第131話 巨剣の間合い
準々決勝の日、闘技場へ入った瞬間から、昨日までとは空気が違っていた。
三百二十七人から始まった大会も、残っているのは八人だけ。正面の巨大な本戦表には八つの名前しかなく、その一つにフラン、その隣には太い線で繋がるようにガルディオの名が刻まれている。観客席は朝からほとんど埋まり、売店から漂う焼いた肉の匂いや階段を駆け上がる人たちの声は昨日までと変わらないはずなのに、中央の試合場へ向けられる視線だけは明らかに濃くなっていた。
「フラン、本当に大丈夫?」
参加者用通路へ向かう直前、私はもう一度だけ聞いた。
フランは右手を開いてから、確かめるようにゆっくり握った。新しく巻かれた包帯は手首から肘の少し上までで、昨日より薄くなっている。普通に動かすだけなら痛みはほとんどないらしいけれど、強く握り込んだり、短剣越しに大きな衝撃を受けたりすれば筋に痛みが走る。
治療師から言われたことも変わっていない。《インセント・フラッシュ》なら一度か二度、《ルミナス・クロス》は禁止。そして何より、ガルディオの大剣を正面から何度も受けるような真似だけは絶対にしないこと。
「昨日より動くよ。でも、ガルディオさんの剣は受けない」
「絶対?」
「できるだけ」
「フラン」
私が名前を呼んだだけで、フランは困ったように笑った。
「……絶対」
ようやく言った。
横にいたリリィも少し笑ったものの、すぐに試合場のほうへ視線を戻した。
「でも、大剣を避けたあとも危ないよ。昨日のキースみたいに捕まったら、フランじゃ力で外せないと思う」
「うん。それが一番困ってる」
フランはあっさり認めた。
普通なら大剣使いを相手にしたとき、懐へ入れば有利になる。長い武器は近すぎれば扱いにくいから、フランの《レイ・シフト》なら巨大な刃を避けて一気に間合いの内側へ潜る戦い方が考えられる。
けれど、ガルディオにはそれが通じない。
昨日、キースが見せていた。ガルディオは大剣を捨てても強く、相手を捕まえられる距離まで近づけば、巨大な身体と怪力をそのまま武器に変えられる。
「遠くにいたら大剣で、近づいたら掴まれるんだよね」
私が言うと、オラクルが煙草を咥えたまま鼻を鳴らした。
「だから面倒なんだろ。あのデカブツの強みは剣じゃねえ。相手に合わせて、いらなくなったもんをさっさと捨てられるところだ」
昨日のキース戦でもそうだった。追いつけないと分かったら追うのをやめ、大剣が必要なくなれば躊躇なく手放し、最後には力だけで押し出すことさえやめて、キースが自分から内側へ戻ろうとした力を利用した。
「じゃあ、どうするの?」
私がフランを見る。
フランは少し考えてから、首を横へ振った。
「まだ決めない。ガルディオさん相手に最初から勝ち方を一つ決めても、たぶん途中で変えられるから。最初は確かめるよ」
その言葉を最後に、フランは参加者用通路へ入っていった。
私たちも観客席へ向かい、階段を上りきったところで中央の試合場を見下ろした。
準々決勝。
八人から四人へ。
ここから一試合終わるたび、本戦表から名前が一つずつ消えていく。その最初の試合が、フランとガルディオだった。
司会者が中央へ進み、大きく両腕を広げる。
「お待たせしました! 武道大会本戦――ここからは準々決勝! 三百二十七名の参加者から勝ち残った、わずか八名による戦いです! まずは東門! 長槍使いレグルを破り、変幻の剣士カイルとの読み合いまで制した短剣使い――フラン!」
門が開き、フランが姿を現した瞬間、昨日までとは比べものにならないほど多くの声が上がった。
「フラン!」
「行けー!」
名前を呼ぶ人までいる。
私は思わず笑ってしまった。
最初はほとんど誰も知らなかったのに、今は違う。フラン自身も少し驚いたらしく、歩きながら観客席を見上げ、私たちを見つけると左手だけを軽く上げた。
右手は短剣の柄へ置いたまま。
まだ抜かない。
「そして西門! 前大会準決勝進出! 魔装剣士ヴァレスの防御を破り、高速双剣のキースさえ捕らえた大剣使い――ガルディオ!」
今度は歓声が一段大きくなる。
西門から現れたガルディオの左前腕や肩には、昨日キースにつけられた傷を覆う白い包帯が残っていた。それでも巨大な大剣を右肩へ担ぐ姿には負傷者らしい頼りなさなどなく、一歩進むたびに観客席から名前を呼ぶ声が重なっていく。
