第117話 狩る群れ、守る村
北門の外で、黒い獣たちがゆっくりと左右へ広がっていった。
最初の一頭が外壁へ飛びついたときとは違い、今度はすぐに襲ってこない。森の縁から一定の距離を保ったまま、二頭が西へ、三頭が東へと散り、そのたびに外壁の上でも賞金稼ぎたちが持ち場を移していく。
「西側に三頭! 盾持ちを回せ!」
「東も増えたぞ!」
怒鳴り声と足音が外壁の上を行き交う一方で、黒い獣たちはこちらの動きを確かめるように立ち止まっていた。
私は負傷者が集められた広場で、メリーの治療を手伝いながら何度も北門を見上げた。外壁の上にいるフランとリリィの姿は見えるけれど、黒い獣たちは壁の向こうなので、ここからでは動きが分からない。
それでも、人の流れだけは見えた。
西へ走る賞金稼ぎ。
今度は東。
また西。
黒い獣はまだ一頭も入ってきていないのに、村を守る人たちだけが忙しく動かされている。
そこで、さっき魔物の大群を東へ逃がしたときの光景が頭に浮かんだ。
私たちは魔物を無理やり押したわけではない。西側から音を出し、東側を静かに空けることで、魔物自身に進む方向を選ばせた。
「……同じだ」
『フール?』
メリーが振り返る。
「黒い獣たち、攻める場所を探してるんじゃないかも。私たちを動かしてる」
私は負傷者を運んでいた人に後を頼み、北門へ走った。
石段を上がる途中でも、二人の賞金稼ぎとすれ違った。
「東へ回れ! 五頭に増えた!」
やっぱりだ。
外壁へ上がると、リリィは黒い獣ではなく、壁上を走る賞金稼ぎたちを見ていた。
「リリィ!」
「フール? 下にいたんじゃ――」
「こいつら、私たちを動かしてるんじゃない?」
リリィの目つきが変わった。
私は息を整えながら、さっき気づいたことを説明した。
「黒い獣が西へ行ったら、みんな西へ行く。東へ動いたら、今度は東へ行く。でも、ほとんど攻撃してないよね。さっき私たちが魔物を東へ逃がしたときと同じで、自分たちが動いて、こっちを動かしてるんじゃない?」
リリィは答えず、外壁全体を見渡した。
東側には五頭、西側には四頭。正面には最初に傷を負った一頭を含めて数頭が残っている。
その一方で、北門の真上を守っていた賞金稼ぎは、最初の半分近くまで減っていた。
「中央を空けさせてる……」
リリィの声が低くなった。
近くにいた賞金稼ぎへ伝えると、最初は「獣がそこまで考えるのか」と疑われた。しかしリリィが、黒い獣が移動するたびに守備側がどう動いたのかを順番に示すと、男の表情が変わった。
「確かに……俺たちが動いたあとに、次の奴が場所を変えてやがる」
すぐに見張り台へ報告が上がった。
「持ち場を離れるな! 獣が移動しても追うな!」
命令が外壁全体へ伝わり、人の流れが止まった。
すると、黒い獣たちも止まった。
それまで西へ歩いていた一頭が足を止め、東側の獣もその場でこちらを見上げている。
私は背筋が冷たくなるのを感じた。
偶然じゃない。
こちらが動かなくなったことを見ている。
最初に傷を負った黒い獣が、短く鳴いた。
その瞬間、森の縁に散っていた獣たちが一斉に走り出した。
「来るぞ!」
今度は牽制ではなかった。
西側では三頭が別々の位置から石壁へ飛びつき、東側でも四頭が同時に爪を立てる。正面からも黒い影が跳び上がり、外壁全体で盾と爪がぶつかる音が響いた。
それでも賞金稼ぎたちは持ち場を離れない。盾を前へ出し、黒い獣が壁の縁へ身体を上げた瞬間だけ槍を突き出す。弓兵も無闇に矢を放たず、跳躍して空中で進路を変えられない一瞬を狙っていた。
一頭目が槍を避けて落ちる。
すぐに二頭目が同じ場所へ来た。
