第132話 捨てた先の一手
ガルディオは左手へ持ち替えられた短剣を見ても、すぐには動かなかった。
右腕を痛めたから仕方なく持ち替えた。それだけなら、警戒する必要はないはずだった。フランは右利きで、左手の剣速が落ちることくらい、一度振るところを見れば分かる。
それでもガルディオは大剣を構え直し、短剣だけではなくフランの肩や足の位置まで確かめるように目を細めた。
「使えるものは使う、か」
「ガルディオさんがやってたので」
「だったら遠慮なく使え」
会話が途切れた瞬間、ガルディオが踏み込んだ。
右上から巨大な刃が迫り、フランは左へ抜ける。左手で短剣を扱う以上、反撃へ移りやすいのも左側だったが、一度目も二度目もガルディオは追撃せず、大剣を引き戻しただけだった。
けれど三度目、フランが同じ方向へ踏み出した瞬間、大剣が途中で止まった。
ガルディオ自身が左へ一歩動き、フランが逃げようとしていた場所へ巨体を入れる。反対へ切り返したフランには刃ではなく長い柄が待っており、胸元を横から押された身体が石床を二歩滑った。
「もう動きを読まれてる……?」
思わず呟くと、リリィは二人の足元を見ながら頷いた。
「左手そのものじゃなくて、持ち替えたあとの身体の使い方を見てるんだと思う。右手のときより、反撃する方向が偏ってる」
言われてみればそうだった。
右手と左手では、同じ短剣を持っても身体の使い方が変わる。斬りやすい位置、踏み込みやすい足、腰を捻りやすい方向まで少しずつ違い、ガルディオはほんの数度の攻防から、その差を拾い始めている。
フランも気づいたらしく、次はあえて右へ避けた。
しかし今度は左手の短剣が身体の後ろへ残り、反撃が一拍遅れる。その隙へガルディオが踏み込んだため、フランは無理に斬らず距離を取った。
左へ動けば読まれる。
右へ動けば剣が遅れる。
左手へ持ち替えただけで負傷の問題が消えたわけではなく、むしろ新しい弱点が生まれていた。
それでもフランは焦らなかった。次は左、その次は右、さらに一度は後ろへ下がり、ガルディオがどこまで追ってくるのかを確かめる。勝つために急いでいるというより、自分の動きを相手へ見せながら、ガルディオが何を拾って何を変えるのかまで見ようとしているようだった。
ガルディオも同じだった。
だから試合は、巨大な大剣が何度も空気を切っているのに、どこか静かな読み合いへ変わっていった。相手が何を捨て、代わりに何を残したのか。その残ったものをどう利用するのかを、二人とも攻防の中で探している。
やがてガルディオは、左手の短剣そのものを狙うのをやめた。
今度は大剣を当てるより、フランが動ける場所を削り始める。左へ逃げれば、その先へ刃を置く。右へ切り返せば巨体で道を塞ぎ、後ろへ下がれば同じぶんだけ前へ出る。大剣を避けること自体はできても、一度攻撃されるたびにフランの立っている場所だけが少しずつ試合場の外側へずれていった。
「また……」
昨日のキース戦で見たものだった。
そしてカイル戦で、フラン自身が見抜いたものでもある。
ガルディオは攻撃を当てることだけを目的にしていない。フランが次にどこへ立つのかを限定し、最後には場外へ出せる場所まで運ぼうとしている。
フランが一度だけ背後を確認した。
境界線が近い。
その視線を見たガルディオは、今度は中央へ戻る道まで大剣の腹で塞いだ。
フランが左へ抜ければ刃が進路を切り、反対へ回ればガルディオ自身が立っている。無理に懐へ入れば捕まるし、大きく下がれば境界線へ近づく。
完全に追い込まれる前に、フランの足元へ淡い光が集まった。
「《レイ・シフト》!」
一瞬だけ身体が加速する。
キースの《瞬歩・霞》のように長い距離を駆け抜ける技ではなく、最初の数歩だけを鋭く変えて相手の横を抜く移動技。フランはガルディオの右側をすり抜け、そのまま中央へ戻ろうとした。
