第144話 死者を映す鏡
紫色の転移魔法陣が消えると、窓のない広間は再び青白い魔法灯だけに照らされた。
ナナは王宮から抱えてきた《ドッペルゲンガーの鏡》を床へ慎重に下ろし、そこでようやく大きく息を吐いた。武道大会の闘技場から王宮内庫へ転移し、警備兵を突破したうえで何重もの封印を《返衝》で破り、さらに鏡そのものへ施されていた拘束術まで解除している。そこから鏡を抱えたまま、増援が内庫へ雪崩れ込む寸前にもう一度転移したのだから、いくらナナでも何事もなかったようには振る舞えなかった。
灰色の外套は《灼天・紅蓮廻廊》の熱と王宮での戦闘によって所々が焦げ、セドリックに斬られた左腕には大会の治療区画で巻かれた包帯が残っている。転移と封印突破を繰り返したせいか、白かった布には再び血が滲み始めていた。
それでもナナが最初に確認したのは、自分の傷ではなかった。
床に置いた鏡へ手を伸ばし、銀色の縁に傷が増えていないことを確かめる。
「会場一つ燃やして、王宮中の警報まで鳴らして持ってきたんだから、割れてたら笑えないわね」
鏡面は水面のようにわずかに揺れていたものの、破損している様子はない。
ナナが持ち上げようとしたところで、広間の奥から静かな声がした。
「その前に腕を出して」
ナナの手が止まる。
魔法灯の光が届ききらない場所に、一人の人物が立っていた。
黒い衣服。
それ以上は暗がりへ溶け、顔も年齢もよく分からない。
いつからそこにいたのかさえ、ナナは気づいていなかったようだった。
「これくらい平気よ」
左腕を軽く上げてみせる。
その動きで傷口が開いたのか、包帯へ新しい赤色が広がった。
暗がりの人物は近づかなかった。
ナナの腕へ触れることさえせず、片手をわずかに上げて指先を向ける。
淡い光が生まれた。
それはナナの左腕を包むように小さな魔法陣へ変わり、包帯の周囲を静かに一周する。
派手な光もなければ、長い詠唱もない。
ナナ自身も最初は何が起きたのか分からなかったらしく、包帯へ目を落とした。
血の染みが、それ以上広がらなくなっている。
包帯を少しずらす。
セドリックの湾曲刀によって作られた傷は、細い赤い線だけを残して塞がっていた。
ナナは肘を曲げ、肩を回したあと、左手を何度か開閉する。
痛みもほとんどないらしい。
「相変わらず便利ね」
暗がりの人物は答えなかった。
治療をしたというより、目についた傷を片づけただけ。そんな態度で一度だけ《ドッペルゲンガーの鏡》へ視線を向ける。
「それが目的のもの?」
「ええ。王家も随分大事にしてたわ。内庫の入口に障壁、鏡の台座には別の封印、そのうえ持ち上げようとしたら拘束術まで出てきた。全部壊す羽目になったけどね」
「壊した?」
「正確には、向こうが私を止めるために使った力を返しただけよ」
ナナは何でもないことのように言った。
「王宮兵まで増援に来たから、鏡を抱えてそのまま転移したわ。今頃は相当怒ってるでしょうね」
暗がりの人物は、それ以上質問しなかった。
鏡が無事に届いたことだけ確認すると、そのまま奥の通路へ姿を消していく。
名前も呼ばれない。
ナナも呼び止めなかった。
広間へ再び静けさが戻る。
「……本当に愛想ないんだから」
ナナは治った左腕で《ドッペルゲンガーの鏡》を抱え直し、別の通路へ歩き始めた。
長い廊下の先には、さっきの広間よりずっと狭い部屋があった。
扉を開けた瞬間、古い紙と蝋、乾燥させた薬草、それから何とも言えない冷たい匂いが混ざって鼻へ届く。
壁一面を埋める棚には何百冊もの本が詰め込まれ、その隙間には大小さまざまな箱が置かれていた。机の上も紙束だけではなく、黒ずんだ指輪、折れた髪飾り、古びた硬貨、欠けた短剣の柄など、誰かが長く使っていたらしい物で埋まっている。
部屋の奥に、一人の男が座っていた。
細身で、顔色は青白い。
長い指で一枚の紙を押さえ、ナナが入ってきても筆を止めない。
ナナは鏡を机の横へ立て掛けた。
「持ってきたわよ、レメク」
「聞こえている」
TIME No.3。
レメク。
《死者の記憶》。
そこでようやく筆が止まった。
