第163話 最深部の記録
翌朝、大図書館へ向かう道で、フランはいつもより口数が少なかった。
具合が悪いわけではない。右腕の状態もかなり戻り、歩き方にも問題はなかった。それでも時折、腰の短剣へ左手を添えては、何かを確かめるように指を動かしている。
今日、閲覧申請の結果が出る。
リザーメイト王宮地下牢獄。その最深部へ隔離されていた《特別監視対象》の記録。
その人物は王国崩壊の日、牢獄の内側から周囲を破壊し、大剣状の武器を持って王宮上層へ移動した。その後、幼い子供を伴って崩壊した王宮から離れている。
別の保護記録を調べたことで、その子供がフランだった可能性はかなり高くなった。
でも、フラン自身にはほとんど記憶がない。
大きな音、暗さ、怖かったという感覚。それから、誰かの大きな手に掴まれていたような曖昧な記憶。
昨日、私たちはそれ以上を無理に思い出そうとしないと決めた。
今日は記憶ではなく、記録を確かめる。
「フラン、眠れた?」
私が尋ねると、少し間を置いてから答えた。
「普通に。一回起きたけど」
「やっぱり気になる?」
「そりゃ気になるよ。俺を連れていった人が誰だったのか分かるかもしれないんだから」
フランは前を向いたまま続ける。
「でも、名前を見たら全部思い出せるとか、そういうのは期待してない。知らない名前かもしれないし、それでも分かったところから調べればいいと思ってる」
少し安心した。
オラクルも前を歩きながら聞いていたらしい。
「そのくらいでいろ。欲しい答えを先に決めてから記録読んだら、都合のいいところしか見えなくなるぞ」
「分かってる」
「フールもな」
「何で私まで!」
『フールはすぐ繋げたくなるから』
メリーまで私を見る。
「最近ちゃんと我慢してるじゃん!」
「我慢なんだ」
リリィが笑った。
「そこ笑うところじゃないよ!」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
それでよかった。
怖い過去を調べるからといって、ずっと重い顔をしている必要はない。笑えるときには笑って、そのうえで必要なことから目を逸らさなければいい。
五人で大図書館へ入り、受付へ向かった。
フランが利用札を提示すると、職員はすぐ申請番号を確認する。
「昨日申請された《旧リザーメイト王宮地下牢獄・特別監視記録》ですね」
「はい」
職員が確認用の魔道具へ視線を落とす。
ほんの数秒のはずなのに、待っている時間が妙に長く感じられた。
やがて職員が顔を上げる。
「一部閲覧が許可されています」
フランが小さく息を吐いた。
全部ではない。
それでも、見られる。
「どこまでですか?」
「収容状況、監視記録、事件当日の経過については閲覧可能です。ただし、個人識別情報および王家指定機密に該当する箇所は非開示となります」
フランがすぐ尋ねる。
「収容されてた人の名前は?」
「非開示部分に含まれています」
一瞬だけ、フランの表情が曇った。
ここまで来ても、名前には届かない。
それでもすぐ顔を上げる。
「それ以外は見られるんですよね?」
「はい」
「見ます」
迷わなかった。
私たちは一般閲覧区よりさらに奥にある特別閲覧室へ案内された。
昨日まで使っていた部屋とも少し違う。入口には二人の司書が立ち、利用札だけでなく許可番号まで一人ずつ確認された。鞄は壁際の保管箱へ預けなければならず、机へ持っていけるのは図書館側から渡された記録用紙と鉛筆だけだった。
《幻獣種召喚の本》も鞄へ入れたまま鍵を掛ける。
「厳しいね」
私が声を潜めると、オラクルが周囲を見回した。
「滅んだとはいえ王国の機密資料だ。読ませてもらえるだけマシだろ」
部屋の奥には、私たち以外に利用者が一人いるだけだった。
窓はなく、壁に取り付けられた魔法灯が机だけを照らしている。数歩離れた場所には担当司書が座り、こちらの手元を常に確認していた。
閲覧時間も決められている。
一時間。
時間を過ぎれば、途中でも資料は回収される。
「一時間だけ?」
私が聞くと、司書が頷いた。
「閲覧制限資料ですので。延長を希望される場合は再申請となります」
フランは小さく息を吐いた。
「大丈夫。読めるところまで読む」
