第158話 世界一の大図書館
翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。
昨日は楽しみで眠れないかもしれないと思っていたのに、石橋を越えてからの疲れが残っていたのか、気づけば朝までぐっすり眠っていたらしい。右足にも痛みはなく、床へ下ろして体重を掛けても違和感はなかった。
窓の外では、グライツの街がすでに動き始めている。
本を抱えて歩く人、何本もの巻物を背負った人、荷台いっぱいに木箱を積んで大図書館方面へ向かう馬車。昨日は夕方だったから気づかなかったけれど、朝の大通りはさらに人が多かった。
その向こうには、白い大図書館の中央塔が見えている。
「今日、あそこに入るんだ」
声に出したところで、隣からフランが笑った。
「昨日から何回言ってるの?」
「だって世界一だよ?」
「分かってるよ。俺も楽しみだから」
そう答えたフランの表情には、期待と緊張の両方があった。
今日はリザーメイトについて調べる。
アルトについても。
私にとっての幻獣種や両親と同じように、フランにとっては自分の過去へ近づく日になるかもしれない。
急かすのはやめようと思った。
「何か見つかったら一緒に読むからね」
「うん。フールのも手伝うよ」
その声でメリーも目を覚ました。
『図書館!?』
「まだ宿だよ」
『起きる!』
昨日と同じくらい早かった。
一階へ下りると、オラクルとリリィも準備を終えていた。
朝食を食べながら、オラクルが今日の予定を確認する。
「最初に受付だ。利用方法を聞いて、どこまで自由に見られるのか確認する。いきなり全員散らばるなよ」
「分かってる」
「特にフール」
「何で毎回私だけ!」
『私もいるよ!』
「メリーもだ」
『何で!?』
「お前ら二人、昨日専門書店見つけた瞬間に消えただろ」
消えてはいない。
ちょっと先へ行っただけだ。
そう言おうとしたけれど、リリィに見られてやめた。
朝食を終え、五人で大図書館へ向かった。
朝のグライツは昨日よりさらに騒がしかった。
古書店はすでに店を開け、写本工房からは紙を揃える乾いた音が聞こえてくる。学生らしい若者たちは本を読みながら歩き、角では二人の老人が古い石板を挟んで言い争っていた。
でも、今日は寄り道しない。
私は何度か面白そうな店を見つけたけれど、そのたびに大図書館を見る。
今はあそこ。
目的を決めておかないと、この街では一日中寄り道できそうだった。
近づくにつれて、大図書館は昨日よりさらに大きく見えた。
白い石造りの本館を中心に、左右へ複数の建物が繋がっている。中央塔には巨大な時計があり、その下には本を開いた形の紋章が刻まれていた。
正面入口へ続く階段だけでも、普通の建物なら一軒建てられそうな幅がある。
「でっか……」
昨日も同じことを言った気がする。
メリーは私の頭より少し高いところを飛びながら、上を見ていた。
『一番上まで飛んでいい?』
「駄目だと思う」
『まだ聞いてないよ?』
「聞く?」
オラクルを見る。
「聞くな」
即答だった。
正面階段を上る。
入口には巨大な扉が並んでいたけれど、朝から利用者が多いためかすべて開かれている。
その先へ一歩入った瞬間、私は立ち止まった。
「……すごい」
外から見た大きさだけでも驚いていた。
中は、それ以上だった。
入口の先には巨大な吹き抜けが広がり、何階まで続いているのか一目では分からない。壁という壁に本棚が並び、上の階へ続く階段や渡り廊下が幾重にも交差している。
高い位置の棚には長い梯子が掛けられていた。
しかも、その梯子が勝手に動いている。
利用者が本の題名を告げると、梯子が棚に沿って滑り、目的の場所で止まった。
別の場所では、小さな台車が何冊もの本を積んだまま無人で走っている。
『フール! あれ勝手に動いてる!』
「見えてる!」
『こっちも!』
「メリー、離れないで!」
もう遅かった。
メリーは数歩分だけ先へ飛び、動く梯子と台車を交互に見ている。
オラクルが後ろから言った。
「開始十秒で散らばるなって言ったよな?」
『散らばってないよ! 見えるところ!』
「戻ってこい」
『はーい』
珍しく素直に戻ってきた。
私は改めて周囲を見る。
人も多い。
学生。
老人。
冒険者らしい人。
研究者。
子供までいる。
それでも不思議なほど騒がしくない。
足音や紙をめくる音、遠くで本を運ぶ台車の音は聞こえるのに、誰も大声で話さないからだ。
入口近くには巨大な案内板があった。
《第一一般閲覧区》