けれど、ガルディオは追わなかった。
フランの姿ではなく、その直前にフランが視線を向けた中央を見ている。
昨日と同じだった。
キースの速さを追わなかった男は、《レイ・シフト》も追わない。どれだけ速く移動しても最後にはどこかへ到着するのなら、その途中ではなく行き先を狙えばいい。
ガルディオが半歩だけ位置を変えた。
フランが中央へ戻ったときには、すでに巨大な大剣が頭上へ持ち上がっていた。
「《巨断》!」
完全に避ける時間がない。
フランは反射的に短剣を右手へ戻した。
「駄目!」
私の声と金属音が重なる。
巨大な刃と短剣が真正面から激突し、耳の奥まで震えるような轟音が闘技場へ響いた。フランは力で止めるのではなく、短剣を斜めに傾けて衝撃を横へ逃がそうとしたものの、それでもガルディオの一撃は重すぎる。
右腕が大きく沈み、包帯の下で筋が引きつったのか、フランの顔が苦痛に歪んだ。膝まで沈み、大剣の刃が短剣を押しながら石床へ近づいていく。
「その腕じゃ、次は持たねえぞ」
ガルディオの声に、フランは歯を食いしばりながら答えた。
「だから……次は受けません」
右腕は明らかに震えていた。
同じ受け方をもう一度すれば、短剣を握ることすら難しくなるかもしれない。それなのにフランはガルディオの顔ではなく、大剣へ力を伝えている足元を見ていた。
ガルディオは右足を前へ置き、左足を後ろへ引いている。巨体そのものを刃へ乗せるように、重心まで大きく前へ傾いていた。
次の瞬間、フランが短剣から力を抜いた。
押し込んでいた大剣が一気に前へ落ちる。
ガルディオもすぐに止めようとしたが、あれだけの重量へ身体ごと力を乗せていた直後では完全には止まらない。フランは右へ身体を逃がし、石床へ激突した大剣の横をすり抜ける。
今度こそ懐へ入った。
観客席から大歓声が上がったけれど、私は喜べなかった。そこはガルディオが最も相手を捕まえやすい距離でもある。
案の定、ガルディオは大剣を捨てた。
巨大な剣が石床へ倒れるより早く両手が伸び、フランの肩を狙った左手が外れれば、そのまま腕を下げて腰を掴もうとする。
フランは横へずれたが、ガルディオも離さない。
互いに武器を十分振れないほど近い距離で、二人の足だけが激しく位置を変える。フランが右へ踏めばその先へガルディオの足が置かれ、左へ切り返せば巨体そのものが壁になった。
キース戦の最後と同じだった。
ガルディオは相手より速く動く必要がない。次に行きたい場所を先に塞げばいい。
フランの右足が一度止まった。
そこへガルディオの左手が伸びる。
今度こそ捕まる。
そう思った瞬間、フランは離れるどころか自分から一歩近づいた。
ガルディオの大きな手が肩の外側を通過する。
近すぎた。
掴もうとした腕の内側へ、フラン自身が潜り込んでいる。
短剣を振る空間はない。
それでもフランは攻撃しようとはせず、左肩をガルディオの胸へ当てて身体を横へ滑らせた。
「《レイ・シフト》!」
今度の《レイ・シフト》は逃走ではなかった。
ほんの一歩。
ガルディオの身体すれすれを、外側から内側へ抜けるためだけに使った。
ガルディオが振り向いたときには、フランはもう背後へ出ている。短剣なら届いたのに、フランは斬らず、そのまま二歩離れた。
一瞬、どうして攻撃しなかったのか分からなかった。
けれどガルディオの背後へ視線を移した瞬間、私にも理由が分かった。
境界線。
さっきまでそれを背負っていたのはフランだった。
今は逆になっている。
フランは背中を斬るためではなく、二人の位置を入れ替えるために懐へ飛び込んだのだ。
ガルディオも背後の境界線を一度確認した。
まだ数歩ある。
すぐに場外になる距離ではない。
それでも、さっきまで自分が握っていた試合場の中央をフランに奪われている。
「俺がキースにやったこと、見てたわけか」
