第143話 ドッペルゲンガーの鏡
ナナの指先が《ドッペルゲンガーの鏡》へ触れた瞬間、静まり返っていた内庫に甲高い音が響いた。
鏡を載せた台座から白い光が噴き上がり、床に刻まれていた魔法陣が一斉に輝き始める。内庫の入口を守っていた障壁とは違う。鏡そのものを中心として幾重もの円が広がり、ナナが右手を引くより早く、光で作られた細い鎖が手首へ巻きついた。
一本だけではない。
右腕から肩へ二本目が絡み、三本目は腰、さらに床から伸びた鎖が両足首へ巻きつく。ナナが後ろへ下がろうとすると、それに反応するように鎖が一斉に縮み、身体を台座の前へ固定した。
「なるほど」
それでもナナは焦らなかった。
無理に引きちぎろうともせず、右手を鏡へ伸ばした姿勢のまま、自分を拘束している光を観察している。
鎖がさらに締まる。
右腕が少しずつ後ろへ引かれ、鏡から離されていく。
普通なら抵抗するところだった。
でもナナは、逆に力を抜いた。
「侵入者を捕まえるんじゃなくて、鏡から引き離すための封印なのね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
右手が完全に鏡から離れた瞬間、鎖の締めつけが少しだけ弱まった。
ナナの目が細くなる。
もう一度、右手を前へ出す。
鎖が強く引く。
止める。
少し緩む。
もう一度。
また強くなる。
封印は一定の力で拘束しているわけではない。
鏡へ近づこうとするほど、強い力で引き戻している。
ナナはそれを三度確かめたあと、ようやく笑った。
「やっぱり、私とは相性が悪いわ」
今度は右手を大きく前へ伸ばした。
当然、光の鎖もそれまで以上の力で引き戻す。
肩が後ろへ持っていかれ、足首へ食い込んだ鎖が身体を床へ縫い止める。ナナの表情にも初めて苦しさが浮かんだが、それでも前へ出る力を緩めなかった。
封印も負けまいと力を強める。
さらに強く。
もっと強く。
侵入者を鏡から遠ざけるために。
その力が十分に大きくなるまで、ナナは待った。
「《返衝》」
引き戻すために生み出された力が、逆方向へ返った。
光の鎖が大きく膨らみ、内側から引き裂かれたように一本目が砕ける。続いて右肩を拘束していた二本目が弾け、腰、足首へ巻きついていた鎖にも亀裂が走った。
それでも封印は消えない。
床の魔法陣が強く発光し、新しい鎖が伸びてくる。
ナナは今度こそ右手を鏡へ伸ばした。
新しい鎖が腕へ巻きつくより早く、黒い手袋が銀色の縁を掴む。
台座が反応した。
今度は押し返すのではなく、鏡そのものを固定するように魔力が集中する。
ナナが持ち上げようとしても動かない。
ほんの少しだけ眉が動いた。
「まだあるの」
廊下から足音が近づいていた。
一人や二人ではない。
警報を聞いた増援が集まっている。
「内庫を封鎖しろ!」
「七番を逃がすな!」
「鏡を守れ!」
時間は多くない。
それでもナナは焦って鏡を引っ張らなかった。
強引に持ち上げようとすれば、その力を使っているのは自分になる。《返衝》で返せる相手の力とは違う。
だから一度、手を止めた。
台座を見る。
鏡を見る。
床の魔法陣。
その三つを順番に確認する。
鏡を固定している魔力は、台座から流れている。
だったら壊すべきなのは鏡ではない。
ナナは銀色の縁から手を離し、台座へ右手を置いた。
光が弾ける。
触れた瞬間、侵入者を拒む魔力が掌を押し返した。
「そこね」
ナナは今度こそ笑った。
台座が鏡を守ろうとする。
触れた人間を排除しようとする。
そのために生み出した力なら、利用できる。
一度目の《返衝》で魔法陣の外周が歪み、二度目には台座を覆っていた文字の一部が消えた。
三度目。
石室全体が揺れる。
天井から細かな砂が落ちた。
廊下の向こうでは兵士たちがすぐそこまで来ている。
四度目。
乾いた破砕音が響いた。
台座を覆っていた魔法陣が砕け、同時に鏡を固定していた光が消える。
ナナは迷わなかった。
《ドッペルゲンガーの鏡》を両手で持ち上げる。
思っていたより重いのか、腕がわずかに沈んだ。
それでも台座から完全に離れた。
その瞬間、王宮中の警報鐘が音を変えた。
