第148話 旅立ちの朝
グライツ王国へ向かうことが決まってからも、私たちはすぐには街を出なかった。
一番の理由は、私とフランの怪我だった。
治療師に診てもらったところ、私の右足は順調に回復しているものの、長い街道を歩くならあと数日は無理をしないほうがいいらしい。フランの右腕も傷そのものは塞がり始めていたけれど、今ここで剣を振れば治るまでの時間を延ばすだけだと言われた。
二人揃って「もう大丈夫」と言ってみたものの、治療師は私たちの顔を交互に見てから、呆れたように言った。
「大丈夫かどうかを決めるのは、怪我をした本人ではありません。痛くないことと、治っていることは別です」
宿へ戻ってその話をすると、リリィとオラクルが揃って納得した顔をした。
「ほらね」
「だろうな」
何だか悔しかったけれど、今回は素直に言うことを聞くことにした。
旅を続けるために強くなると決めたばかりなのに、一日でも早く出発したいという理由で怪我を悪化させたら意味がない。以前の私なら「歩けるから大丈夫」と言っていたかもしれないけれど、今は休むことも次の旅へ進むために必要な準備だと思える。
だから数日間、私たちは街に残った。
ただ待っていただけではない。
フランは右腕を休ませながら、左手で短剣を扱う練習を続けた。最初は鞘から抜くだけでも身体の向きがわずかに崩れていたけれど、毎日同じ動作を確かめるうちに余計な力が抜け、少しずつ動きが滑らかになっていった。
速く抜く必要はない。
強く振る必要もない。
左手で柄を握り、刃を抜き、自分の肩と足がどこへ向いているか確かめてから鞘へ戻す。見ているだけなら地味な練習だったけれど、フランは一度も嫌がらなかった。
「前だったら、こんなの意味あるのかなって思ってたかも」
ある日の夕方、フランが短剣を鞘へ戻しながら言った。
「今は違うの?」
「うん。決勝で右腕が使えなくなったとき、普段できてることが一つできなくなるだけで、こんなに戦いづらくなるんだって分かったから」
フランは左手を開き、自分の指を確かめるように何度か握った。
「アルトが本当にナナより強いなら、いつも通り戦える前提で考えてたら駄目だと思う。剣を落とすかもしれないし、腕を怪我するかもしれない。そもそも、短剣が届くところまで近づけない相手かもしれないからね」
アルトという名前を口にするとき、フランの表情は今でも少し硬くなる。
故郷を滅ぼした人物。
幼い頃から家にあった剣の、かつての持ち主。
そして、もしかすると私たちがグラティスで遭遇した大剣使い。
まだどれも完全には繋がっていない。それでも以前のように、フランが答えの出ない疑問を一人で抱え込むことは減っていた。
「グライツで何か分かるといいね」
私が言うと、フランはすぐには頷かなかった。
「……ちょっと怖いけどね」
「図書館が?」
「違うよ」
フランが笑う。
「リザーメイトのこと。父さんと母さんのこと。調べたら、今まで知らなかったものが本当に出てくるかもしれないでしょ」
その気持ちは分かる気がした。
知りたい。
でも、知ったあとに今までと同じ気持ちでいられる保証はない。
私だって、お父さんとお母さんを探している。
世界一の図書館なら何かあるかもしれないと期待している一方で、もし本当に記録が見つかったら、そこに何が書かれているのだろうと考えてしまう。
嬉しいことだけとは限らない。
それでも、私は知りたかった。
「怖かったら一緒に読もう」
「え?」
「リザーメイトの本。フラン一人で読むの怖かったら、私も読む」
フランは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「じゃあ、フールの両親について何か見つかったら俺も一緒に読むよ」
「うん」
簡単な約束だった。
