第153話 石橋の向こう
その夜、私は何度か目を覚ました。
二度目に見た光と、少し遅れて届いた低い音が頭に残っていたせいだと思う。風が窓を揺らしただけでまた何か起きたのではないかと思い、遠くで馬の蹄が鳴れば橋から兵士が戻ってきたのではないかと耳を澄ませてしまう。
結局、それ以上の異変には気づかないまま朝を迎えた。
ベッドの上で身体を起こし、いつものように右足を確認する。昨日より疲れは抜けていて、足首を動かしても痛みはなかった。
隣ではフランも右腕の調子を確かめている。
「どう?」
「大丈夫。昨日より軽いよ」
「短剣は?」
「振らない」
私が聞く前から答えられた。
「偉い」
「だから何でフールに褒められるんだろう」
少し笑う。
昨夜あんなことがあったのに、朝になればいつもの会話ができる。それだけで少し安心した。
メリーはまだ布団の中だった。
小さな身体を丸め、掛け布団から頭だけ出している。
「メリー、朝だよ」
『あとちょっと……』
「珍しいね」
『昨日、夜中に起きたから眠いの……』
私たちと一緒に光と音を確認していたのだから当然かもしれない。
リリィがメリーの布団を少しだけめくる。
「朝ご飯なくなるよ」
『起きる!』
一瞬だった。
「食べ物で起きるんだ」
『大事だよ!』
元気そうなので安心した。
全員で一階へ下りると、食堂にはすでに大勢の人が集まっていた。
昨日までとは空気が違う。
誰も大声で橋の噂を語っていない。
西側の鎧戸は昨夜から閉ざされたままで、客たちは時々そちらを気にしながら食事をしている。昨日までは「巨大な魔物が出た」「橋が壊れた」と好き勝手な話が飛び交っていたのに、実際にあの光と音を経験したことで、軽々しく話せなくなったのかもしれない。
私も同じだった。
分からないものを想像するのは楽しいこともある。
でも昨日の光は、想像ではない。
私自身が見た。
それでも正体は分からない。
その違いは大きかった。
朝食の席へ着くと、オラクルが昨日までの記録をテーブルへ出した。
「今日は順番を変えるぞ」
「何から?」
リリィが聞く。
「兵士だ。昨日までは現場が混乱してたから避けたが、一晩経っても封鎖を続けるなら、そろそろ旅人や商人にも何か説明する必要が出てくる。全部は無理でも、道を通れるかどうかくらいは聞けるだろ」
「橋へは行かない?」
私は念のため聞いた。
オラクルが無言でこちらを見る。
「聞いただけだよ!」
「昨日あれだけ言っただろ」
「分かってるって」
メリーがパンを食べながら私を見る。
『フール、行きたいの?』
「気にはなるよ」
『私も』
「メリーまで?」
『だって空が光ったんだよ? 何だったのか見たい』
同じだった。
でもメリーは少し考えてから続ける。
『でも、行っちゃ駄目なんだよね』
「うん」
『じゃあ行かない』
あっさりしていた。
「メリーのほうが聞き分けいいな」
オラクルが言う。
「私だって行かないよ!」
「分かった分かった」
絶対信じていない。
朝食を終えるころ、宿の外が騒がしくなった。
昨日のような警戒の鐘ではない。人が一方向へ動いている音だった。
宿の主人が入口から顔を出し、すぐ食堂へ戻ってくる。
「兵士が広場で説明するらしいぞ!」
客たちが一斉に立ち上がった。
私も反射的に立ち上がったけれど、走らない。
リリィに言われる前に普通に歩き出す。
「何も言ってないよ」
「分かってる」
「今、私が注意すると思ったでしょ」
「ちょっとだけ」
「ちゃんと歩いてるならいい」
最近、リリィが私の保護者みたいになっている気がする。
広場にはすでに大勢の人が集まっていた。
商人や冒険者、旅人、宿の主人たちまでいる。中央には兵士が五人並び、その中には昨日、泥だらけで戻ってきた兵士から報告を受けていた男もいた。
他の兵士とは胸元の徽章が違う。
指揮官なのだと思う。
男が手を上げると、ざわめきが少しずつ収まった。
「現在、北西街道および石橋周辺は引き続き通行禁止とする」
最初の一言だけで不満の声が上がった。