侵入者を知らせる鐘ではない。
王家の保管物が持ち出されたことを知らせる、さらに鋭く、間隔の短い音だった。
「間に合え!」
兵士たちが内庫へ飛び込んでくる。
先頭の男が剣を抜き、鏡を抱えたナナへ走った。
ナナは戦おうとしなかった。
片腕で鏡を抱え直し、空いた左手を床へ向ける。
紫色の光が広がった。
「転移魔法陣だ! 壊せ!」
王宮魔道士が杖を構える。
今度は内庫へ味方が入り切る前だったため、魔法を撃つための空間がある。
青い光が杖の先へ集まる。
ナナの足元では紫色の魔法陣が広がり続ける。
どちらが先か。
兵士が走る。
残り六歩。
魔道士の詠唱が進む。
五歩。
紫色の光がナナの膝まで上がる。
四歩。
「《水穿――》」
魔法が完成する。
ナナが鏡を少し持ち上げた。
鏡面が魔道士へ向く。
そこに映ったのは、杖を構える魔道士本人だった。
でも、一瞬だけ顔が変わった。
自分と同じ服。
同じ杖。
違う顔。
魔道士の詠唱が止まった。
「……何だ?」
ほんの一瞬。
それで十分だった。
「それ、見ないほうがいいわよ」
紫色の光がナナの肩まで包む。
兵士が残り二歩まで迫る。
剣が振られる。
ナナの身体が光へ溶ける。
刃は外套の端を掠めただけだった。
「逃がすな!」
兵士が手を伸ばす。
届かない。
最後に鏡面だけが光を反射し、その直後、ナナと《ドッペルゲンガーの鏡》は紫色の光と一緒に消えた。
内庫へ静寂が落ちる。
兵士たちは誰も動かなかった。
ついさっきまで鏡が置かれていた台座だけが残っている。
魔法陣は砕け、光の鎖も消えていた。
「……奪われた」
誰かが呟いた。
その声を押し潰すように、警報鐘が鳴り続けていた。
同じ頃、闘技場では火との戦いが続いていた。
「水が足りない! 西側へもう二人!」
「こっちは抑えた! 上段へ回せ!」
「煙が下へ行ってるぞ! 地下通路を閉じろ!」
あちこちから声が飛び交い、さっきまで武道大会を開催していた場所とは思えない。
試合場には水が溜まり始めていた。
水魔法で作られた大量の水が石床を流れ、灰や燃えた布を巻き込みながら排水溝へ向かっている。
それでも炎は完全には消えない。
ナナが一ヶ所ではなく、会場全体へ火種を撒いたせいだった。
私は細い階段の近くで、泣いている男の子の手を握っていた。
「お母さんがいない!」
「大丈夫。探すから、分かること教えて」
以前の私なら、そのまま「一緒に探そう」と走り出していたかもしれない。
でも今は違う。
朝、リリィが言っていた。
人を探すなら、分かるものを増やす。
「お母さんの服、何色?」
「青……」
「髪は?」
「長い。黒い髪」
「名前は?」
男の子が答える。
私はその名前を繰り返し、間違えていないことを確認した。
「メリー!」
『聞こえた! 青い服で黒い長い髪だね!』
「無理に煙の中へ入らないでね!」
『分かってる!』
メリーが飛んでいく。
男の子はまだ泣いていた。
私は手を離さなかった。
「見つかるまでここにいよう」
本当に見つかるかは分からない。
でも「絶対見つかる」とは言わなかった。
分からないことを、分かったことにしない。
昨日の情報屋。
今日のリリィ。
この村へ来てから覚えたことが、こんな場所で役に立っていた。
そのとき、誰かが私の名前を呼んだ。
「フール」
振り返る。
フランだった。
顔や服に煤がついている。
右腕はまだ胸の前に吊られたままで、左手には短剣を持っていた。
怪我が増えたようには見えない。
それだけで安心した。
「フラン、大丈夫?」
「うん」
返事はした。
でも、声がおかしかった。
「右腕痛い?」
「変わらない」
「じゃあ、どこか怪我した?」
「してないよ」
身体の怪我ではない。
それなら、何なのか。
聞かなくても分かっていた。
アルト。
フランの故郷を滅ぼした男。
TIMEの中でも別格の強さ。
《幻神の剣オベリスク》。
そしてフランが幼い頃から家で触っていた剣の、かつての持ち主。
フランは自分の短剣を見た。
左手で握っているのに、どこか知らない物を見るような目だった。
「俺さ」
声が小さい。
「小さい頃、本当にこれでずっと遊んでたんだ」