机の中央へ、薄い灰色の表紙をした資料が置かれる。
《リザーメイト王宮地下牢獄・最深部特別監視記録》。
司書が砂時計に似た小さな魔道具を机の端へ置く。内部を満たしていた青い光が、少しずつ上から下へ落ち始めた。
「閲覧を開始してください」
フランが表紙を開いた。
最初のページから、すぐ壁にぶつかった。
《氏名――非開示》
紙が破れているわけではない。
文字が消えたわけでもない。
複製時に、その情報だけが意図的に外されている。
フランは数秒そこを見つめたあと、何も言わず次へ進んだ。
年齢は《若年男性》。
収容区分は《特別監視指定》。
理由については、
《極めて高い魔力反応、および危険性を理由として通常収容区から隔離》
と記されている。
さらに収容時の所持品。
《武器一式没収》
その中に、
《大型剣一振》
という記録があった。
昨日読んだ警備隊の証言と一致する。
王国崩壊の日、牢獄から出てきた人物も《大剣状の武器》を持っていた。
ただし、同じ剣だとはまだ決められない。
オラクルも何も言わず、先を読むよう目で促した。
収容直後の記録は、意外なほど静かだった。
食事を拒否した日が何度かある程度で、監視兵へ暴力を振るった記録もなければ、脱走を試みた形跡もない。会話そのものが少なく、必要なこと以外ほとんど話さなかったと記されている。
「これだけ見ると、最深部に入れられるような人には見えないね」
「《危険性》の根拠が別にあるんだろ」
オラクルが答えた。
私たちはその理由を探した。
ところが、すぐ次の非開示へ突き当たった。
《特別監視指定理由・詳細――王家指定機密》
フランの指が止まる。
リリィも資料へ顔を寄せた。
「名前だけじゃないね」
収容者が誰なのか。
なぜ通常牢ではなく最深部へ隔離されたのか。
どちらも伏せられている。
「誰だったかだけじゃなくて、何で捕まってたのかも知られたくなかったってこと?」
私が聞くと、オラクルはすぐには頷かなかった。
「そういう意図だった可能性はある。ただ、当時の王家が何を機密扱いしてたのか分からねえ。今は《両方とも非開示》ってところまでだ」
その通りだった。
それでも胸の奥に引っ掛かるものは残る。
青い光がゆっくり落ちていく。
時間は止まってくれない。
ページを進めた。
何日分もの監視記録が続いたあと、昨日の警備隊証言にも出てきた日付へ辿り着く。
《特別接見許可》
それまであまり気にしていなかった閲覧時間が、急に気になった。
魔道具を見る。
まだ半分以上残っている。
「大丈夫。時間あるよ」
フランに言ったつもりだったけれど、自分自身にも言い聞かせていた。
接見場所は普通の面会室ではない。
最深部独房そのもの。
《室内人数三名。特別監視対象一名、接見者二名》
二人の名前を探す。
《接見者A――非開示》
《接見者B――非開示》
やっぱりない。
それだけではなかった。
《所属――非開示》
《対象との関係――非開示》
私は思わず顔を上げた。
「全部?」
担当司書がこちらを見る。
慌てて声を落とす。
「名前だけじゃないんですか?」
「開示範囲はこちらでは変更できません」
「元の記録には残ってるんですか?」
司書は少しだけ間を置いた。
「原記録の内容については、お答えできません」
答えになっていない。
でも、古くて読めないわけではないことだけは分かった。
《非開示》と指定されている。
しかも接見者二人については、名前だけでなく所属も、収容者との関係まで伏せられている。
リリィが声を潜めた。
「隠してる範囲が広すぎる」
さらに奇妙なのは接見方法だった。
二人は王宮側から正式な許可を受けて最深部へ入っている。
それなのに、
《接見中、監視兵は外扉まで後退。会話記録なし》
と残されていた。
「三人だけで話したんだ」
フランが呟いた。
誰が。
何のために。
何を話したのか。
そこだけが綺麗に抜け落ちている。
記録は接見終了後へ進んだ。
それまで《平静》《応答少》《異常なし》という言葉が続いていた監視記録が、ここを境に変わる。
《接見終了後、対象、著しく動揺》
《当日夕刻、食事拒否》
《翌朝、監視兵からの呼びかけに反応せず》
《魔力反応上昇》