顔を上げたレメクは、焦げたナナの外套にも、さっきまで傷を負っていた左腕にも興味を示さず、《ドッペルゲンガーの鏡》だけを見る。
「それか」
「そうよ。あなたが欲しがってた鏡」
レメクが立ち上がる。
鏡の前まで来ても、すぐには触れなかった。
まず鏡面を覗き込む。
そこには当然、レメク自身の姿が映った。
青白い顔。
細い身体。
何もおかしくない。
そう思った直後、鏡の中の輪郭が水面のように揺らいだ。
レメクの顔が消え、知らない老人へ変わる。
次は若い女性。
男。
子供。
どれも一瞬で消え、最後には再びレメク自身へ戻った。
「本物だったでしょう?」
「そのようだ」
「もっと喜んだら? あれを取るために、武道大会まで潰したのよ」
「大会を潰せとは頼んでいない」
「逃げるのに必要だったの」
「そうか」
「……話してると疲れるわね」
ナナは近くの椅子へ腰を下ろした。
レメクは気にせず鏡を観察している。
その姿を見ていたナナが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、鏡とは別に面白いものを見つけたわ」
「何を」
「人よ。リザーメイト王国の生き残り」
レメクの指が止まった。
本当にわずかな変化だった。
それでも、鏡以外へほとんど興味を示していなかった男が初めてナナを見る。
「リザーメイト?」
「金髪の男の子。フランって名乗ってたわ」
「知らない名だ」
「でしょうね。私も知らなかった」
ナナは背もたれへ身体を預ける。
「でも、持っていた剣には見覚えがあった」
レメクが黙る。
「アルトが昔使ってた剣よ」
今度は、さっきより長い沈黙が落ちた。
「刃は打ち直されて短剣になってた。でも柄頭と鍔は昔のまま。鍔の根元にある傷まで同じだったから、間違いないと思う」
「本人はアルトを知っていたのか?」
「いいえ。名前を聞いても本当に知らない顔をしてた。本人の話じゃ、物心ついた頃にはもう家に置いてあったらしいわ。幼い頃から勝手に触って遊んでいて、あとから自分が使えるよう短剣へ打ち直したって」
レメクが目を伏せる。
「なぜアルトの剣が、その家にあった」
「知らない。リザーメイトを滅ぼした理由だって、私は聞いてないもの」
ナナはそこで肩をすくめた。
「ただ、本人は何も知らないみたいだった。アルトがTIMEにいることも、《オベリスク》のこともね」
「そうか」
レメクはそれ以上、フランについて尋ねなかった。
ナナも推測で話を埋めなかった。
なぜアルトがリザーメイト王国を滅ぼしたのか。
なぜアルトの旧剣がフランの家にあったのか。
その答えを知る者は、この部屋にはいない。
しばらく鏡を調べていたレメクが、机の上へ積まれた物の中から小さな木箱を一つ選んだ。
蓋を開ける。
中には、黒ずんだ指輪が入っていた。
宝石もなく、高価そうにも見えない。ただ長い年月を誰かの指にはめられていたらしく、内側だけが不自然なほど滑らかになっている。
ナナが指輪を見る。
「誰の?」
「死者のものだ」
「それは何となく分かるわよ」
レメクは答えず、指輪を左手へ乗せた。
右手は《ドッペルゲンガーの鏡》の銀色の縁へ置く。
目を閉じる。
部屋の魔法灯が、一度だけ揺れた。
「《死者の記憶》」
空気が変わった。
冷たくなったというだけではない。
誰もいなかったはずの部屋へ、もう一人何かが入ってきたような感覚。
ナナの表情から笑みが消える。
レメクの左手に乗せられた指輪から、黒い霧のようなものが立ち上がった。
煙ではない。
揺れているのに天井へ昇らず、指へ絡みつき、腕を伝い、右手へ流れていく。
そして《ドッペルゲンガーの鏡》へ入った。
鏡面が黒く染まる。
最初は何も映らなかった。
レメク自身の姿さえ消え、底の見えない穴のような暗闇だけが広がっている。
ナナが椅子から身体を起こした。
「失敗?」
「まだだ」
黒い鏡面の奥で、何かが動いた。
最初に現れたのは、誰かの手だった。
そこから腕。
肩。
身体。
ぼやけた輪郭が少しずつ人間の形へ変わっていく。
でも、顔だけがない。
頭部には輪郭しかなく、目も鼻も口も存在しなかった。
「……《死者の記憶》だけでは、ここまでだ」
レメクが低く言う。