《地理・各国史》
《魔物・生物研究区》
《魔法・魔道具研究区》
《考古学・古代文明区》
《王国史料区》
《希少資料保管区》
《研究者専用区》
下まで読むだけでも時間が掛かる。
「どこ行けばいいの?」
「だから受付に聞くんだろ」
オラクルが指した先に、長い受付台があった。
十人近い職員が次々と利用者へ対応している。
私たちも列へ並んだ。
順番が来ると、眼鏡を掛けた若い女性が笑顔で迎えてくれた。
「初めてのご利用ですか?」
「はい!」
「では、まず利用目的を教えてください」
待ってました。
「幻獣種について調べたいです!」
女性の笑顔が少しだけ止まった。
「幻獣種……だけでしょうか?」
「二体目を探してて」
「二体目?」
「あと考古学者のメロウさんを探してます。それと両親のことも調べたくて、黒い欠片と北部山岳の――」
「待て待て待て」
オラクルに肩を掴まれた。
「一個ずつ話せ」
「だって聞かれたから」
受付の女性が困ったように笑っている。
「幻獣種について、ですね。ただ、その言葉だけでは対象が広すぎます」
「広い?」
「はい。古代生物としての記録、各地の伝承、召喚術、魔物分類、宗教記録など、関連する可能性がある資料だけでも複数の区画に分かれています」
私は案内板を見る。
思っていたより大変そうだった。
「《幻獣種召喚の本》についてなら?」
聞いた瞬間、女性の表情が変わった。
「書名ですか?」
「本です」
「お持ちなんですか?」
「うん」
鞄へ手を入れようとすると、オラクルに止められた。
「ここで出す必要あんのか?」
女性もすぐ頷いた。
「貴重な資料でしたら、受付で出していただかなくて大丈夫です。書名だけで検索します」
少し恥ずかしくなった。
危うく人が大勢いる場所で取り出すところだった。
女性は受付台の下から薄い板のような魔道具を取り出し、《幻獣種召喚の本》と書き込んだ。
しばらく待つ。
板の表面へ文字が浮かぶ。
女性が眉を寄せた。
「同名資料は登録されていません」
「ないの?」
「少なくとも一般目録には。ただ、《幻獣種》に関する資料はかなりあります」
やっぱり簡単にはいかない。
「全部見られる?」
「一般閲覧区のものなら。ただし古代資料や希少資料の一部は申請が必要です」
オラクルが小さく笑った。
「昨日言ったとおりだろ」
「まだ全部駄目って決まってないもん」
女性は別の紙を出した。
「まず一般資料を調べていただき、必要な資料が見つかったら閲覧申請を出すのがおすすめです」
「分かりました」
次はフランだった。
「リザーメイトという国について調べたいです」
女性の手が止まった。
「リザーメイト……少々お待ちください」
また検索する。
今度はすぐ文字が出た。
「あります。旧国家・都市記録として複数資料が登録されています。ただし古いものが多いため、一部は王国史料区ですね」
フランの表情が変わった。
「本当にあるんですか?」
「はい。一般閲覧可能な資料もありますよ」
フランは何も言わなかった。
でも左手が、腰の短剣の柄へそっと触れた。
私は隣から小さく言う。
「一緒に見るからね」
「うん」
今度はオラクル。
「TIMEって組織についてだ」
女性が検索する。
結果を待つ。
「同名の組織は……一般目録には登録されていません」
「まあ、そう簡単じゃねえか」
オラクルは落胆した様子もない。
「似た事件や、時計の紋章について調べたい場合は?」
「事件記録なら王国史料区、犯罪組織や手配記録なら各国資料区も確認したほうがいいと思います」
「十分だ」
リリィは最初から目的が違った。
「メロウさんは今日いますか?」
女性の顔が変わった。
城門の兵士。
専門書店の老人。
そして今度は大図書館の職員。
三人目だった。
「メロウ先生にご用ですか?」
先生。
私はその呼び方を覚えた。
「幻獣種について聞きたいんです」
私が答える。
女性は少し困ったように視線を逸らした。
「先生は……」
そこで言葉を選ぶ。
「現在、大図書館にはいらっしゃいません」
やっぱり。
昨日の専門書店で少し予想していたとはいえ、実際に聞くとがっかりした。
「いつ戻るんですか?」
「分かりません」
「どこに行ったの?」
「それも……」
女性は言いづらそうだった。
リリィがすぐ聞き方を変える。
「最後に図書館へ来たのはいつですか?」
「その情報でしたら確認できます」
女性は別の記録を調べた。
「六日前ですね」
専門書店へ来たのは五日前。
つまり、大図書館を出たあともグライツにはいた。
