第141話 炎天返し
ナナの足元から膨れ上がった魔力に、最初に反応したのは試合場の周囲を警備していた王宮兵だった。
「全員、下がれ! 観客席へ近づけるな!」
隊長らしき男の号令と同時に、十人以上の兵士が試合場へなだれ込む。ただし、全員がナナへ向かったわけではなかった。半数は観客席との間へ盾を並べ、残りが槍を構えて前へ出る。そのさらに後方では王宮魔道士たちが杖を抜き、近接戦へ巻き込まれない距離を保ちながら魔法の準備へ入っていた。
さっきまで決勝戦を見ていた観客たちも、ようやく事態の意味を理解し始めている。
TIME No.7。
国から賞金を掛けられた人物が、武道大会の決勝戦へ別人として出場していた。
しかも、この会場には普通の観客だけではなく、大会を見るため各地から集まった賞金稼ぎも大勢いる。
「七番だぞ!」
「逃がすな!」
「賞金首だ!」
誰かが叫んだ直後、前列にいた一人の賞金稼ぎが柵を越えて試合場へ飛び降りた。
王宮兵が止めるより早かった。
それを見た別の男も続き、さらに二人、三人と増えていく。
「勝手に入るな! 隊列を乱すな!」
兵士の怒鳴り声も届かない。
兵士たちは観客を守るため、ナナと客席の間へ防衛線を作ろうとしている。一方の賞金稼ぎたちは、目の前に現れた大物を逃すまいと前へ出る。
目的の違う人間が同時に試合場へ流れ込んだことで、決勝戦のために整えられていた空間は一瞬で統制を失った。
その中心にいるナナだけが動かなかった。
仮面は外され、変装も解けている。
左手の甲には、昨日まで紙の上でしか見たことのなかった《7》という数字。
何十本もの武器を向けられているのに、ナナは周囲を一度見渡しただけで、小さく息を吐いた。
「面倒ね」
最初の賞金稼ぎが大剣を振り上げた。
「七番なら賞金が――!」
最後まで言わせず、巨大な刃が振り下ろされる。
ナナは大剣を受け止めなかった。刃が身体へ届く直前に半歩だけ外へずれ、通過する男の手首へ黒い手袋の指先を触れさせる。
大剣は勢いを失わないまま石床へ叩き込まれ、轟音とともに床へ亀裂を走らせた。
男はすぐに剣を引き抜こうとする。
そこでナナが呟いた。
「《返衝》」
大剣を石床へ叩き込んだ力が、今度は男自身へ戻った。
両腕が激しく跳ね上がり、肩まで引き上げられたように身体が仰け反る。大剣が手から離れたところへナナは一歩踏み込み、胸元へ掌を軽く当てた。
殴ってはいない。
それでも男の顔色が変わった。
触れられた。
その事実だけで、《返衝》を仕込まれた可能性が生まれる。
男は反射的に後ろへ逃げようとした。
ナナは押さない。
逃げる足へ自分の足を掛けるだけ。
後退する勢いを自分で止められなくなった男は、そのまま背中から石床へ転がった。
「一人……」
声に出した直後、左右からさらに二人が迫った。
右から槍。
左から片手剣。
今度は時間差までほとんどない。
ナナは先に届いた槍の穂先を身体の外へ流し、通過する柄へ左手を滑らせた。その動きのまま身体を回し、反対側から斬り込んできた剣士の手首へ右手を触れさせると、二人の間をすり抜ける。
それだけだった。
殴らない。
蹴らない。
でも二人とも、自分が触れられたことを知っている。
槍使いは振り返りざまに横薙ぎを放ち、剣士も逃がすまいと強く踏み込んだ。
その瞬間、《返衝》が発動する。
槍使いは横薙ぎへ込めた力を反対方向から受け、身体ごと大きく振り回された。剣士も踏み込みと斬撃へ乗せた力をまとめて返され、肩から石床へ叩きつけられる。
三人。
ほんの数秒だった。
怖かったのは、ナナ自身が大きな力を使っていないことだった。
最初の男は自分で振り下ろした大剣の力。
次の二人も、自分たちが攻撃へ込めた力。
強く攻撃するほど、返されたときの被害まで大きくなる。
昨日、情報屋の老人から聞いたNo.7の情報を思い出した。
攻撃した側が、同じような衝撃を受けた。
文字だけでは分からなかった意味が、今なら分かる。
《返衝》は、相手が強いほど危険になる。
「全員止まれ!」
王宮兵の指揮官も、賞金稼ぎたちの失敗を見て戦い方を変えた。
「接触するな! 前衛は盾で進路だけ塞げ! 魔道士、遠距離から制圧!」