そして、その翌日。
《独房内にて騒動発生》
フランの指がページの端で止まった。
食事を運んだ兵士が、独房の中から大きな物音を聞いた。何度呼びかけても返答がなく、確認のため扉へ近づいた直後、内側から強い衝撃を受けている。
扉そのものは破壊されなかった。
しかし監視兵二名が負傷し、
《対象周辺に高密度魔力反応を確認》
と記録されていた。
「接見する前は、何も起こしてない」
フランが言った。
確かにそうだった。
少なくとも閲覧を許可された範囲では、収容されてから接見まで大きな問題行動は一度も記録されていない。
接見を境に変化している。
だからといって、二人が何かをしたとは言えない。
何を話したのか分からない以上、そこを想像で埋めれば、私たちが欲しい物語を作るだけになってしまう。
「接見のあとに変わった。それだけ覚えよう」
私が言うと、フランは頷いた。
「うん」
騒動後、警備体制は大きく変わっていた。
《接見全面禁止》
《監視人員増強》
《最深部への立入制限強化》
そして、
《対象より没収した武器を旧武器保管庫から王宮中央武器庫へ移送》
オラクルが反応した。
「剣か」
収容時に没収された大型剣。
騒動後、牢獄から遠い王宮中央部へ移されたらしい。
「王国が崩れた日に見た大剣と同じかな」
私が聞くと、フランが先に答えた。
「まだ分からない。でも、この剣がそのあとどうなったかは見たい」
ページを進める。
青い光が少しずつ減っていく。
残り時間は半分を切った。
何日分かの記録が続き、やがて王国崩壊の日へ到達する。
《早朝時点、対象に異常なし》
そこから数時間後。
《最深部周辺で急激な魔力上昇を確認》
《独房内より強い発光》
そして、
《対象、何者かの名を叫ぶ》
全員の視線が次の行へ移った。
叫んだ名前。
そこだけが、
《発言内容――王家指定機密につき非開示》
になっていた。
「……名前まで?」
フランの声が低くなる。
収容者自身の名前。
最深部へ隔離された詳しい理由。
接見した二人の名前。
その二人の所属。
収容者との関係。
そして王国崩壊の日、収容者が叫んだ誰かの名前。
一つ一つなら、王家の機密だったと言われれば納得できたかもしれない。
でも隠されている箇所が増えるほど、逆に何か一つの中心を囲むように見えてくる。
「同じ人の名前なのかな」
口にしてから、すぐ付け加える。
「……まだ分かんないけど」
オラクルが頷いた。
「その可能性もあるし、全部別の奴かもしれねえ。今分かるのは、そこまでして名前を伏せた記録が複数あるってことだけだ」
フランは非開示部分を見つめていた。
「この人の名前も、会った二人も、叫んだ名前も……全部見せてもらえないんだな」
怒っているようには聞こえなかった。
むしろ、怖さに近いものがあった。
何十年も前に誰かが決めた《見せない》という意思が、今も紙の上に残っている。
しかも、その向こう側にはフラン自身の過去がある。
「続ける?」
私が聞く。
フランは一度だけ目を閉じ、すぐ開いた。
「続ける。時間なくなる」
魔道具に残る青い光は、もう三分の一ほどしかない。
ここから記録は一気に動いた。
独房内部から最初の衝撃が発生し、扉と周囲の石壁が破壊される。警備兵が最深部へ向かおうとしたものの、二度目の衝撃で地下通路が崩落し、収容者はその混乱の中で最深部から脱出していた。
移動経路まで残されている。
地下牢獄。
西側地下通路。
旧階段。
王宮中央区画。
そして――中央武器庫。
「剣を移した場所」
フランが呟く。
直後の記録には、
《中央武器庫大破。収容時没収品・大型剣一振――所在不明》
とあった。
これでかなり繋がった。
牢獄へ収容されたとき、男は大型剣を没収されている。その剣は接見後の騒動を受け、最深部から離れた王宮中央武器庫へ移された。
王国崩壊の日、男は独房の内側から牢獄を破壊して脱出し、中央武器庫へ向かっている。その直後に武器庫は大破し、没収されていた大型剣が所在不明になっている。
その後、大剣状の武器を持った人物が王宮内部で複数の兵士に目撃された。
偶然で片づけるには、かなり繋がっている。
「同じ剣を取り返した可能性は高そうだな」
