第129話 読ませる剣
本戦二回戦の朝、フランは宿の裏庭で右手を開いたり閉じたりしていた。
昨日までは肩近くまで巻かれていた包帯も、今朝には肘から手首までの薄いものへ変わっている。治療師から短剣を振る許可も出たらしいけれど、完全に治ったわけではない。強く握り込めばまだ痛みがあり、《ルミナス・クロス》のように一度の踏み込みから二撃を高速で繋ぐ技は、何度も使わないよう念を押されていた。
「本当に大丈夫?」
私が聞くと、フランは右手をゆっくり握り、また開いた。
「昨日よりずっといいよ。普通に斬るなら問題ないと思う」
「普通じゃない斬り方は?」
「痛いかも」
「じゃあやらないで」
「必要なかったらね」
そこは「やらない」と言ってほしかった。
フランは腰から短剣を抜くと、白い光を出さずに二度だけ軽く振った。速度も普段よりかなり抑え、本当に感触を確かめただけで鞘へ戻す。レグル戦の直後なら、そのまま《ルミナス・クロス》を試していたかもしれないが、少なくとも今は自分の身体にも限界があると理解し始めている。
リリィもそれを確認してから尋ねた。
「カイルの対策は考えた?」
「いくつか。でも最初から一つに決めるのはやめた」
「どうして?」
私が聞くと、フランは昨日の試合を思い返すように答えた。
「カイルさんって、こっちが何を見てるかまで使うんだよ。右肩を見て右から来ると思えば左へ変えるし、最後まで待てば本当に右から斬る。だから『この動きをしたら、この攻撃』って決めたら、たぶん僕のほうが先に騙される」
カイルは何をしてくるのか分からないのではない。相手がどう反応するかを見るまで、自分でも最後の攻撃を決めていない。だから予備動作を読んでも、そのあとから変えられる。
「じゃあ見ないの?」
「それも無理かな。見ないで戦ったら普通に斬られると思う」
結局、見るしかない。
でも、今までと同じ見方では駄目。
その答えをまだ持たないまま、私たちは闘技場へ向かった。
本戦二回戦ともなると、街の熱気は初日以上だった。三百二十七人いた参加者は十六人まで減り、大通りに並ぶ旗もその十六人の名前だけになっている。
中央の試合場は変わらない。
でも、そこへ立つ人は半分になった。
司会者が十六人の名前を読み上げていく。
ナディア、ガルディオ、そしてフラン。三人とも残っている。
ナディアは今日も灰色の外套と仮面で姿を隠し、他の参加者から少し離れた場所に立っていた。昨日ドーガの《崩岳》を返したことで観客からの注目はさらに増しているのに、本人は歓声にも応えず、誰かと話すこともない。
フランの名前が呼ばれた。
私が手を振ると、今日はすぐにこちらを見つけた。右腕も自然に下ろしている。昨日よりは動く。それだけでも少し安心した。
二回戦最初の試合が終わり、次の参加者が呼ばれる。
「本戦二回戦! 一回戦で長槍使いレグルを破った短剣使い――フラン!」
昨日より大きな歓声が上がった。
反対側からカイルが現れる。
「対するは、同じ構えから無数の攻撃を生み出す変幻の剣士――カイル!」
カイルは昨日と同じ細身の剣を抜き、中央へ歩いていった。
二人が向かい合う。
「腕、治った?」
カイルが最初に聞いた。
「かなり」
「完全じゃない?」
「そこまで教えたら狙うでしょ」
「もちろん」
カイルが笑い、フランも少し笑った。
「じゃあ秘密です」
会話だけなら穏やかだったけれど、互いの視線はすでに相手の身体を見ている。カイルはフランの右腕を、フランはカイルの全身を観察していた。
審判が腕を下ろす。
「始め!」
先に動いたのはカイルだった。
昨日と同じように一歩踏み込み、右肩を前へ出す。フランは動かず、実際に右側から剣が走ったところで初めて短剣を合わせた。
金属音が響く。
そこまでは普通だった。
ところがカイルは、剣同士がぶつかったあとで身体を沈めた。左足をフランの右足へ掛けようとし、フランが先に足を引けば、その動きを見て今度は剣を負傷している右腕へ流す。
