第154話 見上げてはいけない橋
第二宿場を出発する朝、町は日の出前から目を覚ましていた。
宿の窓を開けなくても、荷馬車の車輪が石畳を擦る音や、厩舎から馬を引き出す声が聞こえてくる。何日も足止めされていた商人や旅人たちが、ようやく開かれる北西街道へ向かう準備を始めているのだ。
私もいつもより早く目を覚まし、ベッドの上で右足をゆっくり動かしてから床へ下ろした。昨日しっかり休んだおかげで痛みも重さもほとんど残っていないけれど、調子がいいからと無理をしてはいけないことは、もう何度も言われている。
隣ではフランも右腕の状態を確かめていた。
「どう?」
「昨日より軽いよ。普通に歩くくらいなら問題ない。でも短剣はまだ振らない」
「私も走らない」
「今日は、じゃなくて?」
「今日も!」
言い直すとフランが笑い、その声でメリーが布団から小さな顔を出した。
『もう朝?』
「今日は橋を渡るよ」
眠そうだった目が一気に開く。
『飛んじゃ駄目なところ! 山を見ない、黒いのが落ちてても触らない、フールの肩から勝手に飛ばない!』
「完璧」
メリーは得意そうに胸を張った。
昨日までなら、知らないものを見つければ私と一緒になって近づきたがっていた。それでも黒い欠片に感じた違和感や、治療師から教わったことを覚え、自分から危険を避けようとしている。少しずつ変わっているのは、私やフランだけではない。
一階へ下りると、オラクルとリリィはすでに準備を終えていた。朝食のテーブルには地図が広げられ、第二宿場から古い石橋、その先に設けられた次の検問所までの道が確認できるようになっている。
今日の最初の目的は、グライツへ少しでも距離を稼ぐことではない。まず、この異常が残る区域を全員で無事に抜けることだった。
「出る前にもう一回だけ確認するぞ。橋までは普通に進む。最初の検問で兵士の説明を聞いて、そこから先は指示どおりに動く。街道から外れない、山側を見上げない、何か落ちてても拾わない。メリーは飛ばない。それからフールとフランは、怪我に少しでも違和感が出たらその場で言え」
『はい!』
一番元気よく返事をしたのはメリーだった。
「フールは?」
「分かってるよ!」
「返事の信用度が違うな」
「何でメリーのほうが上なの!」
リリィが荷物を背負いながら笑う。
「昨日までの実績じゃない?」
「リリィまで!」
朝から少しだけ騒がしくなったけれど、そのくらいでよかった。
正直に言えば怖かった。昨日見た黒い欠片、雲の内側で膨らんだ青白い光、少し遅れて宿の床まで震わせた低い音。そして何より、兵士から正式に告げられた《山側を見上げないこと》という奇妙な注意。
何があるのか分からないまま、その近くを通らなければならない。だからこそ、いつもの会話が少しだけ怖さを薄めてくれた。
朝食を終え、私たちは第二宿場を出発した。
町の西側にはすでに長い列ができていた。荷馬車、商人、冒険者、徒歩の旅人。全員を一度に通すのではなく、兵士が何組かずつ区切って送り出している。
待っている人たちも昨日までとは違い、道が開いたことを喜ぶ声より、奇妙な注意について確かめ合う小さな会話のほうが多かった。
「本当に上見ちゃ駄目なのか?」
「兵士が言ってんだからやめとけ」
「何があるかくらい教えろよ」
「俺は知らなくていい。荷物さえ届けられりゃな」
誰だって気になるのだと思う。
私も同じだった。
ただ、昨日までとは違う。知らないから見たいという気持ちだけで動くには、目の前に積み上がった異変が多すぎた。
やがて私たちの順番が来た。
町の出口に設けられた検問で、兵士が人数を確認する。
「五人だな」
一瞬だけ誰を数えたのか分からなかったけれど、兵士の視線はメリーへ向いていた。
『私も一人!』
「そうだな。五人だ」
メリーが嬉しそうに胸を張る。
兵士は地図を使いながら説明を始めた。
「石橋までは通常どおり進んで構わない。ただし、橋を越えた先から次の検問所までは絶対に立ち止まらないこと。山側へ続く脇道はすべて封鎖している。街道からも外れないでくれ」
オラクルが「見上げるなって話は?」と確認すると、兵士の表情が少し硬くなった。
「昨日の説明どおりだ。特に石橋を越えたあとは、山側の上空を長く見ないようにしてほしい」
「一瞬でも駄目なのか?」
「そこまでは分からない。ただ、現地で体調を崩した兵士が複数いる。共通していたのが、異常の起きた方向を見ていたことだ。症状は意識の混濁、方向感覚の喪失、呼びかけへの反応の遅れ。今のところ命に関わる症状は確認されていないが、原因が分からない以上、試すようなことは絶対にしないでほしい」
最後の言葉は私に向けられたわけではない。それでも、なぜか少しだけ胸が痛かった。
メリーが私の肩へ降りる。
『フール、絶対見ないでね』
「メリーもね」
『私はフールの服見てる』
「歩きづらくない?」
『空見るよりいいもん』
それは確かにそうだった。
検問を抜けて街道を進むと、最初のうちは昨日までと変わらない景色が続いた。第二宿場から離れるにつれて建物が減り、代わりに木々が増えていく。道も少しずつ上り坂になり、遠くに見えていた山々がゆっくり近づいてきた。
ただ、街道の様子は明らかに違っている。
一定の間隔で兵士が立ち、山側へ続く脇道には縄と《立入禁止》の札が掛けられていた。ところどころ街道脇の草が踏み荒らされ、重いものを運んだらしい跡まで地面に残っている。
リリィは歩きながらそれを観察していた。
「兵士の足跡、かなり多い。それだけじゃなくて、何人かで重いものを運んだ跡もあるよ」
「分かるの?」