「死者自身が、自分の顔を見ている記憶は少ない。他人の姿は残っていても、自分自身の姿には欠落が生まれる」
ナナが鏡へ近づいた。
そこでようやく、レメクがこの鏡を欲しがった理由を理解したようだった。
「だから《ドッペルゲンガーの鏡》?」
「ああ」
レメクが鏡の縁を握る。
「記憶に残っている情報だけでは、姿にならないことがある。なら、欠けた部分へ別の力で形を与えればいい」
鏡面が波打った。
黒い闇の中に立っていた人影へ、少しずつ顔が作られていく。
額。
頬。
鼻。
口。
最後に、閉じられた二つの目。
一人の男が完成した。
ナナには見覚えがないらしい。
でもレメクは違った。
ほんのわずかに目を見開く。
「この男が?」
ナナが聞く。
レメクは答えない。
鏡の中の男を見つめ続けている。
成功した。
そう思った。
死者の記憶に残された情報へ、鏡が姿を与えた。
それで実験は終わったはずだった。
なのに。
鏡の中の男の指が動いた。
ナナが息を止める。
レメクも何もしていない。
男の右手が、ゆっくり持ち上がる。
そして、閉じられていた目が開いた。
「……レメク」
ナナの声が低くなる。
「これも、あなたがやってるの?」
返事がない。
その沈黙だけで十分だった。
違う。
レメクも予想していない。
鏡の中の男が顔を上げる。
最初はレメクを見る。
次にナナ。
まるで鏡の向こうから、こちら側に二人いることを認識しているように視線が動いた。
そして男の口が開いた。
音は出ない。
それでも、何かを言っている。
レメクが鏡へ顔を近づけた。
「待て」
初めて、その声に明確な感情が混じった。
鏡面が大きく揺れる。
男の姿が崩れ始める。
「もう一度だ」
レメクが《死者の記憶》を強めようとした瞬間、左手に乗せていた指輪へ一本の亀裂が走った。
「レメク、指輪!」
黒ずんだ金属が砕ける。
同時に、鏡の中の男が消えた。
黒い鏡面だけが残る。
部屋に静寂が戻った。
ナナはしばらく何も言わなかった。
レメクも砕けた指輪を見ている。
やがて鏡面が元の色へ戻り、そこに二人の姿が映った。
「……今のは何?」
ナナが尋ねる。
レメクはすぐには答えなかった。
砕けた指輪の欠片を一つ拾い、指先で確かめる。
「《死者の記憶》は、過去を見る力だ」
「知ってるわよ」
「死者と話す力ではない」
ナナの表情が変わった。
レメクは《ドッペルゲンガーの鏡》を見る。
「今まで、一度もこちらを見返されたことはない」
その言葉が部屋へ落ちた。
ナナも鏡を見る。
何も映っていない。
ただ二人の姿を返す、普通の鏡にしか見えない。
でも、もう同じものには見えなかった。
レメクが砕けた指輪を握る。
「この鏡は、記憶に姿を与えただけじゃない」
「じゃあ、何をしたの?」
長い沈黙のあと、レメクは低く答えた。
「分からない」
ナナが意外そうに眉を上げた。
レメクが分からないと言うとは思っていなかったのだろう。
「あなたがそれを言うの?」
「分からないものを、分かったとは言わない」
レメクは砕けた指輪を机の上へ戻すと、《ドッペルゲンガーの鏡》の前へ立った。
鏡面にはもう、さっきの男はいない。
映っているのはレメクと、その少し後ろに立つナナだけ。何度角度を変えても、知らない人物が現れることはなかった。
それでもレメクは鏡から離れなかった。
「俺が欲しかったのは、死者を蘇らせる道具じゃない」
ナナは何も言わず続きを待つ。
「《死者の記憶》で見られるものには限界がある。死者が見た場所、聞いた声、触れたもの、最後に抱いた感情。そういうものは拾える。だが、記憶は記録じゃない」
レメクは机に置かれた古い品々へ視線を向けた。
指輪。
髪飾り。
古びた硬貨。
欠けた武器。
どれも死者が生前に使っていた物なのだろう。
「人間は、見たものをすべて覚えているわけじゃない。重要ではなかった顔は曖昧になる。名前を忘れることもある。同じ場所の記憶が混ざることもある。まして死者自身の姿は、鏡でも見ない限り本人の視界にはほとんど残らない」
だから、これまでは欠けていた。
死者の記憶へ入れても、そこにいる人物の顔が分からない。
