第134話 残された四人
王宮側へ兵士たちが消えていったあとも、試合場では何事もなかったように準々決勝が続けられていた。
さっき聞こえた低い鐘について説明はなく、大会本部から中止の知らせが出ることもない。係員たちはナディアとゼインの試合でずれた境界線を引き直し、司会者も次の参加者を紹介するため中央へ戻っている。
観客の大半は王宮側の異変に気づいていないようだった。売店から戻ってきた人が席を探し、さっきの試合を見ていた男たちが《返衝》について好き勝手に話している。その向こうでは子供がナディアの真似をして友達の肩へ触れ、触られたほうが大袈裟に吹き飛んで笑っていた。
いつもどおりの武道大会。
そう見える。
でも、一度気づいてしまうと違うものも見えた。
観客席の上段に立っていた王宮兵が減っている。
大会本部と王宮側を繋ぐ通路には、代わりに見覚えのない魔道士が立っていた。
さらに、さっき王宮側へ走っていった兵士たちは一人も戻ってきていない。
「気になる?」
隣からリリィに聞かれ、私は王宮側の通路から視線を戻した。
「うん。でも、まだ何があったか分からないし……だから、勝手に決めないで見ておこうと思って」
「それでいいと思う」
朝なら、その言葉だけでは納得できなかったかもしれない。
でも今は少し分かる。
分からないものを無理に答えへ変えない。ただし、分からないからといって忘れてしまうわけでもない。
昨日聞いた、
《内庫の確認が先だ》
という兵士の言葉。
今日になって増えた王宮関係者の移動。
そして、さっき一度だけ鳴った低い鐘。
私はそれだけを覚えておくことにして、試合場へ視線を戻した。
「それよりフラン遅いね」
ガルディオとの試合が終わってから、それなりに時間が経っている。治療区画へ行っただけなら、そろそろ戻ってきてもいいはずだった。
「遅いほうがいいだろ」
オラクルが言った。
「何で?」
「すぐ追い返される程度なら治療することがねえって意味かもしれねえ。時間掛けて診てもらってんなら、そのほうがマシだ」
「でも心配じゃん」
「だからって治療室へ押しかけんなよ。今のお前が行ったところで治療師の仕事増やすだけだ」
「まだ行くって言ってないよ」
「顔に書いてある」
また言われた。
私の顔はそんなに何でも書いてあるのだろうか。
メリーまで肩の上で楽しそうに笑っているので言い返そうとしたところで、司会者の声が闘技場へ響いた。
「さあ、続いて準々決勝第三試合! 三百二十七名から始まった大会も、ベスト4の席は残り二つ! ここから先は一敗で終わりです!」
歓声が上がり、東西の門から二人の選手が現れた。
片方は細身の槍を持った長身の女性。もう片方は両腕へ分厚い金属製の籠手を装着した禿頭の男で、肩から胸にかけて何本もの古傷が走っている。
試合開始直後から、二人の狙いははっきりしていた。
槍使いの女性は間合いを守りたい。
籠手の男は、その間合いを潰したい。
女性が穂先を細かく左右へ振り、男が踏み込める道を塞ぐ。男は真正面から槍を受けず、籠手の丸みを使って穂先を外側へ滑らせながら、少しずつ距離を縮めていった。
昨日までなら、私はどちらの技が強いのかばかり見ていたと思う。
今日は少し違う。
どうして右へ動いたのか。
なぜ攻撃できるのに殴らなかったのか。
何をしたいから、その一歩を選んだのか。
そんなことを考えながら見ていると、同じ戦いでも前よりずっと多くのものが動いているように感じられた。
「右から入りたいのかな」
私が呟くと、リリィが試合場を見る。
「籠手の人?」
「うん。左へ行けそうなときも、右ばっかり狙ってるから」
「たぶん槍を持ってる手の反対側へ入りたいんだと思う。あっちから近づかれたほうが、穂先を戻すのに少し時間が掛かるから」
「ああ……」
言われると分かる。
でも、言われる前に少しだけ気づけた。
それが嬉しくて、もう一度よく見ようと身を乗り出したところで、肩を後ろから軽く叩かれた。