「ここ。靴の跡の間に、地面を引きずったみたいな線があるでしょ。でも途中から消えてるから、荷車に載せたのかもしれない」
「昨日の黒い欠片?」
「それは分からない。大きさも分からないし、別のものかもしれない。ただ、山側から何かを運び出した跡がある。それだけ」
以前よりずっと慎重になっている。
追跡の力を伸ばすと決めてから、リリィは足跡を見つけるだけではなく、その痕跡から何を言えて、何をまだ言えないのかまで考えるようになった。
さらに進むと、道端の景色にも小さな変化が現れ始めた。
最初に見つけたのは、幹の片側だけが黒く変色した一本の木だった。雷が落ちたように裂けてはいないし、周囲へ火が燃え広がった跡もない。ただ、山側を向いた面だけが薄く焦げている。
その先では同じような木が二本に増え、さらに進むと、地面の草だけが丸く焼けた場所まで現れた。
「増えてるね」
フランが声を落とす。
「ああ。ただし止まるな。見るなら歩きながらだ」
オラクルの声にも、いつもの軽さがなかった。
メリーが私の肩で身じろぎする。
『昨日の黒いのを見たときと、ちょっと似てる』
「もう感じるの?」
『うん。でもまだ薄いよ。気持ち悪くはないけど、山に近づくほど少しずつ増えてる感じがする』
私は何も感じない。
だからこそ、メリーの言葉が少し怖かった。
目に見える焼け跡と、私たちには感じ取れない何か。その二つが同じ方向へ増えているせいか、誰も何も言わないまま歩く時間が少しずつ長くなった。
一時間ほど進んだころ、前方の木々が途切れ、その向こうに大きな石橋が姿を現した。
「あれだ」
オラクルが地図を確認する。
古い石橋。
深い谷を越えるため、長い年月使われてきた橋だと聞いている。近づくほどその大きさが分かり、灰色の石を積み上げた橋は馬車が二台すれ違えるほど広く、深い谷の反対側まで長く伸びていた。
欄干には風雨で削れた古い模様が残っているものの、橋そのものに大きく壊れた場所はない。
異常が見えたのは、その周囲だった。
街道から少し外れた場所にある小さな見張り台は、昨日商人から聞いたとおり建物自体は残っていた。しかし屋根の一部が黒く変色し、地面や周囲の木まで不規則に焦げている。
一つの場所から火が燃え広がったようには見えなかった。
屋根。
そこから数歩離れた地面。
さらに離れた木の幹。
何もない場所を飛び越えるように、焼け跡だけが点々と続いている。
リリィが目を細めた。
「足跡もすごい。見張り台から橋へ走ってる跡と、山側から戻ってきた跡が重なってる」
「追える?」
「たぶん。でも追わない。街道から外れちゃ駄目だし、今は何があるか分からないから」
リリィ自身が一番気になるはずなのに、視線を足元から戻した。
メリーも私の肩で身体を小さくする。
『フール、ここ嫌』
昨日よりはっきりした言い方だった。
「強くなった?」
『うん。黒いの一個じゃない感じがする。どこか一つじゃなくて、あっちにもこっちにも薄く残ってるみたい』
メリーは山側を見ないまま私の服を握り締めた。
『ここに長くいたくない』
それで十分だった。
「行こう」
私から言うと、オラクルが少しだけこちらを見た。
「見張り台、調べたいって言わねえのか?」
「気にはなるよ。でもメリーが嫌だって言ってるし、今日は調べに来たんじゃないもん。みんなでグライツへ進むために来たんでしょ」
言葉にすると、自分でも少し驚いた。
以前なら絶対に近づきたがっていたと思う。でも今は目的がある。全員で無事にグライツへ行く。そのためなら、気になるものを残して進むことも必要だった。
橋の手前には、さらに厳重な検問が設けられていた。
兵士たちは旅人を一組ずつ止め、同じ注意を繰り返している。橋の向こうにも別の兵士が配置され、さらに山側には高い布まで張られていた。
私たちの番になると、兵士は一人ずつ顔を確認してから言った。
「ここから先は山側を見上げないでくれ。橋の上では正面か谷側を見ること。橋を渡ったあとも次の検問所までは立ち止まらず進む。異常を感じても、勝手に山へ入らないこと」
最後にメリーを見る。
「妖精は飛ばないほうがいい」
『飛ばない!』
メリーは私の肩へ深く座り、両手で服を掴んだ。
『フールも絶対見ちゃ駄目だよ』
「分かってる」
『本当に?』
「本当!」
『じゃあ私が見張る』
「メリーも山見ちゃ駄目なんだって」
『フールだけ見る!』
少しだけ笑いそうになった。
でも、橋へ足を踏み出した瞬間、その余裕は消えた。
谷底から吹き上げる風が赤い髪を大きく揺らす。橋の左側には深い谷が広がり、右側には山がある。
見てはいけないのは右だけ。
正面を向いて歩けばいい。
それだけのことなのに、数歩進んだだけで右側の存在が妙に大きく感じられた。視界へ入れていないからこそ、そこに何があるのか想像してしまう。
昨日の青白い光。
黒い欠片。
山腹の焼損。
そして《空から落ちてきた》という兵士の言葉。
山側から風が吹くたび、何かがすぐ近くを通り過ぎたような錯覚さえした。
「フール」
後ろからリリィの声がする。
「前だけ見て」
「見てるよ」
「目だけ右に行きそうだった」
「行ってない!」
そう答えたものの、自信はなかった。
橋の中央へ近づくにつれて、周囲の音まで少なくなったように感じる。実際には風が吹き、馬車の車輪も鳴り、何人もの足音が石の上で重なっている。それなのに、自分の呼吸と心臓の音ばかりが妙に大きかった。
メリーが肩の上で急に身体を強張らせた。
「メリー?」
『来た』
「何が?」
『分かんない。でも昨日の黒いのと同じ感じ。さっきよりずっと強い』
声が震えている。
「どこから?」
