第125話 剣を知る老人
予選を突破したフランが治療区画から戻ってきた頃には、八つあった試合場の半分以上で最後の勝者が決まり始めていた。
三百人を超えていた参加者は、わずか三十二人まで減る。朝から絶え間なく続いていた歓声も、予選終了を告げる鐘が鳴ると少しずつ形を変え、今度は本戦へ進む参加者の名前を確認する声が観客席のあちこちから聞こえてきた。
私はフランの姿を見つけると、すぐに駆け寄った。
「おめでとう!」
「ありがとう」
フランは笑ったけれど、朝と同じ状態というわけにはいかなかった。左肩にはバルドにつけられた傷を覆う治療布があり、ミレアの拳を受けた右腕にも包帯が巻かれ、セド戦では左手の甲まで浅く切られている。
「痛い?」
「少し。でも治療師さんから、骨には異常ないって言われたよ。本戦も明日だから、今日はもう戦わなくていいみたい」
それを聞いて、ようやく安心した。
三試合続けて見ているだけでも疲れたのだから、実際に戦っていたフランはもっと疲れているはずだ。それでも本人の視線はすぐに私たちの後ろへ向き、さっきの老人を探していた。
私は気づかないふりをしなかった。
「行こう。銀鹿亭」
フランが私を見る。ほんの少し間を置いてから、静かに頷いた。
「うん」
闘技場を出ると、外はまだ昼過ぎだった。
大会初日ということもあって街の熱気は朝より増し、予選を突破した参加者の名前はすでに広まり始めている。通りでは本戦の勝敗を予想する人たちが声を上げ、露店では、いつの間に作ったのか参加者の名前入りの札や布旗まで売られていた。
その中に《フラン》と書かれた小さな旗を見つけ、私は思わず足を止めた。
「フランって書いてある!」
本人も驚いたらしく、露店へ顔を向ける。
「早すぎない?」
「大会商人なめんな。売れると分かったら、その日のうちに作る」
オラクルが値札を見ながら答えた。
「一個買おうかな」
「いらないよ」
「なんで? 明日振って応援できるよ」
「隣で名前呼んでくれれば十分だから」
それなら明日はもっと大きな声で呼ぼう。
そう決めて歩き出したものの、銀鹿亭へ近づくにつれてフランの口数は少しずつ減っていった。
老人が知っているのは、あの短剣の元になった剣かもしれないもの。それ以上はまだ何も分からないし、本当に同じ武器なのかさえ確定していない。
私は何度か話しかけようとして、やめた。
今のフランが何を考えているのかは、本人にしか分からない。心配だからという理由で勝手に気持ちまで決めてしまえば、昨日リリィから教わったことをまた忘れることになる。
銀鹿亭は、東区の大通りから一本細い道へ入った場所にあった。
大会客で溢れている中心街とは違い、この辺りには古い宿や酒場が並んでいる。看板に描かれた銀色の鹿はかなり色褪せており、扉を開けると酒と木材、それに煮込み料理の匂いが混ざった空気が流れてきた。
老人は一番奥の席にいた。
窓を背にして座り、テーブルの上には酒ではなく湯気の立つ茶が置かれている。私たちが店へ入るとすぐに顔を上げ、その視線は真っ先にフランの腰へ向かった。
「来たか。座れ」
フランが老人の向かいへ座り、私とリリィも同じテーブルにつく。オラクルは隣の椅子へ飛び乗り、メリーは私の肩へ座った。
老人は全員を一度見回してから、少しだけ口元を緩める。
「ずいぶん変わった連れだな」
「よく言われます」
「誰が変わってんだ」
オラクルだけが反応した。
老人は小さく笑ったものの、すぐに表情を戻す。
「まず、その短剣を見せてもらえるか?」
フランは腰へ手を置いた。
ほんの一瞬だけ迷ってから、鞘ごと外してテーブルへ置く。
老人は勝手に触ろうとはせず、短く言った。
