第145話 幼い日の記憶
武道大会が壊された翌朝、宿の窓を開けても、昨日まで街を満たしていた賑やかな声は戻ってこなかった。
通りには人がいるし、閉まっていた店も少しずつ営業を始めている。それでも街全体が妙に静かに感じられるのは、行き交う人たちの話題がほとんど同じだからだと思う。
武道大会、TIME、七番、大火災、王宮内庫。そして、奪われた《ドッペルゲンガーの鏡》。
遠くに見える闘技場の上には、まだ薄い煙が残っていた。昨日のような黒煙ではないけれど、朝の空へ細く伸びている煙を見るだけで、燃えた大幕が落ちてきた光景や、出口へ押し寄せた人たちの叫び声まで頭の中へ戻ってくる。
あれほど大勢の人が歓声を上げていた場所が、一晩で変わってしまった。
決勝戦も終わっていない。
フランとナナのどちらが勝ったのかも決まらなかった。
でも、今はそんなことを残念がる気持ちより、昨日みんなで宿まで戻ってこられたことへの安堵のほうがずっと大きかった。
私は窓枠から手を離し、静かに窓を閉めた。
「もう火、全部消えたかな」
「大きな火は夜中に消えたみたい。でも、焼けた通路とか崩れそうな場所がかなりあるから、しばらく闘技場には入れないって」
後ろからリリィが答えた。
彼女も昨日は最後まで救助を手伝っていたので、上着の袖にはまだ煤の跡が残っている。私の右足も無理をしたせいか朝から少し重く、体重を掛けると足首から脛へ鈍い痛みが走った。
ほんの少し顔をしかめただけなのに、リリィは見逃さなかった。
「フール、今日走ったら本当に怒るからね」
「今日は走らないよ」
「昨日も聞いた」
「今日は本当!」
「それも昨日聞いた」
信用されていない。
でも昨日の自分を思い返せば、仕方ない気もした。
一階へ下りると、オラクルとメリーはすでに朝食の席にいた。フランもいる。
金色の髪には少し寝癖が残っていたが、右腕は昨日と同じように胸の前で吊られている。武道大会で負傷を重ねた右腕は、治療師から数日しっかり休ませるよう言われていた。
「おはよう」
声を掛けると、フランがこちらを見る。
「おはよう」
いつもと同じように返してくれた。
でも昨日から、少しだけ静かだった。
理由は分かっている。
アルト。
フランの故郷、リザーメイト王国を滅ぼした人物。
TIMEの一員で、その中でも別格に強いとナナが言っていた男。《幻神の剣オベリスク》という光る大剣を持ち、何よりフランが幼い頃から家で触っていた剣の、かつての持ち主。
知らなかったことが一度に増えすぎた。
私だって頭の中で全部を整理できていないのだから、フランならもっとだと思う。それでも今は何も聞かなかった。
全員で朝食を食べ始めてしばらくすると、宿の外が急に騒がしくなった。窓の向こうを何人もの人が同じ方向へ歩き、そのうちの一人が丸められた大きな紙を何枚も抱えている。
オラクルがパンを食べる手を止めた。
「来たか」
「何が?」
「手配書だろ」
その一言で、フランまで顔を上げた。
昨日の事件。
TIME No.7。
王宮が何もしないはずがない。
朝食を済ませて外へ出ると、通りの中央にある掲示板の前には、すでに大勢の人が集まっていた。
王宮兵が古い手配書を何枚か剥がし、その上へ新しい紙を貼っている。一番目立つ場所にあったのは、もう《ナディア》の顔ではなかった。
変装を解いたナナ。
その横に大きく記されている。
《TIME No.7》
そして、その下には以前より大幅に引き上げられた懸賞金が記されていた。
私は金額そのものより、周囲の賞金稼ぎたちの反応を見た。
「一晩でここまで上がったのか」
「武道大会へ偽名で潜入。王宮兵と賞金稼ぎを大量に負傷させて、大規模放火。そのうえ王宮内庫へ侵入して秘宝まで強奪だぞ。むしろ当然だろ」
「金額だけ見て追う馬鹿が出なきゃいいけどな」
「昨日の試合を見て、それでも行く奴がいるなら好きにさせろ。俺は御免だ」
誰も笑わなかった。
