第161話 牢獄から始まった夜
翌朝、大図書館へ着いた私たちは、巨大な吹き抜けを抜けたところで二手に分かれた。
私とオラクル、リリィ、メリーは記録管理区へ向かい、昨日申請しておいた《虹光現象に関する旧記録》の閲覧履歴を調べる。フランは旧国家資料区へ行き、リザーメイト崩壊直後に作成された王都警備隊の生存者記録を探す予定だった。
昨日までの調査で、私たちが追うものはかなり具体的になっている。
六体目の幻獣種に関係する可能性がある《虹光現象に関する旧記録》は、十数年前までは大図書館に存在していた。それが途中で《移管》扱いとなったにもかかわらず移管先は残されず、処理記録にも説明のない欠番があった。
一方、フランは自分の故郷リザーメイトが失われた日の記録を追っている。
二つは別々の調査だ。今のところ繋がっている証拠は何もない以上、似た言葉や現象が出てきても勝手に結びつけない。
それぞれの道を、それぞれ追う。
「何か見つけたら呼ぶから」
別れる直前、フランが言った。
少しだけ迷ってから、さらに続ける。
「一人で読むのがきついと思ったときも呼ぶ」
「うん。すぐ行く」
「フールもね」
「分かってる」
フランは小さく笑い、旧国家資料区へ向かった。
その背中が書架の向こうへ消えるまで見送る。
以前の私なら、心配だからという理由だけでついていったかもしれない。でもフランは、一人で抱え込もうとしているわけではない。自分で確かめられるところまでは進み、必要になったら私たちを呼ぶと決めている。
それなら私も、自分が追うべきものを進める。
記録管理区へ入ると、昨日対応してくれた司書がすでに待っていた。
「申請されていた閲覧記録が見つかりました。ただ、かなり古いものですので、一部に欠損があります」
「残ってるところだけでも見たいです」
案内された机には、細長い木箱が置かれていた。
中に収められているのは本ではない。年代ごとに綴じられた何枚もの閲覧記録で、昔は希少資料を利用するたびに、職員が日付、資料番号、利用者名を手書きで残していたらしい。
探すのは《虹光現象に関する旧記録》。
移管される直前、最後に誰が読んだのか。
リリィは新しい年代から過去へ向かって日付を確認し、私は資料番号を追った。オラクルは利用者名の横に付けられた所属記号を調べ、メリーには数字の最後が《四一八》になっているものを探してもらう。
「四、一、八ね」
『覚えた!』
最初の一年には見つからない。
その前もない。
さらに遡る。
大量の数字と名前を追い続けているうちに、目が痛くなってきた。
「本当に誰も読んでなかったのかな」
私が呟くと、リリィは記録から目を離さず答えた。
「長い間読まれてない本なら普通にあると思う。でも、最後の一人を探してるんだから、ないこと自体も情報だよ」
そう言われると見方が変わった。
見つからないから進んでいないのではない。一枚確認するたび、その期間には誰も読んでいなかったことが分かっている。
さらに年代を遡ったところで、メリーが私の袖を引いた。
『フール。これ』
指先を見る。
《四一八》。
「あった」
思わず声が大きくなりかけ、慌てて抑えた。
日付は、資料が移管扱いになるおよそ一年半前。
利用者名も残されている。
知らない人物だった。
「これが最後?」
私が聞くと、リリィはすぐには頷かなかった。
「ここから移管される時期まで、もう一回全部確認しよう。これより後に読んだ人がいないって確かめたい」
四人で再確認する。
一枚ずつ日付を追い、番号を見る。
結果は同じだった。
現存する閲覧記録の中では、その人物が《虹光現象に関する旧記録》を最後に閲覧している。
さらに、その名前の横だけに《閲覧延長申請》という注記が残されていた。
「普通より長く読んでたってこと?」
司書へ尋ねると、通常の閲覧時間を超えて資料を使用する場合に必要な申請だと教えられた。
しかも利用者名の横に付いた記号は、当時この大図書館へ所属していた研究者を示している。
外部から一度だけ来た人物ではない。
大図書館の研究者が《虹光現象に関する旧記録》を長時間調べ、その後に残る閲覧履歴はない。
約一年半後、資料は移管扱いとなり、行き先が記録から消える。
まだ関係があるとは言えない。
それでも、昨日まで存在すら知らなかった人物が、初めて消えた資料の直前に立っている。
