第135話 受けない剣
準決勝開始を告げる鐘が鳴っても、私はすぐに試合場を見ることができなかった。
大会本部の前では、右腕から血を流した王宮魔道士がまだ責任者へ何かを伝えている。男が何度も王宮側を指差すたび、周囲に集まった職員たちの表情が険しくなり、そのうち二人が新たな指示を受けて別々の方向へ走り出した。
それでも大会は止まらない。
司会者が中央へ出ると、不安を押し流すような声を闘技場いっぱいに響かせた。
「お待たせしました! 三百二十七名から勝ち残った四名による準決勝! まずは第一試合――短剣一本で強敵を破り続け、前大会準決勝進出者ガルディオをも下した――フラン!」
東門が開き、フランが試合場へ姿を現した瞬間、予選の頃とは比べものにならない歓声が降り注いだ。あちこちから名前を呼ぶ声まで飛び、フランも少し驚いたように観客席を見上げてから、私たちを見つけて左手を軽く上げる。
右腕は自然に下ろしたままだった。
包帯は手首から上腕の途中まで巻かれている。普通に動かすことはできても、強く握れば痛みが出る状態で、《インセント・フラッシュ》を右手で使えるとしても一度程度。《ルミナス・クロス》に至っては、治療師から完全に止められている。
そんなフランの対戦相手が、西門から姿を現した。
「対するは、長槍使いを真正面から封じて勝ち上がった鉄壁の拳――バルガス!」
禿頭の大男が両腕を持ち上げ、肘から拳までを覆う巨大な籠手同士を打ち合わせた。ガルディオほど背は高くないものの、肩幅はフランの倍近くあり、太い両腕を覆う籠手だけでもフランの胴ほどの厚みがある。
中央まで進んだバルガスは、挨拶より先にフランの右腕へ目を向けた。
「ガルディオの一撃を受けた腕か」
「見てたんですね」
「残った相手の試合を見ねえ奴がいるかよ。左でも剣を使えることも、右を完全に捨てたわけじゃねえことも知ってる」
やっぱりだ。
ガルディオ戦で見せたものは、もう隠し札ではない。
フランは右手を短剣の柄へ置いたまま笑った。
「じゃあ、今日は楽できなさそうですね」
「こっちの台詞だ。お前、試合の途中で戦い方変えやがるからな」
審判が二人を離す。
フランは右手で短剣を抜き、バルガスも両腕を身体の前へ上げた。巨大な籠手が顔と胸を覆い、まるで二枚の盾を身体へ直接取り付けているようだった。
「準決勝第一試合――始め!」
先に動いたのはフランだった。
白い光は使わず、右へ回り込みながら距離を詰めて肩を狙う。バルガスはフラン自身を追いかけようとはせず、短剣が届く瞬間だけ左腕を外へ動かした。
甲高い音が響いた。
短剣は真正面から止められたのではなく、丸みを帯びた籠手の表面を滑らされ、狙っていた肩から大きく外れる。しかもバルガスは防いだところで終わらず、フランの右腕が外へ流れた瞬間には反対の拳を返していた。
フランは身体を沈めてかわしたものの、頭上を通過した拳だけで髪が大きく揺れた。無理に反撃へ繋げず距離を取ると、バルガスも追わず中央で構え直す。
「来いよ」
挑発というより、本当に待っているようだった。
フランは反対側からもう一度入り、今度は脇腹へ低く短剣を走らせた。しかしバルガスは同じように籠手の曲面へ刃を当て、外側へ滑らせてから拳を返す。三度目にはフランも攻撃せず、踏み込みだけを見せて相手の腕が動くか確かめたが、バルガスは微動だにしなかった。
本当に短剣が届くまで、防御を開かない。
「フランが先に攻撃しないと、バルガスも動かないんだ……」
私が呟くと、リリィも試合場から目を離さず頷いた。
「たぶん、それでいいんだよ。バルガスは自分から短剣を追わなくても、フランが斬るには必ず近づいてくるから」
短剣は槍よりずっと短い。
フランが攻撃しようとすれば、必ずバルガスの拳が届く場所まで入らなければならない。そこで籠手の曲面を使って刃だけを外し、短剣を戻すより先に拳を返せばいい。
バルガスは自分からフランの速さへ付き合う必要がないのだ。
「面倒だなあ」
試合場でフランが呟くと、バルガスが笑った。
「帰ってもいいぞ」
「それはもっと嫌です」
