第133話 触れられない戦い
「準々決勝第二試合――始め!」
審判の声が響いても、ナディアはすぐには動かなかった。
灰色の外套から伸びた両腕を自然に下ろし、試合場の中央から数歩離れた位置で相手の出方を待っている。目元を覆う細い仮面のせいで表情は読み取りにくく、黒い手袋に包まれた指先にも力が入っているようには見えない。
対する男は、開始の合図と同時に腰の武器を抜いていた。
「西方都市ベルグより参戦! 変幻自在の鎖棍を操り、ここまで相手を寄せつけず勝ち上がってきた――ゼイン!」
司会者の声に合わせ、ゼインが右腕を大きく振る。
長い鎖の両端には、腕ほどの長さを持つ鉄棍が一本ずつ繋がれていた。ゼインは三十歳前後で、褐色の肌に短く刈り込んだ黒髪。上半身には動きを妨げない革鎧しか着けていないが、鎖を操る太い両腕には何本もの古い傷が走っている。
右手側の鉄棍を軽く回すと、鎖が乾いた音を立てながら大きな円を描いた。
それでもゼインは近づかなかった。
ナディアも動かない。
さっきまでフランとガルディオが巨剣を打ち合わせていた試合場が、まるで別の場所になったように静まり返っている。
「何で行かないの?」
私が尋ねると、リリィはゼインの武器から目を離さずに答えた。
「ナディアに触られたくないんだと思う。あの武器なら、自分は近づかなくても攻撃できるから」
「あ、《返衝》……」
そこで私にも分かった。
これまでの試合で、ナディアの能力はかなり見られている。
特にドーガ戦では、触れられたあと一定時間以内に大きな力を使うと、その力が本人へ返ってくるような現象が起きていた。ドーガ自身も途中でそれに気づき、一度は攻撃を止めることで対処している。
だったら、最初から触れられなければいい。
ゼインが選んだのは、その一番分かりやすい答えだった。
「来ないのか?」
ナディアが静かに尋ねる。
ゼインは鎖を回しながら笑った。
「お前の手が届くところまで行く理由がねえだろ」
言い終えるのと同時に右腕を振り抜いた。
鉄棍が鎖を引きながら横から飛ぶ。
ナディアが上体を反らすと、ゼインは空振りした棍をすぐには引き戻さず、手首を返して鎖へ別の方向から力を加えた。通り過ぎたはずの鉄棍が弧を描いて戻り、今度はナディアの背中側へ回り込む。
ナディアは一歩前へ出てかわした。
そこへ反対側の鉄棍が低く走る。
「《鎖牙・蛇走》!」
石床すれすれを滑る棍が足首へ迫り、ナディアは跳んだ。しかしゼインは、その跳躍を待っていたように右手の鎖を引き戻す。最初に外れた鉄棍が今度は肩口へ戻ってきたため、ナディアは空中で身体を捻って二本の間を抜けるしかなかった。
着地した位置は、試合開始時より一歩後ろ。
「押してる……」
私が呟く。
ゼインはナディア本人を追いかけていなかった。
二本の鉄棍を別々の軌道へ通し、片方を避けた先へもう片方を置いている。ナディアが右へ動けば次の棍を右へ、前へ出ようとすれば足元へ鎖を走らせることで、手の届く距離へ入る道そのものを塞いでいた。
《返衝》を破る必要はない。
使わせなければいい。
ゼインはその考えを徹底していた。
「これならナディアも触れないね」
「今のままならね」
リリィの答えが引っ掛かった。
「今のままなら?」
「ナディアも同じこと分かってるでしょ。だったら、ずっと避けてるだけじゃないと思う」
その直後だった。
三度目の《鎖牙・蛇走》が足元へ迫ったとき、ナディアはそれまでとは逆に前へ出た。
鉄棍を避けたあとに進んだのではない。
ゼインが手首を返し、二本目を動かすより先に距離を詰めた。
「来ると思ってた!」
ゼインも反応する。
右手を強く引くと、ナディアの背後へ回っていた鉄棍が戻ってきた。
前にはゼイン。
後ろには鉄棍。
そのまま進めば挟まれる。
ナディアは振り返らなかった。
さらに前へ出る。
残り三歩。
二歩。
ゼインが初めて後ろへ下がった。
ナディアの右手が伸びる。
黒い手袋の指先が胸元へ届く寸前、ゼインはもう一歩大きく後退して接触を避けた。
そのため、背後から戻ってきた鉄棍もナディアには当たらなかった。
主人であるゼイン自身が後ろへ動いたことで鎖の軌道まで変わったからだ。
「今、攻撃やめた?」
「やめさせられたんだよ」
オラクルが言った。
「触られたくねえから、自分で間合い捨てたんだ」
ナディアは追わなかった。
それどころか何事もなかったように中央へ戻る。
ゼインも鎖を伸ばし直した。
見た目だけなら試合開始時と同じ。
でも違う。
最初はゼインが鎖の長さでナディアを動かしていた。
今はナディアが手を伸ばすだけで、ゼインを動かした。
「……あ」
ようやく分かった。
「触らなくてもいいんだ」
リリィが頷く。
「ゼインが《返衝》を怖がってくれるならね」
次の攻防で、それはもっとはっきりした。