フランは後ろへ跳んだ。
最初の攻防だけで、昨日見た厄介さがそのまま現れていた。最初から足を掛けると決めていたわけではなく、剣を防がれたから足へ変え、足を避けられたから右腕へ変えた。相手の反応を見てから、その都度続きを選んでいる。
二度目の踏み込みでも、カイルは同じように右肩を前へ出した。
今度は左から剣が来る。
フランが身体を引くと、カイルは途中で止めた。
フランも追わない。
ほんの一瞬だけ、二人が何もしていない時間が生まれる。
そこへフランが踏み込んだ。
「《インセント・フラッシュ》!」
白い一閃が走った。
カイルは受けずに後ろへ下がり、フランも追撃しない。
「今の、当てる気なかった?」
私が聞くと、リリィが小さく頷いた。
「たぶん。カイルがどう反応するか見たんだと思う」
三度目。
カイルが右肩を出した瞬間、今度はフランの短剣も動いた。
カイルが止める。
フランも止める。
カイルが左へ変えれば、フランも軌道を変える。
互いに攻撃を最後まで出さないまま、相手が何を選ぶのか待ち始めた。派手な斬撃はなく、剣同士もほとんどぶつからないのに、さっきより緊張する。
「フランも、決めるのを遅くしたんだ」
リリィの言葉で分かった。
カイルが最後まで攻撃を決めないなら、フランも最初から防ぎ方を決めない。右から来るとも左から来るとも予測せず、相手が選ぶまで自分も選ばない。
ただし、その戦い方を何年も続けてきたカイルと、今日初めて真似したフランでは経験が違った。
右肩を見せたカイルに対して、フランが短剣を上げる。
カイルは斬らず、さらに一歩深く入った。
フランが下がったところへ剣が走る。
右腕。
フランが受ける。
金属音が響いた瞬間、カイルの左足が動く。
フランは足を掛けられる前に引いたが、カイルはそこで足技を捨て、そのまま身体を回して反対側から剣を返した。
今度は間に合わない。
フランの肩から血が飛んだ。
「フラン!」
傷は浅い。
それでもカイルは追撃せず、距離を取った。
「真似するだけじゃ無理だよ。俺は何年もこれやってる」
フランは肩の傷へ触れ、指についた血を一度見た。
「そうみたいですね」
「だったらどうする?」
「真似するのはやめます」
フランは短剣を身体の正面から外し、右側へ下げた。
カイルが目を細める。
「もうやめるの?」
「はい。向いてなかったので」
「早いな」
「使えないものを持ってても仕方ないですから」
その言葉で、昨日のガルディオを思い出した。
真似してみた。
通じなかった。
だから捨てる。
失敗した戦い方へ固執しない。
カイルが再び踏み込んだ。
右肩。
今度のフランは肩を見なかった。
視線を少し低く置き、カイルの胸と腰の間あたりを見る。そこなら肩も腕も腰も足も、視界の端へまとめて入る。
カイルが右から斬る。
フランは身体をずらす。
次は左。
それも避ける。
攻撃を読むというより、実際に身体全体が動き始めてから必要なぶんだけ外している。
「それじゃ遅いだろ!」
カイルが速度を上げた。
右肩を見せて下段へ変え、避けられれば足を掛けようとし、それも外されれば追いながら剣の軌道を変える。フランは少しずつ押され、頬を剣先が掠め、服にも新しい裂け目が増えていった。
それでも、さっきほど大きく騙されなくなっている。
一つの場所を凝視して未来を予測するのではなく、全身を広く見て、実際に起きたことへ対応しているからだ。
「悪くない」
カイルが笑った。
「でも、それじゃ最後に変えた俺のほうが速い」
その通りだった。
カイルは相手の反応を見てから変えることに慣れている。フランが全身を見ても、最後の一手では少しずつ遅れる。
また右肩。
剣は左。
フランが避ける。
カイルが途中から右へ変える。
今度こそフランも右へ――動かなかった。
カイルの剣が迫る。
フランは後ろではなく、一歩前へ出た。
剣先が最大速度へ達する前に、その根元へ飛び込む。
短剣が下から滑り込んだ。