「いつまでだ!」
「こっちは商売なんだぞ!」
「荷物を届けられねえ!」
指揮官は怒鳴り返さず、声が落ち着くのを待った。
「不便を掛けていることは理解している。しかし現在も安全確認が完了していない。許可なく封鎖区域へ入った者については、保護を保証できない」
広場の声が少し小さくなった。
保護を保証できない。
ただ「入るな」と言われるより、ずっと重く感じた。
商人の一人が声を上げる。
「橋が壊れたのか!」
「石橋そのものに重大な損傷は確認されていない」
オラクルの目つきが変わった。
私も同じだった。
橋は残っている。
なら、グライツへ続く道そのものがなくなったわけではない。
「じゃあ何で通れない!」
別の男が叫ぶ。
指揮官は少し間を置いてから答えた。
「石橋より西側の山中で、原因不明の落下物が確認された」
広場が大きくざわついた。
私の胸も跳ねる。
今度は旅人から聞いた噂ではない。
兵士側が正式に《落下物》と認めた。
「空からか!」
誰かが叫ぶ。
指揮官はすぐには答えなかった。
「現時点で、どこから来たものかは確認できていない。落下地点は石橋からさらに西へ離れた山中で、街道へ直接落下したものではない。石橋にも直撃していない」
少しだけ安心した。
少なくとも橋が落下物に潰されたわけではない。
指揮官は説明を続ける。
「ただし落下地点周辺では地面の崩落と広範囲の焼損が確認されている。現在、調査隊が安全範囲を確認中だ。旅人が誤って現場へ近づく危険があるため、石橋と周辺街道を一時的に封鎖している」
迂回路まで止められていた理由も、これなら分かる。
橋だけを守っていたのではない。
人を落下地点へ近づかせないため、周辺全体を閉じていたのだ。
「じゃあグライツへ行く街道は無事なんだな!」
「現時点で確認できている範囲では、街道本線に大きな損傷はない」
広場の空気が少し変わった。
道そのものが残っているなら、封鎖が解除される可能性がある。
「いつ通れる!」
当然の質問が飛ぶ。
「今日中に安全確認を進める。通行再開については、その結果を見て判断する」
今日中。
私はオラクルを見る。
「待つ?」
「ああ。今日中に結果が出るなら、知らねえ山道を迂回するより待ったほうが安全だ」
すぐに答えが返ってきた。
私も異論はなかった。
でも、まだ疑問が残っている。
昨夜の光。
少し遅れて届いた低い音。
山中へ何かが一度落ちただけなら、どうしてそのあとも異変が続いているのだろう。
同じ疑問を持った人がいた。
「昨日の夜も空が光ったぞ!」
広場の後方から声が飛んだ。
「落下物と関係あるのか!」
指揮官の表情がわずかに硬くなった。
隣でリリィが小さく言う。
「今、顔変わった」
私には一瞬すぎて分からなかった。
でも、リリィは人を追うときに表情や仕草を見ることにも慣れている。
オラクルも気づいていたらしい。
「見てたか」
「うん」
指揮官はすぐに表情を戻した。
「昨夜確認された発光現象についても調査中だ。落下物との関連は、現時点では確認されていない」
関連がない、とは言わなかった。
まだ分からない。
そこは私たちと同じだった。
「音は?」
別の人が聞く。
「同様だ。原因は断定できていない」
説明はそこで終わった。
「安全確認が終わるまで封鎖区域には絶対に近づかないでほしい。特に街道を外れ、山中へ入る行為は禁止する」
人々はまだ不満そうだったものの、昨日までより状況が分かったことで、少しずつ広場から散り始めた。
私たちはすぐには動かなかった。
オラクルが地図を開き、今分かったことを整理する。
「橋は無事。街道本線も大きな損傷なし。落下地点は橋より西側の山中。地面の崩落と焼損あり。発光と音との関連は不明。調査結果は今日中」
私も同じ内容を紙へ書いた。
「昨日よりだいぶ分かったね」
フランが言う。
「ああ。少なくとも、グライツへの道そのものが消えたわけじゃねえ」
「じゃあ今日は待つだけ?」
「基本はな。無駄に歩き回らず、お前ら二人の怪我も休ませる」
