第137話 最後の一歩
先に動いたのはセドリックだった。
《満月断》を《返衝》で返された右肩は、もうほとんど上がらない。それでも左手に持ち替えた湾曲刀を低く構え、呼吸を整えるより先にナディアとの距離を詰めていく。
右手で戦っていたときとは明らかに違う構えだった。
さっきまでのセドリックは、一撃を紙一重で外されたところから手首と肘を返し、次の斬撃をほとんど間を空けずに繋いでいた。でも利き手ではない左では同じ速度を出せない。無理に再現すれば刀の戻りが遅れ、その隙をナディアに使われることは、すでに《欠月》を仕込んだ攻防でお互いに分かっている。
だからセドリックは、速さを取り戻そうとはしなかった。
左腕だけで扱いやすい小さな斬撃へ切り替える。
最初の横薙ぎは腰をほとんど回さず、左肘から先だけで放った。ナディアが半歩下がって避けても追いかけず、刀を身体の前へ残したまま角度を変え、斜め下から二撃目を送る。
ナディアは身体を捻って外した。
それでもセドリックは踏み込みを深くしない。
当てることより、近づかせないことを優先している。
「また変えた……」
《満月断》ほど大きな力を使えば、《返衝》によって右肩を壊したときと同じことになる。
なら、大きな力を使わなければいい。
一撃で倒そうとせず、返されても耐えられる程度の攻撃を積み重ねる。そうすれば《返衝》そのものを消せなくても、能力が一番危険になる状況だけは減らせる。
セドリックは、自分の右肩を代償に得た情報をすぐ次の戦い方へ変えていた。
ナディアの右手が伸びる。
左肩へ黒い手袋が触れた。
今までなら、そこからセドリックは構わず攻撃を続けていた。でも今度は、次の一撃までほんの少し間があった。
迷ったわけではない。
左腕だけで小さく湾曲刀を振る。
ナディアが避ける。
何も起こらない。
セドリックはもう一撃だけ重ねた。
さっきより少し強い。
それでも《返衝》は来ない。
そこで初めて踏み込みを半歩だけ深くした。
「確かめてる?」
私が呟くと、リリィも二人の足元を見ながら頷いた。
「一気に大きい力を使わないで、少しずつ上げてるんだと思う。返ってきたところで止めれば、さっきみたいにはならないから」
一撃目で来なければ、二撃目。
二撃目でも来なければ、もう少しだけ強くする。
セドリックは攻撃そのものを使い、《返衝》が仕込まれているか探っている。
ナディアも、それを見ていた。
次の横薙ぎに対して、今度は後ろへ下がらなかった。
左腕を刀の側面へ当て、身体の外側へ流す。
完全には逸らし切れない。
湾曲した刃先が外套を裂き、その下の左腕にも浅い傷を作った。
「ナディア!」
細い血の線が腕へ走る。
それでもナディアは離れなかった。
傷を受けることを最初から計算に入れていたように、そのままセドリックの懐へ入る。
右手を胸元。
左手を肩。
両方の黒い手袋が、今度ははっきりとセドリックへ触れた。
一瞬ではない。
セドリックが左肘を使って押し返そうとするまで、両手を置いたままにしている。
ナディアが身体を沈めた。
膝が来る。
そう判断したのか、セドリックは左足を引いた。
でも攻撃は来なかった。
ナディアは両手を離し、自分から一歩下がる。
セドリックも追わない。
さっきまで迷わず動いていた刀が、初めて止まった。
「……何をした?」
ナディアは答えない。
右手で《返衝》を仕込んだのか。
左手なのか。
両方なのか。
それとも、ただ触れただけなのか。
セドリックは一度《返衝》の発動を実際に受けているからこそ、適当に決めつけることができない。
「なるほどな……」
セドリックが苦笑した。
「俺が小さく試すなら、お前は何を試せばいいか分からなくするわけか」
返事はなかった。
でも、否定もしない。
セドリックは左手の湾曲刀を構え直した。
ここで攻撃を止め続ければ、ゼインと同じになる。
だから動く。
ただし、賭けには出ない。
最初の斬撃は、腕だけ。
ナディアが避ける。
何も返らない。
二撃目では腰を少し使う。
それでも来ない。
三撃目には踏み込みまで加えた。
《返衝》は発動しない。
セドリックの表情から、少しずつ警戒が薄れていく。
「使ってないのか?」
その言葉にナディアは答えなかった。
四撃目。
