第151話 閉ざされた街道
翌朝、目を覚まして最初に確かめたのは右足だった。
ベッドの上で足首をゆっくり回してから床へ下ろし、慎重に体重を掛ける。昨日の夜まで残っていた重さはかなり薄れていて、部屋の中を何度か歩いてみても痛みはない。
それでも、完全に治ったわけではなかった。
昨日は一日歩いただけで、宿へ着くころには足首の奥へ疲れが溜まっていた。治療師からも「旅を再開していいことと、治ったことは別です」と何度も念を押されている。痛くなるまで我慢するのではなく、その前に休むことまで含めて今の私には必要だった。
隣ではフランも右腕の状態を確かめていた。
「どう?」
「昨日と変わらないよ。寝たら重さも取れた。歩くくらいなら問題ないけど、短剣はまだ振らない」
フランは肩をゆっくり動かしたところで止め、それ以上試そうとはしなかった。
「偉い」
「何でフールに褒められるんだろう」
「私だって今日は走らないよ」
「今日は?」
「……今日も」
危なかった。
フランに笑われながら荷物をまとめ、一階へ下りると、オラクルとリリィはすでに起きていた。メリーはテーブルの端へ座り、朝食のパンを自分の身体に合わせて小さくちぎっている。
その隣には、昨日と同じ地図が広げられていた。
ただし、オラクルが見ているのはグライツ王国そのものではない。
第一宿場から第二宿場へ続く街道。その先で北西へ折れる道。そして、グライツへ向かう途中にある古い石橋。
昨夜、食堂へ入ってきた三人の旅人が話していた《北西》《兵士》《橋》という言葉が、地図の上で一つの場所へ集まっていた。
「昨日の三人に聞くんだよね?」
席へ座ると、オラクルが頷いた。
「ああ。ただし最初から『何があった』って聞くんじゃねえ。まず本当に俺たちが使う道なのか確認する。どこから通れねえのか、第二宿場までは行けるのか、別の道があるのか。そのあとで原因だ」
リリィも地図へ身を寄せる。
「第二宿場は橋に近いから、そこまで安全に行けるなら進んだほうがいいと思う。第一宿場より新しい情報も入ってるはずだし、橋の向こうから来た人がいれば話を聞けるかもしれない」
オラクルは第二宿場を指先で軽く叩いた。
「今日ここへ行く目的は、ただ次の宿へ進むためじゃねえ。封鎖が今も続いてるか確認する。グライツへ行ける安全な別ルートがあるか調べる。それから、橋の周辺で何が起きたのか、できるだけ実際に見た奴から聞く。そこまで分かってから次を決める」
私は頷いた。
気になるから橋へ行くのではない。
私たちの目的地はグライツ王国で、そこへ安全に辿り着くために第二宿場へ行く。
順番を間違えない。
朝食が運ばれてきたころ、昨夜の三人も入口近くの席へ下りてきた。厚手の外套は昨日より乾き、疲れも少しは取れたように見える。ただ、荷物はすでにまとめられていて、食べ終われば東へ戻るつもりらしい。
三人の朝食が終わるのを待ち、頬に古い傷のある男が荷物へ手を伸ばしたところで、オラクルが声を掛けた。
「悪い。少し聞きたいことがある」
男が振り返る。
「何だ?」
「昨日、北西の道が通れねえって話してただろ。俺たちもグライツへ向かう予定なんだ。差し支えなきゃ、どこで止められたか教えてくれ」
男は私たちの旅装と地図を確認すると、椅子へ座り直した。
「グライツへ行くのか。だったら予定は少し考えたほうがいいかもしれねえな」
オラクルが地図を近づける。
「第二宿場までは?」
「問題ない。俺たちも一昨日泊まった。止められたのはその先だ」
男の指が第二宿場を越え、北西へ曲がる分岐を通り、その先にある古い石橋で止まった。
やはり昨夜聞こえた《橋》は、私たちが渡る予定だった場所だった。
「橋が壊れたの?」
「いや。俺たちが見たときには残ってた。止められたのは橋の手前だ。兵士が何人もいて、馬車も旅人も全部そこで引き返させてた」