「何か、見方変わったね」
聞き慣れた声だった。
私は勢いよく振り返った。
「フラン!」
治療区画へ行っていたフランが戻ってきていた。
右腕には新しい包帯が巻かれている。ただ、試合直後より明らかに範囲が広く、手首から肘までだった白い布が、今は肘を越えて上腕の途中まで続いていた。右手そのものは固定されていないものの、指を開閉する動きにもどこか慎重さがある。
「どうだった!?」
思わず立ち上がると、フランは少し身体を引いた。
「大丈夫。声大きいよ」
「大丈夫な人は包帯増えないでしょ」
「それは……まあ、そうだけど」
フランは苦笑しながら空いていた席へ腰を下ろした。
リリィもすぐに右腕へ目を向ける。
「筋?」
「うん。骨と関節は問題ないって。でも《巨断》を受けたときに、治りかけてたところへもう一度かなり負担が掛かったみたい」
「強く握れる?」
フランは右手をゆっくり閉じてみせた。
指は最後まで曲がる。
ところが拳を強く握り込んだ瞬間だけ、眉がわずかに寄った。
「握れるけど、ここまでやると痛い」
「それ、大丈夫って言わないよ」
私が言うと、フランは困ったように笑った。
「普通に動かすぶんには大丈夫なんだって」
「準決勝で普通に動かすだけなわけないでしょ」
反論できなかったらしく、フランは黙った。
オラクルが横から尋ねる。
「治療師には?」
「今日は強い衝撃を右腕で受けないこと。《インセント・フラッシュ》も右手で使うなら一回が限度かもしれないって。《ルミナス・クロス》は――」
「禁止だね」
私が先に言う。
フランがわずかに目を逸らした。
「禁止だよね?」
「……禁止」
「絶対使わないでね」
「使わないよ」
一応、信じることにした。
ガルディオ戦では「大剣を受けない」と言いながら、最後には《巨断》を一度受けるしかなくなった。約束を破ったというより、相手がこちらの予定どおりに戦ってくれなかったのだ。
次も同じ。
試合前に決めたことが、そのまま最後まで通用するとは限らない。
リリィは右腕だけではなく、フランの左側も見ていた。
「左腕も痛いでしょ」
フランが少し驚く。
「分かる?」
「ガルディオの膝を受けたあとから、腕を後ろへ引くときだけ少し遅い。最後に左で技も使ってたし」
「打撲だけだよ。《ドゥー・アライズ》を左で使ったから、肩のほうが疲れてるけど」
つまり右腕は再び悪化し、左腕も完全な状態ではない。
勝てば全部元通りになるわけではない。
予選から積み上がってきた疲労も、レグル戦から続く右腕の負傷も、ガルディオから受けた衝撃も、全部持ったまま次へ進まなければならない。
「次、大丈夫かな……」
私が呟くと、フランは試合場を見ながら答えた。
「大丈夫かどうかは分からない。でも、ガルディオさんと同じ戦い方はもうできないと思う」
「左手で戦うのも?」
「必要なら使うよ。でも、最初から左だけで行くって決めるのはやめる。もう見られたから」
「誰に?」
「残ってる人たちに」
そこで気づいた。
フランだけが他の参加者を観察しているわけではない。
残っている選手たちだって、フランを見ている。
右腕を怪我していること。
左手でも短剣を扱えること。
《レイ・シフト》を短い位置変更にも使えること。
《ドゥー・アライズ》。
ガルディオの《剛投・墜星》を利用して場外へ出した方法。
勝ち上がるほど、相手について知る情報は増える。
でも同時に、自分の情報も渡している。
「じゃあ、さっきの勝ち方はもう使えない?」
「同じ形なら難しいと思う。ガルディオさんにも『次は通じない』って言われたしね」
フランはそこで少し笑った。
「でも、それでいいんだと思う」
「いいの?」
「同じ方法がずっと通じるなら、たぶん考えなくなるから」
ガルディオ戦が終わった直後より、フランの顔は落ち着いていた。
