第138話 決勝までの時間
準決勝が終わってからも、闘技場の熱気はなかなか冷めなかった。
ナディアとセドリックが退場したあとも、観客たちは席を立ちながら今の試合について話し続けている。《返衝》を正面から攻略しようとしたセドリックを褒める声もあれば、最後には能力を使わず一歩下がらせたナディアのほうが一枚上だったと興奮している人もいた。
巨大な本戦表の一番上には、もう二つの名前しか残っていない。
《フラン》
《ナディア》
三百二十七人から始まった武道大会で、次に勝った一人が優勝する。
それだけを考えれば私も一緒に騒ぎたかったけれど、参加者用通路を見ているうちに、嬉しさより心配のほうが少しずつ大きくなっていた。
「フラン、まだ戻ってこないね」
「右手があの状態なんだから、すぐ返されるほうが困るだろ」
オラクルはそう言いながらも、さっきから何度も同じ通路を見ている。本人は気づかれていないつもりなのかもしれないけれど、私には分かった。
「オラクルも心配してるじゃん」
「してねえとは言ってねえ。だからって治療区画へ押しかける馬鹿が増えても役に立たねえって話だ」
「私、まだ行ってないよ」
「止めたからな」
言い返せなかった。
肩に座っているメリーが楽しそうに笑い、リリィまで少し口元を緩める。
それでも、フランの右腕を思い出すと、その笑いも長くは続かなかった。
準決勝で使った《インセント・フラッシュ》は、治療師から「右手なら一度が限度かもしれない」と言われていた一撃だった。そして実際、バルガスを倒したあとには指をまともに握れなくなっている。
勝ったから傷が消えるわけではない。
むしろ勝ち続けたからこそ、レグル戦から残っていた負傷も、ガルディオから受けた衝撃も、バルガス戦で無理をした代償も、全部抱えたまま最後の一試合へ進まなければならない。
私は膝の上で両手を組みながら、さっきの準決勝を頭の中でもう一度整理した。
セドリックは《返衝》を怖がって攻撃を止めることを最初から捨て、一度は自分から大きな攻撃を使って、右肩を傷める代わりに能力の性質を確かめた。そのあと小さな斬撃へ切り替え、返されたときの危険まで抑えようとしている。
それでもナディアは、小さな攻撃には《返衝》を使わなかった。
セドリックが「ここなら勝負を決められる」と考えて大きな力を出すまで待ち、最後には触れることさえせず、能力を警戒する気持ちだけで場外へ下がらせた。
「……どうやって戦えばいいんだろ」
考えるほど難しくなる。
《返衝》だけなら、能力の仕組みを考えれば何か方法があるのかもしれない。でもナディアの強さは、それだけではなかった。
ゼインが距離を取れば、その警戒心を利用して追い込む。セドリックが能力を恐れなくなれば、本当に《返衝》を使って危険性を思い出させ、小さな攻撃へ変えられると、今度は能力を発動する瞬間そのものを選んだ。
相手が答えを出すたび、その答えを見て問題の形を変えてしまう。
「だから、今ここで答えを一個に決めないほうがいいんじゃない?」
リリィの言葉に、私は顔を上げた。
「ガルディオと戦ったときもそうだったでしょ。フラン、最初から勝ち方を決めないって言ってた」
「あ……」
そうだった。
ガルディオは、通じないものをすぐに捨てる相手だった。
フランもその戦いの中で、用意していた方法へ固執することをやめた。バルガス戦でも最初から最後まで一つの技で勝とうとはせず、相手が右へ抜ける動きにどう反応するのかを何度も確認し、最後にはその反応そのものを利用している。
「じゃあ《返衝》の攻略法を一個作るんじゃなくて、ナディアを見ながら考える?」
「私は戦わないから分からないけど、フランならそうするんじゃないかな」
オラクルが横から鼻を鳴らした。
「そもそも能力だけ倒しても本人は倒れねえ。さっき散々見ただろ」
確かにそうだった。
ナディアは《返衝》を使わなくても、ゼインを投げた。セドリックとの近距離戦でも、足の位置や肩の向きを利用して何度も体勢を崩している。
戦う相手は《返衝》ではない。
ナディア本人だ。
そこまで考えたところで、参加者用通路の奥から二つの人影が現れた。
白い治療服。
その隣を歩いている人物を見つけた瞬間、私は立ち上がった。
「フラン!」
今度はオラクルにも止められなかった。
階段を数段だけ下り、通路から出てきたフランへ手を振る。
フランもこちらに気づき、左手を上げた。