「この人を調べたい」
リリィが言った。
「研究者名簿と、閲覧延長の申請書。両方残ってれば、何を調べてたのか分かるかもしれない」
司書へ取り寄せを頼む。
また一つ先へ進めた。
そのとき、記録管理区の入口から足音が近づいてきた。
走ってはいない。
それでも普段より明らかに速い。
顔を上げると、フランが立っていた。
手には数枚の紙を持っている。
こちらへ来るまで一度も足を止めず、机の前でようやく立ち止まった。
「フラン?」
「見つかった」
声が少し掠れていた。
「警備隊の記録?」
フランは頷いた。
でも、すぐには説明しない。
左手に持った紙の端が少し曲がっている。強く握りすぎたのだと思う。
「一緒に読んでほしい」
「もちろん」
私はすぐに立ち上がった。
オラクルとリリィも何も聞かず帳簿を閉じ、メリーは私の肩へ戻ってくる。
五人で旧国家資料区へ向かった。
フランが見つけた資料は、奥まった閲覧机に置かれていた。
《リザーメイト王都災害調査・生存者証言》。
後世の歴史家がまとめた本ではない。
リザーメイト崩壊直後、生き延びた兵士や住民から聞き取った内容を集めた記録だった。証言者がどこにいたのか、どんな役目だったのか、事件後にどの程度の負傷が確認されたのかまで記されている。
フランは椅子へ座ったものの、すぐには資料を開かなかった。
「どこまで読んだの?」
「三人目の途中。そこから一人で読むのやめた」
「大丈夫?」
少し考えてから答える。
「たぶん。でも一人で読むより、みんながいたほうがいい」
その答えで十分だった。
私も隣へ座った。
最初の証言者は、王都西門を担当していた兵士だった。
異変が始まった時刻、王宮方面から聞こえた破壊音、住民を城外へ避難させたこと。そこまでは以前見つけた避難民の記録と大きな違いはなかった。
ただ、兵士は音が聞こえた方向を具体的に残している。
《最初に確認された大規模な破壊音は、王宮中央部ではなく地下牢獄区画側から発生》
私はその一文を読み直した。
「牢獄……」
フランは何も言わず、次の証言へ進む。
二人目は王宮内部の警備兵だった。
牢獄区画で異常が起きたという報告を受け、数名で地下へ向かった。しかし到着する前に強い衝撃を受けて通路の一部が崩落し、さらに地下側から強い光を確認したという。
これまで見つかった《王都で光を見た》という避難民の証言より、ずっと近い場所からの記録だった。
そして重要なのは順番だった。
最初から王都上空に何かがいたわけではない。
少なくとも、この警備兵が確認した異変は地下牢獄から始まっている。
私はフランを見た。
「何か覚えてる?」
フランはしばらく考えたあと、首を横へ振った。
「大きい音がしたことは覚えてる。でも、どこからだったかは分からない。王宮にいたころの記憶も、あとから聞いた話と混ざってると思う」
それ以上は聞かなかった。
フラン自身の記憶を、今読んだ資料に合わせて作り直してしまう必要はない。
「じゃあ、今は記録だけ読もう」
「うん」
三人目。
そこで内容が変わった。
証言者は王宮地下牢獄区画の警備兵。事件当日に重傷を負い、王国崩壊後、隣国で聞き取りを受けている。
《当日、地下牢獄最深部には特別監視対象一名を隔離中》
名前はない。
しかし、普通の囚人ではなかったことは続く記述から分かった。
《対象は若い男。通常収容者とは異なる最深部独房へ隔離し、常時複数名による交代監視を実施》
私は自然と姿勢を正していた。
さらに読む。
事件当日ではない。
その少し前。
《異変発生以前、特別許可による接見を実施。室内には特別監視対象一名、接見者二名の計三名》
「三人……」
リリィが声を落とした。
接見した二人の名前を探す。
しかし、そこだけが伏せられていた。
《接見者情報――非公開》
誰が会ったのかは分からない。
接見時間はそれほど長くなかったらしい。
問題は、そのあとだった。
《接見終了後、対象の言動および魔力反応に著しい変化を確認。同日、最深部独房内にて騒動発生。監視兵二名負傷》
さらに、
《以後、接触制限を強化。監視人数を増員》
と記されている。
接見。
その後の騒動。
監視の強化。
順番だけは残っている。
ただし、二人の接見者が何を話したのかは分からないし、接見そのものが騒動の原因だったとも書かれていない。