リリィも同じことに気づいたらしい。
「その日に何を見ていたか分かりますか?」
「個人の閲覧履歴を勝手にお教えすることはできません」
当然だった。
でもリリィは諦めない。
「メロウさんの研究室はありますか?」
「研究者専用区にあります。ただし一般の方は入れません」
「じゃあ、連絡を残せますか?」
「それなら可能です」
リリィが私を見る。
少しずつ進んでいる。
メロウはいない。
でも、確かにここに所属している。
そして六日前までは大図書館にいた。
「まず資料調べよう」
私が言う。
「メロウを探すのも大事だけど、ここまで来たんだもん。自分たちでも調べたい」
オラクルが頷く。
「それがいい。会えなきゃ何もできねえって状態にする必要はないからな」
受付の女性から利用札を五人分受け取った。
メリー用の小さな札まであった。
『私のもある!』
「なくさないでね」
『首から下げる!』
本当に首へ掛けた。
私たちはまず《魔物・生物研究区》へ向かった。
巨大な吹き抜けを抜け、長い廊下を進む。
そこだけでも、普通の図書館一軒分くらいありそうだった。
棚には魔物の名前が分類ごとに並んでいる。
獣。
鳥。
水棲生物。
精霊。
竜種。
絶滅種。
未確認生物。
そして。
《幻獣・伝承生物》。
私は足を止めた。
「ここ」
フランたちも集まる。
棚を見上げる。
何十冊どころではない。
百冊以上ありそうだった。
「……これ全部?」
「世界一だぞ」
オラクルが言う。
「頑張れ」
「オラクルも手伝ってよ!」
「俺はTIME調べるんだよ」
「ちょっとくらい!」
『私が手伝う!』
メリーが本棚の前へ飛ぶ。
『絵ある本探す!』
「じゃあお願い!」
フランも少しだけ手伝ってからリザーメイトへ向かうことになり、リリィはメロウの連絡先や研究者について聞き込みを始める。
ようやく本当の調査が始まった。
私は一冊目を取り出した。
《世界幻獣伝承集・東方編》。
重い。
机へ運ぶ。
二冊目。
《古代召喚術と幻想生物》。
三冊目。
《失われた魔物分類》。
気づけば机の上に本が積み上がっていた。
「フール」
オラクルが通りがかりに言う。
「全部持ってくんな」
「まだ五冊だよ」
「五冊もだよ」
「世界一なんだから!」
「意味分かんねえよ」
それでも読み始める。
知らない幻獣がたくさん載っていた。
巨大な鳥。
角のある獣。
海の底に住む生き物。
炎を纏う獅子。
人の姿に近いものまでいる。
でも、《幻獣種召喚の本》そのものについて書かれたものは見つからない。
一冊。
二冊。
三冊。
時間だけが過ぎる。
少し焦り始めたころ、メリーが一冊の大きな図鑑を抱えて飛んできた。
『フール! これ!』
「何かあった?」
『人魚!』
また人魚だった。
「メリー、人魚好きになったの?」
『違うよ! こっち!』
ページをめくる。
人魚。
雷を纏った巨大な鳥。
氷の蛇。
炎の獅子。
私は動きを止めた。
見覚えがある。
《幻獣種召喚の本》に記されている存在と似ている。
完全に同じかは分からない。
でも偶然で片づけるには、続けて並びすぎていた。
「メリー、これどこにあった?」
『一番上!』
「題名は?」
表紙を見る。
古びた文字。
《古代幻想生物・断片記録》。
胸が高鳴る。
ページをめくっていく。
途中から何枚か欠けている。
そして最後のほうに、一行だけ書かれていた。
《これら六種は、かつて一冊の書に収められたとの伝承が残る》
六種。
私は鞄の中の《幻獣種召喚の本》を意識した。
まだ出さない。
まず読む。
その下には続きがあった。
《ただし、書の所在は不明。後世の創作とする説も多い》
証拠ではない。
でも、初めてだった。
《これら六種は、かつて一冊の書に収められたとの伝承が残る。ただし、書の所在は不明。後世の創作とする説も多い》
私はその文章を二度読み、それでも足りなくて、もう一度最初から目で追った。
この《古代幻想生物・断片記録》には、人魚、雷を纏う巨大な鳥、氷の蛇、炎の獅子だけではなく、光を纏う剣士と、虹色の光を操る人型の幻獣まで記されている。
《幻獣種召喚の本》に記されている六体と、あまりにも似ていた。
もちろん、これだけで同じ存在だとは断定できない。似た姿の魔物が別の土地で違う名前を付けられることもあるし、長い年月の中で伝承そのものが変わっている可能性もある。
それでも、六体が揃って一つの資料に記録され、さらに《一冊の書に収められた》という伝承まで残っている。
そこだけは偶然で片づけるには大きすぎた。