それを見て嬉しくなったのも一瞬だった。
右腕は胸の前で固定されている。
包帯だけではない。肘を軽く曲げた状態で腕全体を布に通し、それを首から吊っていた。指先だけは外へ出ているものの、試合直後のように動くか確かめようともしない。
席まで戻ってくるのを待ち、私はすぐ右手を見た。
「どうだった?」
「さっきより感覚は戻ったよ。ゆっくりなら指も動く」
フランは右手を吊った状態のまま、親指、人差し指、中指を順番に曲げてみせた。
確かに動く。
でも最後まで拳を作ろうとはしなかった。
「握れない?」
「軽くなら。でも短剣を振る強さで握るのは無理だって」
分かっていたつもりでも、本人から聞くと胸が重くなる。
「決勝は?」
「出るよ」
そこだけは迷わなかった。
「治療師さんはいいって?」
「右腕を使わないなら。《インセント・フラッシュ》も右では禁止だし、《ルミナス・クロス》も禁止。強い衝撃を受けるのも駄目だって」
つまり決勝では、実質的に左手だけで戦うことになる。
フランは左手でも短剣を扱える。
でも右手とまったく同じではない。
ガルディオ戦では左手へ持ち替えたとき、右側へ抜ける動きがわずかに遅くなった。バルガス戦では左右を切り替えることで相手の防御を崩したけれど、今度はその右手そのものが使えない。
しかもナディアは、それまでの試合を見ている。
「……かなり不利じゃん」
「まあね」
「まあね、じゃないよ」
フランは苦笑した。
「でも、ナディアも怪我してるんでしょ?」
そこで私は、さっきまで頭の中で整理していたことを思い出した。
「そう! それ話さないと!」
フランの隣へ戻り、準決勝で見たことを最初から説明した。
なるべく自分の予想は混ぜない。
セドリックが最初は触れられても攻撃を止めなかったこと。《満月断》を使ったときには本当に《返衝》が発動し、その力で右肩を傷めたこと。
そこから左手へ持ち替え、小さな攻撃へ変えたこと。
ナディアが両手で長く触れたあと、小さな斬撃には《返衝》を使わず、最後にセドリックが大きな力で押し出そうとした瞬間だけ返したこと。
そして場外を決めた最後の一歩では、ナディアはセドリックへ触れていなかったこと。
フランは途中で質問を挟まなかった。
右腕を吊ったまま、本戦表を見ながら最後まで聞いている。
全部話し終えると、しばらく黙ってから小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「何か分かった?」
「分からないことが増えた」
「ええ?」
思っていた答えと違った。
でもフランは少し笑っていた。
「そのほうがいいと思う。セドリックさんの戦い方、たぶん間違ってなかったんでしょ? 触られても止まらないのも、小さい攻撃へ変えたのも、途中まではナディアに効いてた」
「うん。かなり攻めてたよ」
「それでも最後には変えられた。だったら僕が同じ答えを持っていっても、ナディアはもう知ってる」
確かにそうだった。
セドリックが見つけた方法は、もうナディアも経験している。
同じことをすれば、今度は最初から対策されるかもしれない。
「じゃあ、どうするの?」
フランはすぐには答えなかった。
本戦表。
左手。
吊られた右腕。
最後に腰の短剣を見る。
それから、ようやく口を開いた。
「戦ってから決める」
「また?」
「うん。でも、やっちゃ駄目なことは決める」
フランは右腕へ一度だけ目を落とした。
「まず右手は使わない。それから、触れられたかどうかだけ考えて戦うのもやめる。《返衝》ばっかり気にしたら、たぶんナディアの動きを見なくなる」
その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
勝ち方はまだ決まっていない。
でも、何も考えず決勝へ行くわけでもない。
ガルディオやバルガスとの戦いで得たものが、ちゃんと残っている。
フランが左手を開き、何も持たないまま短剣を振る動きを一度だけ確かめようとしたので、私はすぐに止めた。
「練習しないでね」
「これも?」
「これも。今は休む」
「左手なのに?」
「決勝で使うのも左手でしょ」
フランは何も言い返せなくなった。
リリィが笑い、メリーも私の肩の上で楽しそうに揺れる。
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
そのときだった。
本戦表の向こう側に、灰色の外套が見えた。