「抜いてくれ」
フランが短剣を抜くと、薄暗い店内で刃が淡い光を帯びた。
老人の目が細くなる。
「やはり……」
「知ってるんですか?」
フランが尋ねる。
老人はすぐには答えず、刃ではなく柄の根元へ顔を近づけた。そこには、打ち直されたときに残ったらしい細い線がある。私は今まで単なる傷だと思っていたけれど、老人はその部分を指で示した。
「ここだ。元はもっと長い柄だったはずだ。打ち直すときに削っているが、この部分だけ古い金具が残ってる」
フランも覗き込む。
「それで分かったんですか?」
「それだけなら似た武器はいくらでもある。だが、この金具と刃に宿る光が揃うとなると話は変わる」
老人は椅子へ背中を預け、しばらく記憶を探るように目を細めた。
「昔、よく似た光を放つ剣を見たことがある」
フランの手に力が入った。
私も反射的に何か聞きそうになったけれど、口を閉じる。これはフランが聞くことだと思った。
「どこで見たんですか?」
「十年以上前だ。北西の交易路で護衛をしていた頃、魔物に襲われた隊商を助けた剣士がいた」
「名前は?」
「知らん」
老人は迷わず答えた。
フランの表情がわずかに曇ったものの、老人はそこで話を終わらせなかった。
「名乗らなかったんだ。こっちも命を助けられた直後で、聞く余裕がなかった。若い男だったことは覚えているが、顔もはっきりとは残っていない。夜だったし、戦いが終わればすぐに去ったからな」
「じゃあ、どうして剣だけ覚えてるんですか?」
今度は私が聞いた。
老人はテーブルの短剣を見る。
「忘れようがなかった。暗闇で剣そのものが光ったからだ」
店の外から、大会客の笑い声が聞こえてきた。
それとは反対に、私たちのテーブルだけが妙に静かになる。
「その剣と、これが同じだと?」
フランが尋ねると、老人はすぐに首を横へ振った。
「同じとは言ってない。似ている。それだけだ」
その答えを聞いて、私は少しだけ安心した。
ここで無理に答えを作らない。
老人もリリィと同じように、自分が知っているところと分からないところを分けている。
「じゃあ、予選のあとに言ってた足運びは?」
老人は右手を剣に見立てるように動かした。
「長い武器へ真正面からぶつからず、根元へ短い刃を滑り込ませて軌道を上へ逃がし、そのまま内側へ入る。お前が最後の試合で使った動きだ」
「《ドゥー・アライズ》?」
「名前までは知らん。だが、昔見た剣士も似た入り方をしていた」
フランの表情が変わった。
「でも、《ドゥー・アライズ》は僕が……」
途中で言葉が止まる。
老人が眉を上げた。
「お前が?」
「旅をしながら作った技です」
私も初めて知った。
「誰かに習ったんじゃないの?」
「基本的な短剣の扱いは教わったよ。でも今使ってる技のほとんどは、旅に出てから自分で作ったり変えたりしたものなんだ。《ドゥー・アライズ》も、長い武器の相手と戦うために考えた」
老人は黙り込んだ。
さっきまでより長い沈黙だった。
「だったら、なおさら妙だな。剣だけなら受け継がれたと言えるし、教わった技なら動きが似ても不思議じゃない。だが、自分で作った技まで似た形になったとなると……」
老人はそこで言葉を切った。
私は続きを待ったけれど、老人は首を横へ振った。
「いや。ここから先は分からん。想像で話を埋めれば、お前たちがその想像を事実だと思い始める」
リリィが老人を見る。
その横顔が少しだけ柔らかくなった気がした。
たぶん、考え方が似ていると思ったのだ。
フランは短剣を見下ろしたまま尋ねる。
「その剣士が、どこへ行ったかは?」
「知らん。ただ、隊商を助けたあと西へ向かった」
「西……」