「《ドゥー・アライズ》!」
カイルの剣が跳ね上がる。
フランが懐へ入った。
カイルはすぐに左手を伸ばし、負傷している右腕を掴もうとする。フランは身体を捻って外したものの、攻撃できる位置まで入ったにもかかわらず短剣を振らず、一歩下がった。
二人の距離が開く。
「今、入れたのに」
私が思わず言った。
でもフランは焦っていない。
カイルの顔を見ていた。
初めて、少し驚いている。
「なるほど」
カイルが剣を戻した。
「最後まで見るのをやめたんだ」
その言葉で、フランが何を探していたのか分かった。
カイルが強いのは、最後まで攻撃を決めないから。
右から左、斬撃から足、攻撃から回避へと、相手の反応を見てより有利な選択へ変えられる。
でも、攻撃を変えるためには必ず一度、最初の動きを捨てなければならない。右から斬ろうとした剣を左へ変えるなら、右へ向かっていた力を止める。足を掛けようとして斬撃へ戻るなら、足技を捨てる。
どれだけ短くても、そこには必ず、最初の攻撃でも次の攻撃でもない瞬間が生まれる。
フランは何が来るのかを当てようとするのをやめた。
カイルが選び直す瞬間だけを見ることにした。
もう一度、カイルが踏み込む。
右肩。
フランは待つ。
左から剣。
フランが身体を外す。
カイルが右へ変えようとした瞬間、フランが前へ出た。
カイルは攻撃変更を中断し、後ろへ跳ぶ。
今度は当たらない。
でも、互いに分かった。
カイルはもう、好きなだけ攻撃を変えられない。
変えれば、その瞬間にフランが入ってくる。
「見つけたな」
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ二回なので。一回だけなら偶然かもしれないから」
カイルが笑った。
「慎重だな」
「一回で決めると、よく間違えるので」
そこから攻防が変わった。
カイルが最初の攻撃をそのまま出せば、フランは普通に避ける。途中で変えれば、フランが前へ出る。だからカイルも簡単には変更できず、フランも相手が本当に変えたのか、それとも変えるふりなのかを確かめなければならない。
互いに一つずつ相手の自由を奪い、攻撃の回数は減ったのに緊張だけが増していった。
やがてカイルが構えを変えた。
右肩を前へ出す。
昨日、シグを倒した形。
「《虚閃》」
カイルが踏み込む。
フランは動かない。
まだ攻撃は決まっていない。
距離が縮まる。
あと二歩。
カイルの視線がフランの右腕へ落ちた。
負傷している場所。
フランの短剣がわずかに上がる。
カイルはそれを見た。
剣が動く。
右腕ではない。
左肩。
フランが短剣を合わせようとする。
そこでカイルが変えた。
狙いが胸へ移る。
その瞬間だった。
「《レイ・シフト》!」
フランが斜め前へ滑った。
カイルが攻撃を選び直した、わずかな空白へ飛び込む。
剣はまだ胸へ向かう途中。
フランの短剣が白く光った。
「《インセント・フラッシュ》!」
カイルも反応した。
すぐに剣を戻す。
二つの刃が激突し、白い光が弾けた。
フランの右腕が大きく震える。
傷はまだ残っている。
力比べはできない。
カイルもそれを知っているから、そのまま剣を押し込んだ。
フランの腕が少しずつ沈む。
それでも《ルミナス・クロス》へは繋げなかった。右腕へさらに負担を掛ける二撃目を選ばず、短剣から自分で力を抜く。
押し込んでいたカイルの剣が前へ流れた。
その横へフランが身体をずらす。
昨日のガルディオが、必要なくなった大剣を迷わず捨てたように、フランも《インセント・フラッシュ》の競り合いを途中で捨てた。
技を出したから、最後まで押し切る必要はない。
勝つために必要なくなったなら、途中でやめればいい。
カイルの身体が前へ流れる。
フランはその横へ入り、短剣を走らせた。
カイルも身体を捻ったものの、完全には避けきれず、刃が胸元の服を浅く裂いた。
初めて、フランの攻撃が届いた。
二人はすぐに離れる。
カイルが切れた服へ触れた。
