第128話 大剣を捨てる男
ナディアが通路の奥へ消えたあとも、闘技場にはしばらく大きなざわめきが残っていた。
予選で見せた不可解な能力には、すでに対策が考えられていた。ドーガは実際にその条件を読み、触れられた直後には力を抜くことで何度も発動を防いでいる。それでも最後に勝ったのはナディアだった。
能力を知らなければ危険で、知っていても、それを警戒した動きそのものを利用される。
「嫌な相手だな」
オラクルが煙草を咥え直した。
「能力が強いだけの奴なら、種が割れりゃ終わる。あいつは種が割れてからのほうが面倒だ」
「フランと似てる?」
私が聞くと、リリィは少し考えてから、「相手を見て途中で変えるところは。でも、戦い方はかなり違うと思う」と答えた。
隣ではフランが黙ったまま、ナディアが消えた通路を見ていた。右腕は治療師によって固定されており、レグルとの試合から時間が経った今も自由に動かせる状態ではない。
「腕、痛い?」
「じっとしてれば平気」
「じゃあ、じっとしててね」
「分かってるよ」
そう答えた直後、フランの左手が腰の短剣へ向かったので、私は何も言わずその手を見る。視線に気づいたフランは途中で止まり、「抜かないよ。癖だから」と言い訳した。
「練習もしないって約束したよね?」
「見るだけ」
「見るだけから始まるんだよ」
困ったように笑うフランを見れば、レグル戦で生まれた《ルミナス・クロス》をもう一度試したくなっているのは分かった。しかし治療師からは、右腕を休ませるようにはっきり言われている。
強い技を覚えたから次も使う。それだけでは本戦を最後まで戦えない。一度勝っても、その先にはさらに強い相手が待っているのだから、勝利したあとに戦える身体を残しておくことも必要になる。
「次の試合まで何日?」
「十六人の試合は明後日からだって」
「じゃあ今日は絶対休む」
「はい」
今度は素直に答えたので、それ以上は言わなかった。
試合場では、ドーガが壊した石床の修復が終わりつつあった。大会の係員たちが砕けた石を交換し、魔法使いらしい人が表面を固めている。その作業を眺めていると、オラクルが本戦表を確認して身体を起こした。
「次、ガルディオだぞ」
「見る!」
私より先にフランが反応した。
「腕」
「動かしてないよ」
そういう問題ではない気もしたけれど、ガルディオの試合は私も見たかった。
昨日の予選では、長槍と大盾を持った相手に対して途中で自分の大剣を地面へ置いた。巨大な武器を持っているから強いのだと思ったのに、その武器を捨てたあとで相手を盾ごと持ち上げて投げている。
本戦では、どんな戦い方をするのだろう。
整備が終わると司会者が立ち上がり、前大会準決勝進出者としてガルディオの名前を読み上げた。観客席が大きく揺れ、門から巨大な剣を背負ったガルディオが姿を現す。
刃だけでも私の身長より長く、厚みまである。普通なら持ち上げるだけで苦労しそうなのに、本人は片手で柄を掴んだまま中央へ歩いていった。
「対するは、南部闘技都市より参戦! 魔装剣士――ヴァレス!」
反対側から現れた男は、ガルディオほど大きくなかった。身体つきも普通で、武器は片手剣。左腕には小さな円形の盾のようなものを装着している。
「魔装剣士って?」
「武器や防具に魔力通して戦う連中だ。身体強化とはちょっと違う。あの剣と盾に何か仕込んでんだろ」
オラクルの説明を聞いている間に、ヴァレスはガルディオの正面へ立った。
「予選、見させてもらった。力比べをする気はない」
「それがいい。俺も毎回やりたいわけじゃない」
ガルディオが大剣を肩から下ろすと、石床へ剣先が触れただけで重い音が響いた。
ヴァレスも片手剣を構え、左腕の小盾へ魔力を流す。
「《魔装・蒼壁》」
盾の縁から青白い光が広がり、身体の半分以上を覆う大きな盾の形になった。