オラクルが余計な推測を挟まず尋ねる。
「理由は?」
「『安全が確認できるまで通行禁止』。それしか教えなかった。南側から回れないか聞いても、迂回路まで使うなって言われたよ」
橋だけの問題なら、迂回路まで塞ぐ必要はない。
リリィがすぐに尋ねた。
「橋の向こうから来た人はいました?」
「旅人は見てねえ。馬車も一台も来なかった。ただ、兵士が二人戻ってきた。一人は腕に包帯を巻いてて、もう一人は服が泥だらけだったな」
そこで男の表情が少し変わった。
「若いほうの様子が妙だった」
「どう妙だった?」
オラクルが聞く。
「顔色が真っ青で、橋から離れてるのに何度も後ろを振り返ってた。もう一人が肩を掴んで止めても聞かなくてな。何度も『あんなもの、どこから来たんだ』って言ってた」
「何を見てたの?」
私が尋ねると、男は少し迷った。
隣の仲間が嫌そうな顔をする。
「おい。あれは怪我して混乱してただけかもしれねえだろ」
「だから、そのまま話せばいい。こいつら本当にあっちへ行くんだぞ」
頬に傷のある男は私たちへ向き直った。
「正式に聞いた話じゃない。橋で待たされてる間に、兵士同士が話してるのを偶然聞いただけだ。それでもいいか?」
「その前提で聞く」
オラクルの返事は早かった。
男は頷いた。
「もう一人の兵士が、若い奴に『上を見るな』って怒鳴ったんだ。そしたら若いほうが怒鳴り返した。『上を見るなって、どうしろっていうんだ。あれは空から落ちてきたんだぞ』ってな」
一瞬、誰も話さなかった。
空から落ちてきた。
何が。
どんな形で。
どれほど大きくて、そもそも生き物なのか。
何一つ分からない。
ただ、その言葉だけが妙に頭へ残った。
これまでにも、空に関する古い記録はいくつか出てきている。でも、今ここで結びつける理由はない。昔の伝承と、橋で起きている現在の異変は、同じだと分かるまでは別々に考える。
男はさらに続けた。
「あの二人が戻ったあと、警備が増えた。俺たちが着いたときより兵士の数が増えて、少ししてから迂回路まで塞ぎ始めたんだ」
そこは男たち自身が見たことだった。
負傷兵の発言が正しいかどうかは分からない。
でも、二人が戻ったあと警戒が強められたことは事実らしい。
オラクルはそれ以上、無理に話を広げなかった。
「十分だ。助かった」
「気をつけろよ。俺たちは今日、東へ戻る」
三人を見送ったあと、私は紙を取り出した。
《石橋周辺――通行封鎖。迂回路も使用不可》
《橋の向こうから負傷兵二名》
《負傷兵帰還後、警備増員》
《兵士一名――空から何かが落ちてきたと発言。正体不明》
そこまで書いて手を止めた。
幻獣種とは書かない。
古い伝承とも結びつけない。
ただ、空に関する情報が少しずつ増えている。
「これでいい?」
「ああ」
オラクルが紙を見る。
「似てる話があっても、今は混ぜるな。大図書館まで行けりゃ資料を調べられるし、メロウが見つかれば本人にも聞ける。今ここで答えを作る必要はねえ」
「うん」
私たちは朝食を終え、第一宿場を出発した。
昨日より空には雲が多かった。雨を降らせるような厚い雲ではなく、白と灰色が混ざった大きな雲が西から東へゆっくり流れている。
私は無意識に見上げていた。
「フール、また空見てる」
フランに言われて前を見る。
「ちょっとだけ」
「何かいた?」
もう一度だけ確認する。
小さな鳥が何羽か飛んでいるだけだった。
「何もいない」
「なら行こう」
今日の目的地は第二宿場。
そこで封鎖の最新状況を確認し、安全な別ルートがあるか探す。橋の向こうで何が起きたのか知る人がいるなら、噂ではなく本人の話を聞く。
それ以上は、まだ考えない。
街道を進み始めて一時間ほどは、昨日と変わらない景色が続いた。
畑と草原。
荷物を積んだ馬車。
時々すれ違う旅人。
私は右足の状態を意識し、調子がいいからと歩調を上げないようにした。フランも右腕を大きく振らず、短剣には触れない。
