第162話 消された名前
大図書館の机に、新しく運ばれてきた資料が積み上がっていった。
王宮関係者の避難記録、周辺国へ逃れた人々の名簿、身元不明者の保護記録。リザーメイトという一つの国が崩壊したあとに残された資料だけあって、その量は私が想像していたよりずっと多かった。
警備隊の証言にあった《幼い子供一名》。
その子供がフランだったのかを確かめる。
今度は、そこからだった。
「全部読む必要はないよ」
リリィはすでに条件を紙へ書き出していた。
「事件直後に王都から離れた子供。親と一緒に避難した記録がない人。それから、王都の正規避難路とは違う場所で保護された人を優先する」
「何で正規避難路じゃないの?」
私が聞くと、リリィは警備隊記録を指した。
「特別監視対象と思われる人は、王宮が崩れてる途中で子供を連れて移動してる。兵士に誘導されて避難したとは書かれてないでしょ。だったら普通の避難民と同じ道を使ってない可能性がある」
「なるほど」
人を追うときのリリィと同じだった。
足跡がないなら、残された条件から進める方向を減らしていく。
ただ今回は地面ではなく、何十年も前の紙の上を追っている。
「フラン、王都を出たあとで一番古い記憶って何?」
リリィに聞かれ、フランはすぐには答えなかった。
記憶を無理に引き出すのではなく、本当に残っているものだけを探すように時間を掛ける。
「森……だと思う」
「王都の外?」
「たぶん。木がいっぱいあって、寒かった気がする。でも、それ以上は分からない。誰といたのかも、そこへどうやって行ったのかも覚えてない」
「それなら《森》は条件に使わないほうがいいね」
リリィはあっさり切り捨てた。
「いいの?」
「曖昧な記憶を条件に入れたら、違う人をフランだと思い込むかもしれないから。今は記録だけで追う」
フランが少し安心したように頷く。
私もそのほうがいいと思った。
フランの記憶は大事だ。
だからこそ、分からないところまで無理に答えへ使いたくない。
私たちは資料を分担した。
オラクルは王都から出た避難民の記録。リリィは周辺集落で保護された子供。私は身元不明者名簿を調べ、メリーには私と一緒に年齢欄を確認してもらう。
フランも自分で資料を読む。
最初の一冊には、それらしい子供はいなかった。
二冊目では条件に合う子供が三人見つかったものの、全員が事件当日に家族と一緒に避難している。
三冊目。
違う。
四冊目。
また違う。
調査を始めたころは、すぐ見つかるような気がしていた。
でも実際は、一人の名前へ辿り着くまでに何十人もの人生を通り過ぎる。
父親を失った子。
母親とはぐれた子。
怪我をして名前すら答えられなかった子。
記録の一行一行が、リザーメイト崩壊の大きさを少しずつ見せてくる。
フランも途中から口数が減っていた。
「大丈夫?」
一度だけ聞く。
「うん」
今度の返事には無理をしている感じはなかった。
「俺だけじゃなかったんだなって思って」
それ以上は言わなかった。
国がなくなったという一文の中には、これだけ多くの人がいた。
フランは今、そのことまで知ろうとしているのだと思う。
しばらくして、リリィの手が止まった。
「これ」
声は小さい。
でも全員が顔を上げた。
リリィが開いているのは、王国崩壊から数日後に作成された周辺集落の保護記録だった。
《国境付近の集落にて幼児一名を保護》
最初の記録に名前はない。
子供は強い疲労状態にあり、保護直後は質問へほとんど答えられなかったらしい。
年齢は幼年。
大きな外傷はなし。
衣服は王都上層居住区で使用される仕立てに近い。
さらに、右手に擦過傷があったと記されている。
フランが無意識に自分の右手を見る。
でも何も言わなかった。
傷なんて今は残っていないし、それだけで自分だと判断することもできない。
「続きある?」
私が聞く。
リリィが次の記録を読む。
保護された翌日。
子供は少しずつ会話できるようになった。
そこで初めて、本人が自分の名前を答えている。
リリィの指が、その一行で止まった。
私も読んだ。
《本人申告名――フラン》
誰もすぐには声を出さなかった。
フラン自身が、少し遅れて資料へ顔を近づける。
「……俺?」
時期は一致する。
年齢も合う。
王都から離れた場所で、家族とは別に保護されている。
さらに数日後の記録には、
《身元確認完了。保護者へ引き渡し》
とあった。
保護者の名前は複製資料では伏せられている。
それでも、《幼い子供》の正体へはかなり近づいた。
私は警備隊の証言をもう一度開く。
《対象と思われる人物が幼い子供一名を伴い、崩壊した王宮区画より移動》
そして数日後。
《本人申告名――フラン》
二つの記録の間には、まだ空白がある。
王宮から国境近くの集落まで、誰がフランを連れていったのか。
途中で何があったのか。
いつ一人になったのか。
そこは分からない。
オラクルも同じところを見ていた。
「王宮から出た子供と、このフランが同一人物である可能性はかなり高い。ただし、王宮を出てから保護されるまでずっと同じ男と一緒だったとは、まだ言えねえ」
「うん」
フランはすぐ頷いた。
以前よりも、こういう区別を自然に受け入れられるようになっている。
それでも、しばらく自分の右手を見つめていた。
「誰かに手を掴まれてたような気がするって言ったでしょ」
「うん」
「本当にあったことなのかな」
私は答えなかった。
フランも答えを求めているわけではなかったと思う。
記録を読んだから生まれた想像なのか。
幼いころから残っていた感覚なのか。
今は区別できない。
でも少なくとも、誰かと王宮から移動していた可能性そのものは記録によって裏付けられた。