審判の合図と同時に、ガルディオが大剣を両手で持ち上げる。斜め上から振り下ろされた一撃は、あれほど巨大な武器とは思えないほど速かった。
ヴァレスは避けず、《蒼壁》を正面へ出す。
大剣と光の盾が激突し、轟音とともに空気が震えた。私は反射的に耳を塞いだものの、ヴァレスは立っている。《蒼壁》は激しく揺れていたが、割れてはいない。
「止めた!」
ガルディオも少し驚いたようだった。
ヴァレスは盾で大剣を受けたまま、右手の剣を横へ振る。
「《魔装・蒼牙》!」
刃から伸びた青白い光は剣そのものより長く、身体を引いたガルディオの胸元を掠めて服の表面を浅く裂いた。
そこからヴァレスは、《蒼壁》を前へ出し、その陰から《蒼牙》を伸ばす戦い方へ切り替えた。ガルディオが大剣を振れば盾で受け、重い剣が止まった瞬間だけ反撃する。
二度目の衝突でも《蒼壁》は耐えた。ヴァレスの身体は何歩も横へ滑ったものの倒れず、逆に大剣が止まったところへ《蒼牙》を返し、今度はガルディオの腕へ浅い傷をつける。
「相性悪そう……」
一発の威力ならガルディオが上でも、その一発を防げるなら大剣の大きさは逆に隙になる。
三度目、ガルディオが大剣を振り上げると、ヴァレスはすぐに《蒼壁》を広げた。
ところが攻撃は来なかった。
ガルディオは途中で大剣を止め、何事もなかったように構えを戻す。次も同じで、大剣が動くたびヴァレスが盾を広げるのに、ガルディオは振らない。
最初は何をしているのか分からなかったが、三度目のフェイントが終わったところでリリィがヴァレスの左腕を見ながら呟いた。
「盾の光、薄くなってる」
言われてから見ると、確かに最初ほど強くない。
「出してるだけでも魔力を使うんだ」
ガルディオは《蒼壁》を力で壊そうとしているのではなく、何度も出させることで消耗させていた。
巨大な大剣が動けば、ヴァレスは受ける準備をしなければならない。まともに食らえば一撃で終わる可能性がある以上、フェイントかもしれないと思っても盾を出さざるを得ない。
「力押しじゃないんだ……」
昨日もそうだった。槍の間合いへ入れないと分かったら大剣を置き、今度は《蒼壁》を簡単には壊せないと分かった途端、正面から壊す以外の方法へ切り替えている。
ヴァレスも狙いに気づいたらしい。
「小細工を……!」
「大剣持ってるからって、毎回振る必要はないだろ」
ガルディオは平然と答えた。
このまま盾を出し続ければ不利になると判断したヴァレスは、自分から距離を詰めた。《蒼壁》を前へ出し、《蒼牙》の射程へ入って青い刃を伸ばす。
ガルディオは避けず、大剣の腹を身体の前へ立てた。《蒼牙》がぶつかって青白い魔力が散り、続く二撃目も大剣で受け止める。
ただし、今度はその場に留まらなかった。
大剣を盾として使いながら、一歩ずつ前へ進んでいく。
《蒼牙》の長さがあっても、巨大な剣そのものが壁になっているため、ヴァレスは少しずつ下がるしかない。さっきまで攻撃を防ぐために使っていた《蒼壁》を、今度は押し返されないために展開させられていた。
「来い!」
ヴァレスが盾を最大まで広げる。
ガルディオは大剣を両手で持ち上げ、足を開いて腰を落とした。今までより明らかに力が入っている。
「《巨断》!」
振り下ろされた大剣が《蒼壁》へ衝突し、今までで一番大きな音が響いた。青白い盾が大きく歪み、ヴァレスの両膝が沈んで石床へ細いひびまで走ったものの、それでも《蒼壁》は消えない。
「止めた!」
私が声を上げた。
でもガルディオは、大剣をもう一度振ろうとしなかった。
柄から両手を離し、巨大な剣をその場へ落とすと、《巨断》を受けた直後のヴァレスへ自分だけが踏み込んだ。
「《地砕衝》!」