ゼインが遠距離から鉄棍を飛ばす。ナディアは二撃を避け、三撃目だけ前へ出る。
ゼインはすぐ下がった。
次も同じ。
ナディアが手を伸ばせば、ゼインは攻撃を途中で切って距離を取る。
《返衝》は一度も発動していない。
それどころか、まだナディアはゼイン本人へ触れてさえいない。
それでも能力は戦いに影響していた。
ゼインの中に、
触れられたら、そのあと強い力を使えない。
という警戒がある。
だからナディアは、触れる寸前まで手を伸ばすだけで相手の攻撃を止められる。
「これじゃ、ずっと下がらされる……」
ゼイン自身も気づいた。
次にナディアが距離を詰めたとき、今度は逃げなかった。
鎖を一気に巻き取る。
長かった間合いが消え、二本の鉄棍が両手の近くまで戻ってきた。
「遠くから駄目なら、近くでその手を潰す!」
右の鉄棍がナディアの手首を狙う。
ナディアが引けば、左が脇腹へ。
「《双鎖・連牙》!」
長い鎖を使った広範囲攻撃ではない。
短く持った二本の棍による連撃。
ナディアが右手を伸ばすたび、その手そのものを鉄棍で弾く。触れられる前に腕を止めてしまえば、《返衝》を警戒して逃げる必要もない。
一撃がナディアの左肩へ入った。
身体が横へ流れる。
そこへ二撃目。
ナディアは肘で受けたものの、鈍い音がこちらまで届いた。
「ゼインも変えた……」
さっきまで触れられないために遠くから戦っていた。
その方法が利用され始めたから、今度は近距離へ切り替えた。
ガルディオ戦と同じだった。
一つの攻略法を見つけても、それで終わりではない。
相手だって、その攻略を見て次の手を考える。
ゼインの連撃が続く。
ナディアは腕を伸ばそうとするたび鉄棍で払われ、少しずつ防御へ回されていった。
「これなら触れない」
今度は私も簡単に決めつけなかった。
ナディアの足を見る。
下がっている。
でも、さっきまでとは違う。
完全に逃げてはいない。
ゼインの右足の外側へ少しずつ位置を変えている。
三度目の連撃。
右の棍が肩。
左が腹。
ナディアは肩への一撃を外側へ流し、腹へ来た棍を身体を捻って避けた。
そのときだけ、右手を出した。
ゼイン本人ではない。
鉄棍。
黒い手袋が、鉄の表面へ一瞬だけ触れた。
すぐに離れる。
ゼインの動きが止まった。
ほんのわずかだった。
でも、さっきまで迷いなく続いていた《双鎖・連牙》が初めて途切れた。
「武器でも《返衝》が入るの?」
私が聞く。
リリィは首を横へ振った。
「分からない」
「でも触ったよ?」
「触っただけ。能力を使ったかどうかは別でしょ」
その言葉で、ゼインが止まった理由も分かった。
ゼインにも分からない。
鉄棍を通して《返衝》が成立するのか。
今の接触で本当に能力を使われたのか。
もし成立しているなら、ここで強く棍を振れば、その力が自分へ返ってくるかもしれない。
でも、攻撃しなければナディアは目の前にいる。
ゼインが判断を迷った、その一瞬。
ナディアが踏み込んだ。
右足をゼインの前足の外側へ置き、身体を密着させる。ゼインは反射的に右の鉄棍を振ろうとしたものの、途中で止めた。
それが致命的だった。
ナディアは止まった腕の下へ潜り、肩を胸元へ当てると、ゼインの前足の外側へ自分の足を絡ませた。腕力で持ち上げるのではなく、上半身を押す方向と足元を払う方向を逆にする。
支えを失ったゼインの身体が横へ倒れた。
背中が石床へ落ちる。
そのときにはもう、ナディアが右腕を取っていた。
ゼインは残った左手の鉄棍を振ろうとした。
けれど、また止まる。
今度はナディアが何もしていないのに。
「……自分で止めた」
私にも分かった。
《返衝》があるかもしれない。
その疑いだけで。
ナディアは止まった腕まで押さえ込み、ゼインの身体をうつ伏せに近い形へ返した。右腕を背中側へ極められ、下半身もナディアの膝で押さえられているため、力任せに起き上がろうとすれば肩を痛める。
「くそっ……!」
ゼインが身体へ力を入れようとする。
ナディアが耳元で何かを言った。
観客席までは聞こえなかった。
でもゼインの身体から、入れかけた力が抜けた。
審判が近づく。
「降参するか?」
数秒間、ゼインは動かなかった。
やがて左手で石床を二度叩いた。
「そこまで! 勝者――ナディア!」
歓声が闘技場を満たした。
私は拍手するのも忘れて、立ち上がったナディアを見ていた。
「結局……《返衝》使ったの?」
「分からない」
リリィが答える。
「最後まで?」
「少なくとも、私たちには分からなかった。鉄棍へ触れたときも、本当に能力を使ったのか、それともゼインにそう思わせただけなのか判断できない」
私は言葉を失った。
ゼインは弱くなかった。
最初から《返衝》を警戒し、ナディアの手が届かない距離を選んだ。その警戒が利用されれば、自分から近距離戦へ切り替え、手そのものを鉄棍で潰そうとした。