昨日までなら、TIMEの手配書も賞金稼ぎたちにとって数ある仕事の一つだったのかもしれない。今は違う。この街にいる大勢の人が、ナナの本当の力を直接見ている。
何十人もの賞金稼ぎ、王宮兵、魔道士が一斉に襲いかかっても捕まえられなかった。それどころか人数を増やして攻撃したことで、《天輪返し》にまとめて力を利用された。
紙に書かれた懸賞金より、昨日の光景そのものが警告になっているように感じた。
「七番なんだよね」
気づけば口にしていた。
隣にいたフランが小さく頷く。
「うん」
たったそれだけの会話だった。
でも、その意味は重い。
TIMEには、まだ上の番号がいる。
そしてNo.10には、アルトがいる。
宿へ戻る途中も、そのことが頭から離れなかった。
部屋へ戻ると、私はみんなへ声を掛けた。
「話したいことがある」
オラクルがこちらを見る。
「珍しく真面目な顔してんな」
「私だって真面目な話するよ」
「知ってる。で?」
話し始めようとしたところで、フランが先に口を開いた。
「その前に、俺から話していい?」
もちろん誰も止めなかった。
フランは腰から短剣を外し、鞘に収めたままテーブルへ置いた。左手で柄頭へ一度触れ、少し考えてから話し始める。
「昨日、ナナに言われたことをずっと考えてた。アルトのことも、この剣のことも。それで、昔のことを一つ思い出したんだ」
声は落ち着いている。でも左手は短剣から離れなかった。
「俺がまだ小さかった頃。何歳だったかまでは覚えてない。夜中に目が覚めて、水を飲みに行こうとして廊下を歩いてたことがあった」
フランは一度目を閉じた。
「父さんと母さんの部屋の前を通ったとき、話し声が聞こえた。普段ならそのまま通り過ぎたと思う。でも、その夜だけ二人とも妙に声が小さかったから、何となく止まったんだ。全部は覚えてない。ただ、一つだけ覚えてる」
フランの親指が短剣の柄をゆっくりなぞった。
「『あの子のことが知られたら、大変なことになる』って」
部屋が静かになった。
「あの子って……フラン?」
聞いたあとで、すぐに決めつけたかもしれないと思った。
でもフランは首を横へ振った。
「分からない。俺のことかもしれないし、別の誰かかもしれない。そのときも意味が分からなかったし、次の日には忘れてたと思う」
「昨日、思い出したの?」
「うん。この剣のことを考えてたら」
フランは短剣を持ち上げた。
「これも、その頃にはもう家にあった。俺が物心ついたときには置いてあって、まだ長い剣だった。子供の俺には重すぎたけど、勝手に引っ張り出して遊んで、何度も怒られた。あとで俺が使えるように短剣へ打ち直したけど、柄と鍔は気に入ってたから、そのまま残してもらった」
ほんの少しだけ懐かしそうな表情になる。
けれど、それはすぐに消えた。
「ナナは、その柄と鍔を見てアルトが昔使ってた剣だって気づいた」
昨日までなら、ただの思い出だった。
家にあった剣。
夜中に聞いた両親の会話。
今は、その間へアルトという知らない男が入り込んでいる。
「父さんと母さんは、俺が知らない何かを知ってたのかもしれない」
フランはそれ以上、答えを作ろうとはしなかった。
私も同じだった。
「あの子」が誰なのかは分からない。なぜアルトの剣がフランの家にあったのかも分からない。でも、分かったことは増えている。
「調べられるね」
フランが顔を上げた。
「何を?」
「全部。アルトって名前。この短剣が昔アルトのものだったこと。フランのお父さんとお母さんが、誰かのことを知られたら大変だって話してたこと。まだ繋がってないけど、前より探すもの増えたでしょ?」
フランはしばらく黙っていた。
やがて短剣を見たまま、小さく息を吐く。
「……変なんだ。昨日までは、TIMEのことを知れば故郷を滅ぼした理由に近づけると思ってた。でも実際に一つ分かったら、前より分からなくなった」
フランの指が柄頭の傷をなぞる。
