第149話 空の遺跡
一人分の足跡が消えたのではない。
その人は途中から、自分の足で歩いていなかったのかもしれない。
そう気づいた瞬間、それまでただの草原にしか見えていなかった景色が急に違って見えた。
街道の脇から伸びる三人分の足跡。そのすぐそばには、草を押し潰しながら細長く続く引きずり跡がある。風が吹くたびに草が起き上がろうとするため、少し離れれば見失ってしまいそうな痕跡だった。
リリィは拾った留め具を掌には乗せず、布を一枚取り出して包んだ。
「服か鞄の留め具だと思う。でも、これだけじゃ誰の物かまでは分からない」
「血は?」
フランが尋ねる。
リリィは周囲を確認してから首を横へ振った。
「今のところ見つからない。だから怪我をして引きずられたとも決められないよ。気を失った人を運んだのかもしれないし、荷物を引きずっただけかもしれない」
「じゃあ、四人目が消えたのと関係ない可能性もある?」
私が聞くと、リリィは頷いた。
「ある。でも、同じ場所から始まってる」
そこが重要だった。
四人で街道を歩いてきた。
そのうち三人が草原へ入った。
同じ場所から引きずり跡も始まっている。
そして四人目の足跡だけが、そこで途切れた。
まだ何が起きたのかは分からない。それでも、偶然として通り過ぎるには重なるものが多すぎた。
オラクルは街道の先と草原を交互に見たあと、地図を取り出した。
「この先の宿場町までは、今の速度ならまだ結構ある。近くに村もねえな」
「追う?」
もう一度聞くと、今度はすぐ否定されなかった。
ただ、オラクルは私ではなくリリィを見る。
「どこまで追える?」
「草が残ってる間なら。時間が経ったら難しくなると思う」
「人数は三人で間違いねえか?」
「たぶん。でも途中で合流してたら増える」
「戻る道は?」
「街道が見える範囲なら大丈夫。もっと奥へ行くなら目印を残す」
オラクルは少し考えた。
私は口を挟まず待った。
前なら「困ってる人かもしれないよ!」と言って、もう草原へ入っていたかもしれない。でも今は、私の右足も完全には治っていない。フランの右腕だって同じだ。
助けに行って、私たちまで戻れなくなったら意味がない。
やがてオラクルが決めた。
「少しだけ追う。街道から大きく離れるようなら、その時点でもう一度考える。戦闘になりそうなら無理に突っ込まねえ。いいな?」
全員が頷いた。
リリィを先頭に、私たちは草原へ入った。
見た目以上に歩きづらかった。
街道から眺めていたときには膝くらいまでだと思っていた草が、場所によっては私の腰近くまで伸びている。足元には小さな窪みや石が隠れ、油断すると足を取られそうになった。
右足を痛めている私には特に危ない。
フランが自然に私の少し後ろへ回った。
「足元見てね」
「分かってる」
「転びそうになっても俺の右腕は掴まないで」
「分かってるって!」
「念のため」
言い返そうとしたけれど、本当に転んだらやりそうだったので黙った。
先頭のリリィは速かった。
走っているわけではない。それでも倒れた草、折れた茎、土のわずかなへこみを順番に拾い、迷わず進んでいく。
昨日まで練習していたことが、いきなり必要になっている。
それでもリリィは一人で先へ行かなかった。少し進むたびに振り返り、私たちとの距離を確認している。
「三人とも同じ方向」
しばらく進んだところで、リリィがしゃがんだ。
「引きずり跡も続いてる。でも少し変わった」
「何が?」
「さっきより浅い」
私は見ても分からなかった。
オラクルが近づく。
「途中から持ち上げたか?」
「それもある。でも――」
リリィは少し先の草を指した。
そこには足跡が四人分あった。
「増えてる」
私は思わず数えた。
確かに四種類あるらしい。
「じゃあ、消えた人がまた歩き始めた?」
「その可能性はあるよ」
フランが少し安心したように息を吐いた。
「だったら事件じゃないのかもね」
「まだ分からない」
リリィは四人目の足跡を追った。
数歩。