それでも最後には負けた。
能力を知らなかったからではない。
知っていたから迷った。
触れられたら危険。
武器へ触れられても危険かもしれない。
そう考えるたび、自分で攻撃を止める瞬間が生まれ、その一瞬をナディアに使われた。
「能力を使わなくても、能力を知ってることが武器になるんだ……」
「それだけじゃねえ」
オラクルが言った。
「能力が怖いだけなら、あそこまで綺麗に転ばせられねえ。あの女、素の体術も相当だ」
私は試合場を見る。
ナディアはゼインへ手を貸して起こすと、短く何かを言って離れた。
灰色の外套。
細い仮面。
黒い手袋。
大会が始まった頃より分かったことは増えているはずなのに、むしろ分からない部分のほうが大きくなっている気がする。
「フラン、見られなかったんだよね」
ガルディオ戦のあと、治療区画へ入ったままだ。
もしこの先ナディアと戦うことになれば、今の試合を知らないのはかなり大きい。
「あとで教えればいい」
オラクルが言った。
「でも、ちゃんと説明できるかな」
「見たまま言え。《返衝》を使ったって決めつけんな。鉄棍に触れた、それから相手が攻撃を止めた。確かなのはそこまでだ」
昨日から何度も聞いている言葉だった。
分からないところを、勝手に答えで埋めない。
私は頷き、もう一度ナディアを見る。
退場口へ向かいかけた彼女が、途中で足を止めた。
こちらを向く。
最初は私を見たのかと思った。
でも違った。
視線は私たちの隣。
さっきまでフランが座っていた空席へ向けられている。
ほんの一瞬だけだった。
それから何もなかったように歩き出す。
「……フランを探した?」
私が呟くと、リリィも空席を見た。
「たぶん」
どうしてだろう。
ナディアとフランは、まだ戦ったことがない。
それなのに、ナディアは何度かフランを気にしているように見える。
理由を考えても、答えは出なかった。
フランが強いから注目しているだけなのかもしれない。勝ち進めば当たる可能性がある以上、他の参加者を観察するのはおかしなことではないし、実際フランだってナディアの試合をずっと見ていた。
でも、それだけだろうか。
試合の内容ではなく、フラン本人を確かめているような視線を、私は前にも見た気がした。
「ナディアって、フランのこと知ってるのかな」
「さあな」
オラクルは興味がなさそうに答えたものの、その目はナディアが消えた退場口へ向いたままだった。
「知ってるなら、本人に聞きゃいい。今ここで考えても答えは出ねえよ」
「それはそうだけど……」
私は空席を見た。
治療区画へ行ったフランはまだ戻ってこない。
戻ってきたら、今の試合をちゃんと話そう。
ナディアが鉄棍へ触れたこと。
でも、《返衝》を本当に使ったかどうかは分からなかったこと。
ゼインが能力を警戒するあまり、自分から攻撃を止めてしまったこと。
そして――ナディアが、試合後にフランの席を見ていたこと。
そこまで考えたとき、大会本部の横で人が走るのが見えた。
王宮側へ続く通路から出てきた兵士だった。
昨日も見た、銀色の札を首から下げている。
兵士は観客席にも試合場にも目を向けず、大会本部へ一直線に駆け込んだ。入口に立つ係員へ札を見せると、そのまま中へ消えていく。
「まただ……」
昨日から何度目だろう。
最初は、大会に王族や貴族が来ているから警備が忙しいだけだと思っていた。
でも昨日は、王宮兵が、
「内庫の確認が先だ」
と話していた。
そのあとも王宮直属らしい兵士が何度か関係者用通路を行き来し、今日は王宮魔道士まで試合の途中で席を立っている。
そして今度は、大会本部へ直接伝令が来た。
「オラクル」
「ああ。見えてる」
さっきまで気の抜けた座り方をしていたオラクルが、わずかに身体を起こしていた。
大会本部の入口が再び開く。
先ほど入った兵士と一緒に、責任者らしい男が出てきた。
男は兵士から何かを聞きながら王宮側の通路を見たあと、近くにいた職員を呼び寄せる。短い指示が飛び、職員はすぐに二方向へ分かれた。
一人は観客席の上段。
もう一人は参加者用通路。
「何かあったのかな」
「まだ分からねえ」
オラクルの答えは短かったけれど、今度は私もその先を勝手に想像しなかった。
分からないなら、見る。
リリィから教わったばかりだ。
走ってきた兵士の靴には、ほとんど土がついていない。遠くから街道を走ってきたわけではなく、王宮か、その周辺から来た可能性が高い。
首元には銀色の札。
昨日、王宮側の扉を通った兵士たちも同じものを持っていた。
大会本部から出てきた責任者は、司会者へ試合を止めるようには言わなかった。
次の準々決勝を行うため、係員たちは普通に試合場の確認を始めている。
だったら、大会そのものに何か起きたわけではない?