「俺、この人が誰だったのか知りたい」
フランの視線が警備隊記録へ戻る。
牢獄最深部に隔離されていた若い男。
事件以前、特別許可によって二人の人物がその男へ接見している。
部屋にいたのは、収容者を含めて三人。
接見者二名の名前は非公開。
そして接見後、収容者の言動と魔力反応に変化が現れ、牢獄内で騒動が発生した。
監視兵二名が負傷し、以後は接触制限と監視人数が強化されている。
その後、王国崩壊の日。
最深部独房の内側から破壊が始まり、若い男は大剣状の武器を持って王宮上層へ移動。王宮の一部を破壊したのち、幼い子供を伴って王宮区域から離れている。
その幼い子供がフランだった可能性は、今かなり高くなった。
でも、男の名前はまだ分からない。
「次は収容記録だね」
リリィが言った。
「接見者も気になるけど、先に牢屋にいた人を確認したほうがいい」
フランも同じ考えだった。
「うん。俺を連れていった人が誰なのか、まずそこから知りたい」
近くの司書へ確認すると、事件当時の王宮地下牢獄管理簿そのものは残っていた。
ただし問題があった。
一般収容区の記録は閲覧できる。
最深部だけが違う。
《特別監視対象に関する記録――閲覧制限》
「何でそこだけ?」
私が尋ねても、司書には理由までは分からなかった。
「王国崩壊後に資料が整理された際、閲覧制限が設定されています。王家に関する機密、危険人物の情報、外交上の理由など、当時は複数の基準がありましたので」
資料そのものが失われたわけではない。
存在している。
ただ、扉が閉まっている。
「申請すれば見られる?」
フランが尋ねた。
「審査次第です。閲覧目的を記入してください」
申請用紙が渡される。
フランは名前や滞在先を書き、最後に《閲覧目的》で手を止めた。
私は何も言わなかった。
少し考えたあと、フランは自分の言葉で書いた。
《リザーメイト崩壊時、王宮から自分を連れ出した可能性のある人物を確認するため》
その文章を読んだとき、胸の奥が少しだけ詰まった。
昨日までフランが追っていたのは、なくなった故郷だった。
今は違う。
自分自身が知らなかった、自分の過去を追っている。
申請書を提出すると、審査結果は早くても翌日になると言われた。
「今日はここまでか」
オラクルが時計を見る。
まだ時間は残っている。
なら、私たちの調査も進められる。
「虹の記録のほう戻ろう」
私が言うと、フランも立ち上がった。
「俺も行く」
「いいの?」
「今は待つしかないから。それにフールのほうも気になる」
五人で記録管理区へ戻った。
午前中に申請していた研究者名簿と閲覧延長申請の一部が届いていた。
《虹光現象に関する旧記録》を、移管される約一年半前に最後に閲覧した人物。
十数年前、大図書館へ所属していた研究者。
専門分野は《古代魔法現象・召喚媒体》。
私はその文字を見て、鞄の中の《幻獣種召喚の本》を意識した。
でも、それだけでは何も決まらない。
研究者の経歴を追う。
長年、大図書館で研究を続けていた。
複数の古代資料を調査。
その後、本人の希望によって退職。
一見すれば普通だった。
ところが日付を確認していたオラクルが、途中で指を止めた。
「こいつが辞めた時期……虹光記録が移管扱いになった時期と近くねえか?」
昨日の記録を並べる。
完全に同じ日ではない。
でも数か月しか離れていなかった。
「偶然かな」
「かもしれねえ。だから次を見る」
研究者が退職するときに残した資料の管理記録。
《個人研究資料――三箱寄贈》
三箱。
さらに詳細を確認する。
第一箱。
古代魔法現象。
第二箱。
召喚術・媒体研究。
第三箱。
未整理資料。
ところが現在の保管記録には、第一箱と第二箱しかない。
「三つ目は?」
メリーが聞いた。
司書も記録を確認する。
しばらくして、表情が変わった。
「第三箱は……所在不明となっています」
《虹光現象に関する旧記録》だけではない。
その資料を最後に長時間閲覧した研究者が残した研究資料まで、一箱だけ行方が分からない。
リリィが管理票を確認する。
「中身は?」
「未整理の状態で寄贈されたため、詳細な目録は作られていません。ただ、大分類だけ残っています」
司書が該当欄を示す。
《古代召喚媒体・未整理記録》
私はしばらく、その文字から目を離せなかった。
六体目には追う道がないと思っていた。
でも実際には、道がなかったわけではない。
《虹光現象に関する旧記録》があった。
それを長時間調べた研究者がいた。
その研究者は古代召喚媒体を専門としていた。
そして資料が移管扱いになった時期と近いころに退職し、残した三箱のうち一箱だけが消えている。
まだ、誰かが意図的に消したとは言えない。
でも、単なる一冊の紛失だけではなくなった。
「明日は忙しくなるね」
リリィが言った。
フランの牢獄記録。
虹光記録を追っていた研究者。
所在不明の第三箱。
さらに、名前を伏せられた二人の接見者。
いくつもの扉が、同じ大図書館の中で閉じたまま待っている。
ただ、その全部を今日開ける必要はない。
一つずつでいい。
私は利用札と記録用の紙を鞄へ戻した。
その横には《幻獣種召喚の本》がある。
明日。
フランは、自分を王宮から連れ出した可能性のある人物へ近づく。
私たちは、六体目へ続いていたかもしれない消えた資料の先を追う。
そして大図書館のどこかには、まだ会えていないメロウの研究記録も残っている。
答えへ近づいているはずなのに、調べるほど分からないことが増えていく。
それでも以前とは違った。
今の私たちには、次にどの扉を叩けばいいのかが分かっていた。