「アルトがリザーメイトを滅ぼした。それだけなら、俺はあいつを憎めばよかった。でも、そのアルトの剣が俺の家にあった。父さんと母さんも何かを隠してたかもしれない。そうなると……俺が知らなかっただけで、俺の家族とアルトに何か関係があったんじゃないかって考えちゃうんだ」
怒っているだけではなかった。
故郷を奪った相手に、自分の家族が繋がっているかもしれない。
その可能性そのものが怖いのだと思う。
「知るの、怖い?」
フランはすぐには答えなかった。
やがて小さく頷く。
「ちょっとね。知りたいのに、知ったら今まで信じてたものまで変わりそうで」
その気持ちは、私にも少し分かる気がした。
私だって両親を探している。
いつか、ずっと思い描いていたものとは違う真実を知るのかもしれない。
それでも。
「私は調べたい」
フランがこちらを見る。
「フランが知りたいなら、一緒に調べる。怖い答えでも、分からないまま一人でずっと考えるより、ちゃんと知ってからどうするか決めたほうがいいと思う」
「フールに言われると、すごく簡単に聞こえる」
「悪口?」
「違うよ。助かってる」
フランが少しだけ笑った。
そこで私は、本当に話したかったことへ戻った。
「私が話したかったのは、TIMEのこと」
部屋の空気が少し変わった。
「昨日のナナを見て思った。私たち、今のままだと危ない」
誰も否定しなかった。
最初に遭遇したNo.1には、音そのものを奪われたような異様な状況の中で、まともに戦うことさえできなかった。
No.4エドガーの《悪魔》と対峙したときも、自分たちだけの力で切り抜けたわけではない。
「四番のときは、シャイニーが来てくれた」
その名前を口にすると、当時の光景が頭へ戻ってくる。
もしシャイニーが現れなかったら、同じように生き残れていたのか。今になって考えると、簡単には頷けなかった。
「一番のときも、四番のときも、私たちがTIMEより強かったから生き残れたわけじゃない」
そこまで言ったところで、雪に覆われたグラティスの光景が不意に蘇った。
《セレスティア》から《古の目覚めの笛》を受け取るはずだった場所。
そこで私たちを襲った、黒い服の人物。
「……グラティス」
オラクルとメリーも反応した。
「覚えてる? あのとき襲ってきた人、大きな剣を持ってたよね」
「ああ。持ってたな」
『大きかったよ』
フランとリリィは、その頃まだ私たちと一緒ではなかった。
私は二人へ、グラティスで《セレスティア》に願いを叶えてもらえることになり、《古の目覚めの笛》を願ったものの、受け取る前に黒い服の人物から襲撃されたことを説明した。
フランの表情が変わる。
「その人が大剣を?」
「うん。昨日までは気にしてなかった。でもナナ、アルトは光る大剣を持ってるって言ってたでしょ」
「《オベリスク》……」
「だから、もしかしたらって思っただけ。グラティスで襲ってきた人がアルトだったのかもしれない」
フランの顔から、ほんの少し血の気が引いた。
「どんな奴だった?」
すぐに聞かれた。
私は記憶を探ってから首を横へ振った。
「今は、大きな剣を持ってたことくらいしか言えない。覚えてないところまで勝手に作ったら駄目だから」
フランは残念そうだったが、自分から頷いた。
「そうだね。大剣だけじゃアルトって決まったわけじゃない」
それでも、フランの左手は短剣の柄へ伸びていた。
「でも……もし本当にアルトだったら、俺がみんなと会う前から、あいつはすぐ近くまで来てたんだな」
昨日まで名前すら知らなかったアルトが、少しずつ現実の人間へ変わっていく。そのことへの怖さと、もっと知りたいという気持ちが、フランの中で同時に膨らんでいるようだった。
私は話を戻した。
「それで昨日は七番。ナナ一人を、あれだけ兵士も賞金稼ぎもいたのに止められなかった」
リリィも頷く。
「人数を増やしたら、むしろ《返衝》に利用された。能力を知っていても、どう戦うか分からなければ意味がない」
「それにアルトは、ナナがTIMEの中でも別格って言うくらい強い」