そのときだった。
リリィが突然、広場の端へ視線を向けた。
「待って」
「どうしたの?」
「あの兵士、何か持ってる」
若い兵士が一人、指揮官のいた場所から広場脇の建物へ向かっていた。
両手には、厚い布で幾重にも包まれたものを抱えている。大きさは私の手のひらより少し大きいくらい。
リリィが目を細める。
「持ち方が変。身体から離してる」
言われてみれば、普通の荷物を運んでいるようには見えなかった。
兵士は厚い革手袋を着け、布包みを落とさないよう両手で慎重に支えている。
メリーが私の肩からふわりと浮かび上がった。
『何だろう。ちょっと見てくる? 私なら小さいから近くまで――』
「駄目だ」
オラクルがすぐ止めた。
『まだ行ってないよ!』
「行くつもりだっただろ」
『遠くから見るだけ!』
「兵士があれだけ慎重に扱ってるもんへ勝手に近づくな」
メリーは頬を膨らませた。
でも勝手には行かなかった。
私の頭の近くまで戻ってくる。
『でも、あれ変だよ』
「何が?」
メリーは布包みを見ながら、小さく首を傾げた。
『分かんない。でも……何にもない感じじゃない』
「魔力?」
『それとも違うと思う』
メリーは言葉を探している。
『魔法を使ってる感じじゃないの。でも、近づきたい感じもしない』
私はオラクルを見る。
オラクルはメリーの感覚を否定しなかった。
「覚えとく。ただ、それ以上はまだ何も決めねえ」
『うん』
そのとき、兵士が布包みを持ち直した。
結び目がわずかにずれ、中身が一瞬だけ覗く。
黒い。
最初は石だと思った。
でも表面が妙に滑らかだった。
砕けた岩ならあるはずのざらつきがほとんどなく、薄い板のようにも見える。反対に端だけは不規則に欠け、何かもっと大きなものから剥がれ落ちたような形をしていた。
太陽の光が当たった。
黒い表面の奥に、青白い細い筋が一瞬だけ浮かんだ。
「今、光った?」
思わず声が出る。
「俺も見えた」
フランが答えた。
リリィは別の部分を見ていた。
「端が変」
「どういうこと?」
「石が割れた感じじゃない。何かから剥がれたみたい」
もう一度確認しようとしたときには、兵士が布を直していた。
黒いものは完全に隠れる。
メリーが私の耳元へ寄ってきた。
『フール。光ったとき、さっきより変な感じした』
「怖い?」
『うーん……』
メリーは本気で考えた。
『怖いとはちょっと違う。知らないものが、そこにいるみたい』
物なのに《いる》。
その言い方が妙に頭へ残った。
「メリー、それ以上近づかないでね」
『うん。あれは触らない』
「珍しく素直だね」
『だって治療師さんに、分からないものへ勝手に触っちゃ駄目って教えてもらったもん。もし誰かがあれで怪我しても、何の怪我か分かる前に魔法使っちゃ駄目なんだよ』
少し驚いた。
メリーはちゃんと覚えている。
以前なら、怪我人を見た瞬間に治そうとしていたと思う。
「でも治していいって分かったら治す?」
『もちろん! いっぱい治す!』
「いっぱい使ってメリーが倒れたら駄目だよ」
メリーの動きが止まった。
『……それも言われた』
「忘れてたでしょ」
『ちょっとだけ』
思わず笑った。
緊張していた気持ちが少しだけ和らぐ。
その間にも、黒い包みを持った兵士は建物の中へ消えていった。
「落下物と関係あるのかな」
フランが言う。
「可能性はある」
オラクルが答えた。
「さっき指揮官のところから運んできた。聞く価値はある。ただし勝手に追うな」
今度は私だけではなく、メリーも見る。
「何で私も?」
『何で私も!?』
声が重なった。
リリィが吹き出した。
「二人とも同じ顔してる」
「してないよ!」
『してない!』
また重なった。
オラクルは呆れながらも、広場の人が減るまで待った。
それから一人の兵士へ声を掛ける。
今回はリリィも一緒だった。
私はフランとメリーと少し離れた場所で待つ。
メリーは、さっき黒いものが運び込まれた建物を何度も気にしていた。
『フール』
「何?」