今までより踏み込みが深い。
ナディアは刃を避ける。
それでも何も起きない。
セドリックが左足へさらに体重を乗せた。
たぶん、この瞬間だった。
《返衝》は仕込まれていない。
そう判断しかけた。
ナディアが前へ出た。
セドリックもすぐ反応し、左手の湾曲刀を引き戻す。
でも右肩が使えない。
身体の右側へ入られた相手を右腕で止められないため、刀を戻すには腰ごと回らなければならない。
ナディアはそこへ入った。
左肩をセドリックの胸元へ当て、右足を左足の内側へ差し込む。
セドリックは刀を捨てた。
石床へ落ちる金属音。
空いた左腕でナディアの肩を掴む。
「捕まえた!」
体格ではセドリックが上だった。
ナディアの足を払われないよう腰を落とし、左腕と身体全体で押す。
ナディアの背後には境界線。
一歩下がる。
さらに半歩。
観客席が一気に沸いた。
「このままじゃ出る!」
私まで立ち上がりそうになる。
ナディアはセドリックの腕を外そうとしなかった。
右手も使わない。
左手も身体の横へ下げたまま。
押されている。
私にはそう見えた。
セドリックにも、そう見えたのだと思う。
だから最後の一歩を押し切るため、左足で石床を踏み、残っている力を一気に上半身へ伝えた。
ナディアの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「今ね」
次の瞬間、セドリックの左腕が止まった。
「なっ――!」
押していた力が、見えない壁へぶつかったように戻る。
左肩が跳ね、胸が反り、石床を踏んでいた足まで後ろへ滑った。
《返衝》。
胸元へ置いた右手だったのか、肩へ触れた左手だったのかは分からない。
でもナディアは、あの長い接触で確かに能力を仕込んでいた。
それなのに、セドリックが小さな斬撃を使っている間は一度も返さなかった。
「小さい攻撃を……わざと?」
そこでようやく分かった。
セドリックは《返衝》を警戒し、大きな力を使わなくなった。
だからナディアは、小さな力を返すのをやめた。
一度目で返らない。
二度目でも返らない。
三度目でも何も起こらない。
そうやってセドリック自身に「能力を仕込まれていないかもしれない」と思わせ、最後に勝負を決めようと大きな力を使う瞬間だけを待っていた。
能力を使う回数を増やしたのではない。
逆だった。
一番大きな隙になる力だけを選んだ。
「セドリックが対策したから、その対策ごと使った……」
リリィも頷いた。
「うん。でも最初から全部決めてたわけじゃないと思う。セドリックが小さく攻撃し始めたのを見てから変えたんじゃないかな」
それが一番怖かった。
最初から答えを持っていたわけではない。
セドリックが変わる。
それを見てナディアも変わる。
セドリックがもう一度変われば、その答えまで捨ててまた変える。
《返衝》を受けたセドリックの身体が大きく後ろへ流れた。
それでも倒れない。
右肩は使えず、今の衝撃で左腕まで痺れているはずなのに、足だけで踏ん張って境界線の手前に残った。
「まだ……終わってねえ!」
ナディアが距離を詰める。
セドリックは落とした湾曲刀へ手を伸ばさなかった。
今拾おうとすれば、その瞬間を使われる。
だから素手のまま前へ出た。
ナディアの右手が伸びる。
セドリックは身体を引く。
でも完全には下がらない。
境界線まで、もう二歩もない。
「それ、ゼインにもやっただろ」
荒い呼吸の間から、セドリックが笑った。
「触るふりだけで下がらせる。もう引っ掛からねえよ」
ナディアの手が止まった。
セドリックも止まる。
二人の距離は一歩半。
その向こうに、落とした湾曲刀。
後ろには境界線。
武器を拾うなら前へ出なければならない。
でも前へ出れば、ナディアの手が届く。
セドリックは数秒だけ刀を見た。
そして、前へ出た。
「行った……!」
一歩。
ナディアも動く。
伸びてきた右手の下へ、セドリックが身体を沈めて潜る。
刀まであと一歩。
左手が柄を掴んだ。
そのまま身体を起こし、振り向きざまに斬る。
けれど、もう試合開始時の速さはなかった。
《返衝》で壊した右肩は使えず、残った左腕も慣れない刀を振り続けて疲労している。刀を拾いながら身体全体を回す動きは、どうしても一瞬遅れた。