最初の一台は気にならなかった。
東へ戻ってくる大きな荷馬車。
二台目も。
けれど三台、四台と続き、昼が近づくころには明らかな偏りが見え始めた。
「戻ってくる馬車、多くない?」
私が言うと、オラクルも街道の先を見た。
「俺も数えてた。西へ行ったのが三台。東へ戻ってきたのが九台だ」
数字にされるとはっきり分かる。
リリィはすれ違う馬車の車輪を見ていた。
「何台か、昨日の三人の靴についてたのと似た泥がある」
「北西から戻ってきたってこと?」
「可能性はある。でも、まだ分からない」
誰も慌てて逃げているわけではない。
商人も旅人も普通に歩いている。
それなのに、本来なら西へ向かうはずの人たちが荷物を積んだまま逆方向へ戻ってくる。
第二宿場へ近づくほど、その数は増えていった。
商品を積んだまま戻る商人。
地図を広げながら歩く冒険者。
馬を引いて東へ向かう旅人。
誰も逃げてはいない。
ただ、誰も先へ進めていない。
その静かな逆流のほうが、誰かに「危険だ」と言われるより不気味だった。
午後になると、街道の先に第二宿場が見え始めた。
第一宿場より建物が多く、遠目にもかなり大きな場所だと分かる。
でも最初に目へ入ったのは、宿でも店でもなかった。
馬車だった。
町の入口付近から街道の脇まで、何台もの荷馬車が並んでいる。十台どころではない。商品を積んだまま止まっているものもあれば、荷物を下ろして商人同士が話し合っているものもある。
冒険者らしい一団は地面へ地図を広げ、何度も西を指していた。
人は多い。
なのに、西へ向かう流れだけが止まっている。
「……本当に通れないんだ」
フランが呟いた。
朝に聞いた話。
道中ですれ違った、引き返していく馬車。
それまで別々だった情報が、目の前の光景として繋がった。
オラクルは宿場町全体を見回すと、すぐに判断した。
「まず宿だ。これだけ人が溜まってりゃ、下手すりゃ寝床がなくなる。情報集めはそのあと。誰も勝手に動くなよ」
私たちは第二宿場へ足を踏み入れた。
近くまで来ると、第一宿場との違いがさらに分かった。
道幅は広く、旅道具を扱う店や鍛冶屋、大きな厩舎まである。本来ならグライツへ向かう旅人と、反対側から戻ってくる商人が絶えず行き交う場所なのだろう。
今も人は多い。
ただ、人が流れていない。
宿の前には空き部屋を尋ねる列ができ、厩舎では預けられた馬が入りきらず、外に臨時の柵まで作られている。食料品店では保存の利くパンや干し肉を買い込む人が目立ち、何日ここへ留まることになるのか分からないという声まで聞こえてきた。
「すぐ道が開くと思ってない人、多そうだね」
リリィが言う。
「ああ。ただ、正式に長引くって発表されたのか、周りを見て勝手に判断してるだけなのかは分からねえ」
オラクルは最初に見つけた宿へ入った。
受付の男性は、私たちが人数を言う前から申し訳なさそうに首を横へ振る。
「悪いね。満室なんだ。昨日から急に客が増えて、グライツ方面へ行けなくなった人たちで埋まっちまった」
「封鎖も昨日から?」
「そこは分からないな。もっと前から兵士がいたって話も聞く。ただ、ここまで人が溜まり始めたのは昨日だよ」
リリィが尋ねる。
「グライツ側から来た人はいますか?」
主人は少し考えた。
「ここ二日は覚えがない。そういや、いつも来る定期馬車も来てないな」
旅人だけではない。
決まった道を走る馬車まで止まっている。
「空いてる宿、知らねえか?」
「《渡り鳥亭》へ行ってみな。今朝、東へ戻った商人が何組かいたはずだ」
礼を言って外へ出た。
《渡り鳥亭》には、幸い二部屋だけ空きがあった。
一階は埋まっていて二階しか空いていなかったけれど、これ以上歩き回るよりはいい。
部屋へ荷物を置き、少し身体を休ませる。