ガルディオが落とした大剣へ戻りながら言う。
フランは追わず、中央に立ったまま短剣を構えた。
「はい。でも、同じことはできないので」
「だろうな。お前じゃ俺を力で押せねえ」
「だから、押さない方法を考えます」
ガルディオはそれ以上聞かなかった。
大剣を拾い上げると、今度は境界線を背負ったまま構える。フランも右腕の震えを確かめ、再び短剣を左手へ移した。
左手だけなら右ほど速くない。
右手だけなら、もう強い衝撃には耐えられない。
なら、どちらか一方へ頼らなければいい。
次の攻防で、その意味が分かった。
ガルディオの大剣が横から迫り、フランは左手だけで短剣を合わせようとする。剣速が足りずに遅れかけた瞬間、右手を柄へ軽く添えた。
強く握らない。
大剣を受け止めもしない。
右手は短剣の向きをほんの少し変えるだけ。
刃と刃が触れる直前に角度が変わり、フランは大剣を受けずに軌道の外へ抜けた。
負傷した右腕を捨てたのではない。
右腕で戦う方法を捨てた。
斬るために使わない。
受けるためにも使わない。
左手だけでは足りない一瞬を補助する。
ガルディオは二度ほど同じ動きを見たところで、それ以上大剣を振らなかった。
巨大な刃を見下ろす。
フランも動きを止める。
「それなら、こいつを振るほどお前に材料をやるだけか」
ガルディオはそう言うと、あっさり柄から手を離した。
巨大な大剣が石床へ落ち、重い音が闘技場に響く。
観客席が大きく沸いた。
昨日のキース戦でも見た。
けれど、今度は理由が違う。
フランは大剣の振り終わりだけではなく、重量、軌道、ガルディオが力を乗せる瞬間まで利用し始めている。
なら、その材料そのものを消す。
ガルディオは両手を開き、腰を低く落とした。
「ここからは一度捕まえりゃ終わりだ」
フランも左手の短剣を低く構えた。
「捕まらなければ続きます」
次の瞬間、ガルディオが走った。
巨体からは想像しにくいほど初速が速い。
フランは《レイ・シフト》を使わず、普通の足で横へ逃げた。ガルディオもキースを相手にしたときのように追い回すことはせず、試合場の中央を確保したまま、フランが外側へ動くたびに身体の向きだけを変えていく。
その結果、フランは逃げられているように見えながら、少しずつ境界線へ近づいていった。
「また外へ追われてる……」
私は身を乗り出した。
けれどリリィはすぐには答えなかった。
フランも気づいているはずだった。
それなのに中央へ戻ろうとしない。
むしろガルディオが距離を詰めるたび、自分から少しずつ外側へ下がっている。
境界線まで三歩。
ガルディオもそこで速度を落とした。
フランが何かを狙っている可能性を考えたのだろう。
それでもフランはさらに下がった。
あと二歩。
左手の短剣を低く下げ、負傷した右腕は身体の横へ置いている。
ガルディオはその右腕を見たあと、短剣を持つ左手へ視線を戻した。
正面から短剣側へ入れば斬られる。
なら、右肩側から捕まえればいい。
フランが境界線まで残り一歩へ下がった。
ガルディオが踏み込む。
左手がフランの右肩へ伸びた。
フランは避けなかった。
「えっ!?」
ガルディオの指が右肩を掴む。
そのまま腰が落ちる。
昨日キースを投げた形。
《剛投・墜星》。
フランの身体が浮き始める。
それでも抵抗しない。
右腕でガルディオの手を外そうとせず、左手の短剣も身体を斬るためには使わなかった。
刃先が石床へ向く。
そこでようやく、フランが自分から境界線へ下がり続けていた意味が分かった。
ガルディオに場外を狙わせれば、最後には必ず自分と境界線の間へ身体を入れてくる。
しかも大剣はもうない。
ガルディオ自身が、フランを場外へ投げるための武器になる。
「《剛投・墜星》!」
ガルディオの腰が回った。