ナディアはそこへ入った。
刀の内側。
しかもセドリックの右側。
今、一番守りにくい場所。
セドリックは左肘を返して押し離そうとする。
ナディアは避けなかった。
傷のある左腕で受ける。
顔がわずかに歪む。
それでも離れない。
右手がセドリックの胸元へ伸びる。
「またそれか!」
セドリックが反射的に身体を引いた。
今度は、ナディアの手は届いていなかった。
黒い手袋と胸元の間には、わずかな隙間が残っている。
それでもセドリックは下がった。
右足が境界線を越える。
観客席が爆発したように沸いた。
「片足!」
まだ終わりではない。
左足は内側に残っている。
セドリックもすぐに気づき、身体を前へ戻そうとした。
ナディアは押さなかった。
飛び込まない。
ただ、もう一度だけ右手を伸ばした。
セドリックの目が黒い手袋へ向いた。
触れられる。
《返衝》を仕込まれる。
その警戒が、身体へ染みついていた。
最初は能力を恐れず、自分から触れさせた。
《満月断》を返されても、右肩を犠牲にして情報を取った。
小さな斬撃へ変え、《返衝》の危険まで抑えた。
そこまで攻略したからこそ、その能力が本当に危険なことも誰より知っている。
セドリックの上半身が、ほんの少しだけ後ろへ逃げた。
それだけだった。
内側へ残っていた左足が、身体を支えるために半歩下がる。
境界線を越えた。
審判が足元を確認する。
腕が上がった。
「場外! そこまで! 勝者――ナディア!」
大歓声が闘技場を揺らした。
私はようやく息を吐いた。
最後の一歩で、ナディアは《返衝》を使っていない。
それどころか、セドリックへ触れてすらいなかった。
それでも勝敗を決めたのは、《返衝》だった。
「……最後まで《返衝》なのに、最後は使ってない」
自分で言って少し変な言葉だと思ったけれど、リリィには伝わったらしい。
「セドリックが知りすぎたんだよ」
最初、セドリックは《返衝》を恐れないことでナディアの戦い方を崩した。
能力を実際に受けても攻撃を止めず、右肩を犠牲にして性質まで確かめた。そこから小さな斬撃へ切り替え、返される力まで抑え込んだ。
それでもナディアは、その対策を一つずつ見てから戦い方を変えた。
小さな攻撃なら返さない。
長く触れることで、どこへ能力を仕込んだか分からなくする。
最後には、能力そのものではなく、能力を知っている相手の判断を使う。
どちらかが一つの攻略法を見つけて終わる試合ではなかった。
相手が変われば、自分も変える。
その繰り返しを最後まで続けたほうが勝った。
場外に立つセドリックは、しばらく自分の足元を見ていた。
やがて悔しそうに頭を掻く。
「……最後、触ってねえよな?」
ナディアは右手を軽く上げた。
「ええ」
「やっぱりか」
セドリックは天井を見上げ、大きく息を吐いた。
「能力破ることばっか考えて、最後は勝手に能力から逃げたのか。最悪だな」
「でも、途中まではかなり嫌だったわ」
「慰めになってねえよ」
そう言いながら、セドリックは笑っていた。
ただし、身体はもう限界に近かった。最初の《返衝》で痛めた右肩は最後までほとんど上がらず、代わりに湾曲刀を振り続けた左腕にも疲労が溜まっている。試合が終わって緊張が切れたからなのか、左手から刀を下ろした途端、指先が細かく震え始めた。
二人の治療師が試合場へ走り込んでくる。
「右腕を動かすな。そのままにしてろ」
「もう試合終わったんだから、ちょっとくらい――」
「駄目だ」
肩へ触れられた瞬間、セドリックの顔が強張った。
それでも大声を出さなかったのは意地なのかもしれない。治療師に右腕を支えられながら、一度だけナディアへ振り返る。
「次やったら勝つからな」
ナディアは左腕の傷を押さえながら答えた。
「そのときは、また別の方法を考えるわ」
「それが嫌なんだよ」
セドリックは最後に苦笑すると、治療師たちと一緒に退場口へ向かった。
観客席から拍手が起こる。
最初は一部だけだった。
それが少しずつ広がり、やがて勝者へ向けられた歓声とは別の大きな拍手になった。
負けた。
それでもセドリックは、ナディアの《返衝》をここまで追い詰めた。