でも、それだけで世界一の図書館が少し違って見えた。
答えをくれる場所ではなく、知らなかったものへ一緒に向き合う場所。
そんな気がした。
リリィも、自分なりの準備を進めていた。
彼女が鍛えているのは、相手を倒すための技ではない。追跡中に相手から見つかったとき、どうすれば情報を失わず、自分も捕まらずに戻ってこられるか。そのためにオラクルと人通りの少ない路地へ出て、曲がり角や建物の配置を覚え、追われたときにどこを通れば視線を切れるのかを何度も試していた。
宿へ帰るたび、小さな紙へ失敗した理由を書き足している。
《逃げ道を決める前に狭い道へ入らない》
《高い場所だけ見て足元を忘れない》
《相手が一人とは限らない》
「いっぱい失敗してるね」
何気なく言うと、リリィは紙から顔を上げた。
「フールにだけは言われたくない」
「何で!?」
「右足が治る前に三回走ろうとしたから」
「二回だよ!」
「三回」
近くにいたオラクルまで口を挟む。
「三回だな」
二対一になったので諦めた。
メリーも毎日、治療師のところへ通った。
ただ回復の力を強くするのではなく、怪我人を見つけたときに何を最初に見るべきなのかを覚えている。倒れている人へすぐ魔法を使うのではなく、意識、呼吸、出血の場所を確認し、誰を先に治療しなければならないのか判断する。
ある日、治療師から借りた人形を床へ寝かせ、メリーが私へ問題を出してきた。
『腕から血が出てて、息も苦しそうです。フールならどっちから治す?』
「腕!」
『ぶっぶー!』
「早い!」
『息のほう! 息できなくなったら腕を治しても駄目なんだって!』
得意そうだった。
「メリー、すごいね」
『えへへ。もっと覚える!』
回復魔法そのものが急に強くなったわけではない。
でも、昨日より救える人が増える。
それも立派な強さなのだと思う。
オラクルは、ほとんど宿にいなかった。
グライツまでの道を調べ、途中の宿場町で食料や水を補充できる場所を確認し、古かった地図も買い直した。大図書館についても追加で調べた結果、一般区画なら国外の人間でも利用できる一方、古文書や研究資料を保管する区画へ入るには申請が必要だと分かった。
「何を調べるのか説明して、許可を取る必要があるらしい。珍しい資料ほど簡単には触らせねえってことだ」
夕食の席でオラクルが新しい地図を広げる。
「幻獣種を調べたいって言えば入れる?」
「それだけで通るなら苦労しねえだろ。だから、まず一般区画で資料を探す。そこで足りなきゃ申請する。それでも駄目なら、メロウを探す」
「メロウがいたら?」
リリィが聞く。
「大図書館へ何度も出入りしてる学者なら、古い資料を見る方法くらい知ってる可能性はある。ただし、会える保証はねえ」
メロウについては、新しい情報がほとんど見つからなかった。
考古学者。
古代遺跡や昔の生物、各地の伝承を研究している。
以前は大図書館へ頻繁に出入りしていた。
最近は《空に現れる生き物》について古い記録を集めていたらしい。
そして、そのあと大図書館で姿を見かけたという話が途切れている。
《雲より上を泳ぐ影》。
その言葉についても、それ以上のことは分からなかった。
私は何度も、二体目の幻獣種なのではないかと想像した。
雲の上を泳ぐ巨大な生き物。
空を覆う翼。
雷の中を進む影。
考え始めれば、いくらでも姿を作れてしまう。
だから紙には余計なことを書かなかった。
《雲より上を泳ぐ影――正体不明》
今分かっているのは、それだけ。
それでいい。
私自身は右足を休ませながら、魔法の制御を練習した。
宿の中で大きな魔法を使うわけにはいかないので、掌の上へ小さな魔力の光を作り、同じ大きさのまま維持する。簡単そうに見えたけれど、やってみると意外に難しく、気を抜けば膨らみ、抑えすぎれば消えてしまう。