『右……だと思う。でも一個じゃない。もっと広いの』
オラクルにも聞こえていた。
振り返らないまま、「メリー、気分悪くなったらすぐ言え。そのまま進むぞ」と声を掛ける。
『うん』
私は前だけを見る。
一歩進むたびに、橋の向こうが少しずつ近づく。
あと半分。
そう思ったとき、前を歩いていた若い旅人が急に速度を落とした。
最初は疲れただけだと思った。
しかし男は完全に足を止め、ぼんやりとした表情のまま、ゆっくり右側へ顔を向け始めた。
「あれ……」
近くにいた兵士が、男の異変に気づいた。
「止まるな! 前を向け!」
鋭い声が橋の上を走ったが、男は反応しなかった。聞こえていないというより、言葉の意味が頭まで届いていないようだった。
歩みを止めたまま、ゆっくり顔だけが山側へ向いていく。
「おい! 見るな!」
兵士が駆け出した。
それでも間に合わなかった。
若い旅人は山側を見上げた。
ほんの数秒だった。
叫び声を上げるわけでも、何かに襲われた様子もない。ただ、それまで荷物の紐を握っていた手から力が抜け、両腕がだらりと下がった。
そして、その場で動かなくなった。
後ろを歩いていた人たちが一斉に足を止めかける。
「止まるな! 後ろの連中はそのまま進め! そいつを見るな、山側も見るな!」
兵士の怒鳴り声が石橋に反響した。
私も反射的に足を止めそうになったけれど、すぐにオラクルの手が肩へ触れた。
「歩け。あいつには兵士がいる」
「でも……」
「俺たちまで止まったら邪魔になる。進むぞ」
言われたとおり足を動かした。
それでも視線は若い旅人へ向いてしまう。
兵士が男の肩を掴み、山側へ向いていた身体を正面へ戻そうとしていた。
「聞こえるか! おい、こっちを見ろ!」
男は倒れていない。
目も開いている。
それなのに、目の前にいる兵士を見ていなかった。焦点の合わない目は兵士の肩越しを通り過ぎ、さっきまで見上げていた方向へ戻ろうとしている。
兵士が両肩を強く揺らした。
「聞こえてるか!」
わずか数秒。
それだけの時間だったはずなのに、私にはずっと長く感じられた。
やがて男が何度か瞬きをし、ようやく目の前の兵士へ焦点を合わせる。
「……え?」
「歩けるか?」
「俺……何で止まって……」
「山を見るな。前だけ見ろ」
男は戸惑ったように眉を寄せた。
「俺、何を見てたんだ?」
自分で分からないらしい。
兵士の表情が一瞬だけ強張った。
「今は考えるな。前へ進め。歩けるなら歩くんだ」
男はまだ混乱していたものの、兵士に支えられながら歩き始めた。
その姿を見ているうちに、背中へ冷たい汗が滲んだ。
昨日、兵士から聞いた症状と同じだった。
意識がぼんやりする。
呼びかけへの反応が遅れる。
方向感覚を失う。
話として聞いていたときには、まだどこか現実味がなかったのだと思う。危険だと理解しているつもりでも、自分たちから離れた場所で起きた出来事だった。
今は違う。
ほんの数歩先で、一人の人間が実際におかしくなった。
何かに触れたわけではない。
魔法を受けたようにも見えなかった。
ただ山側を見上げた。
それだけだった。
「……何を見たんだろう」
気づけば、声に出していた。
『フール』
メリーの声が耳元で聞こえる。
『駄目だよ』
「分かってる」
そう答えた。
本当に分かっているはずだった。
見てはいけない。
兵士から何度も注意された。
オラクルにも言われた。
今、自分の目の前で実際に異常を起こした人まで見た。
それなのに、胸の奥から湧いてくる好奇心は消えてくれなかった。
男は何を見たのだろう。
空に何か浮かんでいるのか。
昨日、雲の内側で見えた青白い光の正体がそこにあるのではないか。
ほんの一瞬だけなら。
見た瞬間に前へ向き直れば、自分だけは大丈夫なのではないか。
そこまで考えたところで、自分の首がわずかに右へ動いていることに気づいた。
自分で動かしたはずだった。
それなのに、動き始めてから一瞬遅れて気づいたような感覚がした。
急に怖くなった。
「フール!」
メリーの声がはっきり響いた。
小さな両手が私の頬へ触れる。力なんてほとんどないはずなのに、その手に押されて顔が正面へ戻った。
目の前にはオラクルの背中がある。
その先には橋の出口。
何人もの旅人が、誰一人山を見ようとせず歩き続けている。
私は大きく息を吸った。
「……ごめん」
『何で見ようとしたの!』
メリーは怒っていた。
でも、その声には怒りより強い恐怖が混じっている。
「分かんない。気になって……ほんのちょっとなら大丈夫かなって」
『私だって気になるよ!』
メリーが私の肩の上で叫んだ。
『でも見ないって約束したでしょ! フールがおかしくなったら嫌だよ!』
胸が痛んだ。
メリー自身だって、黒い欠片に私たち以上の何かを感じている。きっと私より気になっていることもある。
それでも見ないでいてくれる。
「うん。もう見ない」
『本当?』
「本当。約束する」
メリーはしばらく私の顔を確かめていたが、やがて頬から手を離し、代わりに服を強く掴んだ。
『じゃあ私がフール見てる』
「メリーも山見ちゃ駄目だよ」
『だからフールだけ見るの』
さっきと同じ言葉なのに、もう冗談には聞こえなかった。
後ろからリリィの声がした。
「フールだけじゃないよ。私も見たくなった」
「リリィも?」
「うん。あの人が何を見たのか確かめたくなった。追跡してるときと少し似てるんだと思う。途中まで痕跡を見つけたら、その先に何があるのか確認したくなる」
リリィは前を向いたままだった。
「でも見ない。これは追わないほうがいい痕跡だと思う」
オラクルも振り返らずに言った。