フランの足元に淡い光が集まった。
《レイ・シフト》。
正面から一瞬でバルガスの右側へ位置を変え、短剣を肩へ走らせる。籠手が間へ入った瞬間、今度のフランは斬らず、刃が触れる直前で短剣を引いてそのまま背後へ抜けようとした。
ところがバルガスは腕だけで追わなかった。
左足を石床へ強く置き、そこを中心に身体ごと回転する。肘から肩までを覆う籠手が壁のように進路へ入り、《レイ・シフト》で抜けようとしたフランの前を塞いだ。
「甘え!」
急停止したフランへ反対の拳まで迫り、攻撃を諦めて大きく後ろへ跳ぶ。
《レイ・シフト》の速度そのものへ追いついたわけではない。
フランがどこへ抜けたいのかを知っているから、先に身体を置いた。
ガルディオ戦を見られていることが、ここでも効いている。
さらにバルガスは、その攻防を境に少しずつ前へ出始めた。ただしフランを追い回すわけではなく、右へ動けば身体の向きだけを変え、左へ逃げても深追いせず、常に試合場の中央を自分の後ろへ残している。
フランは自由に動いているように見えながら、少しずつ外側へ追いやられていった。
攻撃しなければ中央を奪われる。
攻撃すれば籠手で流され、その直後に拳が返ってくる。
背後の境界線まで残り五歩ほどになったところで、フランは短剣を左手へ持ち替えた。
観客席がざわめく。
けれどバルガスは驚かなかった。
「来ると思ってたぜ」
左手へ持ち替えれば負傷した右腕を守れる一方、右側へ抜ける動きと反撃がわずかに遅くなる。ガルディオに見抜かれたその弱点まで、バルガスは当然知っている。
それでもフランは左手で踏み込み、横薙ぎに短剣を走らせた。
バルガスが籠手を合わせる。
刃が触れる寸前、フランの指が開いた。
短剣が宙へ浮く。
バルガスの視線がほんの一瞬だけ刃を追ったところへ、負傷した右手が伸びた。
落ちてきた柄を掴む。
ただし強く握らない。
左手で始めた斬撃を右腕の力で続けるのではなく、落下してくる短剣へ触れ、刃先の向きだけを変える。
籠手へ当たるはずだった軌道が、その内側へずれた。
バルガスも身体を捻ったが、完全には避けきれない。
革鎧が浅く裂けた。
最初の有効打だった。
歓声が上がる中、フランは欲張って追わず、すぐに短剣を左手へ戻した。
右腕を捨てたわけではない。
強く握ることも、衝撃を受けることもできないなら、ほんの一瞬だけ軌道を変えるために使う。
ガルディオ戦で見つけた使い方を、さらに短くしている。
「そういう使い方か」
バルガスは肩の傷を確かめると、怒るどころか楽しそうに笑った。
「だったら、剣を見るのやめりゃいい」
次の瞬間、巨体が前へ出た。
今度は短剣が右にあるか左にあるかを追わず、二つの籠手を正面で揃え、フラン本人へ身体ごと突っ込んでいく。
「《鉄鎧・破城》!」
真正面から受ければ、短剣どころか身体ごと吹き飛ばされる。
フランは左へ抜けようとした。
そこへバルガスが両腕を開いた。
突進のために閉じていた二つの籠手が扉のように左右へ広がり、横へ逃げる進路まで塞ぐ。
フランは急停止したものの、完全には間に合わなかった。
バルガスの肩が胸元へ入る。
鈍い衝突音とともに身体が浮いた。
「フラン!」
フランは空中で身体を捻り、背中から叩きつけられるのを避けて左肩から転がるように着地した。それでも衝撃は消し切れず、息が詰まったように身体が一瞬止まる。
バルガスはそこを逃さなかった。
倒れた相手を境界線まで運ぶため、そのまま距離を詰める。
フランは左手の短剣を石床へ突き、支えにして身体を起こした。頭上へ迫った拳を身を沈めてかわすと、その低い姿勢から《ドゥー・アライズ》を放つ。
左手からの切り上げは、右手で使うときほど速くない。
当然、バルガスも右の籠手を下げて受けようとした。
ところが刃は籠手へ向かわず、直前で軌道を外へずらした。
狙いはバルガスの前足だった。
刃先が足元へ迫り、バルガスは反射的に一歩引く。《ドゥー・アライズ》そのものは空を切ったが、その一歩で追撃が途切れ、フランは立ち上がる時間を手に入れた。
「外れたのに……」
「外したんだろ」