『あれで誰か怪我したら、私に治せるかな』
さっきも似たことを言っていたけれど、今度は声に不安が混じっていた。
私はすぐには答えられなかった。
普通の怪我なら、メリーの回復魔法は頼りになる。でも、あの黒いものが何なのかさえ分からない。兵士が革手袋を着け、直接触れないよう運んでいた理由も不明だ。
「分かんない。だから、もし怪我した人がいても最初にちゃんと見るんでしょ?」
『うん。意識があるか、息できてるか、血が出てないかを見る。それから、何で怪我したのか分からないときは勝手に触らない』
メリーは指を一本ずつ立てながら、治療師から教わったことを確認していく。
以前なら、倒れている人を見つけた瞬間に飛んでいき、少しでも早く回復魔法を使おうとしていたと思う。それが今は、助けたいという気持ちはそのままなのに、助けるために何を確認すべきなのかまで考えるようになっていた。
「メリーも強くなってるね」
『魔法はまだそんなに強くなってないよ?』
「そうじゃなくて」
どう説明すればいいか迷っていると、フランが代わりに言った。
「前より上手に助けられるようになってるってことじゃない?」
メリーはしばらく考え、それから嬉しそうに笑った。
『じゃあ、もっと覚える!』
そのとき、オラクルとリリィが戻ってきた。
二人の表情を見るだけで、何か聞けたのだと分かる。特にリリィは、さっき黒い欠片を見つけたときよりさらに真剣な顔をしていた。
「どうだった?」
「落下地点の近くで回収されたものらしい」
オラクルは私たちのところまで戻ると、声を少し落とした。
「ただし、《落下物そのものの欠片》だとはまだ確認されてねえ。落下地点の周辺に散らばってた正体不明の物体。その一つを調査隊が持ち帰ったって話だ」
「じゃあ、あれが空から落ちたかどうかも分からない?」
「ああ。元から山にあった可能性まで含めて、まだ調べてる途中だ」
私は頷いた。
また一つ、勝手に答えを作りそうになっていた。
リリィが続ける。
「でも、一個だけじゃないみたい。同じような黒いものが、落下地点の周りで何個か見つかってるって」
「全部同じ形?」
「そこまでは教えてもらえなかった。ただ、大きさは違うみたい」
「石じゃないの?」
フランが尋ねた。
オラクルは首を横へ振る。
「少なくとも兵士は岩石じゃねえって言ってた。金属みてえに見えるが、調査隊の連中が知ってる金属とも違うらしい。正体が分かるまでは直接触るなって指示が出てる」
メリーがすぐ両手を後ろへ隠した。
『絶対触らない』
「さっきまで見に行こうとしてたのに」
『見るのと触るのは違うもん!』
「近づいたら触りたくなるかもしれないでしょ」
『ならないよ!』
少し間が空く。
『……たぶん』
「メリーまでそれ言うようになった!」
私が思わず声を上げると、フランとリリィが笑った。
オラクルだけは呆れた顔をしている。
「似なくていいところばっか似やがって」
緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
でも、リリィはすぐに黒い欠片の話へ戻した。
「私、さっき見えた端のことも聞いてみた」
「何て?」
「調査隊も同じところを気にしてるみたい。見つかった黒い物体の中には、端が不自然に欠けてるものがあるって」
リリィは自分の両手を使い、形を説明する。
「石が砕けたみたいに全部ばらばらじゃなくて、片側だけ滑らかで、反対側が割れてるものがいくつかあるらしいの。だから、何か大きなものの一部だった可能性も調べてるって」
「何か大きなもの……」
口にしただけで、頭の中に色々な姿が浮かびそうになる。
巨大な魔物。
空を飛ぶ何か。
古代の道具。
でも、どれも想像でしかない。
「そこまでだ」
オラクルも同じことを考えたのか、私が余計な想像を口にする前に止めた。
「《何か大きなものの一部かもしれない》ってのも調査隊の仮説だ。まだ確定じゃねえ」
「分かってる」
今度は本当に分かっていた。