「気になること自体はどうしようもねえ。問題は、そのあとどう動くかだ。今は答えを取りに行く場面じゃない。全員、前だけ見て歩け」
フランも後ろから「分かった」と答えた。
私たちは歩き続けた。
橋の中央を越えたあたりから、山側から吹きつける風がさらに強くなった。冷たいだけではなく、乾いた土と焦げた木が混ざったような匂いを運んでくる。
メリーが肩の上で身体を小さくした。
『強くなってる』
「違和感?」
『うん。昨日の黒いの一個だけじゃない感じ。もっと広いところから来てる』
「黒い欠片がいっぱいあるってこと?」
『それは分かんない。でも、一個じゃない感じがするの。いろんなところに薄く残ってるみたい』
昨日、落下地点の周辺では同じような黒い物体が複数回収されていると聞いた。
その情報が頭に浮かんだ。
だからといって、メリーが感じているものの原因が黒い欠片だとは限らない。
私は考え込むのをやめ、足を止めないことだけに集中した。
やがて石橋の終わりが見えてくる。
少し安心しかけたところで、前方に立つ兵士が大声を上げた。
「橋を出ても気を抜くな! 次の検問所までは同じだ! 山側を見るな、街道から外れるな!」
橋を渡れば終わりではなかった。
私たちは石橋を抜け、そのまま街道を進む。
ここから先は山側へ高い布が張られ、視線そのものを遮るようになっていた。風が吹くたび布が大きく膨らみ、その向こう側に何があるのか余計に意識させられる。
上は見えない。
ただ、布と地面の隙間までは隠しきれていなかった。
焦げた土。
途中から折れた枝。
黒く変色した草。
そして、ときどき見える細かな黒い粒。
最初は炭だと思った。
見張り台の周囲も焼けていたのだから、焦げた木の破片がここまで飛んできたのかもしれない。
けれど、進むにつれて数が増えていく。
リリィも気づいた。
「さっきから黒いの、増えてない?」
フランが足元を見る。
「炭じゃないの?」
「分からない。でも焼けた木がない場所にも落ちてる」
オラクルは歩みを緩めなかった。
「止まって調べるな。見るだけにしろ」
私たちは進みながら足元だけを確認した。
黒い粒はどれも小さく、砂利に混じれば見落としてしまいそうなものばかりだった。ただ、どれも同じように黒く、焦げた木のように形が崩れていない。
昨日見た欠片を思い出す。
滑らかな黒い表面。
不規則に割れた端。
青白い光。
もしかして。
そう思った瞬間、メリーが私の服を強く引いた。
『フール』
「どうしたの?」
『近い』
声が小さい。
さっきより明らかに緊張している。
「何が?」
『昨日の黒いのと同じ感じ』
「見える?」
『見えない。でも、すぐ近くにあると思う』
私は山を見上げないよう注意しながら、視線を足元だけへ落とした。
石。
土。
車輪の跡。
小さな黒い粒。
どれなのか分からない。
さらに数歩進む。
リリィが息を呑んだ。
「右の下」
山側ではある。
でも上ではない。
視線を低く保ったまま、リリィが示した場所を見る。
兵士が張った縄の内側。
街道から二歩ほど外れた地面に、それは落ちていた。
昨日、第二宿場で見たものよりずっと小さい。
指先ほどしかない。
それでも見間違えなかった。
炭でも黒い石でもない。片側の表面だけが異様なほど滑らかで、反対側には何か大きなものから無理やり剥がれたような不規則な破断面がある。
周囲に散らばっていた黒い粒も、よく見れば同じものがさらに細かく砕けたように見えた。
「オラクル」
自分でも分かるくらい声が掠れた。
「ああ。見えてる」
オラクルは足を止めなかった。
「近づくな。そのまま通り過ぎるぞ」
「うん」
昨日見たものと同じなら、触ってはいけない。
それは分かっている。
ただ、昨日の欠片には一つだけ分からないことがあった。
青白く光ったのは、本当に欠片そのものだったのか。
それとも太陽の光が反射しただけなのか。
今なら分かる。
目の前の欠片は、木々と高い布が作る影の中にある。
日差しは届いていない。
私は歩きながら、その黒い表面を見た。
何も起きない。
やっぱり昨日は反射だったのかもしれない。
少しだけそう思った。
次の瞬間。
黒い表面の奥に、細い青白い筋が浮かび上がった。
私は息を呑んだ。
光は表面を滑ったのではない。
欠片の内側を走った。
一度だけ淡く輝き、すぐに消える。
メリーの指が私の服へ食い込んだ。
『今の……』
言い終わるより先に、もう一度。
今度はさっきより少し強い。
青白い筋が黒い欠片の奥で脈打ち、周囲の土をほんのわずかに照らして消えた。
まるで、小さな欠片の中に何かがまだ残っているようだった。
無意識に歩調が遅くなる。
もっと見たい。
何回光るのか。
一定の間隔なのか。
何かに反応しているのか。
「フール、止まるな」
オラクルの低い声で我に返った。
「ごめん」
私は前を見る。
歩き続ける。
それでも背中側にある黒い欠片の存在が、妙にはっきり感じられた。
肩の上でメリーが震えている。
「大丈夫?」
『……あれ、生きてるの?』
すぐには答えられなかった。
ただの欠片のはずだ。
岩ではない。
兵士たちの知る金属でもない。
昨日は日光を受けて光ったから、反射だと思うこともできた。
今は違う。
あれは自分で光った。
少なくとも、私にはそう見えた。
「生きてるかどうかは分からねえ」
オラクルが前を向いたまま言った。
「今分かったのは、光が反射じゃなかったってことだけだ。それ以上はグライツで調べる」
『うん……』
メリーは返事をしたものの、私の服を掴む手は緩まなかった。
数歩進んだ、その直後だった。
背後から、硬いものに細い亀裂が入ったような音がした。