フランの右肩を掴んだ左腕が大きく引かれ、足が石床から浮き上がる。昨日キースへ使ったときと同じなら、ここから逃げようと身体を反対へ捻った瞬間、その抵抗まで投げの回転へ組み込まれる。
だからフランは逃げなかった。
右肩を掴まれても振りほどこうとせず、むしろガルディオが回す方向へ自分から身体を預ける。逃げようとする力が返ってこないことに気づいたのか、ガルディオの眉がわずかに動いたものの、投げそのものを途中で止めることはできなかった。
巨体を支えていた右足が境界線側へ踏み込み、左足が軸になる。
その右足を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「ガルディオの足……!」
境界線まで、ほとんど残っていない。
フランが自分から端まで下がったせいで、場外へ投げようとするガルディオ自身も、いつの間にか境界線ぎりぎりまで踏み込まされていた。
それでも今のままなら、先に外へ出るのはフランだ。
身体が宙へ浮き、境界線の外側へ回されていく。
その途中で、フランの左手が動いた。
短剣はガルディオへ向かわない。
逆手に持ち替えた短剣の柄頭を、境界線の内側に残っている石床へ突き立てた。
「何をする気だ……?」
私にはまだ分からなかった。
刃ではなく柄を石床へ当てたところで、ガルディオの怪力を止められるはずがない。
実際、フランも止めようとはしていなかった。
短剣と左腕で作った支えは、ほんの一瞬だけ身体が完全に宙へ投げ出されるのを遅らせるためのものだった。
そして、その一瞬で十分だった。
フランの足元に淡い光が走る。
「《レイ・シフト》!」
いつものように前へ飛び出す光ではない。
石床へ突いた短剣を一瞬の支点にして身体の向きを変え、ガルディオの投げる回転と同じ方向へ加速する。投げへ逆らうのではなく、その勢いへ自分の《レイ・シフト》を重ねたのだ。
フランの身体が、ガルディオの正面から外側へ滑った。
右肩はまだ掴まれている。
だからフランだけが移動したわけではなかった。
掴んだままのガルディオの左腕まで引かれ、腰から上が想定より深く回る。
「そういうことか!」
オラクルの声が飛んだ。
ガルディオがフランを投げるために作った回転へ、フランがさらに同じ方向の動きを足したせいで、今度は投げる側のガルディオまで止まれなくなっている。
しかもガルディオの右足は、すでに境界線ぎりぎりまで踏み込んでいた。
投げを途中で止めるには、もう一歩足を置いて身体を支えるしかない。
ガルディオの右足が石床を探した。
でも、その先にはもう試合場がなかった。
踵が境界線を越える。
右足が場外へ落ちた。
観客席が一気に沸いた。
「ガルディオの右足が出た!」
「まだだ!」
別の誰かが叫ぶ。
そのとおりだった。
右足が場外へ出ても、左足はまだ試合場の内側に残っている。ガルディオは左脚一本へ体重を集め、倒れかけた巨体を強引に引き戻した。
さらにフランの肩も離さない。
「だったら、お前も来い!」
ガルディオが左腕を引いた。
フランの身体が境界線へ引き寄せられる。
右肩を掴まれている以上、ここで後ろへ逃げれば負傷した腕へまともに力が掛かる。フランの右腕はさっき《巨断》を受けたばかりで、強く抵抗できる状態ではない。
だからフランは抵抗しなかった。
むしろ引かれる方向へ一歩踏み込み、自分からガルディオとの距離を縮める。
「また逆らわない……」
ガルディオが引いた力は、フランの肩を痛めるためではなく、フラン自身をガルディオのすぐ近くまで運ぶ力へ変わった。
フランの左足が境界線の内側ぎりぎりへ置かれる。
そこから先へ踏めば自分も場外。
それでもフランは足元を見ていた。
ガルディオの右足はすでに外。
巨体を試合場へ繋ぎ止めているのは、内側へ残った左足一本だけだった。
昨日のキース戦とは逆だ。
あのときガルディオは、キースが内側へ残した足を利用して最後の《剛投・墜星――返》を決めた。