オラクルが言った。
フランも今回は否定しなかった。
「うん。でも、まだ《可能性》だよね」
「ああ。そこは変わらねえ」
フランは小さく頷き、ページを進めた。
そこから先は、それまで整然としていた監視記録とはまるで違っていた。
同じ時刻について複数の兵士が別々の場所から報告し、途中で文章が途切れているものもある。紙の端には後から書き加えられた注記があり、誰がどの順番で情報をまとめたのかさえ分かりにくい。
王宮そのものが崩壊し始めていた。
記録を整えて残せる状況ではなくなったのだろう。
それでも断片を繋げると、収容者らしき人物の動きはある程度追うことができた。
中央武器庫。
中央回廊。
王宮東区画。
途中、何度か警備兵と遭遇している。
ただし、そこで少し奇妙なことに気づいた。
「この人……」
私は二つの証言を見比べた。
「何?」
フランが覗き込む。
「兵士を倒してるけど、追いかけてない」
王宮内部で交戦は起きている。
負傷者もいる。
でも、収容者らしき人物が倒れた兵士へさらに攻撃したという記録は見つからない。それどころか、進路を塞がれた場合にだけ戦い、そのまま先へ進んでいるように見える。
オラクルも記録を確認した。
「何か目的地があった可能性はあるな」
「逃げるなら外へ向かうよね?」
リリィが王宮の簡単な見取り図を見る。
「でも、この人は牢獄を出てから中央武器庫へ行って、それから東区画へ向かってる。最短で王宮の外へ出ようとした動きには見えない」
フランの表情が変わった。
「東区画に何かあった?」
探す。
しかし、その部分も詳しい用途までは残されていなかった。
王宮居住区。
使用人区画。
来客用の部屋。
いくつもの施設が混在していたらしい。
「今は分かんねえな」
オラクルが言う。
「先読め。時間がない」
机の端に置かれた魔道具を見る。
青い光は、もう四分の一も残っていなかった。
焦りそうになる。
でも読み飛ばしたら意味がない。
私は一度息を整え、フランと一緒に続きを追った。
王宮東区画。
そこで記録が一度途切れる。
次に残されていたのは、別の警備兵による短い報告だった。
《対象と思われる人物、東区画にて幼児一名と接触》
フランの呼吸がわずかに止まった。
昨日読んだ警備隊の証言では、《幼い子供を伴って王宮から移動した》ところまでしか分からなかった。
これは、その一つ前だ。
男は最初から子供を連れて牢獄を出たわけではない。
牢獄を破壊して脱出し、中央武器庫で大型剣を取り戻した可能性が高い。そのあと王宮からすぐ逃げるのではなく、東区画まで移動し、そこで幼い子供と接触している。
そして、その後に子供を連れて王宮を離れた。
「……俺を探してた?」
フランが呟いた。
誰もすぐには答えなかった。
可能性はある。
でも、それを証明する記録はない。
「東区画に向かった理由が分からない以上、まだそこまでは言えねえ」
オラクルが静かに答える。
フランも分かっていた。
「うん。でも、逃げる途中で偶然会った可能性もあるし……最初から別の用事で東区画に行った可能性もある」
「そうだね」
私は頷いた。
それでも胸の奥がざわついた。
牢獄から出た男は、最短距離で王宮から逃げていない。
自分の剣が保管された中央武器庫へ行き、そのあと東区画へ向かっている。
そしてそこで、幼い子供と接触した。
その子供がフランだった可能性は、昨日の保護記録によってかなり高くなっている。
偶然なのか。
最初からフランを探していたのか。
答えが欲しくなる。
でも今は、そこまでだった。
フランが次のページへ手を伸ばす。
担当司書が静かに言った。
「その先は破損部分です」
フランの手が止まった。
「次の記録は?」
「数枚先から再開しています。ただし、対象の行動記録はほとんど残されていません」
ページを進める。
紙の一部が大きく欠け、文字も途中で失われている。
次に読めるのは、王宮外周での目撃記録だった。
《対象と思われる人物、幼児一名を伴い東門方面へ移動》
さらに別の証言。
《追跡隊、王宮東門外にて対象を見失う》
そこまで。
その先はない。
王宮を出たあと、どこへ向かったのか。
子供と何を話したのか。