「メリー、オラクルたち呼んできてくれる?」
『何か見つけた?』
「たぶん。でも、みんなで確認したい」
『分かった!』
メリーは利用者の邪魔にならない高さで飛んでいった。
その間に私は、図鑑の前のページまで戻って読み直した。
この本そのものも完全な資料ではない。題名どおり、残された古い記録を後世の研究者が集めたものらしく、「確認された」と断定している文章より、「各地に類似する伝承が残る」「古い記録ではこう語られる」といった書き方のほうが多い。
ただ、六体については共通した特徴が一つあった。
《現存する魔物との類似点は認められるが、各地に残る記録では自然発生した個体としてではなく、何者かの呼びかけに応じて姿を現す存在として語られる》
呼びかけに応じて現れる。
私は鞄の中にある《幻獣種召喚の本》を意識した。
名前だけなら偶然かもしれない。
姿だけなら似た魔物かもしれない。
でも六体が揃い、その六体が一冊の書と結びつけられ、さらに自然発生ではなく《呼びかけに応じて現れる》と記されている。
少しずつ偶然では説明しづらくなっている。
「どこだ?」
オラクルの声が聞こえた。
メリーを先頭に、オラクルとリリィがこちらへ来る。少し遅れてフランも姿を見せた。
『六体いた!』
メリーが自分で見つけたように胸を張る。
「メリーが見つけたんだよ」
『だから六体いた!』
「そういうことね」
五人で机を囲み、私は図鑑に書かれている内容を順番に説明した。
六種の幻獣。
一冊の書。
何者かの呼びかけに応じて現れるという伝承。
オラクルは最後まで聞いてから、改めて図鑑へ目を落とした。
「かなり似てるな」
「でしょ?」
「ああ。ただ、同じだと決めるのはまだ早い」
「分かってる。だから、もっと元になった資料を調べたい」
以前なら「絶対これだよ」と言っていたかもしれない。
でも今は、似ているからこそ確かめたかった。
リリィは図鑑の最後にある参考資料一覧を調べていた。
《西方幻獣伝承録》。
《失われた召喚術》。
《北方古代生物記》。
いくつもの資料名を追っていた指が、途中で止まる。
「これ」
そこには《メロウ調査記録・第一集》と記されていた。
全員の視線が集まった。
「メロウ?」
フランが呟く。
「同じ人かな」
「発行年を確認しろ」
オラクルに言われ、図鑑の発行年を見る。
十数年前。
今探しているメロウは老人だと聞いている。十数年前から研究していたとしても何もおかしくない。
「確認する価値はあるね」
リリィが言う。
「この《メロウ調査記録》が図書館にあるかも調べたい」
目的が一つ増えた。
でも、今度は横道へ逸れた感じがしなかった。
幻獣種を追ってグライツまで来た。
その資料を見つけた。
そして、その資料のさらに元となった記録に、探している人物と同じ名前がある。
細かった道が、少しずつ一本に繋がり始めている。
「グライツまで来たの、正解だったかもしれないね」
私が言うと、オラクルはわずかに笑った。
「少なくとも五千コイン払う価値は出てきたな」
「まだ払ってないけどね」
『三千に値切るんでしょ?』
メリーが覚えていた。
「それはあとだ」
オラクルだけが真剣だった。
少し笑ったあと、私はフランが持っている薄い本に気づいた。
さっきからずっと抱えている。
「フランは?」
表情が変わった。
「俺も、一つ見つけた」
机へ置かれた本の表紙には、《西方旧国家史・第四巻》と書かれていた。
「リザーメイトが載ってた」
その声は、思っていたより静かだった。
私はすぐ隣へ移動する。
フランが開いたページには、古い地図が載っていた。
現在使われているものとは国境も街の名前も違う。その中に、小さな国名が記されている。
《リザーメイト王国》。
本当にあった。
当たり前のことなのに、そう思った。
フランが生まれた国。
父親と母親と暮らした場所。
今はもう存在しない故郷。
フランの記憶の中だけではなく、何十年、何百年と様々な国の歴史を記録してきた本の中にも、その名前が確かに残っていた。
フランは長い間、何も言わなかった。
指先だけが、地図に書かれた小さな国名のすぐ横で止まっている。
「……ここなんだ」
ようやく出た声は小さかった。
「俺がいたところ」
私は何も急かさなかった。
フランは地図から目を離さず、少しずつ記憶を確かめるように話した。
「全部覚えてるわけじゃないんだ。小さかったし、逃げたときのことも途中からごちゃごちゃしてる。でも、森が近かったことは覚えてる。父さんと歩いた道とか、母さんが窓を開けると木の匂いが入ってきたこととか……そういうのだけは残ってる」