五人の兵士が大盾を並べ、その後ろへ槍兵が入る。さらに距離を空けた位置では、三人の王宮魔道士が杖を構えた。
今度は誰もナナへ直接触れようとしない。
大盾で逃げ道を狭め、魔法で倒す。
それなら《返衝》を使わせずに済む。
私にも、今度は簡単には崩せないように見えた。
三人の魔道士が同時に杖を振る。
「《岩槍》!」
石床が隆起し、三本の鋭い岩が別々の方向からナナへ伸びた。
ナナは一本目を右へ避け、二本目を身体を沈めてかわす。三本目だけは逃げた先へ伸びてきたため、右手を出して岩の側面へ触れ、そのまま身体を捻って穂先を脇腹の横へ通過させた。
「魔法に触った?」
私が言うと、リリィも身を乗り出した。
「触った。でも何も――」
起きていない。
少なくとも、そう見えた。
魔道士たちも同じ判断をした。
「通るぞ! 続けろ!」
二度目の魔法陣が形成される。
今度は三人で五本。
逃げる場所まで潰すつもりだ。
ナナが笑った。
「そう思う?」
魔道士の一人の表情が変わった。
私も遅れて気づく。
さっきナナが触れたのは、魔法で作られた岩。
なら、その岩を作り、動かしていた力はどこから来たのか。
「待て! 術を切れ!」
遅かった。
最初の魔道士の杖が大きく跳ね上がった。
岩槍へ流していた魔力の反動が術者側へ戻ったように腕ごと弾かれ、詠唱を重ねていた残り二人も集中を崩す。完成しかけていた五本の岩槍は形を失い、途中から石の塊となって試合場へ崩れ落ちた。
ナナは、その一瞬を待っていた。
大盾を並べる前衛へ走る。
「来るぞ! 押し返せ!」
五枚の盾が重なった。
ナナは真正面から最初の盾へ右手を触れさせる。
盾を持つ兵士は、突破させまいと仲間と一緒に全身で押した。
その力が返った。
先頭の兵士が盾ごと後方へ弾かれ、隣の盾へ激突する。
隊列に生まれた隙間は、人一人が通れるかどうか。
ナナには十分だった。
身体を横にして滑り込み、内側へ入る。
そこからは兵士たちの強さそのものが不利に働いた。
槍を突けば、踏み込みごと返される。
肩を掴んで止めようとすれば、引き寄せる力を利用されて体勢を崩す。
盾で押そうとすれば、自分が後ろへ飛ばされる。
十人以上で作った防衛線が、数十秒も保たなかった。
「フラン……!」
その向こうには、まだフランがいる。
右腕を吊った状態で退場口へ向かおうとしているものの、試合場へ流れ込んだ兵士や賞金稼ぎのせいで、最短の道が塞がれていた。
私は立ち上がった。
「迎えに行く!」
「待て!」
オラクルが服を掴む。
「でもフランが出られない!」
「今お前が下りたら、あいつは自分の右腕よりお前を守りに戻るぞ」
足が止まった。
悔しい。
でも、否定できなかった。
フランなら戻ってくる。
「じゃあどうすればいいの?」
「周りを見ろ」
オラクルが見ていたのは、ナナではなかった。
観客席。
前列ではすでに何人も立ち上がり、後ろへ下がろうとしている。何が起きたのか分からない後列の人たちも出口を気にし始め、人の流れが少しずつ通路へ集まっていた。
「このまま騒ぎが大きくなったら、ナナより先に客同士で潰れる。リリィ、出口は?」
リリィはすぐに立ち上がり、以前確認していた二つの通路を見る。
「近いほうはもう人が増えてる。反対側の細い階段はまだ空いてるけど、一斉に行けばあっちも詰まる」
「覚えとけ。何か起きたら俺たちはそっちを使う。メリー、お前は負傷者が出たら飛べ」
『分かった!』
メリーが私の肩から少し浮かぶ。
私はもう一度フランを見た。
助けに行きたい。
でも、周りにはもっと多くの人がいる。
子供を抱いている人。
杖をついた老人。
立ち上がった人の間で何が起きているのか分からず、不安そうにしている人。
もし全員が同時に走り出せば、戦いに巻き込まれなくても怪我人が出る。
私たちはまだ動かない。
でも、何かあったらすぐ動けるようにする。
そのために出口と人の流れを見る。
そう決めた直後、試合場で十人近い賞金稼ぎが一斉に動いた。
「兵士だけに任せてられるか!」
「囲め! 一人ずつ行くからやられるんだ!」
前。
左右。
背後。
剣、槍、鎖。
さらに後ろから魔法。
今までと違い、ほぼ同時だった。