今度はフランが、その一本を見る。
左手の短剣が下がった。
刃先がガルディオの脚へ向いたので、一瞬斬るのかと思った。
違った。
狙っているのは脚そのものではない。
ガルディオの左足が踏ん張っている、石床との境目。
「《ドゥー・アライズ》!」
左手から放たれた切り上げは、右手で使ういつもの《ドゥー・アライズ》より遅かった。
威力も足りない。
ガルディオほどの巨体を、その一撃だけで跳ね上げられるはずもない。
でも、跳ね上げる必要なんてなかった。
短剣の刃が石床すれすれを滑り、ガルディオの左足の外側から斜め上へ抜ける。足を斬るのではなく、踏ん張るために外へ開いていたつま先へ短剣の腹を当て、その向きだけを内側へずらした。
ほんの数センチ。
それだけで、全体重を支えていた左脚の力の向きが変わった。
「っ――!」
ガルディオの左膝が沈む。
倒れない。
すぐに足を置き直そうとする。
フランもそこまで読んでいた。
《ドゥー・アライズ》を振り切った反動で身体を起こし、ガルディオに掴まれている右肩を自分から一歩前へ送り込む。
押したのではない。
右腕には力を入れていない。
ただ、ガルディオが自分を掴んでいる腕の内側へ身体を入れ、肩から胸へ密着することで、足を置き直そうとした方向を塞いだ。
ガルディオの左足が石床を擦る。
踏み直せない。
右足はすでに外。
左足も境界線へ滑っていく。
それでもガルディオは諦めなかった。
フランの肩を掴んだまま身体を捻り、最後の力で自分とフランの位置をもう一度入れ替えようとする。
「まだ終わってねえ!」
巨体が傾きながら回った。
フランの左足も境界線ぎりぎりを滑る。
あと少しで二人とも外へ出る。
「フラン!」
私が立ち上がったのと、フランが短剣を石床へ突いたのはほとんど同時だった。
さっき《剛投・墜星》を外したときと同じ。
でも今度は《レイ・シフト》を使わない。
左手一本で短剣を支えにし、境界線の内側へ身体を残す。
ガルディオはそれを見た。
そして――フランの右肩を掴んでいた手を離した。
フランの身体から引く力が消える。
ガルディオだけが外へ傾いた。
巨大な身体が境界線の向こうへ落ち、右足に続いて左足も完全に場外へ出る。片膝と左手を石床へついたところで、ようやく動きが止まった。
フランは境界線の内側に残っていた。
左足のつま先から境界線まで、指一本ぶんもない。
短剣を支えにして辛うじて立っている。
闘技場が静まり返った。
私も息をするのを忘れていた。
審判が走ってくる。
まずガルディオの両足を確認し、それからフランの左足を見る。
ほんの短い時間だったはずなのに、ものすごく長く感じた。
やがて審判が立ち上がり、大きく腕を振った。
「場外! そこまで!」
一拍遅れて、声が続く。
「勝者――フラン!」
その瞬間、闘技場が爆発した。
「フラーン!」
私も立ち上がったまま叫んでいた。
周りからも名前が飛ぶ。
昨日までとは比べものにならない。
石造りの観客席そのものが震えているような歓声の中で、フランはすぐには立ち上がらなかった。
境界線の内側へ短剣を突いたまま、荒い呼吸を繰り返している。
右腕は身体の横へ下がり、指先がわずかに震えていた。
勝った。
でも、ぎりぎりだった。
最後の《ドゥー・アライズ》があと少しずれていたら。
ガルディオが左足を踏み直していたら。
《剛投・墜星》の回転から抜けるのが一瞬遅れていたら。
外にいたのはフランだったかもしれない。
ガルディオが場外から立ち上がった。
負けたのに笑ってはいなかった。
悔しそうに境界線を見て、それから自分の左足を見下ろす。
「……最後、俺が手ぇ離さなかったらどうしてた?」
歓声の中でも、その声はフランへ届いたらしい。
フランが短剣を支えに身体を起こした。
「一緒に落ちてたと思います」