なぜ連れていったのか。
そして、いつ子供と別れたのか。
何一つ残されていなかった。
ただ、昨日見つけた別の記録だけが、その先にある。
王国崩壊から数日後。
国境近くの集落。
《本人申告名――フラン》
フランはしばらく何も言わなかった。
「俺……この人と王宮を出たんだ」
今度は以前より少しだけ確かな言葉だった。
オラクルも否定はしなかった。
「その可能性はかなり高いな。ただ、国境まで一緒だったかは分からねえ」
「うん」
フランは自分の右手を見た。
「手を掴まれてた気がするって言ったけど……それもまだ分からないままでいい」
昨日より落ち着いていた。
記録によって自分の記憶を無理に作り直そうとはしていない。
でも、自分が知らなかった過去を怖がって閉じることもしなくなっている。
「ただ、一個だけ分かった」
フランが言った。
「何?」
「俺が一人で逃げたんじゃなかったってこと」
その言葉に、私は少しだけ胸が詰まった。
フランの中では、ずっと途切れていた夜だったのだと思う。
王宮が壊れている。
怖い。
大きな音がする。
そのあとの記憶がない。
そして気づけば、別の場所にいる。
今、その空白の中に一人の人物がいたことだけは見え始めた。
名前も分からない。
顔も思い出せない。
それでも、その人物は崩壊する王宮の中で幼いフランと接触し、一緒に東門から外へ出ている。
「誰なんだろう」
フランが呟く。
今度は誰も答えなかった。
その答えは、この資料にはない。
魔道具の青い光が残りわずかになっていた。
「あと少しだ」
オラクルが言う。
私たちは最後の数ページを確認した。
対象のその後について新しい記録はない。
代わりに、資料の末尾へ事件後に追加された別紙が付けられていた。
リリィが気づく。
「これ、接見のことじゃない?」
内容を読む。
《事件以前に実施された特別接見について、接見者二名の個人識別情報は王家指定により永久非公開とする》
私は一瞬、意味を理解できなかった。
「永久?」
担当司書へ確認する。
「通常の期限付き機密指定とは異なります。解除期限を設けない指定ですね」
「何十年経っても?」
「指定が変更されない限りは」
名前を伏せているだけではなかった。
後世にも公開しない。
そう決められている。
さらに、その下。
《接見者二名と特別監視対象との関係を示す記録については別管理とする》
「関係の記録はあるんだ」
フランが身を乗り出す。
「どこに?」
司書へ尋ねる。
しかし返ってきた答えは、
「別管理資料の保管場所は一般目録には掲載されません」
だった。
また扉が閉じる。
それでも、今度は少し違う。
存在しないわけではない。
少なくとも当時、接見者二名と収容者の《関係》について記録が作られていた。
誰なのか。
なぜ三人だけで会ったのか。
何を話したのか。
そして、なぜその関係まで永久非公開にする必要があったのか。
フランは別紙を見つめた。
「この二人……この人と近い人だったのかな」
「可能性はある」
リリィが答える。
「わざわざ《関係を示す記録》が別にあるくらいだから。でも、どんな関係かはまだ分からない」
フランは少し考えたあと、頷いた。
「今はそれでいい」
昨日なら、もっと悔しがっていたかもしれない。
でも今日だけで十分すぎるほど分かった。
最深部の男は、収容直後には大きな問題を起こしていなかった。
正体を伏せられた二人との接見後、明らかに様子が変わり、騒動を起こした。
王国崩壊の日には誰かの名前を叫び、牢獄を内側から破壊。中央武器庫へ向かい、没収されていた大型剣を取り戻した可能性が高い。
そして王宮から逃げるのではなく、東区画へ向かった。
そこで幼い子供と接触し、その子供を伴って王宮を出ている。
その子供は、フランだった可能性が極めて高い。
でも、男の名前だけは分からない。
接見した二人も分からない。
叫んだ名前も分からない。
肝心な名前だけが、まるで同じ手で覆われたように残されていない。
そこで、閲覧終了を知らせる魔道具の光が消えた。
「時間です」
司書が立ち上がる。
フランは最後に一度だけ資料を見てから、静かに手を離した。
悔しそうではあった。
でも、無理に延長を求めなかった。