「また大きくなった」
フランに言われる。
「分かってる!」
「怒るともっと大きくなるよ」
本当に一回り大きくなった。
「じゃあ話しかけないで!」
「戦ってる相手が静かにしてくれると思う?」
何も言い返せなかった。
その日から、フランにはわざと普通に話しかけてもらった。リリィには横から突然質問され、オラクルにはどうでもいい話を延々と聞かされた。
三日目には、周囲で話をされても光の大きさをほとんど変えずに保てるようになった。
ほんの小さな進歩だった。
でも、嬉しかった。
みんなが、それぞれ昨日までできなかったことを一つずつ増やしている。
TIME No.7のナナが見せた力と比べれば、本当に小さな一歩なのかもしれない。
それでも私たちは、いきなりナナより強くなる必要はない。
旅を続けながら、一つずつ増やしていけばいい。
数日後。
治療師から、ようやく旅へ出てもいいという許可が出た。
「ただし、走らないこと。痛みが出たらすぐ休むこと。少しでも悪化したら、次の町で必ず診てもらってください」
私の右足についてそう言ったあと、治療師はフランを見る。
「あなたも同じです。剣を振るのは、もう少し我慢してください」
「左手も?」
「左手を動かすこと自体は構いません。でも右腕を庇って身体を捻るような動きは禁止です」
フランは少し残念そうだったけれど、素直に頷いた。
以前なら二人とも「大丈夫」と言っていたかもしれない。
今は違う。
宿へ戻って許可が出たことを伝えると、オラクルはすでに荷物をまとめ始めていた。
「明日の朝、出るぞ」
「早い!」
「お前らの許可待ちだったんだよ」
テーブルには、新しく買った地図と必要な物の一覧が並んでいた。
食料と水は最初の宿場町までの分だけ。そこで補充する。
山へ近づけば夜が冷えるため、防寒具も用意する。
簡単な治療道具はメリーだけに持たせず、荷物を分ける。
もし誰か一人とはぐれても最低限動けるよう、水と食料も一ヶ所へまとめない。
「前より準備が細かいね」
私が言うと、オラクルが呆れた顔をした。
「お前らが毎回何か起こすからだ」
「私たちのせい!?」
「半分くらいはな」
「残り半分は?」
「運が悪い」
それは否定できなかった。
荷物を確認していると、私は《幻獣種召喚の本》を手に取った。
グライツへ行く一番大きな目的。
二体目の幻獣種へ繋がる情報を探す。
でも、それだけではなくなっている。
世界一の大図書館では、幻獣種そのものについて知りたい。
フランはリザーメイトとアルトについて調べる。
グラティスで遭遇した大剣使いについても、過去の記録と照らし合わせられるかもしれない。
私自身も、お父さんとお母さんに繋がる記録がないか探したい。
そしてメロウ。
もし会えたなら、なぜ《雲より上を泳ぐ影》を調べていたのか聞きたい。
目的は一つではない。
それでも全部、「知らないことを知る」という一本の道で繋がっているような気がした。
その夜、眠る前に窓を開けた。
遠くに武道大会の闘技場が見える。
修復作業が始まり、燃えた場所には足場が組まれていた。何日か前まで、あそこで誰が優勝するのかだけを考えていたことが、ずいぶん昔のように感じられる。
フランは決勝まで進んだ。
ナナの正体が明らかになった。
アルトという名前を知った。
《ドッペルゲンガーの鏡》を奪われた。
そして、私たちは今のままでは足りないことを知った。
大会は最後まで終わらなかった。
それでも、何も得られなかったわけではない。
むしろ、ここへ来る前よりずっと多くのものを抱えて次へ進むことになる。
「お父さん、お母さん……」
小さく呼んでみる。
返事はない。
当たり前だ。
でも世界一の図書館なら、ほんの少しでも近づけるだろうか。
二人がどこにいるのか。