触れられることを恐れず、実際に能力を受けて性質を確かめ、右腕を使えなくなれば左手へ持ち替えた。その左手の不慣れさまで罠へ変え、最後まで自分から勝つ方法を探し続けた。
結果だけを見れば場外負け。
でも、その最後の一歩まで簡単な試合ではなかったことは、見ていた全員に伝わっていたのだと思う。
セドリックは退場口へ入る直前、左手だけを上げた。
拍手がさらに大きくなった。
私はその姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、ようやく試合場へ視線を戻した。
ナディアはまだ中央付近に立っていた。
勝ったのに、すぐには観客へ応えない。
セドリックに切られた左腕を一度確認し、裂けた外套の上から傷の周囲を軽く押さえている。血は止まっていないものの、腕そのものは動いていた。
右手を開く。
左手も開く。
それから肩を一度だけ回す。
「ナディアも結構やられてるね」
「うん。左腕は浅くないと思う」
リリィは傷そのものだけでなく、ナディアが腕を動かす様子まで見ていた。
「動かせてるけど、さっきから左手を上げるときだけ少し遅い。決勝までに治療はするだろうけど、完全には戻らないかも」
「フランも右手が……」
そこまで言って、胸の奥が少し重くなった。
決勝へ進んだ二人とも、もう万全ではない。
フランはバルガス戦で、治療師から一回が限度かもしれないと言われていた右手の《インセント・フラッシュ》を使った。そのあと指をまともに握れなくなり、今も治療区画にいる。
ナディアもセドリックとの戦いで左腕を斬られ、外套だけでなく仮面まで一部を削られた。
予選から何度も戦ってきた。
勝つたびに次へ進める。
でも、傷や疲れまで消えてくれるわけではない。
その全部を持ったまま、最後の一試合へ行かなければならない。
「決勝……」
口に出しただけで、不思議な感じがした。
三百二十七人。
大会が始まったとき、試合場の周りには数え切れないほどの参加者がいた。誰が強いのかも分からず、フランだって本戦まで残れるかどうか分からなかった。
その人数が半分になり、さらに減り、本戦へ入ってからも一人ずつ消えていった。
そして今、残っているのは二人だけ。
係員が巨大な本戦表へ向かった。
ナディアの名前の横へ赤い印を付け、そこから最後の一段へ線を伸ばしていく。
反対側には、すでに一本の線があった。
《フラン》
新しく伸びた線の先には、
《ナディア》
二本が、一番上で交わる。
決勝――フラン対ナディア。
その組み合わせを観客たちも理解した瞬間、闘技場の空気がまた変わった。
「フランだ!」
「ナディアとやるのか!」
「短剣と《返衝》だぞ!」
「どっちが勝つ!?」
あちこちから二人の名前が聞こえ始める。
さっきまでセドリックとの戦いについて話していた人たちが、もう決勝の勝ち方を予想している。フランの《レイ・シフト》なら触れられずに戦えると言う人もいれば、短剣で攻撃する以上は必ずナディアの間合いへ入るから無理だと言う人もいた。
でも、今の私はどちらにも簡単には頷けなかった。
《返衝》の能力を知れば勝てるわけではない。
セドリックが、それを見せたばかりだ。
能力へ対策する。
ナディアはその対策を見て変える。
さらに相手が変われば、また変える。
フランだって同じだった。
ガルディオに用意していた戦い方を崩され、バルガスにも過去の試合を見られた。それでも試合の中で相手を観察し、通じないものを捨てながら勝ち方を作り直してきた。
だから決勝がどうなるのか、今の私には本当に分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
きっと、今までと同じ戦いにはならない。
「早くフランに教えなきゃ」
私は立ち上がりかけた。
すぐオラクルに服を掴まれる。
「どこ行く」
「治療区画。ナディアの試合教えないと」
「座れ」
「何で!?」
「治療してる奴んとこに、お前が飛び込んでどうすんだ。決勝まで休憩入るんだから、戻ってきてから話しゃいい」
「でも早いほうが考える時間増えるじゃん」
「右手動かねえ奴に、治療中から次の試合考えさせんな」
言い返そうとして、やめた。
それもそうだった。
フランなら、私が今すぐ試合内容を教えれば、治療を受けながらでも考え始めると思う。