オラクルが言った。
「あいつが欲しかったのは傷じゃねえ。一秒だ」
そこで私にも分かった。
フランはもう、技を当てることだけを考えていない。
立ち上がる時間が必要なら、相手を一歩下がらせるために《ドゥー・アライズ》を使う。相手を傷つけなくても、欲しかった結果が手に入ればいい。
バルガスも同じことに気づいたらしく、楽しそうだった顔を少しだけしかめた。
「やりにくいな、お前」
「最近よく言われます」
「今日からだろ」
「たぶん」
二人とも少し笑った。
けれどフランの呼吸には、もう余裕がなかった。
右腕を庇っているぶん、左腕と脚へ負担が集中している。さらに《鉄鎧・破城》を身体へ受けたせいで、息をするたび胸元が小さく上下していた。
長引けば不利。
バルガスもそれを見抜いたのだろう。
今度は中央を確保するだけではなく、前へ出る速度そのものを上げる。
フランが下がる。
境界線まで四歩。
さらに一度攻撃を避け、残り三歩。
私は思わず身を乗り出した。
それでもフランはバルガスの籠手を見ていなかった。
視線は足元。
バルガスが踏み込むたび、そこだけを見ている。
一度、フランが《レイ・シフト》で右へ抜けようとした。
バルガスは速度を追わず、左足を石床へ固定すると、そこを中心に身体を回して進路を塞ぐ。
フランは攻撃せずに戻った。
次は《レイ・シフト》を使わず、普通の踏み込みだけで同じ右側へ動く。
バルガスはまた左足を軸にして身体を回した。
「……二回」
リリィが呟く。
「何が?」
「バルガス、フランが右へ抜けようとしたとき、必ず左足を軸にしてる」
言われて足元を見ると、私にも分かった。
巨大な籠手でフランの進路を塞ぐには、腕だけを動かすのでは間に合わない。だからバルガスは左足を石床へ固定し、そこを中心に腰と肩までまとめて回している。
フランが三度目も同じ方向へ動いた。
バルガスの左足が、また同じ場所へ置かれる。
その瞬間、フランの目がわずかに細くなった。
一度見ただけで決めつけない。
二度見て、三度目で確かめる。
レグル戦から続いてきたものだった。
境界線まで残り二歩。
バルガスが決めに来た。
「《鉄鎧・破城》!」
二つの籠手を揃え、正面から突進する。
フランはまた右へ動いた。
バルガスも予想どおり左足を軸に身体を回し、両腕を開いて進路を塞ぐ。
さっきまでと同じ形。
だからこそ、フランはそこを待っていた。
足元に淡い光が走る。
「《レイ・シフト》!」
右へ抜けるためではない。
一度右へ動くと見せ、バルガスが左足を固定して身体を回し始めた瞬間だけ、内側へ鋭く切り返した。
巨体は一度始めた回転をすぐには戻せない。
フランが左足の外側へ潜り込む。
短剣を左手から右手へ渡した。
その瞬間、私の胸が締めつけられた。
治療師から、一度が限度かもしれないと言われた右手。
ガルディオの《巨断》を受けた場所。
そこへ力を入れる。
フランの顔が、短剣を握った瞬間にはっきり歪んだ。
それでも右手を離さなかった。
ここまで右腕を温存してきたのは、この一度のためだったのだと思う。
バルガスの身体は、フランが右へ抜けると思ってすでに回転を始めている。左足を石床へ固定し、そこを軸に腰と肩を回しながら、巨大な籠手で進路を塞ぐ。それを途中から反対へ戻すには、固定した左足へもう一度力を掛け直さなければならない。
フランが狙ったのは、その瞬間だった。
「《インセント・フラッシュ》!」
白い光が短剣を包み、右腕が一度だけ加速した。
狙ったのはバルガスの身体ではない。
外側へ開いた左の籠手。
バルガスもすぐに反応し、腕を引き戻して短剣を受けようとしたが、フランは籠手を力で押し返そうとはしなかった。短剣を斜めに入れ、丸みを帯びた装甲の内側へ刃を滑らせる。
さっきまでバルガスがフランの攻撃へ使っていた方法だった。
正面から受けず、力の向きを変える。
白い光をまとった刃が籠手の内側を走り、金属を削るような音が響く。装甲そのものは壊れなかったものの、内側へ戻そうとしていた左腕だけが外へ押し流された。
バルガスの肩が開いた。
腰も引かれる。