私は黙って聞いた。
「まだ長い剣だった頃、持ち上げられなくてさ。床引きずったら怒られて、それでもまた勝手に触ってた。俺が使えるように短くしたとき、すごく嬉しかった」
フランの親指が柄頭をなぞる。
ナナが見ていた場所。
「ずっと俺の家にあったんだよ」
煙の向こうで木材が崩れる音がした。
それでもフランは短剣から目を離さない。
「なのに、何でアルトの剣なんだろうな」
答えられない。
私はアルトを知らない。
フランも知らない。
ナナでさえ、理由は知らなかった。
「分からない」
だから、そのまま答えた。
フランが少しだけ顔を上げる。
「うん」
「でも、調べよう」
今度はすぐ返事がなかった。
私は続けた。
「今分からないなら、分かるところから探そう。アルトのことも、この短剣のことも、リザーメイトのことも」
昨日までなら、もっと簡単に言っていたかもしれない。
絶対分かるよ。
きっと大丈夫。
でも今は、そんな約束はできなかった。
見つかるかどうかは分からない。
それでも探すことはできる。
フランがほんの少しだけ笑った。
「フール、昨日からちょっと変わったね」
「リリィにいっぱい怒られたから」
「怒ってない」
いつの間にか近くへ来ていたリリィが言った。
「教えただけ」
「同じだよ」
「違うよ」
フランが少し笑った。
本当に少しだけ。
でも、さっきまでよりはいつもの顔に近かった。
そのとき、王宮側から何人もの兵士が走ってきた。
先頭の男は肩で息をしながら、大会本部へ向かって叫ぶ。
「王家内庫より緊急報告!」
周囲にいた兵士たちが振り向く。
私たちも見る。
「TIME No.7、王宮内庫へ侵入! 警備隊を突破後、転移魔法により逃走!」
ざわめきが広がった。
まだ続きがある。
兵士は息を整え、さらに声を張り上げた。
「王家保管の秘宝――《ドッペルゲンガーの鏡》が奪われた!」
オラクルの表情が変わった。
リリィも王宮を見る。
フランは何も言わなかった。
私は燃え続ける闘技場を見回した。
壊れた観客席。
倒れた椅子。
水浸しになった試合場。
負傷者。
泣いている人。
消火を続ける魔道士。
ここまでして。
これだけの人を巻き込んで。
ナナは鏡を奪って逃げた。
胸の奥から、今までとは違う感情が込み上げてくる。
怖いだけではなかった。
「……ひどい」
口から出た。
ナナは観客を直接狙わなかった。
でも、だから何なのだろう。
火をつければ、人は逃げる。
転ぶ。
煙を吸う。
怪我をする。
それを分かったうえで、この状況を作った。
目の前では、さっきの男の子がまだ母親を待っている。
ナナにとっては逃げるための混乱でも、この子にとってはお母さんと離ればなれになった出来事だ。
その違いが、ひどく腹立たしかった。
フランも炎の跡を見ていた。
そして、静かに短剣を鞘へ戻した。
アルトの答えはまだない。
ナナも逃げた。
大会も壊された。
それでも、今やることだけは残っている。
「フール!」
上空からメリーが戻ってきた。
『いたよ! お母さん見つけた!』
男の子が顔を上げる。
「ほんと!?」
『こっちに来てる! 怪我してないよ!』
その瞬間、男の子が泣きながら笑った。
私も力が抜けそうになるくらい安心した。
遠くから青い服の女性が走ってくる。
男の子が手を離し、その人へ駆けていった。
抱き合う二人を見る。
全部は救えないかもしれない。
壊れたもの全部を元には戻せない。
でも、一人ずつなら。
今ここにいる人なら。
「次、行こう」
私が言うと、フランとリリィが頷いた。
煙はまだ消えていなかった。
むしろ火の勢いが弱まり始めたことで、闘技場の中には白い蒸気と黒煙が混ざり合い、さっきまでより遠くが見えにくくなっている。水魔法が石床へ叩きつけられるたびに熱された床から蒸気が噴き上がり、焦げた木や布の匂いが鼻の奥へまとわりついた。
それでも、さっきまでとは違う。
炎は広がっていない。
王宮魔道士たちが大きな火元から順番に消し、大会係員と兵士が燃え残った木材を周囲から引き離している。賞金稼ぎたちも、もうナナを追おうとはしていなかった。動ける人は負傷者を運び、力のある人は倒れた柱や椅子を退かして避難路を作っている。