十歩。
そこで止まる。
「……これ、裸足」
近づいて見る。
他の三人は靴。
四人目だけ、土の上に指の形まで残った足跡がある。
「最初の四人目は靴だったよね?」
「うん」
「途中で脱いだ?」
「どうして?」
答えは誰にも分からなかった。
リリィは裸足の跡をさらに追う。
今度は歩幅が狭い。
左右へ少しぶれている。
普通に歩いているというより、身体を支えられながら進んでいるようにも見える。
オラクルの表情が険しくなった。
「急ぐぞ。ただし走るな」
草原の奥へ進む。
街道はまだ振り返れば見える。
でも人影は小さくなっていた。
やがて地面が緩やかに下り始め、その先に小さな林が見えてきた。
足跡はそこへ向かっている。
「オラクル」
リリィが呼ぶ。
「分かってる。林に入る前に止まるぞ」
私たちは木々から少し離れた場所で足を止めた。
草原と違って、林へ入れば遠くが見えなくなる。
誰かが隠れていても分からない。
オラクルは私たちを近くへ集めた。
「ここから先は順番決める。リリィが痕跡を見る。俺は周囲。フランは無理して戦うな。フールも魔法を撃つ前に周り見ろ。メリーは最後尾じゃなく真ん中にいろ」
『分かった!』
「何かいたら?」
私が聞く。
「まず話す。敵だと決まってねえ」
当然のことなのに、言われなければ身構えたまま入っていたかもしれない。
林へ入った。
光が一気に減る。
背の高い木々が日差しを遮り、足元には枯れ葉が積もっている。草原より足跡は見えやすいらしく、リリィの速度が少し上がった。
四人。
まだ四人分。
そのうち一人だけ裸足。
しばらく進んだところで、メリーが突然止まった。
『待って』
小さな声だった。
全員が止まる。
『声する』
私は耳を澄ませた。
最初は風だと思った。
でも違う。
もっと低い。
「……やめろ」
誰かの声。
遠くない。
続いて別の男の声が聞こえた。
「歩け。もう少しだ」
フランの顔つきが変わる。
オラクルが指を口元へ当てた。
誰も話さない。
リリィが声の方向を指す。
木々の隙間から、少し明るい場所が見えた。
私たちは一気に近づかず、一本ずつ木を使って距離を詰めた。
やがて、人影が見える。
四人。
三人は立っている。
残る一人は木の根元へ座り込んでいた。
若い男だった。
靴を履いていない。
手首には縄。
「……やっぱり」
フランが小さく呟く。
三人のうち一人が、座っている男の前へ立った。
「もう一回聞く。どこに隠した?」
「知らないって言ってるだろ……」
「お前しか知らねえんだよ」
男の胸倉が掴まれる。
その瞬間、私は前へ出そうになった。
でも肩を掴まれた。
オラクル。
首を横へ振る。
まだ。
私は歯を食いしばって待った。
三人が何者なのか。
何を探しているのか。
座っている男が本当に被害者なのか。
見ただけでは全部分からない。
「地図を出せ」
立っている男が言った。
座った男が首を横へ振る。
「持ってない」
「嘘つけ。グライツまで持ってくって言ってただろ」
その言葉で、私たち全員の表情が変わった。
グライツ。
私たちと同じ目的地。
男がさらに続ける。
「空の遺跡への道を知ってるのは、お前だけなんだ」
胸の奥が跳ねた。
空。
昨日まで何度も見た言葉。
《雲より上を泳ぐ影》。
メロウが集めていたという、空に現れる生き物の伝承。
偶然かもしれない。
まだ繋げてはいけない。
それでも、聞き流すことはできなかった。
オラクルも同じだったらしい。
目つきが変わっている。
「地図を渡せば帰してやる」
三人組の男が言った。
木の根元の男は、苦しそうに息をしながら顔を上げた。
「渡したら……俺だけじゃ済まない」
「何だと?」
「お前らが行ったら、また同じことになる。あそこは――」
最後まで言えなかった。
男の腹へ蹴りが入る。
身体が折れ、地面へ倒れた。
メリーが小さく息を呑んだ。
もう待てなかった。
でも今度は、私が勝手に飛び出す前にオラクルが動いた。
木の陰から姿を見せる。
