ記録簿が並べられる。
リリィは日付と目的方面、私は利用者の名前、フランは利用門を確認することになった。メリーも私の肩から帳簿を覗き込み、小さな指で一行ずつ追っている。
『メロウ、メロウ……』
「声に出さなくても大丈夫だよ」
『違う人と間違えないようにしてるの』
「タヌキの絵は描いてないからね?」
『あったらすぐ分かるのに』
それは私もそう思った。
最初の日には見つからない。
次の日にも、探している名前はなかった。
地図を用意させた日付を過ぎてもメロウの名前が出てこなかったので、私は少しだけ意外に思った。地図を手に入れてすぐ出発したわけではないらしい。
「先を見よう」
リリィに促され、さらに次の日の記録へ進む。
商人、調査者、旅人、別の街へ向かう家族。何人もの名前を上から追っていったところで、私の指が一つの名前を通り過ぎた。
一瞬遅れて気づき、慌てて指を戻す。
「待って。これ」
そこには、はっきりと書かれていた。
《メロウ》。
思わず大声を出しそうになったけれど、さっきまでの図書館での調査を思い出して飲み込んだ。
リリィたちも集まり、一行ずつ確認していく。
氏名はメロウ。
人数は一名。
利用門は北門。
目的方面には、
《北部山岳方面》
と記されていた。
日付は、専門書店で北部山岳方面の地図を用意させた翌日だった。
これで時系列が一本に繋がった。
五日前、メロウは専門書店で《空に関する古い記録》を探した。その翌日には北部山岳方面の地図を用意させ、山へ入るための道具や保存食も準備している。そして、その次の日に北門から《北部山岳方面》を目的としてグライツを出ていた。
「本当に行ったんだ……」
今度は言っても大丈夫だった。
地図を買っただけでも、道具を揃えただけでもない。メロウ本人が街道利用証を申請し、北門を通って街の外へ出た記録が残っている。
リリィも今回は否定しなかった。
「うん。少なくとも、《北部山岳方面へ向かう目的で北門から出た》ところまでは確定していい」
「じゃあ、山へ行けば――」
言いかけたところで、リリィが首を横へ振った。
「北部山岳って広いよ。どの山へ向かったのかも、どの道を選んだのかも、この記録だけじゃ分からない」
また一つ答えが見つかって、その向こうに次の問いが現れた。
でも以前とは違う。今は少なくとも、どこから追えばいいかが分かる。
フランが兵士へ尋ねた。
「北部山岳方面へ行く道って、一つだけですか?」
「北門からしばらくは一本だ。ただ、半日ほど先で三方向に分かれる」
兵士は詰所の壁に掛けられていた街道図を示した。
グライツから北へ伸びる主要街道は、途中まで一本。その先で東側の山道、さらに北へ抜ける主要街道、西へ折れる古い街道に分かれている。
私は午前中に調べたメロウの購入品を思い出した。
北部山岳全域図だけではない。
古街道や旧道まで記された地形図も用意していた。
「西の古い道……」
口にすると、リリィがすぐこちらを見る。
「候補にはできる。でも、まだ決めないよ」
「分かってるって。古い道の地図を持ってたからって、そこへ行ったとは限らないんでしょ?」
「うん」
少し前なら、私はそこで「じゃあ西だ!」と言っていたかもしれない。
でも、メロウが旧道の地図を持っていた理由はまだ分からない。古街道そのものを調べるためだったのかもしれないし、別の場所へ向かう途中で必要だっただけかもしれない。
リリィは街道図をしばらく見たあと、兵士へ尋ねた。
「三つに分かれる場所の近くに、旅人が立ち寄るところはありますか?」
「分岐より少し手前に街道休憩所がある。水場と馬小屋、それに小さな食堂もあるから、北へ向かう奴は大抵そこで一度止まる。山へ入るなら水や荷物の確認もするだろうな」
「そこなら、メロウを見た人がいるかもしれない」
「あの格好なら、見てりゃまず覚えてる」
それには全員が納得した。
次に追う場所が決まった。
北門から街道を半日ほど進んだところにある休憩所。そこでメロウの目撃証言を探せば、その先にある三つの道のどれを選んだのか絞れる可能性がある。
「今から――」
言い終える前に、オラクルが私を見る。
「行かねえぞ」
「まだ最後まで言ってないじゃん!」
「今から行けるかって聞くつもりだったろ」
図星だった。
私は門の外へ続く街道を見る。まだ日は沈んでいないけれど、半日掛かるなら到着するころには完全に夜だ。
「でも、メロウが出てから時間経ってるし……」