一人へ触れている間に、別の攻撃が届く。
さすがに全部へ《返衝》を仕込む時間はない。
そう思った。
ナナが初めて大きく息を吐いた。
「だから――」
左手を石床へつく。
《7》の刻まれた手の甲から赤い光が流れ、細い線となって石床を走った。
一本ではない。
何本もの線が円を作り、ナナを中心として一気に広がっていく。
今までの《返衝》とは、明らかに規模が違った。
「人数を増やせばいいってものじゃないのよ」
攻撃へ入っている賞金稼ぎたちは、もう止まれない。
剣を振る。
槍を突き出す。
鎖を投げる。
魔法を放つ。
その全部が赤い円の内側へ入った。
ナナが立ち上がり、両手をゆっくり広げる。
「《天輪返し》」
赤い円が一度だけ強く輝いた。
次の瞬間、攻撃へ使われた力が一斉に逆流した。
剣士は踏み込みの勢いまでまとめて後方へ弾かれ、槍使いは突進してきた速度を返されて仲間を巻き込みながら石床を転がる。投げられた鎖は途中で軌道を崩し、持ち主の腕を引っ張るように地面へ叩きつけられた。
後方から飛んできた風魔法まで、ナナへ届く直前に形を崩す。
暴風が逆巻き、術者側へ吹き返した。
人が飛ぶ。
武器が石床を跳ねる。
盾が転がる。
悲鳴と金属音が重なり、さっきまで決勝戦を行っていた場所とは思えない光景になった。
誰一人、ナナへ届かなかった。
「……これがNo.7」
リリィの声が震えている。
昨日まで、七番という数字は冊子に書かれた情報でしかなかった。
今は違う。
大人数で襲えば安全になるどころか、全員が同時に大きな力を使うことで、返されたときの被害まで一気に大きくなる。
「攻撃中止!」
王宮兵の指揮官が叫んだ。
「全員止まれ! 負傷者を下げろ! 観客席との間を確保しろ!」
ようやく、ナナへ向かう流れが止まった。
兵士たちは倒れた仲間を引きずり、賞金稼ぎの一部も負傷者を運び始める。
でも、試合場が落ち着いたわけではない。
むしろ観客席のほうが危なくなっていた。
前列で戦いを見ていた人たちが後ろへ逃げようとし、その動きを見た後列の人たちまで立ち上がる。出口へ続く階段には少しずつ人が集まり始め、係員たちが必死に座るよう呼び掛けている。
「右側、もう駄目かも」
リリィが言った。
「入口まで人が溜まり始めてる。あそこで誰か転んだら一気に詰まる」
「反対は?」
「まだ空いてる。でも――」
リリィの声が止まった。
ナナが、こちらを見ていたからだ。
正確には私たちではない。
試合場を囲む観客席、負傷者を運ぶ兵士、出口へ集まり始めた人の流れ、大会本部、そして王宮へ続く通路。そのすべてを一度ずつ確認するように視線を動かし、最後に王宮側で止めた。
さっきまでの戦い方とは違う。
賞金稼ぎや兵士がどこから攻撃してくるのかを見ている目ではなかった。
もっと広い。
この闘技場全体を見ている。
「何する気……?」
胸の奥に嫌なものが広がった。
ナナの右手が持ち上がる。
掌の前に、小さな赤い光が灯った。
最初は指先ほどしかなかった光が円を描き、そこへ細かな文字のような模様が次々と刻まれていく。
《返衝》ではない。
それだけは、離れた観客席から見ている私にも分かった。
空気が急に乾いた。
頬が熱い。
まだ炎なんて出ていないのに、夏の日差しをすぐ近くで浴びているような熱が押し寄せてくる。
王宮魔道士の一人が、ナナの手元を見て顔色を変えた。
「火属性だ! 防壁を張れ! 観客席を優先しろ!」
その声で、止まりかけていた人の流れがまた乱れた。
「火だって!」
「逃げろ!」
「まだ動くな! 押すな!」
大会係員が必死に止めても、恐怖のほうが早かった。
右側の出口へ向かう人がさらに増え、階段の途中で何人かが押し合い始める。
「フール、あっちはもう駄目!」
リリィが人混みを指した。
「細い階段へ行くなら今。でも走ったら後ろもついてくる!」
逃げるだけなら、まだ間に合う。
でも私たちだけが走れば、それを見た人たちまで同じ場所へ殺到するかもしれない。
オラクルも分かっていた。
「まだ動くな。火がどこへ落ちるか見てからだ。メリー、上へ行け。燃えた場所と空いてる通路を見ろ」
『分かった!』
メリーが私の肩から飛び立った。