この大会へ来てから、フランは戦うたびに何かを変えている。強い技を増やしているだけではなく、見る場所も、考える順番も、通じなくなったものを捨てる判断も少しずつ変わってきた。
「あ、そうだ!」
私はナディアの試合を思い出した。
「フラン、さっきの試合すごかったんだよ。ナディアの相手がゼインっていう鎖を使う人で――」
勢いのまま全部説明しかけ、途中で止まる。
オラクルを見る。
「何だよ」
「見たまま言うんだった」
「そうしろ。勝手に能力の答えまで作んな」
私は一度頭の中を整理してから、最初から話した。
ゼインは《返衝》を警戒し、最初はナディアへ近づかなかった。長い鎖棍を使い、手が届かない場所から攻撃を続けたこと。ところがナディアが触れようとするだけでゼインが攻撃を止めるようになり、それを利用されて少しずつ距離を詰められたこと。
ゼインも途中で戦術を変えた。
鎖を短く持ち、ナディアの手そのものを鉄棍で弾きながら近距離戦へ持ち込んだ。
「それでね、ナディアが一回だけ鉄棍に触ったの」
フランの表情が変わった。
「武器に?」
「うん。でも何も起きなかった。《返衝》を使ったのかは分からない。ただ、ゼインは使われたかもしれないと思ったみたいで、次の攻撃を途中で止めた。その一瞬にナディアが入って、最後は投げて腕を取って勝った」
フランはしばらく何も言わなかった。
右手の指を動かしかけ、痛みを思い出したように途中で止める。
「じゃあ、触れること自体が攻撃になるんだ」
「攻撃?」
「《返衝》が発動してなくても、相手には分からないから。触られたあとに『今、力を使っていいのか』って考えさせられる。考えて止まったら、その時間をナディアに使われる」
私がさっき感じた怖さを、フランは話を聞いただけで言葉にした。
「それだけじゃないよ」
リリィが口を挟む。
「ナディア、近距離の体術もかなり強かった。ゼインが止まった一瞬だけで、足と上半身を別方向へ崩して倒してる。能力だけ見てたら、たぶん間に合わない」
「……そっか」
フランの視線が、ナディアの消えた参加者用通路へ向いた。
怖がっているようには見えない。
むしろ、どうすればいいのか考え始めている。
「あとね」
私はもう一つ思い出した。
「ナディア、試合が終わったあとフランの席を見てたよ」
「僕の?」
「うん。ここ。リリィも見たよね?」
「見た」
フランが少し眉を寄せた。
「何でだろ」
「知り合いじゃないの?」
「会ったことないよ」
答えは出なかった。
それでも、ナディアがフランを気にしているように見えるのは、これで一度だけではなくなった。
そのとき、試合場から大きな歓声が上がった。
話している間に第三試合が大きく動いていた。
槍使いの女性は距離を守ろうとしているのに、籠手の男は槍の穂先を左腕の装甲で外へ流し、ついに懐へ入っている。女性も槍を捨てず、柄を短く持ち替えて石突きを男の脇腹へ打ち込み、その反動を利用して首へ柄を掛けようとした。
しかし籠手の男は倒れなかった。
両腕の装甲で槍の柄を挟み込む。
「《鉄鎧・封槍》!」
金属音が響いた。
槍が完全に固定される。
女性はすぐに武器を手放そうとしたが、その一瞬だけ判断が遅れた。籠手の男はそこへ肩からぶつかり、身体ごと押し込む。
槍使いの足が境界線を越えた。
「場外! 勝者――バルガス!」
三人目のベスト4が決まった。
本戦表へ新しい赤い印が付く。
フラン。
ナディア。
バルガス。
残る席は、あと一つ。
司会者が短い休憩を告げると、張り詰めていた観客席が一斉に動き始めた。飲み物を買いに立つ人、次の対戦を予想して友人と話す人、ナディアとゼインの試合についてまだ議論している人もいる。
試合場でも係員たちが石床を確認し、次の準々決勝へ向けて整備を始めていた。
何も知らなければ、いつもと同じ休憩時間に見えたと思う。