小さい。
でも全員に聞こえたらしい。
誰も振り返らない。
続いて兵士の声が飛ぶ。
「欠片から離れろ! そこを空けろ!」
何人かが走る足音が重なる。
私は前を向いたまま歩く。
そのとき、一瞬だけ足元に落ちる自分たちの影が濃くなった。
背後が青白く照らされた。
見なくても分かった。
さっきより強く光った。
メリーが息を止める。
フランもリリィも振り返らなかった。
「そのまま進むぞ」
オラクルの声は低かった。
「ここで確認する必要はねえ。兵士に任せる」
誰も反対しなかった。
黒い欠片の正体は知りたい。
でも、拾いたいとはもう思わなかった。
分からないものだから怖いのではない。
分からないものが、目の前で確かに何かを起こした。
その事実が怖かった。
私は前だけを見る。
山側を覆う布はまだ続いている。
その向こうには何があるのか分からない。
けれど、もう一つだけ分かったことがある。
昨日、第二宿場で見た黒い欠片は偶然そこにあったわけではない。
同じものが、この異常区域にも散らばっている。
そしてその欠片は、日光がなくても光る。
私はその事実を頭の中へ刻み込んだ。
忘れないために。
いつか大図書館へ着いたとき、必ず調べるために。
メリーが私の肩で小さく呟いた。
『フール。早くここ出よう』
「うん」
私は歩調を変えなかった。
走らない。
立ち止まらない。
振り返らない。
ただ、仲間たちと同じ速さで前へ進んだ。
山側の布が風を孕んで大きく膨らんだ直後、その向こうから低い音が響いてきた。
遠雷にも似ていたけれど、空から降ってくる音ではなかった。もっと重く、山の奥で生まれた振動が地面を伝ってきたような響きで、石造りの街道が足の裏でわずかに震える。肩に乗っていたメリーがびくりと身体を強張らせ、反射的に私の髪へしがみついた。
「大丈夫?」
『うん……でも、昨日の音と似てる』
私にもそう聞こえた。
第二宿場で青白い光を見たあと、少し遅れて届いたあの音。それより小さく、遠く感じるのに、腹の奥へ残る嫌な重さはよく似ている。
オラクルは歩調を変えなかった。
「今のも覚えとけ。ただし、さっきの欠片や昨日の光と同じ原因だとは決めるな。整理するのはここを抜けてからだ」
「うん」
分からないものを、分かったことにしない。
何度も繰り返してきたことなのに、今回はその《分からない》という言葉そのものが怖かった。
足元にあった黒い欠片は、日の当たらない場所で自ら青白く光った。その直後には兵士たちが慌ただしく動き、今度は山の向こうから昨日と似た低い音まで届いている。全部が別々の出来事である可能性は残っている。それでも、今歩いている場所で何か普通ではないことが起きているという一点だけは、もう疑えなかった。
私たちは自然と会話を減らし、兵士から指示された速度を崩さず街道を進んだ。
山側には高い布が延々と張られている。ところどころ新しい布へ交換された場所があり、兵士たちが太い杭を打ち込んで補強していた。風が吹くたび布は山側から強く押され、何人もの兵士が身体を使って支えている。
その兵士たちも、誰一人として上を見ない。
作業中に布が大きく持ち上がっても、視線は杭か地面へ向けたまま。何があるのか知っているはずの人たちまで徹底して見ようとしないことが、何より不気味だった。
「リリィ」
私は前を向いたまま呼んだ。
すぐ後ろから「いるよ」と返ってくる。
「大丈夫?」
「うん。フランも一緒」
「俺も大丈夫だよ。右腕も変わってない」
二人の声が聞こえたことで、詰まっていた息が少しだけ楽になった。
前にはオラクルがいる。肩にはメリーがいて、後ろにはリリィとフランがいる。誰も欠けていない。
「フールは?」
今度はリリィから聞かれた。
「私も大丈夫。右足も痛くない」
「なら、このまま行こう」
「うん」
怖いものが見えない場所にあるからこそ、仲間の声がいつも以上に近く感じられた。
しばらく進んだところで、山側を隠していた布が一か所だけ途切れていた。
数人の兵士が新しい布を運び、急いで塞ごうとしている。通行する旅人へ向かって、「山側を見るな! 足元を見て通れ!」と何度も声を張っていた。
私も視線を低くする。
空は見ない。
山の上も見ない。
それでも布がないせいで、山腹の下側までは隠しきれていなかった。
そして、そこへ目が届いた瞬間、息が止まった。
斜面の一部が大きく抉れていた。
遠く離れた街道から見ても、その規模が分かる。緑に覆われていたはずの山肌が広範囲に剥き出しとなり、何十本もの木が折れたり根元から倒れたりしている。火事が広がったような焼け方でもなく、地面や木々の一部だけが不規則に黒く変色していた。
それ以上に異様だったのは、倒れた木々の向きだった。
全部が同じではない。それでも多くの木が、抉れた場所を中心として外側へ押し倒されたように横たわっている。
リリィも同じところを見ていたらしい。
「中心から……何かが広がったみたい」
声から、いつもの観察を楽しむような響きが消えていた。
フランが「落ちたときの衝撃かな」と呟いたが、オラクルはすぐに答えを決めなかった。
「可能性はある。だが今は見えてるものだけ覚えろ。ここで原因を考え始めたら足が止まる」
その通りだった。
私は前へ進みながらも、山腹に刻まれた巨大な傷を頭から追い出せなかった。
昨日まで《落下地点》という言葉から、大きな岩でも空から落ちたような景色を想像していた。でも実際に残されていた痕跡は、そんな想像より遥かに大きい。
何が落ちれば、あれほど山を抉れるのだろう。
なぜ周囲の木や地面が、火事とも違う形で焼けているのだろう。