「そこまでにしとけ」
三人が一斉に振り返った。
「誰だ!」
オラクルは答えず、ゆっくり両手を見える位置へ出した。
武器を持っていないことを示している。
「旅人だ。街道から変な跡が続いてたんで見に来ただけだ」
「関係ねえ。消えろ」
「そうしたいところなんだがな」
オラクルの目が、縄で縛られた男へ向く。
「四人で街道歩いてたのに、一人だけ途中から引きずられてりゃ気にもなる」
三人の表情が変わった。
一人が腰の剣へ手を伸ばす。
私も杖を握った。
でも構えない。
まだ。
フランも短剣には触れているが、抜いてはいない。
リリィは私たちより少し後ろに立ち、周囲を見ていた。
昨日までなら、全員が目の前の三人だけを見ていたかもしれない。
でも今は違う。
他に仲間がいないか。
逃げ道はどこか。
戦いになったら、縛られている男をどう守るか。
みんなが自分の役割を考えている。
「最後に言う」
剣へ手を掛けた男が低い声で言った。
「消えろ」
オラクルは小さく息を吐いた。
「そっちも最後に聞く」
声から軽さが消える。
「あいつを縛ってる縄、今ここで解く気はあるか?」
返事はなかった。
代わりに剣が抜かれた。
金属音が林へ響く。
その瞬間、私たちは動いた。
フランは前へ出ない。
右腕がまだ完全ではないからだ。
代わりに左手で短剣を抜き、私とメリーの前へ半歩だけ出る。
リリィはすぐ横の木へ移動し、三人全員を一度に見られる位置を取った。
オラクルは戦うためではなく、縛られた男までの距離を測っている。
そして私は、杖を構えながらも魔力を一気に膨らませなかった。
小さく。
一定に。
ここ数日ずっと練習してきた大きさを保つ。
三人のうち、剣を抜いた男が最初に踏み込んだ。
狙いはオラクル。
私は杖を向ける。
でも撃たない。
オラクルが横へ避けたことで、その先に縛られた男が見えたからだ。
今撃てば巻き込む。
「フール!」
フランの声。
分かってる。
一歩だけ位置を変える。
角度を作る。
男がもう一度オラクルへ向かおうとした瞬間、私は杖先に溜めていた魔力を放った。
大きな魔法ではない。
足元。
男が次に踏み込もうとした場所へぶつける。
土が弾けた。
「うおっ!」
男の足が止まる。
倒すためではない。
止めるため。
その隙にオラクルが距離を取った。
「やりゃできるじゃねえか!」
「褒めるのあと!」
残る二人も動いた。
一人が私へ。
もう一人が縛られた男へ向かう。
「リリィ!」
呼ぶ前に動いていた。
リリィは敵へ突っ込まない。
横から小石を蹴り飛ばし、男の注意を一瞬だけ逸らす。そのまま別の木の陰へ移り、こちらを追えば縛られた男から離れる位置を取った。
「こっち!」
「このガキ!」
一人が釣られる。
リリィは逃げる。
真っ直ぐではない。
木を一本挟み、相手から自分の姿が消える瞬間を作る。
昨日まで練習していた動き。
もう一人は縛られた男へ近づいた。
その前へフランが入る。
左手の短剣。
「どけ!」
振り下ろされた剣を受けない。
半歩だけ横へずらし、刃を外す。
右腕を使えない以上、力比べはしない。
フラン自身が決めた戦い方だった。
相手の剣が地面へ落ちる。
フランの左手が動く。
短剣の柄で手首を打った。
剣が落ちた。
「っ!」
でもフランは追わない。
右腕を庇いながら、すぐ距離を取る。
倒すことより、縛られた男へ近づけさせないことを優先した。
私も分かった。
全員、数日前とは少し違う。
急に強くなったわけではない。
ナナに勝てるようになったわけでもない。
それでも、話し合ったことを実際の場面で使えている。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
でも油断はしない。
三人はまだ倒れていない。
最初の男が体勢を立て直し、こちらを見る。
「ガキどもが……!」
怒鳴った瞬間。
林のさらに奥から、別の声がした。
「何をしている!」
全員が止まった。
三人組まで振り返る。