それでも左足は石床へ固定されたままだった。
上半身だけが、軸足より先に外側へ流れる。
「そこか!」
バルガス自身もフランの狙いへ気づいたらしい。
左膝を曲げて体勢を戻そうとする。
でも、その前にフランが短剣を左手へ渡した。
右手が離れた瞬間、指が大きく震えた。
それでも攻撃はもう必要ない。
フランはバルガスの胸元へ左肩を当てると、力いっぱい押すのではなく、すでに崩れ始めている方向へ自分の体重を少しだけ預けた。
それだけだった。
バルガスほどの巨体を、フランの力で押し出せるはずがない。
だから押さない。
倒れないために、バルガス自身に足を出させる。
上半身が外へ流れたバルガスの右足が、反射的に一歩動いた。
身体を支えるための一歩。
その踵が境界線を越えた。
観客席から大きなどよめきが起こる。
「まだだ!」
バルガスは左足一本で踏み止まった。
右足は場外へ出たものの、左足はまだ内側に残っている。巨体が大きく傾きながらも、太い左脚が石床を噛むように踏ん張っていた。
フランは追わなかった。
ここで無理に押せば、結局はバルガスとの力比べになる。
だから半歩だけ離れ、短剣を左手で構え直す。
右腕は身体の横へ落ちた。
「フランの手……」
指先が震えている。
さっきまでとは違う。
《インセント・フラッシュ》を使った直後から、右手を閉じることすらできていない。
親指と人差し指がわずかに曲がったまま、残りの指は力なく開いている。
「やっぱり限界だったんだ」
リリィも気づいたらしい。
それでもフランは右腕を見なかった。
見る余裕がないのかもしれない。
目の前ではバルガスが、場外へ出た右足を試合場へ戻そうとしている。
左足一本で身体を支えながら腰を内側へ動かし、右足を持ち上げようとした瞬間、フランが一歩だけ距離を詰めた。
左手の短剣が肩へ向く。
バルガスは反射的に左の籠手を上げた。
その瞬間、右足を戻す動きが止まった。
フランは斬らない。
短剣が届く前に下がる。
「そういうことか……」
バルガスが苦笑した。
もう一度右足を戻そうとする。
フランが入る。
籠手を上げさせたところで離れる。
傷を増やす必要はない。
バルガスが右足を戻すためには、左足だけで支えている重心を一度内側へ移さなければならない。でもフランがその瞬間だけ短剣の間合いへ入れば、バルガスは防御のために身体を止めるしかない。
一度作った有利な位置を、無理に次の攻撃へ繋げず維持している。
「面倒くせえ……!」
バルガスはそう言いながら笑った。
「さっきまで必死に俺の懐へ入りたがってた奴が、今度は全然来ねえじゃねえか!」
「行ったら押し負けますから」
「分かってんなら最初から来るなよ!」
「最初は、どのくらい駄目なのか知りたかったので」
「身体で確かめんな!」
観客席から笑いが起きた。
私も少しだけ笑いそうになったけれど、フランの右手を見たらすぐに止まった。
震えが収まらない。
むしろ指先から手首まで、小さな痙攣のような動きが続いている。
勝負を長引かせる余裕は、フランにもなかった。
左腕だって無傷ではない。
ガルディオの膝を受け、慣れない左手で何度も短剣を振り、今の試合でもほとんどの攻撃を左へ任せている。
バルガスもそこまで分かっているはずだった。
右足を戻そうとするのをやめた。
「だったら――」
内側へ残った左膝を深く曲げる。
両方の籠手を身体の前へ揃えた。
その構えを見た瞬間、胸が跳ねた。
「まさか……」
「戻れねえなら、お前ごと道を作る!」
「《鉄鎧・破城》!」
左足一本で石床を蹴った。
場外へ出ていた右足を戻してから戦うのではなく、その場から直接フランへ突っ込む。
フランが避ければ、バルガスはそのまま試合場へ復帰できる。
受ければ、巨大な籠手と全体重をまともに受けることになる。
しかもフランの右腕はもう使えない。
「フラン!」
二つの籠手が迫る。
フランは短剣を構えなかった。
受けるつもりがない。
かといって大きく逃げようともしなかった。
むしろ自分から一歩だけ前へ出る。
衝突する。
そう思った瞬間、フランは身体を低く沈めた。