どうして離れた街道にまで、黒い欠片が散らばっているのだろう。
考えるほど、答えを求めて視線が上へ向かいそうになる。
落ちてきたのなら、その前は上にあった。
なら、答えも上にあるのではないか。
そう考えた瞬間、メリーが私の頬へ身体を寄せた。
『フール。前』
「……うん」
今度は首を動かす前に止まれた。
メリーがほっと息を吐く。
『さっきより偉い』
「私のほうがお姉さんなのに」
『じゃあちゃんとして』
「はい……」
少しだけ笑いそうになったけれど、メリーはすぐ真剣な表情へ戻った。
『あそこ、嫌』
山腹のことだと分かった。
「黒い欠片より?」
『比べられない。黒いのは、小さいところに変なのが残ってる感じ。でもあそこはもっと広いの。山のあっちにもこっちにも、知らないものが薄く残ってるみたい』
メリーは上を見ないよう私の肩へ顔を伏せる。
『魔法とは違うと思う。私が知ってる魔法の残り方じゃない。でも……ここに長くいたくない』
その言葉を聞いて、もう迷わなかった。
メリーの感覚だけで何かを断定することはできない。それでも、普段なら知らないものへ私より先に飛んでいきそうなメリーが、何度も「離れたい」と言っている。
「オラクル、少しだけ歩くの速くできる?」
「足は?」
「大丈夫。走らなければ平気」
オラクルは私の歩き方を確認してから、後ろのフランにも右腕の状態を聞いた。全員に問題がないことを確かめ、ほんの少しだけ歩調を上げる。
逃げるほど速くはない。
右足を悪化させるほどでもない。
それでも一歩進むたびに、山腹の傷から少しずつ離れられる。そのことが今はありがたかった。
布の途切れた場所を抜けると、再び山側が隠れた。
見えなくなっただけなのに、肩へ入っていた力が少し抜ける。
けれどメリーは、まだ私の服を握っていた。
『まだある』
「違和感?」
『うん。弱くなってるけど、後ろにずっとある』
「振り返らなくていいよ」
『うん』
自分自身にも言い聞かせるように答えた。
そこから少し進んだ場所で、二つ目の黒い欠片を見つけた。
今度は兵士たちがすでに周囲を囲い、厚い革手袋を着けた二人が長い器具を使って回収しようとしている。直接手では触れず、内側へ何重にも布を敷いた箱へ慎重に運び込むところだった。
リリィが声を潜める。
「昨日、第二宿場で運んでたのと同じやり方」
「ああ」
オラクルは一度確認しただけで、足を止めなかった。
私も通り過ぎようとした、そのときだった。
器具に挟まれた黒い欠片の内部へ、青白い光が走った。
兵士の一人が反射的に腕を引く。
もう一人も身体を強張らせたが、二人ともすぐに持ち場へ戻った。どうやら初めてではないらしい。
「反応した。記録しろ」
近くにいた兵士が紙を開く。
「時間は?」
「前回から十八分」
十八分。
その数字だけは頭へ残った。
一定の間隔で光るのか、それとも偶然なのかは分からない。それでも兵士たちが《前回》を記録している以上、黒い欠片の発光が一度きりではないことだけは確かだった。
メリーも気づいたらしい。
『また光った……』
「うん。でも止まらないよ」
『私も見ない』
「フール」
オラクルに呼ばれる。
「行くぞ」
私は頷き、黒い欠片から視線を外した。
覚えておけばいい。
大図書館へ着いたら調べる。
メロウに会えたら聞く。
今は、それ以上近づく必要はない。
前方の布の終わりに、ようやく木製の柵が見え始めた。その周囲には何人もの兵士が立っている。
次の検問所だ。
「あそこ?」
「そうだ。あそこまで行けば、この区間は終わりだ」
メリーが私の肩で少しだけ身体を起こした。
『もうすぐ?』
「うん。あとちょっと」
『よかった……』
普段なら「やった!」と飛び上がりそうなのに、今は心から安心したような声しか出なかった。
私も同じ気持ちだった。
検問所が少しずつ近づく。
あと少し。
そう思った瞬間、背後の山側から三度目の低い音が響いた。
今までより遠く感じたのに、直後に風が押し寄せた。
山側を覆う布が一斉に膨らみ、太い杭が軋む。補強作業をしていた兵士が慌てて縄を掴み、何人かの旅人が驚いて足を止めかけた。
「止まるな!」
街道のあちこちから兵士の声が飛ぶ。
「検問所まで進め! 山を見るな!」
走りたかった。
あの柵の向こうまで一気に行ってしまいたかった。
でも右足を悪化させれば、その先の旅に響く。
私は自分の呼吸を整え、歩幅だけを少し広げた。
前にはオラクル。
肩にはメリー。
後ろからはフランとリリィの足音が途切れず続いている。
誰も欠けていない。
それを確かめながら、一歩ずつ進んだ。
風がもう一度布を膨らませる。
その瞬間、布の下から青白い光が漏れた。
ほんの一瞬だった。
でも今度は私だけではない。
周囲を歩いていた旅人たちも息を呑み、兵士たちの声がさらに鋭くなる。
「見るな! 前へ進め!」
私は前だけを見た。
見たいとは思わなかった。
さっきまでとは違う。
もう十分だった。
知らないものへ近づく怖さを、身体のほうが理解していた。
やがて検問所の兵士が大きく手を振る。
「ここまで来れば大丈夫だ! 柵の内側へ入れ!」
オラクルが先に入る。
私も続いた。
木製の柵を越えて一歩、さらにもう一歩進み、後ろからフランとリリィが入ったのを確認したところで、ようやく足を止めることが許された。
全員いる。
怪我もしていない。
それを確かめた瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。
「……抜けた」
自分の声が思っていたより小さかった。
メリーも私の肩に座ったまま、大きく息を吐く。