「おい」
ガルディオの顔が引きつる。
観客席から笑いが起こった。
フランも少しだけ笑う。
「でも、離すと思ってました」
今度はガルディオが黙った。
「何でだ?」
「ガルディオさん、勝つためなら大剣も捨てるけど、負けたあとまで相手を道連れにする人じゃないから」
「……戦術じゃねえじゃねえか」
「最後だけは」
ガルディオはしばらくフランを見ていた。
やがて大きく息を吐く。
「そこまで読まれた覚えはねえぞ」
「読んだんじゃなくて、昨日から見てただけです」
その言葉に、ガルディオはようやく笑った。
「それを読むって言うんだよ」
境界線を挟み、二人が向き合う。
ガルディオが先に右手を差し出した。
フランも反射的に右手を出しかけたが、痛みを思い出したのか途中で止め、左手へ変えた。
ガルディオも何も言わず左手に変える。
二人の手が握られた。
「俺のやり方、ずいぶん使いやがったな」
「勉強になったので」
「次は通じねえぞ」
フランは少し考えてから答えた。
「じゃあ、次は別の方法を考えます」
昨日、キースへガルディオが言った言葉とよく似ていた。
ガルディオも気づいたらしい。
一瞬ぽかんとしたあと、声を上げて笑った。
「ほんとに持っていきやがったな」
握手を終え、ガルディオが大剣を拾いに戻る。
フランも退場口へ向かおうとした。
でも最初の一歩で身体がわずかに揺れた。
「フラン?」
右腕だけではない。
左腕も、ガルディオの膝を受けたときの衝撃が残っている。最後は慣れない左手で《ドゥー・アライズ》まで使った。
フランは短剣を鞘へ戻そうとしたが、一度目は入口を外した。
二度目でようやく収まる。
さっきまで歓声に浮かれていた気持ちが、一気に冷えた。
「治療! すぐ治療だよ!」
私が叫ぶと、フランが観客席を見上げた。
「聞こえてるよ」
「そのまま行って!」
「行くって」
「寄り道しないで!」
「どこに寄るの?」
そう言いながら笑えるなら、意識はしっかりしている。
それでもフランは右腕をほとんど動かさないまま、治療区画へ続く退場口へ消えていった。
私は姿が見えなくなるまで目で追い、それからようやく座席へ腰を下ろした。
力が抜ける。
「勝ったぁ……」
今になって実感が追いついてきた。
三百二十七人から始まった大会。
予選を抜け、本戦一回戦でレグルを破り、二回戦ではカイルを倒した。そして準々決勝では、前大会準決勝進出者のガルディオまで破った。
残り四人。
フランは準決勝へ進む。
「でも、かなり無理したね」
リリィの声で、喜びだけではいられなくなった。
「右腕、また悪くなったよね」
「たぶん。《巨断》を一回まともに受けてるから」
オラクルも煙草を咥え直しながら、珍しく真面目な顔をしていた。
「勝ち筋は悪くなかった。だが身体は別だ。次も同じことやりゃ腕が先に終わるぞ」
分かっている。
フラン自身が一番分かっているはずだ。
今回の勝ち方は、次には使えない。
ガルディオだから成立した。
キース戦を見ていたから《剛投・墜星》の回転を知っていた。
ガルディオが場外へ投げるために身体を入れる位置も、昨日から何度も見ていた。
そして何より、ガルディオ本人が試合の最後に手を離す人間だったから、フランは内側へ残れた。
技を一つ覚えたから勝ったわけじゃない。
相手を見て、失敗して、使えないものを捨て、残ったものを組み合わせた結果だった。
「ガルディオから教わったこと、そのままガルディオに使ったんだね」
私が言うと、リリィは試合場から退いていくガルディオを見ながら頷いた。
「でも、真似しただけじゃないよ。ガルディオは必要なくなった武器を捨てる。フランは……たぶん、必要なくなった『使い方』を捨てたんだと思う」
右腕が痛いから、右腕を使わない。
最初は私もそう考えていた。
