第16話 一枚だけのカード
道具屋を出たあとも、私たちはすぐに宿へ向かわず、アデューの大通りを歩いていた。
夕方が近づいているというのに人通りはほとんど減らず、道の両側ではカードショップの店員たちが声を張り上げている。新しく入荷したカードを店先へ並べる店もあれば、その日の相場を書いた大きな板を掲げる店もあり、少し歩くだけで何十枚ものカードが目に入った。
安いものなら赤Bで買えるカードもある一方、店の奥に厳重に飾られ、値段すら書かれていないものもある。
「同じカードでも、店によって値段が違うんだね」
「状態とか珍しさでも変わるからな。だから最初に見つけた店で買うんじゃなく、何軒か見たほうがいい」
オラクルがそう説明すると、黄色は先ほど買った煙玉と滑り粉を大切そうに抱えながら何度も頷いた。
「勉強になるでぷ……」
「黄色がオラクルを見る目、さっきから変わってない?」
「お金の知識だけは信用してもいいかもしれないでぷ」
「だけって何だよ」
そんな話をしながら歩いていると、私は一軒だけ周囲とは雰囲気の違う店を見つけて足を止めた。
正確には、店と呼んでいいのか少し迷うような場所だった。
左右には派手な看板を掲げたカードショップが並んでいるのに、そこだけは建物すらない。路地の入口に小さな木箱を置き、その上へ布を敷いただけの簡素な露店で、商品らしいものも一枚しか見当たらなかった。
店番をしているのは、若い女の人だった。
長い髪を後ろでまとめた、とても綺麗なお姉さんだったけれど、着ている服が周囲の商人たちとは明らかに違う。袖にも裾にも何枚もの布が当てられ、色の違う糸で何度も縫い直されていた。丁寧に洗ってあるのは分かるものの、生地そのものがかなり古く、膝の辺りには新しい継ぎ当てまである。
私は気になって、木箱の前まで近づいた。
「こんにちは」
女性は少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「こんにちは。カードを見る?」
「はい。これ一枚だけなんですか?」
木箱の上には、本当に一枚しか置かれていなかった。
透明な板に挟まれたカードには、人の姿が景色へ溶けるように薄く消えていく絵が描かれている。下には《透明化》という名前があり、その効果を読んでいくと、どうやら使用者の姿を三十分間、周囲から見えなくできるらしい。
しかも、一度きりではなく二回使える。
「三十分も姿を隠せるんだ……」
「逃げたり、見つからないように移動したりするときには使えそうでぷね」
緑が興味深そうに覗き込み、オラクルも横からカードを確認した。
「戦うためのカードじゃねえが、使い道は多いな。見つかったらまずい場所から逃げるときなんかは、攻撃する道具より役に立つかもしれねえ」
TIMEの《1》と遭遇したときのことが頭をよぎった。
あのとき持っていたから助かった、と単純に言えるものではない。それでも、姿を隠せる手段が一つあるだけで選べる行動は増える。
カードの横には、三銀Bと値段が書かれていた。
黄色は値札とカードを見比べると、すぐに計算を始めた。
「二回使えて三銀Bなら、一回で一銀Bと五赤Bでぷ」
「なんで一回分に分けるの?」
「一回使うたびに、どのくらいのお金が消えるのか知っておくのは大事でぷ」
「使うときにそんなこと考えないでね」
オラクルは黄色を放っておき、カードの状態を確かめていた。
「本物なら三銀Bは高くねえな。この手の特殊なカードは、必要になったとき代わりが利かねえ」
それを聞きながら、私はカードではなく露店のほうを見た。
売られている物は、このカード一枚だけだった。
「お姉さん、どうしてカード屋さんがいっぱいあるのに、ここではこれ一枚だけ売ってるんですか?」
女性の笑顔が少しだけ止まった。
聞いてはいけないことだったのかと思ったけれど、女性は小さく首を横へ振った。