誰かに会っていることは分かっても、その相手を死者自身がよく覚えていなければ輪郭が崩れる。
ある場所へ行ったことは分かっても、本人が注意を向けていなかった物は形にならない。
そして何より、記憶を持つ死者本人の姿を外側から確認することは難しい。
「それを補うために鏡が必要だった?」
ナナが尋ねた。
「ああ。《ドッペルゲンガーの鏡》は、対象の姿を写し取る性質を持つと記録されていた。なら《死者の記憶》から拾った断片を鏡へ流せば、欠けている姿を補完できる可能性がある」
「それを確かめるために、王家から盗ませたのね」
「必要だった」
「簡単に言うわね。こっちは何十人に追い回されたのよ」
「持ち帰った」
「持ち帰ったけど」
ナナは呆れたように息を吐いたものの、それ以上文句は言わなかった。
レメクが鏡を必要とした理由は、ようやく理解したらしい。
死者の記憶を見るだけなら、これまでもできた。
欲しかったのは、記憶の中で欠けたものを形にする方法。
顔のない人物へ顔を与える。
曖昧だった姿を復元する。
死者自身の姿まで、記憶の外側から確認できるようにする。
そうなれば《死者の記憶》から得られる情報量は、今までとは比べものにならない。
ナナは再び鏡を見る。
「じゃあ実験自体は成功?」
「目的の一つは成功した」
レメクの言葉に、ナナが目を細めた。
「一つ?」
「あの男の姿は復元できた。そこまでは想定どおりだ」
「そのあとは想定外?」
レメクが頷く。
さっきの男。
閉じていた目を開いた。
こちらを見た。
レメク。
ナナ。
二人の位置を確かめるように視線を動かした。
そして何かを話そうとした。
《死者の記憶》は、過去を見る力。
レメク自身がそう言った。
死者の記憶の中にいる人物が、今ここにいる二人を認識するはずがない。
「もう一度試す?」
ナナが聞いた。
レメクは机の上を見た。
死者の遺品なら他にもある。
指輪が壊れても、代わりはいくらでもありそうだった。
それでもすぐ次を選ばない。
「今はやらない」
「珍しいわね」
「条件が分からない」
さっきの現象が《ドッペルゲンガーの鏡》によるものなのか。
《死者の記憶》との組み合わせによるものなのか。
それとも、使った指輪や、あの死者自身に何か特別な理由があったのか。
一度だけでは判断できない。
「同じ現象が起きる保証もない。原因が分からないまま続ければ、何を見ているのか判断できなくなる」
ナナが少し笑った。
「慎重なのね」
「死者の記憶を、自分の都合のいい答えに変えたくないだけだ」
その言葉を聞いて、ナナは笑うのをやめた。
レメクは机へ戻ると、砕けた指輪の欠片を一つずつ拾い、小さな箱へ戻していった。
最後の欠片を入れ、蓋を閉じる。
「ただし、鏡を手に入れた意味はあった」
「使えるから?」
「ああ」
レメクの目が、壁一面の棚へ向く。
そこにある無数の箱。
死者の遺品。
それぞれに、一人分の記憶が残っているのだとしたら。
ナナも同じことに気づいたらしい。
「随分、調べられることが増えそうね」
「増える」
「探してるものでもあるの?」
レメクは答えなかった。
その沈黙に、ナナが少しだけ首を傾げる。
「何よ」
「何でもない」
「そういう返し方する人が一番何かあるのよ」
レメクは無視した。
棚の前まで歩き、並んでいる箱を一つずつ見ていく。
最初の棚。
二段目。
三段目。
何十個もの箱を通り過ぎる。
目的のものが決まっている。
そんな動きだった。
やがて、一番奥にある棚の前で止まった。
他の箱とは少し違う。
黒い箱。
埃は積もっていない。
何度も手に取られているのか、蓋の端だけが擦れている。
ナナが椅子から立ち上がった。
「それ、誰の?」
レメクは答えない。
黒い箱を両手で持ち、机へ戻る。
置く。
それでも蓋は開けなかった。
ナナの視線が、箱とレメクを往復する。
「さっき今日はやらないって言ったでしょう?」
「ああ」
「じゃあ何で出したの?」
「確認しただけだ」
「何を?」
「まだ残っていることを」
ナナが眉を寄せる。
レメクは黒い箱から手を離した。
その仕草は、さっきまで扱っていた死者の遺品とは少し違っていた。
慎重だった。
壊したくないというだけではない。