「それも十年以上前の話だ。今どこにいるのか、生きているのか、同じ剣を持っているのか、何一つ分からん。それに、お前の短剣と俺が見た剣が同じものだという確証もない」
老人は念を押すように続けた。
「お前の剣は打ち直されてる。俺が見たものはもっと長かったし、光も強かったように思う。だが十年以上前の記憶だ。俺の記憶違いという可能性もある。それを忘れるな」
フランはしばらく何も言わなかった。
期待していた答えとは違ったのかもしれない。
でも、私はこれでいいと思った。
分からないものを無理に答えへしなくても、昨日までなかった手掛かりは増えている。
老人が立ち上がった。
「俺から話せるのはそれくらいだ」
「待ってください」
フランが呼び止める。
「もし、何か思い出したら?」
老人は少し考え、店主へ視線を向けた。
「大会の間はここに泊まってる。何か思い出したら伝える」
「ありがとうございます」
フランが頭を下げる。
老人は返事の代わりに軽く手を上げ、そのまま二階へ続く階段を上っていった。
テーブルには短剣だけが残った。
フランはすぐには鞘へ戻さず、淡く光る刃を眺めている。
「フラン」
私が呼ぶと、顔を上げた。
「どうだった?」
自分でも変な質問だと思った。
嬉しいのか、残念なのか、怖いのか。私には分からないし、勝手に決めたくもなかった。
フランは少し考えてから答える。
「僕も、まだ分からない」
それから、ほんの少しだけ笑った。
「でも、前よりは進んだと思う」
「うん。私もそう思う」
フランが短剣を鞘へ戻した。
老人が見た剣。
似た光。
似た足運び。
十年以上前、西へ向かった名前も分からない剣士。
どれも答えではない。それでも、今まで存在すら知らなかった手掛かりだった。
銀鹿亭を出る頃には、日が少し傾き始めていた。
大通りへ戻ると、予選を終えた参加者や観客で朝以上に賑わっている。中央広場には巨大な掲示板が設置され、その前に大勢の人が集まっていた。
「何だろう?」
「本戦表だろ」
オラクルの言葉に、私たちは人混みへ向かった。
隙間を抜けて前へ出る。
掲示板には、三十二人の名前と一本ずつ伸びた線が並んでいた。
フラン。
ガルディオ。
そして、灰色の外套をまとった謎の参加者。
「ナディアもいる」
名前を見つけた私は、そこから線を辿った。
フランは左側の組。
ナディアは右側。
少なくとも、すぐに戦うことはない。
ガルディオも別の位置にいる。
「明日の相手は?」
フランが自分の名前から線を追っていく。
その先に書かれた名前を見た瞬間、近くにいた観客が声を上げた。
「うわ、フランって奴、初戦からレグルかよ」
「知ってる人?」
私が振り向くと、男は掲示板を指差した。
「東方から来た槍使いだ。予選じゃ三試合とも相手を懐へ入れなかった。長槍の間合いに入ったら最後、《風穿》って技で一気に持っていく」
掲示板には、はっきりと書かれていた。
《フラン 対 レグル》
また長い武器。
でも、セドと同じ戦い方とは限らない。
「槍か……」
フランが呟く。
その声には嫌そうな響きより、少しだけ楽しそうなものが混じっていた。
私は呆れて横顔を見る。
「もう考えてるでしょ」
「何を?」
「どうやって近づこうかなって」
フランが笑った。
「ばれた?」
「顔に書いてあるよ」
明日から本戦。
予選より強い相手しか残っていない。
老人から聞いたことも、まだフランの中には残っているはずだ。それでも今は、もう次の相手へ意識を向け始めている。
私も掲示板へ目を戻した。
三十二人。
ここから先は、一度負ければ終わる。
その反対側の組には、能力の一部しか分かっていないナディアの名前が、何事もないように静かに残っていた。