「だからって準備もせず夜の街道へ出る理由にはならねえ。それに北部山岳へ近づくなら、グライツへ来る途中に何を見たか忘れんな」
その一言で、頭に浮かんだものがあった。
空を走った青白い光。
腹の奥へ響いた低い音。
山腹に残された巨大な傷。
地面に落ちていた、内部から青白く光る黒い欠片。
そして、山側を見たあと反応がおかしくなった旅人。
メロウが向かった北部山岳と、あの異変に関係がある証拠は何もない。それでも、グライツ周辺の山へ無計画に近づいていい理由にはならなかった。
「……明日にする」
自分からそう言うと、オラクルが少し意外そうな顔をした。
「早かったな」
「私だって学ぶよ」
『成長した!』
「メリーに言われると、何か子供扱いされてるみたい」
『フールは子供だよ?』
「メリーにだけは言われたくない!」
フランが吹き出し、リリィも笑った。
張り詰めていた追跡の空気が少しだけ緩む。
それからリリィは、オラクルの車椅子でも休憩所まで行けるかを確認した。主要街道は整備されているため問題ないものの、分岐から先、とくに西側の古街道には荒れている場所があるらしい。
「なら、まず休憩所までだな」
オラクルが街道図を見ながら言った。
「その先はメロウがどっちへ行ったか確認してから考える。必要なら車椅子の対策もする」
先の先まで決める必要はない。
まず、次に残っている痕跡まで行く。
兵士へ礼を言い、私たちは北門を離れた。
その途中で一度だけ振り返ると、門の向こうには夕方の光を受けた街道が伸び、そのさらに遠くに山々が霞んでいた。
メロウは数日前、あの道を通った。
タヌキの顔が付いたフードを被り、派手なローブを着て、鳥の顔が付いた杖を持ち、地図や山道用の装備、数日分の食料を抱えて。
いったい何を探していたのだろう。
幻獣種なのか。
古い遺跡なのか。
それとも、私たちがまだ知らない何かなのか。
答えは分からない。
でも、本人へ続く道は見つかった。
大図書館へ戻ったころには閉館までそれほど時間が残っていなかった。
記録管理区へ着くと、受付の司書が私たちを見つけ、その手に持っていた一枚の紙を確かめながら歩いてきた。
「旧研究棟の運搬記録について、確認が取れました」
私たちは足を止めた。
「残ってたんですか?」
「はい。通常閲覧区にはありませんが、旧施設管理資料として保存されています。第三箱が最後に確認された時期を含む《大型資料運搬台車貸出簿》も現存しています」
その言葉を聞いた瞬間、今日一日追ってきた二つの道が、どちらも次へ続いたように感じた。
第三箱には、運ばれた痕跡が残っているかもしれない。
メロウには、街の外へ続く足跡が残っている。
「今日、見られますか?」
私が尋ねると、司書は申し訳なさそうに首を横へ振った。
「本日の管理資料閲覧受付は終了しています。ただ、今申請していただければ明日の開館時から確認できるよう準備します」
少し前の私なら、あと少しだけでも、と頼んでいたかもしれない。
でも今日は十分進んだ。
「お願いします」
申請書を受け取り、第三箱の管理番号と調査対象を書き込む。リリィにも確認してもらってから提出すると、司書は明朝までに資料を準備すると約束してくれた。
大図書館を出るころには、空は橙色から薄い紫へ変わっていた。
今日、第三箱について分かったことは多い。箱は確かに大図書館へ届き、旧研究棟第二資料保管室に置かれていた。実物を確認した職員も見つかり、その中には研究者本人が《分類前開封不可》と指定した封筒が入っていた。そして最後に確認された日、第三箱は棚へ戻されている。
さらに、その箱を正式に別の場所へ移すなら専用台車を使い、使用者、時刻、資料管理番号、移動先を貸出簿へ記録する決まりだった。その貸出簿は今も残っていて、明日の朝には調べられる。
メロウについても同じくらい進んだ。
五日前に専門書店で《空に関する古い記録》を探し、その翌日に北部山岳方面の地図や必要な装備を揃え、さらに翌日には北門から《北部山岳方面》へ向けてグライツを出ている。
その先の街道は、半日ほどで三方向へ分かれる。分岐の手前には休憩所があり、そこでならメロウがどの道へ進んだのか、新しい目撃証言を得られるかもしれない。
「明日は朝一番で貸出簿だな」
オラクルが言った。
「それが終わったら街道へ出る準備。食料と水もいるし、休憩所より先へ行く可能性があるなら装備も確認する」