小さな身体が観客の頭上を抜け、闘技場の上へ向かっていく。
その間にも、ナナの魔法は大きくなっていた。
一枚だった赤い魔法陣の外側へ、二枚目が重なる。
さらに三枚目。
三つの円は同じ向きではなく、少しずつ角度を変えながら回転し、中心へ集まる炎を圧縮していた。
周囲の空気が揺らいで見える。
試合場に近い兵士たちが顔を腕で覆い、倒れていた賞金稼ぎまで熱さに気づいて身体を起こそうとしている。
「ナナ!」
フランの声が響いた。
試合場の端まで移動していたフランが、右腕を吊ったままナナを見ている。
「やめろ! 観客がいる!」
ナナが初めてフランを見た。
ほんの一瞬。
その表情からは、さっきアルトについて話していたときの余裕も、決勝を楽しんでいたときの笑みも消えていた。
「だからよ」
「何が――」
「ここに残られたら邪魔なの」
その言葉で背筋が冷たくなった。
観客を倒したいわけではない。
追い払いたい。
この場所を、人がいられない状態へ変えようとしている。
王宮魔道士たちも同じ結論へ達したらしい。
「上だ! 直接人を狙っていない! 着弾後の延焼を狙ってるぞ!」
何人もの魔道士が杖を上げた。
青や白の魔法陣が観客席の前へ展開され、半透明の壁が次々と立ち上がる。
でもナナは止めなかった。
三重の魔法陣が完全に重なる。
中心に集まった炎が白に近い色まで明るくなった。
「《灼天・紅蓮廻廊》」
三枚の魔法陣が砕けた。
轟音とともに、炎の柱が真上へ走った。
観客席から悲鳴が上がる。
私も反射的に頭を庇った。
でも炎は落ちてこない。
天井近くまで昇ったところで、巨大な火球のように膨らんだ。
一瞬だけ止まる。
次の瞬間、その炎が無数に分裂した。
赤い光が、闘技場の上空いっぱいに広がる。
流星みたいだった。
綺麗だと思ってしまったのは、本当に一瞬だけだった。
「伏せろ!」
誰かの声と同時に、炎が降った。
一つ目は大会用の大旗へ落ちた。
乾いた布が一瞬で燃え上がる。
二つ目は売店の木製屋根。
三つ目は観客席を覆う幕。
さらに案内板、装飾柱、通路へ掛けられた布、選手の名前が描かれた旗へ次々と着弾する。
ナナは人を直接狙っていない。
だからこそ厄介だった。
一人へ向けた大きな炎なら、防壁で止められたかもしれない。
でも、火種そのものが会場全体へ散らされた。
一ヶ所を消している間に、別の場所で燃える。
その火が風に煽られ、さらに隣へ移る。
「火事だ!」
誰かが叫んだ。
そこからは速かった。
東側の大幕へ上がった炎が天井近くまで走り、燃えた布の一部が観客席へ落ちる。悲鳴とともに人が立ち上がり、それを見た周囲の人間まで出口へ殺到し始めた。
西側では売店の屋根から黒煙が上がり、商品棚へ燃え移っている。
中央通路では、逃げようとした人同士がぶつかって一人が転んだ。
後ろから来た人が止まりきれない。
「危ない!」
私は考えるより先に動いていた。
杖をついて通路へ出る。
「止まって! 前に人が倒れてる!」
声が届いたかどうか分からない。
でも近くにいた男の人が気づき、両腕を広げて後ろの人たちを止めてくれた。
リリィもすぐ横へ来る。
「起こす!」
二人で倒れた女性の腕を支える。
右足に痛みが走った。
黒龍王の洞窟で痛めた場所。
でも今は止まれない。
「フール、無理に持たないで。私がこっち持つから」
「大丈夫!」
「大丈夫じゃなくても今は歩いて!」
「どっちなの!?」
こんなときなのに、リリィが一瞬だけ笑った。
そのおかげで怖さが少しだけ薄れた。
女性を壁際へ移したところで、頭上からメリーの声がした。
『フール! 細い階段はまだ使える! でもその先の下の通路に煙が来てる!』
「じゃあ完全に逃げ道にはできない?」
『まだ通れるけど、ずっとは無理!』
オラクルが車椅子を自分で動かしながら近づいてくる。
「なら先に子供と歩けねえ奴を通す! リリィ、入口に立って人数を流せ。一気に入れるな!」
「分かった!」
「フール、お前は――」
「怪我してる人探す!」
「足悪い奴が言うな!」
「でも歩ける!」
言い合っている時間はなかった。
メリーが別の方向へ飛ぶ。
『あっちにも倒れてる人いる!』
私は杖を握り直した。
試合場を見る。
フランは?