私は紙を取り出した。
《落下地点周辺――黒い物体を複数回収》
《岩石ではない。金属のようにも見えるが正体不明》
《大きさは一定ではない。一部に不自然な破断面》
《直接接触は禁止》
そこまで書き、少し考える。
メリーが感じた違和感はどうしよう。
「メリーのは?」
本人が先に聞いた。
「書いていいかな」
オラクルは少し考えた。
「事実と混ぜなきゃな。《メリーが違和感を覚えた》って、そのまま残せ。魔力があるとか危険だとかは書くな」
「うん」
最後に一行加える。
《メリー――黒い物体に通常の魔法とは異なる違和感。ただし正体不明》
メリーが横から覗き込む。
『私の名前ある!』
「そこ喜ぶところ?」
『冒険してる感じする!』
さっきまで不安そうだったのに、もう少し嬉しそうだった。
私は紙を見直した。
黒い欠片。
昨日までは存在すら知らなかったもの。
空から何かが落ちたという兵士の証言があり、その落下地点とされる場所の周囲から正体不明の黒い物体が複数見つかった。
しかも、兵士たちにも材質が分からない。
メリーも何か違和感を覚えている。
それでも、今ここでできることはない。
「大図書館なら分かるかな」
私が言うと、今度はオラクルも否定しなかった。
「こういうときこそ図書館だろうな。俺たちが見ても分からねえもんを、想像だけで決めつけても仕方ねえ。似たものが昔にも見つかってねえか記録を探す。それでも分からなきゃ、知ってそうな奴に聞く」
「メロウ?」
「あいつが本当に古代遺跡や昔の生き物を調べてるなら、聞く価値はある」
その名前を聞いた瞬間、別々だった目的が少しだけ近づいた気がした。
私たちはもともと、二体目の幻獣種について知るためにメロウを探している。
その途中で、空に関する古い記録を知った。
そして今度は、グライツへ向かう道の途中で正体不明の落下物と黒い欠片に出会った。
全部が繋がっているとは限らない。
むしろ今は、繋げないほうがいい。
でもグライツへ着いたら、一緒に調べられる。
私は紙の最後へ一行だけ書いた。
《黒い物体――グライツ大図書館で類似記録を確認。可能ならメロウにも聞く》
「これなら?」
「ああ。それでいい」
オラクルが頷いた。
私たちは宿へ戻った。
今日中に安全確認を進めると兵士が言っていた以上、今は結果を待つしかない。知らない山道へ迂回するより、橋と街道が安全だと確認されるのを待ったほうがいい。
昼食を取るころには、兵士の説明を聞いた人たちが宿へ戻ってきたことで、食堂でも落下物の話が増えていた。
「山に巨大な穴が開いたらしい」
「黒い金属が降ってきたんだってよ」
「いや、魔物の鱗だって話だ」
「俺は古代兵器の破片って聞いたぞ」
また始まった。
私は一瞬だけ聞き耳を立てたけれど、今度は紙を出さなかった。
オラクルが気づく。
「書かねえのか?」
「誰が見たのか分かんないから」
「成長したな」
「今日二回目だよ、それ」
「前が酷かったからな」
「そこまで!?」
メリーが横から口を挟む。
『フール、何でも信じてたもんね』
「メリーまで!」
『私もだけど!』
それなら仲間だった。
リリィは笑いながらも、周囲の会話を完全に無視しているわけではなかった。誰がどこから聞いたのか、同じ話がどの席から広がっているのかを観察している。
「リリィは聞いてるじゃん」
「噂の中身より、どこから広がってるか見てる」
「何か分かる?」
「黒い金属って話と魔物の鱗って話、たぶん同じ人から始まってる」
「全然違うじゃん!」
「だから噂なんでしょ」
なるほど。
一つの黒い欠片が、見る人によって金属にも鱗にもなる。
昨日の光の色と同じだ。
実際に見たものと、そこから考えたことは別にしなければならない。
午後は部屋で休むことになった。
私は右足を休ませながら《幻獣種召喚の本》を開き、メリーは治療師から教わったことを自分なりに紙へ書いている。
「何書いてるの?」
『もし黒いのに触った人が怪我したら、最初に見ること!』
紙には大きな文字で、