フランがそう続けると、部屋の空気がもう一度重くなった。
ナナでさえ、あれほどだった。
武道大会を勝ち上がっていたときには、本当の力をほとんど隠していた。それでも決勝まで残り、正体を現してからは王宮兵や賞金稼ぎを相手にしても余裕を失わなかった。大勢で囲めば有利になるどころか、《返衝》によって攻撃へ込めた力そのものを利用され、最後には《天輪返し》で何人もの人間がまとめて吹き飛ばされた。
そのナナが、アルトを別格だと言った。
しかもアルトはNo.10。
さらに上には十一番と十二番がいる。
賞金稼ぎの村で見た冊子では、番号が上がるほど確かな情報そのものが少なくなっていた。十一番は強力な魔法使いらしいという話がある程度で、十二番については存在以外ほとんど分かっていない。
顔さえ知らない相手が、まだ先にいる。
オラクルはしばらく黙って煙草を吸っていたが、やがて細く煙を吐きながら私たちを順番に見た。
「ようやく分かったか」
「何が?」
「今まで運が良かったってことだ」
少し腹が立った。
でも、すぐには言い返せなかった。
オラクルも責めるために言ったわけではないらしく、いつものように笑ったりもしなかった。
「一番と会って生き残った。四番のときはシャイニーが来た。グラティスで襲ってきた奴がアルトかどうかはまだ分からねえ。そして七番は、最初からお前らを殺すために武道大会へ潜り込んだわけじゃない。あいつの目的は《ドッペルゲンガーの鏡》だった」
灰皿へ煙草の灰が落ちる。
「今まで何度も生き残れたから、次も何とかなると思うな。次に出てくる奴が最初からお前らを殺すつもりなら、昨日とは話が違う」
怖い言葉だった。
でも、昨日の光景を思い出せば否定できない。
ナナが本気を出したとき、兵士や賞金稼ぎは次々と倒れ、最後には闘技場そのものが炎に包まれた。それでもナナにとっては、私たちを倒すことが目的だったわけではない。兵士たちを救助へ向かわせ、その隙に王宮へ入り、《ドッペルゲンガーの鏡》を奪うために作った混乱だった。
それだけで、あれほどの被害が出た。
もし次に出会うTIMEが、最初から私たちを狙っていたら。
そう考えると、膝の上に置いた指先が少し冷たくなった。
怖い。
その気持ちは誤魔化せなかった。
でも、その怖さから逃げるために旅を終わらせることを考えると、胸の奥にもっと強い抵抗が生まれた。
「私、旅をやめたくない」
全員の視線が集まった。
言葉にしたことで、自分が何を怖がっていて、それでも何をしたいのかが少しずつはっきりしていく。
「TIMEを倒したくて旅してるんじゃない。私はお父さんとお母さんを探したい。そのために、まだ行ってない場所へ行きたいし、聖なるマップだってもっと埋めたい」
旅に出てから、怖いことは何度もあった。
逃げたこともある。
傷ついたこともある。
自分だけではどうにもできず、誰かに助けてもらったことだって一度や二度ではない。
それでも、旅に出たことを後悔したことはなかった。
「これからも旅を続けたら、またTIMEに会うかもしれない。TIMEじゃなくても、もっと強い人や魔物に会うかもしれない。そのたびに誰かが助けに来てくれるとは限らないでしょ?」
四番のときのシャイニー。
昨日の王宮兵や賞金稼ぎ。
助けてもらうことが悪いとは思わない。
私たちだけで何でもできるなんて思っていない。
でも、誰かが来てくれることを前提にして旅を続けるのは違う。
「だから、強くなりたい。TIMEを倒すためじゃないよ。お父さんとお母さんを見つけるまで旅を続けるため。次に何かあっても、みんなでちゃんと帰ってこられるくらい強くなりたい」
最初に頷いたのはフランだった。
「俺も」
左手が短剣の柄を握る。
今度は不安を確かめるような触れ方ではなかった。
「アルトに会いたい。何でリザーメイトを滅ぼしたのか聞きたいし、この剣が何で俺の家にあったのかも知りたい。父さんと母さんが話してた『あの子』のことだって、関係があるなら確かめたい」