地図に描かれているのは国境と主要な街、山や川くらいだ。
フランの家なんて載っていない。
それでもフランは、そこに自分が知っていた景色を重ねているようだった。
「たまにさ」
フランが続ける。
「本当にあった場所なのかなって思うことがあった」
私はフランを見る。
「覚えてるのに?」
「覚えてるから、逆に。俺以外に話せる人がほとんどいなくなって、父さんと母さんも詳しいことは話してくれなかったから……昔見た夢を、ずっと本当だったって思い込んでるだけなんじゃないかって」
その気持ちは、私には完全には分からない。
でも、少しだけ胸が痛んだ。
帰りたい場所がなくなっただけではない。
その場所を知っている人まで少なくなれば、自分の記憶だけが取り残されていく。
フランは地図の《リザーメイト王国》という文字へそっと触れた。
「でも、あった」
今度の声は少し違った。
「俺が覚えてるからだけじゃない。ちゃんとここに書いてある」
笑っているようにも見えた。
でも目元には、少しだけ別の感情が滲んでいる。
嬉しいだけではない。
失ったものが本当に存在していたと証明されたことで、その喪失まで現実になったのかもしれない。
私はフランの隣から動かなかった。
「もっと探そう」
「うん」
フランは一度目を閉じ、それから次の文章を読み始めた。
リザーメイトは山と森林に囲まれた小国で、独自の鍛冶技術を持ち、剣や短剣の製造で知られていた。周辺国との交易量そのものは多くなかったものの、武器だけは国外にも流通していたらしい。
「短剣……」
フランが腰の武器へ触れる。
元になった剣。
兄と関係している可能性。
調べるものが、また一つ具体的になった。
そしてページの下部には、現在のリザーメイトについて短く記されていた。
《現在、国家としては存在しない》
その文字を見た瞬間、フランの指が止まった。
知っていたことだ。
それでも、知っていることと文字として突きつけられることは違うのだと思う。
私は声を掛けようとした。
でもフランのほうが先に口を開いた。
「大丈夫」
無理に笑ってはいなかった。
「なくなったことは知ってたから。ただ……さっき《あった》って思えたのと同じで、《もうない》っていうのも本当に書かれてるんだなって」
嬉しさと悲しさが同時にある。
そんな表情だった。
少し時間を置いてから、フランは続きを読んだ。
《大規模災害および混乱により王国機能を喪失》
詳しい原因は、それだけだった。
「災害?」
私が聞く。
「分からない」
フランは首を横へ振った。
「俺が覚えてるのは逃げたことと、その前後くらいだから。でも……これだけじゃ終わりたくない」
ページをめくる。
「何が起きたのか知りたい。誰が書いたのかも、もっと詳しい記録が残ってないかも調べたい」
そこにアルトという名前はまだない。
大きな剣を持つ人物がグラティスを襲ったことも、今は結びつけない。
まず事実を探す。
その姿を見て、私は少し安心した。
「何か見つけたら呼んでね」
「うん。フールも」
それぞれが探しているものは違う。
でも一人で抱える必要はない。
そこへリリィが戻ってきた。
「私も少し分かった」
メロウについてだった。
本人の現在地までは掴めていないものの、考古学・古代文明区に研究者として登録され、六日前には大図書館を利用していたことが確認できたらしい。
「専門書店に来たのが五日前だったよね」
私が言う。
「うん。だから図書館を出たあとも、少なくとも翌日まではグライツにいた可能性が高い」
「そのあと?」
「まだ分からない。でも四日前、資料運搬担当に北部山岳方面の地図を用意してもらった人がいる」
胸の奥が反応する。
「メロウ?」
「担当の人は名前を覚えてなかった。ただ、見た目は覚えてた」
リリィが少しだけ笑う。
「タヌキの顔が付いた派手なフードを被って、ものすごく派手なローブを着た爺さん。持ってた杖の先には鳥の顔が付いてたって」
数秒、誰も言葉を出せなかった。
「……何それ」
私が最初だった。
フランも困ったような顔をする。
「本当に考古学者?」
『見たい!』
メリーだけは大喜びだった。
「研究者の人にも確認した。間違いなくメロウだって」
オラクルが額を押さえる。
「見つけるだけなら簡単そうだな」
確かに、人混みにいても一発で分かりそうだった。
でも重要なのは格好ではない。
五日前には空に関する古い記録を探していた。
