第136話 止まらない剣士
「準決勝第二試合――始め!」
審判の腕が振り下ろされても、ナディアとセドリックはすぐには動かなかった。
セドリックは湾曲刀を右手で構え、左足を半歩だけ前へ出している。準々決勝でミラの金属輪を受けた腕や肩には新しい包帯が巻かれていたが、構えに大きな乱れはない。対するナディアも武器を持たず、黒い手袋に覆われた両手を胸の高さまで上げ、五歩ほど離れた場所から相手の出方を待っていた。
二人とも、ここまで相手の試合を見ている。
セドリックは《返衝》を知っているし、ナディアも、セドリックが相手の攻撃を紙一重で外し、その直後へ湾曲刀を返す戦い方を見ている。だからなのか、試合開始直後だというのに、どちらも簡単には最初の一歩を選ばなかった。
「セドリックも《返衝》を警戒してるよね」
私が小声で尋ねると、リリィは二人の距離を見ながら頷いた。
「ゼインの試合を見てたなら、触れられないようにするだけじゃ足りないって分かってると思う」
準々決勝でナディアと戦ったゼインは、長い鎖棍を使って手の届かない距離を保とうとした。それ自体は間違っていなかったけれど、ナディアは触れようとするだけでゼインを後退させ、最後には鉄棍へ一度触れることで「《返衝》を使われたかもしれない」と思わせた。
あのとき本当に能力を使ったのかは、今でも分からない。
それでもゼインは迷い、その一瞬をナディアに使われた。
同じ試合を見ていたセドリックが、何も考えず近づくはずがない。
先に距離を変えたのはナディアだった。
ゆっくり一歩前へ出ても、セドリックは動かない。さらに二歩目を進み、あと一歩で手が届く距離へ入ったところで、ようやく湾曲刀が横へ走った。
ナディアは大きく逃げず、上体をわずかに反らして刃先だけを通過させると、刀が身体の前を抜けた瞬間には重心を前へ戻していた。
普通なら、ここが懐へ入るところだと思った。
でもセドリックの攻撃は終わっていない。
横へ振り抜いた腕を大きく戻すのではなく、手首と肘を返すだけで斜め下から二撃目を走らせる。ナディアが右へずれると、セドリックは一歩だけ追いながら三撃目を繋ぎ、さらに四撃目は避けた先へ置くように振った。
一撃一撃は《満月断》ほど大きくない。その代わり攻撃と攻撃の間がほとんどなく、ナディアは刃そのものを避けられても、直後に踏み込むための時間を作れない。
「近づけない……」
「ゼインとは逆だね」
リリィに言われ、その意味が分かった。
ゼインはナディアが前へ出ると、《返衝》を恐れて自分から距離を取った。その後退を利用され、少しずつ自分の戦い方を崩された。
セドリックは下がらない。
ナディアの手が届くより先に次の刃を置き続け、近づこうとする側を止めている。
五撃目の湾曲刀が右肩へ迫り、ナディアが左へ避けた。
そこだけセドリックが一歩深く踏み込み、逃げた先へ刃を返す。
ナディアは身体を沈めて刀を頭上へ通過させ、その低い姿勢から右手を伸ばした。黒い手袋の指先がセドリックの左腕へ迫り、今度こそ届くと思った瞬間、意外にもセドリックは腕を引かなかった。
むしろ、自分から前へ出した。
黒い手袋が袖へ触れる。
ほんの一瞬だけ。
すぐに離れた。
私は当然、次の攻撃が止まると思った。
けれどセドリックは触れられた左腕を気にすることなく、右手の湾曲刀をナディアの脇腹へ返した。ナディアの反応もそれまでよりわずかに遅れ、身体を捻って刃そのものは避けたものの、灰色の外套が浅く裂れて布片が石床へ落ちる。
そのままセドリックは短い横薙ぎから切り返し、続けて足元を狙った。ナディアが後ろへ下がれば一歩だけ追い、また次の刃を置く。
触れられたことなど、最初からなかったような戦い方だった。
「何で……? 今、触られたよね」
もしあの接触で《返衝》を使われていたなら、力を込めた攻撃は自分へ返ってくるかもしれない。ゼインなら、そこで止まっていた。
リリィは少しだけ考えてから答えた。
「たぶん、触れられても止まらないって最初から決めてる」
私はもう一度セドリックを見る。
確かに迷っていない。
能力を見破ったようには見えなかった。むしろ《返衝》を使われたかどうか、そのたびに考えること自体を捨てているように見える。
ゼインは能力を警戒するたびに動きを止め、その時間を利用された。だったら、本当に《返衝》を受けることになったとしても攻撃を続ければ、少なくとも「使われたかもしれない」という疑いだけで自分から攻撃を捨てることはない。
危険な方法だけれど、ナディアが使っていた「触れるだけで相手を止める」という武器を、一つ消すことはできる。
ナディアもそれに気づいたはずだった。
次の斬撃を避けながら左肩へ触れたが、セドリックの刀は止まらない。さらに腕、三度目には胸元まで指先が届いたものの、そのたびに次の斬撃が返ってきた。
観客席からも少しずつ声が上がり始める。
《返衝》が効いていない。
ナディアが能力を使っていない。
色々な予想が聞こえてきた。
私にも答えは分からない。
ナディアが本当に能力を使っていないのか、それとも使っているけれど発動条件が揃っていないのか。触れ方そのものにも条件があるのかもしれない。
でも、昨日の情報屋で聞いたことを思い出す。
分からない部分を勝手に埋めない。
今確かなのは、ナディアが三度触れ、セドリックが一度も攻撃を止めなかったことだけだ。
その間にも、試合場の外では王宮側の動きが続いていた。