どうして私と離れたのか。
まだ分からないことばかり。
それでも、旅を始めた頃とは違う。
一人ではない。
「明日、また行ってくるね」
誰に聞かせるでもなく呟き、窓を閉めた。
翌朝。
空はよく晴れていた。
宿の前には全員が揃っている。
フランはもう右腕を吊っていなかった。ただし治療師との約束どおり、短剣を振る練習はまだしない。
リリィは追跡道具を小さな鞄へまとめ、メリーは治療師から分けてもらった包帯や薬を自分で確認している。
オラクルは新しい地図を開き、最後に道順を確認した。
「最初は西の街道。今日は最初の宿場町まで行く。途中で無理はしねえ。フール、足が痛くなったらすぐ言え」
「分かってる。痛くなる前にも休む」
私が答えると、オラクルは少し意外そうな顔をした。
「そこまで分かってんならいい」
「何その顔」
「前なら『痛くないから平気!』って言ってただろ」
「もう言わないよ」
「本当か?」
「たぶん」
「今ので一気に信用なくなったぞ」
フランが笑い、リリィまで呆れたように首を振った。
オラクルは次にフランを見る。
「お前も右腕に違和感が出たらすぐ言え。短剣も今日は抜くな」
「分かってるよ。左手の練習もしない」
「ならいい。リリィは勝手に何か追うなよ」
「どうして私だけ注意の種類が違うの?」
「変な足跡見つけたら、そのまま消えそうだからだ」
「消えないよ」
リリィは少し考えたあと、付け加えた。
「……たぶん」
「お前もかよ」
朝からいつも通りだった。
そのやり取りを聞きながら、私は宿を見上げた。
何日も過ごした場所。
武道大会へ向かう前は、ここを出るときにこんな気持ちになるとは思っていなかった。
優勝するフランを見たいと思っていた。
決勝まで進んで、本当に優勝が見えるところまで来た。
でも大会は終わらなかった。
勝者も決まらなかった。
代わりに私たちは、TIMEがどれほど危険な存在なのかを改めて知り、フランの過去へ繋がるアルトという名前を知った。
失ったものもある。
分からなくなったことも増えた。
それでも、その全部をここへ置いていくわけではない。
次の旅へ持っていく。
「行こう」
私が言うと、オラクルが地図を畳んだ。
「まずは宿場町までだ。張り切って飛ばすなよ」
「分かってるって」
私たちは街の出口へ向かった。
朝の通りには、すでに店を開ける人たちがいる。武道大会のために飾られていた旗は少しずつ外され、代わりに壊れた建物を直すための木材を積んだ荷車が何台も行き交っていた。
昨日までとは違う街。
でも、止まってはいない。
闘技場へ続く道の前を通ったとき、私は少しだけ歩く速度を落とした。
遠くに修復用の足場が見える。
その横には王宮兵が立ち、まだ一般の人が入らないよう道を塞いでいた。
フランも同じ場所を見ていた。
「悔しい?」
私が尋ねる。
「決勝?」
「うん」
少し考えてから、フランは笑った。
「悔しくないって言ったら嘘かな。あそこまで行ったんだから、最後まで戦いたかった」
腰の短剣へ目を落とす。
「でも、今は勝ち負けより知りたいことのほうが多い」
ナナとの決勝で知ったこと。
アルト。
《オベリスク》。
自分の短剣。
両親の会話。
どれも試合の勝敗より、ずっと長くフランの中に残るものだと思う。
「次にナナと会ったら?」
何気なく聞くと、フランが困ったように笑った。
「まず逃げるかも」
「えっ」
「だって昨日みんなで話したでしょ。今の俺たちじゃ危ないって」
確かに。
「でも、いつかはもう一回戦ってみたい」
その声には怒りより、剣士としての悔しさがあった。
「今度は右腕が使えなくなっても、あそこで止まらないようにしてからね」
それなら私も見てみたい。
でも次は、会場を燃やさないでほしい。
街の門を抜けると、景色が一気に開けた。