二人が中央へ進んだ。
近くに並ぶと体格差がさらに大きく見える。ガルディオの大剣は、フラン本人より大きいんじゃないかと思えるほどだった。
「腕、治ってねえな」
先に言ったのはガルディオだった。
フランが少し笑う。
「そっちも」
「これは動く」
ガルディオが包帯の巻かれた左腕を曲げてみせる。
「僕も動きますよ」
「なら問題ねえな」
それだけだった。
怪我を狙わないとも言わないし、狙うとも言わない。試合なら使えるものは使うし、怪我を抱えたままここへ立った以上、それも含めて勝負なのだと二人とも分かっているようだった。
審判が中央へ入り、二人を離す。
ガルディオは肩から大剣を下ろして両手で構え、フランも右手で短剣を抜いた。私は無意識に拳を握り、審判の腕が上がっていくのを見つめる。
「準々決勝第一試合――始め!」
先に動いたのはガルディオだった。
大剣を右後方へ引きながら二歩で間合いを詰め、その勢いを殺さないまま巨大な刃を斜め上から振り下ろす。
「《巨断》!」
フランは受けなかった。
左へ踏み込み、大剣の軌道から身体ごと外す。
直後、刃が石床へ激突した。
轟音とともに細かな石片が跳ね、観客席の前列から悲鳴にも似た声が上がる。その瞬間にはフランも前へ出ていた。大剣は地面へ落ちている。引き戻すより先に懐へ入れると判断したのだろう。
白い光は使わない。
普通の踏み込みだけで短剣の間合いへ入ろうとした。
しかし、ガルディオは大剣から左手を離した。
「っ!」
フランが急停止する。
伸びてきた左手が目の前を通過した。
あと半歩入っていれば肩を掴まれていた。
フランは短剣を振らず、そのまま二歩後ろへ退く。ガルディオも無理に追わず、石床へ食い込んだ大剣を持ち上げて再び構えた。
最初の攻防は、それだけで終わった。
それなのに、私は背中へ嫌な汗が流れるのを感じていた。
やっぱり昨日と同じだ。
大剣を振り切ったから隙ができるのではない。剣を使えない時間そのものを、空いている手で相手を捕まえる時間へ変えている。
「今の、待ってたよね」
リリィが呟いた。
「フランが入ってくるの?」
「たぶん。キース戦を見てるなら、フランが懐を狙うことくらいガルディオも分かってる」
二度目の攻撃が来た。
今度は腰の高さを薙ぐ大剣。
フランは後ろへ逃げず、刃の進行方向と同じ右側へ走って剣先との距離を保った。巨大な刃が空を切った直後、フランは一歩だけ前へ入ったものの、短剣の間合いまでは踏み込まない。
ガルディオの左肩がわずかに動く。
それでも手は伸びなかった。
そのまま大剣を引き戻す。
フランも追わない。
三撃目も同じだった。
大剣を避けたあと、フランは今度は半歩だけ近づく。ガルディオは短剣が届かないことを確認したのか、左手を使わず大剣を戻した。
「確かめてる……」
一度目で決めつけていない。
ガルディオは大剣を振るたびに掴みに来るわけではない。フランが本当に懐へ入ってきたときだけ、空いた手を使っている。
その条件を何度も確かめている。
レグル戦のあとから、フランはこういう見方をするようになった。
ところが四撃目で、ガルディオのほうが変えた。
「《巨断・横薙》!」
大剣が低い軌道を走る。
フランは跳ばず、身体を沈めて巨大な刃の下へ潜り、そのまま《レイ・シフト》で一瞬だけ加速した。
ガルディオの左側。
背後。
観客席が一気に沸く。
短剣の間合いだ。
フランが斬る。
その瞬間、ガルディオは振り向く代わりに右足を後方へ引き、腰だけを半回転させた。
飛んできたのは大剣ではない。
肘だった。
フランが首を反らす。
肘が鼻先を掠めたせいで短剣を振り切れず、そのわずかな停滞へガルディオの左手が伸びる。
右肩を掴まれた。
「フラン!」
ガルディオの指が服へ食い込んだ瞬間、フランは短剣を返そうとしたが、それより身体が浮くほうが早かった。足が石床から離れ、ガルディオの腰が低く落ちていく。
昨日見た《剛投・墜星》。
フランも気づいた。
右手の短剣を逆手へ返し、ガルディオの手首へ柄頭を叩き込む。一発目では離れない。二発目は、昨日キースに切られた左前腕へ打ち込んだ。
ガルディオの指がわずかに緩む。
フランはその一瞬を逃さず、投げられるより先に自分から身体を捻った。
肩を抜く。