「会ったあとに何かあったんだね」
私が言うと、オラクルが記録を見たまま答えた。
「ああ。ただし今分かるのはそこまでだ。接見と騒動に因果関係があるかは別だ」
「うん」
分からないものを、勝手に繋げない。
それでも、胸の奥に引っ掛かるものは残った。
記録は王国崩壊の日へ進む。
《最深部独房周辺で異常な発光を確認。直後、最深部方向より第一衝撃発生。独房扉および周辺石壁が内側より破壊》
今度は誰も声を出さなかった。
外から牢屋を壊したのではない。
記録が正しければ、破壊は最深部の内側から始まっている。
警備兵たちは最深部へ向かおうとしたが、二度目の衝撃で地下通路の一部が崩落。煙と粉塵で視界を失い、複数名が負傷した。
その混乱の中で、二人の兵士が同じ人物を目撃している。
《特別監視対象と思われる若い男が、破壊された最深部通路より王宮上層方向へ移動。対象と思われる人物は大剣状の武器を所持》
名前はない。
私たちが知っている誰かだと決められるものもない。
今確認できるのは、最深部に隔離された若い男、正体不明の二人との接見、その後の騒動と監視強化、王国崩壊の日に起きた異常な発光、そして独房の内側から始まった破壊だけだった。
フランは黙って文章を追っている。
怖がっていないわけではない。
膝の上の左手には力が入っていた。
それでもページを閉じなかった。
「続き、読む?」
私が聞く。
フランは一度だけ深く息を吸った。
「読む」
その先には、王宮内部で起きた破壊が記録されていた。
最初は地下牢獄。
次に地下通路。
そこから王宮内部の階段、壁、複数の部屋が次々と崩壊していく。
《破壊は牢獄側より王宮中央部へ向けて連続的に発生》
外から見た避難民が《王宮が爆発した》と証言したのは、この一連の崩壊だった可能性がある。
でも、フランの中に残っている記憶には、そんな順番はなかった。
「俺、こんなふうに起きてたなんて知らなかった」
「何を覚えてる?」
「音。暗かったこと。それから、怖かったこと」
フランは少し考える。
「王宮が壊れてた景色もある気がする。でも、壊れるところを見たのか、あとから見たのかは分からない。誰かに手を引かれてたような気もするし、服を掴んでた気もする。でも、それも本当に俺が覚えてることなのか自信ない」
資料には、出来事が順番に並んでいる。
どこで最初の衝撃が起き、次にどこが壊れ、兵士がどこへ移動したのかまで残されている。
でもフランの記憶には、最初も次もない。
音。
暗さ。
恐怖。
誰かへ触れていたような感覚。
それだけが、ばらばらに残っている。
「無理に繋げなくていいと思う」
私は言った。
「記録に書いてあることと、フランが覚えてることは別々でいいよ。今読んだことを昔から覚えてたことにしちゃったら、本当に残ってた記憶まで分からなくなるかもしれないし」
フランはしばらく黙り、やがて頷いた。
「うん。俺もそうする」
私たちは続きを読んだ。
警備隊は王宮内部の混乱で特別監視対象を一度見失っている。
次にその人物らしき姿が確認されたのは、地上区画の一部が大きく崩壊したあとだった。
《混乱の最中、対象と思われる人物が幼い子供一名を伴い、崩壊した王宮区画より移動する姿を複数名が確認》
フランの動きが止まった。
さっきまで文章を追っていた指も、《幼い子供一名》という文字の手前で止まっている。
名前はない。年齢も性別も書かれておらず、その子供がフランだと決められるものは何もなかった。
それでも、フランはその一文だけを何度も読み返していた。
「……手」
やがて、小さな声が漏れた。
「手?」
「誰かに手を掴まれてたような気がする」
フランは自分の右手を見つめながら、記憶を無理に掘り起こさないよう慎重に言葉を選んだ。
「俺よりずっと大きい手だったと思う。でも顔は出てこないし、どこを歩いてたのかも分からない。走ってたのか、途中で抱えられてたのかも覚えてない。ただ……離しちゃ駄目だって思ってたような気がする」
そこまで言って、自分から首を横へ振った。
「でも、今これを読んだからそう思っただけかもしれない」
「だったら、まだ記憶だったって決めなくていいよ」
「うん」
今のフランには、その判断ができている。
だから私たちも、曖昧な記憶を証拠にはしなかった。