《さわらない》
《いきをみる》
《いしき》
《いたいところきく》
と書かれていた。
「ちゃんと覚えてるね」
『うん! それで分からなかったら、勝手に治さない!』
「偉い」
『えへへ』
今度は素直に褒められていた。
リリィは窓から外を見るのではなく、テーブルで追跡用の道具を手入れしていた。細い糸、小さな布、目印に使う道具を一つずつ確認している。
「リリィも休まないの?」
「これくらいなら休んでるのと同じ」
「オラクルみたいなこと言ってる」
「それは嫌」
「何でだよ」
少し離れた場所からオラクルの声が飛んできた。
フランは左手で短剣を抜く練習をしようとして、すぐ止められた。
「今日は休め」
「抜くだけだよ」
「昨日夜中に起きただろ。寝不足で練習して何になる」
フランは不満そうだったけれど、結局短剣から手を離した。
何もしていないような時間だった。
でも今は、それでいい。
TIMEのような相手と戦うことになれば、休みたいときに休めるとは限らない。幻獣種を探す旅だって、何が起こるか分からない。
安全な場所で休めるなら休む。
それも、旅を続けるために必要なことだ。
夕方が近づいたころ、宿場町の外が急に騒がしくなった。
私は反射的に立ち上がりかけたが、昨日のような警戒の鐘が鳴っていないことに気づいて止まった。
リリィも耳を澄ませる。
「悲鳴じゃない。人が広場へ集まってるみたい」
オラクルが立ち上がった。
「調査結果かもしれねえ。行くぞ。ただし走るな」
「分かってる!」
メリーが真っ先に飛び上がる。
『私は飛んでいい?』
「置いてかれねえ程度にな」
『やった!』
全員で広場へ向かった。
朝と同じ指揮官が中央に立っている。
ただ、人々の表情は朝とは違っていた。
不安だけではない。
何かを期待している。
指揮官が声を張った。
「本日の調査により、石橋および北西街道本線について、通行に直接影響する損傷がないことを確認した」
広場が一気にざわついた。
商人たちが前へ出る。
「じゃあ通れるのか!」
「明日荷物を出せるんだな!」
指揮官が手を上げる。
「最後まで聞いてほしい。落下地点周辺については引き続き立入禁止とする。また通行再開後もしばらくは、兵士の誘導に従ってもらう」
私は息を呑んだ。
通行再開後。
つまり、道を開けるつもりがある。
「問題が発生しなければ、明朝より石橋および北西街道の通行を段階的に再開する」
歓声が上がった。
商人たちが喜び、冒険者たちは互いの肩を叩いている。
私も思わずフランの腕を掴みかけ、途中で止めた。
右腕だった。
「あぶなっ」
「今のは偉い」
フランが笑う。
左腕を掴み直す。
「明日行けるよ!」
「うん」
メリーも私たちの周りを飛び回る。
『グライツ行ける! 図書館行ける!』
「まだ明日ね」
『じゃあ今日いっぱい寝る!』
「それはいつもでしょ」
リリィも笑っていた。
ようやく進める。
世界一の大図書館へ。
メロウへ。
二体目の幻獣種へ繋がるかもしれない手掛かりへ。
でも、オラクルだけはまだ指揮官を見ていた。
「まだ終わってねえ」
「え?」
歓声が少し落ち着くのを待ち、指揮官が再び声を上げた。
「通行に際し、必ず守ってもらいたいことがある。石橋を越えた先、山側へ入る道は引き続き封鎖する。街道から外れることも禁止だ。兵士の指示がある場所では立ち止まらず、速やかに通過してほしい」
落下地点へ近づかせないためだろう。
そこまでは理解できた。
指揮官はさらに続ける。
「そして、もう一つ」
声が少し低くなった。
「石橋を越えてから次の検問所へ到着するまで、山側を見上げないでほしい」
広場の歓声が消えた。
メリーの羽音まで止まった。
『……見ちゃ駄目なの?』
小さな声だった。
リリィも指揮官から目を離さない。
「また同じだ」
朝聞いた兵士。
昨日戻ってきた兵士。
そして今度は、正式な注意として全員へ告げられた。
誰かが当然の疑問を叫んだ。
「何でだ! 何がある!」
別の声も重なる。
「昨日の光と関係あるのか!」