煙の向こうに赤い髪が見えた。
兵士と一緒に倒れている賞金稼ぎの身体を引きずり、燃えていない場所へ移している。
右腕は使っていない。
左腕だけ。
無茶している。
でも生きている。
それを確認できただけで、胸が少し軽くなった。
「フランも動いてる」
リリィが言った。
「うん。だったら私たちもやろう」
もう決勝戦ではない。
誰が優勝するかなんて考えている人は一人もいなかった。
試合場では王宮兵が負傷者を運び、魔道士たちは火を消すための水を作り始めている。大会係員は出口ごとに人を分け、賞金稼ぎの中にもナナを追うのを諦めて救助へ回る人が出始めていた。
みんなが別々に動いている。
でも、目的だけは同じになり始めていた。
ここから人を出す。
火を止める。
その間に。
ナナは、誰にも止められず試合場の中央へ戻っていた。
「ナナが!」
私が叫ぶ。
王宮兵が振り返る。
でもすぐには動けない。
目の前には負傷者がいる。
観客席では火が広がっている。
さっきまでナナを捕まえるために使えていた人数のほとんどが、救助と消火へ回されている。
それが目的だった。
ようやく分かった。
ナナは火事を起こして逃げ道を作っただけではない。
この会場にいる兵士も魔道士も賞金稼ぎも、自分ではなく観客を助けなければならない状況へ変えた。
「最初から……これが狙い?」
オラクルの表情が険しくなる。
「少なくとも、今は完全に利用してやがる」
ナナの足元に、新しい魔法陣が現れた。
赤ではない。
淡い紫色。
見覚えはない。
でも、何のためのものかはすぐ分かった。
「転移だ!」
王宮魔道士が叫ぶ。
「止めろ! 魔法陣を壊せ!」
数人の兵士が動こうとする。
でも一人は途中で止まった。
すぐ横で燃えた木材が崩れ、その下に人がいる。
助けるしかない。
魔道士も同じだった。
ナナの転移を妨害するために魔法を使えば、その間は火を消せない。
ナナはそれを見ていた。
「そう。それでいいの」
紫色の光が足元から身体を包んでいく。
フランが気づいた。
「待て!」
左手だけで短剣を構え、ナナへ向かおうとする。
でも二人の間へ、燃えた大幕の一部が落ちた。
炎が壁になる。
フランの足が止まる。
「ナナ!」
「フラン」
炎の向こうから、ナナが答えた。
「アルトを探したいなら、もっと強くなりなさい」
「待て! まだ聞きたいことが――!」
「次に会えたらね」
紫色の光が強くなる。
ナナは最後に一度だけ、王宮へ続く通路を見た。
その視線に気づいた瞬間、胸の奥に別の不安が生まれた。
逃げる人が見る方向ではない。
行き先を確かめる目だった。
「まさか……」
ナナが笑った。
次の瞬間、紫色の魔法陣が一気に収縮した。
光が弾ける。
ナナの姿が消えた。
その直後。
王宮側から、今までとは比べものにならない速さで警報鐘が鳴り始めた。
一度。
二度。
三度。
途切れない。
大会本部の責任者が顔色を変えた。
「内庫だ!」
王宮兵たちが一斉にそちらを見る。
でも動けない。
目の前では、何千人もの観客が逃げている。
闘技場は燃えている。
負傷者もいる。
そしてナナは、もうここにはいない。
私は炎と煙の向こうにある王宮を見た。
昨日から何度も聞いていた言葉が、頭の中へ戻ってくる。
《内庫》。
ナナがどこへ消えたのか。
そこで何をするつもりなのか。
まだ分からない。
でも、嫌な予感だけははっきりしていた。
そのとき近くで子供の泣き声が聞こえた。
私は王宮から目を離した。
今は追えない。
ナナがどこへ行ったとしても、目の前に助けなければならない人がいる。
「メリー!」
『うん!』
「リリィ、こっち!」
「分かった!」
私たちは燃え広がる観客席へ走った。
武道大会は、もうどこにも残っていなかった。