王宮へ続く通路を兵士が二人走り抜け、大会本部では責任者が新しい紙を受け取っている。さっきまで右腕から血を流していた王宮魔道士の姿はすでになく、代わりに別の魔道士が本部へ入り、何かを報告していた。
ただし、誰も試合場へは入ってこない。
試合を止めようとする様子もない。
大会の裏側で何かが起きている。
今分かるのは、そこまでだった。
「フール」
リリィに呼ばれ、すぐに試合へ意識を戻した。
セドリックの攻撃が変わっていた。
それまで小さく繋いでいた湾曲刀を、今度は腰の後ろまで大きく引いている。右足へ体重を集め、腰まで深く捻った構えは、一目見ただけで今までとは威力が違うと分かった。
しかも、その直前。
ナディアの右手が、セドリックの胸へ触れていた。
「まさか……」
触れられた直後に、全力で攻撃するつもりだ。
セドリックは迷わなかった。
「《満月断》!」
湾曲刀が大きな弧を描き、空気を押し潰すような横薙ぎが走る。ナディアが大きく後ろへ下がったことで刃そのものは空を切った。
そして、刀が振り切られた直後だった。
セドリックの右腕が突然、逆方向へ弾かれた。
「ぐっ――!」
肩が大きく捻れ、踏み込んでいた右足まで横へ滑る。
自分で放った《満月断》の力が見えない何かに押し返され、そのまま身体へ叩き込まれたようだった。
「《返衝》……!」
今度は間違いない。
それでもセドリックは倒れなかった。
左足を石床へ強く踏み込み、崩れかけた身体を無理やり止める。右肩を痛めたのか、湾曲刀を持つ腕は大きく下がり、すぐには上げられない。
ナディアが一気に距離を詰める。
ここまでは、今までと同じ。
《返衝》で相手を崩し、その隙へ入る。
でもセドリックも、その瞬間を待っていた。
「やっぱりな!」
右手から湾曲刀を離し、左手で柄を受け取った。
ナディアの踏み込みが途中で止まる。
セドリックは右肩を押さえず、痛みに顔を歪めながらも、左手の刀をナディアへ向けていた。
そこでようやく分かった。
セドリックは、《返衝》を受ける可能性を知らずに《満月断》を使ったわけではない。
分かったうえで、一度だけ全力の攻撃を使った。
自分へどれほどの力が返ってくるのか。
触れられてから、どれくらいで発動するのか。
そして《返衝》で相手を崩したあと、ナディアがどこへ入ってくるのか。
右肩を痛めるという代償を払って、その全部を一度に確かめた。
「そこまでして確かめたんだ……」
リリィも驚いたようにセドリックを見ていた。
「でも、これでナディアも同じ入り方はできない」
実際、ナディアはそれ以上踏み込まなかった。
セドリックの右腕は下がったままだが、代わりに左手へ湾曲刀が渡っている。使える腕を一つ失った代わりに、セドリックは《返衝》について一つ確かな情報を手に入れた。
互いに使えるものは減った。
そのぶん、互いについて知っていることは増えた。
試合はまだ終わらない。
セドリックが左手で湾曲刀を振ると、ナディアは余裕を持って避けた。
右手ほど速くない。
二撃目も左。
今度は軌道が少し低い。
ナディアはすぐに触れようとはせず、何度か避けながらセドリックの左手の動きを見ていた。右手と同じには振れない以上、どこかに必ず違いが出る。
それは刀を戻す位置だった。
左手では刃が少し低いところへ戻り、次の攻撃へ入る直前に肘が身体からわずかに離れる。
ナディアの視線が、そこへ向いた。
一度目は触れない。
二度目も入らない。
そして三度目、同じ位置へ刀が戻った瞬間だけ、ナディアが前へ出た。
右手がセドリックの左肘へ伸びる。
でも――それを待っていたのは、セドリックも同じだった。
「《欠月》!」
戻る途中だった湾曲刀が止まり、手首だけが返る。
低い位置へ収まるはずだった刃が、そのまま逆向きの斬撃へ変わった。
ナディアは上体を反らしたものの、完全には避けられない。
刃先が細い仮面の端を掠め、小さな破片が石床へ落ちた。
観客席から大きなどよめきが起こる。
セドリックは荒い呼吸を繰り返しながら、それでも笑っていた。
「同じところ、見すぎだ。俺が左に慣れてねえことくらい、俺が一番分かってる。だったら、そこ狙われるのも分かるだろ」
ずれた仮面の奥で、ナディアの目がわずかに細くなった。
それから初めて、楽しそうに口元を上げる。
「……思ったより面白いわね」
セドリックも左手で湾曲刀を構え直した。
右肩はもうほとんど動かない。
ナディアも仮面の端を削られ、灰色の外套にはいくつもの切れ目が残っている。
互いに傷を負い、相手の手札も少しずつ見えてきた。
それでも、まだ決着はついていない。
ここから先は、最初に用意してきた対策だけでは足りない。
セドリックは《返衝》へ一つ答えを出した。
ナディアは、その答えを見た。
次にどちらが変えるのか。
たぶん、それが勝負を決める。
そのとき王宮側から、また低い鐘が一度だけ響いた。
今までなら、私はすぐそちらを見続けていたかもしれない。でも今回は大会本部の責任者が立ち上がり、王宮側から渡された新しい紙を強く握っていることだけを確認して、すぐに試合場へ視線を戻した。
中止の指示は出ていない。
王宮で何が起きているのかも、まだ分からない。
今は見る。
フランに伝えるためにも、最後まで。
ナディアとセドリックも、互いから目を離していなかった。
右腕を失った剣士と、《返衝》を一度読まれたナディア。
二人の準決勝は、ここから本当の勝負へ入ろうとしていた。