「落下物は一個じゃないのか!」
指揮官は答えなかった。
広場に集まった人々をしばらく見渡してから、慎重に言葉を選ぶように続ける。
「昨日確認された発光現象、および落下地点周辺で発生している異常については現在も調査中だ。山側を見上げる行為そのものに危険があると断定されたわけではない。しかし現地の兵士から複数の異常報告が出ている以上、安全が確認されるまでは指示に従ってほしい」
「異常報告って何だ!」
すぐに声が飛んだ。
「見たらどうなる!」
「昨日戻ってきた兵士と関係あるのか!」
指揮官の表情は変わらなかった。
「詳細は公表できない。明日通行する者には、出発前に改めて注意事項を説明する。石橋から次の検問所までは兵士を配置するため、必ずその誘導に従ってほしい」
それ以上は答えなかった。
当然、広場はざわついた。
道が開くと喜んでいた人たちの中にも、急に不安そうな顔をする人が増えている。「見上げるな」と言われれば、そこに何があるのか知りたくなるのが普通なのだと思う。
私だって同じだった。
むしろ、ものすごく気になる。
けれど昨日から見てきた兵士たちの様子を思い出すと、確かめるためだけに命令を破ろうとは思えなかった。
「メリー」
隣を見る。
さっきまで嬉しそうに飛び回っていたメリーは、今は私の肩へ降りていた。
『私、見ないよ』
「うん」
『飛ぶのもやめたほうがいい?』
その質問には、私も答えられなかった。
飛べるメリーは、私たちより高い位置へ簡単に行ける。本人が山を見ようとしなくても、飛んでいる途中で何かが視界へ入る可能性はある。
オラクルも同じことを考えたらしい。
「橋を渡る間は飛ぶな。フールかリリィの肩にいろ」
『分かった』
メリーは嫌がらなかった。
むしろ少し安心したように、私の服を掴む。
リリィは指揮官を見ながら考え込んでいた。
「複数の異常報告って言った」
「ああ」
オラクルが頷く。
「昨日の兵士一人だけじゃねえってことだな」
「それに《見ると危険》とは言わなかった。《危険があると断定されたわけではない》って言った」
私はリリィを見る。
「それって違うの?」
「全然違うよ。見たら必ず何か起きるって分かってるわけじゃない。でも、何人かに変なことが起きたから、原因が分かるまで見ないでってことだと思う」
なるほど。
リリィは人の足跡だけではなく、話し方まで以前より細かく見るようになっている。
「じゃあ、明日は本当に見なければいいんだね」
「そうするしかねえ」
オラクルが答えた。
「分からねえ危険を試す必要はない。橋を渡って、街道を外れず、次の検問所まで兵士の指示どおり進む。それだけだ」
フランも頷いた。
「右腕もまだ完全じゃないしね。何か起きても今は無理して戦えない」
「私の足も」
自分から言った。
オラクルが少し驚いたようにこちらを見る。
「何?」
「いや。自分から言えるようになったなと思って」
「何回それ言うの!」
みんなが少し笑った。
張り詰めていた広場の中で、その一瞬だけ肩の力が抜けた。
それでも、黒い欠片のことは頭から離れなかった。
私は紙を取り出し、今日最後の情報を書き加える。
《明朝より北西街道・石橋を段階的に通行再開》
《山側への立入禁止》
《石橋から次の検問所まで、山側を見上げない》
その下には、少し前に書いた黒い物体の記録がある。
落下地点周辺から複数見つかった、岩でも既知の金属でもないもの。
不自然な破断面。
一瞬だけ見えた青白い筋。
そして、メリーが感じたという通常の魔法とは違う違和感。
「明日、あの黒いのが落ちてた場所の近くを通るんだよね」
私が言うと、オラクルは地図を開いた。
「正確な落下地点は教えられてねえ。ただ、石橋より西の山中って話だから、ある程度は近くを通ることになる」
「見えたりするかな」
「見ようとすんな」
即答された。
「聞いただけだよ!」
「先に言っとく。黒い欠片が落ちてても拾うな。光ってても触るな。珍しいもんが見えても街道から外れるな」