揃えられた二つの籠手の下へ頭を入れ、バルガスの左側へ半歩だけずれる。
《レイ・シフト》すら使わない。
必要なかった。
バルガスは左足一本で踏み切っている。
一度宙へ浮けば、もう進行方向を大きく変えられない。
フランが必要としたのは、速さではなく半歩ぶんの位置だった。
巨大な籠手が肩のすぐ横を通過する。
続いてバルガスの身体が迫った。
フランは左手の短剣を振らず、柄を握ったまま前腕をバルガスの脇腹へ軽く当てた。
押し返すのではない。
真っ直ぐ進んでいた身体の向きを、ほんの少しだけ外側へずらす。
それだけで十分だった。
足場のないバルガスには、その小さなずれを修正する方法がない。
試合場の内側へ着くはずだった右足が、境界線の外へ落ちた。
続いて左足も外へ着く。
勢いを殺せない巨体は、そのまま場外を数歩走り抜けてからようやく止まった。
一瞬だけ、闘技場から音が消えたように感じた。
フランは境界線の内側。
バルガスは外。
審判が二人の足元を確認し、腕を大きく上げた。
「場外! そこまで!」
次の瞬間、声が闘技場全体へ響き渡った。
「勝者――フラン!」
歓声が爆発した。
「フラーン!」
私も立ち上がって叫んでいた。
メリーが肩から飛び上がり、赤と黄色は椅子の上で跳ね、緑まで本を閉じて両腕を上げている。
三百二十七人から始まった大会。
フランが、決勝まで来た。
それなのに本人は、すぐには喜ばなかった。
境界線の内側で左手に短剣を持ったまま、大きく肩を上下させている。
そして右腕は、一度も上がらなかった。
「フラン……?」
歓声の中で、フランが右手を開こうとした。
指が動かない。
もう一度。
親指が少し動き、人差し指もわずかに曲がった。
でも、それ以上閉じない。
フランの表情から笑みが消えた。
右手首を左手で支え、もう一度指へ力を入れる。
今度は小指が震えただけだった。
「動かないの……?」
さっきまでの嬉しさが、一気に消えた。
リリィも立ち上がっていた。
「完全に動かないわけじゃない。でも、握れなくなってる」
治療師が言っていた。
右手で《インセント・フラッシュ》を使うなら、一回が限度かもしれない。
その一回を使った。
そして、本当に限界が来た。
バルガスもフランの様子へ気づいた。
勝敗を確認してから試合場へ戻り、右手を差し出しかけたものの、途中で止める。
「……やっぱり無理したな」
フランは左手で右手首を支えたまま苦笑した。
「ちょっとだけ」
「その『ちょっと』で指動かなくなんのか?」
「これは僕も予想してなかったです」
「馬鹿野郎」
怒鳴るような声ではなかった。
バルガスは右手を引っ込め、代わりに左手を差し出す。
フランも左手で握り返した。
「最後まで力比べしやがらなかったな」
「したら負けるって分かってたので」
「最初からか?」
「最初は、どのくらい駄目なのか確かめようとは思ってました」
バルガスが呆れたように眉を寄せる。
「腕壊してから確かめることじゃねえだろ」
「途中でやめましたよ」
「遅えよ」
そう言いながらも、最後にはバルガスが笑った。
「最後の《破城》も待ってたのか?」
フランは少し考えてから首を横へ振った。
「来るかもしれないとは思ってました。でも、絶対来るとは思ってなかったです」
「じゃあ、俺が普通に右足戻してたら?」
「戻させないようにしながら、別の方法を考えてました」
「最後まで決めてなかったのかよ」
「ガルディオさんと戦って、それでいいのかなって思ったので」
バルガスはしばらくフランを見たあと、大きく笑った。
「ガルディオが嫌がりそうな奴になったな、お前」
握手を終える。
フランは短剣を鞘へ戻そうとした。
左手なので少し角度がずれ、一度だけ鞘の縁へ当たる。
二度目で収まった。
右手はまだ動かない。
退場口へ向かって一歩進んだところで、治療師が二人、待ちきれなかったように中から走ってきた。
「右手を見せろ!」
「大丈夫です。たぶん少し休めば――」
「お前の大丈夫は信用しない!」
ものすごい勢いで怒られた。
治療師の一人が右腕を支え、もう一人が包帯の上から指先を確認する。
