第140話 ナディアの正体
「何で、それを知ってる?」
フランの声から、さっきまでの決勝戦の熱が消えていた。
左手には、ナディアから返された短剣がある。それでも構えようとはせず、刃先を石床へ向けたまま動かない。
ほんの少し前まで、フランは《返衝》をどう避けるか考え続けていた。
触れられたか分からなくても焦らず、ナディアの負傷した左腕まで観察し、投げられれば自分から短剣を捨てて右腕を守った。何が起きても次にできることを探していたフランが、今は一つの言葉だけで完全に止まっている。
リザーメイト王国。
フランの故郷。
TIMEによって滅ぼされた国。
その名前を、どうしてナディアが知っているのか。
観客たちには事情が分からない。
決勝の途中で二人が戦うのをやめたことで、最初は戸惑いだった声が次第に大きくなり、「どうしたんだ」「試合は続いてるぞ」といった声まで飛び始めていた。
審判も二人を見ている。
それでも割って入らない。
どちらも場外ではなく、降参もしていない。ナディアが短剣を返し、フランも攻撃を止めているため試合の動きが止まっているだけで、決着条件は何一つ満たされていなかった。
ナディアは観客席の声を気にせず、フランの短剣へ視線を落とした。
「その剣を見て気づいたの」
フランも反射的に左手を見る。
「これ?」
「遠くから見ていたときは、似ていると思っただけ。でも、さっき手に取って分かった。刃は私が知っているものとは違うけど、柄頭と鍔は残ってる。鍔の根元にある傷も同じだった」
フランの指が柄を強く握った。
「誰の剣なんだ?」
ナディアは少しだけ間を置いた。
「アルト」
知らない名前だった。
私も聞いたことがない。
フランなら何か知っているのかと思って顔を見る。
でも違った。
眉を寄せ、初めて聞いた名前を頭の中で探すようにナディアを見ている。
「……アルト?」
ナディアが頷いた。
「誰だ、それ」
その答えには迷いがなかった。
本当に知らない。
ナディアも少し意外そうだった。
「知らないの?」
「知らない。俺が聞いてるんだよ。誰なんだ?」
声が強くなる。
決勝戦の相手へ向けるものではない。
ずっと探してきた何かへ、ようやく指先が触れた人の声だった。
ナディアはすぐに答えず、フランが握っている短剣をもう一度見た。
「私たちの仲間よ」
「……私たち?」
胸の奥に引っ掛かった。
フランも同じだったらしく、すぐに聞き返した。
ナディアはフランの目を見たまま続ける。
「リザーメイト王国を滅ぼした、私たちの仲間」
フランの表情が消えた。
怒ったわけでもない。
驚いた顔ですらなかった。
言葉の意味が頭の中へ入ったのに、それをどこへ置けばいいのか分からなくなったように見えた。
左手の短剣が少し下がる。
「……何?」
聞こえなかったわけではないと思う。
それでも聞き返さずにはいられなかったのだろう。
ナディアは同じ言葉を繰り返さなかった。
フランも、もう一度聞こうとはしなかった。
代わりに短剣を見る。
長い間、自分が使ってきた武器。
それからナディアを見る。
「待ってくれ」
声が掠れていた。
「これが、そのアルトって奴の剣だったって言ってるのか?」
「昔はね。今は打ち直されてる」
フランはすぐに首を横へ振った。
「違う」
「何が?」
「この剣は……ずっと家にあった」
ナディアの目がわずかに細くなる。
フランは短剣から目を離さなかった。
「俺が小さい頃から家にあったんだ。まだ剣なんてまともに持てない頃から、勝手に触って何度も怒られた。重くて持ち上げられないから、床を引きずったり、剣士の真似して遊んだりしてた」
話しながら、声が少しずつ変わっていく。
目の前のナディアへ説明しているというより、自分が知っている記憶を一つずつ確かめているようだった。
「その頃は、こんな短剣じゃなかった。もっと長かった。でも俺には扱いづらかったから、あとで打ち直して短くしたんだ。柄と鍔は気に入ってたから、そのまま残してもらった」
だからナディアが気づいた。
刃は違う。
形も変わっている。
それでも昔の剣から残された部分だけは、今も同じ。
フランの目が揺れる。
「ずっと家にあったんだぞ」
誰に言っているのか分からないほど、小さな声だった。
「俺が物心ついたときには、もうあった。だったら何で、知らない奴の剣なんだよ」
ナディアは答えなかった。
「アルトって誰なんだ」
「さっき言ったでしょう。私たちの仲間」
「何で俺の家に、そいつの剣があった?」
「知らない」
フランが顔を上げた。
「じゃあ、何でリザーメイトを滅ぼした?」
「それも知らない」
「仲間なんだろ!」
初めて怒鳴った。
観客席のざわめきが少しだけ静まった。
ナディアは怒り返さなかった。
「同じところにいるからって、全部知ってるわけじゃない。私はアルトとほとんど交流がないの」
「じゃあ何を知ってるんだよ!」
「リザーメイトを滅ぼしたのがアルトだってこと。そこは間違いない。でも、理由は知らない。誰かに命令されたのか、自分で決めたのか、それとも別の事情があったのかも聞いてない」
フランの口が閉じる。
欲しかった答えが目の前にある。
でも、一番知りたいところだけがない。
故郷を失った理由。
どうしてTIMEに狙われたのか。
それを知るために、フランはずっと一人で追ってきた。
ようやく当事者に近い人間と出会ったのに、その人も理由までは知らない。