「分かってるって!」
オラクルは次にメリーを見る。
『私も拾わないよ!』
まだ何も言われていないのに先回りした。
「よし」
『でも落ちてたらフールに教える』
「教えるだけならいいんじゃない?」
「拾うなよ」
「拾わないよ!」
リリィが笑っていた。
「二人まとめて注意されてる」
「リリィだって変な足跡見つけたら追いたくなるでしょ」
「……それは」
止まった。
「ほら!」
「でも追わないよ」
「私だって拾わない!」
結局、全員同じなのかもしれない。
気になるものを見つけたら確かめたい。
知らないものがあれば知りたい。
だから旅をしている。
でも今は、それ以上に大切なことがある。
無事に旅を続けること。
そして、グライツへ辿り着くこと。
広場から宿へ戻るころには、明日の準備を始める商人たちで町全体が騒がしくなっていた。馬車の車輪を確認する者、荷物を積み直す者、食料を買い足す者。さっきまで足止めされていた人たちが、一斉に前へ進む準備を始めている。
私たちも同じだった。
宿へ戻ると、オラクルは明日の行動を全員で確認した。
朝早く出る。
石橋までは通常どおり進む。
検問所では兵士の指示を必ず聞く。
橋を越えたあとは街道から外れない。
山側を見上げない。
メリーは飛ばない。
私とフランは少しでも怪我に違和感が出たら、その場で申告する。
「それと」
オラクルが全員を見る。
「何か見つけても、勝手に触るな」
私とメリーが同時に答えた。
「分かってる!」
『分かってる!』
フランが吹き出す。
リリィまで笑った。
「息ぴったり」
「嬉しくない!」
『私は嬉しいよ!』
「メリー!」
笑いながら荷物をまとめる。
久しぶりに、明日は前へ進める。
それが嬉しかった。
でも、以前の旅立ちとは少し違う。
目的地へ近づく楽しみと、道の先にあるものへの不安が同時にあった。
夜になり、眠る前に私は《聖なるマップ》を開いた。
第二宿場まで続いている道。
その先。
古い石橋を越え、さらに西へ延びる道の向こうにグライツ王国がある。
まだ遠い。
でも確実に近づいている。
私は指先で道をなぞった。
「明日、ここ進むんだ」
『私も見る!』
メリーが横から顔を出す。
「橋のあとは飛んじゃ駄目だよ」
『覚えてるよ。フールの肩にいる』
「落ちないでね」
『フールが転ばなければ大丈夫!』
「私のせい!?」
『右足気をつけてね』
「メリーに言われた……」
二人で笑った。
そのまま《聖なるマップ》を閉じようとして、私は少しだけ手を止めた。
今日見た黒い欠片が頭に浮かぶ。
黒い表面。
割れたような端。
光が当たった一瞬だけ、内側に浮かんだ青白い筋。
あれは何だったのだろう。
石でもない。
兵士たちの知る金属でもない。
メリーは「知らないものがそこにいるみたい」と言った。
大図書館へ着けば、似たものが記録されているだろうか。
メロウなら知っているだろうか。
答えはまだない。
だから私は、冒険アルバムに挟んだ紙へ最後の一文だけ書き足した。
《黒い欠片――忘れない》
それだけでいい。
今は答えを付けない。
明日、私たちは石橋を渡る。
黒い欠片が見つかった落下地点の近くを通り、山側を見上げることを禁じられたまま、グライツへ続く道を進む。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、それ以上に先へ行きたかった。
世界一の大図書館。
メロウ。
二体目の幻獣種。
フランが知りたい過去。
私が探している両親。
そこへ近づくための道が、ようやく明日また動き始める。
私は《聖なるマップ》を閉じ、枕元へ置いた。
窓の外は静かだった。
今夜は光も見えない。
低い音も聞こえない。
だからこそ、昨日までの出来事が夢だったようにも思えた。
けれど、紙に残した黒い欠片の記録が、それを否定している。
明日の朝。
私たちは石橋を渡る。
そしてその先で――空から落ちてきたものが残した痕跡を、自分たちの目で見ることになる。