四日前には北部山岳方面の地図を用意させた。
それ以降、大図書館では確認されていない。
街道で見た《北部山岳・調査資料》の灰色の箱と、石橋の異変が頭に浮かぶ。
ただし、まだ繋げない。
「北部山岳へ行った可能性はあるな」
オラクルも慎重だった。
「まず図書館で残ってる資料を調べる。それから本人の足取りだ」
「うん」
私は机へ戻り、《古代幻想生物・断片記録》をもう一度開いた。
今度は六体の絵ではなく、この本がどこから情報を集めたのかを一つずつ確認する。
そこで、ページの下部に小さく書かれた注記へ気づいた。
《原資料の一部は、王立大図書館・希少資料保管区へ移管》
私は思わず姿勢を正した。
一般資料のさらに先。
受付で説明された、申請が必要な区画。
しかも、そこにあるのは単に「もっと詳しい本」ではない。
今読んでいる図鑑が作られる前の原資料。
六体の幻獣が本当に同じ記録に残されていたのか。
《一冊の書》という伝承が、後世の研究者による推測なのか、それともさらに古い時代から存在する記述なのか。
そして参考資料に記された《メロウ調査記録・第一集》には、本人が何を見て、何を根拠に六体を追っていたのか。
確かめるなら、そこだった。
「オラクル」
私が呼ぶ。
「今度は何だ?」
注記を見せる。
オラクルも読み、すぐ意味を理解した。
「原資料か」
「うん。今の本だけじゃ、どこまでが昔から残ってる話で、どこからが後の人が考えたことなのか分からない。でも元の資料を見られたら、それが分かるかもしれない」
「《一冊の書》についてもか」
「それが一番見たい」
私は鞄へ触れた。
中には本物の《幻獣種召喚の本》がある。
もし古い原資料にも六体と一冊の書が記されているなら、私が持っている本との繋がりは今よりずっと強くなる。
さらに、その原資料の中にメロウ自身の調査記録が含まれているなら、二体目の幻獣種だけではなく、メロウが現在何を追っているのかまで分かる可能性がある。
「申請しよう」
今度は迷わなかった。
メリーが私の肩へ降りる。
『入れる?』
「まだ分かんない。お願いしないと駄目みたい」
『駄目って言われたら?』
「どうしたら見せてもらえるか聞く」
「勝手に潜り込むって言わなくなっただけ偉いな」
オラクルが言う。
「最初からそんなことしないよ!」
「アデューで透明になって王宮入った奴が何言ってんだ」
オラクルに言われ、言い返そうとして口を閉じた。
あのときはオラクルを助けるためだったし、王子にも見つかったし、最終的には色々あった。でも《勝手に入った》という部分だけなら、否定できない。
「……今回はちゃんとお願いする」
「最初からそうしろ」
『私なら小さいから隙間から――』
「メリーも駄目」
『まだ最後まで言ってないよ!』
「言わなくても分かる」
メリーが頬を膨らませる。そのやり取りを見ていたフランが笑い、さっきまでリザーメイトの記録を読んでいたときの重い表情が少しだけ和らいだ。
それだけでもよかった。
私たちは《古代幻想生物・断片記録》を元の棚へ戻さず、そのまま閲覧申請窓口へ持っていくことにした。原資料との関係を説明するには、実際の注記を見せたほうが早い。
申請窓口は一般受付よりずっと小さく、利用者も少なかった。
カウンターの奥には分厚い扉があり、その向こうへ何人もの職員が出入りしている。運ばれてくる本も普通のものとは違い、一冊ずつ布で包まれていたり、鍵の付いた箱へ収められていたりする。
「本読むだけなのに、すごいね」
私が小声で言うと、オラクルが答える。
「ここにしか残ってねえ本もあるんだろ。一冊燃えたら終わりって資料なら、これくらいやるんじゃねえか」
その言葉を聞いて、少し緊張した。
私がこれから見ようとしているものも、そういう資料なのかもしれない。
順番が来ると、窓口にいた年配の女性がこちらを見た。
「希少資料の閲覧申請ですか?」
「はい。この本の元になった資料を見たいです」
私は《古代幻想生物・断片記録》を開き、注記を示した。
女性はすぐには答えず、まず本の管理番号を確認した。それから机の上にある魔道具へ何かを書き込み、しばらく表示された文字を読んでいる。
「原資料は複数ありますね」
胸が高鳴った。
「見られますか?」
「すべては難しいです。保存状態によって閲覧制限が違いますし、研究者登録が必要な資料も含まれています」
やっぱり簡単ではなかった。
「じゃあ、どれなら見られるんですか?」