ナディア。
治療を終えたらしく、セドリックに斬られた左腕には新しい包帯が巻かれている。裂けた外套も何ヶ所か留められていたけれど、《欠月》で削られた仮面の端だけは直していなかった。
ナディアは私たちの前を通るわけではない。
参加者用の別の通路へ向かっている。
それなのに、途中で足が止まった。
最初に見たのはフランだった。
決勝で戦う相手なのだから、それ自体はおかしくない。
でも次の瞬間、視線が下がった。
右腕ではない。
首から吊られた包帯でもない。
腰。
短剣。
ナディアの目が、そこで止まった。
私は息を止めた。
これで三度目だった。
準々決勝が終わったあと、ナディアはフランが座っていた場所を見ていた。
準決勝を勝ち抜いたあとには、本戦表に書かれたフランの名前へ、他より少し長く視線を残した。
そして今は違う。
フラン本人が目の前にいる。
それなのにナディアが見ているのは、顔ではなかった。
短剣だった。
鞘に収まっていて、刃さえ見えていない。
それでも柄頭の形や鞘の装飾を確かめるように、ナディアの視線が上から下へゆっくり動いた。
ほんの数秒。
でも、試合相手の武器を警戒しているだけには見えなかった。
フランも気づいたらしい。
左手が無意識に短剣の柄へ触れる。
その瞬間だった。
ナディアの目が、わずかに細くなった。
驚いたわけではない。
警戒したようにも見えない。
何かを確かめた。
そんな顔だった。
「……僕の剣?」
フランが小さく尋ねた。
聞こえる距離だった。
ナディアは答えない。
ただ、短剣からフランの顔へ視線を戻す。
二人の目が合った。
数秒。
ナディアの口元が、ほんの少しだけ動いた。
何か言うのかと思った。
でも結局、何も言わない。
そのまま踵を返し、参加者用通路へ歩き出した。
「今の……」
私が言いかけると、リリィが先に答えた。
「見てたね。短剣を」
「やっぱりそうだよね」
フランも腰の短剣を見下ろしている。
「知ってるのかな」
その言葉に、胸の奥で何かが引っ掛かった。
フランの短剣。
黒龍王の炎を吸収したときにも強い光を放った武器。
そしてフランが故郷から持ってきた、大切なもの。
私はこの短剣について、フラン自身からまだ全部を聞いているわけではない。
ナディアが何を知っているのかも分からない。
だから、まだ繋げられない。
でも、三度続けば忘れることはできなかった。
「決勝で聞いてみれば?」
私が言うと、オラクルが横から口を挟んだ。
「試合中に世間話する余裕がありゃな」
「始まる前でもいいじゃん」
「向こうが答える気あるならな」
それもそうだった。
フランはしばらく短剣を見ていたが、最後には柄から左手を離した。
「まあ、会えば分かるか」
その言葉で話は終わった。
でも私の中では終わらなかった。
なぜナディアは、あの短剣を見るのか。
強い武器だからではない。
少なくとも、私にはそう感じられた。
何かを知っている。
それも、フラン自身が知らない何かを。
そんな気がした。
その直後、大会本部の奥で扉が開いた。
王宮兵が二人出てくる。
一人はそのまま王宮側へ戻り、もう一人は司会者へ近づいて小声で何かを伝えた。
司会者の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。いつもの笑顔が消え、渡された紙ではなく王宮側へ続く通路を見たあと、すぐ大会本部の責任者へ視線を送る。
責任者も気づいていた。
司会者が紙を持ったまま本部へ戻り、二人は周囲に聞こえない声で短く話した。途中で責任者が一度だけ本戦表を見上げ、そのあと満員の観客席へ視線を移したので、私はまた大会が止まるのではないかと思った。
けれど、数分後に中央へ戻った司会者が告げたのは中止ではなかった。
「皆様、大変お待たせしております! ただいま両選手の治療と試合場の最終確認を行っております! 決勝戦は予定どおり開催いたしますので、今しばらくお待ちください!」
歓声が上がった。
周囲の観客たちは安心したように決勝の話へ戻ったけれど、私は素直に同じ気持ちにはなれなかった。
「予定どおり、だって」
「ああ」
オラクルも大会本部を見ていた。
「何が起きてるんだろ」
「知らねえ。だから今は気にしすぎんな。お前が考えたところで王宮の中まで見えるようになるわけじゃねえ」
それは分かっている。
それでも、昨日から続くものを忘れることはできなかった。