「握ってみろ」
フランが力を入れる。
やっぱりほとんど動かない。
治療師の顔が険しくなった。
「決勝まで右手で武器を握るな。《インセント・フラッシュ》も当然禁止。《ルミナス・クロス》なんぞ論外だ。感覚が戻らなければ棄権も考えろ」
「でも――」
「でもじゃない。次に同じ負荷を掛けたら、今度は大会が終わっても動かん可能性がある」
フランが黙った。
私も何も言えなかった。
決勝まで来た。
あと一勝。
なのに、その最後の一試合を前にして、フランの右手は短剣を握ることさえできなくなった。
それでも本戦表では、フランの名前から伸びた線が最後の場所まで進んでいる。
決勝進出。
三百二十七人から始まった大会で、最後の二人の一人になった。
「……決勝だ」
嬉しい。
でも、怖い。
二つの気持ちが同時に胸へ残った。
そして、まだ対戦相手は決まっていない。
私は反対側の本戦表を見る。
そこに残っている名前は二つ。
ナディア。
セドリック。
次の準決勝で、そのどちらかがフランの最後の相手になる。
そのとき、歓声に混じって試合場の外側から鋭い笛の音が響いた。
一度。
少し間を置いて、二度目。
さっきまでの鐘とは違う音だった。
私は反射的に王宮側を見る。
大会本部の責任者も、配置された王宮魔道士たちも同じ方向を向いていた。
やがて王宮側の通路から、胸元に銀色の札を下げた兵士が姿を現した。男は大会本部へ向かわず、試合場の周囲へ配置されている王宮魔道士の一人へ直接近づき、短く何かを伝える。
それだけで、魔道士たちの立ち位置が変わった。
参加者用通路。
東門。
西門。
そして大会本部と王宮側を結ぶ通路。
人が通れる場所を、一つずつ押さえていく。
「囲ってる……?」
私が呟くと、リリィも周囲を見回した。
「さっきまでは見てただけ。でも今は、通れる場所を減らしてる」
「誰が出ないように?」
「分からない。ただ、観客を止めたいなら観客席の出口も閉じるはず」
そこまではしていない。
王宮魔道士が見ているのは、参加者や大会関係者が使う場所ばかりだった。
まるで、この大会の中にいる誰かを探しているみたいに。
「フラン」
オラクルが治療師に支えられているフランを呼んだ。
「決勝まで一人で動くな。治療区画へ行くなら、こいつらと一緒に行け」
フランは右腕を支えている治療師を見てから、少し眉を寄せた。
「さっきの王宮の件?」
「ああ。何が起きてるかはまだ知らねえが、警戒してる対象が観客じゃねえことくらいは分かる」
オラクルに言われ、私はもう一度周囲へ目を向けた。
確かに、王宮魔道士たちが塞いでいる場所には共通点があった。
東門と西門は選手が試合場へ入るための場所。大会本部と王宮側を繋ぐ通路は、王宮関係者や大会職員が行き来している。参加者用通路も、観客は普通なら入れない。
反対に、大勢の人が使う観客席の出口は開いたままだった。
係員が増えてはいるものの、人の出入りを止めてはいない。
「大会に出てる人を探してるってこと?」
私が尋ねると、オラクルはすぐには頷かなかった。
「参加者かもしれねえし、係員かもしれねえ。王宮からこっちへ逃げてくる誰かを待ってる可能性だってある。決めつけんな」
「うん。でも、少なくとも普通のお客さんじゃなさそう」
「今見えてる範囲じゃな」
その程度しか分からない。
それでも、少し前までより状況は具体的になっていた。
王宮で何かが起きている。
その影響で兵士や魔道士が動いている。
そして今、その一部が大会会場へ戻り、観客ではなく参加者や関係者の出入口を押さえ始めた。
大会本部も状況を知っているのに、まだ試合を止めていない。
「だったら、余計にフランを治療区画へ行かせて大丈夫なの?」
心配になって聞くと、オラクルは参加者用通路の入口を顎で示した。
「だから治療師から離れるなって言ってんだ。あそこには今、王宮魔道士もいる。少なくとも一人でうろつくよりマシだ」
フランもようやく頷いた。
「分かった。治療が終わるまで出ないよ」
「終わっても勝手に戻ってくんな。誰かに送ってもらえ」
「そこまで?」