「ありがとうございました」
司書が少し意外そうな顔をしてから、資料を回収する。
部屋を出て、保管箱から荷物を受け取ったところで、メリーがようやく大きな声を出した。
『疲れたー!』
「メリーほとんど肩にいたじゃん」
『静かにしてるの疲れるんだよ!』
「それはちょっと分かる」
さっきまで張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
でもフランは、まだ何か考えている。
「フラン?」
「うん?」
「大丈夫?」
少し考えてから答える。
「大丈夫。でも、前より知りたくなった」
「名前?」
「それも。でも……何で俺を連れていったのか」
そのほうが大きいのかもしれない。
知らない男が、偶然そこにいた子供を助けただけなのか。
それとも最初からフランを探して東区画へ向かったのか。
今の記録では分からない。
「いつか分かるよ」
言ってから、少し違うと思った。
勝手に分かるわけではない。
「……違うね。一緒に調べよう」
フランが笑った。
「うん」
オラクルが私たちの後ろから言う。
「ただし、今日はフランの調査だけで一日潰すなよ」
「あ」
忘れかけていた。
《虹光現象に関する旧記録》。
最後に長時間閲覧した研究者。
その研究者が残した三箱の資料のうち、所在不明になっている第三箱。
そして、メロウ。
まだ調べることは山ほどある。
「午後は私のほう!」
『幻獣種?』
「うん!」
「切り替え早いな」
フランが笑う。
「だって大事だもん」
それに、ずっとフランの過去だけを追い続けるより、このくらいがいい気がした。
知りたい。
でも急がない。
今分からないことを、無理に今日の答えにしない。
私たちは一般閲覧区へ戻り、午前中に取り寄せを頼んでいた《虹光現象に関する旧記録》の最終閲覧者についての資料を受け取った。
研究者名はすでに分かっている。
専門は《古代魔法現象・召喚媒体》。
そして今回届いたのは、あの《閲覧延長申請》だった。
私は申請書を開く。
日付。
資料名。
閲覧時間。
延長理由。
そこには、研究者本人の文字で短く書かれていた。
《既知の召喚媒体との照合のため》
「召喚媒体……」
昨日より一歩進んだ。
ただ虹色の光を調べていたのではない。
その研究者は《虹光現象に関する旧記録》を、何らかの召喚媒体と比較するために読んでいた。
さらに下。
《照合対象――》
そこで文字が途切れていた。
紙が破れている。
「また?」
思わず声が出た。
でも今度は非開示ではない。
本当に紙そのものが欠けている。
リリィが端を確認する。
「古くなって破れた感じじゃない」
「分かるの?」
「ここだけ切れてる。周りは残ってるのに」
オラクルが止める。
「意図的に切られたって決めるな」
「うん。でも変」
それには私も同意した。
照合対象。
そこが分かれば、六体目へ近づけるかもしれない。
私は申請書をさらに確認する。
裏面に、別の文字が残っていた。
小さな追記。
《第三箱へ移す》
全員が止まった。
「第三箱?」
メリーが聞く。
昨日見つけた、所在不明の研究資料。
研究者が退職時に大図書館へ寄贈した三箱。
第一箱《古代魔法現象》。
第二箱《召喚術・媒体研究》。
そして、現在どこにも見つからない第三箱《古代召喚媒体・未整理記録》。
「これ……」
私は追記を見る。
「虹光記録を調べた結果を、第三箱に入れたってこと?」
「その可能性は高い」
リリィの声も真剣だった。
ようやく繋がった。
《虹光現象に関する旧記録》。
それを最後に長時間閲覧した研究者。
目的は《既知の召喚媒体との照合》。
その調査内容の一部を、第三箱へ移した可能性がある。
そして現在。
虹光記録は所在不明。
第三箱も所在不明。
二つが、同じ研究者の手元で初めて一本に繋がった。
私は鞄の中の《幻獣種召喚の本》を意識した。
まだ関係があるとは言えない。
でも、調べる理由は十分だった。
私は《第三箱へ移す》という短い追記を、もう一度読み返した。
昨日までは、《虹光現象に関する旧記録》と所在不明の第三箱が本当に関係しているのかさえ分からなかった。どちらも同じ研究者に関係しているというだけで、偶然それぞれ別の理由で失われた可能性もあった。