「確認しますので、目的をもう少し具体的に教えてください」
今度は一気に全部話さないよう気をつけた。
「この本に載ってる六体について調べています。六体が《一冊の書に収められていた》って書いてあるんですけど、それが元の資料にも書いてあるのか知りたいです。それと、参考資料に《メロウ調査記録・第一集》ってあるので、それも確認したいです」
女性の指が止まった。
「メロウ先生の調査記録?」
「ありますか?」
女性はもう一度魔道具を操作した。
少し時間が掛かる。
やがて表示された文字を読み、眼鏡の位置を直した。
「《メロウ調査記録》は存在します。ただし第一集から第三集までが研究資料扱いで、原本は研究者専用区に保管されています」
「見られない?」
「原本は一般の方には難しいですね。ただし、一部の内容を写した閲覧用の複製が希少資料保管区にあります」
「それなら見られる?」
「申請理由が認められれば」
完全に駄目ではない。
私は少し前のめりになった。
「お願いします」
「まだ申請書を書いていただく必要があります」
「あ、はい」
オラクルが横で笑いを堪えていた。
「何?」
「いや。お前、扉見つけるたびにそのまま突っ込もうとするよな」
「今回は申請してるじゃん!」
「成長した成長した」
絶対馬鹿にしている。
女性から申請用紙を受け取る。
名前。
滞在先。
閲覧目的。
希望資料。
いくつも書く欄があった。
私は最初の二つまでは順調に書いたけれど、《研究目的》で止まった。
「何て書けばいい?」
「そのまま書けよ」
「《幻獣種を探してます》?」
「もう少し詳しく」
リリィが隣から紙を見る。
「《六種の幻想生物と召喚に関する伝承の確認》とか?」
「それ!」
「自分で考えなよ」
「リリィのほうが上手いもん」
そのまま書こうとして、窓口の女性に笑われた。
「ご本人の言葉で構いませんよ。学術論文ではありませんから」
少し恥ずかしかった。
結局、《六体の幻獣と、それらを収めた一冊の書について調べるため》と書いた。
希望資料には《メロウ調査記録・第一集》の閲覧用複製。それから、現在読んでいる本の元になった古い幻獣伝承資料を記入した。
女性が受け取る。
「審査には少し時間が掛かります」
「どのくらい?」
「早ければ今日中ですが、明日になる可能性もあります」
今日すぐには見られない。
残念ではあるけれど、昨日まで何もなかったことを考えれば十分だった。
「結果はどこで分かりますか?」
「利用札に通知が出ます。許可された資料によって閲覧場所も指定されますので、その指示に従ってください」
メリーが首から下げた自分の利用札を見る。
『これ光る?』
「申請者の札だけですよ」
『私のは?』
「あなたは申請していませんから」
『私もしたい!』
「メリー、何見るの?」
『絵!』
「一般の図鑑で十分でしょ」
『じゃあいい』
切り替えが早かった。
申請が終わり、窓口を離れる。
これで私が今すぐできることは一つ減った。
でも、他のみんなの調査は続いている。
「フラン、もう少しリザーメイト調べる?」
「うん」
さっきより表情は落ち着いていた。
「今度は《災害》ってところから探してみたい。同じ時期の周辺国の記録なら、リザーメイト側に残ってないことも書いてあるかもしれないから」
私は少し驚いた。
「そんな探し方あるんだ」
「さっき司書の人に教えてもらった。国がなくなって記録が少ないなら、周りの国が書いたものを探したほうがいいって」
なるほど。
世界一の大図書館にあるのは、本の数だけではない。
どこを探せばいいのか知っている人もいる。
「じゃあ私も――」
「フールは自分の調査していいよ」
「でも」
フランは首を横へ振った。
「さっき一緒にいてくれたから大丈夫。それに、何か見つけたら呼ぶって約束したでしょ」
無理をして一人になろうとしているようには見えなかった。
だから私は頷いた。
「絶対呼んでね」
「うん」
フランは《西方旧国家史》を抱え、別の司書のところへ向かった。
その背中を見送ってから、リリィにも尋ねる。
「メロウ探す?」
「もう少しだけ。今度は北部山岳の地図を用意した人を探してみる。誰が受け取ったのか記録が残ってるかもしれない」
「一人で大丈夫?」
「図書館の中だよ」
「そうだけど」
「見つけたら呼ぶ」
フランと同じことを言われた。
みんな、自分で動き始めている。
オラクルも各国資料区へ戻るらしい。
「TIMEの名前がなくても、時計の紋章や大規模事件から探してみる。手配書が出る前の記録が残ってりゃ拾えるかもしれねえ」