でもフランは違った。右手で短剣を強く握ることも、《巨断》のような重い攻撃を受けることもできなくなったから、右腕そのものを捨てるのではなく、右腕にさせていた役割を捨てた。短剣を左へ持ち替え、それでも左手だけでは足りない瞬間には、右手を軽く添えて刃の向きを変えるためだけに使っていた。
最後の《剛投・墜星》も同じだった。
捕まったら逃げる。
投げられたら抵抗する。
普通ならそう考えるところを、フランは逆らうことそのものをやめた。ガルディオの回転へ自分から乗り、そこへ《レイ・シフト》を重ねることで、投げる側まで境界線の外へ引きずり出した。
「……何か、フランじゃないみたい」
私が呟くと、オラクルが横から鼻を鳴らした。
「本人だろ」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる。最初の頃なら、あいつも速さと技で何とかしようとしてただろうな」
オラクルの言葉に、私は大会が始まった頃のフランを思い出した。
速く踏み込む。
相手より先に短剣を届かせる。
強い技が必要なら新しい技を作る。
それは今でもフランの強さだけれど、それだけではなくなっている。
レグルとの戦いでは、一度見ただけで相手の癖を決めつけないことを覚えた。カイルとの戦いでは、攻撃の形より、その奥にある目的を見るようになった。そしてガルディオからは、通じなくなったものへ固執しないことを学んだ。
全部、別々の試合だった。
なのに最後には一つへ繋がった。
「準決勝……」
口に出した途端、急に現実味が増した。
あと二回勝てば優勝。
そう考えると胸が高鳴るのに、同時にフランの右腕が頭へ浮かんでしまう。
「治療でどこまで戻るかな」
「それは治療師にしか分からないよ」
リリィも心配そうだった。
「でも、今日中にもう一試合ってことはないはず。準々決勝はまだ残ってるから」
試合場では係員たちが、ガルディオの大剣によって割れた石床を急いで補修していた。削れた場所へ土系統の魔法を使える魔道士が手を当てると、砕けた石が盛り上がり、別の係員が平らになるよう道具で均していく。
その向こうでは、本戦表の更新が始まっていた。
《フラン》
名前の横へ、勝者を示す赤い印が付けられる。
そこから伸びた線が、一段上へ進んだ。
ベスト4。
本当に残った。
「すごいでぷ!」
黄色が椅子の上へ立ち上がり、両手を振っている。
「フラン強いでぷ!」
赤も興奮したまま拳を振り回し、緑は膝の上に置いていた本へ何かを書き込んでいた。
「何書いてるの?」
覗こうとすると、緑が慌てて本を閉じた。
「秘密でぷ」
「気になる」
「秘密は秘密でぷ」
「絶対フランの技書いてるでしょ」
緑は答えなかったけれど、耳まで少し赤くなっている。
ようやく緊張が抜けて、私も笑えた。
そのときだった。
観客席の最上段近くを、三人の兵士が早足で通り過ぎた。
大会の警備兵なら珍しくない。
最初はそう思った。
けれど三人とも試合場を見ていなかった。観客席の警備をするわけでもなく、王宮側へ続く関係者専用通路へ向かっている。
先頭の兵士が、入口に立つ別の兵士へ何かを見せた。
銀色の札。
扉がすぐに開く。
三人は中へ消えた。
「……まただ」
思わず呟いた。
「何が?」
リリィが振り向く。
「昨日も兵士が急いでたでしょ。内庫がどうとか言ってた人たち」
「ああ……」
リリィも通路を見る。
扉はもう閉じていた。
大会には王族や貴族も来ているし、これだけ人が集まれば警備が忙しくなるのは当たり前なのかもしれない。それでも昨日から何度か、王宮直属らしい兵士たちが試合とは関係のない場所を慌ただしく移動している。
「オラクル、何か知ってる?」
「知らねえよ。俺を何だと思ってんだ」
「情報屋」
「何でも知ってる神様じゃねえ」
そう言いながらも、オラクルは兵士たちが消えた扉を少しだけ長く見ていた。