木々の奥。
新しい足音。
一人ではない。
オラクルの顔が険しくなった。
「……仲間か?」
リリィがすぐ首を横へ振る。
「分からない。足音、多い」
私たちは三人組と、音のする林の奥を交互に見た。
剣を抜いた男たちにも余裕がなくなっている。さっきまで私たちを追い払おうとしていた一人が、仲間へ小声で何かを言った。
足音は近づいてくる。
枝を踏む音。
草を掻き分ける音。
一人や二人ではない。
「武器を下ろせ!」
もう一度、声が響いた。
今度ははっきり聞こえた。
オラクルが目を細める。
「少なくとも、あいつらの仲間って感じじゃねえな」
三人組の反応を見れば、私にも分かった。
一人が舌打ちし、逃げ道を探すように周囲を見る。
「リリィ」
オラクルが名前だけ呼ぶ。
それで十分だったらしい。
リリィはすぐに林の左側へ視線を向けた。
「そっちは駄目。少し先が下ってる。走ったら足取られると思う」
右を見る。
「反対は街道に戻れる。でも私たちがいる」
三人組にも聞こえた。
剣を持った男が苛立ったようにこちらを睨む。
「余計なことしやがって……」
「人を縛って引きずってる奴に言われたくねえな」
オラクルが返した。
直後、木々の間から人影が現れた。
最初に見えたのは、革鎧を着た大柄な男だった。手には槍を持っているが、穂先はこちらへ向けていない。
その後ろから、さらに四人。
胸元には同じ形の金属札が付いていた。
「全員動くな!」
先頭の男が声を張る。
三人組の一人が反射的に逃げようとした。
「止まれ!」
制止を無視して林の右側へ走る。
でも数歩進んだところで、別方向から回り込んでいた二人に道を塞がれた。
「くそっ!」
男が剣を振る。
金属音が一度だけ響いた。
槍の柄で手首を打たれ、剣が地面へ落ちる。
残った二人は、それを見て動かなかった。
私たちも武器を下ろす。
先頭の男が全体を確認し、木の根元で縛られている男性を見つけた瞬間、表情を変えた。
「おい! 大丈夫か!」
二人がすぐ駆け寄る。
縄を切り、身体を起こす。
メリーも飛んでいこうとしたけれど、一度私を見る。
昨日までなら、そのまま治療を始めていたと思う。
「行っていいよ」
私が言うと、メリーは頷いた。
『怪我見てくる!』
木の根元へ飛んでいく。
メリーはすぐ魔法を使わなかった。
まず男の顔を見る。
『聞こえる?』
「あ、ああ……」
『息、苦しくない?』
「大丈夫だ」
『どこが一番痛い?』
「腹を蹴られた。それと……足」
メリーが裸足になった足を見る。
傷がいくつもできている。
それでも先に腹部を確認し、それから足へ移った。
治療師から教わったことを、本当に使っている。
私は少し嬉しくなった。
「お前らは?」
槍を持った男に聞かれた。
オラクルが代表して答える。
「旅人だ。街道で変な痕跡見つけて追ってきたら、この有様だった」
「こいつらの仲間じゃないんだな?」
「だったら今まで戦ってねえよ」
男は周囲を見た。
落ちている剣。
縛られていた男性。
私たち。
三人組。
状況を確認しているらしい。
「俺たちは街道巡回の警備隊だ。少し先で、道を外れていく四人組を見たって商人から話を聞いた。念のため確認に来た」
オラクルが小さく息を吐いた。
「なるほどな」
偶然ではある。
でも、街道からそれほど離れていなかったことが幸いした。
三人組は警備隊に武器を取り上げられ、手を縛られた。
抵抗しようとした一人だけは随分騒いでいたけれど、残る二人はもう諦めたらしい。
「俺たちは何もしてねえ!」
「縛ってた男に聞く」
警備隊の返事は短かった。
私はそこでようやく杖から手を離した。
身体に入っていた力が抜ける。
大きな戦いにはならなかった。
よかった。
本当にそう思った。
もし警備隊が来なかったら、三人全員を相手に戦わなければならなかったかもしれない。
今の私たちが勝てたかどうかではない。
フランの右腕。
私の右足。
どちらも治りきっていない。
勝っても悪化させれば、そのあとの旅に影響する。
