第155話 山を離れる街道
危険区域の検問所を出てからしばらく歩いても、私はなかなか後ろにある山の存在を忘れられなかった。
兵士が張った高い布はもう見えない。街道を歩く人たちも普通に空を見上げ、荷馬車の御者はのんびりと馬を走らせている。少し前まで何度も聞こえていた警告の声も、腹の奥へ響く低い音も、ここまでは追いかけてこなかった。
それなのに、風が木々を揺らすたびに肩が強張った。
青白い光が見えるのではないか。
また地面が震えるのではないか。
頭ではもう危険区域を抜けたと分かっているのに、身体のほうがまだ石橋の上にいるみたいだった。
『フール』
隣を飛んでいたメリーが、私の顔を覗き込む。
『また山のこと考えてる?』
「ちょっとだけ」
『振り返っちゃ駄目だよ』
「もう見ないって約束したでしょ」
そう答えながら、私は前方へ続く街道を見た。
山から離れるにつれて道は緩やかな下りになり、周囲の木々も少しずつ低くなっている。雲の切れ間から差し込む夕方の光は普通の色で、道端の草も風に揺れているだけだった。
当たり前の景色なのに、今はそれだけで安心できた。
「この辺まで来りゃ、さっきみたいな規制はねえらしい」
先頭のオラクルが地図を見ながら言った。
「検問所の兵士の話じゃ、次の宿場まで一時間ちょいだ。今日はそこで終わりにするぞ」
「まだ歩けるよ」
「歩けるかどうかじゃねえ。右足を悪化させないために休むんだ」
私は自分の右足を見る。
痛みはなかった。
黒龍王の洞窟から戻る途中では、歩いているうちに無意識に歩幅が小さくなっていた。あのときフランが気づいてくれなかったら、もっと悪くしていたかもしれない。
「分かった。今日は宿場まで」
素直に答えると、オラクルがこちらを見た。
「何?」
「いや。珍しく一回で聞いたな」
「私だって学ぶよ!」
「昨日までなら『でもまだ歩ける』って三回くらい言ってた」
リリィまで加わってくる。
「二回くらいだよ!」
「そこは否定するとこじゃない気がする」
フランが笑った。
さっきまで誰もほとんど喋らなかったのに、危険区域を離れただけで会話が戻ってきた。
それが少し嬉しかった。
メリーもようやく私の周りを自由に飛び始めている。ただし、いつもより低い。木の高さより上へ行こうとはしなかった。
「高く飛ばないの?」
『今日はここでいい』
「怖い?」
メリーは少しだけ黙ったあと、素直に頷いた。
『うん。上見たら、また変なの見えるかもしれないから』
私も同じだった。
危険区域を出たから安全。
兵士にもそう言われた。
それでも、昨日まで何とも思わなかった空を完全には信用できなくなっている。
「じゃあ今日は一緒に低いところ歩こう」
『フールは飛べないでしょ』
「気持ちの話!」
『分かってるよ』
メリーが笑う。
その笑い声を聞きながら歩いていると、少しずつ身体の力が抜けていった。
街道では何台もの荷馬車とすれ違った。
危険区域へ向かう馬車の御者には、検問所でもらったらしい紙を読んでいる人が多い。山を見るな、立ち止まるなという注意が書かれているのだろう。
反対に、私たちと同じ方向へ進む人たちは普通だった。
旅人。
商人。
冒険者。
家族連れ。
何も知らないように笑いながら歩いている人までいる。
少し不思議だった。
ほんの一時間ほど前まで、私たちは山を見上げることすら怖がっていた。
でも世界全部がおかしくなったわけではない。
異常なのは、あの山の周辺だけなのだ。
今のところは。
そこまで考えて、私はすぐに首を振った。
また勝手に答えを作ろうとしている。
あの異変がどこまで広がっているのか、本当はまだ分からない。
「フール?」
フランが気づいた。
「何でもない。考えすぎないようにしてた」
「何を?」
「山のこと」
フランは少し考え、私の隣へ並んだ。
「俺も気になってるよ。あの傷も、黒い欠片も」
「フランも?」
「うん。でもオラクルが言ってたとおり、今考えても材料が足りないと思う」
腰にある短剣へ軽く触れてから続ける。
「グライツなら、何か残ってるかもしれないし」
「大図書館?」