「いいの。私、カード屋じゃないから」
「違うんですか?」
「うん。これは家にあったものなの」
女性はカードへ目を落とし、少し恥ずかしそうに継ぎ接ぎされた袖を押さえた。
「私、幼い弟と妹がいるの。まだ二人とも働けないから、食べるものや必要なものが足りなくなると、時々こうして家にあるものを持ってきて売ってるのよ」
私はもう一度、《透明化》のカードを見た。
店を開いているのではない。
家に残っているものを一つ持ってきて、それをお金へ換えようとしているだけだった。
女性は困ったように笑った。
「こんなこと、人に話すのはちょっと恥ずかしいんだけどね。今日はこれが売れたら食べ物を買って帰ろうと思ってるの」
その言葉を聞いたところで、隣にいたオラクルが私の肩を軽く叩いた。
「フール、ちょっと来い」
「なに?」
女性から少し離れたところまで連れていかれると、オラクルは声を落とした。
「あれ、かなり安く買えるぞ」
「……え?」
「カードを売るのに慣れてねえし、今日中に金が必要なんだろ。三銀Bって書いてあるが、二銀B……いや、押せば一銀B台までいけるかもしれねえ」
オラクルは楽しそうだった。
「さっき見ただろ? 値段なんて交渉次第だ。売り手が早く売りたがってるなら、こっちが有利になる」
確かに、さっきの道具屋ではオラクルの値下げ交渉を見て感心した。
でも今回は、聞いた瞬間から嫌だった。
「やらないよ」
「は?」
「三銀Bで買う」
オラクルが煙草を咥えたまま固まった。
「お前、話聞いてたか? 下げられるんだぞ」
「聞いてたよ。でも嫌」
「なんでだよ」
答えようとしたところで、赤がこちらへ歩いてきた。どうやら途中から話を聞いていたらしい。
「俺も反対でぷ」
オラクルが今度は赤を見る。
「お前まで何でだよ」
赤は少し考えてから、いつになく真面目な顔で答えた。
「いっぱい食べられるのは、すごく幸せなことでぷ」
オラクルが黙った。
私も一瞬だけ赤を見た。
赤にとって食べ物は、いつも冗談みたいに大切なものだ。骨付き肉を武器にするくらい好きだし、お金の使い道を聞けばすぐに肉を買おうとする。
でも今は笑っていなかった。
「お腹が空いてるのに食べられないのは嫌でぷ。あのお姉さんの弟と妹も、いっぱい食べたほうがいいでぷよ。だから安くしちゃ駄目でぷ」
すごく赤らしい理由だった。
私は笑って頷いた。
「うん。私もそう思う」
オラクルは私と赤を交互に見たあと、深く息を吐いた。
「商売向いてねえぞ、お前ら」
「いいよ。商売しに来たんじゃないもん」
「損するぞ」
「三銀Bで欲しいと思ったカードを三銀Bで買うんだから、損じゃないよ」
オラクルは何か言おうとしたものの、結局それ以上は止めなかった。
「好きにしろ」
「そうする」
私は女性のところへ戻った。
◇
「お姉さん、このカードください」
女性が顔を上げた。
「本当に?」
「はい。三銀Bですよね」
私は黄色に旅のお金を確認してもらい、銀Bを三枚取り出した。
黄色は少しだけ名残惜しそうに硬貨を見たものの、事情を聞いていたからか、値切ろうとはしなかった。
女性は私が差し出した三枚を見て、何度も確認するように瞬きをした。
「値段、下げなくていいの?」
「書いてある値段で買います。その代わり、弟さんと妹さんに美味しいもの買ってあげてください」
女性はしばらく何も言わなかった。
やがて銀Bを両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとう。本当に……ありがとう」
私は《透明化》のカードを受け取り、傷つけないよう大切に持った。
「フールちゃん」
赤に呼ばれて振り返る。
赤は自分の荷物を漁り、包んであった骨付き肉を一本取り出していた。
「それ、どうするの?」
「これもあげるでぷ」
「え?」
女性も驚いている。