血はほとんど出ていない。
それでも、その笑みが少し変わった。
「昨日のガルディオ、見てた?」
「見てました」
「だろうな。技を途中で捨てる奴なんて、そう多くない」
カイルは胸元の裂けた服から手を離すと、剣を正面へ戻した。
さっきまでの笑みは残っている。
でも、構えが変わっていた。
右肩を大きく見せない。
剣も身体の中央近くへ置き、左右どちらへでも最短距離で動かせるようにしている。
フランに《選び直す瞬間》を狙われるなら、選び直さなければいい。
「今度は最初から決めてくる?」
私が呟くと、リリィは少し考えて首を横へ振った。
「たぶん逆。変える回数を減らすんだと思う」
カイルが踏み込んだ。
今度は肩で何も見せない。
小さな突きがフランの胸へ伸びる。
フランが短剣を合わせようとした瞬間、カイルは剣を引かず、手首だけを返して刃先を右腕へ滑らせた。
フランが腕を引く。
そこへカイルの左足が入る。
足払い。
フランは跳ばない。
右足だけを後ろへ引く。
カイルは足技を途中で捨てなかった。
そのまま身体を寄せ、左肩をフランの胸へぶつける。
「うっ!」
フランが二歩下がった。
カイルは追う。
今度は横薙ぎ。
フランが頭を下げる。
カイルは軌道を変えない。
最後まで振り切る。
避けられても構わない。
その勢いを利用して身体を一回転させ、戻ってきた剣を今度は下から斬り上げる。
フランが短剣で受けた。
金属音が響く。
「変えなくなった……」
さっきまでのカイルは、相手が守れば攻撃を変えていた。
今は違う。
避けられても、その攻撃を最後まで出す。
防がれても、次の動きへそのまま繋げる。
《選び直す瞬間》そのものを減らしている。
「でも、それなら普通の剣士と同じじゃない?」
私が聞くと、フランの表情を見ていたリリィが答えた。
「完全には違うと思う」
その意味は、次の攻防ですぐに分かった。
カイルが踏み込む。
小さな突き。
フランが避ける。
今度も最後まで伸ばす。
そう思った。
カイルの剣が止まった。
「え?」
さっきまでは変えなかった。
だから今度も変えないと思った。
でも、カイルは変えた。
突きを途中で引き、剣を横薙ぎへ切り替える。
フランは反応したものの、完全には避けきれない。
胸元の服が切れた。
「そういうことか……」
リリィが呟く。
私にも分かった。
最初は毎回変えていた。
フランに変更の瞬間を狙われると、今度は何度も変えずに攻撃した。
そのせいでフランの中に、
今度は変えない。
という新しい予測が生まれた。
そこへ、また変更を混ぜる。
「どっちを読んでも利用される……」
カイルは一つの攻撃だけで騙しているのではなかった。
何度か同じ選択を続け、相手の中に「次も同じだろう」という予測を作る。
そこまで含めて、次の攻撃に使っている。
「さっきの弱点、消されたね」
リリィが言った。
フランも分かっている。
カイルが攻撃を変える瞬間だけ狙えばいい。
その答えは、もう答えではなくなった。
カイルは変更そのものを減らし、フランが「今回は変えない」と判断したときだけ変更する。
しかも今度は、剣だけではない。
突きから足。
横薙ぎから体当たり。
攻撃を最後まで出したあとの回転。
選択肢そのものが増えている。
カイルがさらに距離を詰めた。
フランは受ける。
避ける。
必要なところだけ短剣を合わせる。
それでも少しずつ傷が増えていく。
右腕はまだ万全ではない。
強く受ければ痛む。
だからフランは正面から剣を止める回数を減らしている。
カイルもそこを狙っていた。
「右、まだ痛むだろ?」
答える必要はない。
フランは黙っている。
「受けるときだけ、ほんの少し左足が先に下がる」
フランの表情が変わった。
今度はカイルが見つけている。
右腕で強い衝撃を受けたくない。
だから剣がぶつかる直前、身体を後ろへ逃がして衝撃を減らしている。
その最初の動きが左足に出る。
「お互い見てる……」