「世界一なんでしょ?」
「そうらしいね」
まだ見たこともない場所なのに、その言葉だけで少し胸が弾んだ。
世界一の大図書館。
どれくらい大きいのだろう。
本は何冊あるのだろう。
メロウという考古学者は本当にそこにいるのだろうか。
二体目の幻獣種についても、何か分かるかもしれない。
それに――。
隣を歩くフランを見る。
グライツへ向かう目的は、私だけのものではなかった。
「フランは、最初に何調べるの?」
尋ねると、フランの表情が少し変わった。
さっきまでの笑みが消えたわけではない。ただ、その奥に別の感情が混ざった。
「リザーメイト」
答えは早かった。
「残ってる記録があるなら、見たい」
フランの故郷。
もう存在しない国。
そして、フランがほとんど覚えていない幼いころの場所。
「怖くない?」
「怖いよ」
フランは否定しなかった。
「何も残ってないかもしれないし、知りたくなかったことが書いてあるかもしれない。でも……知らないまま考えてるのも嫌なんだ」
「アルトのことも?」
「うん」
短い返事だった。
フランが持つ短剣の元になった剣。
故郷。
両親。
アルト。
私にはまだ、それらがどう繋がっているのか分からない。
フランにも分からないのだと思う。
だから調べる。
「一緒に探そう」
私が言うと、フランは少しだけ目を細めた。
「フールは自分のこともあるでしょ」
「あるけど、一緒に探せるじゃん」
「じゃあ俺も、フールの両親のこと探す」
「本当?」
「もちろん」
胸の奥が温かくなった。
まだ大図書館へ着いてすらいないのに、何か見つかるような気がしてしまう。
でも、そこでまたオラクルの言葉を思い出した。
期待するのはいい。
答えを先に決めるのは違う。
「何も見つからないかもしれないけどね」
私が言うと、フランが少し驚いた。
「フールがそれ言うんだ」
「何その反応!」
「いや、前なら『絶対あるよ!』って言いそうだったから」
後ろを歩いていたリリィが笑う。
「やっぱり成長したんじゃない?」
「だから最近みんなそれ言いすぎ!」
『フール、ちょっと大人!』
「メリーまで!」
さっきまで山のことで重くなっていた空気が、少しずついつもの旅へ戻っていく。
私はそのことが嬉しかった。
日が傾き始めたころ、街道の先に小さな宿場が見えた。
高い城壁も大きな門もない。
街道の両側に十数軒の建物が並び、奥には馬を休ませるための厩舎が見える。旅人が一晩休むために作られた、本当に小さな宿場らしい。
入口近くには低い木製の道標が立っていた。
《グライツ王国方面》
その文字を見ただけで、目的地へ近づいている実感が湧いた。
「ここ?」
「ああ」
オラクルが答える。
「今日はここで泊まる。明日はもう一つ先の町を目指す」
「グライツまであとどれくらい?」
「宿で最新の道の状態を聞いてからだな。何もなきゃ数日ってとこだろ」
数日。
ずっと遠くに感じていたグライツが、急に近づいた。
宿場へ入ると、昨日の第二宿場とは空気がまるで違っていた。
兵士はほとんどいない。
窓を閉じろと叫ぶ人もいない。
人々は外で普通に話し、子供が空を見上げながら走っている。
メリーがそれを見て、少しだけ高度を上げた。
『ここは大丈夫そう』
「うん」
私もようやくそう思えた。
オラクルが宿を探している間、リリィは宿場の掲示板を確認していた。
「何かある?」
「街道情報。グライツ方面は通行に問題なし。昨日までの山側の規制についても書いてある」
「何て?」
「危険区域には近づかず、指定街道を使えって。それ以上は特に」
黒い欠片のことは書かれていない。
山腹の傷も。
旅人の異常も。
まだ一般へ詳しく知らせていないのかもしれない。
「こっちにもあるよ」
フランが別の紙を見つけた。
《グライツ王国行き乗合馬車》。
明日の朝に一本。
少しだけ心が動く。
「馬車なら早い?」
「早いだろうけど」
オラクルが料金を見る。
「高え」
「どれくらい?」
金額を聞いて、私はすぐに諦めた。
「歩こう」
「即決だな」
「大図書館でお金使うかもしれないし」
「珍しく正しい」