右足に痛みはなかったものの、朝から歩いてきた疲れは確実に溜まっていた。ベッドへ腰を下ろした途端、足首から力が抜けるような感覚があり、第二宿場へ着いたからといってすぐ町中を歩き回らなくてよかったと思う。
フランも椅子へ座り、右腕の状態を確かめていた。
「どう?」
「朝とそんなに変わらない。少し重いくらいかな」
「痛くない?」
「うん。休めば大丈夫だと思う」
「だったら二人とも、しばらく休憩」
リリィに言われ、私たちは素直に従った。
以前なら「せっかく着いたんだから情報を集めよう」と言っていたかもしれない。でも、橋が逃げるわけではないし、無理をして怪我を悪化させればグライツへ着くのがもっと遅くなる。
それくらいは、もう分かる。
「三十分くらい休んだら下へ行くぞ」
オラクルは新しい地図をテーブルへ広げた。
「まず宿の主人から聞く。そのあと、橋まで実際に行った奴を探す。噂話を百個集めても意味ねえから、直接見た奴を優先するぞ」
「兵士には聞かないの?」
私が尋ねる。
「聞けそうならな。ただ、橋の理由を第一宿場の旅人にも話してねえんだ。俺たちみてえな旅人が聞いて、いきなり全部教えてくれるとは思わねえ」
「じゃあ、ここにいる人から調べるんだ」
「ああ。橋まで行った商人、グライツ側から最後に来た奴を知ってる人間、封鎖が始まる前からこの宿場にいた住人。この辺を当たる」
リリィが地図を見ながら言った。
「それと、封鎖がいつ始まったか。さっきの宿の人は、人が増えたのが昨日って言ってただけだから」
「そういうことだ」
情報を集めると言っても、誰に何を聞くのかを先に決めておく。
以前の私なら、町へ出て「橋で何があったんですか?」と手当たり次第に聞いていたと思う。
今なら、それで噂ばかり集まってしまう理由が少し分かる。
休憩を終え、一階の食堂へ戻った。
食事時にはまだ早いのに、かなりの席が埋まっている。
商人、冒険者、旅人。それに宿場町の住人らしい人も混じっていた。橋が開くのを待っているのか、テーブルの上へ地図や帳簿を広げたまま長居している人が多い。
耳を澄ませなくても、あちこちから同じ言葉が聞こえてきた。
グライツ。
石橋。
兵士。
封鎖。
ただ、話の内容は驚くほど違っている。
巨大な魔物が出たという人がいる。
崖が崩れたという人もいる。
橋そのものが壊れかけているという話もあれば、夜になると向こう側で妙な光が見えるという噂まであった。
「情報いっぱいあるよ」
紙を取り出しかけると、オラクルがすぐに止めた。
「それ全部書いたら駄目なやつだ」
「何で? 本当の話もあるかもしれないよ」
「あるかもしれねえ。でも今聞こえてるのは、ほとんど誰かから聞いた話だ。同じ噂を十人が喋ってても、元を辿ったら一人の勘違いだったなんて普通にある」
オラクルは食堂全体へ視線を向けた。
「数じゃなくて情報源を見る。誰が自分で橋まで行ったのか。誰が実際に何かを見たのか。分からねえなら、まずそこを聞く」
私は出しかけた紙を戻した。
その横で、リリィはすでに客たちを観察していた。
しばらくして、壁際のテーブルへ視線を止める。
「あの人、橋まで行ったかも」
年配の商人だった。
二人の仲間と一緒に地図を広げ、北西へ続く道の途中へ何かを書き込んでいる。
「何で分かるの?」
「靴」
リリィが小声で答えた。
「朝会った三人と似た泥がついてる。それに、地図の石橋のところへ印を付けてる」
オラクルもさりげなく商人を確認した。
「悪くねえな。あいつから聞くか」
リリィの表情が少し明るくなる。
追跡のために磨いてきた観察力が、人から情報を集める場面でも役立っている。それが嬉しいのだと思う。
「一緒に来い」
「私も?」
「ああ。ただし俺が話してる途中で靴の泥について質問すんなよ」
「必要なら聞く」
「だから必要かどうかは俺が決めるんだよ」
いつもの言い合いをしながら、二人が商人のテーブルへ向かう。