そこまで考えて、私は自分で止めた。
それもまだ分からない。
「フール、ちゃんと見てるね」
隣でリリィが言った。
「え?」
「昨日なら、あの兵士が走ってるの見ても『何かあったのかな』で終わってたんじゃない?」
「……たぶん」
少し嬉しかった。
「でも、全然分かんない」
「それでいいんじゃない?」
リリィは王宮側の通路へ視線を向けたまま続けた。
「分からないのに決めるよりは」
朝に会ったときと同じ言葉だった。
その直後、大会本部からもう一人、濃紺の長衣を着た魔道士が出てきた。
その人には見覚えがあった。
さっきまで観客席の上段にいた王宮魔道士だ。
男は責任者から何かを受け取ると、試合場とは反対方向へ歩き出した。
王宮側の通路へ向かう。
そこで、別の魔道士とすれ違った。
ほんの一瞬だけ二人が立ち止まる。
「……今、何か渡した?」
私が聞くと、リリィの目が細くなった。
「紙だと思う」
小さく折り畳まれた紙。
受け取った魔道士は中を確認すると、すぐに懐へ入れた。
そして二人は別々の方向へ去っていく。
何が書いてあったのかは分からない。
でも、さっきまでより胸の奥の引っ掛かりが強くなった。
観客席では、そんなことに気づいていない人たちが次の試合を待っている。
売店から食べ物を買って戻ってくる人。
ナディアの勝ち方について興奮した様子で話す人。
次の出場者の名前を予想する子供たち。
笑い声。
拍手。
司会者の声。
昨日までと何も変わらない武道大会の景色だった。
その下で、王宮の人間だけが動き続けている。
「……内庫」
気づけば、私はその言葉を口にしていた。
昨日聞いた兵士の言葉。
《内庫の確認が先だ》
あれと今の動きは、本当に関係ないのだろうか。
オラクルも何も言わなかった。
ただ、タバコを口元まで運びかけた手を止めている。
そのとき、王宮側の通路へ向かっていた魔道士が一度だけ振り返った。
大会本部を見る。
それから試合場。
最後に、ナディアが消えていった参加者用通路へ視線を向けた。
ほんの数秒。
すぐに男は王宮側へ消えた。
私は無意識に、同じ場所を見る。
ナディアはもういない。
さっきまでそこにいたはずなのに。
「……あれ?」
「どうしたの?」
リリィが聞く。
私はすぐには答えられなかった。
ナディアは試合に勝った。
だから退場した。
それだけなら、何もおかしくない。
なのに、なぜか気になった。
試合が終わったあと、ナディアはフランの空席を見た。
その直後、王宮から伝令が来た。
そして王宮魔道士が、ナディアの消えた通路を確認した。
一つずつなら、どれも意味のないことかもしれない。
まだ繋げてはいけない。
私はそう自分に言い聞かせた。
その直後だった。
王宮側の奥から、低い鐘の音が一度だけ響いた。
大会開始や試合終了に使われている鐘とは違う。
観客のほとんどは気づかなかった。
司会者も次の試合の準備を続けている。
けれど、大会本部の責任者だけが顔を上げた。
王宮兵も。
濃紺の長衣を着た魔道士たちも。
全員が、同じ方向を見た。
そして次の瞬間、大会本部の裏に待機していた王宮兵たちが、一斉に立ち上がった。
誰一人、試合場には向かわなかった。
全員が王宮側の通路へ走っていく。
さっきまで聞こえていた歓声が、急に遠くなったような気がした。
何が起きているのかは、まだ分からない。
それでも一つだけ、さっきまでとは違うことが分かった。
王宮の人たちはもう、
何かを確認しているんじゃない。
何かが起きたことを知って、動き始めている。
それなのに中央の試合場では、次の準々決勝を告げる司会者の声が高らかに響いた。
大会はまだ、止まらなかった。