右拳が光の盾へ叩き込まれ、《巨断》を受けたばかりの青白い壁へ亀裂が走る。ガルディオは間を空けず、同じ場所へもう一発拳を打ち込んだ。
《蒼壁》が砕ける。
ヴァレス自身も驚いていたが、ガルディオは止まらない。盾が消えた瞬間に懐へ入り、《蒼牙》を使おうとした右手首を掴む。
腕そのものを固定されたヴァレスは剣を振れない。
ガルディオはそのまま身体を回し、相手の両足を石床から浮かせた。
昨日と同じ。
人間を持ち上げた。
ただし今度は投げず、そのまま一歩ずつ境界線へ進んでいく。
ヴァレスも空いた左腕で何度も殴ったが、足が地面についていない状態では十分な威力を出せず、ガルディオの歩みを止められない。
最後に身体を押し出され、ヴァレスの両足が境界線の外へ出た。
「場外! 勝者――ガルディオ!」
闘技場が大歓声に包まれた。
試合場の中央には、大剣だけが置き去りにされている。
ガルディオは勝利が決まってからそこへ戻り、巨大な剣を片手で拾い上げた。
「また剣捨てた……」
「必要なくなったからだろ」
オラクルが言う。
「自分の一番強い武器だからって、最後まで持ってなきゃいけねえ理由はねえ」
フランは黙ったまま、その言葉を聞いていた。
右腕の包帯へ視線を落とし、次に腰の短剣を見る。
《インセント・フラッシュ》《ドゥー・アライズ》《レイ・シフト》、そして今日生まれた《ルミナス・クロス》。フランの技は増えているが、技が多いほど必ず強いわけではない。
ガルディオは大剣使いなのに、必要がなくなれば迷わず大剣を捨てた。
「フラン」
「うん?」
「今、技を使わないで勝つ方法とか考えた?」
フランが驚いた顔で私を見る。
「何で分かったの?」
「何となく」
少し嬉しい。
フランはもう一度試合場へ目を向けた。
「レグルさんとの最後、僕は技をどう繋げるかばかり考えてた。でもガルディオさんは逆だね。使えるものを増やすんじゃなくて、いらなくなったものを途中で捨ててる」
「どっちが正しいの?」
「どっちもだと思う。必要なら使うし、必要なければ使わない。それだけなのかも」
リリィが横から、「その前に腕治してね」と釘を刺すと、フランは素直に右腕を引っ込めた。
ガルディオが退場し、次の試合へ向けて石床の整備が始まる。
私は本戦表を見た。
フラン、ナディア、ガルディオは全員一回戦を突破し、三十二人だった名前が少しずつ半分へ減っている。
「次のフランの相手は今日決まるの?」
「次の試合だな」
オラクルが本戦表を確認した。
フランの名前から伸びる線。その先には《カイル》と《シグ》という二人の名前が並んでいる。どちらかが勝ち、明後日フランと戦う。
「じゃあ見なきゃ」
フランが姿勢を正す。
「腕は動かさないでよ」
「見るだけだって」
やがて次の参加者が入場した。
一人は細身の剣士カイル。
もう一人は二本の湾曲した剣を持つシグ。
司会者が名前を読み上げ、審判が二人の間へ入る。
フランの次の相手を決める試合。
今までの観戦とは意味が違う。
審判の腕が下がると、先に動いたカイルは一歩踏み込み、右肩を大きく前へ出した。
剣が右から来る。
私にはそう見えたし、シグも同じ判断をしたらしい。
ところが次の瞬間、刃は反対側から現れていた。
シグの反応がわずかに遅れ、カイルの剣先が肩を浅く切る。
二度目の攻撃でもカイルの右肩が先に動いたため、今度こそ右から来ると考えたのか、シグは右側へ一本目の剣を構えた。
しかしカイルは踏み込みの途中で身体を沈め、剣を下から跳ね上げる。
シグは二本目の湾曲剣でどうにか受けたものの、体勢を崩して後ろへ下がった。
「分かりにくい……」
同じ予備動作から違う攻撃が出ている。
右肩が動いたから右、腰が沈んだから下。
そういう見方をした瞬間に外される。
フランは何も答えず、右腕を固定されたまま身体を少し前へ傾けていた。カイルの肩や剣先だけではなく、足の運びから腰、視線まで含めて全身を追っている。