私は残った。
本当は一緒に行きたい。
でも右足は休ませたほうがいいし、オラクルとリリィだけで十分なら、私までついていく必要はない。
フランも同じように二人を見送っていた。
「俺たち、留守番多くなったね」
「怪我人だからね」
「フールがそれ言う?」
「私も入ってるよ!」
二人で笑った。
メリーは私の肩へ降りる。
『私は怪我してないよ!』
「メリーは元気組」
『やった!』
何が嬉しいのか分からないけれど、本人が喜んでいるならいい。
少しして、オラクルとリリィが戻ってきた。
さっきより二人の表情が真剣だった。
「何か分かった?」
「今の商人は昨日、石橋の手前まで行ってる」
オラクルは椅子へ座り、地図をこちらへ向けた。
「第一宿場で話を聞いた三人より少し遅い時間だ。つまり、封鎖が強化されたあとの状態を見てる」
リリィが石橋より少し手前を指す。
「ここに小さな見張り台があるんだって。普段は街道と谷を見張る兵士が二人くらいいるらしいんだけど、昨日は誰もいなかった」
「兵士は橋に行ってたのかな」
「それは分からない。でも、見張り台の周りに焼けた跡があったって」
「燃えてたの?」
「建物が全部燃えたわけじゃないみたい。屋根の一部と、その周りの地面が黒くなってたって。商人の人も遠くから見ただけだから、何で焼けたのかは分からない」
私は紙を取り出す。
今度は書いていい情報だ。
《石橋手前の見張り台――周辺に焼け跡。原因不明》
それだけにする。
オラクルが続けた。
「あと、橋の向こうから一回だけ妙な音を聞いてる」
「どんな?」
「雷みてえだったらしい。ただし、そのときは晴れてた」
思わず空のことを考えそうになる。
でも、リリィがすぐ補足した。
「商人の人も『雷みたいな音』って言っただけ。雷だったとは言ってない。それに聞いたのも一回だけ」
「うん」
私はもう一行書いた。
《橋の向こう――雷に似た音との証言。一回のみ》
今度は、余計な想像を付け足さなかった。
「少しずつ増えてきたね」
フランが紙を見る。
「でも、何が起きてるかは全然分からない」
「だから次は宿の主人だ」
オラクルが言った。
「この町にずっといる奴なら、いつから様子が変わったか分かるかもしれねえ」
そう言って立ち上がろうとした、そのときだった。
鐘が鳴った。
一度。
食堂の会話はすぐには止まらなかった。
でも、宿場町の住人らしい何人かが顔を上げる。
少し間を置いて二度目。
今度は、宿の店員が持っていた皿を置いた。
壁際にいた年配の商人も話を止め、西側の窓を見る。
そして三度目。
短い鐘の音が宿場町全体へ響いた瞬間、それまで騒がしかった食堂の空気が明らかに変わった。
完全に静まり返ったわけではない。
それでも、誰もが何かを待つように口数を減らしている。
「今の鐘、何?」
私が近くに座っていた老人へ尋ねる。
老人は私ではなく、西側の窓を見たまま答えた。
「向こうで何かあったときの知らせだよ」
「向こう?」
「橋の方角だ」
胸の奥が強く鳴った。
オラクルはすぐに立ち上がった。
「全員一緒に来い。外へは出ねえ。入口から見るだけだ」
誰も反対しなかった。
私たちは宿の入口近くへ移動した。
町の中央では兵士が何人も走り始めている。
「道を空けろ!」
声が響いた。
商人たちが慌てて馬車を端へ寄せ、街道にいた旅人たちも左右へ分かれていく。
何かが来る。
そう思った直後、西へ延びる街道の向こうに一頭の馬が見えた。
速い。
普通に町へ入る速度ではない。
馬は土煙を上げ、全身を激しく上下させながら一直線にこちらへ向かってくる。
乗っているのは兵士だった。
近づくにつれて姿がはっきりする。
服は泥だらけで、外套の片側が大きく裂けている。馬も全身を汗で濡らし、口元には白い泡が浮かんでいた。
「止まれ! こっちだ!」
町にいた兵士が叫ぶ。