赤は骨付き肉を両手で持ち、女性へ差し出した。
「弟と妹に食べさせてあげるでぷ」
「でも、これはあなたの――」
「大丈夫でぷ。また買うでぷ」
そう言いながら、赤は一度だけ骨付き肉を見た。
ほんの少し惜しそうだったけれど、手を引っ込めることはなかった。
「いっぱい食べられるのが、一番幸せでぷよ」
女性は骨付き肉と赤を交互に見つめた。
やがて目元を少し赤くしながら受け取る。
「ありがとう。二人とも喜ぶと思う」
赤は満足そうに笑った。
私はそんな赤を見て、胸の奥が少し温かくなった。骨付き肉を誰かへ渡すなんて、赤にとっては銀Bを何枚も渡すより大変なことなのかもしれない。
女性は銀Bと骨付き肉を大切そうに鞄へしまうと、カードを置いていた布を丁寧に畳み始めた。
「今日はもう帰るの?」
「うん。これだけあれば、しばらく食べるものを買えるから。帰りに市場へ寄って、弟たちが好きなものも買っていくわ」
さっきまで恥ずかしそうだった女性の顔には、今度は嬉しそうな笑みが浮かんでいた。木箱と畳んだ布を抱えた女性は、「本当にありがとう」ともう一度私たちへ頭を下げると、市場のある方向へ歩いていく。
赤はその後ろ姿を見送りながら、「いっぱい買えるといいでぷね」と満足そうに笑った。
「うん。弟さんと妹さんも喜ぶと思う」
「三銀Bあったら、食べ物もいっぱい買えるでぷね」
珍しく黄色までそんなことを言ったので、私は少し驚いた。
「だから値切らなくてよかったでしょ?」
「今回は……よかったと思うでぷ」
黄色はまだ少し惜しそうではあったものの、最後には素直に頷いた。お金を何より大事にしている黄色だからこそ、三銀Bがあの女性と幼い弟妹にとってどれだけ大きなお金なのかも分かっているのだろう。
私は少し嬉しくなりながら、買った《透明化》のカードを傷つけないよう鞄へしまおうとした。
そのとき、ふと誰かに見られているような感覚がして、手を止めた。
顔を上げると、大通りには相変わらず大勢の人が行き交っている。カードを見比べる客、荷物を運ぶ商人、店先で値段を交渉する人たちが絶え間なく通り過ぎており、これだけ人がいる場所なら誰かと目が合うこと自体は珍しくない。
それでも、通りの向こう側にいる一人の人物だけが妙に気になった。
二つの建物に挟まれた細い路地の入口に、深くフードを被った男が立っている。顔は影に隠れて見えず、何をしているのかも分からない。ただ、その身体はこちらを向いたまま動かなかった。
「……誰だろう」
偶然こちらを向いているだけかもしれない。
そう思っても、なぜか視線を外せなかった。フードの奥にあるはずの顔は見えないのに、こちらをじっと観察されているような感覚だけが残る。
「フールちゃん、どうしたでぷ?」
すぐそばから赤に呼ばれ、私は一瞬だけ男から目を離した。
「ううん。向こうに変な人がいて――」
そう答えながら再び路地へ視線を戻したところで、私は言葉を止めた。
さっきまで男が立っていた場所には、もう誰もいなかった。
薄暗い路地が奥へ伸び、その前を何人かの通行人が横切っているだけで、深いフードを被った人物の姿はどこにも見当たらない。ほんの一瞬、赤へ顔を向けただけなのに、その間に人混みへ紛れたのか、それとも路地の奥へ入ったのかさえ分からなかった。
「……いなくなった」
「誰がでぷ?」
「さっき、あそこにフードを被った人がいたの。こっちを見てるような気がしたんだけど……」
赤と緑、黄色も私の視線を追い、オラクルまで路地へ目を向けた。しかし、誰も男の姿を見つけることはできなかった。
私はしばらく路地を見つめていたものの、追いかけるための手掛かりすらない。
結局、《透明化》のカードを鞄へしまって口を閉じた。
さっきの男が誰だったのかも、本当に私たちを見ていたのかも分からない。
ただ、ほんの一瞬目を離した隙に、その姿は跡形もなく消えていた。