試合場ではシグも、最初の二撃だけでカイルの厄介さを理解したらしい。二本の湾曲剣を身体の左右へ広げると、今度は相手の肩や剣先を追うのをやめ、攻撃が実際に始まるまで動かない構えへ切り替えた。
「肩だけ見せて、斬る場所を変えてやがるのか。だったら、剣が来てから止める」
カイルは答えず、三度目の踏み込みに入った。
また右肩が前へ出る。
シグは動かない。
カイルの剣が右側から本当に走ったところで、ようやく左手の湾曲剣を合わせる。
金属音が響いた。
「今度は防いだ!」
シグは受け止めた反動を利用し、空いていた右手の湾曲剣をカイルの脇腹へ走らせた。攻撃を見てから防ぐことにしたことで、ようやくカイルの誘いへ乗らずに反撃まで繋げたのだと思った。
ところがカイルは、受けられた自分の剣を無理に引かなかった。
ぶつかった反動に身体を預けるように半回転し、シグの二撃目を服の端だけで避ける。その回転が終わるより早く左足を伸ばし、攻撃へ踏み込んでいたシグの前足へ引っ掛けた。
シグの身体が傾く。
転倒するほどではない。
しかし、脇腹を狙っていた二撃目はそこで止まった。
カイルは追撃せず、足を戻すと同時に距離を取る。
「今のも最初から狙ってたのかな?」
私が聞くと、フランは少し考えてから首を横へ振った。
「たぶん違う。最初から足を掛けるつもりなら、もっと早く身体を寄せてたと思う。シグさんが二本目を振ったから、その場で変えたんじゃないかな」
「じゃあ、攻撃する前に何をするか決めてないの?」
「全部は決めてないんだと思う」
フランの視線はカイルから離れなかった。
「踏み込みまでは同じにして、相手がどう反応したかを見てから最後だけ変えてる。だから肩を見ても、足を見ても、それだけじゃ次の攻撃が決まらない」
その説明を聞いて、ようやくカイルの動きが分かりにくい理由が見えてきた。
今までフランが戦った相手には、それぞれ攻撃へ入る前の形があった。
レグルなら《風穿》の前に右足を固定する。
ミレアなら拳へ魔力を集める前に軸足へ体重が移る。
そこを見れば、攻撃が来る前に準備できた。
でもカイルは、準備と攻撃をわざと切り離している。
同じ踏み込みから右にも左にも斬れる。
相手が待てば本当に斬る。
先に守れば別の場所へ変える。
「見るのが上手い相手ほど、引っ掛かるってこと?」
私が言うと、フランは小さく頷いた。
「たぶん」
それなら、フランにとってかなり嫌な相手だ。
シグも同じ結論へ近づいたのかもしれない。
待って防ぐだけでは、カイルが最後まで攻撃を決めない。
なら、考える時間そのものを与えなければいい。
「だったら俺から行く!」
シグが地面を蹴った。
二本の湾曲剣が左右へ広がる。
「《双月・乱輪》!」
右から斬撃が来る。
カイルは剣で受けた。
間を空けず、左の湾曲剣が反対側から走る。
身体を引いて避ける。
そこへ右。
さらに左。
二本の刃が交互に回転し、カイルの周囲から逃げ道を削っていく。
カイルはさっきまでのように自分から仕掛けられない。
一撃目を避けても、二撃目が来る。
二撃目を受ければ、その反動が消えるより先に三撃目。
シグは二本の武器を使い、カイルが相手を見て攻撃を選ぶ時間そのものを奪おうとしていた。
「今度はシグが押してる」
私は境界線を見る。
カイルが少しずつ下がっている。
それでも無理に反撃しようとはしなかった。
受ける。
避ける。
身体をずらす。
必要なときだけ剣を使い、攻撃するためではなく、シグの連撃を途切れさせないために動いているようにも見えた。
「何で反撃しないんだろう」
「できないんじゃなくて、まだしないんだと思う」
フランが答えた。
「シグさんの連撃にも順番があるから」
「順番?」