石畳の道はしばらく真っ直ぐ西へ伸び、その両側には朝露を残した草原が広がっている。遠くには低い丘が重なり、そのさらに向こうには薄い山並みが霞んでいた。
あの先。
まだ見えないもっと向こうに、グライツ王国がある。
世界一の大図書館。
考古学者メロウ。
《雲より上を泳ぐ影》。
そして、二体目の幻獣種へ繋がるかもしれない何か。
考えるだけで足が少し速くなる。
「フール」
すぐ後ろからリリィの声がした。
「走ってないよ!」
「まだ何も言ってない」
「絶対言おうとしたでしょ」
「歩くの速くなってたから」
ばれていた。
私は素直に速度を落とした。
オラクルが横を通り過ぎながら笑う。
「先が長えんだから、最初の一時間で足潰すなよ」
「分かってる」
今度こそ、本当にゆっくり歩いた。
久しぶりの街道は気持ちがよかった。
武道大会の街では、ずっと人の声や歓声を聞いていた。それに比べれば、聞こえるのは風が草を揺らす音と、時々通り過ぎる荷馬車の車輪くらいだ。
メリーは私たちの周りを飛びながら、遠くに見えるものを次々と指差した。
『あれ何?』
「牛じゃねえか?」
『じゃあ、あっちは?』
「木」
『その向こう!』
「木」
『全部木じゃん!』
「森なんだから当たり前だろ」
オラクルとのやり取りを聞いて、みんなで笑う。
こんな時間が好きだった。
危険な場所へ向かっているわけではない。
少なくとも、今のところは。
ただ次の目的地へ歩いている。
それだけなのに、旅をしている感じがする。
最初の休憩は、オラクルが決めた時間より少し早かった。
「まだ歩けるよ?」
私が言うと、オラクルは道端に荷物を下ろした。
「歩けなくなってから休んだら遅えんだよ」
昨日までなら不満だったと思う。
でも今日は素直に座った。
フランも右腕を確かめている。
「痛い?」
「痛くない。ちょっと重い感じがするくらい」
「それ言ったほうがいいんじゃない?」
「今言ったよ」
「私じゃなくてオラクルに」
「聞こえてる」
少し離れたところから返事が来た。
「痛みじゃなくても違和感あったら休め。今日は予定より遅れても構わねえ」
フランも素直に頷いた。
旅を続けるために強くなる。
それは新しい技を覚えることだけではない。
休むべきときに休む。
怪我を隠さない。
必要な情報を集める。
数日前なら、そんなことを「強さ」とは思わなかった。
今は少し分かる。
再び歩き始めてからしばらくすると、道の様子が少し変わった。
最初は気にしていなかった。
荷馬車の轍が増えただけだと思った。
街から離れれば、別の道から来た旅人や商人が合流することもある。
でもリリィだけは、何度か地面を見ていた。
一度目は何も言わなかった。
二度目も、そのまま歩いた。
三度目。
今度は街道の端へ視線を向けたまま、歩く速度を落とした。
「リリィ?」
「ちょっと待って」
全員が止まる。
リリィは街道の端へしゃがみ込み、何本も重なった足跡を見た。
ここは人が通る道だ。
馬の蹄。
荷車の轍。
靴。
大きいものも小さいものもある。
私には、どれを見ているのかさえ分からなかった。
「何か変?」
リリィは答えず、少し先へ歩いた。
今度は街道を外れ、草むらの手前で止まる。
「フール、こっち来るなら私が歩いたところ踏んで」
「う、うん」
私は慎重に同じ場所を歩いた。
オラクルも表情を変え、地図をしまう。
「何を見つけた?」
「まだ分からない」
リリィはそう答えた。
決めつけない。
それは私たちが何度も学んできたことだった。
彼女は倒れている草へ指先を触れた。
朝露。
一部だけ水滴が落ちている。
「ここ、誰か通ってる」
「街道から外れただけじゃねえのか?」
「それだけなら変じゃない。でもさっきから同じ足跡が何度か道を出たり入ったりしてる」