「珍しくいらない!」
宿はすぐに見つかった。
食堂と十室ほどの客室、それに厩舎があるだけの小さな宿だった。
部屋へ荷物を置いたあと、全員で食堂へ下りる。
夕食が運ばれてくるまでの間に、私は昼間書いた記録用紙をもう一度広げた。
黒い欠片。
青白い発光。
山腹の傷。
異常を起こした旅人。
メリーが感じた、魔法とは違う違和感。
オラクルも紙を見る。
「それ、なくすなよ」
「分かってる」
「グライツ着いたら写し作っとけ。調べてる途中で一枚しかねえ記録をなくしたら笑えねえ」
「じゃあ大図書館で同じもの探す」
「その前に何を探すか整理しとけ」
確かに、今のままでは多すぎる。
私は新しい紙を出した。
一番上に、
《グライツで調べること》
と書く。
まず、
《幻獣種》
《メロウ》
次に、
《お父さんとお母さん》
少し考えて、
《TIME》
も加えた。
その横でフランが紙を見る。
「リザーメイトも書いていい?」
「もちろん」
《リザーメイト》
《アルト》
さらにリリィが、
《黒い欠片》
《山の異変》
を書き足した。
メリーは私の手元を覗き込む。
『私も!』
「何調べる?」
『治す魔法!』
「メリー回復できるじゃん」
『もっとすごいのあるかもしれない!』
「じゃあ書こう」
《回復魔法》
を書き足す。
紙はあっという間に文字だらけになった。
オラクルが呆れた顔をする。
「お前ら、世界一の図書館なら何でも答えてくれると思ってねえか?」
「違うの?」
「知らねえよ。ただ、本が多いのと欲しい答えがあるのは別だろ」
その言葉で、少しだけ浮かれていた気持ちが落ち着いた。
そうだ。
大図書館へ着けば、全部分かるわけではない。
記録が残っていないこともある。
間違っている本だってあるかもしれない。
それでも、今までより探せる場所が増える。
それだけで十分だった。
夕食が届き、紙を片づける。
温かいスープを口にした瞬間、ようやく一日の疲れが身体へ戻ってきた。
今日は本当に色々あった。
石橋。
山を見た旅人。
黒い欠片。
青白い光。
山腹の巨大な傷。
検問所。
そして今は、普通の宿で温かいご飯を食べている。
「明日は空見てもいいかな」
何気なく言うと、メリーが食事の手を止めた。
『私もそれ考えてた』
「怖い?」
『ちょっと』
私も同じだった。
リリィが窓を見る。
外はもう暗くなり始めている。
「この宿場では空に関する規制は出てないよ。みんな普通に外歩いてたし」
「明日の朝、宿の人にも聞こう」
フランが言う。
「うん」
確認してから見ればいい。
それだけのことなのに、以前の私なら考えもしなかった気がする。
食事を終え、部屋へ戻る前に宿の主人へグライツまでの道を聞いた。
「今のところ東側の街道は問題ないよ。ここからなら、足の速い旅人で二日。ゆっくりなら三日ってところだね」
「途中に泊まれるところある?」
オラクルが尋ねる。
「明日なら大きめの町まで行ける。そこから先はグライツへ向かう人も一気に増えるよ」
「大図書館に行く人?」
私が聞くと、主人は笑った。
「そりゃ多いさ。研究者、学生、商人、冒険者。あそこは本を読むだけの場所じゃないからね」
「本を読むだけじゃない?」
「行けば分かるよ」
それ以上は教えてくれなかった。
気になる。
でも今日はもう調べない。
「明日のお楽しみだね」
フランが言う。
「うん」
部屋へ戻り、窓の外を見る。
夜空は見なかった。
カーテンを閉める必要はないと分かっていたけれど、今日はまだその気になれなかった。
メリーも何も言わない。
「明日見よう」
私が言う。
『うん。一緒に』
それで決まりだった。
荷物を整理し、《グライツで調べること》と書いた紙を《聖なるマップ》のそばへしまう。今日見たものを記録した紙も重ね、鞄の奥へ丁寧に収めた。
これで忘れない。
黒い欠片が暗い場所でも青白く光ったことも、兵士たちが発光した時間を記録していたことも、山腹が巨大な力で抉られたようになっていたことも、メリーがあの場所に《知っている魔法とは違う何か》を感じたことも。
今は答えがなくても、見たことまで消えるわけではない。