開けることそのものを迷っているように見えた。
「……珍しい」
ナナが小さく言った。
レメクが彼女を見る。
「何がだ」
「あなたにも、そんな顔できるのね」
「どんな顔だ」
「自分で分からないならいいわ」
ナナはそれ以上聞かなかった。
黒い箱の中に何があるのか。
誰の遺品なのか。
レメクが《ドッペルゲンガーの鏡》を欲しがった本当の理由と関係しているのか。
今は何も分からない。
ただ一つ。
あれだけの騒ぎを起こしてまで奪ってきた鏡が、単なる便利な秘宝として終わらないことだけは、ナナにも分かった。
レメクは黒い箱を棚へ戻した。
「ナナ」
「何?」
「リザーメイトの生き残りについて、もう一度聞く」
意外な言葉だった。
ナナが振り返る。
「フラン?」
「ああ」
「さっき興味なさそうだったじゃない」
「アルトの旧剣を持っているなら、無関係とは考えにくい」
レメクは机へ戻り、白紙を一枚取り出した。
「外見は?」
「金髪。年齢は……見た感じ、まだ若いわね。短剣使いで、右腕を怪我してた。大会の決勝まで残ったから、弱くはない」
筆が動く。
「アルトとの関係は?」
「本人は知らないって言ってた。それ以上は私も分からない」
「リザーメイトを滅ぼした理由について、何か知っていたか?」
「何も。むしろ私に聞いてきたわよ。何でアルトが国を滅ぼしたのかって」
筆が止まった。
ほんの一瞬。
ナナが気づく。
「何?」
「いや」
「今、何か考えたでしょう」
「情報が足りない」
またそれだけだった。
レメクは書き終えた紙を折り、机の端へ置く。
ナナは不満そうだったけれど、追及しなかった。
「もういい?」
「ああ」
「じゃあ休むわ。今日はさすがに疲れた」
扉へ向かう。
途中で一度だけ《ドッペルゲンガーの鏡》を振り返った。
「それ、大事に使ってよ。二度と取りに行きたくないから」
「分かった」
「壊したら今度は自分で盗んできなさい」
「善処する」
「絶対しない返事ね、それ」
ナナが部屋を出ていく。
扉が閉じた。
レメク一人になった。
静寂。
魔法灯の微かな音。
レメクはしばらく何もせず、椅子へ座っていた。
やがて視線が鏡へ向く。
《ドッペルゲンガーの鏡》。
死者の記憶へ姿を与える。
それが目的だった。
少なくとも、最初は。
レメクが立ち上がる。
一番奥の棚へ向かう。
黒い箱の前で止まった。
今度は迷わず手を伸ばした。
箱を取り出す。
机へ戻る。
ゆっくり蓋を開けた。
中に入っていたのは、一枚の古びた布だった。
それだけ。
何の変哲もない。
色も褪せ、端は擦り切れている。
それでもレメクは、指輪を扱ったときとは違い、すぐには触れなかった。
長い間、見つめる。
そして《ドッペルゲンガーの鏡》を見る。
「記憶だけでは、届かなかった」
誰もいない部屋で、初めて独り言が漏れた。
レメクは古びた布へ指先を伸ばす。
触れる直前で止めた。
さっきの男がこちらを見た瞬間を思い出したのかもしれない。
過去を見るだけだった力。
姿を写すだけだった鏡。
二つを重ねたとき、死者は目を開けた。
もし、あれが偶然ではないなら。
もし、こちらを本当に認識していたのなら。
記憶を見るだけでは届かなかった場所へ、この鏡なら――。
レメクの指が、布へ触れた。
その瞬間。
背後で小さな音がした。
レメクが振り返る。
《ドッペルゲンガーの鏡》。
誰も触れていない。
魔力も流していない。
それなのに、鏡面だけがゆっくり波打っていた。
レメクは動かない。
鏡の中に映っているのは、自分一人。
そのはずだった。
肩の後ろ。
誰もいないはずの場所に、黒い影が立っていた。
レメクが振り返る。
部屋には誰もいない。
もう一度、鏡を見る。
影は消えていなかった。
むしろ、さっきより近い。
レメクの背後。
手を伸ばせば肩へ触れられるほどの距離。
顔だけが暗く、見えない。
レメクは鏡から目を離さなかった。
黒い影が、ゆっくり顔を上げる。
その瞬間。
机の上に置かれた古びた布が、風もないのにわずかに動いた。
レメクの表情が初めて明確に変わった。
「……まさか」
鏡の中で。
黒い影の口元だけが、ゆっくり笑った。