オラクルが言っていたことを思い出す。
戦わずに済むなら、そのほうがいい。
「フール」
リリィが近づいてきた。
「足、大丈夫?」
「うん。走ってないから」
「さっき魔法使ったとき踏み込んでた」
「……ちょっとだけ」
「痛くない?」
右足へゆっくり体重を掛ける。
痛みはない。
「大丈夫」
「ならいい。でもあとで休もう」
「うん」
素直に頷いた。
その間に、メリーの治療も終わったようだった。
縛られていた男性は警備隊に支えられながら立ち上がる。年齢はオラクルより少し若いくらいだろうか。旅装は泥だらけで、片方の靴がなくなっている。
男は私たちを見た。
「君たちが……助けてくれたのか?」
「私たちだけじゃないよ」
私は警備隊を見る。
「この人たちも来てくれたし、最初に足跡見つけたのはリリィ」
急に名前を出されたリリィが少し驚く。
「私は追っただけ」
「それがなかったら見つけられなかったでしょ」
男は深く頭を下げた。
「ありがとう。本当に助かった」
「何があったの?」
私が尋ねると、オラクルが横から口を挟んだ。
「無理に話させんな。まず休ませろ」
「あ……」
そうだった。
助けたばかりなのに質問攻めにするところだった。
「ごめんなさい」
「いや」
男は首を横へ振った。
「話せる。むしろ、話しておいたほうがいいかもしれない」
警備隊の男も止めなかった。
近くの倒木へ座り、メリーから水を受け取る。
少し飲んでから、男は三人組を見る。
「街道で知り合ったんだ」
「元から仲間じゃなかったの?」
「違う。昨日の宿場で一緒になった。目的地が同じだったから、途中まで同行しないかと言われた」
「目的地は?」
フランが尋ねる。
男は答えた。
「グライツ王国」
やっぱり。
林の中で聞いた言葉と同じ。
「俺はグライツへ資料を届ける途中だった。あいつらもグライツへ行くと言っていたから、疑わなかった」
オラクルが眉を寄せる。
「資料ってのは、さっきあいつらが言ってた地図か?」
男の顔が少し強張った。
「聞いていたのか」
「途中からな」
男はしばらく迷った。
話していいものか考えているらしい。
「地図そのものを運んでいたわけじゃない」
「じゃあ何?」
「写しを作るための記録だ」
ますます分からなくなった。
男は鞄を探ろうとして、そこで顔色を変えた。
「ない……」
「何が?」
「鞄だ」
私たちは三人組を見る。
警備隊がすぐ荷物を調べた。
一人が持っていた大きな鞄の中から、男のものらしい革袋が見つかる。
「これか?」
「それだ!」
戻された革袋を受け取り、男は中身を確認した。
紙。
小さな手帳。
何枚かの薄い板。
そして、丸められた古そうな紙。
「無事だ……」
心の底から安心した声だった。
「それが地図?」
私が聞く。
「違う。地図を作るための記録だよ」
男は紙を広げなかった。
大切な物なのだろう。
「俺は測量師なんだ」
「そくりょうし?」
「道や土地を調べて、地図を作る仕事」
なるほど。
「数年前、グライツ北部の山地で古い遺跡が見つかった。その周辺は道がほとんど記録されていなくて、俺たちが調査に入ったんだ」
オラクルの表情が変わる。
「空の遺跡ってのは?」
「俺たちが勝手にそう呼んでいるだけだ」
男は苦笑した。
「遺跡そのものが空にあるわけじゃない。山のかなり高い場所にあって、晴れた日は下に雲が見える。それで調査隊の連中が《空の遺跡》って呼び始めた」
私は少し肩透かしを食らった。
本当に空へ浮かんでいる遺跡を想像していた。
「じゃあ飛んでないんだ」
「遺跡が?」
「うん」
「飛ばないよ」
フランが笑いを堪えている。
「笑わないでよ!」
「だってフール、絶対空に浮かんでると思ってたでしょ」
「ちょっとだけ!」
男も少し笑った。
緊張していた顔が、ようやく緩む。
でもオラクルは話を戻した。
「その遺跡の地図を、こいつらが欲しがった理由は?」
男の笑みが消えた。
「遺跡そのものじゃない」
「じゃあ何だ?」