けれど、一度異変に気づいてしまうと、もうそうは見えなかった。さっきまで観客席の上段に立っていた王宮兵が明らかに減り、その代わりに大会本部の前へ二人の王宮魔道士が配置されている。一人は試合場ではなく王宮側へ続く通路だけを見張り、もう一人は本部の責任者と何度も短い言葉を交わしては、折り畳んだ紙を別の職員へ渡していた。
「リリィ。さっきより人、減ってるよね」
私が声を掛けると、彼女も同じ場所を見ていたらしく、目だけを西側へ向けた。
「うん。観客席の警備だけじゃない。参加者用通路の入口も減ってる」
そこには少し前まで二人の兵士がいたはずなのに、今は大会係員が一人立っているだけだった。
「大会の警備を減らしてるってこと?」
「少なくとも、どこか別の場所へ動かしてる。でも、理由まではまだ分からない」
その答えを聞いても、もう焦れて空白を勝手な想像で埋めようとは思わなかった。
今分かっているのは、観客席や参加者用通路の警備兵が減り、その兵士たちが王宮側へ向かったこと。王宮魔道士まで配置を変え、そうした動きが、あの低い鐘が鳴ってから急に増えたことだけだった。
「大会、止めなくていいのかな」
フランが呟く。
私も同じことを考えていた。もし王宮で本当に大きな問題が起きているなら、これだけの人が一ヶ所に集まっている大会を続けていて大丈夫なのだろうか。
それでも司会者は休憩後の予定を確認し、係員たちは次の試合の準備を進めている。大会本部の人たちは明らかに慌ただしくなっているのに、中止を告げる気配だけはなかった。
「止めるほどじゃねえのか、止められねえ事情があるのか、それとも止める必要がねえと判断してんのか。今はそのどれかすら分からねえ」
オラクルはそう言うと、私とフランを順番に見た。
「だから、お前らまで勝手に動くなよ」
「分かってる」
答えながらも、大会本部からは目を離せなかった。
ちょうどそのとき、王宮側の通路から一人の男が姿を現した。
これまで慌ただしく走り回っていた兵士たちとは違い、濃紺の長衣の上から銀色の胸当てを着け、腰には細い杖を差している。周囲の王宮魔道士たちは男の姿を見るなり道を空けたので、かなり上の立場の人なのだろう。
男自身は走っていなかったが、その歩調は速かった。
大会本部まで来ると責任者を外へ呼び出し、周囲に聞こえない声で話し始める。ここから内容までは分からなかったものの、責任者の表情が変わっていく様子だけははっきり見えた。
最初は驚き、そのあと王宮側へ視線を向け、最後には満員の観客席全体を見渡した。
「……何か言われたみたい」
リリィが呟く。
責任者はすぐ司会者を呼んだ。
今度こそ大会を止めるのかと思い、私まで身体へ力が入ったけれど、三人で短く話したあと、司会者は笑顔を消したまま中央へ戻っていった。
「止めないんだ……」
その判断が正しいのか、私には分からない。
ただ、今までと明らかに違う動きが始まった。
大会本部の責任者が職員を集め、観客席の出口や階段、通路へ次々配置し始めたのだ。しかも王宮兵ではなく、大会運営の係員ばかりだった。
警備を強くしているというより、何かあったときに観客を誘導できるよう、人を置いているように見える。
胸の奥が少し冷たくなった。
「オラクル」
「ああ、見えてる」
今度はオラクルも冗談を言わなかった。タバコを咥えたまま目を細め、周囲を一度確認する。
「何も起きなきゃそれでいい。ただ、出口くらいは覚えとけ。人間は何かあると一番近い場所へ一斉に殺到するからな」
私は反射的に周囲を見回した。
私たちの席から最も近い出口、その先へ続く広い階段。反対側には距離こそ少しあるものの、人が少ない細い階段もある。
リリィも同じところを見ていた。
「右の出口が一番近いけど、今でも人が多い。何かあったら反対側の階段のほうが早いかもしれない」
「何かって?」
「分からない。でも、覚えておくだけなら損しないでしょ」
私は頷いた。
まだ何も起きていないし、大会も続いている。だったら今は試合を見る。ただし、本当に何かが起きたときに慌てないよう、逃げられる場所だけは知っておく。