掴まれていた服が裂け、フランの身体が落ちる。
両足が石床へ着いた直後、ガルディオの膝が迫った。
完全には避けられない。
フランは右腕ではなく左腕を畳んで身体の前へ入れ、膝を受けた。
鈍い音が響いた。
身体が後方へ弾かれ、靴底が石床を長く擦る。四歩、五歩と押し戻されたところでようやく止まり、フランは左腕を振りながら姿勢を立て直した。
右腕では受けなかった。
それでも相当痛いはずだ。
「今の、かなり入ったよね」
私が言うと、リリィも表情を硬くした。
「うん。でも右腕を守った。たぶん最初から、掴まれたときのことも考えてたんだと思う」
試合場では、ガルディオが追撃せず大剣を肩へ戻していた。
フランは左腕を一度だけ振り、感覚を確かめる。
「速いなあ」
「キースを捕まえた俺に言うか?」
「だからですよ。見てるのと、自分でやられるのは全然違いました」
「そりゃそうだ」
フランが苦笑する。
「一個分かりました」
「何が?」
「大剣を避けたあと、すぐ入ったら駄目」
「見りゃ分かるだろ」
観客席から笑いが起こった。
私も一瞬笑いそうになったけれど、フランは真面目だった。
「見るのと確かめるのは違いますから」
その答えを聞いて、ガルディオの口元から笑みが消えた。
少しだけ目が細くなる。
「……なるほどな」
今度はガルディオが先に踏み込む。
フランも動いた。
大剣が来る前に右へずれ、ガルディオが軌道を変えればさらに半歩だけ移動する。ただし、今度は逃げ切らなかった。
大剣が届くか、届かないか。
ガルディオの腕ならまだ剣を使える。
でも掴むには遠い。
フランの短剣も届かない。
その中間に立った。
ガルディオが大剣を止める。
フランも止まった。
ほんの一瞬、二人の間に今までとは違う空間が生まれる。
フランが半歩だけ入ると、ガルディオは大剣を振った。
フランはすぐ戻る。
また半歩。
今度はガルディオが左手を前へ出した。
フランは入らない。
何度か同じやり取りが続いたところで、オラクルが煙を吐きながら言った。
「選ばせてんだよ」
「何を?」
「あいつに、剣を使うか手を使うか決めさせてんだ」
そこでようやく分かった。
ガルディオはこれまで、相手が動いたあとから最適なものを選んでいた。遠ければ大剣を使い、懐へ入られれば身体を使う。相手が先に距離を決めるから、ガルディオは後から有利な武器を選べた。
フランは今、その境界に立っている。
大剣を選べば、その瞬間は掴みに移れない。
掴むために手を空ければ、巨大な刃の圧力が消える。
「面白えな」
ガルディオもフランの狙いに気づいたらしく、大剣をわずかに下げながら目を細めた。
「俺に先に決めさせる気か」
フランは答えなかった。
返事の代わりに短剣を身体の前へ置き、いつでも前後どちらへでも動けるよう重心を落とす。大剣の間合いから完全に逃げるわけでも、ガルディオの腕が届くところまで踏み込むわけでもない。どちらを使うにしても、ガルディオ自身が先に選ばなければならない距離を保つつもりらしい。
ガルディオが踏み込んだ。
大剣が横から迫ると、フランは必要なぶんだけ後ろへ下がって刃先を外した。ガルディオはそのまま一歩追い、フランも同じ距離だけ下がる。二度目も同じだったが、三度目にはフランが右へ抜けようとした瞬間、大剣の腹が進路を塞ぐように置かれた。
フランが反対へ切り返す。
そこにはガルディオの左手が待っていた。
掴める距離ではない。それでも、あと一歩こちらへ入れば捕まえるという意思だけで、フランの進路を狭めるには十分だった。
「……あれ?」
最初に違和感を覚えたのは、フランではなく私だった。
さっきまでフランは、ガルディオに大剣か素手かを選ばせていたはずなのに、いつの間にか立場が逆転している。
ガルディオは無理に攻撃を当てようとしていなかった。
右へ逃げれば大剣で塞ぎ、左へ抜けようとすれば身体を寄せる。フランが距離を取れば一歩だけ前へ進み、懐へ入ろうとすれば左手を見せて止める。それを繰り返すうちに、二人の距離はほとんど変わらないまま、フランの立っている場所だけが少しずつ試合場の外側へずれていた。
「押されてる……?」
私が呟くと、リリィが本戦場の境界線へ目を向けた。
「うん。たぶんガルディオ、最初からそこまで考えてる」
フランの背後には、もう試合場の中央はなかった。