グライツへ着けば世界一の大図書館がある。メロウという考古学者にも会えるかもしれないし、そこにも答えがなければ、また別の場所を探せばいい。
以前の私なら、分からないことが残っているのが嫌で、今すぐ何か一つでも答えを決めたくなっていたと思う。
でも今日、石橋の向こうで嫌というほど分かった。
知らないものへ近づくことと、知らないものを知ろうとすることは、たぶん同じではない。
「フール、寝ないの?」
すでに横になっていたフランから声を掛けられた。
「もう寝るよ」
私は鞄を閉じ、枕元へ置く。
フランは右腕を庇うような動きをほとんど見せなくなっていたものの、寝る前には自分で状態を確認していた。私も真似して右足をゆっくり曲げ伸ばししてみる。
痛くない。
明日も無理をしなければ大丈夫そうだった。
メリーは私の枕の近くまで飛んできたものの、すぐには布団へ入らなかった。閉じた窓の前で止まり、外を気にしている。
「どうしたの?」
『……何でもない』
「空?」
メリーがこちらを向く。
少し迷ってから頷いた。
『明日になったら見る』
「今は見ないの?」
『今日はいっぱい見ないようにしたから、もういい』
妙な言い方だったけれど、気持ちは分かった。
私もカーテンを開けようとは思わない。
ここはもう危険区域ではない。宿の主人も、空を見るなとは言っていなかった。外では今も普通に人が歩いている。
それでも今日は、何も確かめなくていい。
「じゃあ明日の朝、一緒に見よう」
『フールも?』
「うん。普通の空だったら、メリーも好きなだけ飛んでいいよ」
『本当?』
「オラクルにも確認してからね」
メリーは少し考えたあと、嬉しそうに頷いた。
『約束!』
「約束」
昼間にした約束とは違う。
あのときは、見てはいけないものを見ないための約束だった。
今度は、明日また普通の空を見上げるための約束。
同じ一日の中なのに、その違いが少し嬉しかった。
メリーはようやく布団へ潜り込み、顔だけを外へ出した。
『グライツまで、あと二日?』
「早ければね。ゆっくりなら三日だって」
『遠い』
「もうすぐじゃん」
『フール、さっき数日って聞いたとき近いって言ってた』
「だって、ここまでいっぱい歩いたから」
本当にそうだった。
アルセウスを出てから、いくつもの場所を通ってきた。
楽しいことばかりではなかったし、黒龍王と戦ったあとは怪我までした。それでも歩き続け、ようやく世界一の大図書館がある国まであと数日というところまで来た。
グライツへ着いたら、何が分かるのだろう。
二体目の幻獣種。
メロウ。
TIME。
お父さんとお母さん。
フランの故郷リザーメイトとアルト。
今日見た黒い欠片や山の異変まで調べられるかもしれない。
考え始めると眠れなくなりそうだったので、私は途中でやめた。
全部を明日知る必要はない。
まずはグライツへ着く。
そのために明日も歩く。
「おやすみ、メリー」
『おやすみ、フール』
「フランも、おやすみ」
「うん。おやすみ」
部屋の灯りを消すと、宿場の夜は驚くほど静かだった。
昨日の第二宿場では、窓の外から兵士の声が聞こえ、いつまた青白い光が見えるのかと落ち着かなかった。今夜聞こえてくるのは、厩舎の馬が時折動く音と、遠くで風が木々を揺らす音くらいだった。
その風の音に、一度だけ山側の布が大きく膨らんだ光景を思い出す。
黒い欠片。
内側を走った青白い光。
抉れた山腹。
何を見たのか分からないまま立ち尽くした若い旅人。
胸の奥が少しだけ冷たくなった。
けれど、もう私はあの場所にはいない。
隣には仲間がいる。
荷物の中には、自分たちで見たことを書いた記録もある。
だから今夜は、それ以上考えなくてもいい。
目を閉じる。
しばらくすると、すぐ近くからメリーの小さな寝息が聞こえてきた。
私は布団を少しだけメリーのほうへ寄せ、もう一度目を閉じた。
明日の朝になったら、まず空を見よう。
何も起きていない、普通の青い空を。
それからまた、グライツへ向かって歩けばいい。
世界一の大図書館までは、もうあと少しだった。