リリィは街道へ戻り、少し前の場所を指した。
「最初に気づいたのはあそこ。四人分の足跡が街道へ出てきてた」
「四人?」
「たぶん。靴の形と歩幅が違うから」
フランがしゃがもうとしたので、リリィが止める。
「そこ踏まないで」
「ごめん」
「それから、この四人はしばらく街道を歩いてる。だから最初は普通の旅人だと思った」
「違ったの?」
私が聞く。
「まだ分からない。でも――」
リリィは数歩先へ移動した。
街道の右側。
草が細く倒れている。
「ここでまた道を外れてる」
オラクルが草むらを見る。
「四人とも?」
「三人」
その言葉で、空気が変わった。
「一人は?」
「街道に残ったのかと思った。でも、その先に同じ足跡がない」
リリィは道の中央まで移動した。
私も見た。
当然、何も分からない。
たくさんの足跡が重なっているだけだ。
「他の足跡に消されたとか?」
「それも考えた」
リリィは頷いた。
「だから何度か先まで確認した。でも四人のうち、一人だけ同じ靴跡が見つからない」
フランの表情が少し険しくなる。
「戻った?」
「戻った跡も、今のところない」
「じゃあ……どこ行ったの?」
誰も答えなかった。
街道の左。
右の草むら。
来た道。
これから進む道。
一人だけ、足跡が消えている。
オラクルがリリィを見る。
「どれくらい前だ?」
「新しいと思う。草の朝露が落ちたままだし、踏まれた葉もまだ起きてない。私たちより少し前に通った可能性が高い」
私は街道の先を見る。
そこには誰もいない。
遠くを荷馬車が一台進んでいるだけだった。
さっきまで気持ちよく感じていた草原が、急に広すぎるように見えた。
隠れる場所なんてほとんどない。
それなのに、一人分の足跡だけが消えている。
「追う?」
私はリリィに聞いた。
すぐに答えは返ってこなかった。
リリィは草むらへ入った三人分の足跡を見てから、街道へ残ったはずの一人分の跡をもう一度確認した。
「追う前に、もう少し調べたい」
「どうして?」
「この三人が一人を置いていったのか、その一人が自分でどこかへ行ったのか、それすらまだ分からないから」
オラクルが頷く。
「正解だ。変な足跡見つけたからって、いきなり追いかけるな」
リリィが少しだけ得意そうな顔をする。
「昨日練習したから」
「一日で偉そうにすんな」
「でもできてるでしょ」
「まあな」
私は二人の会話を聞きながら、もう一度草原を見た。
グライツ王国への旅は始まったばかりだ。
世界一の図書館へ行って、幻獣種について調べる。
メロウを探す。
アルトやリザーメイトのことも調べる。
そんなことばかり考えて街を出た。
でも旅は、目的地まで真っ直ぐ進ませてくれるとは限らない。
風が吹いた。
草原が大きく波打つ。
そのときだった。
少し離れた草の中から、何かが光を反射した。
「……何?」
私が指差す。
リリィがすぐに見る。
オラクルが手で全員を止めた。
「動くな」
さっきまでの軽い声ではなかった。
草が風で倒れ、ほんの一瞬だけ地面が見えた。
そこに落ちていたのは、小さな金属片だった。
リリィが慎重に近づく。
しゃがみ込み、直接触れる前に周囲を確認した。
「これ……」
金属片ではなかった。
留め具。
何かから引きちぎられたように、片側が曲がっている。
そのすぐ横。
草に隠れていた土の上へ、細い跡が一本伸びていた。
人が歩いた跡ではない。
何か重いものを、地面の上で引きずったような跡。
それは三人分の足跡と同じ方向へ、草原の奥まで続いていた。
リリィの表情から、さっきまでのわずかな余裕が消えた。
「オラクル」
「ああ。見えてる」
私にも、ようやく分かった。
一人分の足跡が消えたのではない。
もしかすると――。
その人は、もう自分の足で歩いていなかったのかもしれない。