リリィは警備隊記録の残りを確認し、別の方向から調べられないか考えているようだった。
「この子供を追ってみない?」
「どうやって?」
「王宮から避難した人の記録とか、王国がなくなったあとに周辺国で保護された人の名簿。子供なら、どこかで誰かに保護されてる可能性があるでしょ」
オラクルも頷いた。
「男の正体が分からねえなら、子供側から追えばいい。フランだったのかどうかも、それで確かめられる」
それが一番確実だった。
近くの司書へ事情を説明すると、リザーメイト王宮関係者の避難記録だけではなく、崩壊後に周辺国が作成した保護者名簿や身元不明者記録も残されているという。
私たちは警備隊記録をいったん閉じ、今度は《幼い子供》を追うことにした。
机へ次々と資料が運ばれてくる。
王宮関係者避難記録。
生存者名簿。
身元不明者保護記録。
周辺集落から隣国へ送られた報告書。
一つの国がなくなったあとに作られた資料だけあって、その量は想像以上だった。子供に絞ったところで、数人や十数人では終わらない。
「これ全部見るの?」
私が尋ねると、リリィはすでに紙へ条件を書き始めていた。
「全部は見ないよ。事件直後に王都周辺で確認された子供のうち、家族と一緒に避難した記録がない人。それから、正規の避難経路とは違う場所で保護された人を優先する」
「何で正規の道じゃないの?」
「警備隊の証言だと、特別監視対象は王宮が崩れてる途中で子供を連れて移動してる。兵士に誘導されて避難したとは書かれてないから、普通の避難民と同じ経路を通ってない可能性がある」
なるほど。
ただ大量の記録を読むのではなく、分かっていることから候補を減らしていく。
リリィの追跡は、地面に残された足跡を追うときと変わらなかった。
「フラン、王宮を出たあとで一番古い記憶って何?」
聞かれたフランは、すぐには答えなかった。
「……森だと思う」
「王都の外?」
「たぶん。木がいっぱいあって、寒かった気がする。でも誰といたのかも、そこまでどうやって行ったのかも覚えてない」
リリィは少し考え、紙には書かなかった。
「じゃあ、それは今は使わない」
「いいの?」
「曖昧な記憶を条件にしたら、記録のほうを無理やり記憶に合わせることになるから。森だったかどうかは、あとで確かめればいい」
フランは少し安心したように頷いた。
そこからは五人で分担した。
オラクルは王都から出た避難民の記録、リリィは周辺集落の保護記録、私は身元不明の子供を調べる。メリーには私の横で年齢や保護場所を確認してもらい、フラン自身も別の資料を読む。
最初の一冊にはいなかった。
二冊目では条件に近い子供が三人見つかったものの、全員が事件当日に家族と一緒に避難している。
三冊目も違う。
調査を始めたときは、名前さえ探せばすぐ見つかるような気がしていた。
でも実際には、一人へ辿り着くために何十人もの記録を通り過ぎる。
父親を失った子供。
母親とはぐれた子供。
大きな怪我を負った子供。
保護されたときには、自分の名前すら答えられなかった子供。
《リザーメイト王国崩壊》という歴史書の短い一文の中に、これだけ多くの人がいた。
フランも途中から口数が減っていた。
「大丈夫?」
一度だけ聞く。
「うん」
今度の返事には、無理をしている感じはなかった。
「俺だけじゃなかったんだなって思ってた」
その言葉の意味は、何となく分かった。
フランにとってリザーメイトは、自分が失った故郷だった。
でも記録を読めば読むほど、同じ日に故郷を失った人、家族を失った人、人生そのものが変わった人が大勢いたことが分かる。
フランは今、自分の過去だけではなく、自分が生まれた国に何が起きたのかを知ろうとしているのだと思う。
さらに資料を調べていると、リリィの手が止まった。
「……これ」
小さな声だった。
それでも全員が顔を上げた。
リリィが開いているのは、王国崩壊から数日後に作成された国境付近の集落の記録だった。
《国境近隣集落にて幼児一名を保護》
最初の記録には名前がない。
子供は強い疲労状態にあり、保護直後は質問へほとんど答えられなかったらしい。
《年齢推定――幼年》
《目立った外傷なし》
《衣服――王都上層居住区で使用される仕立てに近似》
そして、
《右手に軽度の擦過傷あり》
フランが自分の右手を見る。
今は当然、傷など残っていない。