境界線まで十歩もない。
フランが作ったはずの「大剣にも掴みにも対応できる距離」を、ガルディオは壊そうとしなかった。むしろその距離を保つことでフランを安心させ、そのまま逃げられる方向だけを一つずつ消していた。
大剣を当てる必要すらない。
最後に場外へ出せば勝ちなのだから。
「やっぱり、そう簡単じゃないよね……」
私の手に汗が滲む。
試合場でもフランが背後を一度だけ確認した。
その視線を、ガルディオは見逃さなかった。
「気づいたか」
「今ですけどね」
「遅くはねえ」
ガルディオが大剣を構え直す。
「でも、気づいたからって戻れるとは限らねえぞ」
次の一撃は、さっきまでより深かった。
フランが右へ逃げようとすると大剣が先にその空間へ入り、左へ切り返せばガルディオ自身の身体が中央への道を塞ぐ。無理に懐へ飛び込めば捕まるし、大きく後退すれば境界線が近づく。
フランは一度だけ中央を見た。
残された道は斜め前。
そこへ《レイ・シフト》を使えば、一瞬でガルディオの横を抜けられる。
白い光が足元で弾けた。
「《レイ・シフト》!」
フランの身体が低く沈み、次の瞬間にはガルディオの右側へ滑り込んでいた。
速い。
キースの《瞬歩・霞》ほど長い距離を走る技ではない代わりに、最初の一歩だけなら目で追うのが難しいほど鋭い。ガルディオの横を抜け、そのまま中央へ戻れる軌道だった。
それなのに、ガルディオは追わなかった。
フランの姿へ身体を向けようともしない。
大剣を引き、半歩だけ位置を変える。
「え?」
フランが中央へ戻った瞬間、その進路上にはすでに巨大な刃が持ち上がっていた。
昨日のキース戦と同じだ。
ガルディオは速い相手を追わない。
どれだけ速く動こうと、最後にはどこかへ到着する。なら、その途中を追うのではなく、相手が行きたい場所を先に潰せばいい。
フランが《レイ・シフト》を使った瞬間、ガルディオはフランではなく、その視線が一度向いた中央を見ていたのだ。
「《巨断》!」
大剣が振り下ろされた。
フランには、もう完全に避けるだけの時間がなかった。
短剣を上げる。
「駄目!」
私の声と金属音が重なった。
大剣と短剣が真正面から激突し、耳の奥まで震えるような轟音が闘技場へ響き渡る。フランは刃を止めようとはせず、短剣を斜めに傾けて衝撃を横へ逃がそうとしたが、それでもガルディオの一撃は重すぎた。
右腕が大きく沈む。
包帯の巻かれた前腕が震え、フランの顔が苦痛に歪んだ。
短剣が石床すれすれまで押し込まれる。
それでも手は離さない。
ガルディオは押し切ろうとした。
「その腕じゃ、二度は受けられねえだろ」
「……一回も、受けたくなかったですけどね」
フランは歯を食いしばりながら答えた。
ガルディオの言うとおりだった。
右腕が震えている。
治療した筋へ、また強い負荷が掛かった。
同じ受け方はもうできない。
でも、フランは押し負けながらもガルディオの顔ではなく、足元を見ていた。
「何見てるの……?」
私には分からなかった。
ガルディオは右足を前へ置き、左足を後ろへ引いている。大剣を押し込むため、身体全体が前傾していた。
フランが突然、短剣から力を抜いた。
「なっ――」
押し込んでいた大剣が一気に前へ落ちる。
ガルディオもすぐに止めようとしたが、あれだけの重量を身体ごと押し込んでいた直後では完全には止まれない。
フランが右へ身体を逃がす。
大剣が石床へ激突した。
その横を抜ける。
今度こそ懐。
観客席が沸いた。
でも私は喜べなかった。
そこはガルディオが一番捕まえやすい場所でもある。
案の定、ガルディオは大剣を捨てた。
柄から両手を離し、そのままフランへ向き直る。
左手が伸びる。
フランは止まらない。
「フラン!」
肩へ手が届く直前、フランが身体を沈めた。
掴みを避ける。
ガルディオはすぐに腕を下げた。
逃がさない。
今度は腰。
フランが一歩横へずれる。
ガルディオも追う。
距離が近すぎる。
短剣を大きく振れば腕を取られる。
ガルディオの拳も十分に振れない。
互いの肩がぶつかりそうな距離で、二人の足だけが激しく位置を変えた。
フランが右へ。
ガルディオも右へ。
左へ切り返せば、その前へガルディオの足が置かれる。
「逃げ道を塞いでる……!」
キース戦の最後と同じだった。
ガルディオは相手より速く動いているわけではない。