壊れた闘技場の中で、ようやく全員が同じ方向へ動き始めていた。
「次、行こう」
私がそう言ったところで、オラクルがすぐに止めた。
「待て。お前は一回座れ」
「まだ歩けるよ」
「歩けるかどうか聞いてねえ。右足引きずってるだろ」
言われて足元を見る。
自分では気づいていなかった。
黒龍王の洞窟で痛めた右足は、火事が起きてから何度も無理をしたせいで、いつの間にか左より歩幅が狭くなっている。立っているだけなら平気でも、体重を掛けるたびに鈍い痛みが残った。
「でも――」
「今のお前が転んだら、助ける側が一人減って怪我人が一人増える。役に立ちてえなら休め」
言い方は腹が立つ。
でも、正しい。
「……ちょっとだけだからね」
「最初からそう言ってんだ」
私は通路脇の石段へ腰を下ろした。
リリィも一度こちらへ来て、右足の状態を確かめる。腫れが急にひどくなっているわけではないと分かると、今度は周囲を見回した。
「ここなら大丈夫。火も来てないし、人の流れからも外れてる」
「リリィは?」
「私はまだ動ける。メリーと一緒に、離ればなれになった人がいないか見てくる」
「無理しないでね」
「それ、今のフールが言う?」
言い返せなかった。
リリィは少しだけ笑い、メリーと一緒に煙の薄い場所へ向かっていった。
オラクルも大会係員に呼ばれ、避難できる通路について何か話し始める。
気づけば、私の隣にはフランだけが残っていた。
フランも休む必要がある。
右腕はまだ首から吊られたままで、決勝戦のあとに賞金稼ぎを運んだせいか、顔には疲れがはっきり出ている。
「フランも座れば?」
「うん」
珍しく素直だった。
私の隣へ腰を下ろす。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
目の前では人が動き続けている。
燃えた椅子を運ぶ兵士。
水魔法を使いすぎて座り込んだ魔道士。
家族を探して名前を叫ぶ人。
治療を受けながら、さっきまで一緒にいた仲間が無事か尋ねている賞金稼ぎ。
つい少し前まで、この場所ではフランとナナが優勝を争っていた。
歓声があった。
名前を呼ぶ声があった。
誰が勝つのか、みんな楽しみにしていた。
今は本戦表の一部まで焼け落ちている。
《フラン》と《ナディア》を結んでいた決勝の線も、端から黒く焦げて読めなくなっていた。
「大会……終わっちゃったね」
私が言うと、フランは焼けた試合場を見ながら頷いた。
「たぶんね」
「決勝も途中だったのに」
「もう続けられないでしょ」
残念だった。
本当なら最後まで見たかった。
フランがナディア――ナナを相手にどう戦うのか。右腕が使えない状態で《返衝》へどう答えを出すのか。
勝ってほしかった。
でも、今の闘技場を見て「決勝を続けて」と言えるはずがない。
フラン自身も、もう勝敗を気にしているようには見えなかった。
左手が腰の短剣へ触れる。
その瞬間だけ、表情が変わる。
やっぱり気にしている。
「アルトのこと?」
尋ねると、フランは少し迷ってから頷いた。
「うん」
短剣を抜きはしなかった。
鞘に収めたまま、柄頭を親指で触っている。
「ずっと考えても分からないって分かってるんだけどさ」
「うん」
「考えちゃうんだよ」
その気持ちは少し分かる。
私だって、お父さんとお母さんについて何か一つ分かれば、そのことばかり考えてしまう。
「家にあった理由?」
「それもある。でも……」
フランは途中で言葉を止めた。
煙の向こうを見ながら、ゆっくり続ける。
「リザーメイトを滅ぼした理由」
やっぱり、そこだった。
「ナナは知らないって言ってたね」
「うん。本当に知らなそうだった」
「私もそう思う」
ナナはアルトとほとんど交流がないと言った。
TIMEの中でも別格に強いこと。
《幻神の剣オベリスク》という光る大剣を持っていること。
そして、リザーメイト王国を滅ぼした人物だということ。
そこまでは知っていた。
でも、どうして滅ぼしたのかは知らない。
「ずっとTIMEがやったって思ってた」
フランが静かに言った。