「何もなきゃ笑い話で終わる。今はそれでいい」
オラクルの声はいつもどおりだったけれど、目は笑っていなかった。
治療師たちも王宮側の異変に気づいているらしく、フランを急かすように退場口へ向かわせる。フランは数歩進んだところでこちらを振り返った。
「次の試合、ちゃんと見ててね」
「もちろん!」
「特にナディアが何したか」
「分かった。見たことだけ覚える」
「それでお願い」
フランは少し笑った。
そのまま治療師二人と参加者用通路へ向かう。
入口に立っていた王宮魔道士は、近づいてくる三人を一人ずつ確認した。最初に治療師、その次にフラン。視線が包帯の巻かれた右腕へ一瞬止まったものの、何も言わず道を空ける。
フランが中へ消える。
私は姿が見えなくなるまで目で追った。
「……本当に誰か確認してる」
「そう見えるね」
リリィも魔道士を見ていた。
次に通った大会係員も顔を確認され、その次に薬箱を持った女性が来たときには、王宮魔道士が一度呼び止めて何かを尋ねている。
ただ立っているだけではない。
通る人間を選別している。
それが分かったことで、さっきより胸の奥が落ち着かなくなった。
「何探してるんだろ」
「人とは限らないよ」
リリィが言った。
「え?」
「誰が何を持ってるか確認してる可能性もある。さっきの人、薬箱まで見せてたから」
言われて見ると、呼び止められた女性が箱を開けている。
中を確認した王宮魔道士はすぐに通した。
「持ち物も……」
昨日から何度も頭に浮かんでいる言葉が、また蘇った。
内庫。
《内庫の確認が先だ》
最初に聞いたのは、まだ大会が普通に進んでいたときだった。
もし王宮で起きていることが内庫と関係しているなら、今ここで持ち物まで確認していることにも何か意味があるのだろうか。
そこまで考え、私は止めた。
まだ分からない。
でも、覚えておく。
「フール、右」
リリィに言われて視線を移す。
西側の通路から王宮兵が三人出てきた。
一人は大会本部へ向かったが、残る二人は観客席へは来ず、そのまま西門の左右へ分かれる。さらに後ろから出てきた魔道士は、壁際にある小さな関係者用扉の前へ立った。
これで試合場周辺の主要な出入口には、ほとんど王宮の人間がいる。
ただし、封鎖はしていない。
通る人を確認しながら、必要な人間だけを通している。
「捕まえるなら、閉めちゃえばいいのに」
私が言うと、リリィは少し考えた。
「閉めたって気づかせたくないのかも」
「誰に?」
「だから、それは分からない。でも全部閉めたら、警戒されてるって誰でも気づくでしょ」
私は周囲を見る。
観客たちはまだ普通に休憩を楽しんでいた。
食べ物を買う人。
本戦表の前で決勝の予想をする人。
フランの勝利について大声で話している人。
王宮魔道士たちも、武器を抜いているわけではない。
だから、注意して見なければ大会の警備が少し増えただけにしか見えない。
本当に誰かを探しているのなら、その相手にもそう思わせたいのかもしれない。
「嫌な感じだね」
私が言うと、オラクルが小さく息を吐いた。
「やっとそういうの分かるようになったか」
「前から分かるよ」
「前のお前なら『聞いてくる!』って王宮兵んとこ走ってただろ」
「……ちょっとだけ考えた」
「考えんな」
リリィが小さく笑った。
その声で少しだけ身体の力が抜けた。
でも、完全には安心できない。
試合場では係員たちがフランとバルガスの戦いで削れた石床を修復している。土系統の魔法を使える魔道士がひびへ手を当て、盛り上がった石を別の係員が平らに削っていく。
次の準決勝を始める準備だった。
こんな状況でも、やっぱり大会は続く。
しばらくすると司会者が大会本部から戻ってきた。
いつものように大きく腕を広げたものの、顔をよく見ると額に汗が浮かんでいる。
「お待たせしました! 第一準決勝ではフラン選手が激戦を制し、ついに決勝進出を決めました! 続いて行われるのは――決勝へ進む最後の一名を決める第二準決勝です!」
観客席が沸いた。
歓声に合わせるように東門が開く。
先に姿を現したのはセドリックだった。