「覚えてる?」
私が聞く前に、フランが首を横へ振った。
「分からない」
それでいい。
傷一つだけで答えにはしない。
リリィが次の記録へ進む。
保護された翌日、子供は少しずつ会話できるようになっていた。
そこで初めて、自分の名前を答えている。
リリィの指が一行で止まった。
私も読んだ。
《本人申告名――フラン》
誰もすぐには声を出さなかった。
フラン自身が少し遅れて資料へ顔を近づける。
「……俺?」
時期は一致している。
年齢も合う。
王都から離れた国境付近で、家族とは別に保護されている。
さらに数日後の記録には、
《身元確認完了。保護者へ引き渡し》
と残されていた。
保護者の名前は、この複製資料では伏せられている。
私は警備隊の証言をもう一度開いた。
《対象と思われる人物が幼い子供一名を伴い、崩壊した王宮区画より移動》
そして数日後の保護記録。
《本人申告名――フラン》
二つの記録の間には、まだ空白がある。
王宮から国境近くの集落まで誰が連れていったのか。途中で何が起き、いつ一人になったのかは分からない。
オラクルもそこは慎重だった。
「王宮を出た子供と、この記録のフランが同一人物である可能性はかなり高い。ただ、王宮を出てから保護されるまで、ずっと同じ男と一緒だったとはまだ言えねえ」
「うん」
フランはすぐに頷いた。
それでも、しばらく自分の右手を見ていた。
「誰かに手を掴まれてた気がするって言ったでしょ」
「うん」
「本当にあったことなのかな」
誰にも答えられない。
記録を読んだから生まれた想像なのか、幼いころから残っていた感覚なのか、今は区別できない。
でも一つだけ、さっきまでとは違う。
幼いフランが、誰かと崩壊する王宮から移動していた可能性はかなり高くなった。
「俺、この人が誰だったのか知りたい」
フランの視線が、警備隊記録へ戻った。
地下牢獄最深部に隔離されていた若い男。
事件より前に、特別許可を受けた二人がその男へ接見している。
部屋にいたのは収容者を含めて三人。
二人の接見者の名前は非公開。
接見後、若い男の言動と魔力反応に大きな変化が現れ、牢獄内で騒動が発生した。監視兵が負傷し、それ以降は接触制限と監視人数が強化されている。
そして王国崩壊の日。
最深部独房の内側から破壊が始まり、若い男は大剣状の武器を持って王宮上層へ移動した。王宮の一部を破壊したあと、幼い子供を伴って王宮区域から離れている。
その幼い子供がフランだった可能性は、今かなり高い。
でも、男の名前はまだ分からない。
「次は収容記録だね」
リリィが言った。
「接見した二人も気になるけど、まず牢屋にいた人を確認したほうがいいと思う」
フランも同じ考えだった。
「うん。俺を連れていった人が誰なのか、先にそこから知りたい」
近くの司書へ確認すると、事件当時の王宮地下牢獄管理簿そのものは残っていた。
ただし、問題があった。
一般収容区の記録は閲覧できる。
最深部だけが違う。
《特別監視対象に関する記録――閲覧制限》
「何でそこだけ?」
私が尋ねても、司書には理由までは分からなかった。
「王国崩壊後に資料が整理された際、閲覧制限が設定されています。当時は王家に関する機密、危険人物の情報、外交上の事情など複数の基準がありましたので、現在の記録だけでは理由を特定できません」
資料そのものが失われたわけではない。
存在している。
ただ、簡単には開けられない。
「申請すれば見られる?」
フランが尋ねる。
「審査次第です。閲覧目的を記入してください」
申請用紙が渡された。
フランは名前や滞在先を書き、最後に《閲覧目的》で手を止めた。
私は何も言わなかった。
少し考えたあと、フランは自分の言葉で書いた。
《リザーメイト崩壊時、王宮から自分を連れ出した可能性のある人物を確認するため》
その文章を読んだとき、胸の奥が少しだけ詰まった。
昨日までフランが追っていたのは、失われた故郷だった。
今は、自分自身がほとんど覚えていない過去を追っている。
申請書を提出すると、審査結果が出るのは早くても翌日だと言われた。
今日はこれ以上進めない。
でも、待っている時間を無駄にする必要もない。
「虹の記録のほう戻ろう」
私が言うと、フランも立ち上がった。
「俺も行く」
「いいの?」