今必要なのは、それではないのかもしれない。
「……じゃあ戻ってきたら全部話す」
「見たことだけな」
「分かってるよ」
ナディアが何度触れたのか。
セドリックがどう対策したのか。
《返衝》が実際に発動したのはどこだったのか。
最後は触れずに場外へ出したこと。
推測と、実際に見たものを分けて話す。
それならフラン自身が考えられる。
肩にいたメリーが、私の頬へ小さな手を当てた。
『フール、ちょっと楽しそう』
「え?」
『心配もしてるけど』
言われて、自分でも少しだけ分かった。
フランの右手は心配だった。
ナディアは強い。
それに、王宮側で何が起きているのかも分からない。
不安なことはたくさんある。
それでも私は、決勝を見たいと思っている。
ガルディオやバルガスとの戦いを経て変わってきたフランが、ナディアを相手に何をするのか。
《返衝》をどうするのか。
それだけではなく、能力を抜きにしても強いナディアへ、どうやって短剣を届かせるのか。
考えるだけで胸が高鳴った。
「うん。楽しみ」
私は正直に答えた。
そのとき、試合場では審判がナディアへ歩み寄っていた。
勝者確認を終え、治療区画へ向かうよう促しているらしい。
ナディアは小さく頷き、西側の退場口へ歩き始めた。
その途中だった。
巨大な本戦表の前で、ほんの少しだけ足を止める。
視線が上がった。
自分の名前ではない。
決勝で繋がった、反対側の名前。
《フラン》
そこを見ていた。
ほんの数秒。
それでも、他の名前を見るときより長かった。
そして視線が、文字から少し下へ移る。
まるで、ここにはいないフランの姿を思い出しているようだった。
「まただ……」
私が呟く。
リリィも気づいたらしい。
「フランを気にしてるね」
「何でだろ」
「分からない」
準々決勝のあとにも、ナディアはフランが座っていた場所を見た。
そして今度は、決勝が決まった本戦表のフランの名前を見ている。
強い相手だから。
決勝で戦うから。
それだけなら、何もおかしくない。
でも私は、なぜかそれだけではないような気がしていた。
ナディアの視線が一瞬だけ下がった。
フラン本人はいない。
当然、腰にある短剣もここにはない。
それでも何かを確かめるように本戦表を見たあと、ナディアは何事もなかったように歩き出した。
今はまだ理由が分からない。
だったら覚えておこう。
そう思ったとき、大会本部のほうで椅子が倒れる音がした。
振り向く。
王宮側から戻ってきた兵士が、責任者へ新しい紙を渡したところだった。
責任者は紙を開き、数行だけ読んだ。
その手が止まる。
さっきまで何度も報告を受けていたのに、今度はすぐ指示を出さなかった。
紙を見たまま動かない。
近くにいた王宮魔道士が声を掛ける。
そこでようやく顔を上げた。
「……また何かあった?」
私は小さく呟いた。
オラクルも大会本部を見ている。
「らしいな」
責任者は周囲を確認してから、兵士と王宮魔道士を本部の奥へ入れた。
それだけ。
観客へ説明はない。
決勝中止の知らせもない。
やがて司会者が中央へ戻り、決勝まで長めの休憩を取ることを告げた。
観客たちが一斉に立ち上がる。
売店へ向かう人。
本戦表の前へ集まる人。
決勝について話す人。
闘技場はすぐにいつもの賑やかさを取り戻した。
その向こうで、大会本部の扉だけが閉じている。
王宮側の通路では、また一人の兵士が走っていった。
昨日聞いた《内庫》という言葉が頭に浮かぶ。
でも、まだ繋げない。
分からないことを、自分で答えにしてはいけない。
私は一度だけ王宮側を見たあと、本戦表へ視線を戻した。
フラン。
ナディア。
最後に残った二つの名前。
次にあの試合場へ二人が立てば、この大会の最後の戦いが始まる。
フランは右手をまともに握れない。
ナディアも左腕を傷めている。
そして大会の裏では、私たちの知らない何かが動き続けている。
それでも今は、決勝を待つしかない。
私はフランが戻ってくるはずの参加者用通路を見つめながら、さっきの試合を頭の中でもう一度だけ整理した。
次は、ちゃんと伝えよう。
見たことを。
分かったことを。
そして、分からなかったことも。
決勝までの時間は、もう始まっていた。