準々決勝でミラを破った湾曲刀の使い手。腕や肩には輪を受けた傷を覆う包帯が残っているものの、足取りに問題はない。
司会者が名前を読み上げると、セドリックは湾曲刀を軽く掲げて歓声へ応え、そのまま中央へ向かって歩いていった。
入口を警戒していた王宮魔道士の一人が、セドリックへ視線を向ける。
顔。
腰の湾曲刀。
包帯。
それだけ確認すると、すぐに視線を外した。
何も起こらない。
「セドリックじゃない……?」
私が呟いた。
リリィは答えなかった。
西門へ顔を向けている。
私もそちらを見る。
司会者の声が続いた。
「そして西門! 対戦相手に触れるだけで戦いそのものを支配し、準々決勝では鎖棍使いゼインを破った謎多き体術使い――ナディア!」
西門が開いた。
最初に灰色の外套が見えた。
その下から細身の身体が現れ、短く揃えられた髪が風に揺れる。目元にはいつもの細い仮面。両手も黒い手袋に覆われている。
ナディアは歓声へ応えなかった。
いつもと同じように、静かに中央へ向かって歩く。
でも、周囲は同じではなかった。
西門の横へ立っていた王宮魔道士の姿勢が変わった。
ほんのわずかだった。
それでも、ずっと見ていたから分かった。
さっきセドリックが出てきたときにはなかった反応。
魔道士の右手が腰の杖へ近づいた。
「……今」
「うん」
リリィも気づいていた。
さらに、反対側にいた王宮兵がナディアを見たあと、胸元の銀色の札へ手を触れた。
それを合図にしたように、参加者用通路の前にいた別の魔道士が一歩だけ位置を変える。
まだ武器は抜かない。
止めもしない。
ナディアはその前を普通に通り過ぎる。
「ナディアを見てる……」
今度は、そう見えた。
でも確信はできない。
王宮側が探している人物とナディアが同じだと決まったわけではない。
ただ、セドリックには反応しなかった人たちが、ナディアの登場には反応した。
それは事実だった。
ナディア自身は気づいていないように見えた。
いや――本当に気づいていないのだろうか。
中央へ向かう途中、彼女の顔がほんの少しだけ横を向いた。
王宮魔道士のいる方向。
一瞬だけ。
すぐに正面へ戻る。
「気づいてる?」
私が呟く。
リリィはナディアの歩幅を見ていた。
「分からない。でも、歩き方は変わってない」
止まらない。
急がない。
逃げようともしない。
何事もなかったように試合場の中央へ立つ。
セドリックもナディアを見ていた。
もちろん、彼には王宮側の事情なんて分からないはずだ。
今から戦う相手として見ているだけ。
その間にも、王宮魔道士たちは少しずつ位置を変えていた。
東門。
西門。
参加者用通路。
関係者用の小さな扉。
そして王宮側へ続く道。
さっきより明らかに逃げ道が少ない。
「オラクル」
「分かってる」
「もし本当にナディアを――」
「まだ言うな」
オラクルが私の言葉を止めた。
「本人が何者かも、王宮側が何を探してるかも分かってねえ。今あるのは、あいつが出てきたときに警備の反応が変わったってことだけだ」
「うん」
私は口を閉じた。
でも、目は逸らさない。
昨日までなら、ナディアの《返衝》だけを見ていたと思う。
今は違う。
ナディア。
王宮魔道士。
通路。
大会本部。
全部が同じ試合場の中にある。
審判が二人の間へ入った。
セドリックが湾曲刀を抜く。
ナディアは両手を下ろしたまま。
黒い手袋。
その手を見た瞬間、私はフランがここにいないことを思い出した。
ちゃんと見ておかなければならない。
ナディアが何をするのか。
《返衝》をどう使うのか。
セドリックがどう対策するのか。
そして、王宮の人たちが何をするのか。
審判が腕を上げた。
闘技場の歓声が少しずつ小さくなる。
その外側では、王宮魔道士たちがナディアから一度も目を離していなかった。
「準決勝第二試合――」
審判の腕が振り下ろされる。
「始め!」
セドリックが湾曲刀を構えた。
ナディアも初めて両手を上げる。
その瞬間、黒い手袋を見ていた王宮魔道士の一人が、腰の杖を握った。
試合と、それとは別の何かが、同時に始まろうとしていた。