「うん。まず第三箱。それからメロウ」
私はそう答えてから、大図書館を振り返った。
数日前、この建物へ来れば答えが見つかると思っていた。でも実際に見つかったのは、答えだけではなかった。
本の中で途切れた道が、人へ繋がる。
人の記憶が、別の帳簿へ繋がる。
街で残された買い物の記録が、門へ繋がり、門の記録が街の外へ続く道を教えてくれる。
第三箱を追えば、明日は何十年も前の《運ばれた痕跡》を調べる。
メロウを追えば、そのあと数日前の《歩いていった道》を辿る。
古い箱と、派手な考古学者。
まったく違うものを追っているのに、やることは同じだった。
最後に確かに存在した場所から、次に残された痕跡を探す。
私は鞄へ手を当てた。
中には《幻獣種召喚の本》が入っている。
第六体について、メロウは《追跡不能》と記していた。私たちも最初は、本当に何も残っていないのだと思っていた。
でも、今は違う。
《虹光現象に関する旧記録》は存在していた。
それを最後に長時間閲覧した研究者がいて、《既知の召喚媒体との照合》を行い、その先に《第三箱へ移す》という追記を残している。
そして第三箱は、消える前に確かにここにあった。
何もなかったんじゃない。
道はあった。
ただ、途中で見えなくなっている。
「フール、行くよ」
先を歩いていたリリィに呼ばれ、私は大図書館から視線を戻した。
「うん、今行く」
小走りになりかけたところでオラクルの車椅子が目に入り、今度は急がず隣まで歩いていく。メリーは私の肩へ座り直し、フランも少し遅れて並んだ。
宿へ向かう大通りには夜の魔法灯が灯り始め、昼間まで白く見えていた建物の壁が淡い青色に染まっている。店先からは夕食を作る匂いが漂い、朝から資料と記録ばかり追っていたせいか、それに気づいた途端にお腹が空いてきた。
『いい匂いする』
「メリーも?」
『する! あっち!』
メリーが指差した先には、湯気を立てる鍋を店先へ並べた食堂があった。
「先に宿だ」
オラクルが言う。
「えー」
『えー』
「何で二人同時なんだよ。荷物置いてから食いに来りゃいいだろ」
「それなら賛成」
『私も!』
「結局食うんじゃねえか」
フランが笑い、リリィまで肩を揺らした。
今日一日、何十年も前に消えた第三箱と、数日前にグライツを出たメロウを追い続けていた。どちらもまだ見つかっていないし、第六体について新しい答えが出たわけでもない。それでも、朝の時点とは明らかに違っている。
第三箱は、研究者が三箱を寄贈したという記録の中に名前だけ残っている箱ではなかった。実際に大図書館へ届き、旧研究棟第二資料保管室へ置かれ、中身を確認した職員まで見つかった。その中には研究者本人の署名と《分類前開封不可》という注意書きが付いた封筒があり、最後に確認された日には箱そのものも棚へ戻されている。
その後、いつ、誰が、どこへ動かしたのかはまだ分からない。
けれど、箱を運ぶための専用台車には貸出簿があり、使用者だけではなく時刻、運搬する資料の管理番号、移動先まで記録する決まりだった。そして、その貸出簿は今も残っている。
明日の朝には確認できる。
もし第三箱の管理番号がそこにあれば、今まで完全に途切れていた道の続きを追えるかもしれない。
メロウも同じだった。
五日前に専門書店で《空に関する古い記録》を探し、その翌日に北部山岳方面の地図や必要な装備を揃え、さらに翌日には北門から《北部山岳方面》を目的としてグライツを出ている。
そこから先の道は三つに分かれる。
どの道を選んだのかは、まだ分からない。
でも分岐の手前には旅人が立ち寄る休憩所があり、明日はそこまで実際に足跡を追うことができる。
「ねえ、リリィ」
「何?」
「追跡って、もっと足跡とか折れた枝を見るものだと思ってた」
リリィは少しだけ笑った。
「それも追跡だよ。でも、人が動けば何か残るから。物を買ったり、門を通ったり、誰かと話したりするでしょ。ずっと前のことなら、今度はそれが紙に残ってる」
「箱でも?」
『箱は歩かないよ』
さっき私が言ったことを、今度はメリーが得意そうに言った。
「分かってるよ!」
「でも第三箱も同じだと思う」
リリィは笑いながら続けた。
「箱そのものが消えてても、運んだ人がいれば記録が残るかもしれない。記録がなければ、今度はどうして残ってないのかを考える。最初から答えを決めないで、最後に確かなところから次を探すだけ」
私は歩きながら、その言葉を考えた。