「さらに奥だ」
男は声を少し落とした。
「調査中、遺跡の壁に古い絵を見つけた」
私は無意識に身を乗り出す。
「どんな絵?」
「空だよ」
胸の奥が跳ねた。
「雲の上に、巨大な生き物みたいなものが描かれていた。魚にも見えたし、翼のない竜にも見えた。何なのかは分からない。ただ、その下に古い文字が残っていた」
「読めたの?」
「全部は無理だった。調査隊に古代文字の専門家はいなかったからな。でも、一部だけは既存の文字と照らし合わせられた」
男は少し迷ってから、その言葉を口にした。
「《天を渡るもの》」
誰も話さなかった。
私は昨日の紙を思い出す。
メロウが集めていたという伝承。
《雲より上を泳ぐ影》。
似ている。
あまりにも。
でも、同じだとはまだ決められない。
「その記録をグライツへ?」
オラクルが尋ねる。
「ああ。大図書館なら詳しく調べられる。昔、同じ遺跡を研究していた学者がいるとも聞いたから」
「名前は?」
私が聞いた。
男は首を横へ振った。
「知らない。俺が依頼を受けた相手からは、図書館へ資料を届ければ担当者が分かるとしか聞いていない」
メロウ。
その名前が頭に浮かんだ。
でも言わなかった。
今の情報だけで結びつけるのは早い。
オラクルも同じように考えたらしく、メロウの名前を出さなかった。
「三人組は、その話をどこで知った?」
「俺が馬鹿だったんだ」
男は苦い顔をした。
「宿で酒を飲みながら、仕事の話を少しした。遺跡の話までしたつもりはなかったんだが……俺が寝たあと、手帳を見られたらしい」
「それで地図を出せって?」
「ああ。正確な場所は頭の中にしかない。手帳には途中までしか書いてないからな」
三人組は、男を連れて遺跡へ行くつもりだったのだろう。
だから殺さなかった。
靴を奪い、逃げにくくし、街道から外れた。
最初に引きずられていたのは、抵抗して気絶させられたからだったらしい。
途中で意識を取り戻し、自分で歩かされた。
すべての痕跡が繋がった。
リリィも納得したように足跡の方向を見る。
「だから途中から裸足の跡が増えたんだ」
男が頷く。
「靴は逃げないように捨てられた」
「留め具もそのとき?」
リリィが布に包んでいた金属片を見せる。
男は驚いた。
「俺の鞄のだ。引っ張られたときに壊れたんだと思う」
これで、街道で見つけたものも全部繋がった。
警備隊が三人組を立たせる。
「話の続きは詰所で聞く。あんたも一度来てもらえるか?」
「もちろん」
男は立ち上がり、少しふらついた。
メリーが慌てて支える。
『まだ無理しちゃ駄目!』
「ありがとう、小さな治療師さん」
『治療師……』
メリーの顔が一気に明るくなった。
『フール! 治療師って言われた!』
「よかったね!」
『うん!』
こんな状況なのに、嬉しそうだった。
警備隊は街道へ戻るという。
私たちも一度一緒に戻ることにした。
林を出る前、測量師の男が私たちを呼び止めた。
「君たちもグライツへ行くんだろ?」
「うん」
「なら、大図書館へ着いたら俺の資料も目にするかもしれない」
男は少し考え、付け加えた。
「《空の遺跡》について調べるなら、北部山岳調査記録を探すといい。今回の資料も、そこへ追加される予定だ」
「北部山岳調査記録」
私は忘れないよう繰り返した。
「ありがとう」
「礼を言うのは俺のほうだ」
男は笑った。
「君たちが足跡を見つけてくれなかったら、俺は今頃もっと山奥だった」
私はリリィを見る。
やっぱり最初に見つけたのは彼女だ。
リリィは少し照れたように目を逸らした。
街道へ戻るころには、太陽はかなり高くなっていた。
予定より遅れている。
それでもオラクルは急がなかった。
「今日は最初の宿場町まで行けりゃいい。無理なら途中で泊まれる場所探す」
「遅れちゃったね」
私が言うと、オラクルは地図を開いたまま答えた。
「旅なんざ予定通り行かねえもんだ。人一人見捨てて予定守るよりマシだろ」
「うん」
今度は迷わず頷いた。