「今は待つしかないから。それにフールのほうも気になる」
五人で記録管理区へ戻った。
午前中に申請していた研究者名簿と閲覧延長申請の一部が届いている。
《虹光現象に関する旧記録》を、移管される約一年半前に最後に閲覧した人物。
十数年前、大図書館へ所属していた研究者。
専門分野は《古代魔法現象・召喚媒体》。
私はその文字を見て、鞄の中の《幻獣種召喚の本》を意識した。
でも、それだけで何かを決めることはしない。
研究者の経歴を追う。
長年、大図書館で研究を続け、複数の古代資料を調査。その後、本人の希望によって退職している。
一見すれば、それだけだった。
ところが日付を確認していたオラクルが、途中で指を止めた。
「こいつが辞めた時期……虹光記録が移管扱いになった時期と近くねえか?」
昨日の記録を並べる。
完全に同じ日ではない。
でも数か月しか離れていなかった。
「偶然かな」
「かもしれねえ。だから次を見る」
オラクルはすぐ結論を出さない。
研究者が退職するときに残した資料の管理記録を調べる。
《個人研究資料――三箱寄贈》
第一箱。
《古代魔法現象》。
第二箱。
《召喚術・媒体研究》。
第三箱。
《未整理資料》。
ところが、現在の保管記録には第一箱と第二箱しかなかった。
「三つ目は?」
メリーが聞く。
司書も記録を確認する。
しばらくして、その表情が変わった。
「第三箱は……所在不明となっています」
《虹光現象に関する旧記録》だけではない。
その資料を最後に長時間閲覧した研究者が残した研究資料まで、一箱だけ行方が分からない。
リリィが管理票を確認する。
「中身は分からないんですか?」
「未整理の状態で寄贈されたため、詳細な目録は作成されていません。ただし大分類だけは残っています」
司書が該当欄を示す。
《古代召喚媒体・未整理記録》
私はしばらく、その文字から目を離せなかった。
六体目には追う道そのものがないと思っていた。
人魚、雷鳥、氷蛇、炎獅子には、それぞれ目撃された場所や伝承が残っている。第五体の光を纏う剣士でさえ、情報は極端に少ないものの、西方の伝承や古い写本、壁画という細い糸だけは残されていた。
六体目だけが違った。
地名も年代も出典もなく、メロウ自身が《追跡不能》と記していた。
ところが大図書館で調べ続けた結果、何もなかったわけではないことが分かり始めている。
かつて《虹光現象に関する旧記録》という資料が、この大図書館に確かに存在していた。それを最後に長時間閲覧したのは、古代魔法現象と召喚媒体を専門とする研究者。その研究者が退職した時期は、虹光記録が行き先不明のまま《移管》された時期と近く、さらに本人が残した三箱の研究資料のうち、《古代召喚媒体・未整理記録》に分類された第三箱だけが所在不明になっている。
一つだけなら、古い資料の紛失で終わったかもしれない。
でも今は、同じ方向に空白が重なり始めている。
「変だね」
私が呟くと、リリィも管理票を見つめたまま頷いた。
「うん。でも、まだ《誰かが消した》とは言えない。移管先が記録されなかった理由も、第三箱がなくなった理由も分かってないから」
「じゃあ次は?」
「この研究者が退職する前に何をしてたのか調べたい。それと、第三箱が最後に確認された時期。二つを並べれば、何か分かるかもしれない」
さっきまでフランの過去を追っていたときと同じだった。
答えが見つからないなら、その一つ前へ戻る。
人が消えたなら最後に見た人を探し、本が消えたなら最後に置かれていた場所を探す。リリィの追跡は、森の中でも大図書館でも変わらないらしい。
「明日だな」
オラクルが窓を見る。
いつの間にか外は夕方になっていた。
大図書館の閉館を知らせる鐘が遠くから聞こえ、周囲でも利用者たちが本を戻し始めている。
「もうこんな時間?」
「朝からずっと調べてたからな」
メリーが私の肩で大きく伸びをした。
『今日いっぱい本見た……』
「メリーも頑張ったね」
『数字もいっぱい見たよ。四一八もう覚えた!』
「明日には使わないかもしれないよ?」
『えっ』
ものすごく残念そうな顔をされた。
少し笑ってから、私たちも資料を返す準備を始めた。
フランはまだ、さっき見つかった保護記録を持っていた。
《本人申告名――フラン》。
その文字を、もう一度だけ見ている。
「持って帰れないよ」