フランだけではない。
カイルもフランを観察し続けている。
右腕の傷。
避け方。
受け方。
どの技を使ったあとに痛みが出るのか。
全部を見ながら、自分の攻撃へ組み込んでいる。
カイルが右から斬る。
フランの左足が下がった。
そこへ剣を押し込まない。
カイルは一歩深く入り、フランが逃がそうとした身体のほうへ自分の肩をぶつける。
体勢が崩れる。
次の突きが右腕へ向かう。
フランは短剣で受けた。
右腕が震える。
カイルが押す。
フランが下がる。
境界線まで、あと六歩ほど。
「まずいよ……」
フランのほうが傷は多い。
長引けば右腕が先に限界へ来る。
《ルミナス・クロス》を使えば突破できるかもしれない。
でも、それを何度も使えないことはカイルも知っているはずだ。
カイルが距離を取った。
「どうする?」
「考えてます」
「時間やろうか?」
「攻撃しながら言わないでください」
カイルが笑いながら踏み込む。
また剣。
フランは避ける。
カイルが追う。
境界線まであと五歩。
右から来る。
フランが短剣で受ける。
あと四歩。
カイルは剣を引くふりをして、そのまま肩をぶつけた。
フランが下がる。
あと三歩。
「フラン!」
私の声が届いたかは分からない。
フランは境界線を確認しなかった。
カイルだけを見ている。
「追い込まれてるのに……」
「たぶん、見てる」
リリィが言う。
「何を?」
「まだ分からない」
フランが下がる。
カイルが追う。
でも、よく見るとフランは真っ直ぐ後ろへ下がっていなかった。
少し右。
次は左。
カイルが剣を振るたび、受ける位置を微妙に変えている。
何をしているのか分からない。
カイルも気づいていないようだった。
あと二歩。
カイルが踏み込む。
右肩。
今度は本当に右から来た。
フランが短剣を合わせる。
金属音。
右腕が震える。
カイルは押し込む。
「もう下がれないぞ」
フランが少し笑った。
「そうですね」
「何がおかしい?」
「やっと分かりました」
カイルの表情が変わった。
「何が?」
「カイルさん、攻撃を変えるときと変えないときは読めない。でも――」
フランが短剣を押し返そうとする。
カイルが力を入れる。
右腕が痛む。
フランの顔が歪んだ。
それでも続ける。
「僕が下がる方向は、ずっと選んでたんですね」
「……何?」
私も意味が分からなかった。
リリィが先に試合場を見る。
フランが下がってきた場所。
カイルが立っている位置。
そして境界線。
「あ……」
カイルはフランを境界へ追い込んでいた。
でも、ただ真っ直ぐ追っていたわけではない。
フランが右へ逃げれば、左から剣を出して中央へ戻す。
左へ逃げれば、右から攻撃して進路を塞ぐ。
フランを最短距離で境界へ追い込むため、攻撃の種類は変えても、フランを移動させたい方向だけは一貫していた。
「攻撃は選んでから変えられる。でも、相手をどこへ動かしたいかまで毎回変えたら、自分の位置取りが崩れる……」
リリィの声が少し弾んだ。
カイルは攻撃を決めていない。
でも目的は決めている。
相手を右へ動かす。
左へ逃がさない。
境界へ押す。
その目的に合わせて攻撃を選ぶ。
だから、どれだけ剣の軌道を変えても、カイル自身の立つ位置だけは一定の法則で動いていた。
フランが見つけたのは技ではない。
カイルが何のために技を選んでいるか。
「やっと見つけた」
フランが呟いた。
カイルは剣を押し込む。
「見つけても、もう遅い。あと一歩だ」
フランの背後には境界線。
カイルが一度距離を作った。
決めるつもりだ。
右肩を前へ。
「《虚閃》!」
カイルが踏み込む。
フランは待つ。
右。
左。
胸。
どこへ来るかは分からない。
でも、それでいい。
カイルが欲しいのは、フランを後ろへ下がらせる攻撃。
フランが一歩下がれば場外になる。
だから最後の攻撃だけは、避けた相手を前へ逃がす形にはできない。
カイルの剣が右から走った。
フランは左へ避ける。