それでいい。
やがて休憩終了を告げる鐘が鳴った。
先ほど王宮から聞こえてきた低く重い音とは違う、何度も聞いてきた明るい鐘だった。観客たちが売店や通路から戻り、その波が落ち着くのを待って司会者が中央へ出る。
いつもの笑顔。
いつもの大きな声。
けれど、さっき大会本部で見せた表情を知ってしまったせいか、その笑顔はどこか無理に作っているようにも見えた。
「お待たせしました! 準々決勝も、いよいよ最後の一戦! この試合の勝者をもって、武道大会ベスト4が出揃います!」
歓声とともに東門から現れたのは、長い湾曲刀を持った男だった。
名前はセドリック。これまでの試合では相手の攻撃から大きく逃げず、ぎりぎりまで引きつけて紙一重で外し、その直後へ湾曲刀を返す戦い方で勝ち上がっている。
対する西門から姿を現したのは、小柄な女性だった。
両手には細い金属輪が一つずつ握られている。
「南部水郷より参戦! 流輪術の使い手――ミラ!」
ミラが両腕を広げると、二つの金属輪が指先で回転し、朝の日差しを反射した。
「最後はあの二人か」
フランが少し前へ身を乗り出す。
私も王宮側から視線を戻した。
今は試合を見る。
審判が二人の間でルールを確認し、十分に距離を取ってから腕を振り下ろした。
「準々決勝第四試合――始め!」
先に仕掛けたのはミラだった。
右手の輪を鋭く投げると、セドリックは大きく避けず、首をわずかに傾けただけで通過させる。続いて左の輪も飛んだが、今度も半歩横へ動いただけで外し、二つの金属輪はそのまま背後へ抜けていった。
「武器なくなっちゃったよ?」
私が言い終えるより早く、最初に投げられた輪が空中で大きな弧を描き、セドリックの背中へ戻ってきた。
「戻るんだ!」
セドリックも予想していたらしく、振り返らないまま湾曲刀を背後へ回した。甲高い音とともに金属輪が弾かれたが、その瞬間には正面から二つ目が戻ってきている。
前と後ろから挟まれたセドリックは身体を深く沈め、二つの輪を頭上へ通過させた。
そこへミラ本人が走り込む。
戻ってきた右の輪だけを掴み、その勢いを殺さず横薙ぎへ繋げると、セドリックの湾曲刀が受け止めた。金属同士が擦れ合って火花が散る中、もう一つの輪はまだ空中を飛んでいる。
ミラはそちらを見ていなかった。
それなのに輪は軌道を変え、セドリックの死角へ回り込んでくる。
「どうやってるの?」
「糸だ」
オラクルに言われて目を凝らすと、ミラの指先から細い線が伸びているのが見えた。
ほとんど光に溶けてしまうほど細い糸。
金属輪を完全に投げ捨てているのではなく、その糸へ指先から力を伝え、飛んでいる最中にも軌道を変えているらしい。
セドリックも数度の攻防で仕組みに気づいた。
次に輪が戻ってきたとき、狙ったのは金属輪ではなく、その先へ続く細い糸だった。
湾曲刀が走る。
ミラは切られる直前に指を引き、輪の軌道を変えた。
刀は空振りした。
けれど、セドリックも最初から糸を切れるとは思っていなかったらしい。
振り抜いた刀を止めず、その勢いで腰を回転させ、ミラ本人との距離を一気に詰めた。
「《月返し》!」
湾曲刀が低い位置から跳ね上がる。
ミラは右手の金属輪を盾のように差し込み、激しい金属音とともに刃を受けた。衝撃で右腕が大きく上がり、脇腹が完全に空く。
セドリックはそこへ踏み込んだ。
決まる。
そう思った瞬間、ミラは弾かれた右腕を無理に戻そうとはしなかった。
むしろ衝撃に逆らわず、その勢いのまま身体を一回転させる。同時に左手の輪を低く滑らせ、踏み込んできたセドリックの前足へ絡ませた。
「《水輪・絡月》!」
細い糸が張り、金属輪が足首へ締まる。
踏み込む力を利用されたセドリックの身体が前へ傾いた。それでも湾曲刀を振り切ろうとしたが、ミラは後方へ跳びながらさらに糸を引き、前足を石床の上で滑らせる。
刀が届くより先に、セドリックが片膝をついた。
その背後から、空中に残っていたもう一つの輪が首元へ戻ってくる。