「メリーは?」
『フールといる!』
迷いがなかった。
「絵の本は?」
『一緒に探す!』
これで二人になった。
私はメリーと一緒に、もう一度《幻獣・伝承生物》の棚へ戻った。
申請結果を待っている間にも調べられることはある。
今度は六体そのものではなく、《一冊の書》について書かれた別の資料を探すことにした。
「メリー、《本》って書いてあるところ見つけたら教えて」
『分かった!』
二人で本を探す。
私は背表紙を読み、メリーは高い棚を担当する。
何冊か取り出して確認したけれど、簡単には見つからない。
《幻獣を封じた壺》。
違う。
《伝説生物を描いた壁画》。
これも違う。
《古代召喚師の杖》。
少し気になったけれど、今は本を探す。
「いっぱいあるね……」
『世界一だもん』
「メリーがそれ言うようになったね」
『覚えた!』
さらに探す。
しばらくすると、メリーが高い棚の前で止まった。
『フール、これ本って書いてある!』
「どれ?」
メリーが指した背表紙を見る。
《失われた召喚媒体の研究》。
題名だけでは分からない。
動く梯子を呼び、私は本を取って机へ運んだ。
かなり古い。
でも希少資料ではないらしく、普通に読める。
目次を確認する。
召喚石。
召喚陣。
契約札。
仮面。
楽器。
そして。
《書物型召喚媒体》。
「あった」
メリーも横から覗く。
『六体?』
「まだ分かんない」
ページを開く。
書物そのものを媒介として生物や精霊を呼び出す技術について書かれていた。現在でも似た魔道具は存在するらしいけれど、古い時代には今とは異なる形式が使われていたという。
その中に、一つだけ気になる文章があった。
《古代の記録には、書物内部に複数の契約対象を保持し、必要に応じて個別に顕現させた例が存在する。ただし現存する実物は極めて少なく、その多くは伝承上の存在とされる》
私はゆっくり読み直した。
《複数の契約対象》。
《個別に顕現》。
《書物》。
《幻獣種召喚の本》と似ている。
ただし、この資料には六体とも幻獣種とも書かれていない。
「近いけど、まだ違うね」
『でも本から出すんでしょ?』
「うん」
私はそのページ番号を記録した。
こうやって少しずつ探すしかない。
一つの本ですべて分かるわけではない。
でも別々の資料に残された小さな情報を重ねれば、見えてくるものがあるかもしれない。
そのときだった。
首から下げていた利用札が、淡く光った。
「え?」
メリーがすぐ気づく。
『光った!』
私は札を持ち上げた。
表面に文字が浮かんでいる。
《希少資料閲覧申請――一部承認》
心臓が跳ねた。
「通った!」
思わず声が大きくなり、近くの利用者に見られて慌てて口を押さえる。
『やった!』
メリーも小声で喜ぶ。
続きの文字を読む。
申請したすべてではない。
閲覧を許可されたのは二点だった。
《古代幻想生物記録・原資料断片》
そして。
《メロウ調査記録・第一集 閲覧用複製》
私は文字を見つめた。
見られる。
メロウ本人が残した調査記録を。
六体の幻獣について書かれた図鑑より前の資料を。
そこに何が書かれているのかは、まだ分からない。
期待している答えが何一つない可能性だってある。
それでも、今まで他人の本の中に名前だけ残っていたメロウが、初めて自分の言葉で何を調べていたのか知ることができる。
「みんな呼ぼう」
『私行く!』
「今度は私も行くよ」
本をきちんと元の場所へ戻し、二人でみんなを探した。
最初に見つけたのはオラクルだった。
事情を聞くと、すぐ資料を閉じる。
次にリリィ。
最後にフラン。
フランは何冊かの本と紙を机へ置いていた。
「何か見つかった?」
私が聞くと、少し迷ってから頷いた。
「一個だけ。でもあとで話す。今はフールのほう行こう」
その言い方が少し気になった。
でもフランが自分から話すと言っているなら、急かさない。
五人で指定された閲覧室へ向かった。
一般閲覧区より奥。
利用者の数が少なくなり、廊下も静かになる。
やがて大きな扉の前へ着いた。
その上には銀色の文字で、
《希少資料特別閲覧室》
と書かれていた。
私は鞄へ手を添える。
中には《幻獣種召喚の本》。
この扉の向こうには、それと繋がっているかもしれない古い記録。
そして、まだ会ったことのないメロウ本人が残した調査資料がある。
ここまで来て、ようやく本当の入口へ立った気がした。
私はみんなを見る。
「入ろう」
今度は誰にも止められなかった。
五人で扉を開けた。