でも、この一文で状況が変わった。
研究者は《虹光現象に関する旧記録》を、何らかの《既知の召喚媒体》と照合するために通常より長く閲覧し、その調査内容の少なくとも一部を第三箱へ移そうとしていた。
「第三箱を見つければ、何と比べてたのか分かるかもしれないんだよね?」
私が聞くと、リリィは申請書を確認しながら頷いた。
「可能性はある。でも、第三箱の中身が全部この調査だったとは限らないよ。《移す》って書いてあるものが一枚だけなのか、何冊もあるのかも分からない」
「それでも探したい」
「うん。それは私も同じ」
オラクルは、昨日写しておいた第三箱の管理記録を机へ広げた。
「問題は、どこから追うかだな。箱そのものがねえなら、最後に確認された場所と時期を調べる。人を追うときと同じだ」
リリィがすぐ反応する。
「寄贈されたときの受領記録」
「ああ。それと保管場所の変更記録だ。図書館へ来た時点では三箱あったのか、最初から二箱しか届いてなかったのか。それだけでも話が変わる」
確かにそうだった。
《三箱寄贈》と書かれているから、私は三箱すべてが大図書館へ届いたものだと思い込んでいた。でも記録上で三箱となっているだけで、実際に誰かが三箱を確認したのかはまだ調べていない。
「じゃあ、それを確認しよう」
「その前に時間見ろ」
オラクルに言われ、窓の外を見る。
いつの間にか日がかなり傾いていた。
午前中はフランの最深部記録。
午後から虹光記録。
今日もほとんど一日を大図書館で過ごしている。
メリーは私の肩へ座ったまま、少し疲れた顔をしていた。
『明日じゃ駄目?』
珍しい。
いつもなら私より先に続きを見たがるのに。
「疲れた?」
『ちょっと。本の字いっぱい見た』
「メリー、字より絵見てたじゃん」
『字も見たよ!』
「四一八?」
『それは昨日!』
ちゃんと覚えていた。
フランが笑う。
さっきまで最深部の記録を読んでいたときとは違う、いつもの笑い方に少し戻っている。
それを見て、私も今日はここまででいいと思った。
一日で全部知る必要はない。
むしろ、ここ数日ずっと大図書館の中で資料を追い続けている。情報が増えすぎて、何を知って何がまだ分からないのか、自分でも混ざり始めていた。
「一回整理しよう」
私が言うと、オラクルが少し意外そうに見る。
「お前から言うの珍しいな」
「私だって成長するよ!」
「明日雪降るんじゃねえか」
「オラクル!」
リリィが笑いながら、記録用の紙を中央へ置いた。
まず、フラン側。
王宮地下牢獄最深部には、名前を非開示にされた若い男が隔離されていた。事件前には二人の人物が特別許可を受けて接見し、室内には三人だけが残された。
二人の名前、所属、収容者との関係はすべて非開示。
接見後、収容者の状態が大きく変化し、牢獄内で騒動が発生した。その後、監視強化と接見禁止が行われ、没収されていた大型剣も王宮中央武器庫へ移されている。
王国崩壊の日には、収容者が何者かの名前を叫んだ直後に魔力反応が急上昇し、牢獄を内側から破壊。中央武器庫へ移動し、大型剣を取り戻した可能性が高い。
その後、王宮東区画で幼い子供と接触。
子供を伴って東門方面へ移動し、王宮外で追跡隊が見失った。
そして数日後、国境付近の集落で《フラン》と名乗る幼い子供が保護されている。
「ここから先はまだ分からない」
リリィが線を引いた。
「男が王宮を出てから、フランが保護されるまでの間。それから、どうして男が東区画へ向かったのか。接見した二人が誰なのかも分からない」
フランは整理された紙を見つめたあと、静かに頷いた。
「でも、前よりずっと分かった」
「怖くない?」
私が聞く。
「怖いよ」
フランは隠さなかった。
「でも、今日見た記録を読まなかったことにしたいとは思わない。俺を連れて王宮を出た人がいたって分かっただけでも、調べてよかった」
その言葉を聞いて、少し安心した。
まだ答えはない。
でも、答えがないことと何も進んでいないことは違う。
次は私たちの調査。
六体目の幻獣種については、今も居場所どころか正式な名前すら分からない。