「……じゃあ」
フランが一度息を吸った。
「アルトについて知ってることを教えてくれ」
ナディアは少し考えた。
「多くは知らないわよ」
「知ってることだけでいい」
今度の声には怒りだけではなく、怖さも混じっているように聞こえた。
知りたい。
でも、聞けばもう知らなかった頃には戻れない。
そんな顔だった。
ナディアは静かに答える。
「確実に言えるのは、強いこと」
「どのくらい?」
「別格」
「何と比べて?」
そこでナディアが少しだけ笑った。
「TIMEの中でも」
その名前が落ちた瞬間、身体の奥が冷たくなった。
TIME。
オラクルの口からタバコが落ちる。
リリィもナディアを見たまま動かない。
私は昨日、情報屋で見た資料を思い出していた。
一番から七番までは顔や特徴がある程度知られている。
八番より上は情報が少ない。
十番には、強い光に関する噂。
そして今。
アルト。
「……TIME?」
フランの声は小さかった。
ナディアが頷く。
「ええ」
「アルトが?」
「そう」
フランの短剣を握る左手が震えた。
自分の故郷を滅ぼした人物。
ずっと追ってきたTIMEの一員。
そして、自分が幼い頃から遊び道具のように触れていた剣の、かつての持ち主。
別々だったものが、一気に一つへ繋がっていく。
「アルトはTIMEの中でも明らかに強い。私もあいつと親しいわけじゃないから、能力の全部までは知らない。でも、あいつが本気で戦っているところへ好き好んで近づこうとは思わない」
ナディアが少しだけ目を細めた。
「あの大剣もあるしね」
「大剣?」
「《幻神の剣オベリスク》」
名前を口にしたときだけ、ナディアの声から少し余裕が消えた。
「光る大剣よ。私も詳しい仕組みまでは知らない。でも、あれは相当まずい。アルト本人だけでも十分おかしいのに、《オベリスク》まで持ってる。正面からまともに受けていい相手じゃない」
ナディアほどの人がそう言う。
準決勝でセドリックの攻撃を利用し、《返衝》だけでなく体術でも本戦を勝ち上がってきた人。
そのナディアが、アルトを別格と呼ぶ。
フランは短剣の柄頭を見ていた。
幼い頃から何度も触った場所。
何度も遊び、何度も握り、旅へ出てからは命を預けてきた武器。
その一部が、知らない男へ繋がっている。
「じゃあ……」
フランが何かを言いかけたところで、突然観客席の一角から怒鳴り声が上がった。
「待て!」
声のした方向を見る。
立ち上がっていたのは、腰に二本の剣を差した男だった。
見覚えがある。
この村へ来てから何人も見てきたのと同じ、賞金稼ぎ特有の目をしている。
男はナディアを見ていた。
いや。
左手。
黒い手袋。
「今、TIMEって言ったな?」
その声をきっかけに、周囲の空気が変わった。
別の場所からも一人立つ。
さらに二人。
武器を持った観客。
賞金稼ぎ。
大会を見るために集まっていたのは、普通の観客だけではない。
この国最大級の武道大会。
強い人間が集まる場所には、当然、賞金首を追う人間たちも来ている。
「おい……あの女」
「まさかTIMEか?」
「左手を見ろ!」
ざわめきが波のように広がる。
王宮兵も反応した。
試合場の周囲にいた兵士たちが互いに声を掛け、何人かが大会本部へ走る。
審判もナディアから距離を取った。
フランはまだ動かない。
「お前……」
ナディアを見る。
「何なんだ?」
ナディアが小さく息を吐いた。
「ここまで話したら、隠しても仕方ないわね」
右手が顔へ上がる。
仮面の端へ指を掛けた。
引く。
薄い仮面が外れる。
でも、それだけではなかった。
顔を覆っていた薄い魔力が水面のように揺れ、髪の色も輪郭も少しずつ変わっていく。
変装。
大会でずっと見てきたナディアの顔が、目の前で別の女性へ変わっていく。
観客席から悲鳴に近い声が上がった。
私は息を呑んだ。
見たことがある。
本人ではない。
紙の上で。
昨日、情報屋の老人が見せてくれた冊子。
一番から七番まで載っていたTIMEの人相書き。
その中の一枚。
「七番……」
リリィの声も震えていた。
ナナはもう隠さなかった。
黒い手袋を外す。
左手の甲。
そこに刻まれている数字。
《7》
一瞬だけ、闘技場全体が静まり返った。
そのあと、爆発した。
「TIMEだ!」
「七番だぞ!」
「兵士を呼べ!」
「もういる!」
「賞金首だ! 逃がすな!」
何万人もの声が一度にぶつかり、さっきまでの決勝戦とはまったく違う騒音へ変わる。
立ち上がる観客。
逃げようとする人。
逆に前へ出ようとする賞金稼ぎ。
兵士たちが試合場へ集まり、大会係員が観客席へ向かって座るよう叫んでいる。
賞金稼ぎの一人が剣を抜いた。
それを見て、別の男も立ち上がる。
「No.7なら賞金が――」
「一人で行くな! 《返衝》持ちだぞ!」
「囲め!」
試合場の周囲が、一気に戦場へ変わり始めた。
その中心で、ナナだけが静かだった。
左手の甲に《7》を晒し、何十人もの兵士と賞金稼ぎから向けられる武器を見回す。
そして、小さく笑った。
「だから大会って嫌なのよ」
その声は、騒音の中でも妙にはっきり聞こえた。
「人が多すぎるから」
ナナが右手を上げた。
その瞬間、私は理由も分からないまま叫んでいた。
「みんな、離れて!」
遅かった。
ナナの足元から、今までの試合では一度も感じなかったほどの魔力が膨れ上がった。