「まあ、大会中に王宮の内庫なんざ単語が出てくるのは気になるがな」
「内庫って?」
「王家が外に出したくねえもんをしまっとく場所だ。金か、宝か、魔法道具か、それ以外かは国による」
「泥棒?」
黄色が反応した。
「お金でぷ?」
「お前はそこだけ食いつくな」
オラクルが黄色の額を軽く押す。
リリィはまだ扉を見ていたが、やがて小さく首を振った。
「今は分からないこと考えても仕方ないよ。兵士が動いてるなら、王宮側も何か確認してるんだろうし」
「うん……」
気にはなる。
でも今の私たちにできることはない。
その直後、修復作業を終えた試合場へ司会者が戻ってきた。
「お待たせしました! 激戦となった準々決勝第一試合に続き、第二試合へ参りましょう!」
観客の意識が一気に中央へ戻る。
私も通路から試合場へ視線を戻した。
まだ七人ではない。
フランが一人勝ち抜いたから、残っているのは準々決勝をこれから戦う六人。
その中には――。
「続いて東門より登場! ここまで対戦相手を翻弄し続けてきた謎多き体術使い――ナディア!」
門から灰色の外套が現れた。
暗い茶色の髪。
目元を隠す細い仮面。
手袋。
長袖。
ここまで何度見ても、その素顔も出自もほとんど分からない。
それなのに、試合を重ねるたび存在感だけが大きくなっている。
ナディアは歓声にも反応せず、いつものように静かに中央へ向かって歩いていった。
「ナディアだ」
私は自然と身を乗り出した。
ドーガ戦で見た《返衝》。
触れた相手が一定時間内に力を出せば、その力が本人へ返る。
少なくとも、今までの試合からはそう見える。
でもドーガは条件へ気づいていた。
触れられたあと、すぐに力を使わなければいい。
その対策は実際に通用していた。
それでも負けた。
ナディアは能力を使わずにドーガの警戒そのものを利用し、最後には途中で止められない《崩岳》を撃たせて《返衝》を成立させた。
「次の相手も、ドーガ戦を見てるよね?」
「見てるだろうね」
リリィが答える。
「だったら、もう条件知られてるんじゃない?」
「ある程度はね。でも……」
リリィはナディアから目を離さなかった。
「条件が分かったから勝てるなら、ドーガが勝ってたよ」
その言葉で、私は少し背筋が寒くなった。
ガルディオと同じだ。
大剣だけを攻略してもガルディオには勝てなかった。
《返衝》だけを攻略しても、ナディア本人には勝てない。
しかも、もしフランがこのまま勝ち進めば――。
私は本戦表を見る。
フランの線は準決勝へ伸びた。
ナディアは別の場所にいる。
まだ二人が当たるとは決まっていない。
それでも、何となくその先を見てしまう。
「フラン、ナディアと戦うことになるのかな」
誰に言ったわけでもなかった。
返事もなかった。
試合場ではナディアの対戦相手が反対側の門から姿を現し、司会者がその名を読み上げ始めている。
その歓声に混じって、私はもう一度だけ王宮側の通路を見た。
さっき閉じた扉が、また開いていた。
今度は兵士ではない。
濃紺の長衣を着た王宮魔道士らしい男が二人、観客席へ出てくる。二人とも試合を見ることなく短く言葉を交わすと、別々の方向へ歩き出した。
一人は大会本部。
もう一人は西側の通路。
その顔に、祭りを楽しんでいる人間の余裕はなかった。
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
でも、その正体を考えるより早く審判の声が響く。
「準々決勝第二試合――始め!」
ナディアが、静かに片手を上げた。
その手には、いつもと同じ黒い手袋が嵌められている。
私はフランの勝利でまだ速くなっていた胸の鼓動を落ち着かせながら、今度はその手から目を離さないようにした。
大会は、まだ終わっていない。
そして残った八人の戦いは、ここからさらに狭くなっていく。