馬が速度を落とし切る前に、乗っていた男が地面へ降りた。
いや、降りたというより、ほとんど転がり落ちた。
二人の兵士が駆け寄り、身体を支える。
「何があった!」
その声だけは、宿の入口にいる私たちにも届いた。
泥だらけの兵士は肩で激しく息をしながら何かを伝えようとしている。
最初の言葉は聞こえなかった。
二人の兵士が顔を近づける。
周囲にいた人たちも、息を潜めるようにその様子を見守っていた。
やがて泥だらけの兵士が何かを言った。
聞いた側の顔色が変わる。
「本当か?」
兵士が何度も頷いた。
その直後だった。
泥だらけの兵士が、何かに気づいたように顔を上げた。
西の空。
雲が幾重にも重なっている方向。
私もつられて見た。
何も見えない。
少なくとも、私には灰色の雲が流れているだけに見えた。
それなのに兵士は、そこに何かがいるような顔で空を凝視していた。
呼吸がさらに荒くなる。
隣の兵士が肩を掴んだ。
「おい、見るな。中へ入れ」
その言葉に、背中が冷たくなった。
見るな。
今朝聞いた話と同じだった。
橋から戻ってきた若い兵士も、何度も後ろを振り返り、仲間から「上を見るな」と止められていたという。
偶然かもしれない。
でも今度は、誰かから聞いた話ではない。
目の前で起きている。
泥だらけの兵士は肩を掴まれたまま、それでも西の空から目を離そうとしなかった。
唇が動く。
風が吹き、宿場町の旗が一斉に鳴った。
その音が弱まった瞬間、かすれた声がこちらまで届いた。
「……まただ」
それだけだった。
けれど、その一言で胸の奥のざわつきが一気に大きくなった。
また。
初めてではない。
オラクルが私たちへ視線を向ける。
「ここから動くな」
声は低かった。
「今のは俺たちも見た。鐘が鳴って、西から兵士が戻ってきた。あいつは空を見て『まただ』と言った。分かってんのは、そこまでだ」
私は頷いた。
これまで集めてきた空にまつわる記録を、今の兵士とすぐに結びつけない。
古い伝承は古い伝承。
遺跡に残された記録は遺跡の記録。
そして今目の前で起きていることは、現在の異変。
同じだと分かるまでは、別々にしておく。
それでも、もうただの噂だとは思えなかった。
兵士から報告を受けた男が、周囲へ短く指示を飛ばす。
何人かが西へ走り、別の兵士たちは宿場町の入口を固め始めた。
それを見た商人たちが一斉に騒ぎ出す。
橋はどうなる。
何があった。
「また」とは何のことだ。
質問が飛び交う。
兵士たちは答えない。
その代わり、西へ向かおうとする人間を止め始めた。
ここへ来るまでは、橋の異変はまだ私たちから離れた場所の出来事だった。
第一宿場で聞いた話も、街道ですれ違った馬車も、負傷した兵士の証言も、全部誰かを通して知ったものだった。
今は違う。
鐘が鳴った。
兵士が駆け込んできた。
その兵士は西の空を見て怯えていた。
宿場町の空気そのものが、私たちの目の前で変わった。
「オラクル」
私は西の空から目を離さずに言った。
「まず情報だよね」
「ああ」
オラクルは短く答えた。
「それでいい。分からねえときほど勝手に動くな。橋へ行くのは、何が起きてるのか分かってからだ」
以前の私なら、今すぐ西へ行きたいと言っていたかもしれない。
今だって気になる。
でも、それ以上に知る必要がある。
何を兵士たちは見たのか。
何が橋の向こうで起きているのか。
なぜ空を見てはいけないのか。
そして、この道を通らなければならない私たちは、どうすればグライツへ進めるのか。
私はもう一度だけ西の空を見た。
雲は何も答えず、ゆっくり流れている。
その向こうに何があるのかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、グライツへ続く道を塞いでいる異変が、もう遠い橋の向こうだけの出来事ではなくなったということだった。