「右、左、右、左って単純なことじゃなくて、どの攻撃のあとなら次を一番速く出せるか決まってる。カイルさん、それを見てる」
私は二本の湾曲剣を追ってみた。
速すぎて全部は分からない。
でも、カイルは同じ場所へ下がっているわけではなかった。
右の刃には少し左。
左の刃には身体を沈める。
ときどき剣で受ける。
何度も同じ連撃を受けながら、少しずつ避け方を変えている。
シグがさらに速度を上げた。
「《双月・乱輪――六連》!」
右、左と続く斬撃が、さっきまでより短い間隔で繋がった。
カイルは一撃目と二撃目を身体だけで避け、三撃目を剣で受ける。四撃目には姿勢を低くし、五撃目を後ろへ下がって外した。
境界線まで、あと一歩。
六撃目の右剣が横から迫る。
カイルの右肩が動いた。
シグが反応した。
これまで何度も見せられた予備動作。
カイルが反撃してくる。
そう判断したのか、シグは六撃目を振り切りながらも、左の湾曲剣を身体の正面へ戻そうとした。
でもカイルの剣は来なかった。
右肩を動かしただけ。
そのまま半歩後ろへ下がる。
「場外!」
私は思わず声を上げた。
しかし踵は、白い境界線の内側ぎりぎりで止まっていた。
六撃目を振り切ったシグの右腕は外へ流れ、反撃を警戒して戻しかけた左の湾曲剣は身体の中央にある。
二本とも、次の攻撃には使えない。
その瞬間だけ、シグの胸元が空いた。
カイルが前へ出る。
「《虚閃》」
初めて、はっきりと技名を口にした。
右肩は動いている。
でも、そこから剣を振るわけではない。
肩を見せたまま左足で一気に距離を詰め、シグがどちらを守るのかを最後まで見てから、剣を最短距離で下から上へ走らせた。
シグも反応した。
左の湾曲剣を戻す。
間に合わない。
カイルの剣先が胸元で止まった。
「そこまで!」
審判が二人の間へ入る。
一瞬遅れて、観客席から大きな歓声が上がった。
「勝者――カイル!」
シグはしばらく胸元の剣先を見つめていたが、やがて肩から力を抜き、二本の湾曲剣を下ろした。
「最後まで分からなかったな」
カイルも剣を引く。
「何が?」
「お前が何してくるかだよ。同じ構えから全部違うじゃねえか」
「違うよ」
「何が違う?」
「全部違うんじゃない。決めるのを遅くしてるだけだ」
シグが眉を寄せた。
私も意味が分からなかった。
でもフランの表情だけが変わった。
カイルは剣を鞘へ戻しながら、何でもないことのように続ける。
「最初から右を斬るって決めたら、右肩を見られた時点で半分読まれる。だから踏み込むところまでは同じにして、相手がどこを守ったか見てから最後を決める。右を守ったら左。下がったら追う。反撃してきたら、それを使う。それだけだ」
「それだけって……」
シグは呆れたように笑った。
「普通、そんな直前で変えたら自分の剣が遅くなるだろ」
「だから練習した」
「簡単に言うな」
二人が握手を交わす。
私は隣のフランを見る。
まだ試合場を見ていた。
「次、あの人なんだよね」
「うん」
「どう?」
いつもなら、何か一つくらい答えが返ってくる。
足を見る。
肩を見る。
間合いを変える。
これまでなら試合を見終わった時点で、フランは相手の特徴を何かしら掴んでいた。
でも今回は違った。
しばらく考えたあと、フランは困ったように笑った。
「今までで一番、見ても分からないかもしれない」
その答えに驚いた。
フランは相手を観察するのが上手い。
バルドの二本の短剣、ミレアの身体強化、セドの間合い、レグルの《風穿》。どれも何度も見ながら癖や条件を探し、最後には突破してきた。
でもカイルは、その「見る」という行為そのものを利用している。
肩を見れば騙される。
足を見ても、そのあとで攻撃を変えられる。
剣が動いてから判断しようとすれば、今度は対応が遅れる。