セドリックは刀の柄を立てて受けたものの、足首にはまだ輪が絡んでいる。立ち上がろうとすれば下から引かれ、上を守れば足元が崩れる。
ミラが二本の糸を同時に引いた。
「《双輪・水鏡》!」
二つの輪が別方向から動き始めた。
一つは足を崩すため。
もう一つは刀を封じるため。
どちらかへ力を使えば、もう片方が動く。
セドリックは一瞬だけ迷ったあと、湾曲刀から手を離した。
「えっ?」
私は思わず声を上げた。
セドリックは武器を守らなかった。
自由になった両手の片方で首へ迫る輪を掴み、同時に足首を大きく捻って下側の輪から抜ける。
自分から刀を捨てるとは思っていなかったのか、ミラの反応が一瞬遅れた。
その隙にセドリックが走った。
今まで刀の間合いで戦っていた男が、何の武器も持たず真正面から距離を詰める。
ミラはすぐ糸を引き、二つの輪を呼び戻した。片方が腕へ当たり、皮膚が裂けて血が飛んだものの、セドリックは止まらない。もう一つも肩で受け、そのまま身体ごとミラへぶつかった。
二人がもつれながら境界線へ近づく。
ミラは足を掛けて体勢を崩そうとし、セドリックは腰を落として押し返す。力だけならセドリックが上だったが、ミラも糸を使って離れた輪を引き寄せようとしているため、簡単には決まらない。
先に境界線を越えたのはミラの右足だった。
それでも左足は内側に残っている。
セドリックも片足が境界線ぎりぎりまで滑り、二人ともその場で踏み止まった。
歓声が一気に大きくなる。
ミラはその状態から糸を引いた。
場外へ出た右側から金属輪を戻し、セドリックの背中へ当てるつもりなのだろう。
セドリックも糸の先を見た。
場外近くへ落ちている金属輪。
その上へ片足を置く。
ミラが糸を引いた瞬間、輪は動かなかった。
張り詰めた糸から伝わった力だけが、ミラ自身の身体へ返る。
「あっ!」
内側へ残っていた左足が滑った。
両足が境界線を越える。
審判がすぐに確認し、腕を上げた。
「場外! 勝者――セドリック!」
大歓声が闘技場を満たした。
これで最後の一人が決まった。
本戦表へ四つ目の赤い印が付けられ、そこに残った名前を私は一つずつ目で追う。
フラン。
ナディア。
バルガス。
セドリック。
三百二十七人から始まった大会で、残ったのは四人だけだった。
「四人だ……」
数字にすると、急にここまで来たことが信じられなくなる。
予選会場には数え切れないほどの参加者がいた。その中から勝ち残った四人の一人に、本当にフランがいる。
嬉しくなって隣を見ると、フラン本人は本戦表を見ながら少し難しい顔をしていた。
「どうしたの?」
「準決勝の組み合わせ」
言われて線を追う。
フランの名前から伸びた線は、次の段で別の名前と交わっていた。
「バルガス……」
さっき槍使いを倒した、巨大な籠手の男。
つまり第一準決勝は、フラン対バルガス。
反対側では、ナディアとセドリックが戦う。
「決まったね」
フランは頷き、まずバルガスへ視線を向けた。
当然だ。
次に倒さなければならないのはナディアではなく、バルガスなのだから。
それでも一度だけ、反対側の線へ目を向けた。
ナディア。
二人が戦うためには、どちらも次の準決勝を勝たなければならない。
まだ決勝の相手ではないし、ナディアばかりを気にしていられる状況でもなかった。フランの次の相手は、巨大な籠手で槍を封じ、最後には相手ごと境界線の外へ押し出したバルガスだ。
しかもフランの右腕は、ガルディオの《巨断》を受けたことで悪化している。真正面から籠手と短剣をぶつければ、どちらが先に壊れるかなんて考えるまでもない。
「まずバルガスだね」
私が言うと、フランも本戦表から視線を外して頷いた。
「うん。ナディアのことを考えるのは、そのあと」
「どうやって戦うの?」
以前なら、フランはすぐに使えそうな技を挙げていたかもしれない。
けれど今は、少し考えてから右腕の包帯へ目を落とした。