《内庫の確認が先だ》という兵士の言葉。低い鐘が鳴ってから増えた王宮関係者の移動。負傷した状態で戻ってきた魔道士。そして、何度も大会本部へ届けられる報告。
何かが起きている。
でも、それが何なのかはまだ分からない。
だから今は、そこまで。
私は無理に答えを作るのをやめ、本戦表へ視線を戻した。
フランとナディア。
あと一試合。
その事実だけでも、胸が落ち着かなくなるには十分だった。
やがて試合場の整備が始まった。
準決勝までの戦いで傷んだ石床へ土系統の魔法を使える魔道士たちが入り、削れた場所や小さなひびを修復していく。係員は境界線を引き直し、審判も中央から各方向までの距離を歩いて確かめていた。
いつもの試合前より念入りに見える。
最後の一戦だからだろう。
観客席にも人が戻り始め、さっきまで空いていた通路が少しずつ埋まっていく。売店からは焼いた肉や甘い菓子の匂いが流れてきたけれど、今は食べたいとは思わなかった。
「緊張してる?」
リリィに聞かれた。
「私が?」
「さっきから杖握ってる」
言われて初めて気づいた。
右手に持っていた杖を、必要以上に強く握っている。
「だって決勝だよ」
「戦うのはフランだけどね」
「分かってるよ。でも見てるほうも緊張するじゃん」
「それはちょっと分かる」
リリィも本戦表を見る。
フラン本人は、さっきから思っていたより静かだった。
左手で短剣を触ることもなく、座席へ深く腰を下ろして試合場を見ている。治療区画から戻ってきた直後より呼吸も落ち着いていて、右腕を吊っていることさえなければ、いつもの試合前とあまり変わらないようにも見えた。
「フランは緊張しないの?」
私が聞くと、少し考えてから答えた。
「するよ」
「全然見えない」
「今は考えても分からないことが多すぎるから」
「《返衝》?」
「それもある。でもナディア本人のほう」
フランは試合場から目を離さなかった。
「セドリックさんの試合を聞いて、能力について分かったことは増えた。でもナディアが次も同じ使い方するとは限らないでしょ?」
「うん」
「だったら今から全部決めても仕方ないかなって。それより左手でできることと、右腕で絶対やっちゃ駄目なことだけ忘れないようにする」
思っていたより単純な答えだった。
でも、たぶん今のフランにはそれでいい。
大会が始まった頃なら、使う技や踏み込む位置まで先に決めようとしていたかもしれない。今は相手がどう動くか分からないことを、そのまま受け入れている。
「右腕、本当に使わないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「さっきから何回目?」
「決勝終わるまで何回でも言うよ」
フランは苦笑した。
「じゃあ、終わったら言わない?」
「終わったあとも治るまで言う」
「増えてるじゃん」
メリーが肩の上で笑った。
その声に少しだけ緊張が和らぐ。
でも、すぐに大きな鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
今までの休憩終了より間隔が長い。
闘技場のあちこちで続いていた話し声が、少しずつ小さくなっていく。
司会者が中央へ向かった。
その姿を見ただけで、胸の奥がまた速くなる。
「いよいよ、この時がやってまいりました!」
声が響く。
数万人分の視線が中央へ集まった。
「三百二十七名から始まった今大会! 数々の激戦を勝ち抜き、最後に残ったのは――わずか二名!」
歓声が一気に膨らんだ。
司会者が東門へ腕を向ける。
「一人目! 短剣を手に強敵を次々と突破し、ガルディオ、バルガスを破って決勝まで勝ち上がった――フラン!」
名前が読み上げられた瞬間、闘技場全体が揺れたように感じた。
「行ってくる」
フランが立ち上がった。
左手で短剣の位置だけを確認する。
右腕は吊ったまま。
「フラン!」
呼び止める。
振り返った。
さっき「行ってらっしゃい」と言ったばかりなのに、また何か言いたくなった。
でも、今度は余計なことを言わなかった。
「頑張って!」
フランが笑った。
「うん」
それだけ答え、階段を下りて参加者用通路へ入っていく。
少しして東門が開いた。
フランが試合場へ出る。
今までとは比べものにならない歓声が降り注いだ。
名前を呼ぶ声。
拍手。
足を踏み鳴らす音。
フランは一瞬だけ立ち止まり、驚いたように観客席を見回した。