カイルが変える。
下段。
フランは足を引かない。
カイルがさらに変える。
突き。
胸へ。
フランが笑った。
「そこだ」
カイルが突きを選んだ瞬間、フランは後ろではなく斜め前へ出た。
カイルの右側。
さっきまでならカイルは剣を変えた。
でも今は変えられない。
フランを後ろへ押し出すために深く踏み込み、自分の身体まで前へ出している。
ここから横薙ぎへ変えれば、フランを境界の外ではなく中央へ逃がしてしまう。
だから突きを続けるしかない。
「《レイ・シフト》!」
フランが剣の外側へ滑った。
カイルの突きが脇を抜ける。
二人の位置が入れ替わった。
今度はカイルの背後に境界線がある。
「しまっ――」
カイルが振り向く。
フランは追う。
短剣が白く光る。
「《インセント・フラッシュ》!」
カイルは受ける。
剣同士がぶつかった。
白い光が弾ける。
フランの右腕が震えた。
カイルが押し返す。
「同じだ! その腕じゃ押し切れない!」
「はい」
フランはあっさり認めた。
そしてまた、力を抜いた。
カイルの剣が前へ流れる。
フランが横へ入る。
さっきと同じ。
カイルも予想していた。
すぐに左手を伸ばし、フランの肩を掴もうとする。
フランは避けない。
左肩を掴ませた。
「え?」
カイルの動きが一瞬止まった。
フランは短剣を振らない。
代わりに、自分の左足をカイルの右足の外側へ置いた。
「これ……」
私は思い出した。
セド戦。
最後に場外へ出したときと同じ。
カイルも気づいた。
「まさか――」
フランが身体を回す。
カイルは肩を掴んでいる。
だから一緒に引かれる。
後ろへ一歩。
境界線が近い。
カイルが手を離す。
でも遅い。
フランが左肩で身体を押した。
カイルの右足が境界線を越える。
まだ左足は中。
カイルが踏ん張った。
「まだだ!」
身体を戻そうとする。
フランの右腕は使えない。
だから押し切れない。
カイルが戻る。
その瞬間、フランが右手の短剣を左手へ投げ渡した。
「えっ?」
空いた右手は使わない。
左手で短剣を逆手に持つ。
刃を向けない。
柄頭をカイルの胸へ当てる。
そして、自分の身体ごと押し込んだ。
カイルの左足も境界線を越えた。
審判の腕が上がる。
「場外! そこまで!」
闘技場が一瞬だけ静まり返った。
「勝者――フラン!」
歓声が爆発した。
私は立ち上がった。
「フラーン!」
今度はメリーまで一緒になって声を上げる。
フランは境界線の内側に立ったまま、しばらく動かなかった。
右腕を庇っている。
でも短剣は左手にある。
勝った。
《ルミナス・クロス》を使わずに。
右腕で最後まで押し切らずに。
カイルは境界線の外から、自分の両足を見た。
それから笑った。
「参った」
フランも息を整えながら笑う。
「危なかったです」
「最後、俺の攻撃じゃなくて、俺がどこへ追い込もうとしてるか見てたのか」
「途中からです。技だけ見てたら分からなかったので」
カイルは少し考え、それから頷いた。
「なるほどな。俺は攻撃を決めてなかった。でも勝ち方は決めてた」
「はい」
「そこを読まれたか」
二人が握手を交わした。
カイルが退場していく。
フランも観客席へ一度だけ手を上げた。
でも、私はすぐに右腕を見る。
短剣を左手へ持ち替えたままだ。
試合中、一度も《ルミナス・クロス》を使わなかった。
それでも勝った。
昨日ガルディオから見たものが、ちゃんと今日の戦いへ繋がっている。
技を増やすだけではない。
必要のない技を使わない。
相手の攻撃そのものではなく、その奥にある目的を見る。
フランの戦い方が、少しずつ変わり始めていた。
審判が本戦表の名前を書き換える。
三十二人から十六人。
そして今、フランはその半分――八人へ残った。
準々決勝進出。
闘技場の歓声を聞きながら、私は大きく息を吐いた。
次からは、もう八人しかいない。
そしてその八人の中には、ガルディオも、灰色の外套をまとったナディアも残っていた。