私が言うと、フランは小さく笑った。
「分かってる。最後に見てただけ」
資料を閉じる。
「変な感じなんだ」
「何が?」
「俺が覚えてない俺のことを、知らない人が書いた記録のほうが知ってる」
私はすぐには答えられなかった。
フラン自身に残っているのは、大きな音や暗さ、怖かった感覚、誰かの手に触れていたような曖昧な記憶だけだ。
でも紙の上には、もっと具体的なことが残っている。
地下牢獄。
最深部に隔離された若い男。
正体を伏せられた二人との接見。
その後に起きた騒動と監視強化。
牢獄の内側から始まった破壊。
王宮へ向かって移動する大剣を持った人物。
そして、その人物と一緒に王宮から離れた幼い子供。
数日後、国境付近で保護された《フラン》という名前の子供。
「怖い?」
私が聞くと、フランは少し考えた。
「怖い。でも、嫌じゃない」
保護記録へ手を置く。
「昨日までは、俺の記憶がおかしいのかなって思うこともあった。でも、覚えてないことまで無理に思い出さなくていいって分かったから。記録に残ってるなら、そこから調べればいい」
「うん」
「だから知りたい」
フランの視線が、今度は机の端に置かれた閲覧申請の控えへ移る。
明日、結果が出る予定のもの。
《特別監視対象に関する記録》。
「俺を王宮から連れ出した人が、誰だったのか」
声は静かだった。
でも迷いはなかった。
私はその横顔を見ながら、旅を始めたころのフランならどうしていただろうと少しだけ考えた。
きっと、怖くないふりをしたかもしれない。
あるいは答えを急いで、自分の中にある何かと無理に結びつけていたかもしれない。
今は違う。
怖いと言える。
覚えていないと言える。
分からないことを、分からないまま次の手掛かりまで持っていける。
「明日も一緒に見る?」
私が聞いた。
「うん」
フランはすぐに答えた。
「一人でも読めると思う。でも、みんなと見たい」
「じゃあ五人で見よう」
『私も?』
メリーが自分を指差す。
「五人って言ったじゃん」
『やった!』
「遊びじゃないよ?」
『分かってるよ!』
メリーが怒り、フランが少し笑った。
その笑顔を見て、ようやく今日の調査が終わったような気がした。
資料をすべて司書へ返し、私たちは大図書館を出た。
外はもう夕暮れだった。
白い建物の壁が夕日を受けて薄い橙色に染まり、大通りには夜の魔法灯が一つずつ点き始めている。
昨日まで、この大図書館へ来れば答えが見つかると思っていた。
実際には逆だった。
一つ調べるたびに、次の疑問が出てくる。
六体目の記録を探せば、消えた旧記録が見つかった。
それを追えば、最後に読んだ研究者へ辿り着き、その研究者が残した資料まで一箱だけ消えていた。
フランの故郷を調べれば、王国崩壊の日へ辿り着いた。
その記録を追えば、牢獄最深部に隔離されていた名前の分からない若い男が現れ、正体不明の二人との接見、その後の騒動、王宮の破壊、そして幼いフランへ繋がった。
答えが増えたというより、今まで見えていなかった扉が次々と現れている。
でも、それでいい。
全部を一度に開ける必要はない。
私は隣を歩くフランを見る。
明日、まず開ける扉は決まっている。
閲覧制限の掛けられた、地下牢獄最深部の収容記録。
そこには、フランを崩壊する王宮から連れ出した可能性のある人物について記されている。
名前が残っているかもしれない。
なぜ最深部へ隔離されていたのかも分かるかもしれない。
そして、その人物へ事件前に接見した二人について、新しい手掛かりが残っている可能性もある。
期待している答えがあるとは限らない。
むしろ、もっと知りたくないことが出てくるかもしれない。
それでもフランは、もう目を逸らさなかった。
「明日だね」
私が言う。
「うん」
フランは前を向いたまま答えた。
「明日、確かめる」
夜のグライツを五人で宿へ向かう。
背後では、世界一の大図書館に無数の明かりが灯っていた。
その巨大な建物の奥深く。
一般の利用者には開かれない記録の中に、一人の若い男の過去が封じられている。
その男は、なぜ牢獄の最深部にいたのか。
正体を伏せられた二人は、騒動の前に何を伝えたのか。
そして――なぜその男は、崩れ落ちる王宮から幼いフランを連れ出したのか。
明日。
閉ざされていた記録が、初めて開かれる。