フランが次に踏み出したい場所へ、自分の足を先に置いている。
フランが前へ出ようとする。
ガルディオが身体を寄せる。
短剣を使おうとすれば手首を狙われる。
離れようとすれば肩を押される。
フランのほうが小さく、速い。
それでも、この距離ではその小さささえガルディオに利用されている。
「捕まったら終わる……」
私が呟いた瞬間、フランの右足が止まった。
ガルディオの左手が肩へ伸びる。
今度こそ避けられない。
そう思った。
でもフランは、ガルディオから離れなかった。
逆だった。
自分からさらに一歩近づいた。
「え?」
ガルディオの手がフランの肩を越える。
近すぎた。
掴もうとした腕の内側へ、フラン自身が入った。
短剣を振る空間もない。
それでもフランは攻撃しなかった。
ガルディオの胸へ左肩を当て、身体を横へ滑らせる。
「《レイ・シフト》!」
今度の《レイ・シフト》は逃げるためではなかった。
ほんの一歩。
ガルディオの身体へ触れそうな距離を、外側から内側へすり抜けるためだけに使った。
ガルディオが振り向く。
フランはもう背後にいる。
短剣が届く。
それでもフランは振らなかった。
「何で!?」
私が思わず声を上げる。
ガルディオも同じ疑問を持ったらしい。
振り向きながら左腕を守る。
でも攻撃は来ない。
フランはそのまま二歩離れた。
二人の距離が開く。
そして初めて、ガルディオの背後に境界線が見えた。
「あ……」
さっきまで境界線を背負っていたのはフランだった。
今は逆。
フランはガルディオを斬るために背後へ入ったんじゃない。
位置を入れ替えるために入った。
ガルディオも気づいた。
一度だけ背後を見る。
境界線まで、まだ十分な距離はある。
すぐ場外になる位置ではない。
それでも、さっきまで自分が握っていた試合場の中央をフランに奪われている。
「なるほどな」
ガルディオが大剣のところへ戻ろうとする。
フランは追わない。
中央に立ったまま、短剣を構える。
ガルディオが大剣を拾う。
「斬れる位置だったぞ」
「はい」
「何で斬らなかった?」
フランは右腕を一度だけ振った。
まだ震えている。
「今斬っても、たぶん浅いです。それより――」
フランが足元を見る。
「こっちのほうが大事だったので」
ガルディオが笑った。
「試合場か」
「昨日、キースさんを押し出したの見てたので」
「俺の真似か?」
「少し違います」
フランは短剣を構え直した。
「ガルディオさんが教えてくれたんです。相手を倒せなくても、場外に出せば勝てるって」
歓声がまた大きくなる。
でもガルディオは笑ったままだった。
「いいぞ」
大剣を両手で持つ。
「じゃあ、ここからどう出す?」
その言葉で、私も気づいた。
位置を入れ替えただけ。
まだ勝ってはいない。
むしろフランの右腕は、さっきの《巨断》を受けたせいで明らかに悪化している。
ガルディオは境界線を背負った。
でも大剣は戻った。
そして今度は、自分が外へ追い込まれることも分かっている。
同じ方法はもう通じない。
フランも分かっているらしい。
右手の短剣を一度見たあと、左手を柄へ添えた。
持ち替えるのかと思った。
でも違う。
右手を離した。
短剣が左手へ移る。
観客席がざわめいた。
カイル戦の最後と同じ。
傷の残る右腕へ固執しない。
使えないなら、捨てる。
ガルディオの目が細くなる。
「左でやる気か」
フランが左手の短剣を一度だけ振った。
右ほど速くない。
構えも少しぎこちない。
それでも、右腕を守ることはできる。
「使えるものは使います」
「利き腕じゃなくても?」
「使えない右手にこだわるよりは」
その言葉に、ガルディオの口元がまた上がった。
昨日、自分がキース相手に大剣を捨てたように。
今度はフランが、自分の利き腕へ固執することを捨てた。
試合はまだ終わっていない。
むしろここから、二人とも一度目の戦い方を捨てた。
ガルディオはもう、フランを単純に境界線へ追い込めない。
フランも右腕と《インセント・フラッシュ》へ頼れない。
残ったものだけで、もう一度勝ち方を作らなければならない。
私はいつの間にか、座席の前まで身を乗り出していた。
怖い。
それ以上に、目を離せなかった。
準々決勝は、ようやく本当の勝負へ入ろうとしていた。