「まだ決めない。でも、やっちゃ駄目なことは分かる」
「何?」
「力比べ。あの籠手に短剣を正面から当て続けたら、たぶん僕の腕が先に駄目になる」
さっきの試合を思い出す。
バルガスは槍の穂先を籠手で受け止めたのではなく、丸みのある装甲へ滑らせながら間合いを詰めていた。最後には槍の柄そのものを両腕で挟み込み、武器を封じたまま相手を場外へ押し出している。
フランの短剣は、あの槍よりずっと短い。
近づかなければ届かない。
でも近づけば、バルガスの籠手と腕力の間合いへ入る。
「じゃあ、ずっと逃げながら《インセント・フラッシュ》?」
「それも決めない。さっきの試合だけでバルガスさんの全部が分かったわけじゃないから」
フランはそう言うと、試合場から退いていくバルガスを見た。
ガルディオ戦の前より、明らかに答えを急がなくなっている。
最初に勝ち方を一つ決め、それを通そうとするのではなく、まず相手を見る。何が通じるのかを確かめ、通じなければ変える。
ガルディオに勝った方法そのものではなく、そこへ辿り着いた考え方が残っているのだと思う。
「でも右腕は絶対守ってね」
「分かってるよ」
「《ルミナス・クロス》も禁止」
「それも分かってる」
「《巨断》のときも受けないって言ったのに受けたから」
「あれは受けたくて受けたんじゃないって」
フランが困ったように笑った。
私も少しだけ笑う。
そのとき司会者が、準決勝開始まで長めの休憩を取ることを告げた。
四人まで減った参加者にも治療や準備の時間が必要なのだろう。観客席では一斉に人が立ち上がり、飲み物や食べ物を買いに行く人たちが階段へ流れ始めた。
その光景を見て、私はさっき覚えた出口を思い出した。
右側の大きな階段には、すぐに人が集まり始めている。
もし今、本当に何かが起きたら。
この人数が一斉に出口へ向かったら、簡単には動けない。
そんなことを考えていたとき、大会本部の奥から一人の職員が飛び出してきた。
さっきまでの伝令とは様子が違った。
走り方からして慌てている。
顔は青ざめ、右手には小さく折り畳まれた紙を握っていた。
職員は人を避けながら大会本部の責任者へ駆け寄り、その紙を差し出す。
責任者が開いた。
目で追う。
ほんの数行しかなかったはずなのに、読み終えたときには顔から血の気が引いていた。
「……また来た」
私が呟くと、リリィも身体を少し前へ傾けた。
責任者は紙をすぐに折り畳んだ。
それから周囲を確認する。
最初に王宮側。
次に大会本部。
そのあと参加者用通路へ目を向け、最後に満員の観客席を見渡した。
さっきの報告を受けたときとは違う。
今度は何かを確認しているというより、何を優先するべきか迷っているように見えた。
「大会、止まるかな」
私が聞く。
オラクルは答えなかった。
責任者が近くの職員を三人呼び寄せる。
短く命令を出すと、三人はそれぞれ別の方向へ走った。
一人は王宮側。
一人は参加者用通路。
最後の一人は、司会者のいる試合場中央へ向かった。
「止めるんじゃない?」
私はそう思った。
司会者も駆け寄ってきた職員の話を聞く。
表情が変わる。
一度、大会本部を見る。
責任者と目が合った。
数秒だけ、二人とも動かなかった。
それから責任者が首を横へ振った。
司会者は驚いたような顔をしたものの、それ以上何も言わずに頷いた。
「……続けるんだ」
フランが呟いた。
私にもそう見えた。
何かが起きている。
大会本部も知っている。
それでも大会は止めない。
その判断が余計に不気味だった。
「何で?」
私がオラクルを見る。
「分からん。ただ――」
オラクルは観客席ではなく、試合場の周囲を見ていた。
「さっきまでと違う」
「何が?」
「あそこだ」
タバコの先が、東側の通路を示す。
さっきまで大会係員しかいなかった場所へ、王宮魔道士が二人配置されている。
反対側にも一人。
さらに、選手が出入りする門の近くにも濃紺の長衣を着た男が立っていた。