「じゃあ、どうするの?」
私が聞く。
フランはすぐには答えず、固定された右腕へ視線を落とした。
「まず腕を治す」
「よし」
思わず即答すると、フランが笑った。
「そこ?」
「そこが一番大事」
「分かってる。そのあと考えるよ」
「今は?」
「見るだけ」
フランはもう一度カイルへ目を向けた。
試合に勝ったカイルは、観客席の歓声へ軽く手を上げながら退場口へ向かっている。
途中で、その足が少しだけ止まった。
カイルがこちらを見る。
正確には、フランを。
二人の視線がぶつかった。
カイルは少しだけ笑う。
フランも笑い返した。
次に戦う相手同士。
それだけだった。
でも私は、その短いやり取りを見て、明後日の試合が急に近づいたように感じた。
「フラン」
「なに?」
「絶対、今日練習しちゃ駄目だからね」
「まだ言うの?」
「カイル見たら試したくなったでしょ」
返事がない。
「なったんだ」
「少しだけ」
「駄目」
横でリリィが笑った。
オラクルは呆れたように煙を吐く。
「練習するにしても右腕使わなきゃ――」
「オラクル!」
「例えばの話だ」
絶対に余計なことを言った。
案の定、フランの顔が少し明るくなる。
「左手なら――」
「駄目!」
今度はメリーまで笑った。
試合場では次の対戦の準備が始まっていたけれど、フランの次の相手はもう決まった。ここから無理に残りの試合を全部見るより、治療師の言う通り身体を休ませたほうがいい。
「今日は帰ろう」
私が言うと、フランは少し迷ったものの、最後には頷いた。
「他の試合も見たいけど……今日はやめとく」
「それがいいよ」
私たちは観客席を離れ、出口へ向かった。
通路にはまだ試合の歓声が響いている。
石造りの階段を下りながら、フランは何度か右手の指を動かしていた。
「痛い?」
「さっきよりは。でも、まだ力が入りにくい」
「明後日までに治るかな」
「治療師さんは、無理しなければかなり戻るって言ってた」
かなり。
完全に、ではない。
そこが気になった。
次の相手は、これまでの誰とも違う。
フランが得意としてきた観察を、逆に利用してくる剣士。
その相手へ、右腕が万全ではない状態で挑まなければならないかもしれない。
闘技場を出ると、午後の日差しが眩しかった。
朝よりさらに人が増え、通りでは本戦の結果を知らせる声が飛び交っている。《フラン、本戦一回戦突破》《ナディア、勝利》《ガルディオ、十六強》といった名前に、今しがた決着した《カイル、勝利》も加わっていた。
明後日。
フラン対カイル。
「宿に戻ったら何する?」
私が聞く。
「休む」
「その次は?」
「カイルさんの試合を思い出す」
「身体動かさない?」
「動かさない」
「短剣抜かない?」
「抜かない」
「本当に?」
「……たぶん」
「フラン」
「分かったよ」
そんな話をしながら大通りを歩いていたとき、私たちの前を数人の王国兵が急いで横切った。
大会警備の兵士とは違う。
胸元には王宮直属を示す紋章がある。
そのうちの一人が、後ろを走る兵士へ声を飛ばした。
「急げ。内庫の確認が先だ。西側はあとでいい!」
私は何となく足を止め、兵士たちが走っていく方向を見た。
「何かあったのかな?」
「大会中だ。王宮だって警備が増えてんだろ」
オラクルはそれほど気にしていないようだった。
確かに、街中の人間が闘技場へ集まっている。
王宮側がいつも以上に警戒していても不思議ではない。
「行こう、フール」
リリィに呼ばれ、私は前を向いた。
「うん」
そのときは、それ以上考えなかった。
今はフランの右腕と、明後日のカイル戦のほうがずっと気になっていたからだ。
私たちは宿へ向かって歩き出した。
背後では闘技場の歓声が街の上まで響き、そのさらに向こう、王宮へ続く道を何人もの兵士が同じ方向へ走っていた。