けれど今度は、さっき槍が突き出された位置を避けて少し横から登ってくる。
「こいつら、見て覚えてる!」
リリィが叫んだ。
次の一頭は盾を正面から受けず、壁の途中で横へ跳んだ。さらに別の一頭は、弓兵が矢を構えた瞬間に壁から身体を離している。
一頭ずつが強いだけじゃない。
前の仲間が失敗した場所を、次の獣が避けている。
「同じ場所で待つな! 槍の位置を変えろ!」
「東、二頭上がるぞ!」
怒鳴り声が重なる中、西側で一頭が盾の隙間を抜けた。
黒い身体が外壁を越え、村の内側へ落ちる。
「入った!」
私は壁の下を覗いた。
北門から村の中央へは一本の広い通りが伸び、その途中から東西へ細い道が分かれている。治療場所は中央通りから西へ外れた石造りの建物の前にあり、メリーや負傷者たちもそこにいる。
黒い獣が着地したのは、北門と最初の分かれ道の間だった。
私は階段へ向かいかけた。
でも、獣の動きを見て足を止める。
人を襲っていない。
負傷者のいる西側にも行かず、中央通りに立ったまま、北門、東西の道、奥の建物を順番に見ている。
「リリィ! あいつ、人じゃなくて道を見てる!」
リリィが下を覗く。
黒い獣は数歩進むと、また立ち止まった。鼻を動かし、次に北門の内側へ顔を向ける。
門の両脇には開閉用の縄と足場がある。
「偵察してる……?」
私の言葉に、リリィの顔色が変わった。
黒い獣が北門へ走る。
「門へ行かせるな!」
二人の賞金稼ぎが階段を駆け下りた。
獣は戦わなかった。追手との距離を保ちながら東の細道へ入り、途中でまた周囲を見る。
倒すために入ったんじゃない。
村の中を調べている。
私は石段を駆け下りながら叫んだ。
「追い回さないで! 行ける道を一つだけ残して、そこから外へ出そう!」
近くにいた賞金稼ぎが振り返る。
「どこへ出す!」
村の東側には荷物を運び込むための小さな門がある。その外は、さっき魔物の大群を逃がした草地へ続いていた。
「あっち!」
私が東を指差すと、外壁の上からリリィの声が飛んできた。
「東門の外にも三頭いる!」
そのまま開ければ、外の獣まで入ってくる。
一瞬迷ったところで、オラクルが車椅子を走らせてきた。
「外の連中だけ門から剥がせばいい。煙玉はあるか!」
賞金稼ぎがすぐに反応した。
外壁から東門の外へ煙玉が投げられ、白い煙が地面を覆う。匂いと視界を嫌った黒い獣が数歩離れたところで、内側では盾を持った人たちが中央と西への道を塞いだ。
空いているのは東だけ。
黒い獣が一度西へ動くと盾を叩く音が響き、中央へ戻れば別の盾が前へ出る。何度か進路を変えた末、獣は唯一塞がれていない東へ走った。
「門を開けろ!」
東門が人一人分だけ開く。
黒い獣が白煙の向こうへ飛び出した瞬間、すぐに閉じられた。
「出た!」
安堵する暇はなかった。
外壁から悲鳴が響く。
「西側、一頭抜けた!」
ほとんど同時に別の声も飛んだ。
「南西にも一頭!」
私は顔を上げた。
最初の一頭を追い出す間に、別の黒い獣が二頭、違う場所から侵入していた。
同じ場所は使っていない。
最初の一頭がどこで止められ、どの門から追い出されたのかを外から見ていた獣たちが、守備の薄くなった場所を選び直している。
一段ずつだった。
最初は、こちらを動かした。
次に、仲間の失敗から登り方を変えた。
そして今は、一頭を囮にして別の場所から入ってきた。
「こいつら……考えてる」
私の声が震えた。
村へ入った二頭は、人を追わず別々の道へ向かった。
一頭は西側の倉庫街。
もう一頭は南へ伸びる大通り。
どちらも途中で何度も立ち止まり、道や建物を確認している。