それでも、《虹光現象に関する旧記録》がかつて大図書館に存在したことは確認できた。
その資料を最後に長時間閲覧した研究者は《古代魔法現象・召喚媒体》の専門家で、閲覧目的には《既知の召喚媒体との照合》と書かれている。
照合対象は、紙の欠損によって読めない。
ただし研究者本人の追記として、
《第三箱へ移す》
という文字が残されていた。
そして、その第三箱こそ現在所在不明になっている《古代召喚媒体・未整理記録》。
「こっちは明日、第三箱の受領記録から追う」
リリィが言った。
「図書館に三箱とも届いたのかを最初に確認する。届いてたなら、次はどこに保管されたか。そのあと、最後に箱を確認した人を探す」
「本当に追跡みたいだね」
「追跡だよ」
リリィは少し笑った。
「相手が動かない箱なだけ」
『でも箱いないよ?』
メリーが言う。
「だから探してるの」
『難しいね』
確かに。
少し笑ったところで、オラクルがもう一枚の紙を机へ置いた。
「それと、忘れんな」
そこに書かれていた名前を見て、私は姿勢を正した。
メロウ。
ここ数日、記録の謎へ夢中になっていたけれど、私たちがグライツへ来た大きな目的の一つは、この人物に会うことだった。
幻獣種を長年調査してきた考古学者。
タヌキの顔が付いた派手なフードとローブを着て、鳥の顔が付いた派手な杖を持つ老人。
五日前には専門書店で空に関する古い記録を探し、その翌日には北部山岳方面の地図を用意させている。それ以降、大図書館では姿を確認されていない。
「明日は第三箱だけじゃなく、メロウの足取りも追うぞ」
オラクルが言った。
「図書館の中だけ調べ続けても仕方ねえ。本人に会えりゃ、六体について今の俺たちより遥かに詳しい可能性がある」
「うん」
私も同じ気持ちだった。
ここまで調べたからこそ、余計に会いたくなっている。
メロウは六体の伝承を集め、一冊の召喚書に結びつく可能性まで考えていた。
第五体と第六体の情報が不自然に少ないことにも気づいている。
そして今、私の鞄の中には、そのメロウが長年探していたものと繋がっているかもしれない《幻獣種召喚の本》がある。
もし本人に見せたら。
何が分かるのだろう。
「絶対見つけよう」
私が言うと、オラクルが笑った。
「その格好なら、見つけるだけなら簡単そうだけどな」
「タヌキだもんね」
『鳥もいるよ!』
メリーはそこが一番楽しみらしい。
閉館を知らせる鐘が鳴った。
私たちは資料を返し、記録用の紙だけを持って大図書館を出た。
外は夕暮れだった。
白い大図書館の壁が橙色に染まり、大通りでは夜の魔法灯が一つずつ点き始めている。
数日前、この街へ着いたとき、世界一の大図書館なら何でも答えてくれるような気がしていた。
実際は違った。
本は答えをくれるだけではない。
知らなかった問いまで見つけてしまう。
フランは、自分がほとんど覚えていない夜に、一人ではなかったことを知った。
私は、存在すら追えなかった六体目に、かつて誰かが辿り着こうとしていた痕跡を見つけた。
どちらもまだ途中だ。
でも、進む方向は見えている。
宿へ向かう途中、フランがふと振り返った。
大図書館の巨大な中央塔には、もう明かりが灯っている。
「明日も来るんだよね」
「もちろん」
私は答えた。
「第三箱を調べて、メロウも探す」
「俺も手伝うよ」
「フランのほうは?」
少し考えてから、フランは前を向いた。
「今日は十分進んだ。次の手掛かりが見つかるまで、無理に記憶を掘るのはやめる」
それでいいと思った。
分からないものを、無理やり答えにしない。
でも、見つけた道から目を逸らさない。
私たちはまた歩き始めた。
背後では、大図書館の明かりが夜のグライツを照らしている。
その中には、まだ見つからない第三箱があるのかもしれない。
街のどこかには、派手な格好をした考古学者へ続く足跡も残っている。
そしてフランの過去には、名前を伏せられたままの若い男と、正体を永久非公開にされた二人の接見者がいる。
全部を一度に追うことはできない。
だから明日は、今いちばん追えるものから始める。
消えた第三箱。
そして――メロウ。
世界一の大図書館で始まった調査は、ようやく本棚の外へ出ようとしていた。