一度言葉を切り、吊られた右腕を見る。
「でも、今の俺がアルトに会って、ナナの言ってた強さが本当だったら、何かを聞く前に終わるかもしれない」
悔しさが表情へ滲んだ。
決勝戦でも、この右腕の負傷によって何度も戦い方を変えなければならなかった。
「右腕が治ったら、今までみたいに短剣一本だけで戦うのを一度見直したい。右が使えなくなっただけで、できることが一気に減ったから」
「別の武器を使うの?」
私が聞くと、フランは首を横へ振った。
「短剣は捨てないよ。これは俺の武器だから。でも左手でももっと正確に使えるようにする。武器を落としたときや片腕を封じられたときの戦い方も覚えたいし、ナナみたいに触れられたら不利になる相手なら、そもそも近づき方から変えなきゃ駄目だと思う」
昨日の敗北を、ただ悔しがっているだけではなかった。
何ができなかったのかを考えている。
「アルトを倒すためかどうかは、まだ決めない。何があったのか全部聞いて、それから自分で決めたい。そのために、まず話を聞けるところまで強くなる」
私は頷いた。
それでいいと思った。
怒りは消えていない。
故郷を失った悲しみも消えていない。
それでも、知らないまま憎むだけでは終わらせないと決めた。
リリィも少し考えてから、自分の腰にある短い刃物へ触れた。
「私は追跡だけじゃ駄目だと思った」
「リリィは十分すごいよ?」
「追うだけならね。でも昨日みたいな相手を見つけても、見つけたあとに何もできなかったら意味がない」
リリィは自分の得意なことを確認するように続ける。
「足跡を読むことも、匂いや持ち物から相手を追うことも続ける。でもこれからは、追ってる相手に気づかれたときの逃げ方と、自分より強い相手から距離を取る方法も覚えたい。正面から倒すんじゃなくて、相手を見失わずに生きて帰るための戦い方」
いかにもリリィらしいと思った。
ナナと同じように戦う必要はない。
フランと同じように剣を振る必要もない。
追跡者には、追跡者の強さがある。
「それと、フール」
「何?」
「足を治すまで勝手に走らないこと」
「それ、私の強化と関係ある?」
「ある。自分の怪我を悪化させない判断力」
オラクルが吹き出した。
「お前は最優先で鍛えろ」
「二人ともひどい!」
メリーまで笑っていたが、少しして真面目な顔になる。
『私は、治す力をもっと上手に使いたい』
昨日の闘技場では、メリーもずっと飛び回っていた。
負傷者を見つけ、治療し、また次の人を探す。
それでも人数が多すぎた。
『一人をいっぱい治すだけじゃなくて、怪我が重い人と軽い人を早く見分けられるようになりたい。それから、遠くにいる人にも少しだけ力を届けられたら、もっと助けられると思う』
「できるの?」
『まだ分かんない。でも練習する!』
今のメリーにできると決まったわけではない。
それでも、自分が伸ばしたい方向は見えている。
最後に全員の視線がオラクルへ向いた。
「何だよ」
「オラクルは?」
「俺に剣振れって言うなよ」
「言ってないよ」
「ならいい」
オラクルは煙草を灰皿へ押しつけた。
「俺は情報だ。昨日だって、七番の《返衝》を全員が正確に理解してりゃ、あんな馬鹿みたいな突撃は減ったかもしれねえ。相手が何者で、何ができて、何を狙ってるのか。それを戦う前に知るだけでも、生き残れる確率は変わる」
少し考えてから、さらに続ける。
「これからは行った先で情報屋だけに頼るんじゃなく、今まで知り合った奴との繋がりも使う。商人、カジノ、賞金稼ぎ、宿屋。別々の場所から同じ話が出るか確かめる。TIMEについても、噂一個拾って喜ぶんじゃなく、裏を取る」
「オラクルが一番得意そう」
「俺を誰だと思ってんだ」
「元泥棒」
「そこじゃねえ」
笑いが起きた。
さっきまで重かった部屋の空気が、ようやく少し軽くなる。
でも、私だけまだ決めていなかった。
みんなの視線がこちらへ向く。
「フールは?」
フランに聞かれ、私は少し考えた。