「間違ってなかった。でも、ずっと大きすぎたんだ。TIMEって組織が俺の故郷を滅ぼした。それしか分からなかった」
左手が短剣の柄を握る。
「今日、初めて名前がついた」
アルト。
たった一つの名前。
でもフランにとっては、ずっと形のなかった相手に輪郭ができた瞬間だった。
「探すの?」
私が聞く。
「アルトを」
フランはすぐには答えなかった。
怒って「探す」と言うと思っていた。
でも違った。
長い沈黙のあと、短剣から手を離す。
「会いたい」
「うん」
「でも、今会ってどうするのかは分からない」
その答えに少し驚いた。
「倒したいって思わない?」
聞いてから、聞かないほうがよかったかもしれないと思った。
でもフランは怒らなかった。
「思うよ」
声は静かだった。
「リザーメイトを滅ぼしたのが本当にアルトなら、許せない。でも……理由も知らないまま斬ったら、俺がずっと探してた答えもなくなる」
私は何も言わず聞いた。
「だから先に聞きたい。何でやったのか。何で俺の家にあいつの剣があったのか。それから――」
フランの声が止まる。
まだ何かある。
でも、今は言葉にならないらしい。
「全部聞いてから決める」
ようやくそう言った。
私は頷いた。
「それがいいと思う」
正しいかどうかは分からない。
でもフラン自身が決めたことなら、私は一緒に探したかった。
そのとき、王宮側から大勢の足音が近づいてきた。
さっき《ドッペルゲンガーの鏡》が奪われたと報告した兵士とは別に、今度は治療師や追加の魔道士まで連れてきている。
「救護所を東側へ移す! 煙が少ない場所を確保しろ!」
「重傷者を先に!」
「歩ける者は中央へ集まるな! そのまま外へ出てくれ!」
指示が飛び始める。
救助の形が整ってきた。
リリィもメリーと一緒に戻ってくる。
「フール、少し休めた?」
「うん。もう行ける」
立ち上がろうとすると、右足が少し痛んだ。
リリィの目がすぐ細くなる。
「本当に?」
「さっきよりは平気」
今度は嘘ではない。
完全に痛くないわけではないけれど、休んだことで少し軽くなっていた。
オラクルも戻ってきた。
「外へ出せる道が増えた。王宮側から兵士も来たし、さっきよりはマシだ」
「じゃあ、もう大丈夫?」
私が聞くと、オラクルは闘技場を見回した。
「火はな。人の被害はこれから確認だ」
その言葉で、胸の奥が重くなる。
今見えているだけでも、怪我をしている人はたくさんいる。
煙を吸った人。
転んだ人。
ナナの《天輪返し》を受けた賞金稼ぎや兵士。
燃えた木材が当たった人。
全員が無事なわけではない。
「死人は?」
思わず聞いた。
オラクルはすぐには答えなかった。
「まだ分からねえ」
それだけだった。
分からない。
なら、勝手に大丈夫だったことにはできない。
私たちは救護所へ向かった。
途中、本戦表の前を通る。
大きな板は半分以上焼けていた。
三百二十七人から始まった名前。
勝つたびに伸びていった線。
そのほとんどが煤で黒くなっている。
一番上。
決勝。
フランの名前だけは、かろうじて読めた。
反対側の《ナディア》は端が焼け、文字の半分が消えている。
でも、もうその名前が本当ではないことを知っている。
TIME No.7。
ナナ。
私は足を止めなかった。
今度会ったら聞きたいことがある。
どうして、こんなことをしたのか。
鏡一枚を奪うために、どうしてこれだけの人を巻き込めたのか。
もちろん、ナナが素直に答えるかは分からない。
それでも聞きたい。
そしてアルトのことも。
フランだけの問題ではなくなったような気がしていた。
「フール」
フランに呼ばれる。
少し先で待っていた。
「行こう」
「うん」
私は杖をつき直し、みんなのところへ向かった。
大会は終わった。
ナナは逃げた。
《ドッペルゲンガーの鏡》も奪われた。
それでも私たちの旅まで終わったわけではない。
むしろ、知らなかった名前が一つ増えたことで、これまで見えなかった道が新しく現れたような気がした。
アルト。
TIME。
そして、フランの短剣。
いつか全部が繋がる。
今はまだ、その途中だった。