予選から勝ち上がってきた。
最初は知らない人のほうが多かった。
今は違う。
あちこちからフランの名前が聞こえる。
私も立ち上がった。
「フラーン!」
今度は届いたらしい。
フランがこちらを見つけ、左手を軽く上げた。
それから中央へ向かう。
右腕を吊った選手が決勝へ出てきたことで、観客席の一部がざわついていた。でもフランは気にせず、審判の少し手前で止まる。
司会者が反対側へ向いた。
「そしてもう一人! その手に宿す謎の《返衝》と卓越した体術で、挑戦者たちを退けてきた――ナディア!」
西門が開いた。
灰色の外套。
黒い手袋。
端の欠けた細い仮面。
ナディアがゆっくり姿を現す。
こちらも大歓声だった。
準決勝でセドリックとの激戦を制したことで、名前を呼ぶ声はさらに増えている。
ナディアは観客席へ手を振らなかった。
いつもと同じように、静かに中央へ向かう。
左腕には新しい包帯。
歩き方に異常はない。
右手も普通に動いている。
フランとナディア。
二人の距離が少しずつ縮まる。
十歩。
七歩。
五歩。
その途中で、ナディアの視線がまた下がった。
私は気づいた。
フランも気づいた。
今度は迷いようがなかった。
ナディアは短剣を見ている。
決勝前に通路ですれ違ったときより、さらに長い。
柄。
鍔。
鞘。
まるで形を一つずつ確認するように、視線が動いている。
フランが中央へ着いても、ナディアはすぐ顔を見なかった。
短剣を見る。
それから、ようやくフランへ目を向ける。
審判が二人の間へ入った。
「決勝戦を開始する。場外、戦闘不能、降参で決着。故意に相手の命を奪う行為は禁止する。両者、よろしいか?」
「はい」
フランが答える。
ナディアも頷いた。
でも、まだ短剣のことが気になっているように見えた。
審判が一歩下がろうとしたとき、ナディアが口を開いた。
「その腕」
フランが止まる。
「右?」
「ええ。使えないの?」
「ほとんど」
「そう」
それだけ。
ナディアは特に喜びもしなかった。
有利になったと笑うこともない。
次に視線が向いたのは、やっぱり短剣だった。
フランもさすがに気になったらしい。
「さっきから、これ見てるよね」
左手で柄へ触れる。
ナディアの目が、その動きを追った。
「気になる?」
少し間があった。
「……ええ」
初めて答えた。
胸の奥がざわつく。
フランも同じだったらしく、眉を少し寄せた。
「知ってる剣?」
ナディアはすぐには答えなかった。
柄頭。
鞘。
フランの左手。
最後に顔を見る。
何かを確かめている。
そんな目だった。
やがて口を開く。
「まだ、いいわ」
「何が?」
「確かめたいことがあるの」
フランがさらに聞こうとしたところで、審判が二人の間へ腕を出した。
「会話はそこまでだ。位置へ」
ナディアは何も言わず、自分の開始位置へ下がった。
フランも納得していない顔をしていたけれど、左手で短剣を抜いて距離を取る。
刃が光を受けた。
その瞬間。
ナディアの表情が、ほんの少しだけ変わった。
私は見逃さなかった。
さっきまで鞘に収まった状態を見ていたときとは違う。
刃そのものを見た瞬間だけ、目が細くなった。
驚いたようにも見えた。
でも、すぐ元に戻る。
「やっぱり……何か知ってる」
私が呟くと、リリィも頷いた。
「たぶん短剣そのものに見覚えがある。でも、何を知ってるかまでは分からない」
それ以上考える時間はなかった。
フランが左手で短剣を構える。
右腕は胸の前。
ナディアは両手を上げる。
左腕の包帯。
黒い手袋。
二人とも無傷ではない。
それでも、ここまで勝ち残った二人だった。
闘技場の歓声が、少しずつ静かになっていく。
何万人もの人がいるはずなのに、音が遠くなる。
審判が二人を見る。
フランの目はナディアから離れない。
ナディアも今度は短剣ではなく、フラン本人を見ている。
試合場の外では、大会本部の責任者がまた王宮側へ視線を向けていた。
でも、決勝は止まらない。
私は杖を握り直した。
フランの右腕。
ナディアの左腕。
《返衝》。
短剣への視線。
王宮で起きている何か。
いくつもの不安が同じ場所へ集まっている。
その真ん中で、審判の腕が上がった。
「武道大会――決勝戦!」
一瞬だけ、完全な静寂が落ちた。
腕が振り下ろされる。
「始め!」
フランが左足で石床を蹴った。
ナディアも同時に前へ出た。
三百二十七人から残った最後の二人が、真正面からぶつかった。