強い魔法を覚える。
それだけでは足りない気がする。
昨日の私は、ナナが本気を出してからほとんど何もできなかった。
それでも火災が起きたあと、人を助けることはできた。
リリィから教わった探し方も役に立った。
だったら私も、一つだけではなく、できることそのものを増やしたい。
「私は……まず、自分が今できることをちゃんと使えるようにする」
杖へ手を置いた。
「焦ると周りが見えなくなるし、昨日だってフランが試合場に残ってたとき、すぐ飛び込もうとした。オラクルに止められなかったら、余計に危なくしてたかもしれない」
言うのは少し恥ずかしかった。
でも本当だった。
「魔法ももっと練習する。でも、それだけじゃなくて、誰を助けるのか、逃げるのか、戦うのかをちゃんと考えられるようになりたい。それから――」
私は荷物から《幻獣種召喚の本》を取り出し、テーブルの中央へ置いた。
「この本のことを、もっと知りたい」
全員の視線が集まる。
「私たち、この本を持ってるのに、幻獣種のこと全然知らないでしょ。普通の魔物と何が違うのか、どこにいるのか、どうしてこの本に力を貸してくれるのかも」
表紙を指でなぞる。
「二体目を探そう」
フランが本を見る。
「戦力を増やすため?」
「それもある。でも、強いから仲間にしようってだけにはしたくない。幻獣種のことをちゃんと知って、そのうえで力を貸してもらえるなら、一緒に旅したい」
自分で言ってから、そのほうがいいと思った。
TIMEが強いから。
怖いから。
それだけを理由に幻獣種を集めるのは、何か違う。
強くなるために力は必要。
でも、その相手が何者なのかも知らずに力だけ欲しがりたくはなかった。
リリィが《幻獣種召喚の本》を覗き込む。
「でも、二体目がどこにいるか分かるの?」
「……分かんない」
オラクルが額を押さえた。
「そこまで考えてから格好つけろ」
「今決めたんだから仕方ないじゃん!」
「世界中歩き回って『幻獣種いませんか』って聞く気か?」
「それは……すごく時間掛かりそう」
「掛かりそうじゃねえ。何年掛ける気だ」
メリーが楽しそうに笑い、フランまで肩を揺らした。
さっきまでアルトの話をしていたときとは違う、自然な笑顔だった。
答えはまだ何も出ていない。
それでも、次に何をすればいいかは少しずつ見えてきた。
フランは右腕を治し、片腕を封じられても戦えるようにする。
リリィは追跡後に生きて帰るための自衛と離脱を覚える。
メリーは回復の速さと、負傷者を見分ける力を伸ばす。
オラクルは情報網を広げ、一つの噂を複数の情報から確かめる。
私は魔法と判断力を磨きながら、幻獣種について学び、二体目を探す。
やることは多い。
でも「強くならなきゃ」と思っているだけだったときより、不思議と怖さは小さくなっていた。
何をすればいいか分かれば、一歩目を選べる。
オラクルも、もう次の一歩を考えていた。
「まあ、幻獣種の居場所が分からねえなら、知ってそうな奴に聞けばいい」
「昨日の情報屋?」
「それもありだが、もっと安く使える奴がいる」
「安く使える?」
嫌な言い方だった。
オラクルは立ち上がって自分の荷物のところへ行き、硬貨の入った袋や古い地図、紙束を順番に退かした。一番底から小さな布袋を取り出し、中身を掌へ落とす。
出てきたのは、黒っぽい一枚のコインだった。
お金には見えない。
数字も文字もなく、表面には小さな布団の絵だけが刻まれている。
「……布団?」
口にした瞬間、ゴブリン王国での出来事が頭へ浮かんだ。
巨大なカジノ。
ヒヨコレース。
五千コイン。
そして、情報を集めるために布団から起き上がり、カジノ中を走り回ったゴブリン。
「まさか……布団ゴブリン?」
オラクルが口元を上げた。
「ああ。こういうときのための舎弟だ」
「絶対オラクルが勝手に舎弟って呼んでるだけでしょ」
「本人公認だ」
「本当かなあ」
「本当だ」
妙に自信満々だった。
オラクルは黒いコインを指先で回す。