グライツへ来る途中、山で起きた異変が気になって仕方なかったとき、オラクルは《見たことだけ覚えろ。答えは後だ》と言った。
あのときは少しだけもどかしかった。
でも今なら、その意味が前より分かる。
見たものを覚える。
残ったものを調べる。
分からないところを勝手に埋めず、その次の痕跡まで進む。
そうやって私たちは、最初はどこから追えばいいのかさえ分からなかった六体目について、《何も残っていないわけではなかった》ところまで来た。
メロウは自分の調査記録へ、第六体について《追跡不能》と残している。
その言葉は今も間違っていないのかもしれない。
人魚や雷鳥、氷蛇、炎獅子には土地と伝承があり、第五体の《光を纏う剣士》にも、西方の伝承や古い写本、壁画という細い道が残っている。それに比べれば、第六体には今も地名も年代も目撃地域もない。
けれど、《虹光現象に関する旧記録》は確かに存在した。
その資料を長時間調べた研究者がいて、《既知の召喚媒体》との照合を行っていた。その照合対象は紙の欠損によって読めず、研究者が残した《第三箱へ移す》という追記の先では、肝心の第三箱そのものが所在不明になっている。
情報が最初から存在しなかったのではなく、どこかで道が途切れている。
だったら、途切れた場所まで行ってみたい。
その先に何もないのか、本当はまだ続きがあるのか、それは自分の目で確かめてから決めればいい。
「また難しい顔してる」
フランに言われ、私は顔を上げた。
「考えてたの」
「何を?」
「明日、両方見つかったらどうしようって」
「第三箱とメロウ?」
「うん」
オラクルが呆れたようにこちらを見る。
「もう見つかる前提になってんじゃねえか」
「見つかるかもしれないでしょ!」
「貸出簿に第三箱の番号があるかも分からねえし、休憩所にメロウを覚えてる奴がいるとも限らねえ」
「分かってるよ。でも、あるかもしれないじゃん」
オラクルは何か言い返そうとして、やめた。
「……まあ、そのくらいでいろ」
「何それ」
「見つかると決めつけるな。でも、見つからねえとも決めつけんなってことだ」
それなら、私にもできそうだった。
宿が見えてきたころには、空はすっかり暗くなっていた。
入口の前でフランが一度だけ立ち止まり、遠くに見える大図書館の中央塔へ振り返った。
私は何も言わず、その横顔を見る。
今日のフランは、自分の過去について新しい資料を開いていない。
昨日まで追い続けていた最深部の若い男についても、接見者二人についても、答えは増えていない。
でもフラン自身が、次の手掛かりが見つかるまで無理に記憶を掘り起こさないと決めた。
怖いから逃げたわけではない。
分からないものを、自分の想像で埋めないためだ。
「フラン?」
「うん。何でもない」
フランは大図書館から視線を戻した。
「明日は俺も第三箱を調べるよ。それからメロウを追おう」
「うん」
いつか、フランのほうにも次の痕跡が見つかる。
そのときはまた五人で追えばいい。
今は、目の前に残っている二つの道を進む。
宿へ入る直前、私はもう一度だけ鞄へ触れた。
《幻獣種召喚の本》は、いつもと同じようにそこに入っている。
本そのものは、六体目について何も教えてくれない。
だから私たちは大図書館へ来て、消えた資料を追い、人を探し、何十年も前の帳簿まで開いた。
明日の朝。
まず《大型資料運搬台車貸出簿》を調べる。
そこに第三箱の管理番号が残っていれば、消えた箱が最後にどこへ運ばれたのかを追えるかもしれない。
その調査を終えたら、今度は北門から街道へ出る。数日前にメロウが歩いた道を辿り、三つの道へ分かれる手前の休憩所で、次の目撃証言を探す。
一つは、何十年も前に消えた箱。
もう一つは、数日前に街を出た派手な考古学者。
時間も形もまったく違う二つの痕跡が、今は同じ方向へ私たちを動かしている。
どちらの先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも、世界一の大図書館へ来たばかりのころとは違う。
答えが見つからなくても、次にどこを探せばいいのかは分かるようになった。
私は宿の扉を開け、みんなと一緒に中へ入った。
明日は、消えた第三箱が残した《運ばれた痕跡》を追う。
そして、その先ではいよいよ本棚を離れ、メロウが歩いた街道へ出る。
世界一の大図書館で始まった二つの追跡は、ようやく次の場所へ進もうとしていた。