『疲れた……』
「ずっと肩に乗ってただけじゃん」
『見ないようにするの、すっごく疲れるんだよ』
「……それは分かる」
本当に分かった。
戦っていないし、走ってもいない。それなのに、長い戦いを終えたあとのように身体の奥まで疲れていた。
フランも右腕の状態を確かめながら息を吐く。
「俺も、戦ったあとみたいな感じする」
「今回は全員同じだろうな」
オラクルも珍しく素直に認めた。
リリィは一度だけ後ろへ顔を向けかけたが、途中でやめた。
「見ないの?」
私が聞く。
「今はいい」
その答えに、私も頷いた。
私だって、さっきまではあれほど知りたかった。
山の上に何があるのか。
橋の旅人は何を見たのか。
黒い欠片は何なのか。
でも安全な場所へ出た今、振り返って確かめようという気持ちはなかった。
見なくてよかった。
触らなくてよかった。
全員でここまで来られてよかった。
今は、その気持ちのほうがずっと強い。
メリーがようやく私の肩から離れ、ふわりと宙へ浮かんだ。いつもの高さまで上がってから両腕を大きく広げる。
『飛べる!』
「嬉しそう」
『ずっとフールしか見てなかったんだもん!』
「そんな嫌そうに言わなくてもいいじゃん!」
『嫌じゃないよ。でも景色も見たい!』
いつものメリーの声だった。
それを聞いて、ようやく私も笑えた。
ただ、誰も山を振り返らなかった。
安全区域へ入ったあとでさえ、あの方向を見る気にはなれなかった。
今日見たものは、もう噂ではない。
山側を見た途端に反応を失った旅人も、自ら青白く光った黒い欠片も、山腹に刻まれた巨大な傷も、全部自分たちの目で確かめた。
それなのに、何一つ正体は分からない。
私は荷物の中にある記録用の紙へ手を触れた。
答えを探す場所は、ここではない。
世界一の大図書館。
そして、古代の遺跡や幻の生き物を調べているというメロウ。
今日見たものを忘れず、そこまで持っていけばいい。
今はそれで十分だった。
「行こう」
私が言うと、オラクルが地図を開いた。
「少し休んでからな。この先はもう通常の街道だ。今日は無理せず、次の宿場まで行く」
「うん」
グライツへ続く道は、ようやく再び動き始めた。
私たちは答えを手に入れる為、木製の柵を越えて安全区域へ入ると、張り詰めていたものが一気にほどけた。
後ろからフランとリリィも入ってくる。オラクルはすでに柵の内側にいて、肩にはメリーがいる。全員揃っていることを確認してから、私はようやく足を止めた。
右足に痛みはない。
フランも右腕を気にする様子はなく、リリィにも怪我はない。メリーは私の肩にしがみついたまま、今まで我慢していた息を全部吐き出すように大きく息をついた。
『……疲れた』
「ずっと肩に乗ってただけじゃん」
『見ないようにするの、すっごく疲れるんだよ』
「それは……分かる」
思わず頷いた。
戦っていない。
走ってもいない。
それなのに、長い戦いを終えたあとのように身体の奥まで疲れている。何があるのか分からない山を意識しながら、見たい気持ちを抑え、黒い欠片が光っても立ち止まらず歩き続ける時間は、想像していたよりずっと長く感じられた。
フランも小さく息を吐きながら右腕を確かめる。
「俺も戦ったあとみたいな感じする。でも腕は大丈夫」
「足は?」
今度はリリィが私に尋ねた。
「大丈夫。ちょっと疲れたけど、痛くないよ」
「ならよかった」
リリィはそこで初めて表情を緩めた。
その直後、何かを確かめるように後ろへ顔を向けかける。
でも途中で止めた。
「見ないの?」
私が聞くと、リリィは少し考えてから首を横へ振った。
「今はいい。さっきまでなら見たかったけど、もう一回確かめたいとは思わない」
その気持ちは私にも分かった。
橋の上では、あれほど知りたかった。
若い旅人は何を見たのか。
山の上に何があるのか。
昨日から続く青白い光はどこから生まれているのか。
それを確かめれば答えへ近づけるような気がしていた。
でも、今は違う。
見なくてよかった。
黒い欠片へ近づかなくてよかった。
誰一人おかしくならず、全員でここまで来られてよかった。
その気持ちのほうが、好奇心よりずっと強かった。
「メリー、もう飛んでも大丈夫じゃない?」
声を掛けると、メリーが恐る恐る顔を上げた。
『本当?』
オラクルが周囲を確認する。
「ここから先は上空への注意も解除されてる。山側へ戻らなきゃ構わねえよ」
『やった!』
メリーはようやく私の肩から離れ、ふわりと宙へ浮かんだ。
最初はいつもより低い。
それでも異変がないと分かると、少しずつ高度を上げ、最後にはいつもの高さで両腕を大きく広げた。
『飛べる!』
「そんなに嬉しい?」
『ずっとフールしか見てなかったんだもん!』
「そんな嫌そうに言わなくてもいいじゃん!」
『嫌じゃないよ! でも景色も見たい!』
「私の顔も景色みたいなもんじゃん」
『違うよ!』
即答された。
フランが吹き出し、リリィも笑う。
いつものメリーの声だった。
それを聞いて、ようやく私も笑えた。
オラクルも少しだけ表情を緩めたものの、すぐに地図を取り出した。
「とりあえず休むぞ。フールとフランの怪我も確認する。ここから先は通常の街道だが、今日は無理して距離を稼がねえ」
誰も反対しなかった。
検問所の脇には、通行者が休めるよう簡単なベンチと水場が用意されていた。私たちはそこで荷物を下ろし、水を飲みながらしばらく身体を休ませることにした。
座って初めて、自分の脚に思っていた以上の力が入っていたことに気づく。
右足を軽く動かしてみる。
痛みはない。
ただ、橋を渡っている間ずっと身体を固くしていたせいか、太腿まで少し張っていた。