王宮側へ人を集めていたはずなのに、今度は一部が大会会場へ戻されている。
ただし観客席の警備ではない。
試合場。
参加者用通路。
大会本部。
その三ヶ所だけ。
「……何か探してる?」
私が言うと、リリィはすぐには答えなかった。
王宮魔道士たちの視線を順番に追っている。
「探してるのか、出てこないように見てるのかは分からない。でも、観客を見てない」
言われて気づいた。
魔道士たちの目は、観客席をほとんど見ていない。
参加者が使う門。
関係者用の通路。
大会本部の出入口。
人が出入りする場所だけを確認している。
胸の奥の冷たさが、少し強くなった。
そのとき、参加者用通路からバルガスが出てきた。
次の準決勝へ向けて控室へ移動するところらしい。
王宮魔道士の一人がバルガスを見る。
でも、すぐに視線を外した。
続いて治療師が通る。
それも違う。
係員が数人。
違う。
魔道士は一人ずつ顔を確認するように見てから、また通路の奥へ視線を戻した。
「やっぱり誰か見てる……」
今度は私にも分かった。
誰なのかは知らない。
何のためなのかも分からない。
でも王宮側で起きている異変が、もう王宮の中だけで終わっていない。
大会会場まで来ている。
「フラン」
オラクルが急に呼んだ。
「何?」
「準決勝まで、一人で動くな」
フランの表情が変わった。
「何か分かった?」
「何も分かってねえから言ってんだ。お前だけじゃない。フールもリリィも、用があるなら誰かと一緒に動け」
「私も?」
「当たり前だ」
いつものオラクルなら、もう少し嫌味を混ぜる。
今はなかった。
それだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
メリーも感じ取ったのか、私の肩から離れず周囲を見回していた。
三匹のゴブリンも、さっきまで売店の匂いを気にしていたのに、今は私たちの近くへ集まっている。
それでも観客席では笑い声が続いていた。
誰かがフランの名前を呼び、別の場所ではナディアが優勝するかどうかで言い争っている。売店からは肉を焼く匂いが流れ、子供たちは本戦表の前で四人の名前を指差していた。
大会は続いている。
準決勝を楽しみにしている人たちは、まだ何も知らない。
私たちだって、何が起きているのかは知らない。
ただ、見えているものだけが少しずつ増えている。
減っていく警備。
王宮へ走る兵士。
低い鐘。
何度も運ばれる紙。
出口へ配置された大会職員。
そして今度は、参加者用通路を見張る王宮魔道士。
それらを一つに繋げる答えだけが、まだない。
そのとき、また王宮側の扉が開いた。
今度は兵士ではなかった。
濃紺の長衣を着た若い魔道士が、ほとんど転ぶような勢いで飛び出してきた。片手で壁を支えながら一度だけ息を整え、そのまま大会本部へ向かって走り出す。
遠くからでも、顔が真っ青なのが分かった。
しかも右袖が裂けている。
「怪我してる」
リリィが先に気づいた。
魔道士は右腕を庇っていた。
袖の裂け目から、赤いものが見える。
血だった。
「何があったの……?」
今までの伝令とは違う。
紙を運んできただけではない。
何かが起きた場所から、自分自身が戻ってきた。
そう見えた。
大会本部の責任者も気づき、自分から男のところへ走る。
二人が話す。
魔道士が何度も王宮側を指差した。
責任者の顔がさらに険しくなる。
それでも、試合場では準決勝へ向けた整備が続いていた。
係員が境界線を引き直す。
審判が中央へ出る。
そして本戦表には、
フラン対バルガス。
その文字が大きく掲げられている。
華やかな大会の真ん中で、誰にも見えないところから何かが近づいてきている。
そんな感じがした。
私は王宮側から試合場へ視線を戻した。
もうすぐフランの準決勝が始まる。
なのに胸の奥では、試合とはまったく別の不安が、さっきよりずっと大きくなっていた。