外にいる仲間へ、村の中を調べて持ち帰るつもりなのかもしれない。
そのとき、北門の外から短い鳴き声が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、二度。
村へ入った二頭が同時に足を止めた。
私は北門を振り返る。
森の縁にいる群れのさらに後ろ、少し高くなった岩の上に一頭だけ動いていない黒い獣がいた。
他より一回り大きい。
片耳が裂け、首から肩にかけて古い傷が何本も走っている。
そいつだけは、一度も壁へ近づいていなかった。
岩の上から、ずっと見ている。
「リリィ!」
外壁の上にいるリリィも同じ個体を見つけていた。
「さっき鳴いたの、あいつ!」
傷のある黒い獣が、もう一度短く鳴いた。
村の中の二頭が同時に向きを変える。
北門。
外に散っていた獣たちまで、次々と正面へ集まり始めた。
私はそこでようやく分かった。
一頭一頭が勝手に村を調べていたんじゃない。
見つけたものを使って、群れ全体で次の手を選んでいる。
そして北門には、黒い獣を外壁から追い返すため、最も多くの賞金稼ぎが集められていた。
守りが厚い。
普通なら、狙わない。
なのに黒い獣たちは北門へ集まってくる。
「なんで一番人が多いところに……」
呟いた瞬間、オラクルが低い声を出した。
「人が多いからじゃねえ。門を開けりゃ、壁を登る必要がなくなる」
背筋が冷えた。
村の中へ入った二頭も、最初の一頭も、北門の仕組みを見ている。
外側から壁を越えるより、内側の誰かを北門へ向かわせたほうがいい。
「中の二頭を止めて!」
私が叫ぶ。
遅かった。
西と南へ散っていた二頭が、別々の道から北門へ走り始める。
同時に、外では傷のある個体が長く鳴いた。
黒い獣たちが一斉に地面を蹴る。
十数頭が正面から北門へ走り、さらに左右へ数頭ずつ分かれた。壁上の賞金稼ぎが迎撃のために前へ出た瞬間、外側の獣たちは急に速度を落とす。
囮だ。
本命は中にいる二頭。
「門の内側を守れ!」
賞金稼ぎたちが階段へ殺到する。
そのせいで外壁の正面が薄くなる。
今度は外の獣たちが加速した。
「違う、両方だ!」
どちらかを囮にしているんじゃない。
内側を守れば外から来る。
外を守れば内側から門を開ける。
守る側がどちらを選ぶかまで見て、同時に攻めている。
北門の外で最初の黒い獣が跳んだ。
続いて二頭、三頭。
石壁へ爪が突き立ち、削れた石が雨のように落ちてくる。
村の中からも一頭が中央通りへ飛び出した。
その前に盾を持った賞金稼ぎが並ぶ。
もう一頭は姿が見えない。
「西から来る!」
リリィが外壁の上から叫んだ。
倉庫の屋根へ黒い影が跳び上がる。
地上の道を塞がれることまで読んで、屋根を使った。
黒い獣が屋根から屋根へ飛び移り、北門の開閉用足場へ向かってくる。
私は門を見る。
外からは十数頭。
内側から二頭。
守る人たちは、また動かされ始めている。
そのとき、岩の上にいた傷だらけの黒い獣と目が合った気がした。
そいつは戦っていない。
ただ村を見ている。
こちらがどう守るのかを。
次に何をすれば崩せるのかを。
北門へ最初の衝撃が走った。
巨大な扉全体が内側へ震え、閂から鈍い音が響く。
二度目はさらに強かった。
外壁の上では黒い獣が盾へ飛びかかり、内側では屋根を渡ってきた一頭が足場まであとわずかに迫っている。
三度目。
太い閂の表面に、細い亀裂が走った。
「閂がもたねえぞ!」
誰かの叫び声が村中へ響いた。
傷だらけの黒い獣が岩の上で立ち上がる。
そして初めて、自分も北門へ向かって歩き始めた。