「無理しなくてよかったでしょ」
リリィが言う。
「うん。走らなくてよかった」
自分から認めると、オラクルがこちらを見る。
「何?」
「いや、成長したなと思って」
「最近そればっかり!」
フランとリリィが笑った。
メリーまで空中で笑っている。
『フール、ちょっとだけ大人になった!』
「メリーよりは最初から大人だよ!」
『私のほうがしっかりしてるときあるよ?』
「今日だけでしょ!」
『橋でも私が止めた!』
言い返せなかった。
「あれは……ありがとう」
素直に言う。
メリーは一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに笑った。
『どういたしまして!』
もしメリーが止めてくれなかったら。
ほんの一瞬だけ、そんな考えが浮かぶ。
私は本当に山側を見ていたかもしれない。
若い旅人のように動けなくなっていたかもしれない。
そう思うと、改めて背中が冷たくなった。
仲間がいたから止まれた。
一人だったらどうなっていたか分からない。
「さっきの人、大丈夫かな」
フランが呟いた。
私も気になっていた。
「兵士がついてたから、大丈夫だと思うけど……」
「検問所の人に聞いてみる?」
リリィが言う。
オラクルは少し考えたあと首を横へ振った。
「今は向こうも忙しい。命に関わる症状は確認されてねえって朝聞いてるし、俺たちが戻っても邪魔になるだけだ。気になるなら、次の宿場で情報が入ってないか確認すりゃいい」
「うん」
戻らない。
その判断にも、もう反対する気はなかった。
私は荷物から記録用の紙を取り出した。
忘れないうちに、今日自分たちで確認したことを書いておきたかった。
《石橋――橋そのものに大きな損傷なし》
《山側を見上げた旅人――一時的に反応低下。本人は見たものを説明できず》
《危険区域――焼損が点在。通常の延焼とは異なる》
《黒い欠片――日光のない場所でも青白く発光》
《発光は一度ではない。兵士が時間を記録》
《山腹――広範囲に大きな抉れ。木々が中心から外側へ倒れたように見える》
最後に少し迷ってから、もう一行書く。
《メリー――危険区域全体に、既知の魔法とは異なる違和感》
「私のも書いた?」
メリーが飛んでくる。
「書いたよ」
『何て?』
読み上げる。
メリーは満足そうに頷いた。
『忘れないね』
「うん。グライツに着いたら調べる」
紙を見つめる。
昨日まで、空から何かが落ちたという話は兵士の証言だった。
今は違う。
私たちは自分の目で見た。
山腹に残された巨大な傷。
街道へ散らばった黒い欠片。
その内部を走った青白い光。
山を見たことで、まるで意識を抜かれたようになった旅人。
それなのに、正体へ近づいたという感じはしなかった。
むしろ実際に見たことで、分からないことの大きさが増したように思う。
「ねえ、オラクル」
「何だ?」
「黒い欠片って、大図書館に同じものがあるかな」
「分からねえ。ただ、調べる場所としては今までで一番可能性があるだろうな」
「メロウなら?」
「それも会ってみねえと分からん。古代遺跡や幻の生き物を調べてるって話が本当なら、何か知ってる可能性はある」
私は頷いた。
ここで答えを探す必要はない。
むしろ、ここで勝手な答えを作らないために大図書館へ行く。
二体目の幻獣種について知るため。
フランがアルトやリザーメイトについて調べるため。
私がお父さんとお母さんへ繋がる手掛かりを探すため。
そして今は、黒い欠片と空の異変について調べるという目的も加わった。
旅の途中で、知りたいことが増えていく。
それは少し怖い。
でも、同時に先へ進みたいという気持ちも強くなった。
休憩を終え、私たちは再び荷物を背負った。
オラクルが地図を確認する。
「今日はこの先の小さな宿場までだ。日が落ちる前には着ける。そこで一泊して、明日からまたグライツを目指す」
「あと何日?」
「順調なら数日だ」
「数日……」
遠いと思っていたグライツが、急に近く感じられた。
世界一の大図書館。
どれほど大きいのだろう。
どれほどたくさんの本があるのだろう。
幻獣種について書かれた本もあるだろうか。
私の両親について何か残っているだろうか。
考え始めると、さっきまで胸の中を占めていた恐怖の隣に、少しずつ楽しみが戻ってきた。
「行こう」
私から言った。
メリーがすぐ隣へ飛んでくる。
『グライツ!』
「今日はまだ着かないよ」
『でも近づく!』
「そうだね」
それでいい。
今日、私たちは答えを見つけたわけではない。
危険区域を通り抜け、新しい謎をいくつも抱えただけだった。
それでも、誰一人欠けることなく石橋を越えた。
黒い欠片にも触れなかった。
見てはいけないものを、無理に見ようともしなかった。
――最後はちょっと危なかったけれど。
私はメリーを見る。
メリーもこちらを見ていた。
『もう見ようとしちゃ駄目だよ』
「分かってるって」
『約束』
小さな手が差し出される。
私は人差し指を伸ばし、メリーの手へ軽く触れた。
「約束」
メリーが笑った。
そのまま私たちは、グライツへ続く街道を歩き始めた。
山はもう振り返らなかった。
今はまだ、あそこで何が起きたのか分からない。
黒い欠片が何なのかも、青白い光が何を意味するのかも知らない。
ただ、あの欠片の形と光だけは忘れないと思った。
いつか同じものをもう一度見たとき、きっと今日のことを思い出す。
そのとき初めて、石橋の向こうで私たちが何の痕跡を見ていたのか分かるのかもしれない。
今の私には、その答えがずっと先で待っていることなど知る由もなかった。




